2010年02月22日

モノからコトへの相転移

感染症は実在しない』(岩田健太郎、北大路書房、2009)という挑発的なタイトルの本を読了。

以前紹介した『傷はぜったい消毒するな』(夏井睦、光文社新書、2009)もそうだけれど、医療の現場で実践されている方がこのようなタイトルをつけるには、それ相応の確信を持って世に問うていることがあるわけで、この本もまたとてもラディカルなところから病気というものを問うている。

著者の岩田さんは感染症の専門家で、まだ三十代という若さである。

自分と同年代の若手(ちょっと先輩だけど)がこうして頑張っているのは嬉しい。

この本は以前ちょっとだけ触れた「構造構成主義」というメタ理論を使って、感染症、あるいはその他の病気についての捉え方を考察した本である。

…とか紹介しておきながら何だけど、「ふ〜ん、で、その『構造構成主義』って何?」と言われてしまうと、私も正直「いや、実は私もよく分かんないんだけどね…」と口をごにょごにょするしかない。

まぁでも強いて言うなら、「何かね、いいんだよ。態度が。」とでも言っておこう。

態度というのは、整体や武術的に言い換えるなら「構え」ということになるのかもしれないが、とにかくその構えの佇まいが良いのだ。

「平たい構え」とでも言えばいいか。「対話する構え」がある。

まあともかく、本書はその「平たい構え」である構造構成主義という思索ツールでもって、感染症や病気といったことについて平たく考えた本なのである。


しかし「実在しない」なんて、なかなかインパクトのある言葉を繰り広げたものである。

しかも目次を見てみれば、「新型インフルエンザも実在しない」とか「他の感染症も実在しない」とか、なかなか激しく繰り出している。

「病気は実在しない」なんて断言されてしまうと、多くの人は「はぁ?」という感じになってしまうかもしれないが、ここで書かれている「実在」という言葉の意味は、おそらく一般的に使われているニュアンスとちょっと違う。

まぁでも、そのへんを突っ込んでいくと、「実在とは何か」という哲学的難題を克服しなければならなくなってしまうのでここでは触れない。

けれども、現実的にというか臨床的にというか、そういう極めてリアリスティックなところで、この「実在」というものがネックになってくるということは、私もしばしば経験していることである。

だから私の中では「実在」ということについては、「哲学的トピック」としてよりも、「現実的トピック」として存在している。


この「実在」ということを考えるとき、私はいつも「ロボットの反乱」という古典的なストーリーを思い出す。

人間が自分たちのために作ったロボットが、やがて意志を持って人間に反乱を起こし、逆に人間を支配するようになる、というよくあるお話。

最近でも、「ターミネーター」や「マトリックス」、「ウエストワールド」といったハリウッド映画などで繰り返し語られる、古くて新しいテーマである。

人間の「ツール」であったはずのロボットが、「実在」となって人間たちを逆に支配(ツール化)しはじめる、という構図。

これだけ繰り返し語られるということは、おそらく人類の持つ根源的な恐怖なのだろう。


「方法」や「技術」が確立してゆくに従って、やがてその構造が「実在」化しはじめ、実在し続けるために人や物を「素材・要素」化しはじめる。

「作り物(バーチャル)」が、実在化するために周りの「実体(リアル)」を食べ始める。

虚の自己目的化あるいは自己組織化。

虚が実を生み、実が虚になる。

でも見渡してみれば、その構造は現実社会のいたるところに見られる。

「お金」然り、「思想」然り、「社会」然り、「制度」然り。

お金はあくまでツールであったはずなのだが、それが目的化している人が今どれだけ存在しているだろう。


「病気」というのも、もともとは人間の健康状態を区分けしていく過程で、便宜上ラベリングしていったはずのものであったが、いったん名前が付くと、どうしても人はまるで実在しているかのように扱い始める習性がある。

良くも悪くも、名前にはそのような呪力がある。

それはさも、大学のサークルで思いつきで始めたおふざけが、10年後には「サークルの伝統」としてまことしやかに引き継がれているような、そんな出来事にも似ている。

大体そういうものは、のちのち至極もっともらしい理由付けがされてゆくわけだが、それこそが人間の営々たる営みの本質であると思うし(それは文化と呼ばれる)、私はそんな人間の営みを美しく感じてならないので、非難するつもりはない。

人はいつか必ず「ロボットに人権を!」と言うのだ。人間とはそういう生き物なのだ。愛とはそういうことだし、クリエイトとはそういう営みなのだ。

ただ、それに対してどこかで冷めて冷静に見つめているということは、大事なのではなかろうか。


著者の岩田さんは、病気は「実在(モノ)」ではなく「現象(コト)」である、と本書のなかで言っているが、おそらく今は「モノ」から「コト」への転換が起きている時代であるのではないかと私は思う。

もちろんまだまだ「モノへの眼差し」というものは強く存在しているのだけれど、「コトへの眼差し」というものもまた、どんどん生まれ始めている。

それは、これだけモノがあふれてきたからこそ、生まれてきたのだろう。

大量のモノに囲まれ、モノを見る目が変わってきた。

モノが少なければ、人はみなモノそのものを見つめるが、これだけモノがあふれると、人はモノそのものを見なくなる。

それがいいことかどうかは分からない。どちらの眼差しも大切なのだから。

ただモノそのものを見つめる目をぼんやりさせないと、コトは見えてこないという事情はある。

おそらく古代人はそのように世界が見えていたんじゃないかと、私はひそかに思っているのだけれど、まるで「認知の相転移」とでも言うかのように、「大量のモノ」というフェーズから、それらが素材と成った「ひとつのコト」へのフェーズへと、現代はゆっくり移行していっているんじゃないかと、そんなことを思っている。

それがどういう事態を引き起こすのかは分からない。

けれどもある種の揺り戻しとしては適当なことだろうと思う。

人はあまりにモノを見つめすぎた。「実」を重視しすぎた。これからは「虚」を見つめる時代なんだろう。

フレキシブルな思想とか、軽やかな宗教とか、柔らかい方法とか、小さなネットワークとか…。


ということでつらつらと書いていたら、また話が最初書こうと思っていたことからどんどんずれていってしまったのだけれど、まぁこのブログは雑念を徒然なるままに書き散らすブログであるからして、これで良しとしておこう。

posted by RYO at 21:34| Comment(18) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月04日

迷子名人

私がクーヨンで連載しているエッセイが4月あたりに本になるということで、その打ち合わせにクレヨンハウスに向かう。

いつもクレヨンハウスに行くときは、自転車でキコキコと表参道の坂を駆け登って行っていたが、今回は時間もあることだし全然違う道を通ってみることにした。

私は昔から迷子になるのが大好きで、どこかへ行くと必ず親の目を離れて迷子になっていた。

だから小さい頃は、歩くたびに音が鳴るピヨピヨサンダルを履かされていたのだけれど、結局ピヨピヨピヨピヨ言わせながらどんどん興味の赴くままに歩いていくので、気づくと知らないところできょとんと佇んでいた。ピヨ。

今の私と何にも変わってない(笑)。

今でも私は迷子になるのが大好きで、ときどき道を歩いているときにおもむろに意図的に道を外れて迷子になってみたりして、公私ともにいまだ「迷子道」を鋭意迷走中なのである。

迷子名人。雑念仙人。

それで今回は、渋谷あたりからざっくりとした方向感覚だけを頼りにふらふらとクレヨンハウスへと旅立ったのだ。


迷子になってみるというのは非常に面白い。皆さんにもぜひお勧めしたいくらいである。

知らない街を歩けば、まぁある意味最初から迷子なんだけれど、ほどよく知っている街を迷子になってみると、一番いろんな刺激があって面白い。街が新鮮に見えてくる。

とくに東京の街は、さまざまな時層が混在している面白い街なので、ちょっと路地に足を踏み入れたりして空間的に奥まった所に入っていくと、時間的にも奥まった所に入っていくことになるのだ。

30年や40年は軽くトリップできる。

原宿や表参道あたりも都市開発とともに急激に地価が高騰したような地域だから、そのグラデーションが豊かで面白い。

都市の生態系が豊かである。表と裏に時差がある。過去と未来が並存している。

路地をふらふらしながら、フラートされるままに、アフォーダンスの導きに従って、どんどんドツボに入っていくと、なんだか無性にハイになってくる。エヘヘへ。

そのうち何でもない看板や電信柱まで、何ともいえない輝きを放ち出して、いちいち感動してしまったり、味わい深さに沁み入ったりして、軽くアブナイ状態になってくる(笑)。

うお〜、いいなぁ。何だかいいなぁ。今ならポストの赤さにだって泣ける。

知らない路地。知らない街角。知らない階段。知らない猫。

私の知らないところで、私の知らない人生の痕跡が、無数に乱舞している。

なんだこりゃ。なんなんだこりゃ。

どんどん興奮しながら、ぐんぐん世界が色めき立つ。

時間が飛ぶ、空間が飛ぶ、世界が際立つ、いま、ここ、わたし。

? ! ? ! ? ! ???… !


現代はすべてが点と点で結ばれ過ぎている。

場所は地下鉄で結ばれ、情報はGoogleで結ばれ、物はAmazonで結ばれている。

そのなかで、その過程である道はなおざりにされ、見えなくなってきてしまった。

でも本当は、私はいきなり世界とは出会えない。

欲しい情報はいきなり手元には来ないし、欲しい物は玄関まで届かないし、行きたい場所へは座席で寝ているだけではたどり着けない。

私と世界のあいだには、必ず道(プロセス)がある。

そこには時間も空間も手間も圧縮されている。

もう一度そこに潜って、時間や空間や手間を取り戻して、それらをたっぷり感じてみるのだ。

目的に従うのではなく、今いる道に従って、そして、犬のおまわりさんと一緒に困ってみるのだ。

そうだ、そうだ。そうなのだ。


ハイになりながら角を曲がると、おもむろに見知った所にひょいと出る。

あ、クレヨンハウスだ。

そうだ。今日はクレヨンハウスに打ち合わせに来たんだった(笑)。

そして私は素に戻る。

posted by RYO at 22:59| Comment(18) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする