2009年06月30日

発酵酔仙

朝から蒸し暑い東京を抜け出して新幹線に乗っていたら、小田原を超えたあたりで車体をぽつぽつと叩く雨音が。

ふと窓に目をやれば、雨だれがガラスを真横に走る。

山にけぶる雲の合間にのぞく富士山の山頂付近には、谷間に残る残雪がちらほらと見え、あそこはどんな空気なんだろうと空想してみたら、肌にぞわぞわと不思議な感覚が起きた。

車窓に映る色模様は、遠い山にけぶる薄紫と、地上にポツポツと紫陽花の濃紫。

梅雨だなぁ。 いやニッポンだなぁ。


しかしこの最近のジトリと肌にまとわりつく湿気にやられて、けっこう体調を崩している人が多い。

息苦しいとか、だるいとか、湿疹が出ているとか、気持ち悪いとか。

高い湿度に呼吸が浅くなりハァハァと胸で息をしているときにシケた食べ物を口に放り込んで、みんなますます鬱々として、からだのなかをけぶらせている。

ずいぶん前にも書いたけれども、このまとわりつくような湿気と、どよんと晴れない低い空と、かすかに傷んだ食べ物で、誰もが自家中毒気味になって、だるさに中っているのだ。

そんな私もふと気を抜くと、横になってだらだらと堕ちてゆく誘惑にかられ、「ああ、このままダメになってしまいたい…」と、ひとり呟いていたりする(笑)。

いやぁ、イカンイカン。やること山ほどあるぞ。

こういうときこそ発酵食品をばかばか食べて、中からデトックスだ。

なんてそんなことを考えて、ここ最近おもむろに梅干しやらぬか漬けやらを食べ始める。

やっぱり梅雨こそ発酵食品だろ。ボリボリ。

腐ってないで発酵するべし。ボリボリ。


発酵大好き人間である私などは、発酵食品を食べるのはもちろんのこと、飲んで酔うのも大好きだし、漬けて発酵させるのも大好きなのだが、それはもう「発酵」という営み自体に対する限りない偏愛であると言っても過言ではない。

で、最近ふと思ったのだけれど、人が酒を飲んで酔うっていうのは、これは微生物の仕事に酔ってるんじゃないかと、そんなことを思うのだ。

微生物たちは時間とともに劣化してゆく有機物をどんどん分解しながら、そこからスピリッツ(酒精)を取りだすという、あまりに美しすぎる仕事を果たしている。

それは穀物のメタモルフォーゼ(変容)であり、スピリチャライズ(霊化)と言ってもいいだろう。

どうしてそんなことができるのか。まったく霊妙というほかない。

そんなものを体内に取り込めば、人も酔いしれるに決まってる。

だって、そんな仕事はたまらんぜ。

シュタイナーは「アルコールを飲んで酔っている人は、自我をアルコールに明け渡している」とか何とか言っているけれど、そりゃあだって気持ちいいもの(笑)。

自我? こんなすげぇ仕事してくれたんなら、いくらだってあげちゃうよ。あげちゃうあげちゃう。 ハハハ…。


穀物のスピリッツ(酒精)が人の代替自我となって人のスピリッツ(精神)をコントロールするとき、誰かに自我の座を明け渡してしまった快感に人は酔いしれている。

それは、人に代わってそれだけの仕事を果たしてくれた微生物たちの働きに対するリスペクトでもあるのだろう。

私たち人間がやるべきことを、微生物たちは物質レベルでやっているのだ。

だからこそ人は自分の自我を明け渡しその仕事に酔える。

でもそこで、「じゃあもうオレはいいや。お前らに任せる」と言って完全に投げ出してしまったら、それは単なるアル中だ。

そうじゃなくって、その素晴らしさに酔いしれたら、「自分だってこんな仕事をやってやるぜ」と発奮しなきゃいかんのだ。

「物質レベルでお前たちが果たした仕事を、オレは精神レベルで果たしてやるぜ」と。

手足に力をみなぎらせ、世に倦む澱を分解し、それを発酵メタモルフォーゼさせ、見る人を酔いしれさせるような、そんな仕事をやっていくのだ。

発酵という営みを、私の精神の中でも起こすのだ。

目の前の事象を取り込んで、人が吐き出したものも飲み込んで、どんどん分解して、そこからスピリッツを取り出せ。

怠惰に腐って周囲に悪臭を放っている場合じゃない。それじゃ微生物以下だぞ。


そうだ。やるぞコンチクショウ。グビグビ。

しかし旨いなコンチクショウ。ボリボリ。

いい仕事してやがる。

負けてたまるか。ボリボリ。

…クソー。

posted by RYO at 21:22| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

遠くから呼ぶ声

この週末、新潟、長野と出張が続いたので、ずっと読み進まずに滞っていた池谷裕二さんの『単純な「脳」、複雑な「私」』(池谷裕二、朝日出版社、2009)を新幹線の中で一気に読了。

以前読んだ『進化しすぎた脳』(池谷裕二、朝日出版社、2007)もそうだったけれど、この本もまた最新のトリビアルな科学的知見がふんだんに盛り込まれていて、読んでいて「ほぉ〜」とか「へぇ〜」とか一人唸りながらあっという間に読んでしまった。

いやぁ面白い。最新の脳科学の知見はおおむね網羅されているんじゃないかしら。

しかもこの人若いんだよなぁ。若い人が頑張っているのは嬉しいなぁ。


非破壊的な検査技術の発達や、シミュレーション科学の発達により、最近の脳研究は一気に突き進んでいて、今までとうてい科学的研究の対象にはならなかったようなことまで、どんどんそのメカニズムが解明されている。

本書を読むとけっこうビックリ仰天な実験結果がてんこ盛りである。

読んでいると、「とにかく脳は大嘘つきである」という事実ばかりがバンバン目に飛び込んでくるけれど、それもこれも私が穏やかに生きていけるように脳がついてくれている優しい嘘。

ありがとう。脳みそ。死ぬまで私をだましてね。

でもゴルフのパットが入るか入らないか、さらにはどれくらい外してしまうのか、そんなことまで3秒前にはもうすでに分かっているなら、頼むから先に教えてよ。


池谷さんもこの著書の中で言っているけれど、理系文系を超えて学際的なつながりを作り上げていくときに、脳科学的な知見から分かり始めてきた「私たちの脳の癖」というものを前提に含んでおかないと、いつまで経ってもいろんなところで「バカの壁」(@養老猛司)が立ちはだかり続けることになるだろう。

私たちは、「私たちのからだ/感覚」(脳という臓器を含めて)を抜きにしては、決して世界も自分自身も語れない。

私は、私のからだを使って、世界を感じ、また考えている。

どうあってもそれは主観以外の何ものでもない。

それはたとえ精妙に作られた計測機械を使って、統計学的データを長年にわたって取り続けたってさえ、そうなのだ。

どんな精妙な機械を使ってデータを取ろうと、その測定結果から何らかの結論を導き出すときには、それを解釈する人の主観から免れ得ないし、何より、何らかの測定機械のデータを採用するということは、その時点ですでにその機械の測定手法を有効的なものだとする「機械の設計理念」に同意署名しているということなのだ。


そういうメタ認知レベルでの自覚は、さまざまな分野とつながりながら新しい活動をしていこうとするときに何より大切なことである。

私たちには「構造的に気づけない」ことがあり、また「選択的に無視している」ことがあり、そして「その不能性があって初めて私たちは何かを認知することができる」ということ。

そのあたりに関しては、これまた若い研究者である西條剛央さんという方が、「構造構成主義」(⇒Wiki)というメタ理論を構築して、分野を超えて話し合いのできる「言論場」を作ろうと一生懸命活動されているけれど、そういう活動が本当に大事だと思う。

でもこうして自分と同世代くらいの若い研究者の方たちが、どんどん活躍していっているのはホントすごく勇気づけられるなぁ。

オレも頑張ろっと。


前回、わらべ唄の神谷さんとの対談のことを書いたけれども、神谷さんは話の中で「どんなに一人遊びに集中している子どもがいたとしても決して一人にはしないと、阿部ヤエさんに教わった」とおっしゃっていた。

それは長年保育の現場に関わってきた神谷さん自身も最初は意外であったそうだけれど、私も神谷さんと同じく、一人遊びに集中している子は何となくそっとしておいてあげるという感覚を持っていた。

けれども、遠野のわらべ唄の世界ではそういう子にも必ず声はかけていくのだそうである。

でもそれを聞いたときにふと、「それってとても山伏的だな」と思ったので、そのことを神谷さんに言ってみたら、「そうかもしれないですね」というお返事をいただいた。


決して一人遊びに夢中にさせない。一人の世界に没頭させない。

それはおそらく、村という共同体を維持していくための知恵であり、また、山伏たちが精神の病に陥らないための知恵でもあったのだろう。

一人遊びに没頭している子にも必ず声はかけていくということ。

それは「遠くから呼ぶ声」である。

ともすれば一人の世界に没入していってしまいかねないときに、「遠くから呼ぶ声」に必ずつながりを持たせておくということ。「私の名を呼ぶ声」が聞こえたときには返事をさせるということ。

山伏のような、ストイックで求道的な世界においてはしばしば起こることだが、過酷で内省的な修行に没入しすぎるあまりに、完全なる自分だけの世界を作り過ぎてしまって、俗世とのつながりが切れて、場合によっては他人や社会とのディスコミュニケーション症状を引き起こすことがある。

最近で言えば、韓国かどこかで「ネットゲーム(ネトゲ)のしすぎで死者が出た」なんていう、ちょっと信じられないニュースが報道されていたけれど、それももし現実世界から「彼を呼ぶ声」があり、またそれに応えるという構えが身に付いていたならば、そんな事態にまでは至らなかったはず。

きっとあまりに没入しすぎた彼にとっては、「眠気」や「空腹感」や「疲労感」といった「内的な呼び声」さえも、もはや彼を現実世界へと呼び戻すシグナルにはならなかったのだろう。

「自分の世界、自分の物語」(この場合はネットの世界)があまりに強くなりすぎると、周囲との「合意された現実」(@ミンデル)の世界と乖離し始め、それが過ぎれば精神や身体に失調をきたし始める。

それは当然のことなのだ。

だって私たちは「物理世界」や「合意された現実」の世界から離れては生きていけないのだから。

私たちは物質としての肉体を持っているし(だから食わなきゃいけないし、寝なきゃいけないし、暑さ寒さから身を守らなきゃいけない)、また周囲の人間との参照によって人間性を獲得していくのだ(人は人に育てられて人になる)。


いろんなレイヤーが重層的に重なり合って成り立っている私たちの世界。

ひとりひとりが皆、脳という臓器の持つ独特の癖によって、それぞれの関心の度合いによって、微妙に時空間をゆがめられた世界を生きている。

それは、それぞれの脳が優しくついてくれている嘘。

誰もがみんな、胡蝶の夢を見ている。

他者の世界を理解することはできないが、それでもともに支えあって何かを作り上げていくことはできる。

それはきっと、自分の世界を囲む壁を越えて、夢のはるか彼方から聞こえてくる「遠くから呼ぶ声」に応えようという、お互いの優しさによって支えられているのだ。

遠くから私の名を呼ぶ声がする。

それが、人がこの世に生き続けられる理由なのかもしれない。

みんな、一緒に遊ぼうよ。

posted by RYO at 20:40| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする