2007年12月31日

2007年下半期 記事一覧

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2007年12月28日

大掃除

今年も残すところあと3日。

年賀状を早いところ書き終わらせなければならない。

毎年早めに書き終えようと思いつつ、いつもこんな遅くなる。

学習能力がケータイ以下だ。

今年はゴム版画にしようと思って新宿の世界堂でゴム版を買ってきたのだけれど、「う〜む、何を彫ろうか」 と悩みながら筆でいろんなデザインを描いているうちに、結局手書きで書くことになってしまった。

相変わらず私の年賀状作りは思いつきでころころ変わる。

だが一度決めてしまえば後は早い。サラサラと年賀状を書き上げてゆく。

年賀はがきも手作りにすることにしたので、彫ったゴム印で表に郵便番号枠やら年賀の印やらポンポン押して、宛名を書いてゆく。

一晩かけて作業を終えたら、朝早く出来たばかりの年賀状を小脇に抱え、近くの郵便ポストまでトコトコと歩いて投函。

よし。年賀状終了。


すぐさま踵を返し、今度は部屋の大掃除である。

ここ数ヶ月ほとんど手を付けていなかった部屋は、ブタ小屋のようにグチャグチャである。

エントロピー最大とはこういう状態のことを言うのであろう。

熱力学的に言えば「ご臨終」に近い。

う〜む、床にうっすら積もった埃のグラデーションで私の日々の動線がうかがい知れるな…。

ってそんなことに感心している場合ではない。

サイクロンも使い捨て紙パックも無かった時代の骨董品級のピンクの掃除機を肩からぶら下げ、部屋じゅうガーガーと掃除機をかけてゆく。

骨董品とはいえ、なかなかパワフルに埃を吸い込んでくれる。

さすがメイドインジャパンの全盛期モデルはタフだぜ。ふんふ〜ん。


鼻歌混じりで快適にガーガーと埃を吸っていたら、部屋の片隅で雪崩を起こしている本の山が行く手を阻む。

むむ。来たな。

よく見れば雪崩れた上にうっすらと埃が被っている。

「ええ〜い、一体いつの雪崩じゃい」と我がことながら憤慨しつつ、 掃除機のアタッチメントをブラシに変えて本を清めてどさどさと積み重ねてゆく。

みるみるうちに本の塔がいくつも屹立する。

チクショウ。また塔の数が増えてしまった。

と、そういえば机の上にも読み終えたままPC入力をしていない本がやはり塔と化し、 私の目線の高さにまで積み上げられていたことを思い出す。

改めて机の上に目をやれば、そびえ立つ本の塔のまわりには何だかよく分からない資料がばさばさとテキトーに置かれ、パソコンがあり、 スタンドがあり、スケジュール表があり、そしてその片隅にかろうじてビールとおつまみがちょこんと置けるくらいのスペースがあるくらいだ。

……。

…とりあえず見なかったことにして、目の前の仕事に集中だ。

掃除は目の前のことだけ集中するというのがベッポ爺さん(@モモ)の教え。


ぐぅ。

そういえば腹が減った。

先にメシを喰おう。

台所に行き素早くうどんを茹でて、足の踏み場も無い部屋で荷物に囲まれながらズズズとすする。

しかし、これはまたずいぶん本がたまってしまったな。

未読の待機本はおそらく200冊を超えているだろう。

独り者でなかったら、怒り狂ったパートナーにすべてブックオフにでも売り払われているところだ。

剣呑、剣呑。

師走にすする一人うどん。

さて、もうひと踏ん張りだ。

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2007年12月19日

寝顔を撮られるような

今年最後の一大イベントであるミュート15周年記念祭が終了。

会場設営をしたり、司会進行したり、演武をしたり、ご挨拶に回ったり、お願いしたりお願いされたり、 あれやらこれやらでてんてこ舞いの一日であったが、なんとか無事に終了したのでホッと一息。

ワニ眼化していた自分のことなどどうでもよいが、いらしてくださった方に喜んで帰っていただけるかどうか、 それだけが心配であったけれど、幾人かに「良い会でした」と言っていただけたので、それだけでワニ眼もゆるゆると緩むというもの。

お心ありがたし。


しかしまだ緩んでほげっとしている場合ではない。

2日後には、新年早々に発売されるクーヨン2月号の記事の校了日が控えている。

子どもたちの武道の授業の合間に手つかずだったゲラに急いで眼を通し、ガシガシと筆を入れてゆく。

筆を入れたらしばらく放っておいて、ふたたびアタマから読み直してまた手を入れなおす。

こういうのは時間を置いて何度も見直さなければ、その文体のリズムや語呂の引っかかり感など気づけないことが多い。

文は意味だけではない。

リズムや呼吸、 音韻といったものもものすごく大事だ。

そんなものもさらっと書ければカッコいいのだが、不器用な私は時を置いて何度も何度も眼を通さなければ、 なかなか引っかかり感に気づくことができない。

むむむと頭をひねって言葉を探していると、一人の生徒がトコトコとやってきて「先生。プレゼント」 とサンタのポストカードをくれた。

そんな心遣いにワニ眼もさらに緩む。

ありがとう。

一足早いちびっ子サンタクロース。


ところで今回のクーヨンの記事は写真が多い。

都内のあるお宅の縁側をお借りして、陽だまりのなか子どもたちが足湯をしている写真を撮影したのだけれど、 どうも写真は苦手なのでカメラはほとんど意識しないで子どもと接していた。

そうしたら上がってきたゲラを見たら全ページに登場している上に、プロフィールなど陽だまりのなかアタマをぴかりと光らせて、 やたら爽やかな笑顔で笑っているじゃないか。

うぅ…恥ずかしい。

こんなに大量に登場しているとは思わなかった。

なんだって私はこんなに自分の姿を見るのが恥ずかしいのか。

多分ふだん暮らしている中で、私がほとんどまったく自分を外から見る眼で見ていないということも関係しているんだろう。

着るものも着心地最優先だし、食べ物も要求優先だし、とにかくなるべく自分のからだの内側からの要求優先で生きているので、 自分を外から客観的に捉えることなんてよほど意識的にやらない限りは日常生活ではないもんだから、改めてそれを見せつけられると、「あ、 こんなふうに見えるんだ」と、なにか夢から醒まされるような状態になるのかもしれない。

そうだなぁ。 自分でも思うけど、半分夢の中を生きてるからなぁ。

写真はつねに寝顔を撮られているようなそんなもんか。


まぁとにもかくにもクーヨン2月号。

子どもの足湯や脚湯、風邪の手当てや冬の過ごし方など、分かりやすくまとめてみましたので、 よろしければ皆さんぜひ書店で手にとりご笑覧。買ってくれればなお結構。

1月4日には店頭に並んでいる予定であります。

うぅ…でも恥ずかしいなぁ。

posted by RYO at 19:11| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月08日

So touch! Touch! Touch!

先月に引き続きふたたび 「クーヨンおさらい会」を行なう。

先月が盛況で参加できなかった方が何人かいらっしゃったので、今月も第二弾ということで行なったのだけれど、 またもや満員御礼でキャンセル待ちまで出てしまう事態。

なんてこったい。

せっかく問い合わせてくださったのにお断りしてしまった皆さんには申し訳ない限りです。

参加してくださったみなさまには、遠いところはるばるありがとうございました。


とりあえず話の枕には、インフルエンザが大流行しているのでその話。

菌やウィルスというのは空気中いたるところに蔓延しているわけだけれど、その中にいてかかる人とかからない人がいるということは、 かかりやすい人とかかりづらい人がいるということですよ、というお話しからはじめる。

ナスやジャガイモや稲やほうれん草など、いろんな種を同じ土にパラパラと蒔いた時に、どれが芽吹くかあるいはどれが繁殖するかは、 その土の質に拠るように、ウィルスやら菌やらがいたとしてもそれがからだの中で繁殖するかどうかは、からだの質に拠る。

「インフルエンザにかかりやすいからだ」というものがあるのである。

空気中の菌やインフルエンザを全滅させるわけにはいかないので、 私たちにできることはまずそういうものが繁殖しづらいからだを作ってゆくことであり、その上で手洗いやうがいなど、 いわゆる予防対策をしてゆくことである。

じゃあ、どんなからだにしていけばいいのかと言われると、まぁいろいろ細かいところはあるけれども、 整体的に言えばとりあえずこの時期は「水が満ちて、胸が開かれた姿勢」を目指しましょうということに尽きる。

冬の乾燥した空気は予想以上に私たちのからだから水分を奪っており、その乾きによるからだの変動はないがしろにできないくらい大きい。

だから前にも書いたけれど、 冬の間は「寒の水」といってとにかく水を摂ることが健康法になるのである。

そうして、からだ中にみずみずしさが満ち溢れ、新年の希望に胸が広がり深く息が入ってくるような、 そんな姿勢であればとりあえずはよいのだ。

インフルエンザだろうとノロウィルスだろうと、あるいはどんな菌が流行しようと、私たちにできることは、 まずそのようにしてからだという生態系が健やかであるよう整えておくことである。


そんな時節ネタの枕話の後は、整体の基本的な話といろいろな手当ての実習。

ママさん同士手当てをしたり、子どものからだに手当てをしたり。

私がいつも講座の中でママさんたちに繰り返し申し上げていることは、お子さんに毎日触ってくださいということである。

経穴がどこだとか、調律点がどこだとか、チャクラがどうしたとか、スポットがどうだとか、そういうことは何も分からなくてもいいから、 とにかくちょっと意識を集中して、あちこちからだを触ってあげてくださいということである。

私はよく偽札の話を喩えに引くのだけれど、最近の精巧な偽札は一目見てもほとんど分からないくらいすごいものになっているらしい。 (見たこと無いから知らないけど)

けれどもそれでもなお偽札がバレることもしばしばであり、「なぜ偽札が見破られるのか?」といえば、その発見者のほとんどが 「触った時になんとなく感触が違った」と口をそろえて言う。

おそらくほとんどの方がお札の手触りを改めてじっくり確認したことなんて無いと思うけれども、それでも毎日毎日触るものなので、 ちょっとでもその質感が違うと「ん?」と思うのである。

「何が違うのか」は分からなくても、「何かが違う」ことはすぐさま感じ取ってしまう。

それぐらい人間の触覚というのは敏感なのである。


それは子どもを触れるときでもまったく同じことであって、ふだんから意識して触っていれば、何か変化があった時に、「何が違うのか」 はすぐには分からなくても、「何かが違う」ことは感じ取れるのである。

あなたも得意じゃないですか? 男のウソを見破るのとか(笑)。

「何かが違う」のだ。そういうときは。

その直感は、アタマを一生懸命使って考えていたり、 手順どおりに事を進めようとしていたりすると見過ごされがちな小さなシグナルであるけれど、 自分の中でそのシグナルに対するレスポンスの優先順位を高めに設定しておけば、もっと気づけるようになるし、 その感受性はどんどん高まってゆく。

「予定通り進めること」よりも「自分の中の直感」を優先させるというルールを作っておけば良いのだ。

それを「分からない」と言って「分からないつもり」でいられるのは、「まぁいっか」と思う心がどこかにあるからである。 (男のウソの話じゃなくてね。それもそうだけど…)

だから私は、人が何かについていつまでも「分からないつもり」でいるのを見て、なんとも歯がゆく思うこともしばしばである。


ところで話は突然飛ぶのだけれど、講座の中でお互いのからだに触りあったりした時に、受講されている方から「よく分からない」 と言われることがときどきある。

ふだんあまり人のからだに集中して触れることなどないだろうから、「よく分からない」と言われる気持ちも分からないではないけれど、 あまり「そうは言ってくれるな」という気持ちも実はある。

だって、私はべつに何かを分かって欲しくて触れてもらっているわけではないからである。

「分からなくていい」のである。

いや、ホントに。 冗談抜きで。
(さっきと言ってることが矛盾してる気がするのは、気のせいであるのでドントマインド)

いきなり人のからだに触れて「何かが分かる」わけなどないし、 そもそも人のからだに触れるということはそういう発想で触れるものではないのだ。

「分からない」という表現がつい出てしまうのは、何か「感じるべき正解」があると思って、それ以外の感じているものを「不要」 として捨象してしまっているからなのだろうけれど、感覚の世界とはそういう世界ではないのだ。

そうではなくて、触れれば確かに「何か」を感じるのだから、その「何か」をただ感じてほしいだけなのである。

「こう感じなきゃいけない」なんてことはない。

感覚はつねに未知との遭遇だ。

ただ感じたごとく感じるだけなのだから、それはそのありのままを感じればよいのである。

やるべきことはそれを限りなく丁寧に、微細化してゆくことであって、それが客観的な事実とどうつながるかということは、 また別の問題であり、別の作業なのである。


感覚に正解なんてない。

ましてや私が正解を知っているわけでもない。

学校で身につけた「学力テスト的思考」は捨てて欲しい。

私には私の「感覚の世界」があり、あなたにはあなたの「感覚の世界」があり、ただ私には多少の経験からその私の「感覚の世界」と 「現実の世界」を架橋するための知恵があるというだけで、その二つの世界の行き来の仕方はみなさんがご自分で体得されるしかないのである。

私にできるささやかなことは、その入口らしきところまでみなさんを案内してあげることだけである。


「感じる」ということは、言葉でないものを言葉にしてゆくという作業であり、「考える」 ということはその言葉になったものを類型化し分別してゆくという作業であり、それら「感じる」という「情報化作業」と、「考える」という 「情報処理作業」を、きちんと分けて行なうことが大事だ。

「分からない」という人は、いきなり「情報処理」しようとしているのである。

「情報化」も済まないうちに「情報処理」しようとしたら混乱するのは当たり前だ。

それでも無理に「情報処理」しようとすると、「情報処理」しやすいように「情報化」することになるので、それはつまり「既存の知識」 に適合するよう恣意的に感覚してしまうことになり、当然だが感覚が曇ってくる。

もちろん、まったく「情報処理」を意識しない「情報化」などありえないけれども、それでもその点について自覚的であるということが、 とても大切なことである。

高度情報化時代の現在はほとんどの作業が「情報処理」ばかりであるので、学校で習うこともそんなことばかりだけれど、 何だかよく分からないものと向き合うときはまず「情報化」するところから丁寧にしていかなければならない。

私はつねづねその「情報化」、つまり「名付け」 の大切さを強調し、またその危険性も強調しているのだけれど、ホントにいっつもそればっかり言っているような気もする。


…話がどんどん脱線していくな。

クーヨン講座の話のはずなのだが(笑)。

ともかくふだんから子どもにいっぱい触ってあげていると、子どもの変化にいち早く気づくことができるようになり、 そのことがどれだけいろんなことの予防になるか計り知れないものがあるのだ。

ともかく「何かが違う」ことさえ気づければ、あとはまぁそれなりの対処をすればよいのであって、 それはその後じっくりアタマで考えればよい。

そのためには実践しかなく、そして積み重ねでしかなく、 だからママさんたちには毎日毎日とにかく触って子どものからだを感じてほしいのである。

So touch! Touch! Touch!

posted by RYO at 20:40| Comment(16) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする