2008年01月29日

書いて書いて

最近、文章ばっかり書いている。

一つはミュートの会報の原稿2本なのだが、コラムはいつもどおりにシパシパと書き上げればいいのだけれど、 季節のからだの手当てについての連載は前号で一巡してしまったので、新たにネタおろしをしなければならず、 どうするかと目下思案中なのである。

でも締め切りは今月末なのでさっさと決めて書き上げねばならない。

う〜む。さてどうするか。


二つ目は横浜の精神障がい者の人たちの施設の開所3周年の寄稿文である。

このまえ訪ねたら、開所当時から関わっていた私に「何か書いてもらえませんか」とお願いがまわってきたので「いいですよ〜」 と返事をしたのであるが、引き受けたら突然すまなそうな顔をして「それですいませんけど明後日締め切りなんです」と無茶なことを言われる。

それで、たいした量でもないし今すぐ書いてしまえと思って、モバイルPCを取り出しパシパシと原稿用紙一枚分を書き上げその場で納品。

仕事はその場で終わらせるのが一番。


そして三つ目はクーヨンの連載記事である。

今まで2回ほど取り上げていただいたクーヨンであるが、 ありがたいことに「4月号から連載をお願いいたします」とのオファーをいただいた。

4月号からというのでまだまだ先の話と思い、「いいですよ〜」とへらへら返事をしたのであるが、 考えてみれば雑誌の4月号というのは3月に発売されるのだ。

雑誌を3月アタマに発売するためには2月の中旬には校了せねばならず、そのためコラムの原稿締め切りは1月末であるという。

げ。

すぐじゃん。

最初、編集部のほうから「こんな感じで書いて欲しい」とオファーがあったのだけれど、担当のHさんに 「そういうんじゃなくてもうちょっと違う感じがいいなぁ…もじもじ」とちょっと駄々をこねてみたらさっそく編集会議にかけてくれて、 「RYOさんのイメージで編集会議で『GO!』が出ましたのでそのイメージでよろしく」と、鮮やかな手腕を発揮していただけた。

さすがプロフェッショナルエディター。素晴らしい。

しかしそこは仕事人。

「でも私からはRYOさんのおっしゃるイメージをうまく説明できなかったので、一発目の原稿でバーンと説得しちゃってください」と、 しっかり締めるところを締められる。

げ。

プレッシャー。

でも自分で言った以上、吐いたツバ飲むわけにはいかない。

これまた締め切りは今月末。

う…。


さらにもう一つは朝日カルチャーセンターからのオファー。

朝カルの敏腕チーフNさんから「RYOさん、最近忙しそうだけど親子の講座やりませんか」と電話がかかってきたので、 「それはもうぜひ喜んで」とお答えしたら、「講座名はね、『ママは子どもの整体師』っていうの。どう?」と電話の声がはずむ。

それで私もすぐさま「お、いいですね!素晴らしいです!」とレスポンス。

最近私もまさにちょうどそのことを考えていて、あるママさんに「お母さんは自分のからだを整えるだけじゃなくて、 子どもを導かなくちゃいけないのだから、立ち位置としてすでに整体の指導者なんです。」と言ったばかりだったので、 これはめぐり合わせと思って「そうなんですよね。まさにそうなんです。」と電話口で盛り上がる。

こういう「間がいい」というか「勘がいい」というのが、さすがNさんである。

こういうご縁が起きるのを「縁起」というけれど、そういうのを引き寄せる人はやっぱり何かセレンディピティとでもいうべき資質があるような気がしてならない。

それでフライヤーに載せる講座案内の文章をイラストつきで書いて欲しいというので、それもまた書かなければならない。

ふと「これはもしや…」と思い、「それでいつまでに…」と恐る恐る訊いたら、「来月で大丈夫です」というお返事をいただいたので、 とりあえずほっと一安心。


…とまぁ、そんなこんなで書かなければならない文章がどどっと押し寄せて溜まっているのだけれど、 そんな合間に今こうしてブログなんか書いていると、「そんな場合じゃないだろう」というさりげないツッコミがアタマの片隅をよぎる。

そうですな。ごもっとも。

ということで、そそくさと文筆モードに戻るのである。

posted by RYO at 21:39| Comment(14) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月20日

食という祝祭

「前回のクーヨンおさらい会の記事をアップしておくれやす」というお願いコメントをいただいたので書くことにする。

しかし書くのはいいが、何をしゃべったかすでにおぼろげである。

たいてい私は、初めての方が多い講座の場合はあらかじめレジュメを作っておくのだけれど、ずいぶん前にも触れたとおり、 私は決してそのとおりに進めるためにレジュメを作っているわけではない。

そのとおりに進めようとしつつも聞き手の反応次第でどんどん話が逸脱してゆく、その「逸脱具合」 の目安になるようにと思って作っているのである。

レジュメの流れが一本線だとしたら、それをぐにゃぐにゃと道をはみ出し蛇行しつつ、最終的な締めに向かうのが実際の講座である。

私としては、「こんなに脱線してこの話はこのまま無事にちゃんとオチるんだろうか…」 という一抹の不安を受講者にみなさんに抱かせつつ、最後には見事にオトして「なるほど!」と膝を打っていただきたいと、 こう思っている次第なのである。

…ってそんなこと書いちゃって、自らハードルを上げているような気もするが、ともかくそういうことなのである。


たとえば前回の記事に書いた「からだゆるし」のお話は、本当はこのまえの講座の中でお話しようと思っていたのである。

(と言ってもその話そのものがレジュメには出ていないので、すでにして「脱線用のお話」であるのだけれど…)

講座の数日前、中央線に揺られつつ「今度の講座で何をしゃべろうかな」と考えていたら、「ゆるむことの極致にゆるすということがある」 という言葉がまるで天から降りてきたかのようにフッと湧いてきたので、その瞬間むむっと思って忘れないうちにその言葉をサラサラとメモし、 「よしよし、これは今度の講座のよいネタができた」と一人ぐふふと笑っていたのである。

しかし講座というのはナマモノであるので、しゃべろうと思っていた話が口から出てくるかどうかは、 そのときになってみなければ分からない。

そして結局、今回の講座では私の口からその話は出てこなかった。

私にもよく分からないが、ということはつまり、今回の講座では「お呼びでない」ということだったのであろう。

でもべつに全然構わない。

自分の腹積もりよりも講座の流れの方が大事だ。

それにブログで書けばいいし。で書いちゃったし。


とまあ、そんなことはともかく講座の話である。

講座ではいろいろお話したけれど、ここでは「食べる」ということについてもう一度触れてみたい。

誰しもうっすらとは感じていることだと思うが、現代人は、というより正確には先進国の人間は基本的に「食べ過ぎ」である。

書いてて自分も耳が痛いが事実である。

「食べ過ぎ」というと純粋に量的な問題、カロリー摂取量の問題として常識では考えられているが、整体で言う「食べ過ぎ」 とはもっと広義なニュアンスが含まれている。

たとえば目の前に自分のもっとも嫌いな人がいて、 その人のイヤらしい自慢話を延々と聞きながらご飯を食べなくてはならない状態にあったとする。

顔は作り笑いのために不自然に過度の緊張を強いられ、あんまり熱心に聞いてしまうとストレスが溜まりそうなので聞き流してはいるが、 適度に相槌を打てる程度には話を聞いていなくてはならない、というようなそんな状況でご飯を食べているときに、 からだの面から見た場合にそれは果たして「食べる」という行為をまっとうできているのか、ということである。

よく言われることだが、内臓の働きは感情の働きと密接に関連している。

そんな状況で胃袋などの消化器は活発に働けるのかと言われれば答えは「ノー」である。

胃袋が働こうともしていないところに食べ物をどんどん入れてゆくのは、消化器にとって負担でしかなく、からだの面から見れば 「食べたくもないのに食べる」のは、一口だって「食べ過ぎ」と言っても良いくらいなのである。

だから「食べ過ぎ」の問題は、その食事の「量」だけでなく、「食べ方」についても考えられなければならない。

誰と食べていたか。どんな雰囲気で食べていたか。話題は何だったか。料理の組み合わせは良かったか。タイミングは良かったか。 盛り付けは美しかったか。お皿は汚れていなかったか。お箸やフォークはちょうど良いものだったか。椅子の座り心地は良かったか。 お店ならばサービスは良かったか。値段は適切だったか(これは難しい)。ゴキブリは入っていなかったか(笑)。

…などなど、細かく挙げればキリはない。


さまざまな文脈の結束点としての「食」という祝祭が、きちんと言祝がれていたかどうかということは、「食」と「人間」 の関係を考えていく上でとても重要なことである。

大事なことは「食べる」という行為に向けて、からだを「その気」にさせてゆくことである。

そのためには、ちょっと我慢させるのも良し。頑張らせるのも良し。奮発させるのも良し。

「美味しい!」の一言のために意識を集中してゆくということ。

料理を作り、給仕し、それを食した人間の口から思わずその言葉が発せられたならば、そのときその人は最高の「食の指導者」である。

「食」を通じて、人を変え、人を癒し、人を奮い立たせることが出来るだろう。


野口先生のエピソードで「食べ過ぎの人」の話がある。

毎晩、接待接待で胃袋が荒れていた男性がいて、野口先生にからだを見てもらっていた。

「何を食べているんだ」と問われれば、「あんまり覚えていないんですけど…」と言いつつ、口から出てくるのは豪勢な料理ばかり。

「うまいのか」と問われれば、「よく覚えていません」と答える。

からだを見終わったあとに、野口先生が一言。

「接待が終わった後にあなたが本当に食べたい物を食べなさい」


人間だって胃袋だって、やりたくもないことをやらされていれば、そのうちクサって鬱屈してくるものである。

やりがいのあることならば、それがどんなに大変なことであっても、溌剌として活動できる。

くたびれるかどうかということは、仕事量よりもむしろ「その気」になれるかどうかの問題である。

食べ過ぎで胃袋が壊れかけている人に「食べたい物を食べろ」とは、乱暴なようでいてその実、 きちんと見るべきものを見ているような気がするのは私だけではないだろう。

前にテレビでやっていた実験で、お腹いっぱいの女の子の胃袋を医療機械で観察しながら目の前に大好物のケーキを差し出し、 「食べてもいいよ」と声をかけるとたちまち胃袋がモニョモニョと動きはじめ、 1分もしないうちにそのケーキ一個分のスペースを胃袋上方に作り出してしまうという映像があったけれど、 人間のからだというのは自分の要求に沿うものに対しては最高のパフォーマンスを発揮するものである。

人間は機械ではない。

口から入ってきたカロリーが、そのまま運動エネルギーになるわけではないのだ。

たしかに栄養も大事だし、カロリーも大事だ。

だが人間は栄養やカロリーを食べているわけではない。

「食べる」という「人間の営み」そのものを見つめる眼差しがあって初めて、「食べる」という行為が「育てる」 ということにつながってゆく。

だから「家庭の食卓」というものを考えたときにも、そのような「場作り」というものも観点に入れつつ、祝祭としての「食」 を作り上げていっていただきたいなと、このように思う次第なのである。

…ということで、やっぱり講座の話からはだいぶ逸脱してしまっているわけだけれど、どんなに話が逸脱しようと、 私の言いたいことはちっとも変わらないのである。

posted by RYO at 22:28| Comment(9) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月12日

からだゆるし

からだのことをやっている方はよく分かると思うが、「からだをゆるめる」ということはホントに難しい。

「からだをゆるめる」ためにはまず今ある「からだの緊張」に気づかなくてはならないが、人間、 自分のからだの緊張にはなかなか気づけないものである。

このまえも久しぶりに大学時代の友人と会って話をしていたら、友人のからだの不調の話になって、 しばらく話を聞いていたらふと思い立ち、その友人の手をとって自分自身のからだの緊張を気づかせてあげようと色々動かしてみたことがあった。

最初は「ほら、緊張してるでしょ?」と指摘しても意味が分からず困惑していたけれど、しばらく動かしていたらそのうちハッと気づいて 「あ!ホントだ!」と、そのときはじめて自分がどれだけ肩に力をいれて肩肘張っていたのかを知って、「ホントにそのまんまだね。」 と感慨深げにつぶやいた。

多くの人は目の前で実際に示して指摘されても、そのことに気づくまでには時間がかかる。

それくらい人は自分のことは気づけないものであるが、たとえ自分が緊張していることに気づいたとしても、 それをフッとゆるめることができるようになるまでには、まだまださらに時間がかかる。

でもそれでも「緊張していること」自体に気づけたことが大事だ。

どれだけ指摘しても気づけなくなってしまっている人も多い中で、短時間で気づくことができたのは、 まだまだ変化する力がある証拠である。

何事も気づいたところから変わり始めるもの。


しかし、こうして「からだをゆるめる」ということを日頃やっていると、「ゆるめない」「ゆるまない」 ということと否が応でも向き合わざるを得なく、それはいったいどういうことなんだろうとずっと考え続けている。

そして最近ふと思った。

「ゆるめる」ということの極致には「ゆるす」ということがあるのではないかと。

「ゆるめない」ということは何か「ゆるせない」ことがあるのではないかと。

人間誰しも生きていく中でさまざまな「ゆるせなかったこと」があることと思う。

それらさまざまな「ゆるせなかったこと」たちは、決してその場限りで消えてなくなっていってしまうものではない。

きちっとその場で怒りを露にして「ゆるせないこと」を表明すればまだ発散は済むけれども、それを我慢し裡に押さえていると、抑圧され、 内攻し、からだの中に凝縮されてゆく。

幼少時から現在に至るまでのさまざまな「ゆるせなかったこと」たちは、それはそれこそ言葉どおり「しこり」となって、 からだの中にゆるまない部分を生み出し、その近辺に緊張と硬直を作り出している。

ある経験を通じてからだがゆるみフッと緊張がとれた人が、突然忘れていた過去を思い出し、激しく感情を発露して、 そのときの心体験をもう一度経過するということがしばしばあるが、そうして改めて経過を全うさせることで「しこり」が解けて、 芯のところからゆるみはじめるのだ。

その経過はときに物凄い激しいものとなることがあり、私の知人でも医者に「生きているのが不思議だ」と言われるくらいに血圧が低下し、 必死に自分自身と向き合って克服した人がいたけれど、自分のからだと向き合うということは演出家の竹内敏晴さんが言うように、ときに 「地獄の釜の蓋を開けるようなもの」であることもある。

真に「癒える」ということは生半可なことではない。

「癒える」ということが血ヘド吐くような経過をたどることだってある。

からだには、人生のすべてが刻み込まれているもの。

それと向き合い、それを解きほぐしてゆくという作業は、「ゆるむ」という言葉だけでは言い表せない「何か」がそこにあるように思えてならず、じゃあそれは何なのかと言われれば、それが「ゆるす」という言葉で表現されるような「何か」である気がするのだ。


「ゆるめる」ことは難しい。

「ゆるす」ことはもっと難しい。

けれども、自分はいつまでその「ゆるせない」ことを抱えて生きてゆくのかと、ふと冷静に考えなおしてみれば、 なんだかバカらしいなとも思えないだろうか。

ゆるめてみたらどうだろう。

ゆるしてみたらどうだろう。

そうしたら、からだの片隅で、固まり、こわばり、止まっていた時間がゆっくりと溶け出し、流れ始めるかもしれない。

変わることなんてありえないと思っていたものが、少しずつ動き始めるかもしれない。

もしかしたら。

ひょっとして。

何事も気づいたところから変わり始めるもの。

ゆっくりと。

posted by RYO at 19:53| Comment(19) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月07日

しぜんいくじ全国ミーティング講座

5月10日(土)から5月11日(日)にかけて
代々木にある「国立オリンピック記念青少年総合センター」において催される
「NPO法人 自然育児友の会」主催の「しぜんいくじ全国ミーティング」で
『整体的子育て講座 武術に学ぶからだ育て』を行ないます。
ぜひぜひ振るってご参加ください。


●『整体的子育て講座 武術に学ぶからだ育て』

武術の動きのなかには長い年月をかけて磨き上げられてきた
合理的な身体運用の技術がたくさんあります。
「からだが資本」とはよく言われますが、武術という日本が誇る
身体文化から私たちが学べることはとても多いのです。
親子で簡単な武術の動きなどを体験してみながら
自分のからだにいろんなことを学んでみましょう。

日時    【しぜんいくじ全国ミーティング第2日目】
       5月11日(日) 9:30〜11:30 (受付9:00〜)
会場    東京都渋谷区代々木神園町3−1
       国立オリンピック青少年総合センター 【センター棟501】
       小田急線「参宮橋」駅より徒歩7分
講座名   分科会B こころとからだの講座
       B-4 『整体的子育て講座 武術に学ぶからだ育て』


料金などその他詳細・申し込みはこちらから
→『NPO法人 自然育児友の会

posted by RYO at 23:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月03日

こんな年始でスミマセン

みなさま、あけましておめでとうございます。

本年もみなさまにとってよりよい年でありますよう、心よりお祈りいたしております。

そして今年もまた、とりとめない雑念妄想にお付き合いの程、どうぞよろしくお願い申し上げます。


しかし今年は驚いた。

元日明けた2日の朝、からだの調子がすぐれないので「こりゃ風邪だな」と思ってどこにも行かない寝正月を決め込んでいたら、 みるみるうちに具合が悪化してきて、昼には猛烈な頭痛にのた打ち回ることになった。

ここ数年は無かったけれど年末年始あたりに激しい風邪を経過するのは私のからだのクセで、 いつもは消化器系の風邪を引いて下痢と嘔吐にのた打ち回るのだが、頭痛にのた打ち回ったのは初めてである。

私もからだの痛みにはずいぶん強い方だが、手足や他の部位が痛いのと違ってアタマの痛みがこれほど辛いとは思わなかった。

いやぁ、ホント死ぬかと思った。


もうどんな姿勢をとっても5秒後には辛くなるので延々と姿勢を変え続け、右を向いたり左を向いたり、上を向いたりうつ伏せになったり、 座ってみたり布団にアタマを突っ込んでみたり。

時折、気を失うようにして眠りに落ちるが、すぐまた目が覚めるとふたたび激痛に襲われる。

とにかく布団の中でびっしょりと汗をかき続けるが、 胃袋の幽門が閉じているのか口に何を入れても胃袋にとどまるばかりでしばらくすると全部戻してしまうので、水分の補給もままならない。

汗をかいて嘔吐してばんばん水分を失っているのに水分補給が出来ないもんだから、そのうち唇はカサカサしてくるし、 のどはイガイガして痰が絡んでくるし、そのあまりの苦しさに、

「うぅ…何でオレがこんな目に…、神様!私が何か悪いことでもしましたか?」

と天を仰いで悪態の一つでもついてやりたかったが、そんなことをしたら枕元で神様に、私の悪行の数々を諄々と列挙し諭され、 よりいっそうアタマが痛くなりそうなので諦めるしかない。

チクショウ。このやるせない思いをどうしたらいいんだ。

と、仕方が無いので友達に「アタマが痛くて死にそうだ」とメールを送ると、しばらくして返ってきたメールには「死んだら治るよ」 という温かいお言葉が。

持つべきものは友達だなぁ。コノヤロウ。


結局2日の昼から3日の朝まで20時間近くもだえ苦しんで、ようやく落ち着いてきたので、今こうしてブログを書く気にもなれたのだけれど、 今回「何事も無い」ということがいかに仕合わせなことであるのか、しみじみと感じ入った。

いやぁ経過してみれば、水もうまいし、空気もうまい。

東京に居てこんな仕合わせを感じられるのも病気のおかげか。

けれどもやっぱり正直、こんな劇症型の経過は今回限りでご勘弁願いたい。

からださんよろしく、ね。


みなさまには年始早々こんなエントリーで申し訳ないが、私の一年はこんな感じで始まりましたというご報告ということで。

今年もどうぞよろしくお付き合い。

posted by RYO at 17:29| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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