2008年05月29日

天邪鬼の神話

最近、出張講座が立て続けに入っており、大阪に行ったり、群馬に行ったり、新潟に行ったりとアチコチ移動している。

それらほとんどすべての講座は親子向けの子育て講座であり、基本的に「子連れOK」という形で行なっているので、大変にぎやかな状態のなかで講座が進む。

最近は都心部などでは、目の届くところで子どもが遊べるスペースを併設した「親子カフェ」のようなものもできてきて、子連れでもお出かけを楽しめるような環境も整い始めてはいるようだけれども、それでも子連れで参加できる講座などはまだまだ少ないらしく、そういう点で「すごくありがたい」と喜んでいただくことは多い。


どうも私は昔から天邪鬼なところがあって、人からダメと言われるとやってみたり、みんなが同じものを選べば自分だけ違うものを選んでみたり、人が行かないところへ行ってみたりと、とにかくレアなニッチへと志向する習性がある。

だから、「子連れご遠慮願います」という講座ばかりであると聞くと、「じゃあウチは子連れOKにしよう」などと、そんなことを言ってみたくなるわけである。

物事には役割分担というものがあるわけで、天邪鬼な私などは「人と同じことをやるのなら別にやる必要ないじゃん」と考えて、そこは人に任せてわざわざ違うポジションを求めてさすらってしまうのだ。

大学時代には友人に「オマエを見ていると卒論が書けそうだ」と言われたくらいであるので、よほど普段から群れからはぐれるような行動をとっているのであろう。

そういえば一頃流行った「動物占い」でも、私は孤独を愛する「オオカミ」であった。

まぁ考えてみれば、自分の身の置き所をレアなニッチに置くというのは、生存戦略上はなかなか悪くない選択である。

競合相手がいないのだから、熾烈な競争に巻き込まれることは少ないし、「そういうのが欲しかった」とピンポイントで響く人もわずかながらいるだろう。

もちろん真っ先に肉食動物に捕食される可能性も無きにしもあらずだが、エコロジカルに考えてみたときには天邪鬼には天邪鬼のニッチがある。


ところで私の天邪鬼っぷりは生まれながらのものであるので、「筋金入り」である。

それは「産まれる時に足から出てきた」という事実が証明している。

よほどみんなと同じように出てくるのが嫌だったのであろう。

私が母から伝え聞いたところによると(人はみな自分の起源を「神話」として人から伝え聞くしかない)、足から産まれた私はへその緒が首に巻きつき、顔を真っ青にしてグロッキーであったということである。

天邪鬼も命がけだ。

そこで息を吹き返すために、お産婆さんに冷水を浴びせられ、往復ビンタを浴びたということであるが、我ながらなかなか過酷なバース体験である。

冷水を浴びせられ、往復ビンタを浴びた私は、息を吹き返すや否や一言。

「リアリティ バイツ…。(現実は厳しい)」

とつぶやいたとか、つぶやいていないとか。

そして、さらに伝え聞くところによると、そんな筋金入りの天邪鬼を産み落としてしまった母上も、眼は真っ赤に充血し、髪の毛はボソリと抜け落ちたというから、かなり壮絶な出産であったようである。

自分のワガママで母上にも過酷な試練を与えてしまった天邪鬼。

それが私である。

(こんな天邪鬼でスミマセン…)

詳しい誕生神話は最近になって初めて聞いたのだけれど、私が今こうして子育て講座などやっているのも、その原罪をつぐなうためであるやもしれぬ。

背負った神話は大きい。


まぁともかく私はそんな筋金入りの天邪鬼であるので、その天邪鬼ぶりは講座の設定だけにとどまらず、その内容においてもニッチへニッチへと向かう。

だから私が講座でみなさんに教えている整体だとかシュタイナーだとかそういったものも、誰も語ったことのない整体だとか、誰も語ったことのないシュタイナーだとか、どうしてもそういうところに興味が向いてしまうのだ。

勘違いしてもらっては困るのだけれど、「誰も語ったことのない」というのは、「私こそが最も深い理解をしている」というような意味では決してない。

断じてない。あるわけない。

むしろ「もっとも異端」という立ち位置を意味している。

私は「誰もそんな解釈をしたことがない理解の仕方」を探りたいのだ。

だから「そんなふうに理解した人間はキミ以外にいないよ」と言われるほうが、私としてはむしろ嬉しい。

もちろん当然だけれども、その理解が「的外れ」であっては意味がない。

それではただの「おバカさん」である。

的確であり、なおかつ新鮮であること。

それが私の目指したいものだ。

とにかく私は世界をいろいろな角度から見てみたいのである。

いまだ誰も見たことがないであろう角度を探して、そこに美しさを見出す。

それが私の「世界を愛する愛しかた」なのだ。


そういえば今思い出したのだけれど、むかし女の子と公園を散歩していたときに何気なく噴水を眺めていたら、その女の子が私のそばへスススとやってきて一緒に噴水を眺めながらおもむろに「RYOさんって一番素敵に見えるポイント探すの上手ですよね」なんて言われたことがあった。

純朴であった私は突然女の子にそんなことを言われてドギマギしてしまって「そ…、そうかな。べ、べつにそんな深く考えてないけどな…」なんて返すのが精一杯であった。

今となっては、さわやかに微笑みながら「ボクのことをそんなふうに見てくれるキミの瞳のほうが素敵だよ」などと返せなかった自分が悔やまれるが、まぁそんな話はどうでもいい。


私は天邪鬼の業を全うすべく、誰も見たことのない角度から見て、誰も語ったことのない角度から語ることを目指すのだ。

そんなことをして「先人たちの視点を汚す気か」とおっしゃる方もおられるかもしれないが、そんなつもりはまったくない。

断じてない。あるわけない。

私はすべての視点を等しくリスペクトしている。

天邪鬼の一族は高潔であるのだ。

敬意を知らない天邪鬼は、ただの畜生である。

視点というものは、それぞれが像を掘り出す彫刻の一撃であり、視点の多様性はむしろ「モノそれ自体(オブジェクト)」の輪郭の肌理を緻密に浮かび上がらせる。

だから視点の多様性は、豊饒性として言祝ぐべきことである。

それぞれの視点に立つ人々に「そこからはどんなふうに見えるのか」聞いてみて、できる限り多くの人の声を集めてネットワークにしてみたほうが、より豊かなオブジェクト像が浮かび上がってくることだろう。

だからこそ、人間にとって「大切なこと」ほど、世界各地でありとあらゆる形をもって脈々と語り継がれているのではないか。

天邪鬼はそう考える。

そして、もし皆がその意見に賛同するならば、天邪鬼はコソコソと一人その場から離れてゆくのである。

それが天邪鬼。

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2008年05月18日

べしゃりづくし

11日。日曜日。

代々木オリンピックセンターで「しぜんいくじ全国ミーティング」の講座。

小雨の降るなか、ゴザを担いでテクテクと代々木のオリンピックセンターへ。

今回の講座は定員80名の会場に親子連れ30組というなかなかにぎやかな規模であるうえ、メインテーマが「武術」ということであるので、会場に着く最後まで「何をやろうか」と小雨に濡れそぼりながら五月雨のなかを思案。

サミダレシアン。


早目についてさっそく会場をのぞいてみるとこれがまた広い。しかも天井が高い。

う〜む。広いな。やりがいがあるではないか。

今回は武術の講座であるので、道着と袴に着替えて、まずは会場設営。

こういうのは最初の会場のデザインで、場がどのように動いていくかが大きく変化する。

「コドモの目」になり部屋をうろうろ歩きながら、「これは面白そうだ」とコドモの私が気を引かれるもののうち、「触られるとまずい」とオトナの私が判断したものだけ、イスや机をガタガタと動かして片っ端から埋めていく。


