2008年08月28日

化石が世界に返した力を

最近、読書がちっとも進んでいない。

シュタイナー教育ハンドブック』(ルドルフシュタイナー、風濤社、2007)を読み始めて以来、ずーっと同じ本を持ち歩き、読み続けているのだ。

あまり本を読む時間を作ることができていないというのもあるけれど、それ以上に、この本に「捕まってしまった」という方が正しいかもしれない。

シュタイナーの本は学生時代からずっと読んでいるけれど、それぞれの教科ごとにシュタイナー自身が述べた具体的な言葉をまとめたこの本は、何度でも手に取り読み直したくなる、そんな本である。

実際、読んでいても1ページごとに何度も何度も読み直して、その言わんとしていることをはっきりとイメージできるまで咀嚼しようとするので、一回の読書で3ページくらいしか進まない。

まるでスルメのような本である。

噛めば噛むほど味わい深く、気づかぬうちに顎が強くなっている。

まったくすごい本を作ってくれたものである。

西川隆範さんのこういう仕事にはホントに脱帽する。


しかし改めて思うが、シュタイナーという人は、人間を見る眼差しのその焦点が深層に定まっていて、まったくブレることがない。

たとえばこんな具合だ。


『本で学んだことを子どもに語ると、干からびた人間のようになる。その他の点では、まだ生気ある人間であっても、不思議なことに、干からびた人間のように語ることになる。記述されたものから学んだことの名残りを、自分の内に担っているからだ。それに対して、自分で考え出したものは、みずからの内に成長力、新鮮な生命を持っている。それが子どもに作用するのである。だから、童話のなかの植物・動物・太陽・星をいきいきと解釈しようとする衝動が、子どもに向かい合う教師のなかになくてはならない。そうすると、朝、学校に行く教師の歩みのなかに、子どもたちに伝わっていくものが、すでに現れている。』
(同著、p91)


ムムム…。

まことその類まれなるご慧眼に感服するのみである。

まるで説教を受けているようだ。

たしかに教育という意味で、伝えるべきは「知識」ではない。

「熱」とでも言うしかないようなものだ。

それがどのように教師の中で息づき、躍動しているか、そしてまた新たに生まれ続けているか。

その生命力が子どもに伝わり、息づくのだ。

みなさんも自分自身の小学校時代の先生のことを思い出していただきたいのだが、小さいときに先生に教わって今でも私たちを支えているものは、それぞれの教科の知識などではなく、先生自身の「どのように知(世界)と向き合うか」、そして「どのように人と接していくか」という、振る舞いあるいは生き方そのものではないだろうか。

少なくとも私が小学校時代や中学校時代の先生を思い出そうとするときには、そのような思い出ばかりがよみがえるし、そして自分も歳を重ねてそのときの先生の想いというものに思い至るに当たって、それがいかに自分の内面に染み込んでいたのかという事実に驚くばかりである。


教師自身が、カチッと固化した状態で取り入れたものを、そのまま子どもに引き渡すというのであれば、それは教育者のなすべきことではない。

単なる「知識の取次ぎ人」とでも言うような仕事である。

もしそれが教育だとするならば、教師自身が冷めた心魂でそれらをあしらう振る舞いを、子どもたちもそっくりそのまま真似して身に付けていくことだろう。

そこには熱がない。

活き活きと躍動し、新たな力を賦活するものがない。

冷めた世界と、それらをクールに取り扱うテクニックがあるのみである。

そのようななかにあれば、子どもの心象には、世界は冷えて、固くなって、バラバラになった断片の散らかったものとして描き出されていくことだろう。

どんなに脚色し、色鮮やかな装飾を施そうとも、それは心を震わし手足を突き動かす力の抜け落ちた「化石化した世界」に過ぎない。

そんな世界の石化の力に晒され続ければ、神経症が増えるのも当然だろう。


「化石」はたしかに美しい。

オパール化した化石など、一日中見ていても飽きないほどに美しい。
(写真は地中でオパール化した古代生物の骨)

生き物たちがやがて化石化し、ときにオパール化して七色の輝きを放つという事実は、「地球生命体の営み」ということが果たしていかなることであるのか、私たちに空想させてやまないが、それでもやはり、それらはすでに時の流れのなかに沈殿した残滓に過ぎないのである。

今まさに成長し、世界と向き合わんとしている子どもたちに必要なものは、そのような残滓ではなく、活き活きと躍動する力に満ちたミルクなのだ。

それはかつてこの世を謳歌した彼ら化石たちが世界に返した力であり、

そして、

「…雲からも風からも 透明な力が そのこどもに うつれ…」

と宮澤賢治が願った、あの透明な力なのだ。

いかにして自分のなかのバランスが、絶えず化石化しようとする傾向に傾き過ぎないように、「透明な力」を世界から汲み取り続けるか。

「からだの通り道」をいつも空けておくということが大事であろう。


最後にもう一つだけ、シュタイナーが算数について語っている言葉を載せておきたい。


『単に論理的ではなく、いきいきと考察する者には、「正しい方法で算数を学んだ子どもは後年になって、正しい方法で算数を学ばなかった子どもとは、まったく異なった道徳的責任感を有する」ということが明らかになる。これは多分、非常に逆説的に思われるだろう。しかし、私は現実について語っているのであり、空想を語っているのではない。
…中略… 子どもに全体を把握させて、常に少数から多数へと進んでいかなくてもよくさせる。そうすると、子どもを生活に近づけることができる。これは、子どもの心魂のいとなみに非常に強い影響を与える。数を足していくことに子どもが慣れると、特に貪欲に向かう傾向が発生する。全体から部分へと移行し、適切に掛け算も行なうと、子どもはあまり欲望を発展させず、プラトンが言う「慎み深さ」を発展させる傾向を得る。計算をどのような方法で学んだかに、道徳において何を好み、何を嫌うかが内密に関連しているのである。』(同著、p57−58)


「数の世界」に子どもを招き入れようとするときに、「計算」という人間の営みに潜む「道徳的感性」なんてことまで空想したことのある人間が、果たしてどれだけいるだろうか。

恐ろしいまでの透徹した眼差しである。

posted by RYO at 20:06| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月17日

渓流ソーメン流し

夏真っ盛りのお盆真っ只中ということで、定期的に行なっている群馬の子育て講座を避暑地で行おうということになる。

池袋から高速バスで下仁田まで行ったあと、参加者のママさんの車に便乗し、群馬の山奥の古民家に住んでいる知人宅へ向かう。

半分旅行の心持ち。

到着するともうお昼なので、講座に入る前にまずは腹ごしらえ。

だんなさんのKさんが作ったという家の目の前のジグザグ道を下りていくと、ものの1分で渓流へとたどり着き、そこの岸辺にバーンと流しそうめんの準備がしてある。

おお、なんと贅沢な。

本物の竹を割って節を取って作ったというソーメン流し台(?)はゆうに8mはある。

そこに引かれた山の水が目にも耳にも心地よくキラキラと流れる。


ソーメンを茹でるためのお湯を焚火で沸かしているあいだ、子どもたちは渓流で水遊びをしたり、Kさんが樹に登って作ったというターザンロープで渓流の上を飛んだりして遊んでいる。

いやぁ、これは楽しいだろうなぁ。

子どもはやっぱりこういう中を遊びまわっているのが一番生き生きしているなぁ。

子どもはみんなこういうところに放っておけばいいんだ。

勝手に遊んで、勝手に試して、勝手に怪我して、勝手に学ぶんだ。

それで手に負えそうになかったら、いつでも大人を呼べばいい。

でも街にはそんな場所が減ってしまったよね。

それは大人が悪い。ごめんね。


しばらくしてお湯が沸き、ソーメンが茹で上がったのでさっそく流しソーメンの開始。

山の水に乗って竹の中を流れるソーメンに子どもたちは大歓声。

私もお椀を片手に、いそいそと下流のほうに位置取ったが、上流の子どもたちのソーメン争奪戦が壮絶で、ちっともソーメンが流れてこない。

時折、一本二本、白蛇のようにするりと流れ去ってゆくだけである。

むむ…。

まぁ仕方あるまい。

ちょうど前日に福井のIさんから届いたミョウガを持ってきたので、それもソーメンと一緒に流す。

竹の水路を、ソーメンがするすると流れ、ミョウガがごろりごろりと流れ、ミニトマトがコロコロと流れ、キュウリがズズズと流れてゆく。

節ごとにぴょんぴょんと飛び跳ねるミニトマトがなんとも可愛らしい。

子どもたちは次々流れてくる食べ物たちをすくい取るのに一生懸命で、片手に持ったお椀はソーメンがてんこ盛りである。

キミたち、取るのもいいけど食べなさいね。

流しソーメンを存分に楽しみお腹が満ちると、子どもたちはお椀を放り出し、ふたたび川遊びやターザンごっこに興じる。

大人たちはスイカなどを食しつつ、しばし休憩。


そうしてしばらく休憩し、食休みも十分にとったあと、みんなで渓流を後にして、今度は尾根の中腹辺りまでよいしょよいしょと登っていく。

今回の講座は、せっかく緑豊かなところに来ているので、普段とは毛並みを変えて樹林気功と洒落込む。

尾根に立つ樹々の中で大人たちはみなそれぞれ自分の樹を見つけ、自分の世界に浸り、一緒に登ってきた子どもたちもみんなそれぞれ自分の世界を楽しむ。

尾根を吹き抜ける風が、夏の肌に心地よい清涼感を与え、まわりで遊ぶ子どもたちの声がまるでどこか遠くから聞こえてくるように淡く響く。

大人も子どもも、とても自然にただそれぞれの場所にいる。

木漏れ日が差し、川のせせらぎが響き、樹々が風に揺れ、子どもの遊ぶ声が聞こえる。

満ち足りた午後の日。

静かで、神聖な時間。

都会でもみんな少しでもこんな時間が持てれば、何か変わるかもしれないのにと、ふと空想する。

最後にみんなで集まってお互いの体験をシェアしたのもとても良かったし、たまにこういう講座をやっていくのも良いかもしれない。


とても素敵な場所なのでぜひとも一泊して、自然のエネルギーを目いっぱい充填して帰りたかったが、諸事情により泣く泣く日帰り。

でもすごい元気をもらったし、これでまたしばらく頑張れそうである。

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2008年08月05日

一人のパフォーマーとして

月末の原稿ラッシュを書き散らし、月初めの大きな講座の三連荘を終え、しばしの休息に部屋でほげっとする。

銀色にまぶしい窓の外からミンミンゼミとアブラゼミの合唱が聞こえてくる。

夏だなぁ。

15年近く使っていた部屋の扇風機がいよいよご臨終の時期を迎え、スイッチを入れても羽根がヨレヨレとしか回らない。

ウンウン唸る必死のモーターは、風を生み出すよりもむしろ廃熱のほうが生産性が高く、ほとんど暖房機と化している。

何が悲しゅうてこの猛暑に必死のモーターに付き合わねばならぬのか。

暑苦しいぞ。オマエ。

長い付き合いだったが、さすがにこれ以上は付き合えん。スマン。

とゆうわけで駅前の家電屋さんに行き、丈夫そうな扇風機を買ってくる。

おお、涼しい。

私はひょっとして今まで熱風を浴びていたのか。


最近は講座の数がぐんと増えたので、その準備に追われてブログの更新も滞りがちである。

忙しいのはありがたいことであるが、ブログの更新を心待ちにしてくださっている方には申し訳ない。(そんな人がいるならば)

朝カルの講座も立て続けに満員御礼となり、いろんな人たちに手助けしてもらいつつ、汗をかきかきこなしているが、朝カルのベテランスタッフNさんには「RYOさん、どんどん進化してるわね」とありがたいお言葉を頂戴する。

いやいや、どうもありがとうございます。

そう言っていただけると、とても励みになります。

「学習回路だけは死ぬまで全開にしておく」というのが私の信念でありますので、毎度至らぬところを反省し、日々これ新たに生まれ変わり、変化し、学び続けていくのであります。


それで「ママは子どもの整体師」講座があんまり好評なものだから、秋にもうひとつ講座を設けることになった。

その名も「パパも子どもの整体師」。

洒落ではない。本気である。しかもパパ限定。

これまたやはりNさんのインスピレーションによる発案であるが、たしかにパパも子どもの整体師である。大事大事。

野郎だらけで大いに子育てを語ろうではないか。


「でも何だって私の講座などにこんなにいっぱい集まってくださるんだろうか」と朝カルのスタッフとお茶をすすりつつ、ヒザをつき合わせ話をしていたら、私の講座のスタイルの話になり、なんとなく私の口から「私は最近、講座はパフォーマンスだと思っているんです」という言葉が出てきた。

そう。

それは私の中で最近じょじょに覚悟ができてきたことだ。

それは私の本音の吐露でもある。


私は自分の伝えたいことがうまく言葉にできない。

というより私の伝えたいことがどれも言葉にならないことばかりなのだ。

だから言葉にするとどこか嘘になってしまうので、そもそもしたくもないとも思っている。

でも言葉にしなければ誰にも伝わらないのだ。

それが私の中でどれだけ確信的なことであろうとも、言葉にしなければ誰にも伝わることはない。

そして何より、私は「伝えたい」と願っている。

だから言葉に賭けるのだ。

たとえ大いに誤解をされつつ伝わるかもしれないとしても。

それは、私はどこかで覚悟はしたことだ。


でも、やはり、できうるかぎり、それをそれとして、それそのままに伝えていきたい。

言葉にできないことを、言葉を使って、言葉に貶めることなく、伝えたい。

そうすると結局、私はもだえるしかない。

言葉にできないことを安易に言葉にしてしまうことなく、言葉にしようともだえ続けることだけが、私にできる精一杯の誠意なのだ。

講座という場で多くの人の前に立ち、何かを言葉にしようと必死にもだえ続けるということ。

目の前に、何かを伝えようとしてもだえている人間がいるということ。

その姿が、その事実が、私の精一杯のメッセージなのだ。

ある意味、それだけが見る者に間違いなく伝わることではないかと思う。

私は一人のパフォーマーであり、講座はその舞台なのだ。

分かりづらいかも知れないが、そういうことなのだ。


すると「それがあなたの良さなのね」と、Nさんが言ってくれた。

「洗練」という言葉からは程遠い「愚直」なやり方ではあるが、今の私にはそれが一番自分に馴染む。

とはいえ、雨にも夏の暑さにも負けるヘナチョコなデクノボーである。

が、そんなデクノボーが許される限りは愚直にやっていきたいと思う。


小賢しいアタマは、それだけではダメだということもどこかで分かっている。

だが、精一杯、今のスタイルを全うしてから、次なる段階へと進みたい。

今の自分を全うするということ。

それが全生というものだと私は思っている。

posted by RYO at 20:13| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする