2008年07月21日

打撲とリズムあるいは魔女の資質について

金曜日。

朝日カルチャーセンターで「ママは子どもの整体師」講座。

4月に行なった講座に引き続き今回も満員御礼で、暑い中、新宿まで足を伸ばしてくださったみなさんには感謝である。

みなさん、どうもありがとうございます。謝謝。

今回は夏休みももうすぐということで、夏休みに山や海など外で遊んでいるときに起きたとっさのときの救急法ということを実技のテーマにした。

必然的にケガの手当てが中心で、川で遊んだときの冷えの処置だとか、打撲の処置だとか、そういうことを実習する。


整体ではあらゆる変動の中でも打撲が一番影響が強いとされ、打撲というものには十分気をつけるよう指導する。

なぜかというと、打撲によってその人の持つリズムが最も乱れるからである。

よほどの急性疾患でない限り、病気というのはある意味、自分で生み出しているものであり、その点では馴染みやすいといっては何だが、急激にその人のリズムが変化し乱れるというようなことは少ない。

というより、余計なことさえしなければ、その人の持っているリズムのとおりにきちんと経過してゆくのが本来のあり方である。

けれども、打撲のように外から急激に強い刺激が入ってくると、その人のリズムをものすごく乱すのだ。

そうして調子が狂って、ガタガタと体調を壊す。そのまんまである。

命の本質はリズムであって、リズムが狂うと命は弱い。

疑うなら心臓に電気ショックでも与えてリズムを乱してみればよい。(ってホントにやっても責任はもたないけど)

「冷え」なども、ゆっくり冷えたか急に冷えたかでその影響はずいぶん変わり、その速度によっては「打撲」に近いものになる。

あるいはむしろ、そういう速度の速い刺激を「打撲」というのかもしれない。

だから急性疾患も、どちらかというと打撲的である。

物の打撲。温度の打撲。光の打撲。音の打撲。血液の打撲。心の打撲。

それらが一番その人のリズムに影響を及ぼす。

「じつは整体でやっていることは打撲なんですよ」と、私はときどき言うのだけれど、背骨を押さえたり、筋をはじいたり、いろんなことをやっているのは、からだにとってはある意味全部「打撲」なのである。

打撲だからこそ、相手にサッと変化を促せるのだ。

普通、打撲をする場合というのはたいてい過剰であり、壊す傾向のほうが強いのだけれど、それをうまくコントロールして活かす方向に用いていくのが、整体のワザということになる。


来月発売のクーヨンの「しかり方、ほめ方」特集の記事にもちょこっと書いたけれども(買ってね)、「しかる」ということもある意味、ここで言う打撲というものに似ているところがあって、同じようにそれが適度であれば相手に良い変化を促すし、さらには元気にすることすらできるのだ。

けれども、たいてい過剰になって反発を生み出すことが多い。

もちろんそれは叱る側の発散運動が叱言に「乗ってしまう」からであるが(だって人間だもの)、叱られる側からすればその分だけ余分になる。

だからそこには叱る側に「慎み」というものが求められる。

叱言の振る舞いそのものが、「自らを律する」という大人の実践であれば、そのフラクタルに貫かれた原則は、相手に対してより深く響いていくことだろう。

どこをどのレベルで切り取っても、そこに同じ旋律が流れているということ。

そのような重層的な共鳴こそが、「伝わる」ということを根源的なところから支える。


閑話休題。

ともかくそんなことで打撲は影響が大きいのだけれど、実際の手当てとしては、その人の本来のリズムを取り戻すために、「からだの手当て」と「こころの手当て」の両方が必要になる。

そこで「からだの手当て」はみんなで実技を実習し、「こころの手当て」は簡単なおまじないの原理を少しだけお話した。

みなさん熱心に聞き入ってらっしゃったので、これでおまじないを使えるようになって帰っていただけたのなら、まことに幸いである。

リーフレットにも書いてあるが、「ママの手は魔法の手」であり、ママは魔女なのだ。

今回参加されたみなさんには、ぜひとも魔女を目指していただきたいと思う。


ちなみに魔女にとってもっとも必要とされる資質は、「感性(センス)」と「意志(ウィル)」である。

今回、講座の中ではその「感性(センス)」についてだけ触れたけれども、「意志(ウィル)」については時間的事情もあり、ほとんど触れていない。

でもそれはもうブログでも講座でも今までさんざん触れてきたことであるので、今回はとくに触れない。

そう言われて「え? そうだっけ?」と一生懸命読み返してみても、そんなことはどこにも書いてないかもしれないけれど、でもそうなのである。

「でもそうなのである」というそれがどういうことなのか。

いつか書いてみるかもしれないし、書かないかもしれない。

「魔女」でブログ内検索してみると、少しくらいは書いてあるかもしれないし、書いてないかもしれない。

posted by RYO at 21:47| Comment(12) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月08日

世界に触れてゆく技術

人と人。モノとモノ。人とモノ。

それらにおいてとても大事なのはそのあいだであり、接点であり、触れ方である。

私たちは料理をしているとき、たとえば煮物が煮えたかどうだか確かめようと思ったら、菜箸でつついてみたりする。

もちろんそうすれば煮物が中まで柔らかくなっているかどうか分かるからであるが、考えてみればなぜ人は直接触っているわけでもない「煮物の固さ」なんていうものを触知することができるのだろう。

ほかにもこれは講座でやったことだけれど、まず一人の人に長いロープの片端を持ってもらって、そのまましっかり目をつぶってもらう。

そうしたら誰か別の人にロープの適当なところをソーッと踏んづけてもらう。

そしてロープを持っている人は目をつぶったまま、そのロープをいろいろ動かして、だいたいどの辺りを踏んでいるか当ててもらうのだけれど、これが多くの人がかなり精確に踏まれた場所を当てることができる。

煮物の固さを確かめるときにその人が実際に触れているのは「菜箸」だし、ロープを誰かが踏んでいることを確かめるときに実際に触れているのは「ロープ」だけである。

けれどもともに、その「触れているもの」を超えて、その先にあるものを感知している。

人は触れることで、触れること以上の感覚を触知できるのだ。


プロのレーサーが、複雑かつ緻密に組み立てられたマシンのタイヤの下の路面のコンディションを、ちょっと走っただけで正確に把握できるのも、打検士が缶を叩いたときのそのわずかな周波数の違いから中身の素材や容量を正確に言い当てられるのも、人間に、ある感覚のその先にある情報を知覚する「超感覚(メタ感覚)」とでも言うようなものがあるからである。

身近な例で言えば、私たちが人の顔色を見てその人の心理状態が分かるなんていうのも、超感覚のひとつである。

あまりにも当たり前すぎてそうは思えないかもしれないが、「人の心」という目には見えないものを「視覚」を通して知ることができるのだから、これはやはり五感を超えた知覚である。

そういう意味では、たいていの人は「顔から人の心を読む達人」ではあるのだ。


しかし、それら超感覚が成立するためにはすべて「ある条件」が必要である。

それは「その人」と、その人の超感覚の手前にある「感覚するもの」とのあいだに、馴染みの深さがあるということである。

それは煮物の例で言えば「その人」と「菜箸」との馴染みだし、レーサーの例で言えば「その人」と「マシン」との馴染みだし、打検士の例で言えば「打検士」と「打検棒」との馴染みである。

それら「人」と「超感覚」を結ぶ「あいだ」にあるものに対する馴染みの深さによって、超感覚的な知覚は、それこそ壮大な世界にもなりうるし、まったく霧のなかの世界にもなる。

菜箸の先にある煮物の固さを知覚するためには、まず自分に菜箸との馴染みがなくてはならないのだ。

もし、菜箸を扱うのに不慣れで一生懸命にその持ち方に意識を向けなければならなかったり、あるいは菜箸そのものがチクチクして痛かったり、熱くて仕方がなかったりして、どうしても気にならずにはいられないようなものであれば、その先にある「煮物の固さ」なんていうことまで感知するどころの話ではない。

本来、菜箸の先まで届くはずの神経が、自分の手と菜箸との接点でいやが応でもとどめられているようなものである。

「菜箸との接点」がまったく気にならず意識の前景から退いていったときに、初めてその先にある「煮物との接点」を繊細に感じ取ることができるのであって、手元のことばかり意識にのぼっているうちは、その先を感じ取ることなんてできない。


そうして自分と世界との接点をどんどん馴染み深いものにして、その先へその先へとどんどん感覚の神経を伸ばしていけば、超感覚的世界は限りなく広大になってゆき、その知覚は対象のメタレベルにまで到達しうる。

レーサーで言えば、「自分」と「路面」とのあいだには「スーツ」やら「シート」やら「ボディー」やら「サスペンション」やら「ホイール」やら「タイヤ」やらとさまざまなものがあるわけだけれど、そのようにモノとの接点の層というのは幾層にも連なっていて、それらをどんどん馴染ませながら、どこまでその先へと神経を伸ばしていけるかが、達人としての成熟度である。

成熟したレーサーは「人馬一体」ならぬ「人車一体」の境地に立ち、まるでレーシングカーが自分のからだそのものであるかのように、エンジンの調子からサスペンションの固さまで、その変化や異常の具合を敏感に感じ取ることだろう。


「世界」を、「環境」を、どこまで自分の感覚の内に取り込めるか。

あるいは逆に言えば、自分の感覚をどこまで「世界」に「環境」に延長していけるか。

触れたモノとの接点に生じる摩擦を瞬時に溶け込ませ、そのモノの本質にまで一気に感覚を延長できるということ。

それが「触れ方」の技術である。

人とのコミュニケーションであれ、モノの習熟過程であれ、「触れ方」の技術が身に付いているかどうかで、どれだけ素早く深いところまで切り込んでいけるかが決まる。

どうしても表面上のところや自分に近い手元のところばかり気になってしまう人は、残念ながらその先の世界にまで感覚を延長することは難しい。

それをブレイクスルーし超感覚的世界にまで到達するためには、どんなモノとの出会いでも瞬時に馴染み、滑らかなインターフェイスを構築することのできる「やわらかな構え」(フレキシビリィティー)が必要なのだ。

そういうあらゆるものに共通する「触れ方の技術」「馴染むワザ」「インターフェイスの構築術」を、どのようにして磨いていくか。あるいは気づいていってもらうか。

それが私のもっぱらのテーマであるのだが、これがまた、考えれば考えるほど難しい。

しっかりと感じながらも、それに捉われずに、その奥にまで進んでいけるということ。

とにかくいろんな稽古の試行錯誤の毎日である。

posted by RYO at 20:05| Comment(14) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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