2010年04月15日

【音声】碧厳録をワークする

この前ある人から、しばらくお会いしてない方の近況をうかがったところ、「RYO先生の声が聞きたい」と言って、前にブログにアップした講義録を聴いている、という。

まさかそんなことを言われることがあるなんて思ってもいなかったので、なんだか妙にしんみりしてしまって、とにかく俺は頑張らねばならんぞ、と新たに静かに奮起する。

でもそんなことを言ってもらえるなんて、ワタクシ講師冥利に尽きますわ。ヨヨヨ…(泣)

しかしこちらもその思いにお応えしなければと、とりあえず手元のPCに入っている講義録のフォルダを引っ張り出してきて、インデックスを見ながらどれをアップしようかとあれこれ聞きまくる。

テープ起こしは相変わらずちっとも進んでいないのだけれど、とりあえずインデックスだけは付けていっているので、中身だけはだいたい分かるようになっている。

う〜ん…どうしようか。どれにしようか。

いろいろ悩んだ挙句、今回は11月の講義録から抜粋することに決定。

題して『碧厳録をワークする』。


禅の公案集である『碧厳録』は、整体の野口先生が座右の書として愛した書である。

その『碧厳録』を、ところどころかいつまんで一言二言書き記していったのが、野口先生の『碧厳ところどころ』であり、その『碧厳ところどころ』を読んで、なおかつそれをワークしてしまおうという、なかなか思い切ったことをやってしまった会が、この11月の講座である。


そもそもの事の発端は、その少し前に禅寺で行なわれた合宿の夜の企画を考えていたときに、「RYOさん、『碧厳ところどころ』の読書会やってくださいよ」と、後輩の内弟子Sくんに言われたことであった。

突然のオッファーに「え、マジ?」といささかたじろいだが、どんな攻撃も見事受けさばいてみせるのが武術をたしなむ者の務めと思い、「分かった。やってみよう」とその場で応じたのだ。

そして返事をしてから、悩んだ(笑)。

夜の読書会だからってたらたら読んでも眠くなるだけだし、そもそも禅集なんてただ読んでたって意味不明である。

『碧厳ところどころ』は、野口先生が比較的説明をしてくれているのでまだ分かりやすいが、それでも不立文字の禅の教えを、わずか四、五十分の読書会のなかで講座として満足いくように紐解いてみせるというのは困難である。

それで『碧厳ところどころ』やら『碧厳録』やら、ほかにもいろんな禅の解説書などを集めてきて、それらを引っくり返してどういう読書会にしようか思案した末に、「ええい、どうせもう言葉にならないんなら、動いてしてしまえ。『碧厳録をワークする』。お、いいじゃないか。決定。」とまあ、そんな感じで決まったのだ。


禅の公案というのは、基本的に意味不明である。

意味不明な中で何かがやりとりされ、何かが果たされている。

謎に満ちている。

ただ一つ言えることは、基本的に師弟のやり取りを編纂した禅の公案集というのは、それがきわめて「教育的な営みである(はず)」ということである。

それだけがメタメッセージとして通底している。

「意味不明な師弟のやり取り」を読んで、師が弟子を教え導く。

そうして「師から弟子へと何がしかのものが伝わる」ということが、入れ子状態で繰り返される。

そんな『碧厳録』を野口先生はこよなく愛し、そしてまたお弟子さんたちと接するときにもそれを規範として振舞っていたようなところがある。

遺稿の中で、自らの活動を「虚の活かし方なり 無の活動法なり」と称しているが、まさにそれは「禅」という方法に多くをインスパイアされて完成されていったものであったろう。


まあともかく、そんな『碧厳ところどころ』を読んでみた講座の講義録である。

お時間のある方はぜひお耳汚しに聴いていただければ幸いである。

例によって好き勝手にデタラメなことをべらべらしゃべっているので、ツッコミどころも満載ではあるが、そんなところも含めてお楽しみいただけたらと思う。

重複しているところとか多少編集はしてみたけれど、それでも全部で40分弱の長さになってしまったので、ファイルを3つに分けてアップするので、好きなように聴いてやってください。(リンク先で「対象をファイルに保存」からダウンロードもできます。)

それではどうぞ。


音楽 『碧厳録をワークする1』 【11:45】

 ・00:00  碧厳録というもの
 ・03:08  師弟のあいだの現象学
 ・06:03  馬祖と百丈
 ・10:41  自分の言葉を得る


音楽 『碧厳録をワークする2』 【14:33】

 ・00:00  野鴨が去る 心も去る
 ・03:32  汝は深く今日のことを知る
 ・05:56  師から弟子へと引き継がれるもの
 ・09:53  百丈もまた師となって
 ・12:48  親切な俗人・百丈


音楽 『碧厳録をワークする3』 【13:37】

 ・00:00  驢も渡る 馬も渡る
 ・03:56  体と心を一致させる
 ・06:06  心引かれたところに体が動くこと
 ・09:19  気になる心は自分の心
 ・11:10  気になることに潜っていく

posted by RYO at 21:11| Comment(8) | TrackBack(0) | 音声 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月03日

歌を忘れたカナリヤは

昨年末に亡くなった知人の偲ぶ会が先頃あったので、参加してきた。

精神障がい者だった彼は、とても明るくいつもみんなの話題の中心になるようなそんな人で、私のボディワークの時間にも必ず参加して、場をにぎやかにしてくれていた。

その彼が子どもの頃によくお母さんに、「カナリヤ」の歌をせがんでは歌ってもらっていたという話を聞いた。

彼が亡くなる数日前に、お母さんが彼と二人で道を歩いているときに、彼が突然思い出したようにそのことを語り、道すがら二人で一緒に歌ったそうである。

いい話である。

ひょっとしたら彼も何かの気配を感じていたのだろうか…。


ご存知の方も多いかと思うが、大正期を代表する童謡詩人である西条八十作詞の「カナリヤ」とは、こんな歌である。



歌を忘れたカナリヤは
後ろのお山に棄てましょか
いえいえそれはなりませぬ

歌を忘れたカナリヤは
背戸の小藪に埋け(埋め)ましょか
いえいえそれもなりませぬ

歌を忘れたカナリヤは
柳の鞭でぶちましょか
いえいえそれは可哀相

歌を忘れたカナリヤは
象牙の舟に 銀の櫂
月夜の海に 浮かべれば
忘れた歌を 思い出す


う〜ん…美しい歌だなぁ。

最後の光景など、その美しい画がありありと目に浮かぶ。

子どもの彼が、この唄のどの部分に魅かれて母にせがんだのかは分からない。

でもこの歌は、その意味をじっくり味わってみるとホントに深いものがある。

「歌を忘れたカナリヤ」とは、いったい何なんだろうか。


カナリヤというのは、とてもかよわくフラジャイルな存在である。

かよわく、はかなく、傷つきやすいものの象徴として、カナリヤはある。

昔、人は炭鉱の採掘に入るときにカナリヤを連れて入った。

炭鉱は、ときに極めて危険な有毒ガスが発生することがあって、それに気づくのが一瞬でも遅れると大勢の死者が出かねない、そんな危険な現場である。

だから彼らはカナリヤを連れて入った。

かよわく、はかなく、傷つきやすいカナリヤは、ほかの誰よりも早く毒ガスに反応し、まず歌うのをやめ、そして倒れる。

人はその姿を見て危険を知り、その場から逃げるのだ。

誰よりも早く傷つくカナリヤは、その身を呈してみんなに危険を知らせる。

「これ以上ここにいてはいけないよ。これ以上進んだらもっと傷つく者が出るよ」と。

誰よりも早く傷つく者は、誰よりも早く気づく者である。


私たちの誰の中にも「かよわきもの」はある。

誰しも、かよわく、はかなく、傷つきやすい。

私たちの誰の中にもカナリヤはいて、そして私たちの誰もがカナリヤだ。

もしそのカナリヤが歌を忘れてしまっているなら、それはいったい何故なんだろう。

いや、そもそも私たちは、自分の中のカナリヤときちんと向き合っているのだろうか。

私たちは「人は強くならなければならない」とそう信じ、かよわさや、はかなさや、傷つきやすさは克服すべきものと、そう思ってやしないだろうか。

そして自らの内にあるそういうものを、脇へ押しやり、目を背け、無視してしまってはいないだろうか。「こんなことではいけない」と、必死にそれらを棄てたり、埋けたり、ぶったりしてきてはいないだろうか。

もしそうだとしたら、カナリヤから歌を奪い、命まで奪おうとしているのは、ひょっとして私たち自身であるかもしれない。


はかなさや、かよわさや、傷つきやすさといったものは、克服すべきものなどではなく、むしろともに寄り添いながら生きてゆくものであるだろう。

それらと静かに添い寝して、そのかすかな歌声に耳を傾けていくことが、私たちに何か大切なことを思い出させてくれる。

はかなさや、かよわさや、傷つきやすさは、私たちに大切なことを気づかせる大事な能力だ。

傷つきやすいことは、決して悪いことではない。

むしろ傷つきやすい人こそ、まわりに大切なことを教える役目を担っている。

私は精神障がい者の人たちと付き合うたびに、まるでそのことを教えてもらっているかのようで、亡くなった彼もまた私にそのことを教えてくれていたのかもしれない。


自分の中の「傷つきやすさ」に、目を背けたり、耳をふさいだり、あるいは陰に追いやったり、そんなことをしないで、ぜひとも静かにじっくりと添い寝をしてあげてほしい。

耳を澄ませばきっとあなたの中のカナリヤは、今も小さな声で儚く美しい歌を歌っているに違いない。


象牙の舟に 銀の櫂
月夜の海に浮かべれば…

きっと
忘れた歌を 思い出す

posted by RYO at 18:58| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする