2010年03月14日

まっとうするための表現を

暑くなったり寒くなったりして、最近の気温の変化はなかなか激しいものがある。

ここのところのこの急激な気候の変化で体調を崩している人がずいぶん多い。

春はもともと変動が多い季節だけれど、あたりを見回すといつもこんなにいっぱいいろいろ出てきたかなと思わずにはいられないほど、変動を起こしている人が多く相談も多い。

だいたい三月四月頃は、からだが弛んでくるのでさまざまな変動が出てくる季節である。

とくに昔の「やりそこない」みたいなものが出てくる。

怪我したまま放っておいたとか、すごいショックを受けてそのまんまだったとか、ひどい症状だったのに無理やり薬で抑えて何かしなきゃいけなかったとか、何かそんな「終わっていないこと」が出てくるようである。

そういうことたちは、何がしかの形でからだにずっと残っていて、隙があればいつだってもう一度出てこようとしている。


いや〜、ホントに何事もきちんとまっとうせにゃいかんのう。

「イヤなことはイヤだと言う」とか、「やりたいことはやる」とか、「泣きたいときは泣く」とか、「叫びたいときに叫ぶ」とか、そういう至ってシンプルなことが、とっても大事なんだろう。

ただきっと、その表現方法をみな知らないのだ。

自分の中にあるものをそのまんま表に出したら、人に迷惑をかけるかもしれないし、誰も受け止めてくれないかもしれないし、あるいは馬鹿扱いやキ○ガイ扱いされるかもしれない。

でもそこで、「だからやっぱりやめておこう」というんじゃなくて、「だとしたらどのように出せばいいんだろう」というふうに考えたい。

「要求をどうやって表に出してゆくか。」

それはホントに人間の普遍のテーマであるのかもしれない。


子どもは、イヤなことは「イヤだ」と言うし、やりたいことは「やりたい」と言うし、何のためらいもなく素直に表現している。

それは例えれば「原始アート」のような、素朴さをもった表現である。
(もちろん言語の習得以前に、もっと素朴な「野生の表現」の時代はあるが)

「イヤなことをイヤだと言う」とか、「やりたいことをやりたいと言う」とか、そういう「言葉」による直接的な表現がシンプルで素直な「人間の子どもの表現」だとしたら、もっと高められた表現にしていくのが「人間の大人の表現」であり、「芸術」なのだ。

言葉はもっとも抽象化されているから、イヤなことを「イヤだ」と言ったときに、どれだけ自分がイヤだと感じているかというその「イヤさ」は、本当にすべてなんて表現し切れない。

だって「イヤ」なんていうのは、もっとこう生々しくて身悶えするような、そういうものだろう。

この私の「イヤさ」を、もっとそのまんま具体的に表現したいという思いが、「イヤ」に突き動かされる手や足や内臓や、あるいはそれを感じる感情や、それを見つめる思考までもフル活用して、表に現していくのだ。


それがどれだけ悩み抜かれているか、深みにまで至っているか、高みにまで上っているか、あるいはきめ細かくすくい上げているか、大きく引き受けているか、そういったそこに込められた「運動」が、表現の圧倒さにつながって、人の心やからだに響くのだ。

「そこに込められた運動」は絶対に人に伝わる。これは私の確信だ。

高速回転するコマが、まるで止まっているかのような静けさをたたえていたとしても、そこに込められているあらゆるものを弾き飛ばすようなエネルギーの凝縮は、人は絶対感じている。

クーヨンで神谷さんとわらべ唄の対談をした時にも、わらべ唄のそのエネルギーは感じたし、内田樹先生の時折ほとばしるセンテンスにもそれを感じるし、あるいは本や踊りや絵や建物や、さらには人の言葉や顔や姿勢に至るまで、そこに「込められた運動」は、やっぱりどこか感じている。

そういう表現ができることは、たぶんとっても仕合せなことなんだと思う。

まさに内の世界と外の世界がぴったりつながったような、そんな仕合せなことである。

そしてそんなものに時折出会えた瞬間も、私はとても仕合せを感じるのだ。

「ああ、なんて美しいんだろう。人の営みは」と、そう思うのだ。


「出るもの」ではなく、「出し方」にその人の生きざまが表れる。

いろんなイヤなことを引き受けました。はい、じゃあそれをどう出しますか、と。

そのまんま外に出す人は…、まぁそのまんま出す人なんだろう(笑)。

別にかまわないけれど、それはそんなに美しいとは言えない。

引き受けたものをいったん全部自分の中に入れて、それこそ中世の錬金術師たちが行なっていたように、釜に入れて熱や圧力を加えながらそこでふつふつと練り上げて、美しい貴金属として取り出してみせるような、あるいは「賢者の石」(⇒Wiki)へと結晶化させてゆくような、そんな営みに私は心を打たれてならないのだ。

べつに「賢者の石」が素晴らしいんじゃない。その結晶化のプロセスこそが素晴らしいのだ。

錬金術とは、鉱物を操作して変容させることで、術師の心的世界においても同じ変容を起こさせる、そういう物心一体の手法であり、その求道者たちが錬金術師と呼ばれる人たちだった。

東洋が瞑想を通じて果たそうとしていたことを、西洋は鉱物を通じて果たそうとしていたのだ。

今も昔も、東洋では精神が踊り、西洋では物質が踊る。

どちらも素晴らしい営みであり、表現である。

心的世界の道をゆく者、物的世界の道をゆく者、おのおのが自分の得意とする分野で自分なりの表現を磨き、おのれの内にある欲望を、人を感動させるような、世界をより良いものに変えてゆけるような、そんなものに変容して提示していければ、それがいいんじゃないか。

表現ということ。永遠のテーマかもしれない。

まっとうしよう。

posted by RYO at 20:55| Comment(7) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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