2009年01月29日

呼ばれて応えて三分間

前回書いた「関係性」ということについて、「もう少し書いてほしい」というご要望をいただいたので、またまったく別の観点から思いつくままにつらつらと書いてみようと思う。


私が昔から比較的得意なことの一つとして、「その人の兄弟構成を当てる」というのがある。

このまえも初めて会った人となぜかそんな話になって、「じゃあ、私の兄弟は分かりますか?」と言われたので、その人の顔をじーっと見ながら、その人が二人姉妹で妹がいるということを見事当てたのだけれど、昔から何かそういう「関係の気配」のようなものを感じるのは得意だった。

その人の場合は、女兄弟が一人だけいるだろうということがまず浮かんだので、それはすぐ当てられた。

けれども、それが姉なのか妹なのかがもやもやしていて、最終的になんとなく「妹だ」という直感が湧いたので、それで答えてみたら正解だったのだ(ホッ)。

こういう感覚は分かる人には分かるだろうけど、分からない人には分からないかもしれない。

でもなんとなく兄弟構成が分かるという人は、比較的多いのではないだろうか。


昔、私の知人でやはり兄弟構成を当てるのが得意だという人がいたので、「どうやって兄弟がいるって分かるの?」と訊ねてみたら、彼女は「シャボン玉の泡のようなものがその人を取り囲んでいて、それが大きさによってお兄さんだったり妹だったりする」と答えた。

そのとき何気なく訊ねた私の予想をはるかに上回るユニークな返答だったので、「すごいなそれ!」とゲラゲラ笑っていたのだけれど、たしかにそういうはっきりとした感覚器官が存在しない、さまざまな感覚や経験を総合して知覚する超感覚というものは、人それぞれかなり独特なクオリア(質感)として浮かび上がるものである。

私の場合、強いて言葉にするならば「その人のそばにいて対話している人の気配」として感じるのだけれど、それが「シャボン玉の泡」に見えようが、「誰かの声」として聞こえようが、「独特の匂い」として匂おうが、それは人それぞれの経験や能力に応じた得意な表象イメージとして浮かび上がるものであろう。

そういった感覚を人はいろいろな名前で呼ぶけれど、私は呼び方自体に興味はないので、そんなことはどうでもいい。

私が興味があるのは、人それぞれ「どういう風に感じているのか」ということであり、そしてもっと興味があるのは、そういう人はいったいそこで「何を感じているのか」ということである。


前回も書いたように「関係性」というものは、少なからぬその人の人格形成に影響を及ぼしている。

とくにそれが幼少期であればなおさらだ。

子どもにとっての「親との関係」「兄弟との関係」というのは、その人の「対人関係の型」というものを決定的に基礎づける。

どうすれば可愛がられ、どうすれば怒られるか。
どうすれば振り向いてもらえ、どうすれば無視されるか。
どうすれば楽しく過ごせ、どうすればイヤな思いで過ごさなければならないか。

さまざまな経験をしながら身に付けてきた「型」は、それこそ身に沁み込んで、無意識の振る舞いとして滲み出ている。

ある人は「可愛い妹」として振る舞うことを引き受けたかもしれない。
ある人は「腕白坊主」として振る舞うことを引き受けたかもしれない。
ある人は「荒らぶるママのなだめ役」として振る舞うことを引き受けたかもしれない。

その育った家庭の関係性のなかで涵養された「対人関係の型」は、やがて大きくなって社会に出たときにも、「主たる構え」として発揮される。

だから例えば「妹としての型」を身に付け、その型の運用に特化して習熟した人は、どのような場に行っても「兄姉的存在」を見つけ、あるいは育て、そこと強固な関係を結ぼうとする。

なぜならそれが自分の得意な関係性であり、その関係性を構築さえできれば、その場における自分の立ち位置を「いつものやり方」でしっかり確保できるからだ。

そうやって、ある「型」を身に付けた人がジワリと場に要請する「対の型」というものがある。

場には、そういう運動が渦巻いている。


そのように、およそ人の集まる場には、その場には存在しないのだけれど、機能として要請され立ち現れるモノがある。

呼ばれることによってしか現われぬ、身を持たぬカタワレモノ。

それが現実の人に重なって機能することもある。

数人単位で重ねられて機能することもある。

誰にも引き受けられることなく、中空を彷徨い続けるモノもある。(なまねこなまねこ…)

そういった「精神運動」と「現実運動」との両輪で、私たちの関係は成り立っているわけだけれど、そこに不和が生じた場合、何らかの病を発症することになる。

まずは人と人との「あいだの失調」として、そしてやがては「人そのものの不調」として。

全体の「失調」は、必ずより小さな階層の「不調」として収斂されてゆく。


そういう引き取り手のないカタワレを、「引き受けることができる人」というのがいる。

それは、いい意味で「自分がない」人だ。

限られた時間、限られた空間でさえあれば、比較的多くの人ができる。

終わりがある程度見えていれば、どんなカタワレの役であろうと、それ相応になりきることもできるだろう。

だがこれが、「限りが見えないときにできるか」と言われれば、多くの人が躊躇することと思う。

それにはよほどの覚悟がいる。

ウルトラマンでさえ、日本中の期待を一身に背負ってヒーローを演じるのは三分しか持たないくらいなのだから、我々凡人など言わずもがなである。


でも考えてみれば、彼なんてなかなかいいやり方をやっている。

「オレは三分しかやらないよ」と初めに宣言してしまって、しかもそのためだけに、「からだにタイマーを埋め込んで光らせる」なんてことまでやってみせるんだから、そりゃそこまでされたら誰だってその条件を飲むより仕方がない。
(あれはどう考えたって地球人のための「地球仕様」である)

「そこまでするなら分かったよ。それでいいよ」と。

たしかにそれは一つのやり方ではある。

「この限りであれば引き受けるよ」と、最初に断固として宣言してしまうこと。

先に言った「彷徨いだしたモノ」のような、どんな災いを為すか分からないものは、とりあえず早めに対処しなければならないから、その一つのやり方として「ウルトラマン的方法」はいいかもしれない。

取り付く島のないモノは、何が何でも依代(よりしろ)を作り出そうとするから、先手を打って落とし処を用意してやる。

問題はカラータイマーをどのようにして周りに認知させるか、ということだけれど、それは「態度」で示さないと、やはり「症状」になってしまうから、はっきり態度で示すしかない。


ただ、うまく言えないのだけれど、最終的にそういう存在はそれぞれが自分の中に引き取らなければならないものだと私は思っている。

できるかどうかは別として、一人一人がそれを目指していくということ。

ウルトラマンはいつかは自分が引き受けなくちゃいけないし、仮面ライダーだって何とかレンジャーだって、ありとあらゆる「カタワレ」「要請に応えるモノ」は、いつかは自分のなかで担わなくちゃいけない。

そうして初めて人は「間(関係性)」そのものを内包した、「人間」という存在になれるのではないだろうか。

posted by RYO at 20:08| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月15日

丸ごと全体を変えてゆくために

このまえの朝カル講座の前に、担当のNさんとおしゃべりしていたら、いろんな健康法や療法の本を読んでいると、大病を患った人たちに「生き方を変えなくちゃいけない」というようなことがよく書かれているけれど、生き方を変えるっていうのはホントに難しいことですよね、という話になった。

生き方を変えるのにその障害となるものはいろいろあるけれど、特にその中でも「関係性が変わらない」ということは大きいだろうという話で、二人で大きくうなずきあった。

自分自身が「生き方を変えよう」と決心して、小さなことから一生懸命自分自身の考え方や振る舞いを変えていこうと努力していても、周囲の人間が先入観や習慣によって、変容しつつあるその人を「今までのその人」として見つめ、そこに向けて言葉をかけ、レスポンスを求めてしまうゆえに、今までの立ち位置に引き戻されてしまうということは非常に多い。

いや、「非常に多い」というよりも、「必ず付きまとうこと」である。

ただでさえ自分自身の今までの習慣から脱却すること自体が困難であるのに、周囲の反応がその関係性において「今までの私」「いつもの私」を要求してくるのであれば、まるで後ろからたくさんの手に掴まれ引きずり戻されているような、そんな心境に陥ることだろう。

それで結局、Nさんとしゃべりながら、「生き方を変えるためには全部断ち切らなきゃいけないかもしれませんね」なんて話になったのだけれど、それはある土地に生えている植物が、『ここにいたら枯れるしかない』と覚悟を決めて、ブチブチッと自分の根っこを全部断ち切って、海を泳いで隣の島に渡って、そこでまた一生懸命、その土壌に合わせた根を生やしていくようなものだ。

下手したらその選択した行動自体によって命を落としかねない、まさに死に物狂いの決行である。

でも「生き方を変える」って、それぐらいのことだろう。


ただ、繰り返し周囲の人間が「今までの関係」「いつもの関係」を要求してくるのは、安定した組織構造を維持しようとする負のフィードバックであって、人間同士が集まった複合有機体としてのホメオスタシス(恒常性)の現われであるから、大きく見たときには一概に悪いというわけではないのだ。

それがまた厄介なことなのだけれど、当事者からすれば「冗談じゃない」という話である。

変化を望もうとする個々の生命にとっては、繰り返し克服していかなければならない壁でもある。

私が指導のなかで行なっていることは、そのホメオスタシスの働きを「もうひとつ次数の高い系(システム)に繰り込んでしまう」か、あるいは「外部の系とつなげる」ということになるのだけれど、そこを話し出すと、話が脱線したまま「線路は続くよどこまでも」になってしまうので、それはまたいつか別の機会に。


「es[エス]」というドイツ映画がある。

1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた心理実験をもとにして作られた映画であるが、どのような実験かというと、新聞広告で募集した一般人に刑務所を模した実験棟に入ってもらい、無作為に看守役と囚人役に振り分け、演じてもらうというものである。

結果から言うと、演じている参加者たちがその役割にどんどん没入していってしまい、看守役が囚人役に非人道的な行為を振るい始めるにいたって、この実験がきわめて危険な実験であることが判明し、もともと二週間を予定していた実験期間を7日で中止せざるを得なくなってしまった。

その後、参加者たちによる訴訟問題にまで発展してしまったこの実験は、危険であるとの理由で現在も禁止されていると言う。

「『自分』とはいったい何か?」ということを強烈に考えさせられる映画であるが、「この心理実験を行なうことを禁止しなくてはならなかった」という歴史的事実が、人間の人格というものがその場の関係性によって危険なまでに大きく左右されるものだという、けっこう悲しい事実を物語っている。


人間というのはその字の通り、「間」によって、「関係性」によって、生きている存在である。

「ある状況」を再現し、そのなかでの役割を全員で分担すると、そこにはひとつの世界(系)が生まれる。

しばらく本気で演じているうちに、やがてその場に自己組織化にも似た現象が起こり、それぞれちょうどよい役割、関係性というものが構築され始める。

するとそこにはすでに、その関係性を維持しようとするフィードバック回路がおのずと立ち上がっていて、ホメオスタシスが働き始めているのだ。

およそどんなにありえない状況であろうとも、一度その中にポンと放り込まれ、しばらくそこから出られないのだとすれば、その中で人はおのずと自分自身の立ち位置を探し、そこでの役割を生き始め、そのうち虚と実が入り交じってくる。

はじめにどのような状況設定をするかによって、個々人の役割も、その集団全体が向かう方向も大きく変わる。

この構築主義的な考え方は、もちろん様々な異論もあろうけれども、少なくとも自分がある場を持って、そこに新しい関係性を作り上げようという実践をしていくならば、必ず考えなければいけないことである。

その場の状況設定を誤れば、それこそ映画「エス」のなかで起きた惨劇を繰り返すことになりかねない。


そういう意味では、たとえば「結婚」や「出産」のような、新しい関係性、新しい場をこれから立ち上げようという営みにおいては、最初にどのような状況設定をするのかということは、とても大切なことなのではなかろうか。

家族という場を立ち上げるときに、その場の原理として「非対称性」(男優先とか女優先とか)を導入しようと、「対称性」(男女一切平等とか)を導入しようと、それぞれの原理におけるより良いルールの在り方というものがあるのだから、「黙って俺についてこい家族」や「カカア天下家族」、あるいは「個人自由主義家族」や「原始共同体的家族」において、それぞれの性格や特徴や思想や労働形態に応じた決めごとを、それぞれ作っていけば良いのだ。

各人が担うべき役割というのは、それぞれの場の成り立ち方によってユニークであり、そのユニークさは場の要請と個人の性質に依る。

時折、それが大きく偏っていたり、欠落していたりすることがあって、するとその場のどこかに失調が起こるのだ。

そのように、ある場のなかで不調が起きたのならば、それはその部位、つまりその個人だけの問題なのではなく、その系(家族)全体の失調として、少なくとも一度は考えてみるということはとても大切なことだ。

それぞれ個々の現象を見つめながらもそれに捉われぬ、マルチフォーカスな眼を涵養し、そこに働きかけるすべを身に付ける。

とにかくこれをやっていくしかない。

posted by RYO at 20:59| Comment(8) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月03日

整体的子育て講座の案内(2014年2月19日更新)

ご好評いただいている「整体的子育て講座」と「整体講座」のご案内です。

・6月   「ママは子どもの整体師」@新宿 朝日カルチャーセンター
・4月   「じっくり学ぶ整体入門」@新宿 朝日カルチャーセンター
・3月6月 「ママは子どもの整体師」@立川 朝日カルチャーセンター
・5月   「からだで感じる寺子屋」@立川 朝日カルチャーセンター
・1月〜6月 「整体的子育て講座」@国分寺 カフェスロー

子育て中の方で、初めて「整体」の講座に出てみたいと思われる方は、一度カルチャーセンターでの一般向けの講座に出てみるのがオススメです。興味のある方はこちらでご紹介している講座にぜひ一度ご参加下さい。

新宿朝カルの「じっくり学ぶ整体入門」講座は、「整体に興味がある」「愉気というものをきちんと学びたい」という大人の方向けの講座です。とくに「子ども向け・親子向け」に絞っているわけではないので、その点で躊躇されていた方はどうぞぜひご参加ください。

立川朝カルの「からだで感じる寺子屋」講座は、夜に開く大人向けのマニアック講座です。からだを動かしたり、からだを感じたり、からだを考えたり…。何をやるかは毎回お楽しみ。ディープでマニアックな山上ワールドを堪能したいという方はぜひどうぞ。

「自然育児友の会」の事務所があるということでご存じの方も多いかと思いますが、国分寺から徒歩5分ほどのところにある「カフェスロー」というところで、毎月講座を行なっております。

こちらは主催が自然育児友の会となっておりますので、直接お申し込みください。

基本的にどの講座も初めての方でも分かりやすいよう、初歩的なところから触れてゆきますので、どうぞお気軽にお申し込みください。

なお講座開催日近くなりますと、満員でお断りせざるを得ない可能性があります。受講のお申し込みはお早めになさいますようお願い申し上げます。

RYO


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

●「ママは子どもの整体師」@新宿 朝日カルチャーセンター
 &「じっくり学ぶ整体入門」@新宿 朝日カルチャーセンター

講座名  「ママは子どもの整体師」
日時    06月13日(金) 10:30〜12:00 「梅雨の手当て」
講座名  「じっくり学ぶ整体入門」
日時    04月11日(金) 10:30〜12:00 「活元運動」
受講料  単発 3,360円 (朝カル会員 2,730円)
会場    朝日カルチャーセンター新宿
       新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル4階
交通    都営地下鉄大江戸線「都庁前駅」真上
       JR「新宿駅」西口徒歩8分(地図
申込み  新宿朝日カルチャーセンター
<電話番号> 03-3344-5450
<受付時間> 月曜〜土曜 10:30〜18:00
あるいは新宿朝日カルチャーセンター(HP)から
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

●「ママは子どもの整体師」@立川 朝日カルチャーセンター
 &「からだで感じる寺子屋」@立川 朝日カルチャーセンター

講座名  「ママは子どもの整体師」
日時    03月19日(水) 10:15〜11:45 「春のからだを整える」
       06月05日(水) 10:15〜11:45 「梅雨の手当て」
講座名  「からだで感じる寺子屋」
日時    05月29日(木) 19:20〜20:45
受講料  単発 3,045円 (朝カル会員 2,415円)
会場    朝日カルチャーセンター立川
       立川市曙町2-1-1 ルミネ立川店9階
交通    JR中央線「立川駅」真上
       多摩都市モノレール「立川北駅」すぐ
申込み  立川朝日カルチャーセンター(HP)
<電話番号> 042-527-6511
<受付時間> 月曜〜金曜 9:45〜19:00
          土曜 9:45〜18:30 日曜 9:45〜16:00
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

●「整体的子育て講座」@国分寺 自然育児友の会(カフェスロー)

講座名  「整体的子育て講座」
日程    03月26日(水)、04月16日(水)、05月21日(水)、06月18日(水)
時間   10:30〜12:30 「整体的子育て講座」
      13:30〜16:00 「整体個人指導」(施術、相談など)
料金    自然育児友の会HP参照
会場    カフェスロー2階和室
       東京都国分寺市東元町2-20-10
交通    JR中央線「国分寺駅」南口から徒歩5分(地図)
申込み  自然育児友の会(HP)


posted by RYO at 00:00| 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月01日

新年舞

みなさん、あけましておめでとうございます。
昨年中は、私の愚にも付かぬ雑念妄想に
お付き合いただきましてありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお付き合いいただければ
これ幸いと存じます。


さて、皆様への年始のご挨拶と言っては何ですが、年末に知人のうききさんから教えてもらった動画を、年始の挨拶代わりにご紹介したいと思います。

けっこう有名な動画だそうですけれども、ワタクシ全然知りませんでした。

なんか、いいです。素敵です。

うききさんも言っておりましたが、見ていると何か動かされるものがある。

こころが、からだが踊りだす。(昔コカコーラがそんなコピーでしたね)

何だかもっと元気になるような、何だかもっと人間を好きになるような、何だかもっと旅したくなるような、何だかもっと動きたくなるような、そんな動画です。音楽もいい。

こんな踊りから一年をはじめるのも良くないですか?


(リンク先に行くともっと大きな画面で観られます)
posted by RYO at 08:17| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする