2009年12月31日

2009年 記事一覧

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2009年12月29日

本に見る夢

早いもので、今年も残すところあと2日となってしまった。

年賀状はなんとか出し終えたけれど、大掃除がちっともはかどっていない。

さっさと片づけたいと思うのは山々だけれど、机の上にはPC入力待ちの待機本がうずたかく積みあがっており、その目に見える作業量の前についつい他のことに…うう…(泣)。

じゃあいちいちPC入力なんかしなければいいじゃないかという声もあろうが、一度読んだ本をしばらく経ってからもう一度ざっと見なおし、さらに気になった個所をPCにカタカタと入力するという作業は、気になった個所を最低三度は読み直すことになるので、この長所はなかなか捨てがたい。

しかも後になって「あれ、どこに書いてあったっけな?」とふと思い立った時に、PCを開けば10秒でたどり着けるというこの至福の快感は何物にも代えられない。

まぁ、だったら普段からちょこちょこやっていけという話なのだけれどね…。


しかし最近つくづく思うのは、私は根っから本を愛しているらしいという事実である。

何度も書いているが私は邪悪な人間であるのだが、いちおう人間社会では「表面いい人」を心がけているので、他人から何かオファーを受けたときには、「ああ、いいですよ」と比較的にこやかに引き受けるようにしている。

けれども唯一(でもないか…)、オファーを受けて露骨にイヤな顔をしてしまう事があって、それが「本貸して」という一言なのである。

私が読んだ本の話などしているときに「え〜、面白そう。貸して」とか言われると、「え…自分で買えば?」と思わず返してしまいたくなるのだけれど、さすがにそんな言葉は口にできなくて飲み込んでいると、それがついついイヤな表情となって表に現われてしまうのである。

いや〜、これはもう我欲であります。小我の我欲。

「本を人に貸すくらいなら、いっそあげてしまいたい」と思う虫心。本畜生。


私の寝床には眠る私を取り囲むようにして本棚があり、そこには読み終わった本がぎっしり並んでいる。

そんなてめえの寝床を眺めつつ、「ああ、これは愛しているのだな」とつくづく思う歳の暮れ。

私にとって読書の時間というのは、愉しい愉しい本とのおしゃべりの時間であり、蜜月期なのだ。

そんな蜜月を過ごした本たちはもう私にとっては愛するモノたちであり、だからいつも彼らに囲まれて夢の世界へ旅立ちたいという、そんな思いが知らず知らずに私の寝床に現われている。イッツドリーミング。

「貸して」と言われて、無意識のうちにイヤな顔になってしまうのも無理はない。

愛する人を「貸して」と言われて、どんな扱いを受けるかも分からないのに、おいそれと貸すことなんてできないでしょう。

私が愛するより愛してほしいとは言わないが、せめて私が大切にしているくらいは大切に扱ってほしいという私の欲望が、他人の手に渡すことをどうしても躊躇わせる。

いや〜なんともちっこい話で申し訳ないが、これはもう私の業であるから仕方がない。

ただ逆にいえば、私が愛する以上に愛してくれる人がいるならば、もう全部差し上げてもいいくらいなのだけれど、まあそんなことを思える人がいるわけないし、いても「やっぱりヤダ」とか言って駄々をこねているんだろう(笑)。


とまあ、そんな本畜生の話はさておいて。

本畜生が今読んでいるのは、ミンデルの最新刊『大地の心理学』(アーノルド・ミンデル、コスモス・ライブラリー、2009)。

今日、電車の中でパラパラと読んでいたら、ある一節にどえらいショックを受けた。


『人も素粒子もジグザグに歩く。ファインマンは美しい言葉で述べている。「素粒子はすべての道(経路)を探求しなければならない」。日常的現実でみることのできる全体的な方向性へと足し合わせるために、素粒子は多様な方向性のすべてを探求しなければならない。あなたが本を読んだり、目の前のコンピューター画面を見たりするために、光の粒子は本から飛び出し、コンピューター画面から放射されなければならない。そうした光の粒子は直接あなたに向かうのであろうか? ノーだ。いくつかの光はあなたが座っているところへ直接やってくるが、いくつかの光は東京やモスクワや月を経由してやってくる。光の波動の可能性が宇宙の至る所を旅して、最終的に足し合わされているので、あなたは本やコンピューターを見ることができるのである。自然は可能性のあるすべての道を嗅ぎ回る。』
(同著、p141−142)


ゲゲ。その通りだ。なんてこった。アワワワ…

量子物理学をご存じない方はよく分からないかもしれないが、光というのは量子的振る舞いをするので、今パソコンの画面を見ているあなたの目に届いている光は、モニターから飛び出て直接届いた光だけでなく、部屋の壁で跳ね返った光や、モスクワのバーのウォッカの瓶で跳ね返った光や、宇宙の果てで跳ね返った光もまた、その可能性を内包しているのだ。

…と、こんなことを書いてもさっぱり分からないかもしれない。

「なんで今モニターから飛び出た光が、宇宙の果てまで行って私の目に届くのか?」という当たり前の疑問が湧くだろうけれども、そんな時間も空間も超えた振る舞いが「有り」というのが量子という存在なのだ。

ファインマンの言葉を借りれば、「光はその可能性もまた嗅ぎ回っている」。

私たちが現実的に観測するのは、「最終的に最短ルートだと判明した経路」なのだ。

(ギブソンの生態光学や、華厳の帝網(インドラネット)にもつながるような…)


「ゲゲ」って思うでしょう?

あなたが見ている私の文章は、宇宙の果てまで行って帰ってきた光が「重なっている」。

確かに理論上はそういうことなのだ。どえらいこった。

ミンデルは最終的に現実化したルート以外のそのすべての可能性を、美しく「夢」と語っているが、それはまさにまさに「幽玄の夢」。

私たちはみな「夢の重ね合わせ」なのである。

しかもそれは宇宙の果てまで含んでいる。

「ゲゲ」って思うでしょう?

これだから本はやめられないんだよねぇ〜(笑)。

今日は宇宙の果てまで飛ばされちまったよ。 いや、参った。

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2009年12月15日

「気話会」講話録('08.02) (9/9)

●巡り巡って恵まれる

 むかし愉気(手当て法)の稽古でやったことがあるんですけど、ダウジングって言ってひもの先に五円玉をぶら下げてブランブランさせて、裏向きのカードを当てるんです。あれが愉気の感覚にも活かせるなって思って稽古してみたんですよ。で、これが結構当たるんです。それで当たったらだんだんモノを無くしていくんです。最初はひもの先に五円玉を付けてぶら下げているんですけど、それを取っちゃうんです。でも手はそのまま。空想のなかで五円玉を垂らしているんです。空想のなかで動いているか動いていないかを感じるんです。それでも当たるんですよ。そうしたらそれもまた無くしていっちゃう。どんどんモノから離れていくんです。

 モノはあくまで媒介なんでね。たとえば私はひもの先に五円玉つけてやりましたけど、普通は水晶みたいな何かそういうものでやりますよね。別にあれはもっともらしいから水晶にしているんで、鉛だって五円玉だって何だっていいんです。もちろん水晶でやることの意味がまったく無いかって言われればそういうわけでもないんですけど、でも原理的に言えばそうなんです。

 それでこうやって手をのばして重りをぶら下げていると、からだが微妙に反応したのがひもに伝わって動きが増幅されるんです。ホントは手が動いているんです。でもその手の動きは自分でも意識できないくらい微妙な微細な動きなんで、普通にしていてもなかなか感じ取れない。で、じゃあ感じ取れないんだったらもう少し目に見える形にしてみようっていうことで、ひもをぶら下げてその先に重りをつけてみるわけですね。そうすると手が微妙に動いたときには、分かりやすく揺れますよね。右回りとか左回りとか、いろいろな動きが目に見えるように出てくる。

 そうするとどんなに手の感覚が鈍い人でも目に見えれば分かりやすいですよね。それで練習しているとだんだん当たるようになってくる。それで分かるようになってきたら「別にこれはホントは要らないんだよ」っていうことで取っちゃって、空想のなかでやってみる。空想の重りがどうやって動いているのかきちっと感じ分けてみる。それでだんだんモノが手放されていって、それがからだのなかにもういっぺん改めて帰ってくるんです。


 自分のからだの中で起きていることを、そうやって分かりやすい形でフィードバックしてあげることが、自分のからだとの対話を可能にしてくれるんです。ちゃんとフィードバックさえあれば、人間は自分の血圧も脈拍も意識でコントロールできるようになるんですよ。ヨガの行者さんなんてそういう訓練を積んでるわけですからね。

 成瀬先生っていうヨガの先生は心臓の鼓動をかぎりなく小さくできるそうですけど、そこまではまあ普通の人には到底無理だとしても、ちょっと練習すれば血圧くらいは簡単に変えられるようになるんです。血圧計をつけてそれを見ながら「上がれ」とか「下がれ」とかやって数字を見ていると、そのうちコントロールできるようになるんです。「ああ、こうやれば上がるんだ」っていうフィードバックがはっきりしていれば、そういう身体操作を身に付けられるってことです。


 「行(ぎょう)」って全部そういう構造を持っているんですよね。「歩くこと」「座ること」「呼吸すること」「食べること」、そういう普段の振る舞いを改めて意識化するっていうのが「行」ですよね。「行」っていうのは無意識の行動をいっぺん意識を通してまた無意識に帰ってくるっていうそういうことなんです。意識しないところまで。

 そのときに結局「現われ」としては同じかもしれませんけど、一段高い所、あるいは深い所に帰ってきてるんです。赤ちゃんの天心と大人の天心が違うっていうのと一緒で、赤ちゃんの天心は何も知らない天心。大人の天心は酸いも甘いも噛み分けたうえでもう一度帰ってきた天心。同じ天心だけど意味が違う。

 同じように「行」も歩いたり座ったり呼吸したりごはん食べたりということを一度徹底的に意識して…最初にお話ししましたけれども「意識する」っていうことは「分離する」っていうことなんです。自分のなかにあるものを突き放して、自分の「当たり前」を異化する。で、それをもう一度自分のなかに引き戻してきて一体化したときには、次元が違うんですよね。そのときに歩く、座る、息をする、食べるっていうことが何かね、意味が違うんです。大人の呼吸ができて、大人の座りができて、大人の食事ができるんです(笑)。

 さっきのダウジングみたいなこともホントは手が動いているっていうことを感じるのが大事なんですけど、最初は分からないから、あえて分かりやすいモノを利用して、モノの助けを借りて、モノの動きを通して、そこでどういうことが起きているのかちゃんと意識しなおしたら、もう一度モノから離れていって、自分のからだのなかに帰っていくと、「ああ、実は自分のからだのなかに起きていることだった」っていうね。その階段が「行」なんです。「行」そのものにべつに何の意味もないです。それは仏典の中にだって書いてある。でもその階段を経ないと帰ってこれないという境地があるんです。


 旅っていうのもそうですよね。べつに旅っていうのも帰ってくるためにやっているわけでしょう。「ために」って言っちゃ変ですけど、でも帰らないっていうんじゃ、それはただの夜逃げですからね(笑)。だいたいみんな旅行に行って帰ってくると必ず言いますよね。「ああ、やっぱり家が一番ね。」って(笑)。だったら最初っからずっと家にいればいいじゃないですか。でも家が一番だと思うためには、やっぱり旅しなくちゃいけないんですよね。旅して帰ってくると、家の良さが分かって、旦那の良さも分かって、奥さんの良さも分かって、いったん旅して帰ってくるっていうのはやっぱり何か一つ意味があるんだと思います。いったん離れて、そしてまた一体化するっていうね。

 …ということで話が旅して帰ってきたところでね(笑)、時間にもなりましたし、このへんでお話を終えましょうか。どうもありがとうございました。(了)

(2008.2)

posted by RYO at 00:23| Comment(6) | TrackBack(0) | 講義録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月08日

「気話会」講話録('08.02) (8/9)

●いざ気の世界へ

 今日は私なりのね、「気」というものをどういうふうに考えているかっていうことをお話ししていますけれど、こういうことを誰かに教わったわけじゃないんです。私なりの「気」というものに対する捉え方なんです。でもだからといってべつに私が思いついたんじゃない。先人のさまざまな知恵の総合なんです。いろんな勉強をしているうちに、だんだんそういうふうに浮かび上がってきたんですね。「気」っていう言葉で昔の人が何を表現したかったのか、何を言いたかったのかっていうことがね。

 お金の使い方もそうだし、祝祭や儀式もそうだし、そういういろんなものを見ていると、そこでどういう気の交流が起きているのか、何が巡っているのか、っていうことが見えてくる。そしてそういうものを感じていったときに、じゃあどうすればいいのかっていうところで、そういう本質的なところが自分のなかでだんだんはっきりと形をなしてきたら、次の連想が湧いてくるようになってきたので、それでようやくこうして講座の中でだんだんしゃべれるようになってきたんです。

 それまではまだこう自分のなかでぐちゃぐちゃして「何だかよく分からない」っていう世界にいました。それが少しずつ形をなしてきたんですけど、それでもまだやっぱり漠たるものでね、「何なのか」って言われると、「分からん」っていう世界ですけどね。でも絶えず動き続けて、変化し続けて、分かったつもりになっちゃいけないもの。ホントに「感じる」しかないもの。そういうものを感じられるようになったときに、じゃあ次にそれにどうかかわっていこうかっていう構えができて初めて「気の世界」に飛び込んでいけるんですよね。


 あのね、こういうことって普段の振る舞いのなかでやっていくしかないなと思うんです。日本語には「気を遣う」とか「気をかける」とか「気を働かせる」とかいろんな表現がありますけど、そういうのって普段の振る舞いのなかでしか身に付かないし、実行できないことなんです。「気の達人」っていうのはやっぱり文字どおり一番「気を遣える人」なんだと思うんです。

 ある場面で何かにフッと気づいて、フッと気を働かせるっていうことが、その場を変えるんですよね。それで場が変われば結局そこにいる全員が変わりますから、そういう人が社会のいろんなことを変えていくんです。一番根底にあるものですからね。その上にいろんなものが乗ってるんです。場の上にいろんなものが乗っているんで、その場に働きかけるっていうのが気の世界なんですよね。すべては気の現われの一つなんですから。

 あいだにあって変わり続けているものがあって、それは動くまえに動くもの、現れるまえに現れるもので、それをフッと感じて、フッと動いてっていう、そういう気の流れをすごくスムーズにすることができる人を「気が利く人」とか「気働きのある人」とか「気が遣える」とか、そんなふうに表現したんですよね。

 これはもう普段からパッと気づいたらパッと動くっていうことをやっていくしかないです。つねに辺りの気配に気をかけて、何かが動いたことを感じたら誰より早く「それ」を動く。普段からそうやって心がけていると、だんだんそういうことが身に付いてきます。

――身に付いていくのかしら。これから…(笑)。

 いやいや、それこそ「気づいた」瞬間から始まっていますよ(笑)。パッと動く癖を作るんです。気づいたら今からやる。それでいいんです。それが大事なんです。

――私はお尻が重いから…。

 それはね。腰の可動性とかからだの問題っていうのもやっぱり大事なんですよね。そこにからだの調整をしていく意味があるんです。腰とか調整していくと腰が軽くなっていきますからね。腰が重いってホントに腰が重いんですよ。だから触っていてもね、「この腰じゃ動けないな」っていうのはあるんですよ。整体の操法でも腰を軽くしていくってことはすごく大事なんですけど、足腰が弱まってくると動けなくなるんです。それで動けなくなってくると気づけなくなる。腰の可動性は本能や勘というものと密接に関係しているんです。

 自分が動けないのにいろんなことに気づくって嫌でしょう? だから気づかないようにしていっちゃうんですよ。やっぱり苦しいですからね。自分が動けないのにいろんなことに気づいちゃったら、「なんで誰も気がつかないの? なんで誰もやらないの?」ってワーッてなって、それこそ苦しくなってきちゃうから、だんだん気づかないようになっていっちゃうんです。自分が動けない状態でも快適に暮らせるようにね。

 そしてさっき言った「無知」の状態になっていっちゃうんです。いろんなことが見えなくなって、聞こえなくなって、感じなくなっていく。足腰を調整してパッと立てるからだにしておくと、気づいたことを自分でできますからね。それが実行力というものと、そしていろんなことに気づく勘というものを養ってくれるんです。

――入院した時につらいですよね。寝ててからだが動かないのに、アタマの中では「ああして欲しい。こうして欲しい」っていろいろ出てきて、子どもや主人には「うるさいから黙ってなさい!」って言われるんですけど…。

 それはね、もうそういうときはしょうがないですよ。そういうときはやっぱりちょっと手放さないと、自分が動けないんだからもう…旦那さんを育てるつもりで(笑)。

――それが難しいんですよ(笑)。

 まぁ分かりますけどね(笑)。自分の言う通りに動くロボットがあればいいんですけどねぇ。それはもう長い目で見ていただいて…。でもみなさん子育てしてらしたんだから、子どもを見るつもりで、育てるつもりで接すればいいんじゃないですか。「あら、そういえばアレどうだったかしら…?」とか言いながら、さりげなく相手に気づかせるとか。「その気にさせる」っていうかね。

 「その気にさせる」っていうのは女性は上手でしょう? 子育てって結局は子どもをその気にさせるっていうことですからね。自分で気づかせる。自分でフッとね「ああそうか」って空想が湧けばあとは勝手に動きますから、いかにその気にさせるかっていうね。そこは知恵ですよね。


 相手の行動とか態度にね、ついどうしてもパッと怒っちゃうとか愚痴っちゃうっていうのは「肚(はら)」ができてないってことなんですよね。それはもう肚を作るしかない。堪忍袋って言いますけど、一瞬息をこらえて不快にウムッと耐えられるかどうかっていうのは、肚ができているかどうかっていうことなんです。気づきながらも、なおそれをそのまま引き受けるってね、肚なんです。引き受ける覚悟ってもんがいるんです。肚で引き受けられないから、それがアタマに来るんですよね。ムカッと(笑)。

――私は顔を見るんですよ。鏡で自分の顔を見るんです。カーッとなってるときに「この顔はいかん」って(笑)。

 それはいいですね。そういうモノの助けを借りるのも一つの手です。御守りみたいに手鏡持って、ムッときたらパッと見て「あ、しわが寄ってる」とかね。何の助けもなくそういうものを身に付けていくのは大変ですから、そうやってモノの助けを借りる。はじめはモノの助けを借りて、そして「ムッときたらパッと鏡を見る」っていうことが身体化してほとんど無意識に連想できるようになってくると、だんだんモノが要らなくなってきます。そして、だんだんモノが要らなくなってくると、それがワザになり、術になってゆく。

⇒つづく

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2009年12月01日

「気話会」講話録('08.02) (7/9)

●親子のあいだで引き継ぐもの

 そういうときってね、生まれた時からの、いろんな中で滞っているものが出ようとするんですよ。こういう表現するとちょっとオカルトチックになっちゃいますけど、でもやっぱり自分が人のからだを見ているとね、その人の親、でさらにその親って三代ぐらい前のものまでは引き継いでいるなって思うことがあるんです。いろんなものを引き継いでいます。それは別に変な意味じゃなくてね。さっき言った振る舞いっていう意味でね、排泄の仕方、表現の仕方を引き受けてきちゃうんですよね。育てられているあいだに。

 で結局、子どもを見ているとね、「これは子ども自身の問題じゃないな。親の問題の現われだな」っていうことがあって、それで親を見ると親の中にもそのまた親の問題が出てきてね。そうなると、そこまではなかなか手がつけられなくなってくる。でもまぁなんとか親の「親との関係」くらいまではこちらが手を出せるかなと。起きたことは変えられないですけど、でも今から何かをしていくことはできますから、そのなかでのより良い関係をね。いびつながらも一番良い関係を作っていこうよっていうことをやっていくわけです。

 まぁ、いびつって言っちゃうのもアレですけど、でもいびつじゃない関係なんてないわけですよ。親子なんて必ず何らかの形で、ちょっとズレたり、ちょっとゴツゴツしていたりするわけですから。でもそのうえで一番良い間合いとか、一番良い位置取りをね、探ろうよっていう、そのお互いの「同意」が大事なんです。


 たとえばものすごく親子の間がうまくいっていない。「私はアンタのことが嫌いだ」と。「私もアンタのこと見ていると無性に腹が立つんだ」と。でもね。でも一緒にやっていかなくちゃいけないんだから、「一番良い関係を一緒に探してみようよ」っていうね。嫌いだけど一緒に何とかしようっていうその「同意」さえできれば、すごく変わっていくんですよ。それだけなんですけどね。

 それで「同意」するためには何が必要かって言ったら、相手を認めることなんですよ。対等な関係として。対話をする相手として。そこには相手に対する敬意と礼儀が必要なんです。そこに、何十年と苦労しながらそれでも生きてきた一人の人間の生き様を認めて、それに礼儀をもって接するしかありませんよ。当たり前のことでしかないんです。

 そのうえであとはもう二人で探るしかない。ぶつかったり、遠すぎたり、近すぎたりしながらね。やるしかない。そうするとそれが下まで伝わって、子どもまで変わってくるんですよね。そうして多分子どもがまた自分の子どもを育てるころにはね、もっとホントに良い関係を引き継いでいけると思うんです。野口先生も「整体になるには三代かかる」って言ってますけれども、やっぱり全部見ていって三代目、孫まで見てようやくそこで整体になってくるっていうね。引き継いでいくものがあるんですね。大変ですよね。でもそれを切り替えていく。


●お金を払って祓われる

――ことわざでもありますけど、「泣き面に蜂」とかって言いますよね。私の母はいつも「泣くも笑うも一緒よ。だから笑っていなさい」って言っていて、それを思い出しました。泣いてたらホントに悪いことがもっともっと来ちゃいますけど、「笑う門には福来たる」とかって、やっぱり笑顔には福が来るような気がします。

 とりあえずそうやって発散の仕方の一つとして、パッと笑っちゃうっていうのはいいですよね。一つのお祓いですからね。「笑う」っていうのは。あの「はらう」っていうのはやっぱりなんかそういう意味が込められていますよね。たぶん「笑う」っていうのは「はらう」っていうのと語源は一緒なんじゃないかと思います。舞台用語では片付けることを「わらう」って言いますしね。「ハレの日」とか「ハレの舞台」とか、祝祭のことをハレって言いますけど、あれはやっぱり「はらう」ためにハレなんですよね。


 最近思うんですけど、「お金を払う」っていうのも、すごく大事だなって思うんですよね。今はあんまりそういう感覚がなくなってしまいましたけど、お金っていうのはもともと不浄なもので、あんまり露骨に人前で扱っちゃいけなかった。お金は使い方によって人を不幸にもするし、幸せにもするものですよね。ある意味、危険なものなんです。

 だから私は小さな子どもに何も教えずにお金を持たせるのはいけないんじゃないかって最近思うんです。お金っていうのはちゃんとその使い方を学んでから使わなきゃいけないって。お金の使い方が分かっている人が今どれだけいるかって考えた時に、私は「う〜ん…どうかな」って思うんですよ。お金の使い方がホントに分かってる人って、けっこう少ないような気がします。

 ホントはお金っていうのは、何て言うんですかね、根本的にね、他人に向けて流れていくように使われるべきなんですよ。お金っていうのは通貨っていうくらいで巡ることがその本質なんです。そういう意味では気の現われの一つなんです。愉気なんです。愛なんです。ホントは稼いだお金は自分たちの次世代、自分の子どもであったり、あるいは教育とか医療とか、そういうところに流していくべきなんですよ。そうして社会という一つの大きな生命体の中で循環して流れていくものがあるわけなんです。


 でもそういう使い方が分からないのか何なのかね。そういう空想が湧かないんでしょうね。どうも自分の手元にとどめておくような使い方ばかりでね…。もちろん私だってそれが全部悪いとは言いませんけど、原則としてやっぱり使い方ってもんがある。いま世界中でそんなお金が暴れまわっていますけど、「育てる」っていうものが乗らないと、お金っていうのは人を不幸にするんですよね…。

 だからお金は「浄財」って言いますし、それは「はらう」もんですけど、日本語っていうのはホントによくできてますよね。すごく洒落てる。お金っていうのは払った時に自分の穢れが祓われるんですよ。それは発散ですからね。自分の中にたまったいろんなグチャグチャしたものがお金を払えば払うほどどんどん出て行くんですから、払えばいいんですよ。それもなるべく自分の手元にモノが残らないような使い方がいい。だから「ダイヤモンドを買いました」っていうんじゃ、それはホントは違うんです。結局、手元に残っているんじゃ「お金」と「ダイヤ」を交換したってだけのことで、何も払ったことにならない。

 …あの、別に「だから私に払え」って言ってるんじゃないですよ?(笑) それじゃ変な宗教になっちゃう。いや、もちろん「お払いさせてください」って言うんなら喜んで協力させていただきますけどね。みなさんの発散のためにね。仕方なく(笑)。


 このまえすごいお話を聞いてね。ある人から聞いたんですけど、その人にね、ある人が何千万だかをポンと出してやるっていうんですよ。たぶん経済界の大物かなんかなんでしょうね。ただね、「感謝するな」「ありがとうって言うな」「何も返すな」「返すんだったらやらない」って言うんですって。「こちらに何もするな」って言うんですよ。あしながおじさんなんですね。つまり。いくらでもお前が欲しいって言うだけ出してやる。そのかわり俺に何もするな。お前のやりたいようにやれって。すごい人がいるなと思いましたけど。

 その人はたぶんお金の使い方っていうものが分かってるんでしょうね。自分が見込みがあるなって思った人間にボンっと出して「俺には何も返すな。お前のやりたいことに全部使え」っていう出し方をする。世の中にはすごい人がいるもんだって、その人も褒めてましたけど、私もすごいなって恐れ入っちゃいました。

 そういう「お金を使う」ってどういうことなのかっていうことがね、そういう経済界のトップに立つような人はやっぱり分かっているんでしょうけど、何かお金を使うっていうことは基本的に「はらう」ってことなんですよね。どうしても溜まっていってしまうものをね、「はらう」。パッとね。


 子どもにもそういう振る舞いをね、そういうふうにお金はやりとりされるんだっていうことを大人が身をもって示していくっていうことがね、大事だと思うんですよ。シュタイナーの社会有機体三層構造では「経済の友愛」ということが言われますけど、お金っていうのは社会の血液なんですよ。だから愛に満ちていなくちゃいけない。

 心臓が「俺が一番大事なんだ」って言って血液を全部一人占めしたら、ほかの臓器が病気になって、それで心臓自身だって生きていけなくなっちゃうわけですよ。だからほかの臓器のために巡るものとしての血液、共同体のほかのメンバーのために巡るものとしてのお金というものを、大人のそういう振る舞いを通して、子どもが自然に学んでゆくっていうことが大事なんだと思います。

 お金っていうものがどういうふうにして人々のあいだを巡るものなのかっていうことがね、そういうことが子どものなかにだんだん染み込んできて、それがあるていど身に付いてきたところで、改めてきちっと「お金って言うのはこういうふうに使うものなんだよ」って教えてお小遣いを渡すっていうふうにね、お金の使い方を学ばせていく。家の中で愉気をしていくこととか、コミュニケーションでやり取りされるものとか、基本的にそういう「流れていくもの」の扱いっていうのは、一緒なんです。

⇒つづく

posted by RYO at 21:40| Comment(6) | TrackBack(0) | 講義録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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