2009年09月12日

秋 雑感

夏が過ぎ、秋の気配がしはじめて、なんとなく時の移り変わりを感じさせる季節。

今年はなんだか涼しく短い夏ではあったけれども、夕暮れ時の草葉の陰から虫の音が聞こえたり、夜陰の風に冷たい秋の匂いを嗅ぐと、それでもやはり確かに夏であったと、そんなことをふと思う。

季節の中では秋が一番好きだ。

盛りを過ぎ、その余韻をまだ残しながらも、やがて訪れる静かな時の気配を感じさせる季節。

表に現われその姿かたちを謳歌していた命が、反転し内側に向かい始める季節。

ちょいとメランコリックでノスタルジックでセンチメンタルな気分に、内面がいろめく。


この秋で、ずっと受けていた野口体操のクラスが終了することになった。

クラス開講以来ずっと毎週受講していたので、結局まるまる参加していたことになる。

講座の帰り道、お世話になった羽鳥先生に駅までご同行させていただいたとき、「終わってしまうのは寂しいですねぇ…」と先生につぶやいたら、「あら、あなたはもうそろそろ自分でやりなさい」とピシャリと厳しいご指導をいただく。

「いやいやそんな、自分はまだまだです…」なんてことをもにゃもにゃ答えながら、なんだかそういえば最近そんな言葉をあちこちで耳にするような…とそんなことを思う。

でも未熟な私にはピシャリとご叱正いただける先達がまだまだ必要に思えてならない。

「自然に貞(き)けばよい」とは、野口体操の創始者、野口三千三(みちぞう)先生のお言葉。


何の采配か、終わってしまう野口体操と同じ曜日にプロセスワークの連続講座があるというので、これは「こちらに出ろ」ということかしらと思ってさっそく申し込んだ。

プロセスワークは野口体操とはまた毛並みが異なるが(てゆうか心理学だし)、やはり同じようにある程度からだを動かしながら自分を探っていく営みでもあるし、面白そうだと思って今からわくわくしている。

なによりプロセスワークは、いま私の中でもっとも関心を持っているメソッドの一つである。


プロセスワークは、その舞台となるのが人間の営みのなかでも整体が取り扱うところときわめて近いと思っているのだけれど、その方法というかアプローチには大きく異なるスタンスがある。

それはオーソリティーとデモクラシーの違いと言えばいいだろうか。

別にどちらが良いとか悪いとかいうことではない。それぞれに長短があるというだけのことである。

整体はその指導のスタイルからしてオーソリティーのアプローチを採用している。

整体の基本である愉気と活元運動、とくに活元運動はまさにデモクラシーではあるが、指導そのものは多くの治療や指導の現場がそうであるように、オーソリティーのアプローチをとっている。

対してプロセスワークは、創始者であるミンデルが言うように、徹底したデモクラシーのアプローチをとる。(それをミンデルは「ディープデモクラシー」と呼ぶ。)

先にも書いたが、そのどちらが良いとか悪いとか言いたいわけではない。どちらを採用するかは指導者の好みと目的と状況によるだろう。

私自身の好みを言わせてもらえば、私はまず手放しでデモクラシーをこよなく愛している。

けれどもオーソリティーもまたやはりこよなく愛している。 ただそれが慎み深くさえあれば。

いや、むしろそのオーソリティーの「慎み深さ」によっては、私は限りなくオーソリティーを愛するかもしれない。ほとんどエロスに近いほどに。

だが改めて「どちらのスタンスを目指すのか」と問われれば、私はオーソリティーの先にデモクラシーを見る。

それは整体という限られた世界の中だけで語れば、愉気と活元だけでやってゆくということにも重なるだろう。

だがしかし、それだけで果たしてどこまで通じるのか。

現実として何がどこまでできるのか。いや、そもそも何かしようとなんてするべきなのか。

プロセスワークが目指そうとしているその境地を、私も見てみたい気がする。


竹内敏晴さんが亡くなったという知らせを知人から聞く。

大学時代に出会った竹内さんの著書『ことばが劈(ひら)かれるとき』(竹内敏晴、ちくま文庫、1988)には、ずいぶんいろんなことを考えさせられ、また気づきを与えられた。

思えば「言葉」というものとは、物心ついた頃から、ときに裏切られ、ときに励まされたりしながら、くんずほぐれつ付き合ってきたが、その偉大な先達の一人として、竹内敏晴という人がいた。

言葉を発する主体があり、発せられた言葉もまた主体となるということ。

人は同時に複数のものに注意を向けられないゆえに、多くの人は「発せられた言葉」「語られた自分」を主体と認識するが、そこで置き去りにされているのが「それを発している主体」、つまりからだそのものである。

「私」を語る「からだ」に目を向けよ。 そこに忘れられた「私」がいる。

竹内敏晴さんに教わった大事な教え。

思えば、この1年の間に多くの偉大な先人と呼べる方々が次々と亡くなった。

今はただその先人たちに感謝の念を現わすとともにご冥福を祈るだけである。合掌。


「パワー」ということが、たびたび私のテーマになる。

それだけ世には暴力性があふれているということなのだろう。

世の中で「脱力が大事だ」と言われ、脱力の有用性が語られるようになって久しい。

だがしかし、どんな人間にも潜んでいる「パワーへの欲望」の自覚を伴わない脱力は、「パワーへの欲望」の潜在化を助長することになる。

「私を認めよ」「私の思い通りになれ」「私に見合った報酬(賞賛)をよこせ」……。

表で脱力化され、カタチを持つことを封じられた「パワーへの欲望」は、そうしてその舞台を潜在意識下に移し、カタチを求めてうごめき続けることになる。

潜在意識下で暴れる「パワーへの欲望」こそが、「暴力」。

だからこそ古くから伝わる脱力を目指す数々の行法は、徹底して自分の欲望を見つめることを行者に課している。

脱力は、徹底した自覚的態度で臨まなければいけない。

脱力とは、真にあきらめることだし、断念することだし、引き受けていくことだし、従っていくことである。

世でいち早く脱力を説いた野口三千三先生は、「負けて 参って 任せて 待つ」と、その奥義を説いた。


脱力という思想。

だがしかし、「脱力を支えるモノ」とは、いったいこの世の何なのだろう。

だって脱力だけではそのカタチを保てない。それにカタチを与える包みや支えは必要だ。

脱力を支える…やっぱり力? 力は脱力を支えるためにある? 変な矛盾だ。
じゃあ骨? うん、骨は大事だ。他を支えるためにその身を投げ出したモノ。
でもそれはやっぱり脱力のカタチだ。だから骨だけじゃ人は立てない。

そんなことを考え始めると、まるで「ドーナツの穴」問答でもしているようでグルグルしてくる。

まぁ秋の夜長にのんびり考えよう。

posted by RYO at 11:34| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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