2009年07月31日

私が退けばそこに神が座る

最近、ある人から「鏡(カガミ)に映る自分の姿から、我(ガ)を抜いたら神(カミ)になる」という言葉を聞いて、「ほう、なるほど。うまいことを言うもんだ」と感心していたのだけれど、しかし、この「我」というもの、これがなかなか抜けないのが人間というものですな。

とにかくこの「我」「自分」というものが、ことあるごとに摩擦を引き起こす。

いい加減そんなものは棄てたらいいんじゃないかと思うのだけれど、何かあると気がつけばひょいと顔を出してきて、周りの流れをかき乱している。

ああ、邪魔だなぁ。 「自分」が一番邪魔でしょうがない。

まぁ摩擦が引き起こされて初めて「我」が存在するのだから、「我」があればそこに摩擦が生じるのは当たり前っちゃ当たり前だし、無きゃ無いで困るんだけど、もう少し何とかならんものかといつも悩んでしまう。


日本人は昔からよく「自分というものがない」と言われる。

いわく集団主義であり、周りの目を気にし、みんなと一緒を好んで、KYをハブにする。

たしかに空気を感じ、雰囲気に流され、その場その場で言うことを変えて、まるで自分というものが無いようにうごめいているのが、日本人という民族の心性であるようにも思える。


広辞苑には、日本語の一人称の代名詞が100個以上載っているそうである。

私、僕、俺、儂、自分、我、手前、己、拙者、某、などなど…、思いつくだけでも挙げていけばキリがない。

相手との関係によって、発言する場によって、あるいはある目的のために、そんなさまざまな周りの状況に応じて立ち位置を変え、自分の呼称を使い分けている日本人の「わたし」は、たしかにつねに相対的であり、絶対的な自分が無いといえば無いかもしれない。


日本語はそんなふうに自分を表す代名詞が状況に応じてセンシティブに変化するうえに、いつしか「手前」が「てめぇ」となって主客混然としてしまったりもする、あやうい言語である。

だいたい主語自体が消えてしまうことがしょっちゅうなのだから、一人称の「手前」が二人称の「てめぇ」に入れ替わったところで、もはや瑣末なことなのだろう。

主客が入れ替わり、ついにはどこかに消えてしまうようなあやうい主体を孕んでいる日本語というもの自体が、すでに構造的に「無主体」というものを持ち合わせているわけで、そんな言語によって精神を構築している日本人が、その言語構造に精神構造のモジュールを重ねていたって、不思議ではない。


日本は古来から「空(くう)」の思想があって、「空からすべてが生まれる」といってモノゴトの中心には虚ろなるものを据えていた。

日本人が祭事に神を迎えるときにはその場に「空」を用意して、その空席をみんなで奉ることで神を招き入れた。

日本の神の本質というのは、あくまで「客神」であり「マレビト」であって、西洋人が「主よ」と呼びかける神とはその性質が大きく異なる。

これからやってくる客であるのだから、その席は空けておかなければならない。

だから日本人は、虚ろなる「依代(よりしろ)」を空席として用意し、そこに客たる神が招かれ到来するという、そういう方法をとってきたのだ。

人がやるべきことは神が座る席を空けることであり、そのためには自分の席を空けなければならない。

なぜなら、だだっ広い空間があれば誰も席を空けなくていいかと言えばそういう訳ではなく、神を招くためには「そのために場所を空ける」という振る舞いが必要だからだ。

そのためにわざわざまずは空間を充填し、そしてその後「退く」ということをするのだ。
(日本の国生み神話である「古事記」も、独り神が現れてはただ消えてゆくことから始まる)

まず初めに「我」があり、そしてその「我」が消えたときに「神」が到来する。

そういうことなのだ。


講座でもときどき言っているが、私は「お茶が入りましたよ」という言葉が好きだ。

この言葉を聞くと「日本語って美しいな」と思う。

何もしないで勝手にお茶が入るわけはない。誰かがいれてくれたのだ。

けれども「私がお茶をいれました」とは言わない。

そこはあえて口にしない。

そのたおやかな決意によって、そこに美しい世界が生まれている。

お茶をいれてくれた人がフッとその姿を消すことで、まるでそこにおのずから熱いお茶が立ち現れたかのような、「成り成りて成る世界」が現出する。

「そこにお茶がある。しかもそれは私のためのお茶である。」

ただそれだけの世界。

「私が」「私が」が消え、「それがそのままあるがまま」の世界へ。

それをおそらく昔の人は「随神(かんながら)の世界」と呼んだのだろう。


私が退けば、そこに神が座る。

私がすることは、その席を整え、そして消えること。

抜き型の関係。


つまりはそういうことをやっていかなくちゃいかんと、そう思うわけですな。

posted by RYO at 19:54| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月14日

相手の世界の言葉で語る

いやぁ、何だか忙しいなあ。

書いたりしゃべったりの連続で月日が過ぎていくぞ。

まぁ、小学校時代には通信簿に必ず「RYOくんは授業中のおしゃべりが…」と書かれ、中学校時代には社会科の先生から「口から生まれたRYOくん」と呼ばれ、はては生みの親からも「へりくつ大王」と呼ばれた私であるから、まこと素直にすくすくと育った証しであるのやも知れないが、それにしたってしゃべりすぎの感がしないでもない。

こんなにベラベラしゃべっている人間の話なんて絶対信用しないほうがいいと私は思うのだけれど、聞くところによると「人柄がすばらしい」などという噂が流れているらしい。

いったいどこから出てきたんだろう。 …オレじゃないぞ。

ブログでもしょっちゅう「私は邪悪だから信用するな」と繰り返し忠告しているにもかかわらず、そのような噂が流れているということは、これは私が想像する以上に世の人々がみなよっぽど邪悪であるか、あるいは私が想像している以上に私が邪悪であるということなのであろう。

もし、私が多少なりとも残っている最後の善意から「私は邪悪ですよ」とご忠言申し上げても、取り合ってもらえないくらいに邪悪なのだとしたら、私の腹の中は鞭毛から大腸菌からミトコンドリアまでおよそ真っ黒であるに違いない。

う〜ん…真っ黒クロ助だな。 どうりでこの前トイレに入っ(以下自主規制)

もう今度からは「私はホントにいい人だから、絶対信用しなさい」と言ってみようかな。

…やっぱり信じてもらえなさそうだなぁ。


まぁそれはともかく。

最近、話を聞いてくださった方々から「話がとても分かりやすい」という感想をいただくことが増えてきた。

「微妙なところをきちんと言語化してくれるので分かりやすい」などと言っていただけると、それは私自身とても意識していることであるので、言われて素直に嬉しい。

私の今のテーマが「表現」であるということは、最近もブログでたびたび触れているが、とくに言語による表現に関しては、こう見えてもずいぶんいろいろ試し続けているのだ。

そのさまざまな実験的表現に対するレスポンスとして、みなさんから「とても分かりやすい」というお返事が返ってきているのなら、これはなかなか首尾上々。よろしいのではなかろうか。

日々是実験。日々是対話。


表現というものを考えたとき、たいていまず第一の目的となるのは、「自分の表現したいことを正確にぴったりと表せる方法を見つける」ということである。

「言いたいことを正確に言い表せる言葉」とか、「情動を正確に表現できる動作、ポーズ」とか、そういう表現を獲得して、表現したいことを自分にとってピッタリの表現で表現するということはとても気持ちがいいし、何より自分自身が納得できる。

けれども少し考えれば分かるけれども、「自分が納得できる自分にとってピッタリの表現」というものの中には、必ずしも「相手(他者)」が存在するわけではない。

「自分にとってピッタリの表現」というのは、見る人聞く人にとってどういう受け取られ方をするかということとは、無関係に存在する。

いや、むしろその理念上、相手のことなど考えていたら「自分にとってピッタリの表現」から遠ざかるに決まっている。だって「相手の理解度」なんて余計なことを考えて、表現を言い換えれば言い換えるほど、自分の言葉では無くなっていくはずである。


パフォーマンスアートとしての表現であるならば、自分にとってピッタリの表現を突き詰めていけばいいのかもしれない。「分かる人にだけ分かればいい」と。

それは一つの選択である。

ひょっとしてそれを究極にまで突き詰めたときに、万人に通じる表現が開花するかもしれない。分からないが、そういうことだってありうるだろう。


けれども私にとって重要なのは、コミュニケーションという出来事の中で、「めぐること」であり、「変わること」であり、「解体すること」であり、「再構築すること」なのだ。

もちろんそれだけに限定することも無いのだけれど、私は整体を実践する者として、とりあえず目の前の人が「健やか」であることを第一の目的とするものであるから、まずはそれらが大事なのだ。

だから私はなるべく、コミュニケーション自体がめぐり、また組替えを促すものであろうと、つねに心がけているのだけれど、そのためにはまずは相手の使っている言語、相手の理解できる言語で話しかけていかなければならない。

そうでなければ、どんなに簡単で素朴なことであっても、なかなか通じないし、めぐりもしないだろう。

私たちはともすると、お互い「日本語が通じる」という単純な共通理解にあまりに寄りかかり過ぎて、日本語の中にもさまざまなレイヤーがあるということを忘れがちである。

だから私たちはいくら言っても分からない人間を相手にしたときに、「あいつは話が通じない」という結論に安易にたどりついてしまうのだけれど、でももし相手が初めから日本語が通じない外国人であったなら、私たちはもっと英語でしゃべってみたり中国語でしゃべってみたり、筆談してみたり、身振り手振りを活用してみたりして、もっと「別の表現方法」をいろいろ試しながら、通じそうなコミュニケーション回路を模索するだろう。

私は、日本人どうしでももっとそういういろんな表現方法を試してみる必要があるのではないかと、そんな風に思うのだ。

人間や文化が目まぐるしく流動し、多様な価値観がどんどん混在するようになってきた現在では、日本人どうしであっても、日本語どうしであっても、同じようにさまざまな表現方法を試すということがますます大事になっていくだろう。

コミュニケーション能力が低下していると言われる現在において、ディスコミュニケーションによって身心を病まないためにも。


ちなみに最近「話が分かりやすい」と言っていただけるようになった私が心がけているのは、まずは「通じない」から始めるということ、そして「相手の世界の言葉で語る」ということである。

自分の世界にとどまったまま、「あなたには分からないかもしれないけれど…」と、相手の世界の遠くから語る言葉は、ただでさえ通じない言葉をますます届かないものにさせる。

けれども自分の世界を歩み出て、できる限り相手の世界に歩み寄り、「私が伝えたいことをあなたの世界の言葉で表現すれば…」と、相手の世界の言葉を駆使して語れば、意外とすんなり腑に落ちることもあるだろうし、たとえ相手の理解を超えた意であっても、その誠意は聞く者の耳を開く。

耳が開けば、たとえ意は通じなくとも、何かは動く。

一歩歩み寄ってから言葉をかけてみると、関係は変わってゆくかもしれない。

posted by RYO at 20:50| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする