2008年03月25日

パワーズ・オブ・テン

アマゾンに注文していた『EAMES FILMS(イームズ・フィルムズ)』が届いたのでさっそく観る。

EAMESというのは「イームズの椅子」で有名なあのイームズである。

私もその名は家具のデザイナーとしてしか知らなかったのだけれど、 DVDに付いている解説文によるとイームズ夫妻は映像作家としても有名であったらしい。

ほぉ〜。そうであったか。

今回、突然思い立って『EAMES FILMS』を購入したのは、6篇収録されているショートフィルムのうちの一つ、「パワーズ・ オブ・テン」を観てみたいと思ったからである。

「面白いフィルムがある」ということでその名前だけは覚えていたが、それが誰の作品でどんな内容のものなのかはほとんど知らずに、 「観てみたい!」という想いだけで今回アマゾンで注文してみたのだけれど、そうしたらあの「椅子で有名なイームズ」 の作品だったというわけである。

意外だったのでちょっとびっくり。


私が観たいと思っていた「パワーズ・オブ・テン」という作品は、イームズの映像作品のなかではもっとも代表的なものらしいが、 すでに30年以上も前の作品である。

そのタイトルは日本語に訳せば「10のちから」という意味になるが、その名の通り「10」という数字を手がかりに世界の神秘というか「スケール(尺度)」の神秘をぎゅぎゅっと凝縮した、そんなショートフィルムである。


フィルムは公園でピクニックをしている男女の映像から始まる。

芝生の上にシートを敷き、二人とも気持ち良さそうにごろりと横になっている。

カメラはそんな彼らの様子を真上から俯瞰的に捉えている。

画面には1メートル上空から1メートル四方の構図で撮られた画が映し出されている。

ナレーションとともにカメラはおもむろにぐーっと上方に引いていく。

これから10秒ごとに10分の1のスケールになるようにカメラを引いていくという。

つまり10秒後には10メートル上空から10メートル四方の構図で撮られた画に拡大されることになる。

10秒ごとに10倍の縮尺ということは、10の乗数でスケールが変化するということだ。

カメラはぐんぐん上空へと上昇してゆき、30秒後には男女は遠景に消える。

30秒後というのは10分の1、つまり1000メートル上空から1000メートル四方の構図である。

画面はなおもぐんぐんと引いていき、わずか70秒後には画面は地球全体を捉える。

スケールは10、1の後ろに0が7つ、つまり1万キロメートルである。

その20秒後には月の軌道までをも飛び出し、スケールの変化はさらに加速する。

10、1010、1011、1012

地球もたちまち点となり、惑星の軌道を抜け、太陽系を飛び出し、160秒後には1光年の距離に達する。

そこからは10秒ごとに10光年、100光年と桁違いの速度でもって離れてゆく。

(いちおう光速度による時空間の歪みは考えない事になっているらしい。メンドくさいからね。 てゆうか光より速い速度で後退する者の目には何も映らないので、主題がまさに置いてけぼりになっちゃう(笑)。)

3分半後には銀河系を飛び出し、4分後にはついに視界限界にたどりつく。

4分ということはスケールは1024、1の後ろに0が24個。

数字で書けば「1000000000000000000000000」となる。
(ちなみに日本語では「一予(じょ)」と読む。可愛らしい。)


宇宙への旅はいったんここで終わることになり、カメラは動きを止める。

ピクニックの光景からここまで、わずか4分の出来事である。

わずか4分の出来事であるが、画面がグングン引いてゆく間に、 スケールには濃いところ(変化が多い)と薄いところ(変化があまりない)があり、それらがまるで階層を成しているかのようにも見えたりして、 非常に考えさせられる。

う〜む、何だろうか。面白い。

視界限界にたどりついた後は、一番初めの「10(ゼロ)の世界」 、つまり1メートル四方のスケールにまで5倍の速度(2秒ごとに10倍)という速度で一気に戻ってゆく。

しゅるしゅるしゅる〜。

死ぬ前に観る「走馬灯のような…」とはこんな感じかもしれないな、などと余計なことを思う。


さて、スタート地点であるピクニックの光景にまで一気に帰還した後は、今度は宇宙(マクロ)への旅とは反対にミクロへの旅となる。

10秒ごとに10倍のスケール変化。

カメラは再びスピードをゆるめ、今度はピクニックで横になっている男性の手の甲に向かってグングンと寄ってゆく。

40秒後には10−4、つまり0.1ミリのスケールとなり、手の甲の毛細血管の中に入り込む。

70秒後にはDNAのらせん構造が見え始め、90秒後には人体を形成する炭素原子に到達する。

100秒後、スケールは10−10、1オングストロームのスケールに到達する。(懐かしいなぁ…)

ここでカメラはいよいよ量子の世界へ突入する。

いちおうは目に見えるカタチを保っていた炭素原子はおもむろに電子が不確定的に飛び回る電子雲と化し、 画面には先ほどまで旅していた銀河系のような風景が広がる。

ただしこちらは星々(電子)が活発に動き回る、きわめてダイナミックな銀河系である。

(実際には電子をそんなふうに見ることはできないけど)

カメラはそのダイナミックな銀河系の中心へとなおも近づいてゆく。

2分後。原子核に最も近いところを飛び回る2個の衛星(電子)軌道の雲を抜ける。

中心である原子核にたどり着くまではしばらく何もない空間が広がる。

まるでふたたび宇宙空間を旅しているようである。星もない静寂。

さらに20秒後、カメラは炭素原子の原子核にいよいよ到達し、核が画面いっぱいに広がる。

さらに20秒後には、10−16メートルの世界、陽子のさらにその中にまで入っていってしまった。

数字で書けば10000000000000000分の1。
(ちなみに日本語では「一瞬息(しゅんそく)」と読む。速そうだ。)

「そこから先は未知の世界である」というナレーションとともに画面はフェードアウトしていって、フィルムは終わる。


わずか9分足らずのこのフィルムのなかで、観る者はミクロの世界とマクロの世界のあいだ、10−16から1024までを一気に旅することになる。

数字にすればわずか1040のスケールの旅であるが、ともに人間のスケールにとっての限界までを網羅している。


私は以前から、物事の「スケール(尺度)」ということと、「フォルム(形態)」というものは、 ともにきわめて重要な秘密が隠されているような気がしてならなかったので、このフィルムにはいろいろなことを考えさせられた。

同じモノを中心に据えながら、スケールの変化によってそこに現れるフォルムは大きく変化するということ。

「どのスケールでもってそれを見るか」ということは、そのモノの意味すらも変える。

意味とは決して自明のものではない。

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2008年03月13日

へりくつ問答フォース

「RYOさん、こんにちは。またまた『へりくつ問答』の時間がやってまいりましたよ。」
「いやぁ、またおもむろに書き出してしまいましたね。これで4回目。前回はえ〜っと… 7月でしたから、今回は8ヶ月ぶりですか。早いですね〜。お、でも前回と一緒だ。」
「あ、ホントだ。狙ってました?」
「いやいや偶然です。何かそんな周期でもあるんですかね? へりくつ周期(笑)。」
「でもホントにあっという間ですね〜。 いかがでしたか? この8ヶ月は?」
「そうですね〜。なんだかぼちぼちと忙しかったような気もしますね。おかげさまで。」
「クーヨンの連載も始まりましたしね。そういえば前回はクーヨンに初めて出た直後でしたね。」
「そういえばそうですね。」
「私が前回 『顔が固い』って言ったら、ちゃんと次の記事では素敵な笑顔で写っていましたね。やればできるじゃないですか〜。」
「あなたがここでそんなこと言ったから、編集者のHさんに『今回はちゃんとカメラマンを用意しましたから』 なんて気を使わせちゃったじゃないですか! まぁでもおかげさまで素晴らしい写真を撮っていただきましたけどね。私の周りでは 『実物よりはるかにいい』ってもっぱらの評判ですよ。褒められてんのか何なのか。」
「さすが邪悪の人。外ヅラになるほどいい顔になる。」
「あなたの失敬ぶりも相変わらずですね。」
「い〜え〜、先生には足元にも及びませんわ。」

「ところで今回は講座に参加された方から質問が出ているんですよ。 それで今回はRYO先生にそれに答えてもらう形で進めてみようかと思いまして。」
「あら、そうですか。」
「それではさっそくですけど読ませていただきますね。では…コホン。
『RYO先生、いつもためになるご講義をありがとうございます。質問があります。 先生は講座のなかでよく『病気の中に元気を見る』とか『イタズラの中に知恵を見る』とかおっしゃっていますけど、 それって具体的にはどのようなことをおっしゃっているんでしょうか? 何となくは分かるんですけども、 できましたらそのへんのことをもう少し詳しく教えていただけますでしょうか? よろしくお願いいたします。 …できれば簡潔に。
…と、いうことですけど、いかがでしょうか? センセイ?」
「最後のひとことホントに書いてありました? そこだけ地声でしたけど…。」
「書いてありますよ。ホントホント。見てみます?」

「まぁいいですよ。でも聞かれてしまったからには答えねばなりませんね。 …う〜ん。そうですねぇ…。まぁ端的に言えば『着眼点』 なんですよね。『現われてしまった現象』よりもその『現象を引き起こすエネルギー』を見るっていうのかな…。そうですね…、 たとえばここに電池があるとしますね。これってエネルギーですよね?」
「はい。」
「この電池はエネルギーのかたまりですから、これに電球を付ければぴかっと光るし、モーターを付ければぐるぐる回るし、 電熱線を付ければ熱くなるわけです。『電気』と言うエネルギーは同じでも、付けるものによってその『現われ』は異なるわけですよ。」
「そうですね。」
「それでね。『病気の中に元気を見る』ってことは、その電球がぴかっと光ったり、モーターがぐるぐる回ったりという『現われ』 そのものよりも、それを引き起こす電気という『エネルギー』のほうを見るって事なんですよ。そちらのほうがはるかに重要なんです。」
「はい。」

「なぜそれが重要かって言うとね、 自分の中にあるエネルギーをどのように外に現わしていくのかってことはけっこう外形的なものなんです。だから『電球をより明るく光らせる』 とか『モーターをもっとパワフルに回す』とかっていうことは、これからゆっくり学んでいけばいいことであって、 それよりはその電気がきちんとスムーズに流れていけるような『電線コードの回路』のほうをきちっと作り上げてゆくことが、まず基本なんです。 」
「電線コードの回路。」
「それでそのときにね、そのエネルギーの噴出という『現われ』を、どの角度からどのようなものとして認めるかってことが、 その後の回路の構築の仕方、ひいてはエネルギーの発散の仕方に非常に大きな影響を及ぼすわけです。」
「ちょっと分かりづらいんですけど…」

「う〜ん…だからね。たとえばここに膨大な遺産を相続した小さな子どもがいるとしますね。」
「遺産?」
「遺産。」
「遺産…」
「そう、遺産。でね、その子は当然お金の使い方なんて知らないわけですよ。ただ周りの大人がワイワイ騒いでいるもんだから、 どうも自分は何かとても大切なものを手に入れてしまったらしいということだけは、その気配を感じる。」
「はぁ…」
「で、さっきの電気の話と同じですけど、お金もエネルギーみたいなもんですから、それはさまざまなものを動かす『力』があるわけですね。 でもその『力』をどういうふうに行使するかは、使う人次第なわけです。」
「まぁそうですね。」

「子どもはまだそれが何なのかよく分からないもんだから、膨大な遺産を相続したって言ったって、 何のことやら分からなくてきょとんとしているわけですけど、その価値を知り、そしてその使い方を知っている…「と思っている」 と言っておこうかな…そんな大人が周りにワラワラと寄ってくるわけですよ。それでみんな寄ってたかって、 『おじさんに預ければ悪いようにはしないから』とか、『おばさんが好きなもの何でも買ってあげるわよ』とか言って、 その力の使い方をコントロールしようとするわけです。」
「はぁ…」
「ってまあそこまで喩えてしまうと遊びすぎですけど、とにかく大人はその力の使い方を、 自分の都合のいいように子どもに教えるたがるわけです。教えたがるというか、子どもはその大人の振る舞いを通じて、 自ずと使い方を学んでしまうんで、近くにいるだけで微妙にその影響を受けてしまう。『ああ、お金っていうのは、こういう使い方をするんだ』 って。だからそれは必ずしも意識的に行われるわけじゃないんですけど、 いずれにしてもすぐそばの大人の振る舞いはかなり大きな影響を及ぼすわけです。」
「う〜ん…」

「それでたとえば、その子が自分のエネルギーは自分の欲望の赴くままに使っていいんだという振る舞いを身に付けてしまったとしたら、 何だか賑やかで愉しそうだからという単純な理由で、『え〜い、こっちにやっちまえ!』とその大金をドッカーンと動かしちゃって、 とんでもない事態を巻き起こして、『みんながそれで右往左往しているのが愉しい』みたいなことになるかもしれない。 でもそれは周りもはた迷惑だし、そんなことを続けていたらやっぱりその子もいつかは自らがドッカ〜ンと破滅せざるを得なくなると思うんです。 だってもしそれ以外の発散方法を身に付けてこなかったとしたら、そうならざるを得ない。」
「う〜ん…それでそれが先ほどの話とどうつながるんですか?」
「うん。でね、いま私は『遺産』って言いましたけど、私たちはみな親からもうすでに『いのち』という大きな遺産を受け継いでいるわけですよ。 だからいまの話はそのまま『いのちのエネルギー』の使い方の話でもあるんです。」
「なるほど。」

「で、整体では病気というのは一つのエネルギーの発散行為として観るわけですけれど、すでに私たちは『膨大な遺産を受け継いでいる』 わけですよね。大事なことはそれをどのように使うかです。エネルギーの発散の仕方が重要なんです。『吸収よりも排泄のほうが重要だ』 というのは野口先生もシュタイナー先生もおっしゃっていることですけど。」
「へぇ〜、そんなこと言ってたんですか。」
「たしかね。」
「たしか〜?」
「でね、そういう病気のような発散の仕方をしたときに、それをどのように認めてあげるかってことは、すっごく大事なことなんです。 病気という『現われ』を貫いてその奥にあるその子を見る。源泉を見る。表面の『現われ』じゃなくてね。そしてそこにある『力』を認める。 それが本人が根っこのところで自分の力を信じられるかどうかということにつながってゆくんです。」
「ふむ。」
「そのような『現われ』としての『発散行為』をどのようなものとして解釈し、位置づけするかということは、あくまで私たちの社会的、 文化的な振る舞いなんです。だからエネルギーが病気という『現われ』をとって表出してきたときに、それをどのように解釈するかの身振りを、 大人が身をもって子どもの前で実践して見せるということが、病気を通じて子どもを育てるということなんですよ。」
「う〜ん…なんだか難しい話ですね。」

「まだ続きますよ。でね、起きている現象をどのように解釈することが自分自身のエネルギーを最大限に引き出し発揮し、 人生を溌剌と生きていけるのかって、そういうふうに考えたときに、『世界を語る語り口』というものがとても大切になってくるわけです。」
「語り口?」
「病気をしているその子をどのようなものとして物語るか。イタズラをするその子をどのようなものとして物語るか。それは 『その子を主人公とした物語』を親は語り聞かせてあげるということなんです。その親の紡ぎ出した物語のなかを子どもは生きている。 それがファンタジーの時代を生きる子どもなんです。いつかやがてその子が大きくなったときに、 それを引き継いだ形で彼らは自らの物語を語りだすんです。でもその基盤には子ども時代のファンタジーの世界がある。」
「ファンタジーですか…」
「どのようなファンタジーを語り、どのような心象風景を子どもに持たせるかということは、 晩年にまで渡るその人の世界観に大きな影響を与えるんです。幼少時のファンタジーによって作り上げられた世界は、 その根底のところでその人を支える基礎になる。人を支えるのは決して確固たるモノなどではなくて、 何だかよく分からないおぼろげなモノなんです。それがその人の持っているファンタジーの力なんです。 そこに幼少時にファンタジーの時代を生きる意味がある。」
「……。」
「そしてそこに焦点を向ける。すべての源泉をそこに見る。そこをより豊かなものへと育ててゆくということ。それが『病気の中に元気を見る』 とか『イタズラの中に知恵を見る』とかいう身振りをすることの、さらに突っ込んだ深いところの意味なんです。」

「ふ〜む…それで質問に対するお答えは?」
「……いまの話、聞いてました?」
「聞いてましたよ。 『ファンタジーを読みましょう』ってことですよね?」
「…ちょっと違うんですけど…」
「今のが質問に対するお返事なんですか? 何だかすごく質問の内容から脱線しまくって離れすぎてる気もしますけど。 電池とか遺産とかファンタジーとか…」
「…もういいです。それで。はい、それが私のお返事です。どうせ私の言ってることなんて誰も聞いちゃいないんです。いつも『長すぎる』 とか何とか言われて…いいですもう。ブツブツ…」
「何をすねてるんですか。」
「私はそんなことにもめげずに、ひとり大地に立って明日のそのさらに先を見据えています。」
「私も一緒に眺めてあげますよ。」
「ほら、あれをごらん。あれが『あさっての方向』だ!」
「だからダメなんですよ…。」

posted by RYO at 08:55| Comment(18) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月02日

此処にいない人へ

世界は日々めまぐるしく変化している。

しかも最近の科学技術の進歩のスピードはどんどん加速し、それに伴って世界の変化のスピードもどんどん速くなってきている。

そのせいなのか何なのか、人々の「空想できる時間の範囲」がどんどんせばまってきているような気がしてならないのは気のせいだろうか。

どうもあたりを見回すと近視眼的なモノゴトの捉え方ばかりが目について、そのたびムムムと押し黙ってしまうのだが、 「長い息でモノゴトを考える」という思考の作法はもはや顧みられることが少ない。

より遠くまで空想するためにはそれなりの精神的肺活量が必要とされるものだが、どうも確実にその肺活量は衰えてきているようである。


地球の裏側でさえもほぼタイムラグなしで繋がることができてしまう現代、私たちの日常生活から「プロセスに時間をかける」 という経験がどんどん無くなってきてしまっている。

汽車やバスを乗りついで何日もかけて移動していた行程は、ジェット機や新幹線により数時間に短縮され、 手紙が現地に届いてからふたたびその返事が返ってくるまでにひと月かかっていたやり取りは、電子メールで3分で済んでしまう。

とにかく「間」がなくなり、「待つ」ということがなくなった。

経過の間を「待つ」という経験をしなくなった私たちは、もはや自然の経過を「待てなくなって」きている。

ふと気づくと「自然の経過を待つことができずにイライラする」ようになってやしないだろうか。

これってもう一度よく考えてみたほうが良いような気がする。


視覚的情報処理の優位性からか、つい私たちはまるで画用紙の上に図を描きこむように、モノゴトを図式的に分類処理しようとしがちだが、 そこではどうしたって「時間」という概念が抜け落ちる。

視覚的情報処理に、「時間」を組み込むことはできない。

イヤ、できなくはないが、ゲーテ的観察法のような厄介な思考トレーニングが必要である。

時間も空間も対称性も溶け合っていたような「神話的思考」を捨て、図式的分類的思考に慣れてしまった私たちには「時間を空想する」 のは難しい。

図式的にモノゴトを考えている限り、私たちの世界観が「無時間モデル」へと収束されていくことは避けられないだろう。


ふと思い立って昔のブログを読んでみたら、こんな事を書いていた。


『かつてはおそらく、もっとはっきりとコミュニケーションを「時間モデル」 でイメージしていたのではないかと思うのだが、それが「無時間モデル」へと移行していくきっかけとなったのは、おそらくいつかどこかで 「死者を殺してしまった」からではないかと私は想像している。
それがいつ頃のことなのかは知らない。それほど昔のことではないだろう。
養老先生が「水洗便所の普及とともに、排泄物(死者)を嫌悪し可及的速やかに排除する文化が普及した」という、 卓抜した意見をどこかで述べておられた覚えがあるが、もしかしたらその頃かもしれない。
「死者」とは端的に言えば、「ご先祖さま」である。
「死者」を畏れ、敬うということは、そのまま「先祖」を畏れ、敬うことであり、それは脈々と続く「生命の連鎖」の実感に、 深く身を浸すということに他ならない。
つねに身近に「死者の気配」を感じ、「死者」と対話し、自分の判断が誤っていないかどうか、「死者」にお伺いを立てる、という文化は、 かつてはおそらくほとんどどの国にも存在した。
今やそのような振る舞いは妄信的なものとして眉をひそめられ、顧みられることは少ない。
「死」から眼をそらし「死者」を無きモノとして扱うようになれば、“まだ”死んでいる者、つまり、 これから生まれてくるであろう者たちに対しても、その気配を感じることは難しくなる。
「死者」に対する空想力(メメント・モリ)は、そのまま「これから生まれてくる者」に対する空想力でもある。』
(2006年7月30日記事「ユダヤと大人の時間軸」 より抜粋)


久しぶりに読み返してみて我ながらムムムと唸ってしてしまったけれど、たしかに時間に対する空想力は過去と未来とに同時に広がるものである。

「もう死んだ者」と「まだ死んでいる(生まれていない)者」はともに、「今はいない」という存在のあり方において、 きわめて近いところにいるのであって、彼らに対する空想力は過去に対しても未来に対しても同じだけの振り幅をもって広がっている。

「過去の人の声」に開かれている者は、「未来の人の声」に対してもまた開かれている。

なぜならそれらは「神話的思考」の下では「同じ声」だからである。

「神話的思考」の下では私たちは容易に「私」も「あなた」も「彼」も入れ替わり、主客はすべてまどろみのうちに溶け合っている。

私が遠い過去のご先祖様を見つめている時には、また同時に、私自身がご先祖様として未来の子孫から見つめられているのだ。

私はいつかは「いなくなる人」である。

ご先祖様に敬意を払うということは、私自身がご先祖様として敬意を払われるということであり、それは引いては「私はこの “未来からの敬意”に対してふさわしい振る舞いをしていかなくてはならない」という、有責性の宣言にもつながる。


この「今いない人を気遣い尊重する」という振る舞いは、 私たちが持続可能な社会を築き上げてゆくために何よりも大切なものであると私は確信しているが、その思想の育成と実践は、 じつはとても身近なことでしかない。

私はいつだって同じことしか言わないけれど、一番大切なことは大上段に構えたお題目的な思想のうちにあるのではなく、 とても身近な日々の振る舞いのうちにあるのだ。

「今いない人を気遣うこと」は、日々の振る舞いのうちで実践されるものである。

遅れてくる人のために席を空けて取っておくことだったり、次に利用する人のために整頓しておくことだったり、 あるいはそうしてくれていたかもしれない前の人に対する感謝であったり。

「死者に対する敬意」とは、そのまま「席を外している隣人に対する敬意」であり、「次の人に対するホスピタリティ」なのである。

「今いない人」の声なき声を聴くことが、そのまま死者の声に耳を傾けるということなのだ。


そのような「今いない人」に思いを馳せる能力こそが「時間的空想力」であり、その能力に長けた者が、子どものなかに未来の叡智を見出し、 病人のなかに明日の元気を見ることができる。

今はまだ萌芽であるものが近い将来に大きくたくましく育っているさまをありありと思い浮かべることができるということ。

「待てる」ということは、その力を信頼できるということだ。

いや、むしろ積極的に「私は信じる」と宣言するということなのだ。

愛せるものを愛したり、信じられるものを信じることは誰だってできる。

そんなものには何の覚悟もいらない。

報われる保証など誰もしてくれないものに対して、それでもなお愛すること、信ずること。

「愛する」とか「信じる」とかいうことは、もっと遂行的な「己に対する宣言」であるはずだ。

そして何より大事なことは、その宣言が、その眼差しが、「相手をそれに応える者に変えてゆく」という事実である。

それは「無時間モデル的発想」からは決して導き出されない。

posted by RYO at 00:11| Comment(8) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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