2010年07月15日

「集中講義・精神分析」

集中講義・精神分析 下』(藤山直樹、岩崎学術出版社、2010)を読了。

いやぁ、面白かった。

ずいぶん前に「上巻」を読んでから、「下巻」がいつ出るのかいつ出るのかと待ちに待っていたのだけれど、諸事情により下巻の発刊が大幅に遅れてしまったらしい。

だから書店で並んでいるのを見たときには、すごい嬉しかった。

出版を心待ちにする本なんていうのは、そうそうあるわけではないから、そういう本に巡り会えるということはとっても幸せなことである。


とにかくこの藤山直樹さんという人の文章は、「読ませる」。

うねりが効いているというか、こぶしが回っているというか、何かそんな感じがあってグイグイ読ませる。だから面白い。そしてラディカルである。

この本は藤山さんの上智大学での講義が元になっていて(受けに行きたいなぁ)、タイトルの通り「精神分析」について語っているのだけれど、そこで語られていることはとてもラディカルなものなので、「整体」という違うジャンルに身を置く私であっても、非常に響いてくることばかりである。

だから、精神分析の人に限らず、セラピーやカウンセリング、あるいは整体やマッサージ、そしてスピリチュアルなものも含めて、人と一対一で向かい合うことを仕事としている人には、ぜひお勧めしたいと思う。

もちろんそれぞれメソッドによって出入り口は異なるわけで、例えば私だったらどんどん相手のからだに触っていくわけで、それは精神分析においてはタブーだから、そういう技法上の違いはあるけれども、でもそこで考えるべき事柄は基本的にそう違わない。

「人と人が向かい合う」という状況において、そこで行なわれているある種の「営み」、泣いたり、笑ったり、居眠りしたり、質問したり、お金を払ったり、そういう中で動いている「何か」を感じるセンス、そういうメタレベルのセンスは、その現場にどんなメソッドが入ってこようが変わることはない。


私がつくづく「この本は名著だなぁ」と思い、また「この人はエライなぁ」と思うのは、大抵の人が考えるとメンドくさくなってしまうから考えずにスルーしているようなことを、藤山さんは一生懸命考えていることである。

自分の立ち位置を危うくするようなこと、自分のやっていることを根源から否定しかねないようなこと、それを認めたら謝るざるをえないようなこと、そんなことを考えるのは誰だって嫌だろう。だからふつうは意識にのぼらない。

けれども藤山さんはそういう誰もが嫌がるようなことときちんと向き合っているのだ。

「それは精神分析家なら当たり前なのだ」と言われてしまうかもしれないけれど、でもやっぱりそういう「タフなこと」ってなかなかできることではない。

少なくともそういうある種「ドロ臭いこと」を赤裸々に表立って語る本はあまりない。


上巻にこんな個所がある。


『普通の人間関係で、苦しい人がいたら「大丈夫よ」とか言ったりするでしょう? 「じゃあ、こうしたら」とか、「私が一緒にそばにいてあげる」とか言うでしょう? こういうアクションは精神分析では全部禁じられているわけです。「大丈夫よ」と保証しない。「よくわかるわ」と安心させない。ただ、「よくわかるわ」と言いたくなるのは事実です。そういうとき分析家はどうするかというと、「あなたは、私に、よくわかるよ、というふうに言ってほしい気持ちを強く持っているけれども、それが私に伝わっていないのではと心配なんでしょうね」と、たとえば、言うんです。自分がそういう気持ちになったということは、患者が必ずそういう無意識的な圧力を加えてきているんだということを想定して、そこから患者の気持ちを理解して、患者の内部を理解するというワークをこころのなかでやって、そこである言葉が生成されたら口に出すということ、そういうプロセスをやり続けるんです。それ以上のことをやらないんです。つまり、保証や激励や助言や命令や禁止といったアクションを差し控えてもちこたえます。直接的に何かを与えないんです。そういうことが何で意味があるのかということは難しいけれど。鮨屋でどうして肉は握らないのかみたいなもので、そう決まっているんです。でもそれには何かすごく意味がある。実際それで患者は変化していく。つまり分析家の第一の仕事は、もちこたえること、です。』
(『
集中講義・精神分析 上』藤山直樹、岩崎学術出版社、2008、p89)


いやぁ、なかなかタフなことをやっている。これはなかなかキツイ。どっちにとっても。

精神分析がここまで「考える」ということを重視しているというのは初めて知ったけれども、こんなにタフにガシッとしたことをやっているんだなあ。

整体は「考えること」よりも「動くこと」を重視しているので、自分の中で起きていることを言葉にしていくというようなことは、メソッドとしてはあまりない。

自分の中で起きていることは、そのまま動きにして表現してしまえば良いとしているからであり、それこそが整体の「活元運動」という思想である。

たしかにそれを意識的にどんどんやっていけば不必要に病むことは少ない。

多くの病は、それを「考えること」もできなければ「動くこと」もできずに、結局「動かされてしまうこと」によって生じているのだと考えれば、それを先んじて動いていくことによって回路を開いて流していくというのは、一つの出入り口である。


けれども精神分析が「考えること」を重視しているように、「あえて出さずにとどめる」という方法、さらには「とどめて昇華する」という方法、そういう方法もまた大事であると私は思う。

「とどめる」ということの端的なものは「考える」ということであるが、それはともすれば痛みを引き起こすようなモノを、表に出してしまうことなく、何かに投影してしまうこともなく、身の内に引き付けて、自分の生命力を注ぎ込んで活かしていく、ということである。

それはやはりかなりタフでないとできないことである。

人間は考えたくないことは決して考えない。

それはキツいからである。大変だからである。苦しいからである。自己破壊だからである。

基本的に人はみなそういうものを「外部化(転移)」して、ブツブツ言うことで解消しているわけだが、それをもう一度身の内に引き込んで、向かい合って、そして自分の中で動かしていくということ。

それにはかなりタフなアタマと深い呼吸を身に付けなければならないが、でもそれもまたやっぱりけっこう大事なことである。


…と書いていてふと思い出したのだけれど、そういえばむかし私はそれを「熱いボール」に喩えてお話したことがある。


火傷してしまうような熱いボールがあって、それを持ち続けなければいけない。
置いてしまうと死んでしまう、そんなボールがある。
自分が持っていれば自分が火傷する。
じゃあ他人にパスする。すると今度はその人が火傷する。
それは申し訳ないから自分で持つ。熱い。火傷してしまう。
そこで神様仏様を連れてくる。
神様仏様は手のひらが厚いから火傷しない。そのボールを預かってくれる。
ポンと預ける。ふう、やれやれ。一安心。
でも預けていると、そこを離れるわけにはいかない。
やっぱりもう少し先まで行きたい。となると結局自分で持つしかない。
自分で持つ。やっぱり熱い。どうすんだこれ。
アチアチ言いながら手の中でポンポン放りながら歩き続ける。
ときどきうっかり握ってしまって火傷しながら、歩く。
ときどきやっぱり神様仏様の手を借りながら、歩く。
歩く。歩く。歩く。
アチ。アチ。アチ。
ひたすら歩いていると、だんだん火傷する回数が減ってきた。
その「ポンポン」の仕方が上手になってきた。
熱いボールの「扱い」を身に付けはじめている。
むしろそれを愉しみだしている自分がいる。


そんなお話をしたことがある。

誰しもその「ポンポン」の仕方を身に付けていくというのが、大事なような気がするのだ。

人にぶつけて他人に火傷を負わせるんじゃなくて、自分で握って火傷してしまうのでもなくて、「ポンポン」して持ち続けるということ。

ともすれば火傷しそうなものを、手の内で遊ばせる技術。

熱さにすぐさま火傷せず持ちこたえるためには、深い呼吸と肚を作っていくことが大事だし、火傷しそうなものを手の内で遊ばせるためには、こわばりのないゆるんだ腕を持つことが大事だ。

そしてそれを具体的な行動として動いていくなら、からだの体力が必要だし、頭の中で知的な運動として行なうのなら、アタマの体力が必要である。


精神分析では、それを「考える(表象する)」という知的な訓練でもって行なっていくらしいが、それもまたなかなかエライことである。

この本を読んでいると、精神分析家の人のアタマのタフネスは、ひょっとしたら尋常でないかもしれない、と思う。

シュタイナーの行法の本を読んでいても、「タフなアタマだなぁ」と呆れることはしばしばであるが、藤山さんもそれに負けず劣らず訓練を積んでいるようである。

こういう本を読んでいると改めて思うけれども、自分も含めてみんなもっとトレーニングをしていかなくちゃいけないなぁ、なんてつくづく思う。

う〜ん、がんばろっと。

posted by RYO at 22:21| Comment(6) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。