2009年11月26日

「気話会」講話録('08.02) (6/9)

●排泄回路をつくる

 そういう自分のなかに生まれたものを解消するのに一番良いのは、もちろんそれをそのまま実行に移すことです。表に現わしていく。表現してゆく。そのためには、それを積極的に実現するための方法を考え、実行してゆけるだけの知恵と行動力を身に付けてゆく。それが理想ですよね。たとえば怒って人をぶん殴ったってそれは不満が解消されるどころか、他人を傷つけるうえに自分がより不幸なことになるだけですから、もっと現実的な解消の方法を考えてそれを実行した方がいい。

 でもそんなこと言ってしまうと、ほとんどの人は「だからそれができないから苦労してるんだ」ってことになってしまうんで、とりあえずは自分のなかで一番エネルギーを出しやすいものを見つけるってことになります。それはまあ平たく言ってしまえば「趣味を見つける」ってことになるんですけどね。それがとりあえずできる方法ですよね。

 一番自分が夢中になれるもの。何でもいいんです。これは。歌を歌うとか。踊りを踊るとか。絵を描くとか。自分の中にあるものを出す。表現する。表現っていうのは排泄なんです。自分のアタマの中にあるものに形を与えて表に出すっていうことはやっぱり排泄なんですよ。だから自分のなかで一番気持ちがいいと思うもの、そんな趣味を一つ持っておくといい。何かあったらそれをやる。排泄として。


 昔の女性はよく裁縫とかしていましたけれども、もちろん仕事としてやっていたんでしょうけど、あれは発散という意味ではなかなかいいんですよ。あの、針をね、刺して刺してっていうのがやっぱりね、けっこう大事なんですよ。腹が立ったら針を刺せばいいんです。ブスブスブスブスと。あれはなかなか良い発散になっているんですよ。

 人形を作るなんて言ったら、人型のものにブスブスと針を突き刺すってことになるでしょう。あれはお母さんが自分の子どものためにって人形を作ったりしますけど、起きている現象はけっこう怖いんですよ。実は(笑)。おとぎ話だって同じでしょう? ホワホワと可愛らしい表面とは裏腹に伏流していることはけっこう怖いんです。でもそういうことも買ってきたんじゃ起こらない。自分で作るっていうときに、人型のものをブスブスと刺していることで、いろんなものがね、意識していない中で発散されて、流れていくんですよね。

――私はパンを作ったりするんですけどね。あれ50回くらい机にバンバンと投げつけるんですけど、あれも上司とか思い浮かべながら…(笑)。

 なるほどね(笑)。いいですねそれは。バン!バン!ってね。洗濯とかも昔はね、河原で岩にバンバン叩きつけたり、洗濯板でゴシゴシこすりつけたり、「もう!」とか言いながらできましたけど、あれ全自動洗濯機みたいに「ボタンをピ!」じゃ何の発散にもなりませんよ。「ピ!」で終わっちゃったら、余ったエネルギーの持っていきどころがないですからね。そういう意味ではなんかこう、家事が「ボタンをピ!」で終わるようになってきちゃったのは、実は不幸なことであったのかもしれませんよね。「暮らし」と自分が隔絶しちゃった。

 だって「ボタンをピ!」なんていうドライで都合のいい関係をどれだけ続けていたって愛情とか愛着が湧くはずがないですよ。自分と暮らしのあいだで巡るものがほとんどない。やりとりされるものがほとんどないってことは愛がないってことでしょう。自分の暮らしに愛着がない、愛情が湧かないっていうのはけっこう不幸なことですよ。「暮らし」そのものにもっと愛着が湧けるような仕組みを考えていかなくちゃいけませんね。

 私の母はずっとパッチワークやってるんですけど、もうそれこそ私が子どものころからいっつもやってたんです。先生として教えていますから、もうずっとやってる。それで今でも言っていますけど、「私はパッチワークやってるときが一番ホントに幸せ」とか言って、ずっとチクチクやってるんですけど、それでそのチクチクが半年もすればすごい立派なキルトができちゃうわけですよ。それがまたすごい表現になっているし、やっぱりすごいですよね。それもやっぱり白魔術だと思います。


●からだは最善をつくす

 大事なことはね、現われる形はいろんな形を取りうるということなんです。自分の中にあるエネルギーが生まれたと。それが外に出るときにはさまざまな形を取るわけです。それが物を作るっていう方向に向かうかもしれないし、物を破壊するっていう方向に向かうかもしれない。良いとか悪いとかっていうのはあくまでアタマの世界であって、エネルギーがボンと出るときには良いも悪いもないんです。ただ自分の中に生まれたエネルギーが外に出て発散するっていうことがあるだけで、それが現われとしての振る舞いになったときに、人から褒められることだったり、非難されることだったりするっていうだけのことなんです。

 ある文化のなかでは褒められることであっても、ほかの文化のなかでは眉をひそめられることなんて、いくらでもあるじゃないですか。それでそうやってエネルギーが外に出るっていうときには、基本的にその人が身に付けてきた振る舞いが一番出やすいから、そういう形をとって出るんです。当然、社会的にもあるていど馴染んでいますしね。


 人間がね、肛門がここにあるのは、ここにあるのが一番具合が良かったからここにできたというだけで、もし人間のからだが生まれるときにもっと自由に作れるんだとしたら、人によっていろんなところに肛門があったかもしれない。前に膿がすごく出てくるっていう方の話がありましたけれども、その方は自分の中ですごい一大事件が起きて、肛門から出すルートを使っている場合じゃなかったんですよね。緊急時で。もっとすばやく出さなくちゃいけなかった。それで結局そういうところに排泄の道を作ろうとしたんですよね。からだが。皮膚に直結してそこから出そうとした。

 からだのなかにある異物があったときに、からだはそれを出そうとしますから、そのためのルートをね、臨時で一回こっきりの排泄のためのルートを作る。痛いですよ、それはもちろん。元々そのためのルートが無いところを切り開くんですから。でも一回出しても中にまだ異物が残ってて、それで膿が生まれ続けてくるとなったら、やっぱり何度もそこを通っていくわけですよね。そうするとだんだん道ができてくる。で、道ができてくるとからだが覚えてくるって言うんですかね。ルートができてくるんですね。必ずそこから出てくるっていうね。それはやっぱりからだっていうか命がね、自在性を持っていることの現われだし、ある意味幸せなことだと思うんです。


 あのね、もしそれを肛門から出そうとしていたら、おそらくもっと大変な症状を経過していたんじゃないかと思うんですよ。皮膚から出してるからまだ楽なのかもしれないってね。激痛ですよ。もちろん。でも激痛だけれどもそれだけで済んでいると思ったほうがいいんじゃないか。もしそれを本来の正規のルートで出そうとしていたらもっと苦しかったかもしれない。からだはまだ一番良い方法で出そうとしますから、たしかに痛いかもしれないけれど「痛いで済んでいるだからいいでしょ」っていうことかもしれない。乱暴ですけどね。分かんないですよ? でも私はそう思うんですよ。たしかに痛いけれども、そうやっていち早くからだが外に出そうとしていることは、本当に一番良いことをからだがしてくれているんじゃないかって。

 からだってホントによくやってくれていると思うんです。そうやって私たちが身に付けた振る舞いのなかで何とか対処しようとして、ベストを尽くしてくれている。でも、からだにそれだけ負担がしわ寄せされているっていうことは、やっぱり振る舞いそのものを見直していかなくちゃいけないと思うんです。そこまでからだに負担をかけずに、もっとスムーズに出していく方法は無かったのかってことなんです。


 でも、歳を重ねてそのルートがはっきりしてくるとね、別のルートに変えるっていうことがホントに難しくなってくるんですよね。それこそすごい高熱を出して、七転八倒するくらいの経過を経ないと変わらないんです。からだの中のルートを根本から変えるっていうのは、劇的な命の組み替えを行わなくちゃいけないんで、ものすごい熱とものすごい排泄を通じながら、大病をしたりとか、劇的な経験を経たりとか、そういうことがどうしても必要になってくるんです。

 だから大病を経てガラッと変わっちゃう人とかいますよね。こういう言い方は危険なのかもしれないですけど、それは自分が変わろうとしていたのかも知れないですよね。その人は。「どうあっても自分が変わらなくちゃ、もうこれ以上はやっていけない」とどこかで心底思ったときに、そういうものすごい大病を経過して、もっと言ってしまえば利用して、自分の中のある振る舞いのルートを解体して再構築しようとしているのかもしれない。

 それで見事、大病から帰還できたときにはいろんなルートが切り替わって別人になって帰ってくるわけです。今までこう何だか気難しかった人がガラッと好々爺になっちゃったとか、すごく人に優しい振る舞いをするようになっちゃったとかっていうことがありますけど、あれはホントに生まれ変わったんだと思います。

 そういう反応を「排泄反応」って言いますけど、変わろうとしているときにはブワーッと出るんです。すごい熱が出て、吐いたり、下したり、汗をかいたり、それから感情が出てきたりする。昔の忘れていた記憶がブワーッと蘇って、泣きじゃくったり暴れたりね。今まで抑圧されていたもの、滞っていたもの、言ってみれば宿便みたいなものが一気にブワーッと出てくる。ひどいときにはそれですごいことになるんですけど、そういうことも含めて見ていくってことが整体の指導なんです。

⇒つづく

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2009年11月21日

「気話会」講話録('08.02) (5/9)

●「無知」と「麻痺」

 それでまあとにかくね、私たちがまず気をつけなくてはいけないことは「抑圧しない」ということなんです。流れるものをとどめないということですね。何か自分にとってあんまり良くないことが起きた時に、それを「見なかった」ことにしようとしてたり、「聞こえなかった」ことにしようとしてたりする自分に気がついたら、そうしない。

 あのね。「抑圧」っていうと無理やり力づくで抑え込むようなイメージがあるかもしれませんけど、究極の抑圧っていうのは、存在そのものを否定するっていうことなんですよ。究極のいじめはシカトなんです。無視ってことなんです。先ほどもマザーテレサの言葉を紹介しましたけれども、存在そのものを認めないっていう無視、無関心こそが愛の対極にあるものであり、それこそが抑圧の究極の形なんです。


 でもね、そういう人間の「無知の構造」「無視の構造」っていうのは、ある意味、正しい防衛本能なんですよ。人間には、都合の悪いことを気づかなかったふりをすることで自我を守っているという面があるんです。だから全部が悪いわけじゃない。「もう死んでしまったほうがいい!」っていうくらいの強烈なショックに出会った時に、人は気を失って倒れてみたり、記憶喪失になってみたりしますけど、それらはなんとか自分を守るための苦肉の策なんです。言ってみれば「無知の振る舞い」の「劇症型」みたいなもんです。気を失っちゃえば無かったことにできますからね。阪神淡路大震災のときも、とくに子どもに多かったそうですけど、あの瞬間の記憶だけがすっぽり抜け落ちてしまった人はたくさんいるんです。あまりにツライ出来事は、意識化できないように無意識の中でブロックしてしまう。

 だからこれは人間が生きてゆくための大切な能力でもあるんですけど、残念なことに人はそれを悪用し始めることがあるんですね。かなり故意的にいろいろなものを見落とし、世界を自分にとって都合が良いように解釈し始める。最初はそれで何とかなるかもしれないけれど、でもそれを続けていると、どんどん見ないようにしてきたことがたまってきて、そのうち整合性が保てなくなる。見るわけにはいかないものだらけで、物事のつながりがそこらじゅう目詰まり起こしているわけですから、「脳梗塞」ならぬ「認知梗塞」を起こしちゃうんです。それでどんどん現実の世界とズレてきちゃって、それがそのうち症状として現われてくる。そのしわ寄せが自分のからだや他人に行くんです。これは今まで見ないようにしてきたものが多ければ多いほど、ますますそういう傾向が加速する。

 もちろん、その人はその人でね、必死になって生きているわけです。そうでもしなければ生きていけないくらいツライ人生だったのかもしれない。でもね、そうやって見ないものだらけで、穴ぼこだらけの世界っていうのはホントに脆いんです。ホントに脆いから、いろんなものにすがるし、その脆さを補うために人を巻き込んだりし始めるんです。それは決して良いことだとは言えない。


 それで、そういう状態からその人の世界を変えていくためには、見ないようにしていることを、改めて気づかせてあげなくちゃいけないんです。でもそういうふうに見ないようにしているところっていうのは、本人は「必死に見ないようにしている」わけですから、そういうところを問い詰めていくとたいてい怒り出します。そりゃそうでしょう。せっかく気づかないようにしているところを、あえて気づかせようとしてくるんですからね。でも怒り出すんならまだ完全に麻痺しているわけじゃないんでマシなんです。本人がその部分に触れられて「ヤバイ」と感じているわけですからね。うすうす気づいているわけで変わる可能性がある。

 でも、こちらが何を言っているのかまったく理解できずに困惑してしまうようであれば、これを変えるのはなかなか大変です。それはそのポイントだけでなく、周辺にまでその麻痺が広がってしまっているってことなんですよね。だから連想すらできない。気配も感じられない。麻痺っていうのは変えるのが一番難しいんです。それで、私としてはそうなる前に、麻痺してしまう前に、少しでもそこの感覚を取り戻しておきたいんです。


 そのためには「あ、いま自分は見なかったことにしようとしている」ということにフッと気がついたときに、その部分をウムッと堪えてもう一度捉えなおす、向かいなおす、ということをしていかなくちゃいけないんです。大変なことです。きついです。でも必要なんです。少しずつでもいいからやっていくしかないんです。それでじゃあ、向かいなおして自覚してそれをどうするかっていうところで、さっき言ったみたいにそれを外に出す出し方、表現の仕方っていうことを身に付けていかなくちゃいけないんです。

 でも逆にね、出し方さえきちんと身に付けられればね、イヤなことと向き合うのもそれほど大変ではなくなっていくんですよ。だって、「見たくないこと」の「見たくなさ」っていうのは、それを知っても自分にはどうしようもないっていうあきらめにあるんですから。排泄の仕方、表現の仕方を自分の中でワザとして身に付けて、それと向き合っても自分はなんとか対処できると思えれば、ちゃんと向き合えるようになりますよ。今まで見えなかったものが見えるようになってくるんです。気付けなかったことにも気付けるようになってくるんです。

⇒つづく

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2009年11月14日

「気話会」講話録('08.02) (4/9)

●アタマのはざま

 そうやって人々のあいだっていうのは、何かがぐるぐる巡っているわけですけど、それがきちんとスムーズに巡っているっていうことはすごく大事なことなんです。だからたとえば自分が何かを見たり聞いたりしたときに、自分の中からワッと怒りのようなものが湧いてきたのなら、それはきちっと出していかなくちゃいけないんです。

 でも、それをそのまま外に表出してしまったら誰かを傷つけたりとか、物を壊したりとか、人を不幸にしてしまうこともある。じゃあそういう自分の中に湧き起こってきた怒りみたいなものを、どうやって外に表出するかっていうときに、何かこう形を変えるフィルターみたいなものが自分の中にないといけない。私はそれを茂木健一郎さんにならって「白魔術」なんて言ったりもしてますけど、そういうものが必要になってくる。


 一度自分の中で生まれたエネルギーは必ず外に出ますから、まず絶対抑えちゃいけないんです。これはもう繰り返しになりますけど、自分の中に生まれたエネルギーは絶対抑圧しちゃいけない。巡るもの、流れるものをとどめておくことは絶対できないんです。抑えると自分の思いもしなかったところから、思いもしない形で飛び出していく。そうすると完全に自分にコントロールできない状態になっちゃう。それは一番良くない。

 不満をずーっと我慢していると、まったく自分の空想のつかない形、さっき言ったみたいに思わずこぼしちゃうとか、つい壊しちゃうとか、意識しないところで鬱散が始まる。本人は「わざとじゃない!」って言いますけど、でもどう見たってあきらかに不満がたまって噴出しているんです。証拠にからだを見れば不満が鬱散している。

 でも言っておきますけど、その人が「わざとじゃない」って言っているのはホントなんです。だから責めるつもりはない。たしかにそれはホントなんだけど、その奥をもう少し、要求とか、エネルギーとかっていうのを見ていると、明らかにその前に何かあって、その不満がたまってたまってたまって、何か別の形で「わざとじゃない」っていう形で噴出している。それは見ているとホントに見事なもんです。


 それが外にね、物をぶち壊すみたいな感じで出るならまだいいんですけど、もっと不幸なのは自分のからだを壊すような、病気を作ったり、怪我を招いたりっていう形にもなるんです。引き起こすんです。そういうものを。だから抑圧しているものが強ければ強いほど、そういうものを招くんです。

 よく「幸薄い」とかって言いますけど、そういう人は自分の中にいろいろな欲望をホントに我慢して我慢して抑えつけちゃってるんですよね。なんかイメージありません?「幸薄い人」って。言いたいことも言わないで、人の言うことも聞くままで、趣味もなんだか内向的で…って(笑)。そうするとエネルギーが完全に抑圧されてしまっているんで、本人もまったくあずかり知らぬところから漏れ出てきちゃうんです。それがそういう不幸なことを招くんですよね。意識が許してくれないから、意識してないところから噴出する。そうしなきゃ鬱散がつかないんです。


 昔はそれがきちっとあるていどの社会的な儀式の中に含まれていたんです。なんかこう、いたじゃないですか。お祓いする人だとか。祈祷する人だとか。まぁいろんな人がいてね、よく分かんないことやるわけですよ。こう、「キエーーー!」とか叫んで、なんかワケの分かんない棒みたいなものをバサバサ振りまわしたりしてね。アタマじゃ分かんないです。アタマじゃ分かんないんですけど、その、自分にものすごく集中してね、流すことを一生懸命やってくれているその振る舞いのなかに、なにかこう満ちるというか、流れていくものがあるんですよ。その人のなかに。アタマじゃ分かんないです。何やってんのか分かんないですよ。そんなもの。簡単に分かるようなことじゃダメなんです。

 だから基本的に呪文みたいなものっていうのは、ワケの分かんないものですし、なんかこうサラサラと書いた御札みたいなものも何書いてあるのか分かんない。あれハッキリ書いてあったら、あんまり効果ないんですよ。分かりやす〜い文字で分かりやす〜いこと書いてあったら効果ないんです。アタマで納得してそこで解消されちゃいますからね。よくお蕎麦屋さんとかに貼ってある「親父の小言」みたいになっちゃう(笑)。


 野口先生のお話の中にも出てきますけどね。四国に呪文を唱えて人を治しちゃうおばあさんがいたんです。それが変な呪文で「大麦小豆二升五銭(おおむぎしょうずにしょうごせん)」とか何とかね、何だかチラシの見出しみたいな呪文なんですよ。で、そのおばあさんも意味は分かんないんですけど、でも唱えて手を当てていると治っちゃうもんだから、それで村の人たちを治していたんです。

 それである日お坊さんがね、不思議なおばあさんがいるって言うんで見に来てね。おまじない唱えながら治しているのを見てハッとして「それは違う!」って言って、それは「大麦小豆二升五銭」じゃなくて、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごうしん)」っていう金剛教のありがたいお言葉だって教えてあげたんです。意味と文言を。それで「そんなありがたいものだったんですね」っておばあさんもありがたがって感謝して、それで次の日からね、今度はちゃんとお坊さんに教わったとおりに神妙に呪文を唱えて手を当てたらね、治らなくなっちゃったんです(笑)。


 でね、それって何ていうかアタマになっちゃったんだと思うんです。自分でも何やってんだか分からないけれども、何だか分からないものをハッとやっているときは、それが効いていたものが、ありがたいお坊さんにありがたい教えを教えてもらって、「そういうことだったんだ!」って意味がはっきり分かったら、もう完全にアタマになっていたんですよね。アタマで唱えていた。

 今まではワケが分かんないから目の前の人に意識をずっと集中していたものが、今度はそのお題目のほうが大事になっちゃって、それで意識はすっかりお題目のほうに行っちゃった。気持ちがありがたいお題目ばっかり行っちゃって、目の前の人を見なくなっちゃった。そういうことが起きちゃう。アタマに還元しちゃいけないっていうところがある。だから「気って何ですか?」って言われると…「知らない」って(笑)。「気は気だ!」って野口先生が言ったのはね、やっぱりホントにこう正しい作法というのかな、正しい振る舞いなんだと思います。


 ちょっとずつね。かつて気と呼ばれていたものの片鱗は、科学の進歩と共に分かってきたわけですよ。たとえば微生物だってね。昔は気だったんです。気の仕業だったんです。でもそれはよく見てみたらなんか生き物がいると。お酒ができるっていうのは神様が何かやってできるもんだと思っていたのが、じつは微生物の発酵というものだったっていうのが分かってきた。

 でも分かったからってそれが気の全部じゃなくて、微生物だったり、マイナスイオンだったり、放射線だったり、低周波だったり、そういう人間の目には見えないよく分かんなかったものがいろいろ分かってきましたけど、それでもなお意識にのぼらないものがいくらだってありますよね。そういうものに対する敬意というか、「分からない」っていう自分の無能性、不能性を認めたところから、気の理解が始まると思うんですよね。

⇒つづく

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2009年11月10日

「気話会」講話録('08.02) (3/9)

●家族のあいだを巡るもの

 内田樹さんが『下流志向』っていう本のなかで言っていましたけど、やっぱりお父さんのお給料が振り込みになったあたりから、家族のあいだを巡るものが変わってきたっていうのもありますよね。昔はたとえば狩猟時代に男が外で狩りをしてきて、捕まえた獲物を家に持って帰って「さぁ獲ってきたぞ!」って言って「わーっ!」って家族みんなで喜んでいたのが、そういうものが時代とともにだんだん男の仕事が見えなくなってきてしまいましたよね。

 獲物が現金袋になって、現金袋が給与明細になって、っていうふうにどんどん仕事の価値が透明化してきてしまうと、「働いてきたんだぞ!」っていう男の人のアピールができない。銀行に直接振り込まれちゃったら自分がどれだけ外で苦労したのかっていうのが家族に伝わらないですよ。鹿一頭ボーンって持って帰れば、もう何も言わなくても「これが俺の仕事だ!」って言えるから黙っていたっていいんです。それで体じゅうに傷でも作っておけば誰も文句はないでしょう。「どうだ。父ちゃんすげぇだろ!」って。

 でも現金振込みみたいになってくると「どうだ!」って言えないですよね。それで結局自分が外でどれだけ家族のために身を粉にして働いてきたのかっていうことを認めてもらうためにはくたびれて帰るしかない。だから男は外で働いて帰ってきたら「ああ、くたびれた。今日も大変だった。部長のやつがさ…」って愚痴るしかないんです。「給料が安い」なんて普段から文句言われてればなおのことですよ(笑)。「俺はこれだけ頑張っているんだよ」っていうことをそういうふうにしかアピールできない。哀しいですね(笑)。


 でもね、当たり前ですけどそんなの奥さんだって黙っちゃいないですよね。「あたしだってどれだけ大変だと思ってんのよ!」って話です。家事やって掃除洗濯やって、育児もやって、PTAに出て…って。「あたしだって大変なのよ!」「俺だって大変なんだよ!」ってお互いの不平不満の言い合いで、どっちがより不満で、どっちがよりくたびれているのかっていう競争になる。

 そうして牽制しあって不満がたまっているほう、よりくたびれているほうがアドバンテージが取れるんです。より不満だったほうが優しくしてもらえる。「あたしのほうが大変だった」って奥さんがそのとき勝てば、旦那さんが奥さんの言うこと聞いて何かやってあげるとか、逆に旦那のほうが大変だなって思ったら、奥さんがちょっと優しくしてあげたりとか。


 子どもは見ているわけですよ。そうやって不平不満を言い合って、もっとも不満だった人間がみんなに優しくしてもらえるんだっていう事を見て覚えるんです。人々のあいだを巡っているものは「不快の表明」なんだと。そうしたら子どもは当然ですけど「だりぃよ。やってらんねぇーよ」とか言いながら、とにかく「俺は不快だ。なんとかしろ!」っていうことで人の注意を引いて、人から何かしてもらうっていうことを学びますよね。その振る舞いを。

 家庭の中で何が起きているかっていうことは、そのまま社会集団の中で起きていることの雛形ですからね。家庭の中で「ああ、共同体っていうのはこういうものが巡って成り立っているんだな」って思ったら、学校に行ったって、会社に行ったって、あらゆる社会に出て行ったときに、そこから空想しますよね。だから社会っていうのはそうしてできているって思ったら、立派なクレーマーになっていきます。


――見えないですよね。お父さんがどれだけホントに現実として働いているのかってことは。お母さんの仕事はまだ見えるかもしれませんけど。

 お父さんがどういう仕事をしているのか完全に見えなくなっちゃったっていうのはけっこう大きな問題だと思うんですよ。自分たちの生活がどんなものの上に成り立っているのかってことが見えなくなってきているということですからね。これは都市でも一緒ですけどね。私たちは自分が食べているものが、どこから来ているのかほとんど知りませんよね。都市が農村を忘れてしまっているように、家族の中でも父が忘れ去られてしまっている。

 そういう意味ではね、家族が自分たちの生活を成り立たせてくれているお父さんの働く姿を見れるような、もう少しそういう社会的なシステムを作るべきだと思うし、あるいはそこまでできないっていうんであれば、せめて、祝祭を設けるべきなんですよ。たとえばお父さんの給料日には、「お父さんありがとう!」って家族で感謝を述べるとかね。

 …あの、一応言っておきますけど、当然お母さんにもあるんですよ?(笑) お母さんに「いつもありがとう」って感謝を告げる日もね。今、国民的な祝祭が無くなってきちゃいましたからね。年中無休の二十四時間営業の国になってきちゃいましたから、そういう区切りが曖昧になってきちゃったんですよね。だから今の時代はね、そういうものは自分たちで作るしかないと思うんです。それぞれの家庭で文化行事やしきたりというものを作っちゃう。そういう「お父さんに感謝する日」「お母さんに感謝する日」っていうのをちょくちょく作って、鹿をボーンっとまではできないですけど、目に見える形でね。

 そういう意味では七面鳥を焼いたのをボンと出すみたいなことはすごく分かりやすいですよね。「これはお父さんが働いてきたお金で買ってきたのよ」って言って「お父さんに感謝して、みんなで美味しく食べましょう」っていうこととか。お母さんがやってくれていることに対して、「じゃあ今日はお母さんの代わりにみんなで家事掃除全部やるから、お母さんはそこで休んでて」って言って、子どもとお父さんが一生懸命家事をやるとか。それをお母さんが「あの二人で大丈夫かしら」ってドキドキしながら見てたりね。そういうその人が普段どういうことをやっているのかっていうことを意識化させることってときどき必要ですよね。


――こうしてゆっくり話をしていると「ああそうだな」って思えるけど、なんとなくバタバタ毎日過ごしていると、どうしてもそのまま過ごしてしまいますね。でもお父さんがみんなのためにどれだけ働いているのかって言うのはお母さんですからね。お母さんが言わないと子どもたちは分からないですよね。

 まぁ…そうなんですけどね。でも私は男なんで私の口からは言えない(笑)。

――それはやっぱりお父さんもお母さんのことをきちんと褒めるっていうか認めるってことが大事ですよね。女の人ってただ毎日毎日、掃除とか洗濯とか、次の日はまた汚れてまた掃除ってその繰り返しで「何のためにやってるんだろう…」って女の人って必ずそんなことをふと思うときがあると思うんです。でもそれはとても大事な仕事で、家族がまた次の日元気に仕事だ学校だって出かけていけるのは、それはお母さんのおかげだってみんなが思ったら、お母さんもすごく生き生きとやりがいを持って毎日を暮らせると思うんですけど…。

 そうですね。ホントにそうだと思います。自分の中でそういうものを喜びに変えられるっていうことが大事ですよね。そういう振る舞いを自分の中に身に付けている人なら、それがそのまま喜びになるんですけど…。でもそれを全員に期待するっていうのは、やっぱりちょっと難しい。

――だんだん歳をとってくるとね。そういうことも分かってくるんですけど…。

 酸いも甘いも噛み分けてくると「これこそ幸せなんだ」ってどこかで感じられるのかもしれないですけどね。やっぱり二十代、三十代っていう頃は、もう少しこう社会的な承認とか、そういうものを欲しますからね。何て言うんですかね。目に見えるものが欲しいんですよね。それで評価されたりしますからね。

 だんだん歳を重ねていくと、世の中の目に見えるものの奥にあるものが徐々に感じられるようになってきて、そうするとそういう名誉だとか社会的承認だとかいうようなものがどうでもよくなってくるんですよね。そんなことよりこういうことが大事なんだって、直観で見抜けるようになってきますけど、でもそういうのってやっぱりホントにいろいろな経験をして分かってくることなんで、なかなか二十代、三十代で「大事なんだ」って言われたって、「そんなこと言われたって褒められたいし…」って思いますよね。こう「形にして欲しい」っていうね。

 だからそれが祝祭みたいな形で、あれはやっぱり感謝を形に示すっていうそういう振る舞いですからね。そういうことをちょこちょこ設けることって大事なんだと思います。…でもこんなこと言って我ながらホントに「お前は一体いくつなんだ」って…(笑)。


――このまえ何で読んだのか忘れちゃったんですけど子育てのことが書いてあって、「あなたの家庭では人を褒めるという習慣がありますか?」っていう言葉があったんです。そういう中に子どもがいれば、その子は人を褒めるような子になっていくって。

 そういうのはホントに子どもは全部吸収するんですよね。「何が巡っているのか」って。さっきも「子どもはすごく気に敏感だ」って言いましたけど、気は流れていること、巡っていることがその本質で、だから家庭の中でね、何が巡っているのかっていうことはやっぱりスッと分かるんですよ。それで子どもはその振る舞いに参加しようとするんです。だからそれで言葉を覚えるわけですよね。子どもは何かやりとりされていると自分もそこに参加しようとする。人々のあいだを言葉が巡っている、やりとりされているっていうと子どもはそれを必死に覚えて自分もそこに参加しようとする。

 目の前で「これあげる」「ありがとう」とかやってると、自分もそこに参加して「ちょーだい」「ハイどーじょ」「ちょーだい」「ハイどーじょ」とかもう、延々と繰り返しますけど、あれはその、何て言うんでしょうね、その気の巡りの中に参加したいっていう本能的な願望というか、欲望がね、人間にはあるんですよね。その「現われ」が「学習能力」という形になって現われている。家庭の中でやりとりされているものが何であっても別に子どもにとっては初めて見るものですから、それが罵倒のやりとりで、不満の言い合いであれば、ああこうやって世の中はできているんだと。人々のあいだには不満が巡っているんだなと。で、同じように人を褒めるのが巡っていれば、ああ褒めるんだなと。そのままそこに参加して振る舞いを身に付けていくんですよね。

⇒つづく

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2009年11月05日

「気話会」講話録('08.02) (2/9)

●気の集まるところ

 このまえ雑誌の取材を受けたときに記者の方に「すいません。最後に質問があるんですけど」って言われたんで「はい」って答えたら「気って何ですか?」って言われて答えようが無くてね(笑)。まあたしかにね、こういう気功とか整体とかやっているっていうと誰もが疑問に持つことだと思います。「気って何ですか?」っていうね。

 私もこういう世界に飛び込んで「気がうんぬんかんぬん」って言われて何の事やらさっぱり分からないで説明受けても納得できないし、自分なりに「何だろう何だろう」って考え続けてね…。野口晴哉先生も本のなかで「気とは何か」ということについて語っていますけど、はっきりおっしゃっていますよね。「不識」って。「知らない」って。「気は気なり」ってそれしか言ってないんです。「ただ気とのみ解せり」って。

 それで私自身も改めて考えてね、「そうか。それが一番正しい態度なのかもしれないな」ってあるときふと思ったんです。気について「分かった」とか「こういうものだ」とか、迂闊に言ってしまうような態度が一番本質からズレてしまうんじゃないかって思ったんです。「分からない。分からない。」って言いながら追い続けることだけが、気について考える「正しい振る舞い」なんじゃないかなって思うんです。分かったつもりになった瞬間にスルッと逃げていっちゃうみたいなものじゃないかと思って。


 で、そういう気っていうモノというかコトというか、そういうものに関して、生命というのは本当に全部感じているんですよね。すべて。人間でも子どもっていうのはすごくそういうのに敏感でね、何がその場で集中しているか、働いているかっていうことにすごく敏感です。人間の子どもっていうのは本当に無力の状態で生まれてきて、親や周りの大人に意識を集中してもらわないとすぐにも死んじゃう存在なんですよね。周りに世話してもらわなきゃいけませんから、周りの気を引くことだけが自分が生き延びるすべなんです。

 だから気を引けているかどうか、気が集中しているかどうかっていうことに、もうとにかく敏感なんです。それができなきゃ死んじゃうんですから。だから子どもの振る舞いを見ていると、まさにみんなの気がフッと集まるようなことをするし、どこにみんなの気が集中しているかっていうことに、すごく敏感に反応する。

 子どもたちを見ていると、だいたいみんなママのお財布とかケータイとか好きなんですね。やっぱりママの気が集中しているんですよ。そういうところは。見ていると本当にちっちゃい赤ちゃんでもそう。何が大人の気を引いているのかっていうことにフッと気がいって、そのみんなの気を集めるものを自分の中に取り入れようとするんです。

 だからそれをほかの子が持っていれば欲しがって奪うし、それで奪うと、みんなの気がさらにフッと集まるから、どんどん奪い合いになっちゃったりする。それはモノそのものじゃなくてみんなの集中を奪い合っているんですよね。だから誰も見向きもしなくなればあっさり手放したりするんです。それは別にモノに興味があるわけじゃないからなんです。

 そういうところを見て、それをフッとずらすとか誘導するとかいうことが、整体の子どもと接するときの気の使い方なんです。そこでどういうことが起きているのか、どういう気の流れがあるのかっていうところで気の流れをつかむ。そしてそれをフッと逸らしたり、フッと変える。そうしてその子のリズムをパッと変えたりね。そういうのが整体でやっていることなんです。だから子どもと接しているとすごく勉強になります。


 もちろん大人でもそういうのはあるんですけどね。でも大人になるとアタマが発達して言葉を使うんで、「気を感じて動く」っていうところから「アタマで考える」「理論で考える」っていうほうにシフトしてくる。そうすると気を感じて動くっていうよりはアタマで理由つけて動くようになってきて、ちょっと振る舞いが変わってくる。気で動くのと違う世界になってくる。理屈で動く世界。

 こんなこと言っちゃ失礼ですけど、それでもあんまりアタマ使わないような人って、やっぱりすごく気に敏感でね(笑)。そういう振る舞いをするんですよ。子どもみたいな振る舞いって言えばそういうことなんですけど、でもそう単純な話じゃなくてね。平然とすごい仕事をしちゃうんです。何て言うんですかね…。これはホントに無意識なんですけど、みんなの気が集まるようなことをするんですよ。で、みんなの気が集まるようなところにスッと動く。

 だから「何でそんなことをやるの?」ってみんなが思うようなことをあえてやったり、今それをされるとみんな困るっていうときに失敗したり、あるいは逆にみんながホッとするようなタイミングで何かをしたり。なぜその人がそういうことするかっていうと、やっぱりその場の気の流れっていうものを感じていて、それに敏感に反応しているだけなんです。アタマでは分かっていなくても、からだで感じてる。

 だからそういう人はなぜか分からないけど場の中心にいるっていうことが多いですよね。みんなその理由は分からないんだけど、何となくその人が場の中心にいる。その人がいない場であってもその人が話題の中心になっていたりする。それはやっぱりある意味すごいことなんです。意図せずそういうことができるって。


 でもね、それが共同体全体のために動いているうちはすごく大事な役割を担っているんですけど、これが自分本位になってきたらこれほどいやらしい振る舞いはありませんよ。全部が「自分のため」になってくるんですから。それも無意識に。その人はアタマじゃない。からだで動いていますから、パッとみんなの気が集まるようなことを本能的にやってしまう。みんなが困るようなところで物を壊しちゃうとかね。でも壊そうと思って壊してるんじゃない。完全に無意識なんです。なんかよく分かんないけど、そういうところで裾が引っかかったり、つまづいたり、うっかり忘れ物したりして、みんなが困っちゃうような状況を作る。当然ですけど非難される。当たり前ですよね。でもその集中を浴びているっていうことで、からだは満ちるんですよ。ちょっと怖ろしいですけどね。

 マザーテレサが「愛の反対は無関心です」って言いましたけど、愛だって憎しみだって、誰かに自分のことを徹底的に集中して見てもらっているっていう意味では同じなんです。そういう気の観点からすると集中されているっていう意味では何も差がない。「集中されているか、されていないか」っていうところが命にとっては大きな問題なんです。

 だから憎まれるようなことばっかりやって、人から「何であの人はあんなことばっかりやるんだ?」って思われても、その人はそういうやり方でしか人の気を集めるやり方を学ばなかったんですよ。人から本気で褒められるってなかなか難しいですけど、でも人から本気で憎まれるって簡単なんです。それでその人がいつかどこかで身に付けちゃったんですよ。「あ、こうやればみんなの気を集中できるな」って。安易な方法なんですけどね。「困らせる」って…。

――子どもなんかやりますよね。

 そうですね。子どもの場合は基本的に自分本位であることが多いわけですけど、それはやっぱりそういうことがまだ全然重要じゃないからです。というよりまだ空想がつかないんですよね。他人が存在するということが。不幸にも幼少時にそういう形でしか周りの大人の注意を集められなかったりするとね、それしかやり方が分からなくなっちゃう。はっきり言いますけどそれは大人が悪いですよ。罪ですよ。それでそういうやり方でいいんだって思っちゃうと、そういう大人になっちゃう。

 でもそれってやっぱり周りとの関係を考えたときにはあまり幸せなことじゃないですよね。それでもまあなんとかやっていけるんですけどね。そうやって集まっていれば。でもその人がそれでまったく完全に孤立して誰からも関心を得られなくなると、ホントにガターンと落ちますけど…。でも憎まれている限りはその人は元気なんです。そういう人はね。

――いくつくらいまでの体験が大事なんでしょうか?

 う〜ん…原体験っていう意味では、ホントに小さい頃からですけど…。まあ、少なくとも6,7歳くらいまでのあいだにそういう場の中にいさせてあげるってことは大事なんじゃないでしょうかね。これはね、教えるんじゃないんですよ。ただそういう場に浸っているっていうことが大事なんです。だから子どもに対しては教えるんじゃなくて、大人同士の間でそういう作法を演じるって言うのかな…演じるって言うのも変なんですけど。子どもは見て全部吸収していきますから。大人同士がやりとりしているときに、どうやってそこでコミュニケーションが起きているのかっていう作法を丸ごと学びますから、目の前で「コミュニケーションというのはこういうふうにやるんだ」って実践していくしかないんです。

⇒つづく

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2009年11月02日

「気話会」講話録('08.02) (1/9)

以前の記事で「淀みや溜まりがあるということが化膿を起こす原因である」という夏井さんの説に触れたら、ふと自分が昔しゃべった講義録を思い出した。

それで、遅々としてテープ起こしの進んでいない講義録のなかでも、奇跡的に編集まで済んでいる1年半以上前の講義録を引っ張り出して読み直してみたら、まったく同じことを言っていた。

う〜む…やはりな…
てゆうかなかなか良いこと言ってるではないか、RYO先生(笑)。


ずいぶん前にも書いたけれど、私はしゃべっているときはほとんど何かに乗り移られている状態なので、しゃべりながら自分で「おお、なるほど!」とか思っているくらいで、あんまり主体性というものを感じたことがない。

私は「しゃべらされている」だけである。

「誰に」なのかは分からない。

それは私自身の「内なる何か」であるとも言えるだろうし、私の話を聞きとめようと熱心にこちらに耳を傾けてくださっている受講者たちの「何か」であるとも言えるだろうし、あるいはそれら全体を含めた場そのものの「何か」であるとも言えるだろう。

だから私の言葉に私自身が「おお、なるほど!」と驚いていたとしても、あまり変なことではないのだ。…たぶん。

私の言葉は私のものではない。

おかげで「波としての身体」とか「スピリチュアルニッポン」とか「抜き型としてのカルマ」とか、自分自身もしゃべっていて吃驚仰天の突飛なアイデアが講座中にポンポン飛び出てくるのだけれど、あんまり突拍子すぎるのでこういうところにはとても書けない。

なので、ゆっくりシコシコとひそかにテープ起こしをしては、「ほう、なるほど」とか言って一人楽しんでいるのであるが、それがまったく遅々として進まないので、まぁまたいずれもう少し熟成した形で、いつかどこかで出てくるのを待つしかないかもしれない。

言葉はナマモノ。気まぐれなのだ。


それでまあ、今回のこれもまた何かのご縁かと思って、その講義録をここにアップしようと思うので、ご興味のある方はどうぞご覧になってくださいな。

1年半以上前の講義録ではあるけれど、まぁだいたい今しゃべっていることとそう変わるものでもないので、ほとんど修正せずにアップします。

いちおう以前にアップした講義録の続きというか下の句のような感じになっているので、内容がかぶっているところもあるけれど、もしだったらそちらも合わせて読むと分かりやすいかもしれません。(以前の講義録はこちらからどうぞ)

全9回に分けてちょくちょくアップしていくけれど、ホントに勝手なことをベラベラしゃべっているだけなので、いろんなところツッコミ無しでよろしゅうお願いいたします。

それではどうぞ。


「気話会」講話録('08.02) (1/9)

●意識と一体感

 このまえも微生物の話をしたと思いますけれども、微生物っていうのは滞ったところに発生するんです。たとえば死体が腐るっていうのもそうですけど、死んだっていうのは流れが止んでしまったっていうことなんですよね。生きるっていうのは流れ続けること、変わり続けることですから、死んでしまった動物っていうのは流れが止んでしまったってことなんです。入ってくるものも出ていくものも無くなってしまって、ただの物体になってしまった瞬間に、それを流れのなかに返そうとする力が働き始める。

 死んで自ら流れのなかに身を置くことを止めた命を、今度は外から働きかける力がワーッとやって来て、それをバラバラに分解してまた流れのなかに返そうとする。バラバラに分解されると土に返って、土に返ったものがまた植物に吸い込まれてっていうふうに、それはまた別の命のなかに還元されてゆく。その働きを担っているのが微生物たちなわけです。

 不思議なんですけど、そういう流れが止んでしまったところは、必ずそうやって何か別の力が働いて再び流れのなかに返そうとするんです。病気のことを「病む」って言いますけど、からだの中でも同じように流れが滞って止んでしまったところが病んでくるんです。それで発熱したり、排泄したりとかしますけど、そういうところに菌やウィルスみたいな微生物が繁殖するっていうのは、やっぱり何かそこを分解して流れに返そうとしているんじゃないかって思うんですよ。滞ってしまったものをね。

 でもそれは命からすると痛いんですよね。痛いっていうか違和感を感じるんです。何かこう自分のなかの原理じゃないもの、外の世界の原理が自分のなかで働き始めると、それは異質なものなんで、それは命にとっては違和感を感じるんです。その強烈なのが「痛い」ってことなんですね。


 「一体感」っていうのは、自分の手の指先から足の指先まで丸ごと全部「自分」という同じ一つの原理で働いているときに感じるものですよね。でもね、変な言葉だと思うんです。だって一体だったら何も感じないですよ。一体なんですからね。まあいいんですけど。それがひとたび自分と違うリズムで働き始めたり、違う原理で働き始めると、たとえば心臓がバクバクいってるとか、胃に穴が空いたとかっていうと、とたんにその部分がフッと意識にのぼるんですね。「うっ!動悸が!」とか「うっ!胃が痛い!」とかいって、その部分が意識にのぼるっていうのは一体感がなくなっちゃった状態なんです。

 だからホントは健康な状態っていうのは自分のからだのなかを何も感じない状態なんです。自分のなかのいろいろな内臓、胃だとか心臓だとか肝臓だとか腸だとか、それらが一体になって動いているうちは何も感じないんです。まったく意識にのぼらない。自分のからだを感じようとしてもどこに何があるのか分からないんです。それは幸せなんです。でもそれがひとたび不調和を起こすと、「ここに胃袋がある」とか「腸がある」とか、そういうのが急に意識にのぼってくる。それは何かがズレたんです。調和が乱れたときに、それが意識にのぼる。


 人間の意識っていうのはそういう働きをもっているんです。差異とか違いとかズレとかを感じるようにできている。のんべんだらりと同じものが続いていると、そこに意識って生まれないんです。ひとたびそこに色が違うとか形が違うっていうふうに差異が生まれると、そこに感覚が生まれて意識が生まれるんです。上も下も右も左もないところには感覚も生まれないし、意識も生まれない。それは人間のアタマの働きの根本原理なんで、だからあんまりアタマばっかり働きはじめると、違いばかりが強調されてきて疎外感が増えていくんです。一体感ってアタマでは感じられないんです。感じられないっていうのかな…。シュタイナーも言ってますけど、意識っていうのは反感作用の働きなんです。

 それはつまり自分から切り離して客観的に捉えるっていうことで、だからアタマっていうのは基本的に違いを感じる器官なんです。アタマでいっくら何を考えてもそこから一体感は得られないんです。だから幸せなときっていうのは幸せなことに気づかないっていうのが本当なのかもしれないですね。失くしてみて初めて気づくとかね。ズレてみて初めて「ああ、今まで幸せだったんだ。」っていうことを感じなおすものかもしれない。


 人間がこれだけはっきりした意識を持ったっていうのは、その「ズレ」を認識するためにアタマをこれだけ発達させてきたわけですよね。そういう意味では人間存在というものがそういうものを認識したがっているんだとも言える。世界を分析したがっている。分けてみたい。世界を。バラバラに。で、できる限りバラバラにしてみてどうなっているのか仕組みを知りたいっていう命の願望が、人間の脳みそをこれだけ発達させてきたのかもしれない。

 でもバラバラにしていくだけじゃ物事の本質って分からないこともたくさんあるんですよね。たとえば目の前に川が流れていたとして、「川って何だろう?」と思った時に、目の前の川の水をコップですくって研究室に持ち帰って、その成分を一生懸命調べてみたところで「川の本質」というものは分かりませんよね。水は分かっても川は分からない。川の水は、川から離れてしまった瞬間に、その本質から外れちゃっているんです。もう川じゃないんです。ただの水なんです。川を知ろうと思ったら、やっぱり川を丸ごと全部捉えなきゃ決して分からない。

 生命というものもまったく一緒で、やっぱり切り離して調べていったところで、決して分かるものじゃないんですよね。もちろん要素は分かりますよ? 今の分析化学であれば要素は極めて細かいところまで分かるでしょう。でもそれらが膨大な量集まって、そして複雑に作用しあった時に現れてくる生命という現象は、そういうアプローチでは決して分からないんです。アタマでは…というより言葉では捉えきれないものがあるんです。

⇒つづく

posted by RYO at 07:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 講義録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする