2009年04月20日

へりくつ問答 Penta

「RYOさん、どうもご無沙汰してます。久しぶりの『へりくつ問答』ですね。」
「ホントにねぇ。気がついたら最後にやったのがもう1年以上前ですよ。いやぁ、この1年またいろいろありましたね。変動の年でした。」
「あちこち呼ばれて、あちこち行って、お忙しそうですもんね。」
「ええもうおかげさまで。このまえの土曜日も代々木公園で行なわれているアースデイに遊びに行ったら、いろんなお母さん方に声かけられちゃってね。人ごみ歩いていると、前から歩いてくるお子さん抱っこした女性が、私の顔見て「あ。」とか言うわけですよ(笑)。そこからはもう分かるでしょ?(笑) 知ってる人から知らない人まで「どうもどうも」なんて挨拶ばっかりしてましたよ。なんだかごく限られた一部でずいぶん有名人になってしまったようで…。落ち着かなくって尻がむずむずしますよ。」
「なんですか? ムシでもいるんですか? 胸椎9番に愉気するといいですよ。」
「違うって。」

「でもいいじゃないですか。そんなに大勢の方に覚えていただいて。モテモテですねぇ。RYOセンセー(笑)。だって来月はまたクーヨンで特集でしょう? しかもRYOさんのイラストまで載るとか。」
「いやぁ何だかねぇ。モテモテっていうか何ていうか…。イラストも「今回はぜひ描いてくれ」って言うんで、「お安い御用」とサラサラッと描いたんですけどね。まあ小っちゃく載ってます。でもありがたいことですよね。ああ、これはもういろんなことを引き受けてお返ししていくしかないな、なんてつくづく思いますよ。」
「でも代々木と言えばアレですよね。なんか今度やるんですよね?。」
「ああ、自然育児友の会ね。そうそう、講座をお願いされてるんですよ。」
「いや、じゃなくって、なんか飲み会かなにか…」
「ああ〜、そっち?(笑) 夜の飲み会ね?」
「え? 講座もやるんですか?」
「うん、講座もやるの。てゆうかそっちがメインね(笑)。 で、前夜(イブ)は飲むの(笑)。」
「お母さんたちと?」
「そう。ほら、いまずっと「ママは子どもの整体師」って講座を朝カルでやってるでしょう?」
「ええ」
「でね、いつかやりたいなぁと思いながら「まだまだ先かなぁ」って思ってたことがあって、それは何かっていうと、「ほろ酔い講座・不埒に育児を語る会」ってやつなの(笑)。」
「ええ〜? お酒飲みながらやるんですか?(笑)」
「そう。たまには不埒にいきましょうってね(笑)。でもそんな不埒な会を開くには、自分はまだまだ年の功ってもんが全然足りないからもっと先だななんて思ってたんですけど、今回なんかそんな話がポッと出てきてね。これもまぁご縁というか何というか。話が出てきたんなら「じゃあやっちまいましょうか」ってことでね。なんだかやることになっちゃったんです。」
「へぇ〜」
「でね、そうと決めたら会の名前もパッと思いついてね。ずっと「ママは子どもの整体師」ってやってるからその「埒外編」ってことでね。「ママもたまには酔いたいし」(笑)。 どう? いいでしょう?」
「ママもたまには酔いたいし!(笑)  いいですね!そりゃ響く人が多いでしょう?(笑)」
「たぶんね。不埒でいいでしょう?(笑)」

「え、でそこでRYOさん、なんかしゃべるんですか?」
「いや、自分はどうでもいいんですよ。隅っこのほうでちびちび飲んでますよ…」
「なに、始まる前からいじけてるんですか(笑)。」
「いや、ホントにいいんですよ。別に。私は。なんか隅っこのほうでちびちび飲んでね。それをママさんたちに遠くから指を指されつつ「ほら、センセイ寂しそうに飲んでるよ。あ、こぼした。慌ててる慌ててる!」とか何とか言われてれば、それでいいんですよ…」
「なんですか。そのいじけ虫は? やっぱり胸椎9番?(笑)」
「いやいや、たしかにやることにはなっちゃったけどね。でも自分はまだまだそんな不埒な会で語るにゃ青臭さが抜け切れてないですよ。もっと先の話です。そうだなぁ、せめて五十は超えないと…。」
「なんですか?それ。」
「いや、あるんですよ。何かそういうのって。いまの自分じゃなんだか「しゃらくせえ」っていうか何ていうか…。自分自身で鼻持ちなりませんね。」
「ふ〜ん…よく分かりませんね。やるんならやればいいじゃないですか。」
「いや、いいの。そういうことなの。」
「そーですか。」

「でもね。冗談ばっかりじゃなくってね。世の中きれいごとばかりじゃないでしょう? そうやっていろんな表現のパターンが持てるように、いろんな場を用意することって大事だと思うんですよね。」
「いろんなパターン?」
「そう。泣いたり笑ったり怒ったりっていうのと一緒でね。ちょっぴりエコだったり、ロハスだったりするのと同時に、ちょっぴりセレブだったり、ゴージャスだったりね。いつもはベジだけど、たまにはジャンクも食うみたいなね。「久しぶりのポテチうめー(笑)」とか、「アタシだってたまには飲んじゃうわよ」みたいな、なんかそういうフレキシビリティって、これからの時代は大事だと思うんですよ。これからますますボーダレスな多様性社会になっていきますからね。」
「まぁねぇ。私もよくお互いの言い分が分かったりしちゃうから、何とも言えなくなっちゃうことってよくあるんですよね。難しいですよね。そういうことって。」
「そうなんですよね。別に自分の信念を曲げて付き合う必要はないんだけど、そういう世界もあるっていうことをどこまで許容できるのかってことでね。いろんなものが高速で行き交う現代に必要な構えだと思うんですよ。ハレとケのバランスというか、埒と埒外のバランスというか、そういうものをどっちもアクセス可能にしておくっていうね。だって今の時代、隣にどんな思想を持った人が住み始めるか分からないでしょう?」
「そうですねぇ。」

「だからね。やっぱりこうやっていろんな表現できる場を用意するのと同時に、それぞれの個人がいろんな表現のパターンを身に付けていくことって大事だと思うんですよ。じつはこの「へりくつ問答」もその試みの一つなんですけどね。」
「これが?」
前も言いましたけど、こういうふうに対話の形でしか語れないことってあるんですよね。こうやって二人の間で交わされるダイアローグ(対話)っていうカタチをとることで、モノローグ(独白)では決して語れないことが語れるようになる。これはやっぱり一つの語り口であって、一つの方法なんですよね。」
「それで突然、私が呼び出されるわけですか。」
「いや、申し訳ない。」
「じゃあ、このまえ落語みたいな文章書いてたのも何かそういうことなんですか?」
「そうそう、そうですそうです。分かってきたじゃないですか。落語で語れることって普通のダイアローグとまた違うんですよね。もちろん講談でも漫才でもまたそれぞれ違う。詩でも違うし、歌でも違う。そういう意味じゃ人間はいろんな語り口の方法を編み出してきましたけれど、私たちはそこをあんまり使いこなせていない。」
「う〜ん…」

「うまく表現できなかったり、どうしても言いたいことが伝わらないなら、いろんな方法、いろんな語り口を試してみるべきなんですよ。詩にしてみたり、歌ってみたり、叫んでみたり、落語で語ってみたりね。泣きながら、笑いながら、怒りながら。いろいろやってみればいいじゃないかって思うんです。」
「でもふだんいきなり落語でなんか語れませんよ。」
「いや、だからホントに落語で語らなくたっていいんですよ。その落語に潜んでいる「方法」ってもんがあるじゃないですか。それを応用すればいいんです。たとえば「愚かさを否定しない」とか、「ひっくり返してみる」とか、「勘違いを訂正しない」とか、「悪巧みの過程をすべて語る」とか、そういう落語に潜む方法をふだんの語り口でも活用してみるってことなんです。」
「う〜ん…なんだか難しいですね。」
「別に難しくなんかないですよ。やってみりゃいいんです。やってみれば当然いつもと違う反応が返ってきますから、その結果を引き受けていけば次につながるんです。「ああ、こういうふうにやると、こうなるんだな」と。」
「なんだか実験みたいですね。」
「そうですね。実験ですね。自分を素材にして実験するんです。私はそういうのが好きでよくやってますけど、身銭を切りますから、真剣にならざるを得ないんです。失敗したら全部自分で引き受けなきゃいけませんからね。でもそうして真剣にやるからこそ自分が成長するし、周囲にもその熱意が伝わるんじゃないですかね。」

「ちょうどいま読んでるこの『多読術』(松岡正剛、ちくまプリマー新書、2009)っていう本のなかで、松岡正剛さんが『世の中でうまくいかないことの多くは、実は当人の言葉の使い方によっているんです』なんて言ってますけど、これホントに最近切実にそう思います。言葉の使い方。もっと広く言えば表現の仕方。出し方。インターフェイスの問題。」
「たしかに言葉の問題は大きいですよねぇ。」
「でしょう? 分かってるんですよね、みんな。でも分かっちゃいるけどやめられない(笑)。言葉はなかなか変えられない。でも結局そこに切り込んでいかないとダメなような気がしてならないんですよね。言葉の牙城を切り崩さないと表現自体が変わらない。」
「“言葉を変えてゆく”ねぇ。」

「それはどんな「単語を使うか」ということに始まり、「何を主語に置くか」「どんな文脈にしていくか」「どんな声で語るか」「目線をどこに向けるか」、そしてさらには「どの立ち位置から語るのか」「どこで語るのか」「いつ語るのか」「誰がそこに居るのか」、そんなことまで含めて「言葉の使い方」というものを、もう一度きちんと捉えなおしてみると、まだまだできることってずいぶんあるんですよね。ふだんそこまでして、そんなことまで考えて言葉を伝えようとはしていないでしょう?」
「そこまで考えてしゃべる人はどこにもいませんよ。」
「確かにどこにもいないけど、いたっていいでしょ?(笑)」
「別にいたっていいけど、そんなことまで考えてしゃべるなんて私は嫌ですよ。メンドクサイし。だいたい「どこでだれと語るのか」なんて、自分でどうしようもないことだってあるでしょう?」
「まぁそうなんですけどね。でもね、私が一番言いたいのは、まだまだコミュニケーションには試行錯誤の余地があるってことなんです。「こうやったらもう少し伝わるんじゃないか」っていう試行錯誤を、まだまだやってないんじゃないかって、そういうことが言いたいんです。それは分かってもらえます?」
「まぁそれは分かりますよ。でも私だったらさっさと諦めますけどね。なんで私がそこまでやらなきゃいけないのって思うでしょう? まったく聞く耳持たない人なんていくらだっているじゃないですか。」
「いや、だから、それは分かるんだけど、それをどこまで踏ん張れるかって…」
「あ〜はいはい、分かりました分かりました。踏ん張り好きのRYO先生ですからね。」
「“踏ん張り好き”って…(笑)。」
「だってそうでしょう?」
「まぁねぇ…そうねぇ…否定はしませんけど…。でもいま言いたいのは踏ん張るっていうより、諦める前にいろいろ試してみようよというか何というか…。 ………踏ん張りましょうよ(笑)。」
「はいはい。でもさ、それこそRYOさんだって「踏ん張る」以外の方法試したっていいんじゃない? そんなこと言ってるくらいなら。ねぇ? いろいろ。そんなにこだわらないで。」
「う……」
「ほら、何か、いろいろ。」
「じゃあ…… 「放り出してみよう」か…?」
「…やっぱり怖いからやめてください(笑)。」

posted by RYO at 22:37| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月04日

セクシーでいこう

私の講座に参加して私の話を聞いたことのある方はその意味が何となく分かるかもしれないけれど、私は「こころ」と「からだ」とを重層的に語りたいといつも願っている。

「身心一如」と昔から言われているように、本来、それぞれバラバラにして語れるようなことでないのに、言葉(あるいは認知)の限界からバラバラにしか語れないということがどうにも私は歯がゆくて、そこを重ね合わせたような語り口というものがどうにかして紡ぎ出せないかと、日々いろんな語り口を試行錯誤しているのだ。

言葉を選び、語法を試し、語り口を変化させ、さんざんそんな試行錯誤を繰り返してきて、最近はホントにごくわずかではあるが、それでも以前に比べれば一義的な単調さにとどまらない、もう少し何らかの気配を帯びた、そんな「色気」のようなものが語り口に出てきた、そんな気がしている。

ここで私が言う「色気」というのは「セクシャルな」という意味よりもむしろ、「そこに何かが潜んでいる」「別の含みがありそうな」、あるいは「その奥に秘密がありそうな」というような意味合いである。(あるいはもっと露骨に「違うものが結ばれる」ということ)

私はべつに「私の話そのもの」を聞いて欲しいんじゃなくて、私の話を聞くうちにそこで語られていることに誘われて、「ああ、そういえば…」と、自分の中に潜む何かを思い出して欲しいのだ。

だから私の話を聞いていて、聞く人がそこに何らかの気配やおもかげを感じて何かを思い出してもらえたのなら、まずは私の「セクシー化計画」の試みは、一歩前進なのである。


なんてことを私の中で最近ひそかに企んでいたのだけれど、つい先日、私の講座に参加してくださった方に「RYO先生はセクシーだ」という感想をいただいたので、思わずビックリしてしまった。

セ、セクシー? 未だかつてそんなことを言われたことはありませんでしたが…。

いやぁ、バレちまうもんだなぁ(笑)。ハッハッハッ。

自分など、セクシャルな意味での「セクシー」とはとても程遠い存在だと思っているし、その方もたぶんそういう意味で言ったのではないと思うのだけれど、それでも私が言う「セクシー」というような、そこに帯びる雰囲気のような、気分のようなものは、意識しているとじわじわと滲み出ていくものなんですねぇ。

いやぁ、なんだかマイッタマイッタ。 (ノ∀`)タハー

こういうのってホントに内も外もありませんな。

色即是空 空即是色


このまえも朝カルのMさんとたまたま新宿で出会って話しているときに、「自分には色気が足りない。それじゃダメなんです。色気を身につけようと思います。」と熱く語っていたばかりだけれど、それから数ヶ月もしないうちに受講生から「セクシーだ」という感想をいただくということは、私もきちんと努力をしているという証拠である。

エライぞ自分。ちゃんと要望に応えようといつだって変わろうとしてくれるキミが大好きだ。愛してるよ。


私は自分が「今のままでいい」と思ったことは一度もない。つねに変わろうと思っている。

けれども「自分を変えよう」とするときに、意識的に「こうしよう、ああしよう」ということはほとんどしない。

それは確実に「今(まで)の自分」の反発を招くし、小賢しい企みはたいてい失敗に終わるということを経験から学んだからだ。

だから私は目指すべき方向をしっかりと思い描いたら、あとはほとんど無意識に任せている。

そうすると時間はかかるが着実に自分が変わっていって、それは自分自身が気づかぬうちに起こっているので、今回のようにたいてい「周りの人の指摘」によって気づくことが多い。

気がつけば「変わっている自分」を発見するのだ。


けれども、この「無意識に任せる」というやり方にもおそらく「ある方法」があると思うのだけれど、一番肝心なそこが自分でもどうやっているのかよく分からない。

「ダメじゃん」というツッコミが聞こえてきそうだけれど、分からないものは分からない。

「忘れりゃいいのか」と言われれば、忘れて何もしてないわけじゃないし、「強く願い続ければいいのか」と言われれば、そんなことをしているわけでもない。

何と言うか、もっと静かな出来事なのである。

自分の中で、灯篭の火が静かに燃え続けているような、そんな感じ。

「こういう方向に変わりたい」という思いは、自分の中で静かに燃え続けているが、だからといってどうこうしようということはあまりしない。でもいつだってそこで静かに燃え続けているし、その熱は私の一挙手一投足に確実に染み渡っている。そういうイメージだ。


自分に嘘をつかない、言い訳をしないということだろうか。
誤魔化さないということだろうか。
あるいは黙って行動するということだろうか。
結果をきちんと受け止めるということだろうか。

何かそこに「方法」があるのだけれど、それが何なのかはまだはっきり分からない。

何かが潜んでいることは確かなのだ。

でもたぶん、自分が変わろうと思っているその過程で起こるさまざまな出来事を、自分の「いつもの物語(ドミナントストーリー)」に落とし込んでしまってはダメなんだと思う。

新しい出来事を、自分の「いつものお話」で説明していってしまっては、今までと同じことの繰り返しにしかならない。それじゃあ何も変わらない。

変わりたいと願うなら、自分のお馴染みの(得意な)物語はいったん脇に置いて、「いま、ここで、新しい物語が紡ぎ出されているのだ」ということを、静かに、そして真摯に受け止めるという「構え」が必要である。

「いつもの物語」を変えようと思って「いつもの物語」に焦点を集めてゆくのではなく、「新しい物語」に差し招かれてそちらにふっと気が引かれるうちに、「いつもの物語」を忘れてしまう。

きっとそんな方法がいいのだ。

変えようと思ってそこに焦点を集めることは、むしろその構造を強化することにつながる場合がある。

だから「無意識に任せる」という方法なのだ。「ポカンとする」という方法なのだ。

整体ではこの「ポカンとする」というのが、ある種ひとつの目指すべき境地なのだけれど、そうすることでほどかれていく物語の結び目というものがある。


私が、「もっと色気をもって語りたい」と願ったのは、聞く人にその「いつもの物語」の埒外(らちがい)へと差し招く、そんな誘引力を身につけたいと思ったからだ。

自分の中で「ある一つの物語」によって連ねられている様々な出来事が、「別の物語」によっても連ねられうるということ。

新たな眼差しをもたらし、それに気づかせ、いつもの物語の結び目を解いて別の物語へといざなうのは、やはり「色気」というか「遊び」というか「狂い」というか、そんなようなものなのだ。


自分の「いつもの物語」を手放して、新しい「よその物語」へと身をゆだねる。

酔うて我を忘れたときに、ゆるりと解かれる私の結び目。

う〜む、やはり色気か(笑)。

posted by RYO at 00:47| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする