2009年02月28日

鼻の奥がツンとする

この半月ほどずっと息つく暇もなくあわただしい。

とにかく、いろんなことがあった。

いろんなことがあって、いろんな人がいて、
いろんなことを感じて、いろんなことを突きつけられた。

身も心も落ち着かぬまま、怒涛のように日々が過ぎていった。

いや、まだその最中だ。


人の営みと言うのはなんだろう。

曼荼羅のように複雑に絡み合いながら、うわんうわんとうごめいて、結び目をひとつ解こうとしているだけなのに、あちらこちらで引かれ合ってまるで途方に暮れてしまう。

重重帝網。すべての網の目が鏡となってお互いのすべてを映し合っているのなら、外で起こるすべての出来事はまた、自分自身を反映した出来事でもあるのだろう。

私に起きる出来事が、「私」だ。


私自身は何もない。

背負うものも縛るものも区切るものも何もない。

いや、ないわけはない。でも、ない。

もうないし、まだない。

何もないから、私はいままで自分のことより他の人を空想し、その思いを受け止めたり、流したり、引き取ったりしてきた。

何もないから、それしかできない。

昔そんな私に、「アンタは偉いね」と涙を流してくれる人があった。

「アンタのせいだ」と激しくののしる人もあった。

もちろん私とてそんなことがあれば感情は激しく揺さぶられる。

でも、ただ静かに受け止め、また淡々と過ごした。

人は自分の心を御するだけでも精一杯なのだ。

ときおり、ふとものすごい寂しさに襲われ、夜の街をひたすら歩いたこともあった。

そんなときは、月と闇と夜の香りが私を慰めてくれた。


自分でもときどき、自分が何をしようとしているのかよく分からなくなる。

過ちや誤解されることばかりで、しかもできることは限りなく小さい。

目と鼻の先が 遠く 届かない。

でも、それでもやれることをやるしかない。

せめてもう少しだけ 善くあるように。


「ひと」というものを想う。

鼻の奥がツンとする。

posted by RYO at 21:59| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月15日

祈る体力

最近しばしば、私の口から「祈り」という言葉が出る。

「言葉は祈りの言葉であってほしい」と。

「かつて言葉はもっと力を、言霊を持っていた」と。

きっと最近感じている「世の中の呪いの言葉を吐く人のなんと多いことか」という思いから、そのような言葉が口をついて出てしまうのだろうけど、ホントに切実にそう思う。


最近そんなことを考えていたので、昨年末に出た松岡正剛さんの「白川静」(松岡正剛、平凡社新書、2008)を、「これは今読まねばならぬ」とさっそく手に取り読み始めた。

この本、「白川静を松岡正剛が語る」という、それだけでもうたまらん者にはたまらない垂涎モノのコラボレーションであるが、後半「正剛節」がうねりを利かせ始めるあたりからぐいぐいと引き込まれ、最後、加速しながら読み終えた。

う〜ん…読んで改めて思ったけれど、やっぱり言葉というものに本気で取り組んでいかなかければいけないのかもしれない。


「文字は呪能を持っている」と白川静は言う。

であるならば、かつてその文字を読む者の言葉にも呪力は宿っていただろう。

人々が、神や精霊たちと共にあった時代。

かつて、古代の人が満点の夜空を振り仰いで「星は巡る」と一言発したときには、それはただ「星が巡っている」という客観的事実を描写したわけではなかったはず。

それは事実を描写する言葉というよりもむしろ、未来へ向けた祈りの言葉であったろう。

「星は巡る」と一言発したときには、そこには「どうぞ星よ、これからも巡り続けたまえ」という切なる祈りが込められていた。それは全身全霊から発する言葉であった。

そしてそれは人に対しても、おそらく同じように語られたはず。

それはその人に対する祈りであり、願いであり、また予言であったろう。

その言葉にははっきりと言霊が宿っていた。そしてその言霊がまさに、現実を突き動かしたのだ。

言葉と世界はもっと密接であり、親密であり、抜き差しならない関係にあった。


今や、言葉にかつての呪力などありはしない。

人々ももはやそのような呪力を信じて、言葉を発することもない。

大量にあふれ、高速で流通する言葉たちは、どんどん透明化している。

だがそれでもなお、言葉の呪力がすべて完全に失われたわけではない。

私たちだって、巡っている星を見て「星は巡る」と口にした瞬間、星がぴたりと止まったり、ふっと消えたり、流れ星になって落っこちてしまったら、これほど不吉に思うことはないだろう(笑)。

そこで冷静に、「…しかし止まることもある。」などと新たに事実を描写するだけで、胸にざわめく只ならぬ気持ちがおさまるものではない。


そこが「科学の言葉」と「祈りの言葉」の違うところだ。

「科学の言葉」は世界を切り離し、主体と客体を断絶したところに成り立つものである。

むしろそこが混じっては科学の科学たるゆえんが揺らいでしまって困るわけで、徹底して主体を排除するように構築されている。

そうして初めて「客観性」というものが担保される。

だから何と言うか、「科学の言葉」が「事象」に対して何らかの責任を有するということはない。

そこに「誤謬」はあっても「責任」はない。


けれども「祈りの言葉」は違う。

「言葉」が「事象」に対して、少なからぬ責任を有している。

言い方を変えれば「つながり」を持っている。

言葉の主体が事象に対して積極的に関わりあっているのだ。

だから私は「魔女の言葉」だとも言っている。

魔女は言葉に自らの命を吹き込み世界に投げかけ、そこで起きる事象に他者の刻んだ徴を見、また自らの刻んだ徴を見る。

だからそれは呪力を持ち、モノゴトを動かし、「祈り」にもなれば、「呪い」にもなるのだ。


「祈りの言葉」は未来を見つめ、「科学の言葉」は過去を見つめる。

学術的な研究においては、その語り口は「科学の言葉」でなくてはならないだろう。

その研究がたとえ「己の祈り」に支えられていたとしても、研究内容そのものにそれが混じりこむことは、あってはならない。

だがしかし、生活の場面においてはその語り口は「祈りの言葉」であって欲しい。

今育ちつつある子どもと接するときなど、過去を見つめる「科学の言葉」で事実を認知し続けたところで、どんどん先を行く子どもの後追いにしかならない。

それでは「育てる」ということにならない。

今育ちつつある子どもと接するときには、子どもの中のいまだ現れぬ「萌し」を見て、そこに働きかける「祈りの言葉」で語りかけることが、萌しの成長を促す導きになる。

タマゴの中でカタチも持たぬままに眠る雛を、羽で覆い暖めること。

いまだカタチも無いところに、はっきりカタチを見て、そこに働きかけること。

それが祈りだ。

季節の萌しを感じて、花の咲く一足前に着物の柄に花をあしらうような「日本の方法」(@松岡正剛)など、それ自体が「幽かな祈り」でもあるように私には思える。

とくに子どもを育てる環境においては、そのような祈りが満ちていて欲しい。

「祈りの言葉」を述べるということは、そこに自分の命を分け与えるつもりで発するということだ。

そういう想いで語りかければ、「呪いの言葉」など吐きようが無いはずなのだけれど、まるで「己の事情」だけで言葉を発するから、人はそれと意識することもないうちに「呪いの言葉」を吐き出してしまうのだろう。


最近は、その「呪いの言葉」を最終的にとどめるのは、「かんがえる」ということなのかもしれないと思っている。

自分の中に入ってきたもの、あるいは自分の中から湧いてきたもの、それらがどれだけ醜悪なものであったとしても、それらを「かんがえとどめる」うちに、それが裡で熟して、深みのある滋味豊かなものとして表に提示できるのだ。

それができない人が抱えきれずに、表にいまだ未熟なものを熟さぬうちにダラダラと出す。

それを害ない形で逸らすのがテクニックではあるが、できればそれを思いとどめ、そして「かんがえる」ことができるようにしたい。


「かんがえるのが苦手」という人は、どうも「かんがえる」という方法に対する誤解があるようにも思えるのだけれど、どうなんだろう。

私はすごく素朴に、「2桁の掛け算が暗算でできれば、かんがえることは難しくない」と言ってしまおう。(祈りの言葉だ)

だからまずは2桁の掛け算の暗算を練習すればいい。

はい、23×16は?

…何? それができない?(笑)

ノンノン。さすがにそれは「できない」んじゃなくて、「やる気がない」だけでありましょう。

本気でやればすぐできる。元気があれば何でもできる(@猪木)。

必要なのは、「表象を思いとどめる」という方法だ。

シュタイナーもそのための行法を書いているけれど(薔薇十字の瞑想)、練習すればだれだってできるはず。

そこには「息を止める」という「呼吸」の力が関係する。

ふだん短距離走ばかりしているから、中距離走の息が続かなくなるのだ。

知的にタフであること。「知的肺活量」を鍛えよう。

祈り続けるのに必要なのはタフネス。

posted by RYO at 00:16| Comment(12) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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