時間になって講師紹介を受けた後、さっそく講座開始。

まずは腹の調律点に見られるシュタイナーの人間三分節構造、「肚ができている」とはどういうことなのか、自発的な行為を抑圧することがからだにどのような影響を及ぼすか、排泄を全うさせることの重要性などのお話をする。

そして、河野先生の五相体操を入り口に、人の手を引いて導くときの感覚稽古や、背中の感覚を磨くゲームなどのボディワークを行なう。

私が「ぶつからない角度で相手を崩す技」をやってみせると、相手があんまり気持ちよさそうに崩れていくもんだから、その様子を見ていた受講生の皆さん方が「私も受けたい。私も。私も。」と、つぎつぎ懇願してくる。

仕方がないので、会場を歩き回りながら片っぱしからコロコロ転がしてゆくと、みんな寝転がって笑い出す。

この技はかけられると妙に気持がいいので、床に寝転がるとみんな笑いだすのだ。

自分の要求を最大限に尊重してくれる敬意と、それでもなお体勢を崩されてしまうカタルシスに、なぜかからだは悦びを感じ、ゆるみ、笑みがこぼれる。

人間という生き物の複雑な感受性の現われであろう。

ときどきそんなカタルシスも必要である。

「あれ?」と思っているうちに、自分が思ってもいない状態にされてしまうことが、「小さな自我」からからだを解放してくれる。


続けて「背中の感覚を磨く」ということで、二人組でお互いの背中を叩きながらいろいろ動かしてもらう。

「背中を細かく使えるようになると、こんな動きができるようになります。」と、必殺の「イモムシ」を繰り出すと、お母さん方もお父さん方も子どもたちも、一斉に「え〜?!」とにわかに色めき、どよめきたつ。

ふふふ、さすが必殺技。インパクトでかし。

みんな突如繰り出された動きに心奪われ興味津々だったので、「せっかくだから、ちょっとみなさんもやってみましょうか。」と言うと、チャレンジ精神旺盛な方々がうつぶせになって一生懸命「イモムシ」と化してみる。

が、

残念ながらみなさん、そのさまは「イモムシ」というよりはむしろ「シーソー」に近い。

ギッコンバッタン。

ほほほ。必殺技は一朝一夕には身に付きませんぞよ。


ほかにも今回は、育児講座ではおよそやらないであろう「金縛りの術」やら「寸勁」やらが次々と繰り出され、「受けたい。受けたい。」という親子さん方を片っ端から崩したり、抑え込んだり、突き飛ばしたりしてゆく。

みなさん、そんなに技をかけられたいのね。熱心で何よりであります。

そんな調子でなんだかほとんど疾走状態のまま2時間の講座を駆け抜ける。

ハァハァ。

最後の質疑応答の時にも、スタッフに「ちょっと座って落ち着いてください」と言われるくらいであったので、よほど興奮気味であったのかもしれない。

そりゃ失礼。 だけどオイラはいつだって必死だぜい!


最後のほうはいつものように、子どもに対する整体的な手当てに関する質疑応答になったが、おそらくそうなるだろうとも思っていたので、どんどん質問に答えていく。

子どもの命を引き受けている親御さんにしてみれば、それ以外のすべてのことは副次的なことにすぎない。当然であろう。

子育て中のみなさんの、そんな真剣な姿勢が私は何より好きなのだ。

真剣であること以上に美しいことを、私は知らない。


時は飛んで木曜日。

この日は大阪でクレヨンハウス主催のクーヨン読者限定「親子整体講座」。

関西で初めての講座ということで、「関西の親子ってどんなもんなんだろうか」と、ちょっとドキドキ。

いわゆるコテコテの関西ガキボーイのような子が現われ、講座中に「なんやねん。このオッサン。ハゲハゲ。」とか言われながら、アタマをパシパシと叩かれたりしたら、どうしようかと思っていたけれども、さいわいそのようなチャレンジャーは現れずホッとする。

まぁゆうても、いたらいたでワシも負けへんけどな(笑)。


時間になってだいたい集まったところで講座を開始。

基本的にほとんど整体に接するのが初めてという方ばかりであったので、整体の考え方や、病気のとらえ方、日々の過ごし方など、初歩的なところから話を始める。

話しているうちに最近の私の中のテーマでもある、人間のからだの中をめぐり、人々のあいだをめぐり、社会全体をめぐって結びつけてゆくものについてのお話になってゆく。

いきなりそんな話になって、初めての方々にご理解いただけるかどうかは分からなかったけれども、このあたりの世界観は私の中でもだんだん練り上げられてきたようで、どうやらみなさんご理解いただけた様子。

「そのように世界を観てみると、今までとはまったく違った形で浮かび上がってくるものがありますよ」と言うと、みなさんその予感をうっすら感じるのか「うんうん」とうなづいてくださる。

どうぞそのような観方も取り入れながら、いろいろ実践してみてくださいな。


後半はさまざまな具体的な手当ての実習。

上腹部を触りながら、「ここは感情の急所でもあって、悲しいことがあったりすると固くなるんです。でもそれは悲しいから固くなるんじゃなくて、悲しみを我慢しているから固くなるんです。悲しい時に、きちんとその悲しさを表現して涙を流せればいいんですけど、それを我慢していると固くなってくるんです。」と言うと、みなさん身を乗り出してほぅほぅと聞き入る。

表現というのは、これすなわち排泄である。デトックスである。

何事もスムーズであれば身体に現れる徴候は一時的なものでしかないのだ。

それがさまざまな理由から、スムーズに排泄されなくなるから徴候が常態化し病態化する。

自分のなかの思いや感情をきちんと表現してゆくということは、思考の排泄、感情の排泄ということであり、それがスムーズに行われているかどうかということが、個体の健康にとってはとても大切なことなのである。

ただ、それによって周囲との関係に摩擦が生じ、いろんな不具合やいざこざが起きるようであるならば、それは排泄の仕方を考えなければならない。

それは人間が社会的な生物である以上、避けられないことであり、そのあたりの社会的要請と個人的要求のちょうどよい塩梅を探って身に付けていくべきものが、社会的な振る舞いということなのだ。

中で病むこともなく、外で病むこともない、スムーズで仕合わせな排泄をしてゆくということ。

それを探ってゆく営みが、整体という生き方でもある。


いろんな実習も終えていったん講座を終了しお茶の時間になるが、みなさんからどんどん質問が出てくるので、ほとんど講座のような状態でさらに30分ばかりしゃべり続ける。

大阪のみなさんもとても熱心な方々ばかりで、「またこういう講座があったらぜひ来たいです。」とおっしゃっていただけたので、またなにか新しい動きが生まれる予感。

しっかし、我ながらよくしゃべるオッサンやで。ホンマ。

posted by RYO at 21:05| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月08日

月の吐息を浴びて

私の師匠である河野先生の「天之岩戸」公演も無事終わり、ほっとしたのもつかの間、今週末には自然育児友の会の全国ミーティングで講座があるし、その次の週には大阪でクレヨンハウス主催のクーヨン読者限定講座が控えている。

むむ。まだまだボケボケしている場合ではない。

初めての場所で初めての人たちを相手にして、2時間のあいだ場を持たせるというのは、なかなか集中力のいることである。

それに向けていろいろ心の準備もしておかなくてはならない。

気を抜くわけにはいかないが、でもあんまりずっと張り詰めていても仕方がない。

空を見上げればせっかく陽気もこんなに気持ちいいし、ちょっと息も詰まり気味で深呼吸の必要もありそうなので、久しぶりに森のオロカモノにでもなろうかと思い、午前中の空いてる時間に代々木公園へと向かう。

トコトコと歩いて森へ入り、木製のベンチに腰掛け、本を開いてほげっとしていると、からだもアタマもゆるゆると弛んでいく。

ああ、やっぱりこういうほっこりした時間が必要だなぁ。

木漏れ陽が射し、いろんな小鳥のさえずりが聞こえ、優しい風が樹々の間を抜け、ハトやスズメや昆虫がちょこちょこと思索の邪魔をしにやってくる。

ふへへへへ…(笑)。

いいなぁ…。これほど仕合わせな時間はないなぁ…。

森のなかで好きな本を読む。

ああ、至福の時。

もうこのまま死んでもいい。

…やっぱりウソ。


今回、森のなかで読むのに、部屋の片隅に積んである山のなかからさっと選んで抜き出してきた本は、『月と農業』(ハイロ・レストレポ・リベラ、農文協、2008)。

つい最近、新宿の紀伊國屋書店をうろうろしているときに、ふとそのタイトルに惹かれ手にしてぱらぱらと見ていたら、「これは欲しい!」と思わず購入してしまった本である。

この本は、中南米で行われている伝統的な農業について、その知恵や経験、おもに月の満ち欠けに関するものを、実際に農民の方たちに聞いて回ってまとめたものである。

さまざまな農民の知恵がイラスト図も活用して説明されていて、とても分かりやすいし、またひとつひとつがとても興味深い。

たとえば満月は地上の水分を上方へと引き上げるので、果実や花など、枝の先につくものを収穫するのに適しているとか、逆に新月は水分が下へと下降していくので、地面に近いものや根のものの収穫に適しているといった分かりやすいものから、もっと詳しい用途別の収穫時期、剪定の時期、播種の時期、さらには家畜の解体や去勢、蹄鉄の取り換えの時期まで、月齢ごとの最適な農作業の知恵が盛りだくさんに書かれている。

う〜む。面白いなぁ。

天体の動きと連動した農業というあたり、シュタイナーの提唱したバイオダイナミック農法にも通じるところがあるが、私はこういう自然の叡智のようなものが書かれている本を読んでいると、もうワクワクして興奮してきてしまってしょうがない。

イラスト盛りだくさんであんまりアタマを使わなくていいし、森のなかで読むのにも最適だし、我ながら良い本を選んで持ってきた。

グッチョイス。ミー。


月やその他の天体が、地球上の生物の生命活動に及ぼす影響については、はるか古来より世界各地で語られてきたことだけれど、こういうことは「非科学的」として退けられてしまうことが多い。

まあ、資本主義思想の時代である現代は、そういう合理化を妨げる発想、とくに人間の技術では解決不可能な事柄が絡むようなアイデアは、どうしたってほとんど無意識的に排除しようとする力が働くわけで仕方がないと言えば仕方がない。

だって、伐採の時期やら収穫の時期やらを月齢に依存するなんて、そんなナイーヴで七面倒くさいことを、資本主義思想が採用したいと思うはずがない。

いつ伐採しようが、なんかの液体にドバッと漬ければ、それだけで耐久年数が2倍になるとか、そういう発想のほうが資本主義思想にとってははるかにSexy(魅惑的)であろう。

でも世界各地を見回したときに多くの場所で似たように語られてきた事柄というものは、やはりきちっと向き合ってみる価値はあるはず。

かつて月の満ち欠けで暦を数えていた時代は、ほとんどの行事が月の満ち欠けに従って動いていたわけで、そこにはそこの理屈があったろう。

暦が太陰暦から太陽暦に変わり、月に従っていた時代から、太陽に従う時代になって、ますますからだの感覚よりも、脳による明確な意識(知識)が重要視されるようになったが、日本語において身体部分をしめす漢字がすべて「月」(にくづき)を持つことから分かるように、からだは昔から月に従うものであり、それは今でも変わらない。


シュタイナーはその著書のなかでもしばしば「月」と「水」の関係について触れているが、潮の満ち引きにも見られるように、「月の運動」は地球上の「水の運動」に多大な影響を及ぼしている。

さらに細かく言うならば水というより、水的なもの、流動的なもの、すなわちシュタイナーの言う「エーテル的なもの」ということであり、分かりやすく言いかえれば「フォルムを形成する力」ということである。

…よけい分かりづらいか(笑)。

まあいいや。

ともかく、「月」と「水」には深い関係があるということだけれど、それがもっとも分かりやすく現われているのが潮の満ち引きなのである。

けれども当然であるが、地球上の水は海にだけあるわけではない。

川にだってあるし、空にだってあるし、地中にだってあるし、われわれ生物だって体内は水で満たされている。

それぞれがそれぞれに月の満ち欠けの影響を微妙に受けているのだ。


『潮の干満ほど規模は大きくないが、月の律動が水に脈動をもたらすことがある。昔は井戸を掘るときにも、この律動を考慮したものである。井戸掘りは通常、月が特定の位相にあり、かつ十二宮のうち特定の宮に入っている場合にかぎっておこなわれた。地中にあってすら、水は月の運行とともに上昇したり下降したりするのである。月が特定の位置にあるときは、簡単に水脈を掘りあてることができるが、逆にそれは掘りあてたとき以上にやすやすと涸れてしまう。別のときには水脈に達するまでより深く掘ることが必要となるが、今度は水は不断に湧出をつづける。最近湧水のために放棄された炭鉱が調査されたが、その際に地下にたまった水も、月の律動に影響を受けていることが判明した。木材伐採労働者の伝統的習慣には、満月には河川が広がり新月には深くなるという現象の効果を生かしたものがある。これは水の中の運動形態が、月の軌道とその位相に対して明らかに特殊な関係を保持している、という事実を示している。そのため通常の河川においては、水が河岸に接近する満月時には丸太を浮かべるのは困難だが、新月のときには、水脈の中心に向かって引かれるので、容易に丸太をあつかうことができる。』
 (テオドール・シュベンク『
カオスの自然学』工作舎、2005、p182)


シュベンクによると、月の満ち欠けによって川の流れが微妙に変化し、材木の運搬にまで影響を及ぼすということであるが、当然、木そのもののなかにも樹液が流れているわけで、そこにも月の影響が及ぶことを考えると、伐採するにもその時期があるということであろう。

そこでちょっとネットで調べてみたら、「新月の木国際協会」なんていうNPO団体を発見した。

ここのHPによると新月の時に伐採したものが木材としてはもっとも適しているそうだが、先の『月と農業』にも同じことは書かれており、北欧でも南米でも木材は新月の時に伐採するということが語り継がれてきているということである。

話によると今でも南アメリカでは商品価値の高い木材には、伐採されたときの月の位置を示すマークが打たれているそうであるが、新月に伐採した木は接着剤や塗料を使わなくても済むらしく、シックハウス症候群の解決のためにも活用できるということなので、ぜひとも研究を重ねていっていただきたいと思う。


前にも書いたけれど、私たちのからだにはあるリズムがあり、それがそのままからだのフォルムとなって現われている。

星たちのダンス』(ジョン・マルティーノ、ランダムハウス講談社、2005)など見ていると、惑星たちの踊るダンスが太陽系という巨大なキャンバスに描きだす極めて美しいフォルメンに、「ほぅ」とため息が漏れるばかりであるが、それらもまた地球の周辺でハーモニーを奏でているわけで、それが地球という天体の活動にどれだけの影響を及ぼしているのかはまったく計り知れない。

私たちのからだに現われるリズムは、さまざまな律動が重なり合ったリズムであり、おそらくそれら星たちのダンスの影響も多かれ少なかれ、そして直接的にしろ間接的にしろ受けているであろう。

もちろんそれは線形的に単純に記述できることではないと思うけれども、でもその中でもとくに私たちに大きな影響を及ぼしているであろう月のリズムなどは、明らかな現象としてさまざまなところに現われているのは確かである。


私たちはみな、空に浮かぶ月や星たちとランデブーしている。

そんなことを思うと、なんだかワクワクしてはこないだろうか。

私は夜の街にポツリと立ち、空に浮かぶ月をポカンと眺めていると、まるで月の吐息を全身で浴びているかのように感じることがある。

私のからだのパートナーである月。

そのヒヤリと湿った魅惑の吐息。

やはりどうしたって、私には月のほうがSexyである。

posted by RYO at 20:20| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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