2009年10月23日

愛のシャワー

ずっと忙しくて、今日もへろへろと帰ってきてパソコンを開いたら、内田樹先生がブログでとても大事なことを書いていたので、「そのとおり!」と激しく頷きながらビールをぐびぐびと煽る。

「教育=贈与」。そうだそうだ。その通りだ。

資本主義思想が徹底して普及して以来、人間の思考はきわめて「貧困的」になってやしないか。

現代人は考え方が「ケチ」だ。すぐ「取引」しようとする。すべてが「取引」の発想だ。

ダメだろう、それじゃ!

内田先生が書いているように、『「贈与を受けた」という原体験をもつ人しか「反対給付の義務」を感じない。』

シュタイナーもまた、「幼少時に充分に愛されて育った子どもは、晩年に人を祝福することができる人間になる」と言う。

愛の贈与をたっぷり受けた人間こそが、他人に愛のお返しをすることができるのだ。

幼少時に、たっぷりと「贈与のシャワー」を浴びる経験がどれだけ大事なことか。

もういいから四の五の言わずに、子どもにはイヤというほど「贈与のシャワー」を浴びせてやるんだ。ケチケチするな。

子どもは愛のシャワーを全身で浴びながら、「愛されている」なんて気付きもしないのだ。

子どもは愛のシャワーを全身で浴びながら、「ありがとう」なんて言わずに育つのだ。

それが当たり前だと思っていること。そんなこと思いもしないこと。

それはどれだけ幸福なことだろう。

すべての子どもはいつかやがてあるとき気付く。

自分がどれだけ愛されて育ったのかを。

「自分は愛されたことなどない」という人は、自分が愛された経験をまだ忘れているだけだ。

人は皆、まったくの無力で生まれてくる。

その無力な子であったあなたが今生きている。

それこそがすでに誰かに愛された証拠じゃないか。

お腹の空いたあなたにお乳を与え、寒さに震えるあなたに毛布を与え、表現を知らないあなたに言葉を与え、寂しさに泣くあなたに抱擁と接吻を与えた人がいる。

この世に生を受けて以来、自分に向かったすべての愛のベクトルと、その始点を空想しろ。

どれだけ多くの愛が自分に向かったか。

その圧倒的な事実の前に、途方に暮れてみろ。

それに気付いたら、今度はそれが「自分の番である」ということなのだ。

「自分の番である」ということに気付いた人間。

私はそんな人を見るたびに、ただただ頭が下がる。

私もそんな人の後に続きたいと思う。

posted by RYO at 00:09| Comment(24) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月06日

お肌の生態系

忙しさにかまけていたら、ブログの更新がずいぶん滞ってしまった。

それで「そろそろアップしなきゃな…」なんて考えていたら、家のパソコンが頓死。 ゲゲ。

ついこないだモバイルPCが頓死してネットブックを購入したばかりだというのに、相次いで逝ってしまうとは果たしていかなることか。

それで時間を見つけて頓死したパソコンを担いて修理窓口まで持っていくと、修理に出すと一ヶ月はかかるという。

買ってまだ一年半だし持って帰っても仕方がないのでいちおう預けるだけ預けるが、「そんなに悠長に構えていられるか」と、その足で大型家電店に新しいパソコンを買いに行く。

一ヶ月後にウィンドウズの新しいOSが出るということもあって、どのパソコンもほとんど叩き売り状態だったので、適当なものを見つくろって「これ頂戴」と即買い。

Vistaにはまったく良い思い出がないが、もう新しいOSが出るという時にまた買うことになるとは思わなかった。「7」が出たら、さっさとアップグレードしよう。

でも不幸中の幸いだったのは、頓死寸前にデータのバックアップを取っておいたことだ。

頓死の気配を無意識に感じていたのだろうか。とりあえず「えらいぞオレ」と褒めておく。

データやら設定やらの引っ越しに2日ほどかけて(手動)、何とかほぼ以前の状態に戻ってきたのでブログの記事をカタカタと書き始める。


ということで、そんなこんなの合間に『傷はぜったい消毒するな』(夏井睦、光文社新書、2009)を読了。

最初に書店で見た時は、その挑発的なタイトルに「またキワモノの類か」と思ったのだけれど、副題名に「生態系としての皮膚の科学」とあるのを見て「お?」と思って手に取った。

そしてパラパラと見てみたら、これがなかなかどうしてハードな内容の本だし、何より私の気になるキーワードがあちこちに散見されたので、これは「買い」だと思ってさっそく購入したのである。

私もこの本を読むまでまったく知らなかったのだけれど、この著者の夏井さんの提唱する「消毒しない治療」(湿潤治療)はじょじょに広がりつつあるそうである。

とくに火傷の治療に関してはこの本の中でもずいぶん症例も出して、消毒をしないことの意味と効果を説いている。


私は大学で醸造学を専攻した関係で、微生物に触れる機会も多く、消毒や殺菌といった作業もそれなりに身近であった。

だからその重要性というのも、いちおうよく分かっているつもりである。

微生物の分離や純粋培養なんて、消毒殺菌作業無しではまず成り立たない。

「酵母を分離せよ」と命令されて、「へへん、ちょろいちょろい」と無菌箱の中に手を突っ込んでぐりぐりと培地に菌をなすりつけて培養したら、ものの見事にグラデーション豊かな培地が仕上がり、目的の酵母の影も形もないなんていうことはしょっちゅうであった。(つまりは雑菌だらけ)

本当に菌や微生物というのはそこら中にいるわけで、ほんのわずかの油断で大繁殖する。

だから微生物を利用した実験や研究などは、とにかく一に殺菌、二に殺菌、三四も殺菌、五も殺菌というくらい徹底して殺菌消毒をする。

けれども、それはあくまで実験器具やら何やらの無生物に対する行為に関してであり、生体に関しての消毒行為というのは、研究という目的があるならばやむを得ないとしても、健康という面からはいかがなものだろうかと思っていた。


私たちの皮膚にはふだんから常在菌というものがいて、多様な菌がひしめきあって生きている。そのなかには人間にとっていい奴も悪い奴もいて、それがごちゃごちゃやって生きているのだ。

それはある意味、もう一つの生態系と呼んでもいいほどに絶妙なバランスのうえに成り立っているものである。

そういった絶妙なバランスの上に成り立っている生態系に対して、無差別に行なう「殺菌消毒」という行為は、正直かなり乱暴な行為である。

それは言ってみれば、とあるアフガニスタンの山村にテロリストが潜伏しているからと言って、その山域一帯にB-2爆撃機を飛ばして絨毯爆撃を加えるような、そんな行為にも喩えられる。

たしかにそれでテロリストのグループは壊滅するかもしれないが、でもその土地とその土地に住んでいるそれ以外の人々はどうなるのだ、とそんなことを思わないではいられない。


生態系というのは、「多様性」という戦略を採用した生命活動の現われであるが、それはいろんな性質や好みを持ったものが共生することで、いろんな事象や環境の変化に対して、全体で弾力的に対処できるということがその強みである。

いろんなものがごちゃごちゃやっていると、「それなりのところに落ち着く」ということが自ずと起こるわけで、それこそが生命が採用したもっともエコロジーな戦略なのだ。

そういう環境の中では一事が万事、おたがいに影響を及ぼし合い、バランスを取り合っているので、外部からの介入的な操作に対して「負のフィードバック(ホメオスタシス・恒常性)」が働くようになる。

それが生態系というシステムだ。


そういうことを考えると、「良くない奴がいるから、そこら一帯にいる奴をみんな一斉排除する」という方法は、なんだかずいぶん無機的で観念的で暴力的で、健康とかあるいは治安維持といった観点から捉えれば、かなりリスキーなことであるように思える。

一斉排除して誰もいなくなったはいいけれど、そのあとの復興作業のことは考えているのだろうか。だってそのあとにそこにどんな菌がやってきて繁殖するかは誰にも分からない。

それなりにみんなでごちゃごちゃやっていれば、新参者がやってきたときにも「お?なんだアイツは?」と誰かが気付いて、しばらくごちゃごちゃとやりあっているうちに追っ払ってくれるかもしれないが、ほとんど誰もいないんなら、それこそ新参者もシメシメと思ってせっせと繁殖に精を出すに決まっている。

それを防ぐためには消毒後の徹底した治安維持管理が必要になるわけだけれど、どんなに徹底して管理したところで、先ほども言ったように微生物などいたるところにいるわけで、その侵入を防ぐことはまず不可能である。


私としては、そんなにエネルギーを蕩尽し浪費する方法は、やはりどこか無理があるのではないかと、そんなことを思うのだ。

もう少し、「任せる」とか「委ねる」っていう方法も取れるんじゃないかと。

そこに生態系という自治体がもともとあるのだから、その自治活動が健全に働くように支援することのほうがはるかにエコロジーだし、エコノミーじゃないかと。

それに何よりそのほうがサスティナブル(永続的)じゃないかと。

だってそこで起きていることは、秩序形成のために外部からエネルギーをどんどん注ぎ込むという「消費」や「消耗」などではなく、内発的で自律的な「成長」や「適応」といったダイナミズムなんだから。

最近の研究では、「うがい薬でうがいするより水だけでうがいした方が風邪の予防になる」(⇒News)なんていう、何だか不思議な統計結果も出ているが、そうなると私たちは消毒という作業でいったい何をやっているのかよく分らなくなってくる。


だから私はいつも皆さんには「発酵食品を食べるといい」とか、さらには「自家製のぬか漬けを作って毎日ぬか床をかき混ぜるともっといいです」とか、皮膚上の生態系を活発にするようなそんな指導をしてきた。

活発な生態系はきわめて活発なホメオスタシスを発揮する。

お肌にそんな生態系をはぐくんでいけばいいじゃないか。

生態系さえ活発に働いていれば、環境の変化や外部からの侵入に対して、弾力的なレスポンスを返すことができるようになるので、急激な侵略や感染といったものをかなりの程度まで避けられるだろう。

エコロジー(生態学)とは、そういうことなのではなかろうか。

「消毒」という作業は強力ゆえにその効果が分かりやすくまた重宝しやすいが、長い目で見た時には、その使いどころというものをきちんと考えるべきだろう。


今回この本を読んで一番おもしろく、またビックリしたのは、「化膿の原因は、傷口からバイ菌が侵入して繁殖することではない」ということであった。

著者の夏井さんは、「もしそうだとしたら、切れ痔の人の傷口が化膿しないのが説明できない」と言うのである。

おお、なるほど。

大便というものが、自然界を広く見渡しても屈指の「細菌パラダイス」であることは説明するまでもないだろう。

そんなものがしょっちゅう通過するうえに、それほど清潔に保たれているとはお世辞にも言い難い箇所において、傷口がまず膿むことがないのは何故か、という問いを立てるのである。

ふ〜む、ナルホドノコト。

もし傷口が化膿することを恐れるなら、切れ痔に向かってマキロンをプシューッと吹き付けるべきなのだが、そんな「恐ろしいこと」(笑)はおそらく誰もやっていないだろう。

だが、にもかかわらず膿まないということは、何か別の原因があるということなのである。

夏井さんは言う。

「細菌が繁殖するためには条件があって、それは淀みや溜まりがあるということだ。きちんと循環している場所には繁殖しない。そして細菌は必ずしも傷口から侵入しているわけではなく、すでに体内に侵入して巡っている細菌がそこにやってくるということもある。だから傷口からの細菌の侵入よりもむしろ、そこに細菌が繁殖できるような淀みや溜まりがあるということのほうが問題なのだ。」

その個所を読んだとき、私は思わず飛び上がってしまった。

「なんだ、いつも私が言っている事じゃないか!」

まさかこのような角度から私が考えていることを裏づけてくれる言葉を聞くとは思わなかったので、とても嬉しくなってしまった。いやぁ心強いなぁ。


流水中にも細菌はごくわずかに存在するが、流れ続けている限りそれは繁殖しない。

それが淀みや溜まりにいたって初めて繁殖を開始するように、人間のからだにおいてもやはり同じことなのだ。傷が化膿するのはそこに溜まりや淀みがあるからで、ゆえにただ切れただけでスムーズに出血している傷口は膿むことがない。

新型インフルエンザの大流行が懸念されているが、とりあえず私たちにできることは、この身に淀みや溜まりを作らないということだろうと私は思う。

水の循環を良くし、呼吸の循環を良くし、食べ物の循環を良くし、想念の循環を良くしておくということ。

皆さんもぜひ、日々とどまることなく巡りを良くし、そしてお肌に「マイ生態系」を育てて、ときにそれを撫でたり舐めたり褒めたりしながら、ペットのようにパートナーのように愛でつつ暮らしていけば、きっととても元気に健康的に過ごせるんじゃないかと思うのだけれど、いかがだろうか?

まぁ、その振る舞いが他人に「健全」と見られるかどうかは微妙なところだが…(笑)。

posted by RYO at 20:24| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。