2008年12月31日

2008年下半期 記事一覧

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2008年12月23日

平凡な場

忙しい。

さすがに師走である。

あれやらこれやら用事が立てこんで、なかなかブログを書くヒマがない。

ここにきてようやく目処がついてきたけれども、まだまだ今年中にやることはある。

そういえば年賀状だって…(う…)。

ブログを始めた当初は(もはや三年前の話になるが)、まぁ日々よほどヒマあったのか、ちょこちょこ書きつつ、だいたい三日おきくらいには記事をアップしていた。

今思えばずいぶん余裕のある生活をしていたものである。羨ましい。

「忙しい」ということはありがたいことであるが、「ヒマである」ということもずいぶんありがたいことである。


今までの人生を思い返してみると、自分の人生のなかで一番ヒマで、ひたすらこつこつと自分のことをやっていた時期というのは大学四年の時である。

私は四年の時には単位は卒論を残して完全に履修し終えていたから授業なんて一個も取っていなかったし、学科の研究室も「卒論はよそで書きます」とはやばやと宣言して飛び出してしまったし、就活もまったく就職するつもりがなかったから一秒たりともしなかったし、ホントに卒論以外、何もすることなどなかった。

晴れたらふらふらと多摩川を散歩し、雨が降ったら読書をするという、晴行雨読な贅沢な日々。

暗い部屋で一人ポツンと正座をしながら読書をしている私の姿を見た後輩には、「仙人みたいですね…」と言われるような、ホントにそんな浮世離れした生活をしていた。

散歩帰りに畑のわきの無人販売に寄って泥つき野菜を買い、夕方になるといそいそとご飯を作り始め、同じ下宿の友人に「ご飯作ったけど食べない?」と声をかけては一緒に食べ、夜中に仕事から帰ってくるアニキには「お帰りなさい。ご飯作ってありますよ」と声をかける、そんな平々凡々な毎日である。


私の部屋の鍵は、大家さんにもらってすぐどこかに置いたまま忘れてしまったので、三年半の下宿生活のあいだ一度も鍵をかけたことがなかった。

だから、私がいるときもいないときもずいぶんいろんな人が出入りした。

知ってる人もいた。知らない人もいた。猫もいた。漁られていた(笑)。

私のいないあいだに友人が使っていることなどしょっちゅうだったし、見も知らぬ男が寝ていたときにはさすがに「誰?」と聞いたけれど、彼は「いや、○○君にあの部屋なら使えるよって言われて…」と答えた。ああ、そうですか。


飲み会があるときは、だいたい二次会は私の部屋というのが定番だったから、木造土壁六畳間のむさ苦しい部屋にぎゅうぎゅう詰めで飲んで騒いで暴れたりした。

ときに深夜遅く近所の苦情で警官が来た時も、部屋のあるじとして単身向かい合い、ひたすら低頭平伏、お巡りさんの「今日はもう解散してくれますよね?!」という強権的威圧に、ただ頭を下げつつ「静かにしますんで…」とそれだけを繰り返し、最後の防衛ラインを死守したこともあった。

そして次の朝ツワモノどもが帰った後には、午前のまぶしい陽の差すなか、こぼれた酒やら柿ピーやらスルメやらが散らばる部屋を、二日酔いでボーッとするアタマで掃除をして、蔵書が下敷きになって折れ目がついていたり、CDケースが割れていたりするのを見つけては、「これが引き受けるってことだ…」と自分につぶやいていたりした。


…ってこう書いてみると、「自分のことだけやっていた」とか言うわりには、意外とそうでもないことに気づいてしまったりもするけれど(笑)、ともあれ、思い返すたびまことにうるわしきベルエポックである。

今から考えれば、それとは知らずに「場を持つ」ということを自分なりに練習していたのかもしれない。


いま子育て講座などをやって大勢の親子と関わっていると、こういう何でもない場というものの必要性をひしひしと感じてならない。

何となくいつ行ってもドアは開いていて、いて何をしなければならないということでもなく、のんびりしていると同じように誰かがふらりとやってくる、そんな場。

熱心なお母さんたちが、熱心に子育てをして、肩肘張ってくたびれてしまったときに、「まぁ、お茶でも」とか言って迎えてくれる場。

理想の育児は理想の育児として、でもときに肩の荷降ろして、「育児っていうのはウンコを拭くってことなのね」みたいなことをお互い言い合って、自嘲気味にケラケラ笑ってお茶でも飲むのもいいじゃないか。

サニーサイドばかりが語られがちな育児だけれど、ダークサイドも吐露できる、そんな場所もやっぱり大事だ。

「理想的な育児をしよう」と気負いすぎると、そこから追いやられた鬼や悪魔が見えないところでどんどん育つ。

鬼や悪魔は蔑まれ疎んじられ虐げられると育つから、ゆるく一緒にやっていくのがいい。

そのためには… ああ、やっぱり為すべきことは多い。

posted by RYO at 20:52| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月11日

見て聴いて触れて

講義録などをしこしことアップしているあいだに、世の中は猛烈な勢いで師走に突入してしまった。

寒い寒い。

そのあいだに私も、新潟に行ったり、長野に行ったり、大阪に行ったり、パパ講座があったり。

忙しい忙しい。

おかげさまで大盛況な朝日カルチャーセンター「ママは子どもの整体師」。

「パパ講座もやりましょうよ」という担当Nさんの声に、「よし、やってしまいましょうか!」と返事をしてやってしまったのが、先月末の「パパも子どもの整体師」。

正直どれだけ人が集まるのかドキドキだったけれど、ふたを開けてみれば大勢の参加者に集まっていただけたので、ほっと一安心。

新宿の高層ビルの一室に、野郎どもが集まって、育児を語り、手当てを学び、お互いからだを触りあって「気持ちいい…」とまったりするという(笑)、とても素晴らしい会であった。

来てくださったパパさんたちは、いつも集まるママさんたちに負けず劣らず熱心な方たちばかりで、手当ての実技をする私の手元を覗き込み、質疑応答でもポイントを突いた良い質問が飛び出し、パパたちも真剣に育児に関わりたいと思っているということがひしひしと伝わってきた。

そうそう、パパたち出番でありますよ。

最後に「これだけは外せません」と言って、ママへの手当ても実習したので、おそらく皆さん帰ってママに「お疲れさん」と手当てし、癒してあげたはず。

いろいろ思うところはあるだろうけど、まずはお互い優しさ持ち寄りそっと触れ合おうではないか。


親子講座をさんざんやりながら、改めて最近思うことは「触れ合うこと」の大切さである。

もちろん私が「触れ合う」と言うときは、文字通り手でもって「触れ合う」ということである。

私たちは「触れている」とき、じつは膨大な量の情報をそこでコミュニケートしている。

その情報量は「言語」によるやり取りの比ではない。

「言語」を代表とする「記号操作」に卓越した人間は、どうも物事を記号化して把握した時点でそのものを理解したつもりになってしまいがちだが、そこには記号化の時点で「膨大なディテールを塗りつぶして平面化している」という認識が抜け落ちている。


目の前にいる人間は「ヤマダさん」かもしれないが、「ヤマダさん」という記号化をした時点で膨大なディテールが消える。

「ヤマダさん」は今日ちょっぴり顔色が悪いかもしれない。髪型を変えてみたかもしれない。不満があるかもしれない。嬉しいことがあったかもしれない。一大決心をしたかもしれない。

そういうディテールは必ず表面に現われているものだが、「記号」として見ることに慣れてしまっていると、意識化されずにさらりと見過ごされることになる。

「松の木を松の木として見る」ことはホントに難しい。

「それは知ってる」とか「私は分かってる」なんて、軽々しく言ってはいけないのだ。

それはある種の暴力だ。

言語の誘惑から身をよじって離脱し、知ってるつもりの目の前のモノやヒトを、もう一度、よく見、よく聞き、よく触れ、よく嗅ぎ、よく味わってみよ。

対象を目で見、耳で聞き、手で触れ、鼻で嗅ぎ、舌で味わうということは、その対象の「記号化」が解体されてゆくということだ。

そこに生まれる対象とのエロティックな関係に身を置いてみれば、「記号化」ということの粗暴な暴力性がよく分かることだろう。

じっと見つめて、よく聴いて、優しく手で触れ、匂いを嗅いで、キスをしてみる。

ほら、そこで生まれるものは、言葉になんかできない。

La La La…♪

って、そりゃ小田和正(笑)。


ところで私はよく講座で「偽札」のお話をする。

たびたび発見され世間を賑わせる偽札は多くの場合、発見者が「触ったときに何かいつもと違う感触がした」ことから発覚する。

紙幣というものは、「毎日数えるのが趣味」とかそんなユニークな人でもない限り、ふだんそんなにまじまじと触ることは無いかもしれないが、それでも私たちは生活のなかでほぼ毎日触れるものだから、それなりにはっきりした質感(クオリア)というものが無意識裡に出来上がっている。

だからあるときぱっと手にした瞬間のホントにちょっとした微妙な差異に、「ん?」と気づくのである。

「1/1000mm(1ミクロン)の凹凸」であっても触知できるという人間の触覚の能力は、いつだって私たちの意識にのぼらぬようなディテールまでも感受しているのだ。


だからとにかく毎日触れること。

それもあまり意識しなくていいから、無心に、天心に。

家族のからだに手を当てポカンとすること。

手を当てているときに、意識が何か他のことに注意を向けてさえいなければ、その「1/1000mmのディテール」が私たちの意識に主題化されるのだ。

そのときそこで起きている微妙な変化の気配が、ポカンと意識に到来する。

偽札にフッと気づくのも、何でもないやり取りのなかでアタマがポカンとしているからであり、次の買い物のことなど考えていたら、おそらく決して分からない。

「天心で触れる」ということを整体では口を酸っぱくして言われるが、全身を一個の感覚器官として目の前の事象を感じきるためには、「触れている」という事実以外のどこにも注意の焦点を作ってはいけないのだ。

人は感覚すると、すぐそれに何らかの判断(記号化)を与えたくなってしまうが、それは注意の焦点が自分のアタマのなかの記号操作に集まってしまうということであり、触れているときには「それをしない」という「自制の構え」「慎みの態度」が何より大切なのである。

それだけが、物事を正しく見つめさせる。

まずは触れてみよう。

そして、ただ感じてみよう。

そこには準備されたものなど何もいらない。

posted by RYO at 22:34| Comment(10) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする