2010年09月27日

ゲーテとシュタイナー(&情熱大陸)

最近、シュタイナーはゲーテの正統な伝承者なんだなということを、ひしひしと感じている。

18日のジュンク堂のイベントでもちょこっとそんな話をしたのだけれど、どうもシュタイナーの思想にはそのインスピレーションの根幹にゲーテの世界観がドンと横たわっているのである。

知識としてはもちろんそういう背景があるということは知っていたが、それが実感としてしっかり感じられるようになってきたのは、ここ最近になってからである。


シュタイナーは、今みたいな「神秘学者シュタイナー」として名を馳せる前に、「ゲーテ研究家シュタイナー」として広く認知されている時期があった。

それはシュタイナーに言わせれば、「師の教えに従って40歳までは霊的なことに関して一切の沈黙を守った」そんな時期のことであり、そのおかげでと言うか何と言うか、当時の学者たちの間でも一目置かれるそんな研究者の一人であった。

そういうことに関して、「若いうちは口をつぐめ」と言う師の教えも素晴らしいものであるが、それを忠実に守った青年シュタイナーもエライと言えばエライ。

霊的な事柄を霊的な語り口で語るなんていうことは、ある意味とても楽なことであって、いきなりそこから入ってしまうと表現がちっとも深まらないままにある種の表現方法を確立してしまうが、それをあえて封じ、霊的な事柄を「常識的な概念」と「常識的な言葉」で語ろうと必死になって言語化する過程に、とても大切な営みがある。

シュタイナーが「師」と呼ぶその人が、どういうつもりで「40歳までは語るな」と言ったのかは分からないけれども、おそらく「社会的な評価」ということとともに「内的な修練」としての意味も込めていたのだろう。

シュタイナーの語り口には、その苦悩の痕が深々と彫り込まれているので、それが私などにはとても好ましく感じられるのだ。

何と言うか、霊的な語り口にありがちな「酔う」ということがない。

自分の表現に酔っていない。自分の語る内容にさえきわめてクールである。


とか言いながら私は最近、シュタイナーを読んでいると、ときどきおかしくってクスクスと笑っている。

シュタイナーはたいていとってもクールに振る舞っているんだけど、ときどきお茶目でロマンチックなユーモアを真顔でポロリと挟むもんだから、それが何とも言えない妙味を醸し出していて、それでクスクス笑ってしまうのだ。

ちょっと前(コメント参照)までは、シュタイナーにユーモアとかセクシーさなんてちっとも感じられなかったのに、いやはや我ながら成長したものである。

かつてはあまりに難解すぎて三行読む間に居眠りしてしまっていた自分が、まさかそのお茶目っぷりにクスクス笑いながらシュタイナーを読む日が来ようとは、御釈迦様でも分からなかったであろう。

何事も続けるものである。

14年目に気づくユーモアとかセクシーさというものもある。


まあそんなことはともかく、その時期はシュタイナーも「社会的に常識的な言葉」を使って、論文を書いたり、書評を書いたりしていたので、学術界の中でも新進気鋭の哲学者として名を馳せていた。

それが40歳を過ぎてからいきなり訳の分からないことを語り始めたので(笑)、離れる人は離れ、そして支える人は支えていくわけだけれど、その当時も今も「ゲーテ研究家」としては、第一人者と呼んで差し支えないほどの造詣を持っていたことは確かである。


ゲーテと言えば、日本では文豪ゲーテとして有名だが、きわめて優れた自然科学者としての顔も持っていたことはあまり知られていない。

最近、ちくま学芸文庫から「ゲーテ形態学論集」の植物篇動物篇が刊行されているが、それを見てみるとゲーテが非常に丁寧に自然と向き合っていたことがよく分かる。

「形態学(モルフォロジー)」というのはゲーテが確立した学問であるが、その独特の思考スタイル、観察スタイルは、現代の要素還元的な科学観にはない、有機的でダイナミックなものがあり、シュタイナーはそんなゲーテの「有機的世界観」に惹かれ、傾倒していった。

たぶんシュタイナーは、ゲーテに出会ってものすごく嬉しかったんじゃないかと思う。

まだ20代前半のシュタイナーが、自分の直観をこれからどのようにして理論化し、また具体化して活動していけばいいのかという課題に悩んでいるときに、「そうか、こういう方法があったのか!」と目を見開かれる思いであったのではないかと思うのだ。

それくらいシュタイナーの思想には、ゲーテの形態学(モルフォロジー)が浸透している。

いや、ゲーテやシュタイナー自身の表現を借りるならば、シュタイナーの思想は「ゲーテの形態学のメタモルフォーゼ」であるのかもしれない。

なんとまあ美しい運動であることか。

思想を、その思想そのものの原理によって、止揚する。

かつて、ゲーテが植物の運動の中に見たイメージが、ゲーテからシュタイナーへと引き継がれる中で、子どもたちの中の運動へと展開し、そしてさらにはそれ自体を導こうとする教育実践にまで高められていったのだ。

エライなぁ、本当に。こういうのをエライと言わずに何と言おう。 まこと美しき師弟愛。

人間ってのはこういうことをやっていかなきゃな。うん。ガンバロウ。


ところで話はまったく変わるのだけれど、先日の情熱大陸(TBS)の放送で、私の本のデザインを担当して下さった名久井直子さんが出演されました。

番組の冒頭で、私の本のデザイン校正作業をしているシーンが流れていたのですが、ご覧になった方もおられるでしょうかね?



出演されるということは存じていたのだけれど、私の本が出るかどうかは編集次第でまったく分からなかったので、冒頭で画面にバンと映し出された時には「オッ」とビックリ。

好きな番組にチラッとでも自分の本が映るのは、やっぱり嬉しいものであります。

まだ持ってない人。 いい本ですよぉ〜(笑)。 買ってね。

posted by RYO at 22:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月04日

モラルと算数

今度の18日のジュンク堂のトークイベントのために、シュタイナーの本を引っ張り出してきてパラパラと読んだりしているのだけれど、読めば読むほどやっぱり改めてこの人は凄いなと思う。

ずいぶん前にも取り上げたけど、たとえば算数の教授法についてシュタイナーはこんなことを言っている。


『単に論理的ではなく、いきいきと考察する者には、「正しい方法で算数を学んだ子どもは後年になって、正しい方法で算数を学ばなかった子どもとは、まったく異なった道徳的責任感を有する」ということが明らかになる。これは多分、非常に逆説的に思われるだろう。しかし、私は現実について語っているのであり、空想を語っているのではない。
…中略…子どもに全体を把握させて、常に少数から多数へと進んでいかなくてもよくさせる。そうすると、子どもを生活に近づけることができる。これは、子どもの心魂のいとなみに非常に強い影響を与える。数を足していくことに子どもが慣れると、特に貪欲に向かう傾向が発生する。全体から部分へと移行し、適切に掛け算も行なうと、子どもはあまり欲望を発展させず、プラトンが言う「慎み深さ」を発展させる傾向を得る。計算をどのような方法で学んだかに、道徳において何を好み、何を嫌うかが内密に関連しているのである。』
(『
シュタイナー教育ハンドブック』ルドルフ・シュタイナー、風濤社、2007、p57−58)


「子どもに算数をどのようにして教えるかということは、道徳教育の問題なのである」とシュタイナーは言う。

はたしてそんなことを考えて算数の教授法を組み立てる人が、他にいただろうか。

シュタイナー教育をご存知でない方もいると思うので少しだけ触れておくと、シュタイナー教育では、子どもに加減乗除を教えるときに、足し算よりまえに引き算、掛け算よりまえに割り算から始める。

それはつねに「全体から始める」という発想が根底にあるからである。

が、先のシュタイナーの発言を考えると、そこにはもっと深い意味があるようである。


足し算よりまえに引き算を、掛け算よりまえに割り算を子どもに教えていくということは、言ってみれば「全てを足すと1になる」という世界観と出会わせているということなのだ。

「2という数は、1を半分に分けた数である」ということ。
「10という数は、1を10個に分けた数である」ということ。

それは「全てを足すと1つ(全体)になるんだよ」ということを暗に示しているのであり、地球という限られた空間に生活している私たち人間の世界を、それと言うこと無しにまるっとそのまま示しているということなのだ。

「足し算(掛け算)的思考」から世界と出会った人間が、ある意味「無限の欲望」を肯定されるのに対して(足せば足すほどいくらでも増える)、「引き算(割り算)的思考」から世界と出会った人間は、「欲望の限界」を教えられる。

どれほど大量のモノを集めて貯め込んでも、それはあくまで地球全体のカケラであり、どんなに足しても地球一つ分にしかならない以上、人はみんなで分かち合うしかない、ということ。

部分はつねに「全体の」部分であるということ。

非常にシンプルだが強烈な世界観が、計算とのファーストコンタクトの中に潜んでいて、それが後年になって、その子の道徳観に「慎み深さ」としてメタモルフォーゼ(変容)していくと、そうシュタイナーは言うのだ。

すごい話である。でもナルホドのことである。


シュタイナーは「それを子どもに提示すると、子どもの心象にどんな運動イメージが生まれるか」ということを、つねに考えていた。

だから、子どもたちを数字の世界に出会わせるときに、「足し算/掛け算」から入っていくのか、「引き算/割り算」から入っていくのか、そこにどのような運動イメージの違いが子どもの心象に生まれるかを、真剣に考えていた。

「数を足していくことに子どもが慣れると貪欲になる」とシュタイナーが言うように、足し算に熱中していく中で起きてくる感情を言葉にしてみるならば、おそらく「もっと、もっと」というのが近いだろう。

そのエモーショナルな運動が、現代資本主義の土台になっている。


とにかく子どもは、身の回りで起きている運動を丸ごと「食べて」育つ。

子どもが足し算を習っているときは、単なる数字の計算法を学習しているだけでなく、そこで起きている運動を「食べている」のだ。

子どもたちは「学び」を食べ、「遊び」を食べ、「生活」を食べ、「物語」を食べ、そしてそこで起きている「運動」を食べている。

その中で子どもの内的な志向性が育まれていくのだ。

つまり、その子が一生を通じてどんな「運動」をしていくのか、ということが。

だから大人は、「子どもの前でいかなる運動体として目の前に在るか」ということが、つねに問われるのである。


シュタイナー教育と野口整体を並べて語ってみるためには、整体で「気」と呼ばれ、シュタイナーで「エーテル」と呼ばれる、この「運動」のようなものをどのように語っていくかということが、とりあえずのテーマになっていくような気がするのだけれど、さてさて、それをどう語っていこうか。それが問題である。

posted by RYO at 12:15| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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