2008年06月30日

2008年上半期 記事一覧

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2008年06月27日

自動筆記による物語

この前の記事で「自動筆記」について触れた。

そのときにも書いたように「自動筆記」というのは、自分の中から湧き起こってきた言葉たちをいっさいの検閲をかけることなく書き留めていく、そんな筆記法である。

古くは儀式や薬物などによってトランス状態に陥ったシャーマン(巫女)が、ご神託や精霊の言葉などとして書き留めていくような、そんな神聖儀式を起源としている。

私のやっているものなど遊びのレベルであるけれど、より深いトランス状態に入れる者が行なえば、そこから紡ぎ出される言葉は巨大な英知の片鱗を示すものになるはずである。

もちろんそうなればなるほど、それを読み取るのも難しいものになるが。

制御されない野生の知が、驚くべきインスピレーションを発揮することは稀ではない。


自動筆記を一度やってみると分かるが、いっさいの検閲をかけることなく自分の中から湧いてきた言葉を書き留めていくという作業は、まるで自分が書いているようには思えない。

前にこのブログでも書いたけれど、人間の意識というのは基本的に「からだにブレーキをかける」という形で働く。

私たちが自分の意思で言葉を述べるということは、自分の中に渦巻いているさまざまな想念が無秩序に飛び出そうとしているのを押し留めて、適切に並んで出てくるようにブレーキをかけるということなのだ。

だからそれを外して、思いついたものは考えないでそのまま書くということを続けていると、自分の目の前を次々勝手に言葉が通り過ぎていくような、そんな感じになる。

湧いてきた言葉に対して「書き留めること」以外の関わりを持てないゆえに、書いている本人は「自分が書いている感」がまったく希薄であり、まるで自分という存在が「言葉の通り道」にでもなったようで、なかなか不思議で面白い。


だが、試すときには注意が必要である。

私は学生時代、何も考えずに一人で勝手にやってしまったけれど、今から考えるとけっこう危険なことをしてしまったものである。

整体の活元運動などでも「精神病を患ったことのある人は行なってはいけない」と言われるが、こういったメソッドは同じように自分の行動を制御できなくなる可能性がある。

強い抑圧がかかっている人間や、ぎりぎり自我を保っているような人が、このような垂体外路系の運動を行なうと、止まらなくなることがあるのだ。

滅多にあることではないが、それでも自分が情緒不安定だなと思う人はとりあえずやらない方がよい。(私の身近でも一例あった)

一番よいのは「そういうこと」が分かっていて、また対処法をきちっと身につけている指導者の下で行なうことである。


もし万が一そういう事態に遭遇してしまったときのための対処法だけ書いておくと、活元運動でも何でも、目の前でそのような無意識運動が止まらなくなってしまった人がいたときには、まずその人の左の肩を「バン!バン!」と相手の呼吸とずらして強く叩く。

相手の動きが止まるまで、リズムを変えながら左の肩を叩き続ける。

そして暗示をかけられる人はそこで暗示をかけて収まるよう誘導してゆくが、分からない人はとにかくその人の名前をしっかりと呼びかける。

そうすればじきに収まってくる。

けれども一度でもそういうことがあると、ふとしたきっかけで出やすくなってしまう。

出やすくなること自体は決して悪いことではないが、それをうまくコントロールできないというのは、やはりいろいろと不都合が多い。

だから一度でもそういうことがあったら、「そういうこと」の分かる信頼できる指導者にきちんと相談したほうがよい。


閑話休題。

それで学生時代にその「自動筆記」というものを知って、「面白そうだ」と思って試しに書いてみたのだけれど、それを前回キーグラフで分析してみたのだ。

23歳のときの文章である。

書く前に「物語を書く」と自分に暗示をかけて書いたので、いちおう物語の形式になっている。

一気に(何時間くらいだったかな…)バァーッと書いたわりには、いちおうそれなりに起承転結のようなものもあり、ちゃんと物語になっているのが不思議であるが、デタラメ過ぎになってないあたりに我ながら律儀さと言うか小賢しさを感じる。

途中で一度改行が入っているのは(ユリのくだり)、そこでいったん筆が止まって一息ついたからである。

けれども少し休んでいたらふたたび手がウズウズし始め、机に向かってペンを取ったら猛然と書き始めて、一気にクライマックスまで向かったのだ。

心理学とか精神分析とかやっている人が読んだら、ものすごく分析してみたくなるようなそんな文章であるが、なんだか若い感じが随所に感じられて、ちょっと気恥ずかしくもあるかわいい文章である。


それでふと思い立ったのだけれどせっかくなので、その「自動筆記の物語」をこのブログに載せてみようと思う。

その性質上、ダダ漏れの文章であり、脈絡のないところだらけであり、なんだか暗い世界観に満ち満ちている上、けっこう長い(笑)。

なので、暇な方だけ読んでいただければと思う。

あんまりクドイ部分などは(とくに前半部分)多少削除しているが、基本的にほとんどそのままである。

前回のキーグラフとあわせてご覧になってみるとまた面白いかもしれない。

では、私の若かりし頃のダークな部分満載の文章、暇な方だけ下からどうぞ。

⇒『自動筆記による物語』
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2008年06月23日

言葉の島をつなぐもの

5月末にNHKで放送された「サイエンスZERO」という番組で、「チャンス発見学」と題して買い物客の買った品物のデータ分析や、地震の連動の分析をしている回があった。

それを見ていて「むむ!これは面白い!」と思ったのだが、そのときに使っていたツールが「キーグラフ」というものであった。

それで最近また思い出して、さっそくネットで検索してみると、番組に出ていた東大の先生のページで試用版を発見。

さらに調べてみると、いろんな機能を強化したバージョンもいくつかあるようだけれど、見る限り使いこなすにはかなり気合を入れなければならなそうなので、とりあえず最もシンプルな初期型の「KeyGraph」をダウンロードしてみた。


「キーグラフ」というのは何かというと、ものすごく簡単に説明すると、というか簡単にしか説明できないのだけれど、大量にあるデータの中からそれぞれのデータ同士の関連性を探し出し、それをネットワークのように図示することで、感覚的に捉えられるようにしたものである。

まぁこれは言葉で説明するより実際に見てもらったほうが早いし、よく分かっていない私が説明して変な誤解を招いても仕方がないので、あとで直接ご覧になっていただくことにしよう。

それでとりあえず話を先に進めると、私はその番組を見ていてぜひ自分の文章の分析をしてみたいと思ったのである。

「キーグラフ」を使って自分の文章の言葉のネットワークを可視化してみたら、もしかして自分も気づいていなかったキーワードが浮かび上がってくるかもしれない。

そんな期待もあって、さっそく自分の文章を分析してみようかと思ったのだけれど、大事なのはその素材選びである。

私もブログやらコラムやらいろんな文章を書いている。

しかし分析するのに最も適した素材は何だろうかと改めて考えてみると、これがなかなか難しい。

う〜む。どうしよう。

パソコンのドキュメントをテキトーに見ながら、しばらく「う〜む…」と頭をひねっていたら「はっ!」と思いついた。

「大学時代に自動筆記した文章がいい!」


人間というのはふだん言葉を書いたりしゃべったりするときには、「これを言ってはいけない」とか、「これは違う表現にしよう」とか、ある意味、自分で検閲をかけながらしゃべっている。

「自動筆記」というのは、その「自己検閲」をせずに思いついた言葉はいっさい選別することなくすべて書き留めるという筆記法である。

いわゆる「お筆先」とか「神懸かり」だとかに近い。

「自動筆記」について書き始めるとこれまたもう一つエントリーが書けそうなくらいのテーマであるので、それはまた別の機会にまわしてそちらを読んでいただく事にして、さらに話を先に進めると、大学時代いろんなことを試していた私は、自動筆記も試してみたことがあり、その文章があるのを思い出したのである。

思いつくままにワーッと書き散らした文章であれば、私の潜在意識やら欲望やらが露出しまくりで、これはなかなか分析のしがいがあるに違いない。

どうなることやらちょっと怖いが、さっそくそれを素材にキーグラフを作ってみた。

「オレ」を中心にさまざまな言葉が置かれている。

書いた文章が基本的に「オレ」の物語であるので、ほとんどの言葉が一極集中的に「オレ」にリンクしている。

まぁ、当然であろう。

こういう多数の「リンク」(枝)を集めている「ノード」(点)を、ネットワーク論では「ハブ」と言うが、このようにたった一つの巨大なハブがほとんどのリンクを集めている構造というのは、ネットワーク論的に言っても単純すぎてあまり面白くない。

なので、こういう出しゃばりな「オレ」様には早々にご退場願って、「オレ」様がいなくなったときにそれ以外の言葉たちがまたどのようにネットワーク化されていくのか試してみることにしよう。

さっそくキーワードから「オレ」を削除し再解析。

スクランブル交差点のような「オレ」が消えたので、言葉たちがそれ以外のルートを使ってネットワーク化しはじめた。

こうなってくると徐々に「言葉の島」が浮かび上がってくる。

どうやら大きく分けて、下方の「オマエ/キツネ」の大きな島と、左上の「少年/手」の島、右上の「光/流れて」の島の、3つの島があるようである。

面白いのは、それらすべてが「いい」という言葉でつながっていることだ。

これはなかなか意外な展開。

文章自体は、検閲から開放された私の邪悪さが蔓延し、「死ぬ」だとか「血まみれ」だとか「食いころせ」だとかいった言葉が乱舞して、なかなかダークな黒魔術的雰囲気を醸し出しているのだけれど、意外にもその隠れたキーワードは「いい」という言葉であった。

ほぅ…そうであるか。

まぁ「どうでもいい」とか「それでもいい」とか、そういう使い方もされるわけだから、必ずしもよい意味ではないかもしれないけれど、う〜ん、予想外でやっぱり面白いなぁ。


多くのリンクを集めるハブのようなキーワードは、しゃべっている本人も十分意識化されているわけで、たしかに重要ではあってもそれほどの新鮮味はない。

けれどもそれほど頻出するわけではない言葉でありながら、いろんな「島」、つまりいろんな話題に登場してくる言葉というのは、じつは隠れたキーワードであると言える。

キーグラフの面白いところは、そういう普段は決して意識化されることのない隠れたリンクが浮かび上がってくるところにある。

よ〜し、それではさらに上位のキーワードを消して、さらなる隠れたリンクを浮かび上がらせてみよう。

頻出ランク上位5位の「オレ」「オマエ」「キツネ」「いい」「どこ」を削除して再解析だ。

これまた面白い言葉が飛び出した。

見てみれば分かるように、完全に一つの言葉がすべての「島」をつないでいる。

「透明」だ。

今までの解析では一度も出てこなかったのに、突然浮かび上がってきたと思ったらいきなりプリンシパルに大抜擢である。

これが面白い。

これは頭でいくら考えていても絶対分からないだろう。

しかし「透明」か…。

それこそまさに自ら透明になって、私の無意識の中でいろんなものをつなぎあっているのか。

でも言われてみるとたしかに「できる限り透明でありたい」と願っている私にとって、自分の中でとても重要な概念として存在しているかもしれない。


私は仕事柄、ふだんからいろんな人の相談に乗ったりすることが多いのだけれど、今まで人の話を聴きながらキーワードを探すというのは自分なりにやっていた。

人はキーワードを発するときと言うのは、呼吸が変わったり、スピードが変化したり、語尾が変化したり、言いよどんだりと、さまざまな振る舞いを見せるので、それによって「これかな…」と見当をつけたりしていたのだが、今回のキーグラフ分析で分かったキーワードのようなものは、おそらくそのようなやり方では浮かび上がってはこないだろう。

そこまで焦点化しては分からない、もっと潜在意識的で、もっと直感的なものであるように思う。

もっと意識を捨てたさらなる「なんとなく」の世界。

その人がほとんど口にしない言葉でありながら、さまざまな「意味の島」を結び合わせる「橋」であるような、そんな言葉。

いろんな「意識の島」を結ぶ中心にありながら、表には出ない漠たるモノ。

それって…まさに人間の無意識なんじゃなかろうか。

「無意識は言語構造を持っている」とは誰の言葉だったか。

ちょっと面白い研究テーマを見つけてしまったぞ。

posted by RYO at 14:36| Comment(12) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月12日

ムシたちの仕事

マゴットセラピーという治療法がある。

糖尿病が重度に進行してしまった患者さんのなかには、血行障害や神経障害により、脚の先端が壊疽を起こしはじめ、切断しなければ生命に危険が及ぶという状態に陥ることがある。

壊疽というのは、どんどんその周囲に広がっていってしまうので、基本的にはできるだけ早く壊疽を起こした部分を切断するというのが、よく行なわれる対症療法である。

ところが「もう切断しかない」と言われていた患者さんでも、場合によっては4割から5割くらいの方は、このマゴットセラピーによって切断を回避できるというのである。

なんとも素晴らしい治療法ではないか。

では果たしてマゴットセラピーとはいかなる治療法であるか。


それは「壊疽が起きているところにウジ虫を放す」というものである。

ウジ虫というのは説明するまでも無い、あのウジ虫である。

よくその辺をブンブン飛んでる、あの「ハエ」の幼虫である。

「ギョッ」と思われる方も多いかもしれない。

もう聞いただけで「ダメダメ。ありえない。」と嫌悪感を覚える方もおられるかもしれない。

しかし日本国内だけで年間1万人にも達するという下肢切断手術をするや否やという瀬戸際にいる方にとっては、可能性に満ちたひとつの選択肢であろう。


皆さんもご存知のようにウジ虫というのは腐ったものを好んで食べる。

だから壊疽を起こした部分にウジ虫を放してやると、生体部分には目もくれず壊死してしまった部分だけをきれいに食べてゆき、結果、見事に壊疽の進行を文字どおり食い止めてくれるのだそうである。

もちろん医療用として使用するウジ虫は、完全に無菌状態で育成したものを使うので、感染症の心配などはない。

なかなか画期的なすごい治療法であると思ったが、調べてみると「ウジ虫が湧いた傷は治りが早い」ということは昔からよく知られていたことだそうである。

古くはアボリジニの世界でも、マヤの世界でもそういう事実は知られていたそうだし、ナポレオン軍の軍医の報告でも、戦場で放置された兵士の傷口にウジ虫が湧いている場合は、そうでない場合より治る率が高かったとか。

実際に第一次世界大戦以後(1930年代ころ)には、治りにくい創傷の治療法としてウジ虫を活用していたらしいが、抗生物質であるペニシリンの普及によりその後じょじょに行なわれなくなったということである。

ところが、それがまたここに来て抗生物質が効かない耐性菌の出現などにより、再び脚光を浴びているらしいのだ。


なかなかすごい治療法が世の中には存在するものだけれど、しかしこの治療法を初めて知ったとき、私は「う〜む…」と考えさせられた。

「彼ら(虫たち)がいったいどういう働きを担っているのか」ということについて、私たちはもう少し考え直してみる必要があるのではないかと思ったのだ。

私たちは自分たちの死体や排泄物を忌み嫌い、そしてまたそれら腐肉や排泄物を主食とする彼らを忌み嫌う。

だがしかし考えてみれば、彼らのやっていることはまさにその私たちの腐肉や排泄物の「さらなる分解」であり、その働きによって私たちの環境は「排泄物の堆積」から免れているのである。

からだの壊死してしまった部分だけを食べ、それによって生体部分が再び活性化するように、彼らは私たちの環境の清浄化、活性化を促しており、それによって私たちは健康な生活を営んでいられるのだ。

どんなに忌み嫌ったとしても、その事実を変えることはできない。


私たちは生活していくうえで、さまざまなものを取り入れ、さまざまなものを排出している。

私たちは賞味期限とか言って、これは「食べられる」とか「食べられない」とか世界を勝手に分節しているけれど、もっと大きく見てみれば彼らのように、私たちにとって賞味期限が切れたところから、賞味期限が始まる生物たちもまたいるわけである。

生物全体で考えてみれば、食べ物の賞味期限などないのだ。

青いものを食べるものがいて、腐ったものを食べるものがいる。

そう考えると自然界の大きな巡りのなかでは、「もったいない」も何も無く、ただ健やかに次から次へと巡っているだけであるかのようにも思えてくる。


その大きな巡りのなかで滞るものが大きいところほど、それを分解する役割を担うモノたちが大発生し、それを速やかに巡らせてゆくというのが自然界で起きていることである。

次から次へとバンバン捨ててゆく私たちの背後には大量の滞りが堆積しているわけで、それを分解するべく、これからも彼らのような小さなモノたちが繰り返し大発生することだろう。

渋滞というのは現象として、流れの方向とは逆方向に遡行する。

私たちが私たちのすぐ後ろに渋滞を引き起こす生活を続けていれば、やがてその渋滞は遡って私たちの環境に浸潤してくるだろう。

そのとき私たちの生活には何が起こるのだろう。

滞りは私たちの生活に浸潤し、そのうち私たちの身体にも浸潤してくるかもしれない。

ひょっとして、そのときは、私たち自身が「世界に生じた巨大な滞り」として分解され始める番かもしれない。

そんな恐ろしいことを空想して、思わず後ろを振り返る。

いまだ「構築者」(留める者)ばかりがもてはやされる時代が続くが、「分解者」(流す者)の担う仕事はますます大きい。

posted by RYO at 21:15| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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