2008年02月20日

ハッピィ クック

新しい靴を買った。

私は散歩が好きでよく歩くので、買うのはいつもウォーキングシューズやトレッキングシューズといったアクティブ系のものばかりである。

だから重視するのもいつもデザインというよりは機能性で、 今回も濡れた路面や凍った路面でも滑りづらいとかいうウォーキングシューズを買ってみた。

新しい靴を履くと、何だか足取りが軽くなってぐんぐん歩ける。

ふんふん。愉しいな。

街がいつもより新鮮に見えるぞ。


私は新しい靴を買ったときにいつもやることがある。

それは「その靴が履く人にどんな歩き方を要求しているか試してみる」ということである。

みなさんも新しい靴を買ったときには、その靴が足に馴染むまでに時間がかかると思うが、「靴を慣らそう」とは考えても、自ら積極的に 「靴に馴染んでみよう」とは、なかなか発想することはないのではないだろうか。

どんな靴にも、それを作った人の意匠が込められているわけだから、どんなふうに履いて欲しいのかはその形に表現されているはずである。

それで私はいつも、とりあえずその靴を作った人がどんな足とどんな歩き方を空想して作ったのか、 自ら靴に馴染んでゆくことで確かめてみるのである。


普通、靴を買うときには店で試し履きなどして、なるべく自分にぴったりくる「仕合わせな靴」を選ぶと思う。

けれども実際に買って外で1時間くらい歩いてみたときに初めて浮かび上がってくる「不仕合わせな部分」というものもある。

ちょっとウチくるぶしが当たるとか、小指がきついとか、カカトが擦れるとか。

何につれ、はじめはどれだけ仕合わせな関係のように思えても、 しばらく経ってみるとちょっとくらいの不仕合わせな部分というのが出てくるもの。

そのように、ある関係において不仕合わせな関係が生じたときには、必ず先に柔らかい方がそのカタチを変えて、 不仕合わせな関係を解消しようと努める。

「私の足」と「靴」の関係でいえば、私の足の皮膚の方が柔らかいので、私の皮膚がカタチを変えて解消しようとするわけだけれど、 それにも限度というものがあって、そんな関係を続けているうちに、そのうち「靴擦れ」が起きたりする。

けれどもそれはあくまで「私の足」と「靴」との不仕合わせな関係から生まれたものであって、必ずしも靴が悪いわけではなく、 私の足が悪いわけでもない。

摩擦は必ず関係の変化を促し、それは柔らかい方が先に引き受ける。

それだけのことである。


もちろんあんまりひどければ、それは「この靴は私には不仕合わせである」ということで、返品するのも止むを得ないであろうが、 そもそもお店で試し履きをしておきながらそんな靴を選んでしまったのであれば、そのときちゃんと最大限に「勘」 を働かせていたのか見直してみる必要がある。

だいたいそういう場合、振り返ってみると何か欲望に目がくらんでいたはずである。

「すごいお買い得だった」とか、「デザインが超好みだった」とか、「人の注目を浴びれる」とか。

別に「そういう選び方はダメだ」なんて野暮なことは言わないけれど、「そういった欲望は必ず感覚を鈍らせる」 ということだけはしっかり意識しておかないと、自分の中で「感覚に対する裏切り」を常習化させていってしまうことにつながる。

それだけはいけない。不幸につながる。

それは「とても大切なこと」である。


まぁとにかく、しばらく履き続けてみて初めて浮かび上がってくる「不仕合わせな部分」というものがあるわけである。

それで私は、そうしてしばらく歩いているうちに、少しずつ浮かび上がってきたそういう不仕合わせな部分をよく感じとり、 その部分によく聴いて、「はたしてこの靴はいったいどのように歩かれることを欲しているのか」、それを探るのだ。

てくてくと歩きながら、つま先で歩いてみたり、小指側を意識してみたり、歩幅を変えてみたり、内股にしてみたり、 とにかくいろんな歩き方を試して、その感触を感じ分ける。

するとある歩き方をすると、その不仕合わせな感覚がふっと消えるときがある。

「なるほど。この靴はこういう歩き方をされたがっているのだな」と、そのとき分かる。

そうしてまた自分一人では思いつきもしなかったであろう新しい歩き方を身につけ、さらに街をずんずんとゆくのである。

ふんふん。愉しいな。不思議な気分だ。

お、街がまたその表情を変えたぞ。


「歩く」という行為は、腕の振りを変えたり、首の傾きを変えたりといった、全身の協調動作によってはじめて成り立つものであるから、 「歩き方を変える」とは、自らの「身体操法の文法を変える」のにも等しい。

全身の協調動作のような複雑なシステムは決して意識に前景化されることはないので、よっぽど意識的でない限り、アタマにとっては 「歩行」とはきわめて単純な「脚の交互運動」としか認識されることはない。

(その証拠に、人は自分が歩いている時に手を振っているかどうかすら覚えてない)

そんな意識に前景化されない複雑なシステムである無為運動には、各々が経験によって身につけた特有の運動習性というものが現れ、 それがいわゆる「癖」と呼ばれるものであるけれど、よく言われるようにこれを変えるのはなかなか容易なことではない。

少なくとも自分だけでは変えられない。

「他者との交接」、「未知との遭遇」だけがその変化のきっかけをくれるのだ。

「靴」はそのきっかけになりうる自分の足元を任せる最も身近なツールなのである。


新しい靴を履いたときに積極的にその靴に馴染もうとすると、まず歩き方が変わり、それによって姿勢が変わり、 そのうち感受性まで影響を受けてくる。

新しい靴との出会いに、振る舞いが変化し、姿勢が変化し、そのうち本気でその気になってくるのだ。

新しい出会いに全身でもって応える。

そうして新しい自分に変化してゆく。

新しい自分に変化するのにはばかることは無い。

それが私と靴との「仕合わせな関係」なのだから。

だってこれからしばらくお付き合いして、雨の日も風の日も人生の困難な道程をともに歩んでゆこうというのだ。

仕合わせになったっていいでしょ。

posted by RYO at 21:51| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月11日

からだは目に見える音楽である

今回の子育て講座はちょっといつもと毛色が違った。

道場を引っ越して初の講座だったからなのか、クーヨンの取材のカメラが入っていたからなのか、いつものようにしゃべっていたら私の身体観の根幹を成す「流体的身体論」の片鱗が口からポロポロと出てきたのである。

おや、こんなことをしゃべってしまうなんて珍しい。

今から二年以上も前、ある講座でその頃まだあまりにも漠然とした思いつきにすぎなかった「流体的身体論」 の発想の一つを開陳しべらべらとしゃべっていたら、聞いている方々のお顔がみな一様にポカンとされていたので、「こりゃダメだ」 と封印したことがあった。

おそらくみなあまりにも「何を言っているんだか分からなかった」のであろう。

しゃべっている本人がまだよく分かっていないのだから当然と言えば当然であるが、「今まで空想したこともない身体観」 を突如としてべらべらとしゃべられたら、そりゃ誰だってポカンとするに決まっている。

それで私は「こりゃまだ早いな」と思って、もっと自分のなかで育てて、発酵させ、熟成させ、 さらにもっときちんと形を整えてから出さねばならないと、封をしてアタマの蔵の奥のほうにズズズとしまって置くことにしたのである。

それが今回、二年以上の時を経て、その片鱗とはいえ口からポロポロと出てきたので、こりゃどうしたことかと驚いた。

二年前に比べれば、発想も少しは発酵熟成してきたであろうし、 私の語り口も多少はマシになってきたであろうからまだ理解しやすいものにはなったとは思うが、 はたしてみなさんに私の言っていることが伝わったかどうかは不安である。

私としてはまだまだ尚早のような気がしてならないので、再びアタマの蔵にズズズとしまって置くことにしようと思うが、 こんなことがあったということは、もしかしたらそろそろ槽(ふね)にかけて濾過してゆく時期でもあるのかもしれない。

なので、もう少し蔵の入口近くに置いておくことにしよう。


…と思ったけれど、蔵にしまってしまっては講座の内容をブログに書くことができなくなってしまうので、 やっぱり備忘録としてちょっとだけ記しておく。


『頭部の骨と四肢は絶対的対極です。頭骨は丸い閉鎖集中形態で、縫合によって連結された、 平らなあるいは不規則な骨ででき上がっています(もちろん下顎は縫合されていません)。それに対して、四肢は線的であり、 いわゆる長骨でできています。…中略…これらの中間に胸郭があります。胸郭の構築性は両者の性質を少しずつもったものです。 閉鎖する傾向がありますが、頭骨ほど閉じているわけではありませんし、可動性も頭骨よりはるかに富んでいます。胸郭の構造が、 程度の差はあれ、類似した形態のリズミカルな繰り返しであるということは触れておく価値があります。静止の極としての頭部と、 運動の極としての四肢の間の対比で、私たちは原初の法則に出会います。つまり、 自然において静止と運動が出会うところでは必ずリズムが現れるということです。この法則はたとえば次のようなものに見られます。 弓が触れたとき振動する弦に、風に揺れる木の葉のささやきに、風と水の生み出した砂地の波紋に。』
(L.F.C.メース『シュタイナー医学原論』平凡社、2000、p184−185)


上記の文は、シュタイナー教育でも重視されている「ゲーテ的観察」 の手法をもちいて人体の骨を観た時に現れてくる人体の骨のメタモルフォーゼ(変態)の様子を描写したものである。

いわゆる解剖学的な身体観に比べてはるかに詩的であり修辞的であり空想的であるゆえ、 現代科学にはとても馴染まない表現であるけれども、私たちにとても大切なことを示唆してくれている。


人間のからだを頭部と胸部と四肢(手足)とに分けて考えたとき、その形態にははっきりとそれぞれの働きが現れている。

思考を司り、世界を観察し、世界を認識するために、世界と距離を保って客観的たらんとしている頭部においては、 その器官が頭骨という硬い壁によって世界と隔絶されていなければならない。

それに対し、運動を司り、世界のなかを動き回り、世界にたいして働きかけるために、世界とより密接であろうとする四肢においては、 その器官は世界とより深くつながり、感じ分けるための柔らかさ(肉)を表面に配し、 それを支えるための支柱(骨)は内側に引っ込んでいなければならない。

頭部は世界と距離を保つために閉じられ、四肢は世界とつながるために開かれている。

「閉じられた頭」と「開かれた手足」。
「観察する頭部」と「関係する四肢」。
「内の世界を作るもの」と「外の世界を作るもの」。
「思考」と「意志(活動)」、「反感」と「共感」、「静」と「動」。

人体においてその両端に、相異なる二つの要素が現れているのだ。

そしてそれら異質なもの同士をつなぎ、結ぶもの。

それが「胸部」である。


違う性質をもつもの、違う速度をもつもの、違う密度をもつもの、そのような異質なもの同士が出会うところには必ず摩擦が生まれ、 それは振動となって表出する。

振動とは、すなわち波であり、音であり、リズムである。

多様性に満ちた世界においてはいたるところにリズムが現れているわけで、「世界は音である」といにしえの賢人が語ったのはそれゆえのことである。


そこで胸部に目をやると、そこには肋骨に覆われた肺と心臓がある。

さらによく観てみると、それらのすべてがリズムに満ち満ちている事に気づく。

まず胸部の中心に心臓があり、そこでは脈のリズムを打っている。
それを覆うようにして肺があり、そこでは呼吸のリズムを打っている。

それらのリズムは「一息四脈」の言葉のとおり、正確に1:4の比率を保ちながら、やがてリズムが消えるその日まで、 命のリズムを刻み続ける。

その命のリズムを守るようにしてそっと包み込んでいる肋骨には、やはり繰り返しのリズムが形となって現れている。

砂漠に刻まれた風紋のように、12本の骨によって目に見えるリズム(パターン)を刻む肋骨は、 頭部に向かって閉じてゆき、脚部に向かって開かれている。

「胸部のリズム」が、「閉じられた頭」と「開かれた手足」を引き合わせている。

二つの異なる働きが出会う胸部において、まさに命のリズムの重奏が奏でられているのだ。


人体を弦楽器に喩えるならば、四肢が世界に張られた弦であり、頭部はそれを響かせる弓である。

頭部が四肢をかき鳴らし、四肢が世界と共鳴する。

頭部と四肢との仕合わせな拮抗、調和が、美しい音楽となって胸部に現れるのだ。

私に言わせれば胸部のデザインとは、まさに音楽そのものである。

命のリズムはその美しい調和においてもっとも光り輝く。

私が「動く」ということと「考える」ということの調和を最も大切にする理由はそこにある。

どちらだけに片寄っても美しい音楽は生まれない。

弓と弦との仕合わせな関係が美しい音色を生み出すのだから。

その人の人生における「動」と「考」のバランスは、胸部のリズムとデザインに直接現れる。

(そういえば野口先生が杉山寧という画家の「生」という絵に描かれた裸婦を観て、「この女は頭の働きでからだが活きている。知恵で育てたからだだ。」と評したことがあった。)

胸部における脈は、呼吸は、骨格は、その人の人生が奏でる音楽なのだ。

自分の胸に手を当て、その拍動を、その呼吸を、その構造を、そっと感じてみれば、そこに自分の奏でる音がある。

世界でたった一つのあなたの音だ。

もし私がさまざまな人間の骨格に出会う機会に恵まれたならば、世界中を歩きながらその骨格を奏でた人の人生を収集し、 譜面に落として回りたい。

世界には、どんなに美しい音楽があり、どんなに悲しい音楽があり、どんなに突拍子も無い音楽があることだろう。

人がいるところに音楽があり、人と人とが出会うところに無数の交響曲がある。


…と、ここまで書いてふと我に返ったのだが、私は一体どんな「子育て講座」をやっていたのだろう(笑)。

そりゃ聴いてる人もポカンとするはずである。

たぶん実際の講座はもう少し「子育て」について話していたような気がするが、 でもいつものことだが何をしゃべったのかはすでにおぼろげであるので、ここからどのようにして「子育て」 の話につなげていったのかは私にも分からないのである。

(でもそういえば「春のからだに向けて」ってことで「肩甲骨はがし」とかやって、みんな盛り上がっていたっけ。 30分以上もオーバーしつつ。)

まぁ、ともかくこれくらいで止めておかないと、さらに突っ込んでいってしまって私にも収拾がつかなくなりそうなので、 やっぱり蔵にしまって置くのである。

まったく発酵途中だというのに飲み始めると止まらんからなぁ…。

もうちょっと発酵していてね。

よいしょ。ズズズ。

posted by RYO at 19:30| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする