2008年04月27日

学生たちとの交歓

学生に呼び出されて久しぶりに懐かしの下宿「木村家」を訪ねる。

学生の話によるとどうやら「サークルの元気がないので喝を入れてほしい」とかなんとか。

何だって大学などはるか昔に卒業したはずの私が、「元気がない」とかいう学生のために、わざわざむさ苦しい学生の下宿部屋まで励ましに行かねばならないのか、私にもよく分からない。

よく分からないが、そんなことを言って自分の後輩たちの有り様を憂えて、わざわざOBの元まで電話をかけてくる可愛い学生たちを思うと、何か応えてやりたいと思うのが心情である。

仕方あるまい。その日も仕事だが、行ってお望みどおり喝を入れてやろうじゃないか。私の努めはまだまだ尽きぬ。

ということで、ショウガを20%使ったとかいう怪しげな「生姜焼酎」1本と、低アル微発泡清酒の逸品、一ノ蔵の「すず音」を2本たずさえて、夜も更けたころに木村家へ。


着いてみるとすでに、私が「心のアニキ」と思って尊敬してやまないKアニィが、サークル運営の中心である3年生たちを別部屋に隔離して、「少し時間をやるからお前らで考えて答えを出してみろ!」と説教済みであった。

さすがアニキ。仕事が早いですね。

こうなると私は安心して遊撃手としての本分を発揮できる。

以前も述べたとおり、私はどちらかというと「ナナメ上の大人」の立ち位置を得意とするものであって、真正面からガシッと切り込んでいくのはあまり得意ではない。

ときに「それしか通じないか…」と覚悟を決めて、仕方なしにやることもあるけれど、やはりどちらかというと、自分自身の性格、能力、人間性などを踏まえても、「ナナメ上から変化球」というようなトリッキーなスタイルがモアザンベターなのである。

今回も、もしそういうような状況であったならば、「その役目も止むをえまい」と半ば覚悟は決めていたのだが、着いてみたらその役割は「心のアニキ」がすでにきちっと果たし終えていたので、「さすがアニキ」と改めて感服した次第なのである。

久しぶりのアニキとの再会を言祝ぎ、がっしと固く抱きしめあう。

私はアニキとは無言ですべてを語らう関係であるので、がっしと抱きしめあった瞬間にすべての会話が終わる。

このときもがっしと抱きしめた瞬間に「俺が先陣を切っておいた。お前はお前の仕事を頼んだぞ」という声なき言葉を受け止めたので、私もがっしと抱き返しながら「任せておいてください」と応えた。

男の会話に言葉なぞ要らない。


とりあえず最初は酒を飲みながら、しばし学生たちの近況報告など聞きつつ歓談。

私も、学生時代に訪ねたマザーテレサの施設でのショッキングな出来事や、私を放っておいた友人の振る舞いになぜか友情を感じた冬の日の出来事、親友の恋のために夜の街を駆け抜けた遠い日のことなどを、つらつらと思い出しつつ語る。

学生も「そうですよね! それが無いんですよ!いま!」と熱く響いている様子。

そうか。そうだな。そうかもしれないな。

人間、小賢しく考えていたらそんなことは絶対やらないんだ。

でもアタマで考えていたら絶対やらないそんなことを、やっちまって初めて分かることもあるんだ。

もっとバカになって、思いついたらとりあえずやっちまえ!

失敗したら思いっきり笑ってやるし、筋が通ってなかったら思いっきりぶん殴ってやる。

…と、そんな感じでこちらもだんだんヒートアップしてきたら、テーブルの向こうで死んだような眼をしてボーっとしている男子を発見。

そのあまりにぬぼっとした佇まいに、無性に「このやろう!」と腹が立った私は、そこらへんの一升瓶のフタを次々とって片っぱしからそいつに向かって投げてやる。

ピシッピシッ。

「な、なんですか?」

相変わらずぬぼっとしたまま、これまたとぼけたこと聞きやがる。

「『なんですか?』じゃねぇ! なんか反応しろっつってんだ!」

ピシッピシッ。


戸惑う彼にまわりの優しい先輩たちが「ほら!熱いラブコールを受けてるんだから、さっさと行きなさい!」と声かけ、けしかけられて、ようやくこちらにやってくる。

見るからに素直で優しく従順そうな風貌。

のこのこやってくるあたりが可愛らしい。

へん、来やがったな。いきなり聞いてやる。Sudden strike(不意の一撃)だ。

「いまオレが何やってたか分かるか?」
「は…?」

絶句。当然。意味不明だ。

「あのな、オレは反応して欲しかったんだよ。」
「はぁ…」
「何でもいいんだ。お前に向かって何か飛んできたんだぞ? 何か反応してみろ。かわすとか避けるとか投げ返すとか。」
「はぁ…」

しゃべっていてもどうにも響かない。

こりゃさっきから先輩たちにあきれられるのもやむをえまい。

そこで「こりゃ動くしかない」と思い立ち、おもむろにSecond strike(第二撃)。

「山と言えば?」
「は?」
「山と言えば何だ?」
「え…山…ですか?」
「そうだ。山だ。」
「山……」
「遅い!」

バシィッ! イテッ!
哀れ学生。おでこにスマッシュ。

「遅いよ。お前。」
「えぇ?」
「何でもいいんだよ。返せよ。山と言えば?」
「え…」
「…」
「…かみ?」
「お、返すじゃないか。いいね〜そうだよ(ヤマカミは私の苗字である)。 …でも遅い!」

バシィッ! イテッ!
哀れ学生。理不尽な仕打ち。

「テンポだよ。考えるな。山と言えば?」
「海!」
「お、そうだよ〜。それでいいんだよ。」
「なるほど…山と言えば?」
「川!」
「お! 早いですね。」
「当たり前だろ。お前なんかにひっぱたかれてたまるかってんだ。」


そんな禅問答を繰り返しているうちに、徐々に彼もその眼の奥に野生の光が輝き始める。

よしよし。それでよし。忘れるなよそれを。油断してたらまたひっぱたくぞ。その眼を曇らせるな。

どうにも考えがアタマの中ばかりグルグルと駆け回り、一向に手足にまでつながらないような錆びついたアタマには、もうとにかく問答無用でやらせるしかない。

やれば手足に血が通い、野生が目覚め始める。


ぬぼっとしていた彼の眼に輝きが取り戻ったところで改めて本題に入る。

「お前はどんなサークルがいいと思う?」
「みんながやる気を持って活動に参加するサークルがいいと思います。」
「じゃあ、どうやったらみんなやる気になってくれるんだろうな。」
「う〜ん…やってて楽しいことをやるっ…てことですかね…」
「そうか。じゃあ、みんな何やったら楽しいんだろうな? たとえばお前はどんなとき楽しいんだ?」
「…ドキドキしてるときですかね?」
「ドキドキ? いいな(笑)。ドキドキか。 じゃあ最近はどんなときドキドキした?」
「この春、海外に行ってきたときです。」
「おお、そうか。どこ行ってきたんだ?」

……
海外初体験の話を語りながら彼もどんどん生き生きしてくる。
そうだよ。それだよ。
そんな様子を見ているとこちらも嬉しくなってくる。
……

「いいじゃん。ドキドキ。じゃあさ、みんなはどういうときドキドキしてると思う?」
「え…いや、どうでしょう。分からないです。」
「だろうな。分からないよな。分からないなら聞けばいいじゃないか。『どんなときドキドキする?』って。みんなに。聞いたことあるのか?」
「ありません。」
「じゃあ聞けよ。聞いてみなきゃ分かるわけないだろう? すぐ聞いてみろ。となりに仲間がいるんだから。今すぐ。思い立ったらすぐ聞け。ほら。」
「は、はい。」  「あの…」


こうして先輩の愛のムチに打たれて彼も動き始める。きっかけが転がり始める。

どんな崇高な理念であっても、一つ一つの行動は単純なものでしかないのだ。

思考は手足にまで満たせ。

動け動け動け。


私は最近とくにそうなのだけれど、学生たちを見ているとホントに可愛くて仕方がない。

見ていると思わずニコニコしてしまって、今回も彼らの様子を見ながら「輝いてるよ。お前ら。」とゲラゲラ笑っていたら、「何でそんなに笑っていられるんですか?!」と学生に怒られた。

いや、スマン。でも可愛くて嬉しくて仕方がないんだよ。

キミらには「キミらが今輝いている」ということがまだ分からないだろうな。

泣いたり怒ったり失望したりしながら、必死に「今」を生きてるキミたちのそのさまがホントにまぶしくて嬉しいんだよ。

自分のなかで錆びつき始めていた何かが、またにわかに活発に動き始めるんだよ。

最近ちょっとへこたれたりもしていたけれど、キミらのそんな輝きに元気を分けてもらった。

フフフ。いいな。お前ら。

負けないぞ。ちくしょう。

posted by RYO at 20:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月17日

ホープフルモンスター

ときどきぽつりと「人は変わらないのかな…」と寂しく思うことがある。

確かに一度現実化したフォルム(形態)やスタイル(様式)というものは、そこに向けたフィードバックがかかり、なかなか変化するものでない。

たとえば生命の「種」というものなど、その端的な現われであろう。

地球上に存在するさまざまな種が、繰り返し自らの似姿としての次世代を生み、増やし続けるのも、そこに「あるひとつのフォルムとスタイル」が存在し続けようとしているからだ。

絶えなき「ある衝動」が、私たちにあるフォルムを保たせ続け、そのためのスタイルを絶えず保持し、また新たに獲得させようとしている。

いや、スタイルが先か、フォルムが先かは分からない。

形式が様式を生み、様式が形式を生む。

それは絶えず双方向的なものだ。

現象は真実の一つの現われに過ぎないが、その一つの現われには真実がすべて現れている。

絶えずある「フォルム/スタイル」を実現させようとする衝動が、この世界に「生命」を、いや「時間」を生み出しているのだ。


…なんだろうか。

哲学的な思索などしてみせて気を紛らわしている。

寂しく、悲しい。

悲しいと人は哲学的な思索に沈潜したくなる。

静かに閉じて、自分という現象を見つめなおしたくなる。


人を人たらしめている衝動を変えることはできまい。

それは物理法則を変えるようなものである。

どれだけ遺伝子操作の技術が発達しても、生命が生命たらんとする衝動そのものを変えることはできまい。

だがしかし、その衝動の「現われ」として現実に生じるさまざまな瑣末な現象においては、同じ瑣末な現象の端くれとして、そこに働きかけることはできるだろう。

そう。たしかにできるのだ。

たしかにできるからこそ、私はそれを実践してきた。

そして今もしている。

が、それでもなお現実に生きていると、たびたびふと立ち止まってしまうことがあるのだ。

生易しいものではない現実に打ちのめされて。


なんだか自分がずいぶん巨大なものと向き合っているような気もしてならない。

あるいは逆にあまりにちっぽけなところに目を向けすぎているのかもしれない。

私はあまりにちっぽけなところばかり見て「変わらないよ!」と叫んでいるだけであって、もう少し身を引いてみれば、そこは大きな変化の中のごくわずかの凪の地点であるのかもしれない。

「そういう近視眼的なものの見方はダメだよ」と絶えず自分がたしなめているはずの陥穽に、自ら陥っているのかもしれない。


私が心の師匠の一人として仰いでいる(お会いしたこともないけれど)料理家の辰巳芳子先生は、ある番組の中でご自身の料理教室に参加されていた一人の受講生の質問に、というより料理に対するその姿勢に、「あなたは私の何を聞いていたんですか?!」と静かに、しかしはっきりと怒りを込めて叱りつけた。

自分が必死になって伝えんとしていたことが、まったく伝わっていなかったことに対する落胆から、つい語尾が激しくなってしまったのであろう辰巳先生のその様子は、まるで私ごとであるように私の心にグッと迫ってきたのを、今でも覚えている。

そのあと一人台所に立ち、「教育者はね、あきらめが悪くなくちゃいけないですよ。」とつぶやきながら、再び真摯に料理に向き合う辰巳先生のお姿に私は心深く打たれ、「私もこうあらなければならない」と強く決意したものである。


だが、それでもやはり、悲しいときには悲しい。

悲しみが生み出す虚脱感に、私はよろよろと力なくうなだれ、そのまま倒れこむ。

歩くことも、しゃべることも、物を持つことも、実はこれほど大変なことだったのかと思い知らされるほどの状態に、私はいつも自分の力の源泉を思い知らされる。

私のこの肉体と精神を支えているのは他でもない。

「希望」なのだと。

そう。初対面の人に突然、「この極楽とんぼ!」と言われるほどに、見るからにオプティミスト(楽観主義者)である私の力の源泉は、「希望」なのだ。

本当に文字通りの意味で、「希望」が私を生かしている。

茂木さんの言う「ホープフルモンスター」は、実はこんなに近いところにもいて、ずっと私を支えてくれていたのだ。

悲しみと絶望と孤独と邪悪のカタマリであるこの私を、いつも元気づけ、奮い立たせ、そしてそれら私の中にあるモノたちを、喜びと希望と愛情と優しさの振る舞いに変えてくれていたのは、私の中にいつしか棲みついていた一匹のホープフルモンスターだった。

どんな絶望をも食べ尽くし、どんどん希望へと変えてくれるホープフルモンスター。


いつ頃からいたのかな。

初めからいたのかな。

「生きるのがつまらない」と嘆いていた少年期にも、いたんだろうか。

「なんで分からないんだ!」と猛っていた青年期にも、いたんだろうか。

私の中のホープフルモンスターは、私が絶望しそうになると、すぐとなりにやってきて、何でも噛み砕いてしまうその鋭い歯をガチガチ言わせながら猛り、私を奮い立たせてくれるのだ。

フフフ。

怖いね。でも優しいね。

やるよ。

人生は短くて忙しいからね。

悲しみに閉じこもっている暇があったら、泣きわめきながら走ったほうがマシだ。

さあ、忙しいぞ。

ほら。こうして文章を書いている間にも私を元気づけてくれている。

ホープフルモンスター。

パンドラの箱から、最後に出てくるモンスター。



My Hopeful Monster

posted by RYO at 21:05| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月07日

朝カル親子講座&お花見会

金曜日。

今日は朝日カルチャーセンターの「ママは子どもの整体師」講座。

朝、お花見用のシートやブランケットなどを紙袋に抱えて、早めに家を出る。

天気もよくお花見日和である。うむ。幸先が良い。

新宿の高層ビル群の合間を抜け、朝カルに着いたら、さっそく更衣室やら教室の後ろのほうにあるオーディオやらの危険物チェック。

講座でも私自身よく言っていることだが、子どもに触られて困るようなものを子どもの手の届くところに置いておくのは、それは単純に大人が悪いのである。

今回は大勢の親子連れが来る予定なので、あらかじめ壊れそうな物、倒れて危険そうな物はすべて片っぱしから片付けて、なるべく安心して子どもを放っておける「場づくり」をする。

けれども子どもは「大人の想定外」を発見する達人。油断は禁物。

教室には座禅用の座布をお借りしてテキトーに積み上げ、更衣室に授乳・オムツ替え用にブランケットを敷き、レジュメやパンフレットも並べて準備万端。


しばらくすると親子連れが次々と教室にやってくる。

朝カルスタッフのNさん、Mさんとその光景を見ながら「いやぁ壮観ですねぇ…」と語りあう。

なにしろ本日の講座、「満員御礼!」である。(多謝!)

教室は隅まで親子で埋まり、外の廊下もベビーカーのプールである。

朝カルの講座はおもに大人向けのものが中心であるので、これほど親子がわんさか集結したのも、おそらく新宿朝日カルチャーセンター創設以来であろうという話。

そうでありましたか。これはまた伝説を作ってしまいましたな。はっはっは。

…ってイヤイヤ、しかしこれは大変だ。

いちおう今日は子どもも大勢来るというので、いろいろ人手も必要かもしれないと稽古生など何人かに声をかけて手伝いに来てもらったのだけれど、考えてみればこれは「お目付け役が大勢いる」ということでもあると、はたと気づいた。

しまった。講座が終わったあとに「話が長い」とか「実技が足りない」とか、あとでみんなからつべこべ言われてはタマラン。

これはいつも以上に講座をテキパキと進めていかなければならない。

ええ、やりますとも。もちろん。任せやがれ。


時間になってNさんより、講師紹介の一言を頂いてさっそく講座開始。

「整体とは生活術なのです」というお話に始まり、病気をどう見るか、子どもをどう見るか、そんな基本的なところをひと通り押えてゆく。

今回は講座の中で「大人が謝る」ということについて、ちょっぴりだけ触れた。

私はこれはすっごく大事なことだと思っているのだけれど、もしかしたら今まで講座で触れたことはなかったかもしれない。(あるかな?)

む…なんでだろう。

こういう「意図せず触れない」という話題はセンシティブなことが多いが、今回は講座の中で触れてしまったので書いてみよう。


「子どもにきちっと謝る」。

これってけっこう、いやすっごく大事なことなのだけれど、なかなかこれができない人も多い。

うわべは謝ることができても、きちっと謝るというのはなかなか難しい。

しかも相手が子どもであればなおさらである。

これだけ尽くしている相手に対して、なおその自分の不備を詫びるというのは、これはなかなか高い精神性を求められることである。

大人が、自分に落ち度があったときには、子どもに対してきちっと謝るということ。

そういう大人の態度を子どもに対して示すということ。

何度だって言うが、これはすっごく大事なことである。

大人は狡猾だから、たとえ自分に落ち度があって子どもに不愉快な思いをさせた時にも、なんだかんだと言い訳つけて言いくるめてしまうけれども、そういう態度を子どもに対して示すというのは、子どもに対して失礼であるのみならず、「虚偽の振る舞い」を教えることになる。

「こういうときは(自分がミスしたとか)、そういうふうに振る舞うもんだ」と。

それってやっぱりいかがなものだろうか。

子どもは、言い訳している大人の「言葉」と「態度」と「身体状態」のデタラメな混乱ぶりを、その直観的感応力でもって全部感じ取っている。

はっきり言ってしまうが「子どもは全部見抜いている」。

「なにか嘘だ」と。


子どもはまだ言葉に拙く、言葉の意味の読解に慣れていない。

だがそれゆえにむしろ、そこに伏流する「メタメッセージ」のほうを繊細に受け止める。

言葉というものには複数のレイヤーが重なり合っていて、人はふつうその複数のレイヤーを同時並列的に解釈しているのだが、子どもはそのうちの「文章の意味のレイヤー」の解釈にまだ習熟していない。

平たく言えば「何を言っているのか難しい」ので、その語義の解釈に意識を集めるよりもむしろ他のレイヤー、つまり「それを言うことでどうしたいのか」という相手の欲求のほうが強く意識化されるのである。

子どものコミュニケーションにおいては、「言葉の意味」よりも「言葉の意図」に焦点がある。

「発話された言葉」よりも「発話する主体」を見ている。

子どもの勘がいいのはそれゆえである。

それが言語運用能力の発達とともに、焦点が「言葉の意味」に推移してくるので、大人になるにつれてアタマによる解釈が優先的に働き始め、勘が鈍くなってくるのだ。

だが、ぼんやり聞いている者にのみ浮かび上がってくる声というものもある。

ちょっと分かりづらいかもしれないが、そういうことなのである。


とにかく子どもはそうして言葉の意味を理解するよりも、その圧倒的な感応力でもって大人の虚偽に潜む混乱をからだで感じる。

アタマとからだと言葉のズレ。不一致。

子どものような素直なからだはその大人の不一致に、からだの奥深くから混乱させられる。

しかも子どもはそこで感じた違和感を、これまた言葉に拙いゆえにそれを言葉にすることができないので、ただその混乱のうちに浸っているしかない。

それにもし仮にそんなことを指摘したらもっと嫌なことになりそうな予感がするから、どっちにしても仕方なしに引き受けているのだ。

子どもはツライね。


私は、誠心誠意きちっと大人が謝れば、子どもは必ず許してくれると思っている。

少なくとも私が子どもだったら、そうして自分を一個人として扱い、真剣に向き合ってくれる大人がいたら、その誠意に対しては自分なりの精一杯の誠意をもって答えたいと思う。

もちろん大人としてその優しさに甘えてばかりじゃいけないが、子どもはいつだって「本気」で生きているのだから、こちらも「本気」で向き合うのが礼儀であろう。

そしてそういう大人の態度を目の前で示して見せることが本来の教育というものではないか。

ただ「本気になれない」というのはある意味「現代病」でもあって、なかなか難しいことだけれども、「そのつど本気」であるということはとても大切なことである。


…とまぁ、そんなことが言いたくて講座のなかで「落ち度があったらきちっと謝る」と言ったのだけれど、そんなことまでしゃべっていると、お目付け役の目がにわかに眼光鋭くキラリと光るので、講座ではあっさり流してしゃべったのは言うまでもない。

でも言いたいことはそういうことなのである。


30分ほどお話しした後は、いろんな手当ての実習に入る。

みなさん、子どもにやってみたり、となりの方とやってみたりして、ワイワイと楽しんでくださってる様子。

私は質問があるたびにうろうろとそこらじゅうを歩きまくって実技を見せたり、質問に答えたり。

そんなことをしているとあっという間に講座も終了の時間になる。


講座終了後、ここ数カ月Tさんが一生懸命編集し、ようやく出来上がった私の整体本「整体的子育て入門」を販売すると、なんと「買いたい」という人がぞろっと行列をなしてしまって、これには私もびっくり。

「先着10名のみ」というTさんお手製の布製ブックカバーが効いたか。

でもその先着に洩れてもなおほとんどの方が買ってくださったようで、これまたたちまち完売御礼となってしまって感謝感激。


その後、希望者を募って新宿中央公園にお花見に行く。

ちょうど桜も散り始めで、風が吹くたびに向こうの景色が霞むほどに見事な桜吹雪が起き、みんなで「ほぅ…」と心奪われる。

私もあまりに美しい桜吹雪に思わずポカンと見とれてしまったが、となりに馬祖がいれば思いきり鼻を捻られているところ。

「イタタッ! 何をするんですか!馬大師?」
「おや、ここにおったか。どこへ行ったかと思ったぞ。」

油断大敵。

しかしたとえ鼻を捻られたとしても、自然の美しさに心奪われる感動は譲れぬ。


公園の空いている一角を見つけシートをいっぱいに敷き、TさんやNさんが用意してくださった、パンやちらし寿司などをみんなでおいしくいただく。

日差しも気持ちよく、陽気も暖かく、風も心地よく、桜も美しく、皆が笑顔である。

こんなに素晴らしいことはない。

「お酒が欲しいね」と言いつつ買い出しに行ってくれたSさんがホントにビールを買ってくる。

「買ってきたんじゃしょうがないわね。」とママさんたちも渋りながら手を伸ばすが、その口元に密かに笑みがこぼれているのを邪悪な私の眼は見逃さない。キラン。

知ってなおかつ囚われず。それでよい。


でもホントに今回の講座は来てくださった方々みなさんに喜んでいただけたようで、我ながらとても良い形で終えることができたと思う。

これもみな手伝ってくれた人たちと、講座に参加された方々みなさんが、講座という場を作り上げることに協力してくれたからこそである。

感謝、感謝。

改めて思うが、私はやっぱり仕合わせ者なのである。

posted by RYO at 19:41| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする