2010年06月28日

ムシムシ天国

だんだんムシ暑くなってきた。

じめっとしたこの季節、「イライラしたらテルテル坊主の首でも絞めておけ」とは私がしばしば言っていることだけれど、ここ最近、中毒っぽい症状が出ている人も増えてきていることだし、ホントに何かそういうことをやっておくといい。

まえに講座の後にさらしを用意して、参加者の人たちみんなでテルテル坊主を作ったけれど、今日もお茶会に来てくださった方々みんなで作った。

そして、たっぷり首を絞めて、上から吊るして、「明日天気にな〜れ」とみんなで祈る。

はい、これで晴れ晴れしたら、笑顔でまいりましょう。


さて、そんな梅雨模様の最近ではあるが、午前中に少し時間がある時は、晴れ間を縫ってときどき代々木公園に行って、ハトやらスズメやらアリやら蚊やら何だかよく分からない虫やらに囲まれて、それらと戯れつつ本を読んだりパソコンをパシパシ打ったりしている。

最近は、木陰であっても湿気でべたつく季節になってきたが、まぁそれでも気温自体はまだ涼しいので、森でボケッとしたりしているわけだけれど、だんだん虫たちも増えてきたので、ちょっとボケッとしているとまわりにいろんな虫がやってくる。

気がついたら腕や首のところを這っていたり、本やパソコンの上を歩いていたりして、それらを手で払ったり息でふーっと吹きとばしたりしながら、本を読んだりパソコンを打ったりしているので、しっかり集中できない。気づかぬ間に刺されたりしている。ボリボリ。かゆ。

「それなら、そんなところに行かなければいいではないか」と思われるかもしれないが、それでも私はあえて行くのだ。

だってやっぱりそういうごちゃごちゃとした自然の中に身を置くっていうのは大事だ。

かゆいけど大事。大事だけどかゆい。ええいもう!


今年はどうもムシが多く湧いているようである。

何年か前にもそんな年があったのだけれど、そのときがどういう年だったのかは今はっきりとは思いだせない。

けれども何かそういう虫が湧くような環境というのは、何かいろんなことにつながるような気がしているので、ちょっと今年は意識していろんな出来事を観察してみようと思っている。

日本では古来、虫とは「自然に涌いて出てくるモノ」を称して呼んでいた。

だから字を見れば分かる通り、蛇(へび)や蛙(かえる)や蜥蜴(とかげ)なども含めて、「虫」呼ばわりしていた。

そしてさらに言えば、そのように自然の中にいる小さな生き物たちにとどまらず、目に見えないようなモノに対しても「虫」という呼称を使っていた。

たとえば私たちの心に涌いて出る小さなモノたちである。

「虫の知らせ」や「腹の虫」などという言い方は、まさにその表れである。

それらは私たちの意識とは別に「おのずから涌いて出てくるモノ」だから、やはり虫なのである。

私たちの意図や意識の外にあるモノ。おのずから涌いて出てくるモノ。


パソコンのような線形的なプロセスを持つシステムにとっては、バグ(虫)はシステム全体にフリーズ(活動停止)を起こさせるような致命的なクラッシャーとして働く。

直線的に働くプログラム上にバグが一匹いれば、そこでコマンド(命令)は次に行くことができずに停止してしまうからだ。

しかし人間のような複雑系にとっては、バグ(虫)は逆に、新たな秩序を生みだすためのとても大事な契機になることがよくある。

まさに文字通りの「バタフライ効果」(⇒Wiki)と言えるかもしれないが、バグが一匹いることで、その後のステップが予想もしない方向へと大きく飛んでいくことになる。

つまりはハエが顔に止まったり、腹の虫が一匹収まらぬことで、事態は思いもよらぬ方向へと進展することがあるわけである。

だから虫とは、人間にとって「違う文脈へと移行する徴(しるし)」としてもある。

線形的に働こうとする人間の意識を、中断させ、破綻させ、困惑させ、違う文脈へと否応なしに持っていく。

勉強は中断され、恋の視線は妨げられ、愛の確認は集中を削がれ、冒険の物語からは引き戻される。

どれだけの人々が、虫にその物語の中断を余儀なくされたことだろう。

そのように虫とは、「もぞもぞ動いて」「注意を逸らし」「痒さや痛さ、煩わしさを引き起こす」存在として、人間の意識に介入してくる。


でも日本人は自然の中に八百万の神々を見出すように、人間以外のモノたちに対してもデモクラティブなところがあって、それら「外部から到来するモノ」もまた大事にして、その言わんとしているところに積極的に意味を見出そうとしてきた。

「何だかよく分からないけれども私を気にさせ煩わせるモノ」に対するセンシビリティがあった。

たしかにそのような「意識以前」は、とても大事なサインであることが多い。

無意識のうちにキャッチしているもの、何かの気配、予感、胸のざわめき、そのようなかすかな徴を「虫の知らせ」と呼んで注目してきたのは、多様性のある自然に囲まれた日本人が育んできた大事なセンスであったろう。

例えば、人が来るとぴょんぴょん飛んで逃げるハンミョウという虫を「ミチオシエ」なんて呼んで、「道を教えるモノ」として取り上げたりするセンスなんて、何とも繊細で、優しくて、幽玄で、色気があって、まるで月のような思考である。

ある種とってもシャーマン的だし、魔女的だし、呪術的なセンスである。

でもこれからの時代、おそらくとても大事な感覚である。

どんな些細なことにも聞く耳を持つということ。

じつはそこにこそインスピレーションの秘術が隠されている。


ということで、だからこそ私は蚊に刺されてまでも、虫に囲まれて森で本を読むのだ。

何だか途端に色気もへったくれも無くなるが、でもそういうことなのだ。

てゆうか全然違うことのような気もしてならないが、でもそういうことなのだ。

しかし、カイーな。こんちくしょう。

posted by RYO at 22:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月10日

新刊本「整体的子育て」発売!

いよいよ本日発売日です!


子どものこころにふれる整体的子育て
「子どものこころにふれる整体的子育て」(クレヨンハウス)
⇒こちらで購入できます。


いやぁ、おかげさまさまでとても素晴らしい本ができました。

自分で言うのもなんだけれど、我ながら「いいこと書いてあるなぁ」と思う(笑)。

「そうそう、そうなんだよねぇ、そのとおり」と、書いている本人が読んでいて深く共感して頷いてしまうくらいなのだから、やっぱりいいこと書いてあるのだ。…たぶん。

なんていうか「うん、オレも頑張ろう」って元気になるんだよね。

だから朝とかページを開いてはサッと読み返し、自分を元気づけている。

まぁ、自分で書いてるんだけど(笑)。


帯には「野口整体+シュタイナー教育」というキャッチコピーが入っている。

こういうキャッチコピーは出版社のほうで文面を考えているので、私が考えているわけではないのだけれど、たしかに私の講座の二大柱であるので、そのコピーで打ち出している。

けれども読んでみれば分かるが、この本には野口整体の用語も知識もそんなに詳しく入っているわけではないし、シュタイナー教育に至ってはほとんど一言も専門用語が入っていない。

というより「どこにシュタイナーが書いてあるの?」という感想を持つ方もいるかもしれない。

「シュタイナー教育と書いてあるから勉強になるかと思って」とか、何かそういうことを期待して手にされた方には正直申し訳ないが、本書はあんまりそういう勉強にはなりませんのであしからず。

でもそれは、「シュタイナー用語を一言も使わずにシュタイナーを語りたい」と願い、また、「整体の専門的な側面を最小限にとどめて整体を語りたい」と願った、私自身の願望が込められた本であるので、申し訳ないがその辺はご理解いただきたいと思う。


たしかに私のお話していることには、野口整体とシュタイナーの思想がどっと流れ込み、また複雑に入り混じっている。

でも私自身は先ほども述べたように、できたら「整体を整体の用語を使わずに語る」とか、「シュタイナーをシュタイナーの用語を使わずに語る」とか、とにかくそういうことを目指したいと思っているのだ。

なんて言うか、極端なことを言えばいつか、「酒蔵での日本酒の発酵における微生物の働きぶりを語りながら、それを聞いているうちにシュタイナー教育が何をやっているのか分かってくる」とか、「レジで行列ができていたときに、どの列に並ぶと一番早く会計が済ませられるのかということを語りながら、それを聞いているうちに整体の指導法が見えてくる」とか、そんな語り口で語りたいと思っているのだ。

兎にも角にもそういう仕事が、私は好きなのだ。

「何言ってんだ。もっと真面目にやれ」とか言われてしまうと、これはもう「スミマセン」と小さくなるしかないけれど、でも好きなんだからしょうがない。

だからとりあえず最初に謝っておく。スミマセン。


ところで、帯には「こんなにラクにしてくれる子育ての本があったでしょうか?」とかいう文面も入っている。

先ほども言ったが、こういうキャッチコピーは出版社のほうで考えているので、デザインが上がってきて私も初めて見るのだ。

そうですか。「ラク」ですか。 ふ〜ん…やっぱりそうなんですかねぇ。

私はしばしば講座の参加者の方や、ブログを読んでいただいた方に、「お話を聞いていて、すごくラクになりました」という感想をいただく。

そういう感想をいただくたびに、「そうですか。それは何よりです」とか何とかお答えしているのだけれど、正直毎度のことながら不思議でならない。

だって私はべつにラクにしてあげてるつもりなど無いのだ。

でもいろんな方に同じ感想をいただくし、自分の本の帯にまで書かれてしまうくらいなのだから、どうやらたしかに私の話には「人をラクにする効能」(笑)があるらしい。

本人だけがよく分かっていない。

本人は「元気づけよう」とは思っているが、「ラクにさせよう」とは思っていない。というよりむしろ「しっかりやれよオマエ」と言っているつもりなのだが、みなさんからは「ラクになりました」という感想をいただく。

ここに「大いなる謎」がある(笑)。 不思議だ。

その謎を解き明かすためにも、私は今日も自分の本を読むのだ。

いや〜、でもそんなことは抜きにしてもいい本だなぁ……(笑)。

posted by RYO at 19:10| Comment(16) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月05日

「嫁と姑」を読む

毎月、野口先生の著書を読む「読書会」というのをやっている。

ちょっと前に、同じく野口先生の著書である「碧厳ところどころ」を読んだ講座の音声ファイルをアップしたけれど、あんな感じで私が解説しながらみんなで野口先生の文章を読むというスタイルで、一文読むたびにみんなで思ったことを言い合って、毎度ワイワイとなかなか盛り上がっている。

それで一冊の本を読み終えるたびに、次に何の本を読みたいかみなさんにリクエストを訊ねているのだけれど、今回から「嫁と姑」という本をテキストにすることに決まった。

「嫁と姑」。 …なかなかディープである(笑)。

何ですかみなさん。ディープなのが好きなんですか?(笑)

こんなディープな本をテキストにして、私のような若輩者が読書会などできるのかなと一抹の不安もあったのだけれど、先頃、その読書会を行なってみたら、これがまぁまた盛り上がった。

出てくる出てくる、エピソード(笑)。

何だかみなさん溌剌としていらっしゃる。

嫁という立場からの姑に対する思いもあれば、姑の気持ちが判るという声もあり、みんなで賑やかにワイワイと言い合っている。

私の入る余地など無いくらいであり、まぁまことに結構なことである。


野口先生の本は何冊も出ているけれど、その中に「潜在意識教育叢書」と題したシリーズがあり、そこでは人間の潜在意識の働きを説いている。

今まで読書会で取り上げてきたテキストも、「叱言以前」とか、「背く子背かれる親」とか、「病人と看病人」とか、人間の関係性や無意識に行なっている人間の行動といった、そういうものを扱っている本を読んできた。

前回のテキストである「病人と看病人」も非常に深い話であったが、「嫁と姑」なんていうのもまた輪をかけてディープである。

ディープすぎて野口先生でも一冊にまとめられなかったと見えて、上下巻のセットになっているくらいである(笑)。

なんだか回を進めるごとに、ますますディープな本が選ばれているような気がしてならないが、このままいくと果たしてこの先いったい何を読めば良いのだろう。

でも「嫁と姑」を久しぶりに読み返していて気がついたのだけれど、今までのテキストは人間の関係性といっても、一対一の人間関係が主だったのに対して、嫁と姑という関係性になると、これは三角関係を描いているということなのだ。

二人の女がいて、そしてその間に一人の男がいる。

そりゃあ、いろんなことが起きてもしょうがない。

でもそれが世界中のいたるところで行なわれている出来事なのだから、きちんと考えていくのは大事なことだろう。


一人の人間を考えるということと、二人の人間関係を考えるということはずいぶん違う。

けれどもそこにもう一人加わって三人の人間関係を考えるとなると、これはさらに違うものになる。

相互作用する因子が三体あるという「三体問題」(⇒Wiki)は、いまだに科学の世界でも解きえないくらいの難問であるのに、それが人間関係となったら、これはもうカオスであると言って差し支えないだろう。

それに嫁と姑の関係となれば、そこに旦那が関わってくるのはもちろんのこと、舅も加われば小姑も加わるし、本家分家に親戚付き合い、さらには近所付き合いまで混じりあって、何だか訳の分からない力学が働き始めるのは、当然と言えば当然である。

いろんな背景を背負った人間関係においては、ある二人の間で何か問題が起きたからといって、それが当事者同士の問題であるとは限らなくなってくる。

お互い何か別のものを背負ってその言い分の争いが、たまたま二人の間で勃発しているだけかもしれない。

お互いにゴーストを背負った代理戦争、けれども当人たちはなかなか気付かない。そういうことはよくあることである。

そんなことを考えると、この「嫁と姑を考える」ということは、すべての人間関係の基本になってくるかもしれない。


「人が病む」とは、いったいどういうことなのか。

「嫉妬」や「愛情」といった人の感情というものは、いったいどういう形で現われるのか。

「なんでこんなことをするんだろう?」「どうしてこういうことになってしまうんだろう?」、そんな疑問を持ったときに、ちょっとこの本で語られているような視点から人間関係を眺めてみると、ずいぶんクリアに見えてくることもあるかもしれない。

嫁と姑の関係に悩んでいる人も、そのようなこととは無縁な人も、この本は読んでみるとなかなか面白いかもしれない。(購入は全生社のHPからどうぞ)

posted by RYO at 21:49| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする