2008年11月29日

「気話会」講話録('07.11) (7/7)

●からだに任せて飛び込む

 一時期つくづく思ったんですけど、何か問題が起きた時にそういうところはつい見ないようにしちゃいますけど、飛び込んだ方が早いなって。イヤなことからはつい逃げたくなっちゃうんですけど、それよりは覚悟を決めてポンと飛び込んだ方が何かが起きて案外良い方向に向かうものなんですよね。人間関係でも「あの人といるとくたびれるな」と思って、だんだん離れていっちゃって、それでホントに離れられればいいですけど、それでも隣にずっといるとかね、そういう状況にいるとずっとくたびれ続けることになっちゃって、それこそホントに病気になったりね。それよりは飛び込んじゃった方がいいんじゃないかと思うんです。しっかり向かい合ってみたら案外何てことなく事が終わってしまったりして。見ないようにしてゆくとどんどんそれが大きくなりますから。

――どうやって飛び込んだらいいんですか?

 何も考えない方がいいと思いますよ。飛び込むときは。ただ肚に力を入れて覚悟を決めて、あとは飛び込んで自分のからだに任せるっていうのがいいと思います。ヘタに考えるとこじれるだけなんで、ありのままでボンと飛び込んでいくしかないですね。私の数少ない経験で思いました。ごちゃごちゃ考えていると余計にこじれるんで何も考えず覚悟だけ決めてボンと飛び込んじゃう。もちろん何が起きるかまったく分かりませんけどね。そんなことして。でもたいてい悪くなることはないですよ。何か通じるんでしょうね。そういうのは。

――イヤだったら逃げちゃう…(笑)。

 逃げられればいいんですよ(笑)。逃げられれば逃げるのも大事です。でもこれは逃げられないと思ったら、どこかで覚悟を決めて飛び込んじゃった方が逆に楽なことの方が多いと思いますよ。逃げられることは逃げて、逃げられないものは飛び込んじゃった方が楽かもしれない。影ほど怖いものはないですからね。見ないようにしていると影だけが、気配だけがいつまでも残りますでしょう。気配っていうのはどんどん巨大になっていきますからね。やっぱり見えないっていうのは一番怖いですから。正体っていうのは案外小さいもので、でも見ないようにしていると空想はどんどん大きくなっていきますから、ますます巨大で恐くて怖ろしいものになってゆく。でも飛び込んでしまうとその闇の中から正体が出てきたときには案外何でもないものだったりして、「何でこんなものを怖がって逃げていたのかな」なんて思ったりするんですよね。昔話の教えとかでもありますけど、ホントにそう思います。


●語り継がれる知恵

 「見越し入道」っていう妖怪がいるんです。最初は小僧みたいな小さな人影なんですけど、でも見ているとどんどん大きくなっていくんです。それで見上げれば見上げるほどどんどん大きくなっていって、ヘタをすると命を奪われるっていう妖怪なんです。それでそういうのに出会ってしまった時の対処法っていうのがあって、見上げるんじゃなくて頭から下に下に見下ろしていくんです。グーッと見下ろしていくとどんどん小さくなっていって、自分の背より小さくなった瞬間に「見越した!」って叫ぶんです。そうするとパッと消えちゃう。その話は意味深いですよね。ホントにそういうもんだと思います。なんだか正体の分からないモノっていうのはついつい見上げちゃってどんどん大きくなっていっちゃいますけど、頭から下に見下ろしていくとその正体はホントにちっぽけなもので、ちっぽけになった瞬間に肚に力を入れて「見越した!」って言うことで、それが雲散霧消してパッと消えちゃうっていうね。

 私もその話を聞いた時には「なるほどな」と思いましたけど、そういう昔話とかって深い教えがありますよね。神話に始まり妖怪譚とかお伽話とか。そういう目に見えないよく分からない災厄を呼び起こすものをモノノケとか妖怪とか呼んで、物語として語り継ぐことで教えを代々受け継いできたんだと思います。


 …まぁ、あんまりしゃべってばかりじゃなくてからだも動かしてゆきましょうね(笑)。
 そうですね。波を感じることをもう一度やっておきましょう。足を持ってゆらゆらと揺らすやつですね。足から伝わっていった波がズーッとからだの中を抜けていって頭の先から抜けてゆく、そういうイメージですね。波というのはエネルギーですから抜けてゆくんです。とにかくただ抜けてゆく。ただ抜けてゆくだけでからだの中の流れを呼び起こして整えてゆくんです。流れというのは通り抜けてゆくものなんです。通り抜けてゆくときに仕事をするんです。電気もそうですよね。電気も流れています。だから同じように通り抜けるときに仕事をしているんです。コンセントって穴が二つありますよね? それはなぜかって言うと、入ってきて、出てゆくためなんです。電気も通り抜けるときに仕事をしているんです。だからきちんと流れてさえいればいいんです。じゃあやってみましょう。(了)

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2008年11月25日

「気話会」講話録('07.11) (6/7)

●実践してゆくということ

 とにかく流れをちゃんと意識しておくことって大事なんです。それで整体の手当ての基本である愉気っていうのは、その流れを誘導してあげるっていうことなんですよね。何か愉気が特別なエネルギーを出して治すとかそういうことじゃなくて、ただ「あっちだよ」ってその流れの方向を教えてあげるぐらいのことをしてるんです。流れがきちっと通るようにしてあげるだけのことなんです。だから「愉気をして自分の気が減って相手の気が増えて」なんていうふうには捉えないのが整体の気の捉え方なんです。むしろやればやるほど自分も元気になるっていうふうに。減るもんじゃないよっていうね。どんなに風が強く吹いて風車を勢いよく回したからって、空気は減りはしないでしょう? 生命力っていうのはそういうもんなんです。

――現実に私なんかが手を当てても違うんですものね。帰るときに顔が違うんですよ。

 誰にでもあるものなんですよ。命の当たり前の行為なんで、「出来る」とか「出来ない」とかそんなことはなくて、ホントに誰もが当たり前に手を当ててあげれば起きる出来事なんですよ。愉気って。ちょっと忘れすぎてしまったんですよね。私たちが。昔はもう少し普通に村とか集落とかに「お手当て婆さん」というのがいて、もっと当たり前に民間療法家としてただ手を当てて呪文みたいなものを唱えたりして治していたんですよね。ものもらいが出来たっていうとそういうところに行ってお手当てしてもらうみたいなことが当たり前にあったって聞きますけどね。


 私の知り合いでもいますけど、その人のひい婆ちゃんっていうのがお手当てしていて、エピソードを聞くとやっぱり面白いんですよ。昔は野口先生みたいな人がもっと普通にいたんだなって思うとホントに愉快でね。その人はフッフッって背中に息をかけて払うんですって。それで子ども心に「何やってんだろう?お婆ちゃん」って思って、「何やってんの?」って訊いたら「思い込みを払ってんだよ」って答えたそうです。いろんなことを思い込んで自分の中でごちゃごちゃしてるのをフッフッと払ってあげて「ハイ大丈夫」って言ってあげてね。そうしたら何だか元気になったような気がしてそのまま元気になって…。フッと思い込みが外れるとね、何かが変わり始めたりしてね。

 野口先生も自分のやっていることを「暗示からの解放」っておっしゃっていましたけれども、自分で自分に暗示をかけてがんじがらめにして病気になったり、元気を無くしたりしているから、それから開放してあげるだけでホントに人は元気になるって言って、自分の生涯の仕事として「暗示からの開放」ということを貫いていましたよね。野口先生は。

――そういうことができたらいいですね。

 そういうのはね、できるかどうかじゃなくてね、やるかどうかなんだと思いますよ。もうやるしかないと思ってるんです。私は。何て言うんですかね。最近思うんですけど、こういうことって稽古できないなって思うんです。もうやるしかないなと思って。だからそういう人がいたら手を当ててあげたり、払ってあげればいいんです。そうして「大丈夫」って言ってあげてね。そうしたらフッとその人の目が輝いてきたりしてね。それはもう練習とかじゃなくて、フッと思った瞬間にやるしかないことで、だからもう機会があったら動くしかないんですよ。やるしかない。


 野口先生も「練習するな」って言ってますけどね。「稽古しちゃいけない」って。一回見て覚えたら忘れろと。必要な時に思い出すからって。奥が深いなと思いますけど…。練習していると…何て言うんですかね。練習しちゃダメなんですよ。言葉にできないですけど。

――自分の意識が入っちゃうから…

 何か余計になっちゃうんです。フッと思った瞬間にフッと動いて、そのとき何かが出来るんです。でもあんまり下手に練習しすぎるとそういうふうに動くことが出来なくなっちゃう。あのね、稽古なんてね、いくらやったって上手くなるのは稽古だけなんですよ。いや、もちろん稽古も大事なんですけど、そこをブレイクスルーするためには稽古だけじゃダメなんです。整体では「活法」といって倒れた人の息を吹き返す技術とかそういう救急法があるんです。そういうのも教えるんですけど「忘れなさい」って言うんですよ。「ノートなんか取っちゃダメだ」って。見て覚えたら忘れなさいって。そのことの意味を感じますね。だから自分の頭の中からもいろんなものを払って払って…

――払ってもらいたい(笑)。つまらないことばっかり。

 そうですね(笑)。なかなか自分のは払えないですから、誰かに払ってもらわないといけないのかも知れませんけど、でもそうして動かなくなって止まっていたものが外から来た風でフッと流れ始めると身が軽くなりますよね。わだかまりとか滞りとか。だからそういうものに気づいた時には、なるべくそこに風を入れるようにしてゆくといいですよ。

 私はよく「外の風を招き入れる」っていう表現をするんですけど、そういう感覚って大事なんです。外部とつながっていないと組織っていうのは必ず淀んでいくんです。熱力学ではエントロピーなんて言いますけど。自家中毒起こして自死に向かう。逆にいえば外部とつながっていることで、外からときおりやってくる新しい刺激によって秩序が保たれるんです。外部と交流することでしか生命は保たれないんです。

⇒つづく

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2008年11月20日

「気話会」講話録('07.11) (5/7)

●伝統文化に見る発散の知恵

 昔はそういうのをたとえば滝行なんかで滝に入って厄を落とすというか、そういうことをしていましたよね。むかし滝行をやったことがありますけどあれは強烈なんです。バーッと上から落ちてくる水に打たれて、水量が多いときなんて肩とか内出血するくらいすごかったりするんですけど、あれはもう事故なんですよね。事故に遭う前に自分で事故に遭っちゃうんです。滝の中に飛び込んで。

 そうしてからだじゅうにバッチバッチ浴びて悪いものを削ぎ落として流してゆくっていうのが禊(身削ぎ)ってことなんですけど、そうやってからだが「死ぬんじゃないか」っていうびっくりするようなことをあえてわざわざやることで、余計ないざこざを生み出してしまうような自分の中に溜まったものを発散させてしまうんです。寝ぼけた生命力を賦活させるんですね。そうするとしばらく落ちつくんです。自分の中に滞ってしまっていた余剰エネルギーが発散されますから、争いの種になるようなものがずいぶん減って、無病息災じゃないですけど、そういうことはからだから見ても確かに理に適っているんですよね。そういう意味で修行みたいな荒行みたいなものも時々やっているとすごく元気だし、ご利益的な意味だけじゃなくて、整体的な観点からしても病気も減るし怪我も減るだろうなと思います。

 各地にあった「喧嘩祭り」みたいなものもやっぱりそういうものなんだと思います。ヘタをすれば死者が出るくらい激しい祭りを何で毎年やっているんだって言えば、やっぱり一年ずっと暮らしているといろんなゴタゴタがあって、お互いが何となく我慢していることがだんだん溜まってきたときに、それをきちっと発散させるシステムとしてね、「今日はいいよ」っていう「喧嘩祭り」とか「悪口祭り」みたいなものがあって、「今日は無礼講ではしゃいでいいぞ」っていう全員の了解の下にワーッと出して、とにかく全部出して燃やしちゃって、共同体全体の毒出しをしてスッキリしちゃうっていうね。お祭りやってワーッと発散させると土地全体がゆるむっていう、そういうエネルギーをきちっと流してゆくための装置だったんじゃないかと思いますよね。


 あとはそういうときに火を焚いたりとかもね。昔から神社仏閣なんかで火を焚いたりしてますでしょう。からだにお灸を据えるっていうのも経穴とかあるポイントに据えますけど、土地でもそのポイントポイントに祠を建てて神社を建ててそこで火を焚いているっていうのは、やっぱりお灸を据えているんですよね。大地に。そういうところで熱を当ててね、発散させているんだと思います。大地のエネルギーの流れを中国では龍脈と言いますけれど、そういう流れの中にもポイントのようなものがあって、そうやって地球全体の流れの中のあるポイントできちっと発散させているっていうね。小さな火山みたいなもんですよね。そこで小さく噴火させて出してあげることで何かが発散される。

 火っていうのは上昇するものですから昇華させるためにはすごくいいんです。だから私は家の中でもそういうものを置いておくといいですよってときどき言うんですけど、淀んでいるところに火を置いておくといいんです。火はいろんなものを呼び込んで払ってくれるんで。火は上昇気流を生みますよね。それで上昇すると対流しますから風はそこに向かって流れていくんです。それで淀んだ暗いところには上じゃなくて下に、そういう火じゃなくてもいいから明かりをポンと置いておくと、その熱がフワーッと上がって、風がスーッと周りから入ってきて、そこの淀みを散らしてくれるんです。もちろん明るくなりますしね。だから部屋の中でどうもここは湿気が多くて暗い感じがするなと思ったら、そういうところに火を置いておくと風を呼び込んで湿気を飛ばしてくれます。そうやって流れを発生させて淀んでしまったところを流れのなかに組み込んじゃうんです。


●微生物の働き

 私は大学が醸造学科で、お酒造ったり、味噌造ったりしていたんですけど、微生物っていうのもすごく面白くて、あれは流れが停滞したところに発生するんですよね。腐るってそういうことですしね。何て言うんでしょうね。良い悪いとか関係ないんですけど、物事っていうのは流れている限りはそのままスムーズにいっているんですけど、流れがどこかで滞ってくるとその滞った流れをもとに返そうとする力が働いて、それが分解という働きを担っている微生物たちなんですよ。そういうところに微生物が湧くんです。流れが滞ったところに微生物が湧いて、それを分解して粉々にして流れに返そうとするんです。ムシが湧くところっていうのはやっぱりなにか滞っているんですよね。風通しが悪いところとかムシが湧きますでしょう。それでムシが湧いて腐らせてグチャグチャにして細かくすることでまた再び流れのなかに返していこうとするっていう。その「分解」というのは人間にとっては、というか生物にとっては「死」ということであって困っちゃうんですけどね。

 でもそうして命を分解して初めて他の命に受け継がれていくわけですから、大きな目で見たときにはすごく大事なことをやっているんですよね、彼らは。動物のからだが腐らなければ森は動物の死骸だらけになっちゃいますから、やっぱりきちっと腐って分解されて土に返ってまたもとの流れのなかに返ってゆくことではじめて森が循環しているわけで、それは大事なことなんですよね。でもそれが自分のからだに起きてしまうと困っちゃいますから、少なくとも生きているうちにはそうならないように、腐ってムシが湧くようなことはしちゃいけないですよね。自分のなかに何か淀んだところを作っちゃいけない。

 でも人間はあえてそれを利用して、流れをとどめて停滞させたところにムシを湧かせて、お酒を造ったり味噌を造ったりしてそれを食べるなんていうずいぶん高度なことをやってますけど…、人間ってホント面白いなと思いますね。おそらく発酵食品を食べない文化って無いんじゃないんですかね? 知りませんけど。そういうものを摂るっておそらく人間のからだにとってすごく重要な意味を持っているような気がします。生のものと発酵したものではその意味はまったく違いますからね。発酵好きの人間の贔屓目かもしれませんけど…(笑)。

⇒つづく

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2008年11月17日

「気話会」講話録('07.11) (4/7)

●自分のことは分からない

――人のことって見えても自分のことってなかなか見えないですよね。何かいま起きていることもそういうことなんじゃないかなって思っても、自分でどうやってそれを変えたらいいのか分からないんです。

 自分のことを知るというのはホントに難しいですね…。先ほどの話でも出てきましたけれども、自分のことって分からないんですよ。これはきっとキリストでもお釈迦様でも分からなかったと思いますよ。自分のことは分からなかったと思います。

――でも分かりたい(笑)。

 「こうなるだろう」っていうくらいは分かるかもしれませんけどね…。それはもう限りなく自分を捨ててゆくしかないと思います。もちろん不可能なんですけどね。自分は自分ですから。でも限りなく自分のことがどうでもよくなって、まるで自分じゃないくらい客観的に離れて、他人を見るかのように見ることができたときに、はじめて少しくらい見えてくるんだと思います。でもそれでもやっぱりお腹が減れば何か食べたくなりますし、殴られれば痛いですし、どうしても自分の要求に自分自身は左右されてしまいますからすごく難しいです。そういうところからどんどん離れていった時に少しずつ見えてくるものがあるんじゃないかとは思いますけどね。


 前にも申しましたけれども、「気」とか「生命」とかそういうものはホントは決して分からないんです。もしそれが分かるとしたらそれは自分が死んだときしかないんです。死んだ後に感じることができるのかっていう問題はありますけどね(笑)。自分が生きているっていうまさにその瞬間は、「生きている」っていうことが何なのかって分からないんです。自分のからだからその「生きている」っていう現象が消えていった時に、外から見てはじめて「ああ、生きてるってそういうことだったんだ」って分かるんです。目が自分自身を見ることができないように、離れないと見えないんです。

――もっとはっきり生きたいと思うんです。私は。自分が「こう」と思っていることをやっているときは、他の人が「そんなにしなくても」と言っていても、自分が生き生きしているなってことが分かるんですよ。まわりから「これがいい」っていくら言われても自分が納得しないと本当に思えないでしょ?

 そのときの充実している感覚だけが頼りですよね。

――でもそれを突き進んじゃっていいんでしょうか? 良くないって方もいるし…

 そこが難しいところですよね…(笑)。「心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず」っていう孔子の言葉がありますけど、そんな「もうやりたいことだけやってもそれが人を不幸にすることは無い」っていう老境の域にまで達することができればね…。すごいことですけどね。それは。

――求めないっていうことも分かる気がしますけど、でも求めるときのその人のエネルギーったらすごいものだと思うんですよね。だから求めるっていうことをあんまり否定してもいけないんじゃないかと私は思うんですよね。

 求めるのが命ですからね。矛盾したことを引き受けていかなきゃいけないんだと思います。

――それが人間なんでしょうかね…

 命なんだと思います。私は。矛盾しているんだと思います。命っていうのは。


●からだの排泄作用

――私の知り合いで見せてもらったんですけど、胃がんを手術で取ってからからだの中から膿が出るんですよ。縫ったところじゃないところから。出るまではものすごく痛いわけ。それを整体で手当てしてもらっていたんですけど、それが最近だんだん減ってきたんですけど、出るまではホントに痛くて七転八倒しているんです。出ちゃえば楽なんです。そういう方もいるんだなぁって…

 からだはそうやってからだの中に溜まったものを何とか出そうとして、一箇所にまとめてある道を作って出そうとしますからね。それが自分の中にあるルートができるとそこを通じてとにかく出そうとするんで、出しても出しても中に何かある限り、やっぱり同じルートを通って同じところに溜まって、それをまとめてからだの外にボンと出そうとする。

 それが腸みたいにきちんとそのためのルートがあればいいですけど、こんなところに肛門があるわけじゃないですから、何も無いところから排泄物をまとめて出そうとすれば、それは痛いですよね。

――十年以上耐えましたよ。その方は。すごいもんだと思いましてね。でも「怒る」っていうのもそうですね。いっぺん怒って爆発するとしばらく静かになりますね。

 そうですね。圧縮したものがちゃんと出ればね。それを抑えて我慢していると、別の形をとってやっぱり出てきてね。それが体癖によってどういう形で出るのかっていうのが人それぞれあって、大ざっぱに二つに分けると、それが外に向かう人と自分の内側に向かう人がいて、自分の内側に向かう人は自己破壊的なことが起こるんです。胃に穴が空くとか、肝臓が壊れるとか、そういう形で自分の中で発散させようとする人と、あとは外に出す人。何か物を壊すとか、人に当たるとか、突然大きなことをしはじめるとか。いい形で出せれば芸術作品を作るとかそういう形になるかもしれませんけど。そういう圧縮されたエネルギーが再び出ようとする時に何か拠りしろというか対象を必要とするんですよね。でもそれは本人は意識してないんです。

⇒つづく

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2008年11月13日

「気話会」講話録('07.11) (3/7)

●「出し方」という知恵を教える

 どうもお話がずいぶん心理的なものになってきましたけど、最近はフロイトとかラカンとかそういう精神分析を勉強しようと思っていて、そのことが自分の中にあったんで、ついそういう話になってしまいました。でもやっぱり「スムーズに出してあげる」っていうのが整体で一番大事な根本にある考え方で、熱が出たらその熱をきちっと出させてあげる、気持ち悪ければ吐けばいいし、皮膚から出ているものはちゃんと出してあげる。それを抑えるから何かいろんな形で出てきてしまうんですよね。子どもが何かをやろうとしているときも抑えつけるんじゃなくて出させてあげる。

 でも子どもはその出し方、振る舞いを知りませんから、それがたとえば誰か人を傷つけてしまうようなことであれば、それは少し工夫してやらせてあげる。投げようとしたものがガラスだったら「それは投げると危ないからこっちを投げようね」と別のものを渡してあげて、投げることそのものを禁止するんじゃなくて投げ方を教えてあげる。知恵ですよね。これを投げると危ないからこっちを投げようねっていう知恵を教えてあげる。行為そのものを止めるんじゃなくてね。からだから出てくるものもそういうことで、出てくることそのものは抑えずに、それを何かスムーズに行くようにしてあげるっていうんですかね。

 それがたとえば整体では「温めてあげるとこうなるよ」とか、「こういうところを押さえるといいよ」とか、そういうふうにしてからだが経過しようとしていることをあくまで尊重しながら、何かそこにサポートできるようにして手当てするということが整体の思想なんですよね。きちんと流れてゆくようにしてあげるっていうんですかね。


●きちんと流れを保つこと

 前にもお話しましたけれど、ちゃんと「流れている」っていうことがすごく大事なんです。ここでも踵を持ってからだを揺らしたりとかしましたけれども、自分の中を波が抜けていって、流れが抜けてゆく感覚っていうのはすごく大事なんです。入ってきたものがきちんと出て行っているうちは、それは川が流れているのと一緒で自然に綺麗な水になってゆくんです。自己浄化作用っていうんでしょうか。でもそれが何らかの形でどこかで抑えつけられてしまうようなことがあって、そこで流れが止まってしまうと、水が溜まって淀んできて腐り始める。「腐る」というのは「気去る(くさる)」とも書きますけれども、流れが止んでしまったところから腐り始めるんです。気が去ってしまうんです。気というのは流れ続けることがその本性なんです。

 流れを止められたところから淀んでいくということは、からだでも心でもまったく一緒で、きちんと流れてさえいればいいんですけれども、流れが淀んでうまく流れないものが溜まってくると病んでくるんです。流れが止むから病んでくるんです。だからそこの流れをもう一度取り戻してあげる。出口をちゃんと作ってあげて流していってあげると、あとは自然と清流のように澄んでくるんです。出口さえきちっと開いていれば、入ってくるほうは自然と入ってきますから、とりあえずは出すことだけ考えればいいんです。あとは放っておけばいつのまにか淀みが澄んでくる。


 その一つのきっかけが手当て、愉気なんです。これはホントにすごいことだと思うんです。手を当てて、そこで呼吸をするようなつもり、そうすると流れが取り戻ってくるんです。外の風を入れるっていうんですかね。自分ではどうしようもなくなってしまったところに外からの手がフッと加わることで何か動きが生まれるんですよね。それはホントに自然の妙です。仕合わせなことだと思います。自分でどうしようもなくなってしまったときに、そこに何か外部のものが加わることで流れが取り戻るということは、すごくよくできています。すごいことです。隣にただいてあげるとか手を当ててあげるっていうのはそれに近くて、本来の流れを取り戻してあげる時には余計な作為はいらないんです。

 これは整体では必ず言われますけれども、愉気しているときは何も考えなくていいんです。ポカンとしてただ手を当てればいいんです。ただ手を当ててこちらも滞りのない状態でいれば、自然とその滞りのない状態が感応していって、それでお互いのからだの中の通りが良くなって、いつのまにか徐々に淀んだものが流れ去っていって、整体でいう排泄反応という経過を経て、その本人のもとの素直な流れの状態に返ってゆくというのが現象として見事に起きるんです。


 そういうふうに流れがスムーズかどうかっていうふうに物事を見ていくと、世の中の現象もまた別の形で見えてくるものがあるんです。流れがスムーズかどうかっていうのは人のからだでいえば、酸素の流れだったり、血液の流れだったり、栄養素の流れだったりありますけれども、他にもこういうふうに人間が何人も集まっているところで何が流れているかって見れば、言葉が流れていたり、お金が巡っていたり、誰かに何かをやってあげることがぐるぐる巡っていたり、都市で言えば車が流れていたり物資が流れていたり、いろんなものがぐるぐる巡っていますけれども、それがどこかで詰まるとそこで何かゴチャゴチャし始めますよね。「あの人のところでお金が止まっている」とか(笑)。「挨拶したのに返事が返ってこない」とかね。病んでいるわけですよ。そこが。あるいはどこかで道が寸断されちゃってそこに車が詰まってくると、流れが止んでゴチャゴチャしてきて、空気も悪くなれば人の心も荒んで喧嘩も起きる。そういうのが都市のような大きなものを見ても、人間のからだのような小さなものを見ても、同じような現象としてあって、そういうふうに物事を見ると見えてくるものがあるんです。

⇒つづく

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2008年11月09日

「気話会」講話録('07.11) (2/7)

●「俗」と「無知」

 最近、自分の中ですごく近いなと思うことがあって、それは「俗っぽさ」ということと「無知」ということなんです。まるで表裏一体のように感じる。「無知」っていうと誤解されるかもしれませんけど、「知ることができない」という状態を私は「無知」と呼んでいるんです。「目の前にまつ毛が見えているじゃないか」といくら口を酸っぱくして言ってみても、分かってもらえないようなことってありますよね。それがひどい症状になっている状態を私は「無知」と呼んでいるんです。知ることが、気づくことができなくなっている。正確に言うと必死に目を逸らしているんですけどね。まぁそれはともかく…。

 「俗っぽい人」というのは、自分の本当に素直な要求が分からなくなっていて、何かが足りないんで要求するんですけど、それが何なのか自分でもよく分からない。気づくことができなくなっている。それでできる限り多くの人が要求しているもの、要求しそうなものを要求するんです。みんなが欲しがりそうなものをむやみに欲しがる人を、私たちは「俗っぽい」って言いますよね。それは自分が何を欲しているのかよく分からなくなっちゃっているんです。

 自分が何を欲しているのかよく分からないときというのは、人はみんなが欲しがるものを欲しがるように振る舞うんです。みんなが欲しがるものこそ自分が欲しいものだと。でもそれがホントに自分の欲しいものとは限らない。というよりほとんどの場合そうではない。ものが欲しいんじゃない。みんなの注意が集めたいだけだったりする。だから手に入れちゃうともう要らないんです。すぐ次のものが欲しくなる。

 そういう振る舞いを見ていると、どうしても私はその人の中に何か空虚のような穴ぼこを感じてならないんです。満たされない何かがあって永遠に欲求し続けている。でもそこに触れることは深いレベルで禁止されてしまっている。そういうのって自分の中の素直な要求が見えなくなっていて、そういうふうにしてしまうのは、子どもの頃の環境、経験が大きいように思うんです。


 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という物語の中に「鳥を捕る人」というのが出てくるんです。その名の通り、鳥を捕って生活している人なんですけど、それが銀河鉄道の中に乗り込んでくるんです。それがいわゆる俗っぽい人として描かれているんですね。相手が何かすごいチケットを持っているとなると「それはすごい」「たいしたもんだ」とか言って振舞ってきわめて俗っぽい人物として描かれている。

 そうして他人をおだてたり褒めたりして人に媚びるような人が出てくるんですけど、主人公のジョバンニがその人を見ていてすっごくやるせない気持ちになって、「あなたが本当に欲しいものは何ですか」って言いたくなるシーンがあるんです。でも結局言えないんです。それを言っても何にもならないということをジョバンニはたぶん分かっているんでしょうね。

 その人は自分が捕ってきた鳥を「どうです。美味しいでしょう」ってジョバンニたちに振舞うんですけど、ジョバンニはそれを食べながらそれがただの砂糖菓子だって気づくんです。でもその人は「鳥なんだ」って言って嬉しそうに振る舞っている。それでジョバンニは「何でこの人はこんな砂糖菓子を鳥だって言い張るんだろう」と疑問に持つ。それでジョバンニはつい言っちゃうんです(注1)。そこは子どもなんですね。見抜いたことをつい言っちゃうんです。「これは鳥じゃなくてただの砂糖菓子だ」って。それで言った瞬間、その人はぎくっとするんです。核心を突かれてものすごくビックリしてしまう。で、降りちゃうんです。その瞬間。「そうだ降りなきゃいけない」とか何とか言って。そのことに気づくわけにはいかないんです。銀河鉄道の夜はファンタジーなんでそのままパッと消えちゃうんですけどね。外に鳥を捕りに行っちゃう。(注1:私の記憶違い。本当はカムパネルラ)

 そういう鳥捕りの人が自分は鳥を捕っていると言いながら砂糖菓子を捕っていることだったり、人が持っているものを欲しがったりするのをジョバンニが見ていて悲しくなるシーンが私も身をつまされるというか、私もよくそういうところで悲しくなって、やるせない気持ちになることがあるんですよね…

 …何でそんな話になったんでしょう?(笑)
 あ、自分が見えなくなるという話ですね。自分が本当に欲しいものが見えなくなってくるということ。自分が本当に何かを欲しいって表現しようとしているときに、繰り返し繰り返しそれがダメだとか抑圧されているうちに、そのまっすぐ出る道がいつしか目詰まりしてふさがっちゃって、別の形をとってしか表現できなくなったときにそういうことが起きる。本当はもっと素直に表現できるはずだったものを繰り返しそこを避けていることで、自分でもそこに道はないって自分に暗示をかけちゃう。そうすると本当に見えなくなる。道が無くなっちゃうんです。


●無意識の振る舞い

 でも親も別に抑圧しようと思って抑圧しているんじゃないんですよね。当然ですけど。それもまた振る舞いの作法の問題なのかもしれない。言葉のかけ方だったり、導き方だったり。でも言葉になっているものはまだいいんです。何て言うのかな。親も自分が抑圧されているということに気づかないうちに子どもを知らぬまに抑えつけてしまうことが一番問題で、深く入っちゃうんです。そういうのが。そういうのは振る舞いの中ににじみ出ているので、その「自分の中の素直な表現を自分は抑えつけている」っていうことに自分が気づいていないと、その振る舞いを子どもにまったく無意識にしてしまうんですね。それを子どもはまるで霧雨のように始終サーッと浴びているので、徐々に染み込んでゆくというか、伝染ってしまって、そういう振る舞いを身につけていってしまう。そういう意味で「無知」というようなものは伝染るんですよね。振る舞いが。

 そういうのって、気づかないようにすることで関係がうまくいっているんで、お互い決して気づこうとしないんです。気づいたら危うくなる。だからそれは誰も気づけないっていう…怖いですね。

 でもそういうものは誰にでも、もちろん私の中にもそういうものがあって、そのことの危険性を常に考えているということがすごく大事ですね。人をそうやって「無知」にしてしまわない為に。それは私は整体を指導する立場になって、そのときに自分の中にそういうものがあるとそれを接している人にそんなことをしてしまいかねない、と怖くなりましたよ。なかなか自分では気づけませんからね。相手は大人になっていますからそんなに深く入るっていうことはないでしょうけど。でも気がつかないうちにその人を何らかの形で抑圧してしまうことがあったら怖ろしいなと思うんです。だから自分自身の振る舞いをつねにチェックしなくちゃいけないという義務が指導者にはありますよね。自分の欲望を相手に押しつけてしまうことがありますから。

 でもね、こんなこと言ってもみなさんちょっと分かりづらいかもしれませんけどね、「無知」っていうのは一つの「愛」なんです。もっと正確に言うと「愛」の周縁で起きる出来事なんです。だからできれば「無知」は善きものを志向したい。どうしたって人間は何かに向けて馬鹿にならずにはいられない生き物なんで、できればそれが善きものであってほしい。どこに向かって馬鹿になるか、どこに向かって「無知」になるか。それはすごく大切なことなんです。そんなことを最近強く思います。まぁそのへんについてはいつかまた詳しく触れたいですね。

⇒つづく

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2008年11月06日

「気話会」講話録('07.11) (1/7)

私はしゃべりだすと止まらないことがある。

「ことがある」なんて言うと、「いつもでしょ」と眉をひそめる人もいそうだけれど、とにかく非常にしばしば止まらないことがある。

そういうときは自分が自分のしゃべりに没入しているので、しゃべり終わると何をしゃべっていたのかおぼろげになっていることが、これまた非常にしばしばある。

ついこの前など、しゃべっているうちにだんだん思いが昂まって、ふと見たら聞いている方の目も潤んでいたので思わず感極まってしまって、「スイマセン…胸が詰まって…」としばし話を中断し、自分の呼吸を整えなくてはならなくなってしまったことがあった。

まったく自分の話に感動してれば世話は無い(笑)。

とにかくしゃべっているときはそんな調子なので、自分がしゃべっていることも記録していかないとどんどん忘れていってしまうなと思い、ここ1年ほど講座を選んで録音しているのだ。

それで突然だけれど何となくふと思いついて、そんな講義録のひとつをブログに載せてみようかと思う。


「整体的子育て入門」を読んでくださった方は読めば分かると思うが、私の「愉気の会」講義録として本に載っているものの原本である。

本に掲載したものはページ数の関係などで5ページほどに割愛されているが、実際の講義録としてはその3倍ほどある。

それで、1年ほど前の講義録であるが、ここにその完全版を公開してみようと思う。

販売している本の中身をウェブで無料公開してしまってどうするのか、というご指摘もあろうかと思うが、まぁ本にはそれ以外のこともまだまだいっぱい書いてあるわけで、これをきっかけに手にとってもらえればそれで良いのである。

ウェブと本は違う。

同じコンテンツでもインターフェイスが変われば別物なのだ。

だいたい私がしゃべっていることだって、毎回言い回しや題材が変わるだけで、いつも同じことしか言っていないわけで、だから1年前の講義といっても言ってることは何も変わらない。

こんなに毎回同じ話ばかりして、ずーっと聴いて下さる方はよく飽きないなとその息の長さに感服してしまうが、考えてみれば同じ話ばかりし続ける私もおんなじである。


まぁともかく講義録をアップするということである。

ふだんブログで書いていることは、相手が不特定多数ということもあり、これでも一応それなりに自制しつつ配慮しつつ書いているけれども、講義となればそんなこともあまり関係ないので、「おいおい、そんなとこまで言っちゃうか」的なところもちらほらある。

だから皆さんがどんな風に受け止めるのかは私にも分からない。

あんまり長い文章をびっしり載せても読む気が起きないだろうから、7回に分けてちょこちょこアップしていくので、ちょこちょこ読み進めていただければと思う。

それではどうぞ。


「気話会」講話録('07.11) (1/7)

●からだの中に残るもの

 このまえ手当ての講座に参加した方がまた見えられたときに、もう一度詳しくお話を伺ったんです。そうしたら前回の講座の後にまったく忘れていた経験をパッと思い出したそうで、急に出てきたそうです。ホントに小さい頃の記憶でまったく忘れていたそうで、それを思い出してワーッと涙を流したそうです。

 そういうふうに、からだが弛んできたときにワーッと出てくる古い心のショックとか、からだのショックとか多いんです。心理学かなんかの本で「感情が筋肉に記憶される」という表現がありましたけど、自分の中で起きた何か感情的なショックとかそういうものが筋肉のある緊張としてからだに残っていて、それが同じ形をとったときにフッとその感情がよみがえったりする。あるいは似た感情を抱いたときに同じ姿勢をとってしまったり、そういうことがよくあります。条件反射みたいに、そのときの心理状態になると同じ姿勢をとったり同じ振る舞いをしてしまったりするんです。

 あるキーワードが話題に出てくると心臓がバクバクいったり顔が青ざめたり貧乏ゆすりが始まったりするというのは、何かからだに記憶があってそれが心と密接につながっているということなんですよね。そういうのがからだを調整しているときに緊張が解けてワッと出てきたりします。


 整体をやっているときというのはからだに触れながら会話をするわけですけど、触れながらしゃべっていますから何か安心感みたいなものがあって、そういう突っ込んだ話になりやすいんですよね。それでこちらはからだを触ってますから、何かしゃべりながら緊張したり弛んだりするのが分かるんです。

 昔、整体の稽古でおなかを触りながら不意に「お歳はいくつですか?」なんて訊く稽古をやったことがありました。「お歳はいくつ?」なんて答えづらいことを急に訊かれるんでおなかがパッと緊張するんです。で、何か答えなくちゃいけない。それでつい見栄はって嘘をつくとおなかは緊張したままなんですけど、ホントのことを言うとおなかが弛むんです。それを感じ取るなんて稽古をしました。

 ある先生がおっしゃっていましたけれど、昔、離婚するしないでもめてる男性がいて、離婚がどうしたこうしたと、奥さんがどうしたこうしたとずっと言っているんですけど、なかなかからだが弛まない。で、あるときふとその方が「でもやっぱり自分が悪いんですよね…」ともらしたんだそうです。そうしたらその瞬間、おなかがフッと弛んだ。がんばって自分を防衛していたものが弛んだ瞬間、自分の過ちを認めることができた瞬間、フッと弛むものがある。素直な表現ができるとすごい弛むところがあるんですよね。

 それは整体が排泄を一番大事にしているということと密接に関係があると思うんです。出るもの出たがっているものは抑えないということ。皮膚から出ようとしているものは、それはきちっと皮膚を通して出させてあげるということが経過を全うするということなんです。それを抑えると別の形で出ようとしはじめる。それがたとえば皮膚から出るものを抑えようとすると、喘息やせきになったりするというように、別の形をとって出ようとする。中で圧縮されたエネルギーはますます高まって必ず出ようとする。これは必ず出ます。一度生まれたエネルギーは必ず出ますから、どんなに抑えてもそれは出る。抑えれば抑えるほど、まるで空想もつかないような別の形をとって出ようとする。しかも圧縮されますから出方が爆発的というか劇的になってゆく。


●子どもの素直な表現を抑えない

 人の行為もそういうところがあって、私は子育ての講座もよくやっているのですが、子どものそういう素直な表現をゆがめてしまうようなことをなるべくしない、抑圧しないということはとても大事なことだと思うんです。子どもが自分の中に湧き起こったことをポッと表現しようとするときに、それを抑えてしまうとその表現は別の形をとらざるをえなくなってしまう。何しろ一度生まれたエネルギーは表出するまで収まることがありませんから、そのままじゃダメとなったらそれは別の形をとって現れるしかない。

 そういうことをずっと繰り返していると次第に素直な表現ができなくなってきてしまうんです。素直に表現すると必ず外部から抑圧されるという経験を繰り返していると、素直な表現を世界は認めてくれないんだということが潜在意識に入る。自分の中に湧き起こったことをそのまま出すと必ずダメって言われる、必ず禁止されるっていうと、巧妙にそれをすり抜けて表現しなきゃいけないということを学習する。そしてそれが無意識にそうしてしまうようになってくると、どんどん表現がひねくれてきたり媚びてきたりする。そうなると自分の本当の素直な要求が見えなくなってきてしまう。それはつくづく罪だと思うんです。

 イソップ童話でありますけれど、高いところにあって自分が取れないブドウを「あんなブドウ、酸っぱいに決まってる」とか言って、自分が本当はいいなと思っているものを何か変な形で批判したりするような、そんなひねくれた表現しかできなくなってしまう。

 それでそういう表現を身につけて、そういう振る舞いをしているうちに、そのうちそれが自分の感受性なんだと思い込み始めてしまうんですけど、でもホントは違うんですよね。たんなる身につけた振る舞いの作法の問題なんです。でもそういう振る舞いというのは強力に人を縛りつけますから、それが自分の本心だと思い込んでしまう。そうして自分の素直な感情が分からなくなってしまっているということは多い。分かっていてやっているのはまだ救いがあるんですけど、そのことに本人が気づいていないというのが一番見ていて何とも言えませんね。そのことは本当に根が深い問題です。どうすればそれを気づいてもらえるのかというのが最近の私の大きなテーマなんです。そうなってしまった人にも、そうさせてしまうような人にも。

⇒つづく

posted by RYO at 22:14| Comment(6) | TrackBack(0) | 講義録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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