2009年03月20日

シュタイナー自伝を読んで考える

シュタイナー自伝〈上〉』(ルドルフ・シュタイナー、アルテ、2008)を読了。

う〜ん、いろいろ非常にインスパイアされた。

ルドルフ・シュタイナーという人物の、あの卓越した洞察力と類まれなる直観力は、はたしてどのような幼少時代を経れば涵養されるのか、前々から極めて興味深く思っていたが、今回シュタイナー本人による自らの子ども時代の描写にじっくり浸ることで、少年期あるいは青年期のシュタイナーが何を焦点に自己形成しようとしていたのか、また現在行なわれているシュタイナー教育がどのような背景から生まれてきたのか、少し分かってきたような気がする。


シュタイナーの思想を知るおそらく誰もが驚くことは、彼によって構築されたあの精神世界のディテールの細かさと、圧倒的なスケールの雄大さであろう。

ただデカイだけであったり、ただ精密なだけであれば、そのような思想はおそらくごまんとあるだろうが、極小のスケールから極大のスケールまで、まるでフラクタル図形のように極めて精密に構築された精神世界というのは、おそらく世界中を探したってなかなか無い。

匹敵するとしたら、空海くらいのものではないか。

いずれにせよ圧倒的である。


あのシュタイナー独特の言い回しによって表現される「輪郭のはっきりした、精密極まりない概念」は、よほど訓練された「表象構築力」によって支えられているのではないかと思っていたが、自伝を読んでいたら、シュタイナーは幼少時から幾何学というものに熱中し、ずいぶん長いあいだ盛んに取り組んだということが書かれていたので、やっぱりなと思った。

シュタイナーのあの類まれなる「表象力」は、幼少時に涵養された幾何学的センスに支えられている。


シュタイナーの精神世界に構築された、きわめてシャープな輪郭をもったさまざまな表象群は、そのようなものがなければ成り立ちようがない。

普通はどんな人でもその精神世界を観照する際には、ぼんやりとした像として捉えるので、たいていところどころ矛盾し、混乱し、輪郭がぼやけ、いびつな部分や白地図が、そこかしこにあるものだ。

そして誰しもそういう部分を抱えたまま、それは見ないように、あるいは適当に誤魔化し、折り合いをつけながら生きている。

けれどもシュタイナーは幼少時から感じていたその世界への親密さから、そのような道は選ばなかった。確固たる精神世界を表象しようと願っていた。

そしてシュタイナー自身、精神世界をよりはっきりと認識するために、幾何学という方法が必要だということを、ずいぶん小さい時からはっきりと把握していたようである。


『私は幾何学への関心のなかに、次第に私に発展していった観照の最初の芽生えを見なくてはならない。すでに少年時代に、その観照は多かれ少なかれ無意識に私のなかに生きており、二十歳頃にははっきりと意識的な形を取った。
「感覚が知覚する対象と経過は空間中に存在する。しかし、この空間が人間の外にあるのと同様、内部に心魂の空間があり、それは精神的な存在・経過の舞台である」と、私は思った。
……人間は幾何学において、心魂自身が自らの力によって体験するものを知ることができる、と私は思った。この感情のなかに私は、私が体験している精神世界について、感覚世界についてと同様に語れる正当性を見出した。……私は「人々が見る」事物・存在と、「人々が見ない」事物・存在を区別した。』(『シュタイナー自伝・上』ルドルフ・シュタイナー、アルテ、2008、p19−20)


この幾何学的センスは、シュタイナー教育のカリキュラムの中で、フォルメン線描やオイリュトミー、さらにはありとあらゆる教科指導の中で花開いている。

例えば歴史上の人物がはたして自分の何世代前の人間であるのか、クラスメートで手をつないで並ばせて、どれだけの「遠い血筋」であるかを「視覚的に」直観させるようなワークや、上がっていったものは必ず下がり、広がっていったものは必ず縮んでくるようなさまざまな指導の中に、そういった「幾何学的、あるいは空間的センス」が貫かれている。

子どもの精神世界の中に、何を作り上げようとしているのか、どんな運動を通そうとしているのか、その意図がはっきりしている。

そのようなところまで考えて構築された教育メソッドというものは、そうそう無い。

改めてシュタイナーという人のすごさに感じ入るばかりである。


それともうひとつ。

シュタイナーがこの自伝の中で、くり返し何度となく描き出している描写があって、それは何かと言うと、シュタイナーと多くの人との間の「感情と切り離された精神の交流」というものである。

シュタイナーはこの自伝の中で、自分に影響を及ぼした多くの知人や先達たちを登場させているが、誰に対しても心からの敬意と愛情を示しつつ、その関係の中に生まれた「共感」と「反感」を冷静に描き出している。

たとえば、ある人の結論には嫌悪を感じるが、その思考の方法には真実の一片を見て敬意を払い、またある人からは何も学ぶものは無くとも、その佇まいに敬慕の念を持つ。


『彼女の話は雄大だった。彼女の理念の内容は、私の精神に現れた世界観の正反対であった。その内容は嫌であったが、私は偉大だと思われるものへの驚嘆と関心を決して拒もうとはしなかった。「このような対立には、どこかで調和が見出されるにちがいない」と、私は思った。私は嫌なものを、それが私自身の心魂の方向に添っているかのように、理解して追っていくことができた。』(『シュタイナー自伝・上』ルドルフ・シュタイナー、アルテ、2008、p92)


そうして、シュタイナーはそこで起きている「精神の運動」のみを捉え続け、そのような「思考」と「感情」とをきっちり切り離した「自らの思考の姿」を、くり返し描写しているのだ。

多くの人はほとんど、それとは知らぬうちに自分の感情に浸潤された思考を形成し、感情的に考え、感情的に結論を出すものだが、シュタイナーは極めて注意深く、その「感情」と「思考」を切り離して、純粋に考えた。

それこそ、「嫌なものにも我が事のように寄り添える」くらいに。(これがシビれる)

シュタイナーはこの「思考と感情を切り離す」という訓練もまた、若いときから自らに課して行なっていたようである。


『人間の思考が自然の創造に対してどのような位置にあるのか、私は判断したかった。この思考の努力に対して私が感じたものは、二つの側から影響を受けた。まず、どの思考も完全に見通せるものにして、不特定の感情が思考を何らかの方向に向けないように、思考を私自身のなかで形成しようとした。第二に、私のなかで、そのような思考と宗教の教えとのあいだに調和を作り出したいと思った。』(『シュタイナー自伝・上』ルドルフ・シュタイナー、アルテ、2008、p32−33)


頭部の運動である「思考」という行為は、莫大なエネルギーを消耗する。

脳は思考しているときに、他の臓器とは比べ物にならないほど莫大な量の酸素と糖を消費している。

「考える」ということは、けっこうタフな「肉体労働」なのである。

それに対して、「胸部の律動器官は疲れることがない」とシュタイナーは言う。

たしかに、心臓という器官が生まれてから死ぬまで休むことなく拍動し続けることからも分かるように、あるリズムを保って繰り返される反復運動は、ほとんど疲れることがない。

それは自分のペースを強引に崩され、他人のペースに振り回されたときに、どれだけくたびれるかを空想してもらえばよく分かるかと思う。


3歳から8,9歳くらいまでの小さな子どもは、ぐんぐん成長してゆく四肢に比べて、呼吸・循環器や拍動器官といった内臓器官が、まだ十分に育っていない。

整体的には、呼吸器の成長はシュタイナーで言う「9歳の危機」と呼ばれる9歳頃にいちおうの区切りを見せ、そのあと第二次性徴期あたりまで生殖器が成長するのに伴ってさらに力強くなり、腰の力が付く頃には、内的な力でもって自らリズムを作り出すことができるようになる。

子どもの生活リズムが大切だとよく言われるのは、このようないまだ未熟な呼吸・循環器系の律動を、正確に刻まれる生活リズムによって外部から支えるためなのである。

子どもの脈と呼吸を支えるために、生活がリズミカルに拍動している必要があるのだ。


子どもがみな、ことあるごとに走り回るのも、彼らの呼吸器や心臓が活発だからなのではなく、むしろそれら内部の器官が未熟でしっかりとした強いリズムを刻むことが出来ないゆえに、走り、歌い、踊ったりして、外部のリズムにうまく乗って、そのことによって内部の拍動・循環を支えようとしているからなのである。

子どもがはしゃぎ、走り、暴れるのは必然的な生理欲求によるのであって、そうしなくては呼吸・循環器系が病んで病気になってしまうから、彼らはリズムを欲し、走り回るのだ。

だから呼吸器が弱いからと言ってじっとしていたら、呼吸器はますます負担が増え、その拍動は微弱になっていってしまう。


話がずれた。

ともかく胸部の律動器官はリズムを生み出し、そしてそのリズムにしたがっているうちは、ほとんどくたびれることなしに仕事を果たすことができるのだが、ここに、「感情」というものが絡んでくる。

胸部の律動器官から生み出される「感情」と呼ばれるものは、そのリズムが保持されているかぎり、さほどくたびれることなく運動し続ける。

そして、それに拠って運動が展開されている間、つまり感情に突き動かされて動いている間は、人は強靭的な体力を示すのだ。

怒りを持って、喜びを持って、憎しみを持って、運動が展開されている間は、エネルギーが次から次へと湧いてくる。

感情に浸された思考、感情に突き動かされた行動は、そのエネルギーを感情から供給され、きわめてパワフルにドライブする。

けれどもそのように感情に突き動かされることで多大なエネルギーを得るということは、その代償というわけでもないが、思考も行動もある意味、きわめて主観的な感情と分かちがたく結ばれることになり、一挙手一投足が己の感情に浸透され、その満足のために奉仕することになる。


別にそれがすべて悪いとは言わない。

それによって、およそ通常では考えられないような超人的な仕事をして物事を変えていくこともあるだろうし、またそのような感情に浸された運動(思考、行動)によって、人がずいぶん癒されるということもある。

私も自称「妄想族」であるからして、「思いっきり自分の感情に浸された思考に沈潜する快感」というものは知っている。

多かれ少なかれ、人はそのような思考を、社会生活の中でもしている。

感情に支えられた思考は、私たちにさほど負担を強いることなく次々と展開し、スムーズに構築されてゆくので、ある種の快感を感じさせる。

が、それはいわば施主のワガママな要求を優先するために、さまざまな条件をなおざりにして、無理やり強引に建築された建物のようなものであり、当然だが、長い自然の経過に耐えられるほどの「必然性(自然性)」を持つものではない。(あるいは嵐ひとつで吹き飛ぶかもしれない)

そのことだけは知っておくべきである。


私は、ゆくゆくは「概念そのものが自らのカタチを成したいという要求」に従って、思考できるようになりたいと願っている。

そこには静かではあるが、たしかに思考を支えるエネルギーがあって、その静かな力を汲み取りながら思考し続けることはできるのだ。

そうして思考は、思考そのものによって展開されるようになり、あるべくしてある思考が立ち上がることになる。

それは「思考における脱力」であり、「パワー(権力、暴力)からの離脱」である。

むずかしいことを書いているけれど、本当に目指すべきはそうなのだ。

それはなぜか私の中では、河井寛次郎の「手考足思」という詩につながるものがある。


シュタイナーが青年期に取り組み続けた課題。

そのような「アタマの使い方」を、身につけたい。

posted by RYO at 23:20| Comment(29) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月09日

もう落語で行くしかない

え〜、毎度こんなバカバカしいブログにお越しくださいましてありがとうございます。

世の中には奇特な方もあるもんで、こんなあたくしの雑念妄想をただ書き散らしているばかりのブログも、それなりに読んでくださる方がいらっしゃるようでして、あたくしとしちゃあ心苦しいばかりなんでありますが、それなりに楽しんでいただける方もチラホラいらっしゃるようですので、細々と続けているんですけどね…。

え? なんで突然こんな文体に?

いやぁ、前の記事にも書きましたけど、このひと月ほどいろいろありましてね、何だかあちらこちらでいろんなことが同時に起きて、まったく何でこんなにいろいろあるのかと悩んでいたんですけどね。先日ちょいと用事で実家の近くに行ったので久しぶりに実家に顔を出したら、母が陰鬱な顔をして「はぁ〜…」っと溜め息ついてる。

それで「どうしたの?」って話を聞いていたら、これがなかなかテリブルで、今度はこっちも溜め息うつっちゃって「はぁ〜…」(笑)。

親子一緒に、「はぁ〜…」(笑)。

まったくなんだってこんなにいろいろ同時にあるんですかね。ひょっとして貧乏神やら疫病神やらが、「こらぼれーしょんってやつでもやってみねぇか」なんて打ち合わせでもしてんじゃないかって思いますけど、まぁそんなこんなでいろいろ大変でしてね。

それでもう考えることがあんまり多くて複雑すぎて、グルグルしていたら何だか一回転しちゃってね、これはもう笑っちまうしかないってんで、「はっはっはっ!」って笑ってブログを書いていたらこんな文体になっちまったって、そんな具合なんですよダンナ。


落語ですよね。これは。もう落語しかない。

こういうときはもうね、落語で語るしかない。

人が交わりゃいろいろあるんです。落語はそこを語る語り口がある。

でもね。落語はエライと思うんですよ。落語の題材なんて「心中」だとか「借金」だとか、そんな話ばっかりですよ。フツーにしゃべったら重たくなってドーンと落ち込んじまいそうなことを、軽くしゃべることでプワーッと語って笑っちまう。笑っちまうってことは祓っちまうってことですからね。ずいぶん救われている人は多いんじゃないかと思うんですよ。

落語に出てくる人たちは誰も傷つけないんですよね。いや、失敗は山ほどしてますよ? むしろそればっかりです。愚かな人たちばかりです。あたくしたちと一緒です。でもね、悪人が出てこないんですよ。悪いことをする人は出てきても、でも決して悪人じゃない。愛嬌がある。そこに愛があるんです。すごいことですよ、それは。そんな話を聞いていればね、なんだか元気も出てきますよ。それで救われる人がいる。

ホントにね、エライですよ。落語家さんたちは。


そんなご専門の方々に比べりゃあたくしなんて足元にも及びませんけどね、でもあたくしも人前に出てしゃべることが半ば生業みたいになってきてますからね。それで最近つくづく思うんですけど、そうやって人前でしゃべるってこと自体が、その行為自体がね、すごく意味のあることなんだって思うんですよ。

そうやってしゃべって聞いて笑って元気になっちまうってことが、すごく大事なんだってね。

あたくしも整体なんてことをやってますから、人様のからだを触っていろんなこともしますけど、いろんな悩みや相談の話を聞いているとね、もう目の前で無防備に寝ている人の隣で落語でも一席ぶって、げらげら笑って涙やらヨダレやらを垂らしまくってもらって、シーツを汚して「ごめんなさい」なんてやってた方が元気になるんじゃないかなんて、そんなこと思うこともありますよ。いやホントに。

人間はね、元気になれば、元気になるんですよ。

言葉にしちゃあ当たり前なんですけどね。 でもホントにそうなんです。

だからあたくしは落語家はエライって思うし、料理人だってエライと思うんです。人を元気にしてる。あたくしから言わせれば整体なんですよ、それはやっぱり。こちらが勝手に「整体だ」なんて言い方は、ご本人たちに失礼かもしれませんけどね、でも敬意を評して言ってるんです。ホントに尊敬してる。


あたくしもつい去年の話ですけどね、こんなことがありました。

あたくしの知り合いがえらく落ち込んじまったことがありましてね。まぁそのきっかけはあたくしなんですけど…(笑)。とにかく落ち込んじまいまして、電話で励まそうとしていたら一方的に切られちまいましてね。こっちもなんだか腹が立ったもんだから、真夜中でしたけど、そのまんま終電間近の電車に飛び乗って、いきなり家に押しかけた。

それでこちらも腹が立っていたもんだから、どうしてやろうかと思いましてね、夜道を歩いていたら自動販売機が煌煌と明かりをつけているのが目に入ったんで、「そうだ。水をぶっかけてやれ」と思いついて、水を買って家まで行った。

それで口に水を含んで玄関をトントンと叩いてね、そいつが扉を開けて顔を見せるのを待ち構えて、いきなりその顔に思いっきり

「プーーーッ!!!」(笑)

それで一言二言だけ言ってとっとと帰ったんですけど、こちらもあんまり腹を立てていたもんだから肝心の要件を言い忘れた。それで5分もしないうちにまたまた戻って玄関をトントントン(笑)。

あっちもさっきのことがあるから用心深くこっそり扉を開けまして(笑)、こちらもさすがに二回も水をぶっかけたら本気で怒られますからね、そのときは率直に用件だけ言いました。


え〜、あたくしをあんまりご存じじゃない方はね、驚かれたかもしれませんけどね、そんなこともするんですよ? あたくしは。

なんだかあたくしも巷じゃ「とってもやさしいRYO先生」ってことで通ってるみたいですけど、そんな表面だけ見て騙されちゃいけないですよ?(笑) 一見やさしそうに見える人に限って、心のなかで何たくらんでるか分からないもんです(笑)。

だからあたくしはよく「私の言ってることを信用しちゃいけない」って言ってるんですけど、これは本気ですからね。本気で信用しちゃいけない。あたくしの言ってることを本気で信用しちゃいけないってことは、信用しなきゃいけないってことですよ。 …あれ?どっちだ?分かんなくなっちゃった(笑)。

とにかくね、あたくしみたいな人間なんて迂闊に信用しちゃいけない。


まぁそれでね、その後その人もいちおう元気になりましたよ。いちおうね。それでこちらの言い分聞いてくれました。だって夜中に突然、顔に水ぶっかけられて落ち込んでる場合じゃないですよ、そりゃ(笑)。乱暴だけど、何かは変わった。

あたくしだっていちおう指導者の端くれですからね。人に元気になってもらうためにゃ何だってやりますよ。まぁ元々あたくしのせいでしたしね。できることは何でもやります。使えるものは何でも使うし、神だって仏だって利用する。神様だって人を幸せにするためにいるんでしょう? 戦争ばっか起こさせてないで、人が苦しんでいるときくらい役に立てって話ですよ。こんなこと言ってるとバチが当りそうですけどね。でもホントに何でもやりますよ。


あのね、さっきの話だってね、ホントのとこ、裏も話しちゃえばなかなか大変なんですよ?

夜中に水を買ってひとんち押しかけてですよ。玄関前で深呼吸した後、先ほど買い込んだペットボトルをパキリと開けて口いっぱいに含んでね。

怒ってるわりにゃ冷静じゃねぇかって話だけど、真夜中だからベルを鳴らすのも悪いと思って、玄関の扉を小さくコンコンコン…、気ぃ使うんですよ?あたくしは(笑)。

でもしばらくしても出てこないもんだから今度はもう少し強くトントントン、それでも出てこないから最後はドンドンドン…(笑)。

これ以上強く叩いたらさすがに申し訳ないと思っていたら、中から人の気配がしましてね。

(よ〜し、来やがった…)と思って準備万端待ち構えていたらね……、驚きましたよ。

「どちら様ですか?」と来やがった(笑)。

しまった。こっちゃあ口が開けらんねぇ(笑)。

返事をしなきゃ玄関開けてくんねぇよ(笑)。

かといってこのまま返事をしようってぇと、口からダバ〜ッとタリラリラ〜ですよ(笑)。

しょうがねぇから、ちいっと上を向いて口開けて答えようかと思ったら、水ってのは下のほうに溜まるんですねこれが(笑)。

するってぇと口は開いても今度はノドがふさがる。ゴボッ。

もう観念してゴクリと飲み込んで名乗りましたよ。そうしたら向こうもすぐ分かりますからね、ガチャガチャと鍵を開けはじめたから、急いで手に持っていたペットボトルの水をもういっぺん口に含んで、何事もなかったかのように澄ました顔しましてね、顔を見せた瞬間、いきなりその顔に思いっきり

「プーーーッ!!!」(笑)


まったくこんなことまでして、何やってんだって話ですけどね。

でも、ね?指導者ってのもなかなか大変なんですよ?(笑) もっともらしいことを言って「先生、先生」って言われていい気になってるだけじゃないんです。何だってやるんです。それが整体なのかって言われると困っちゃうんだけど、でも自分ん中じゃ一緒なんです。

何が人を元気にするのかってことは、あたくしはいつも考えてんです。その次に、何がその人を成長させるかってことですよね。やるべきことはそれだけだと思う。だからあたくしはやるべきことをやりますよ。やるしかない。それはもう決めたんです。


…ってことで、思いつくままにつらつら書いてんですけどね、何しろホントに思いつくまま書いてんで、「落ち」ってもんを考えてないから、どう終えようかとそろそろ困ってきてるんです(笑)。

まぁいつだって「落ち」なんてものを考えながらしゃべったことはないんで、関係ないんですけどね。いつもたいていつらつら書いているうちに、そこらへんに落ちてるもんを見つけて、「ああ、ちょうどいい。こいつでいいや」ってんで、ポンと最後に落としちゃうんで…。


ああそういえば「落ちてる」っていやぁこのまえね、古い仲間たちで友人の家をたずねた帰りに夜道を歩いていたら、十字路のど真ん中になんか落ちてるんですよ。

けっこう大きいんで「なんだこりゃ?」と思ってよく見てみたら、カエルなんですよ、これが。カエル。1月ですよ? 真冬ですよ? 何だってこんな時期のこんな時間のこんな道のど真ん中にカエルがいるのかと思ってビックリしましてね。

こりゃもしかして悪い魔法使いに魔法をかけられたお姫様が…なんて話が頭をよぎりまして…(笑)。

こんなとこに出くわすなんてこれはもう、あたくしがキスして救って差し上げるしかないと思いましたけど、でもね、聞くところによると最近彼らの世界じゃカエルツボカビとか何とかいうのが猛威を奮っているそうで…(笑)。世界中の両生類が絶滅の危機とか何とか…。

悩みましたよ。お姫様かツボカビか。キスしたらたちまちドロンと煙と共にお姫様が現れてね、「まぁ、ありがとう。あなたの勇気が私を元の姿に戻してくれました」なんてね(笑)、そんなロマンチックなのもなかなかいいじゃないかと思いましたけど、そのリスクがカエルツボカビですからね(笑)。

あたくしも何だかよく知りませんけどね、カビだけならともかくツボって付くのがなんだか怖い。しかも相手はカエルだ。それでね、あんまり悩んでいても駅まで見送ってくれている友人に悪いんでね、えいやっと決断しましたよ。

「やっぱりこのままカエルかな。」

…って、あれ? ダメ?

posted by RYO at 23:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする