2007年11月28日

ワニ眼

何だか最近忙しい。

恒例の高野山合宿も無事終わり、フゥと一息つきたいところだが、やるべきことが山積している。

まずもっとも肝心な骨組みの部分を手早くササッと片付け、 そうして生まれた余白に遊びを入れながら仕事全体に甘みというか丸みを出してゆくタイプである私は、 いろんな理由でやるべきことがササッと片付けられずにぐちゃぐちゃのままいつまでも目の前に置かれていると、じょじょに不機嫌になって 「ワニ眼化」(@椎名誠)してくる。

かつて学生時代は「つぶらな瞳のRYO」と呼ばれ、友人たちにその眼ヂカラ(?)を称えられた私であっても、 さすがに不機嫌になってくるとワニ眼化してくるものである。

ふだんは犬が甘え、ネコがすり寄り、鳥が歌って祝福してくれる私も、ワニ眼化してくると、犬に吠えられ、ネコに逃げられ、 鳥にフンを落とされるようになる。

ワニ眼化した人間に世界は容赦ない。


バッグに付いた鳥のフンをティッシュでごしごしと拭きながら、「これじゃイカンな」と思った。

身のまわりの潮の流れがぐるぐると激変している。

これはもうさまざまなことのターニングポイントなのであろう。

ワニ眼化して鳥にフンなど落とされている場合じゃない。

やるべきことをやり、言うべきことを言い、目指すべきところを目指すのだ。

やるぞコノヤロウ。


でも「やるぞ」はいいが、いま私はモーレツに勉強がしたいのだぞう。

野口先生とシュタイナー先生の本をもう一度読みなおして、その人間観をまとめて整理したいし、フロイトも読みたいし、 ラカンも読みたいし、茂木さんとか、松岡さんとか、中沢さんとか、いろいろ読みたい本は山ほどあって、 部屋の片隅で雪崩を起こしているんだぞう。

勉強する時間が欲しいぞう。

(うぅ…からだとアタマが3つ欲しい。)


まぁそんなことを言っていても始まらない。

どうしたって目の前のことを一つ一つ丁寧に片付けてゆくしかないのだ。

いよいよ師走。

師も走らねばならぬ。動くべし。

チクショウ。まずはこの鳥のフンからだ。

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2007年11月18日

ほの暗い暗闇のふちで

ダイアログ・イン・ザ・ダーク(DID)」に参加してきた。

去年DIDに参加したという知人の話を聞いてとても興味が湧いて、いつか参加してみたいなぁと思っていたのだけれど、 また今年もやるという情報をうききさんから教えてもらったので、これはぜひ参加せねばと参加してみたのである。 (うききさん、情報ありがとうございます。)

DIDというのは何かというと、いっさいの光が遮断された完全な暗闇の空間を、 数人の参加者とともに視覚以外の感覚を駆使しながら体験するという体験型ワークショップである。

人間はたとえごくわずかな明かりしかない暗闇であっても、 30分から1時間くらいずーっとその中にいるとじょじょに見えるようになってくるという「暗順応」という性質をもっているのだけれど、 DIDではそれすら起こらないような完全な暗闇を再現している。

(ちなみに10年ほど前、「光の芸術家」とも呼ばれるジェームズ・タレル(⇒Wiki)の作品展が世田谷であったとき、 その体験型の作品展示を体験してまわったことがあるのだけれど、 そのうちの一つに真っ暗闇の中に20分間(だったと思う)じっと座り続けて、 前方に設置された超微量の光を発し続ける発光体を知覚するという、地味〜な暗順応体験作品があった。)


今回は、廃校になった旧赤坂小学校の体育館を利用して「放課後」をテーマに開催するということで、 一緒に参加した初対面の人たちと童心に返ったつもりで「真っ暗な放課後」をわいわいと愉しんできた。

だいたい8人程度の参加者が1グループとなって、「アテンド」 と呼ばれるガイド役の人にガイドされながら会場を探検してゆくのだけれど、まずは会場に入る前に目を暗闇に慣らすため、 しばらくほんのり暗い空間で内部の説明や暗闇での振る舞いの作法などを教えてもらう。

ひと通りの説明を聞き、目もだんだん慣れてきたところで、いよいよ完全な暗闇の中へ。

なんだかホントに子どもに返ったようにドキドキ、ワクワクする。


人間というのは普通、はじめての場所に入ったらまず真っ先に「空間認識」ということをするのだけれど、 その一切が暗闇にさえぎられてしまっているので、入ってすぐいきなり軽い混乱(と言うのか何と言うのか)が訪れた。

何となく広いらしいことだけは音の反響で空想できるのだけど、情報はそれだけである。

この感覚はうまく言葉にできないが、「空間を認識できない」ということは「自分の立ち位置をロケーティングできない」 ということであって、おそらく「自分の身体を喪失する」ということにもつながるのではなかろうか。

だからなんだか自分自身が急に不確かなものになった気がした。

「誰にも見られない」ということ。

音もたてずにじっとした瞬間、自分の存在が消えてしまう世界。

「空間の喪失」、「位置の喪失」、「世界との関係性の喪失」。

触ることでしか確認できない「身体」のみがあるということ。

そんな「空間に対する想像力」がいきなり奪われた不安ゆえか、みんな最初は周囲の人たちとどこか触れていないと安心できないようで、 全員カルガモ親子のようにアテンドの後をくっついて「え?どっちどっち?」とか言いながら、押し合いへし合い歩いていくのが、 我ながら何ともおかしかった。


実はこの「アテンド」と呼ばれるガイド役はみな、視覚障害者の方が引き受けている。

考えてみれば分かると思うけれども、私たちに何も見えないということは、ガイドの方だって何も見えないのである。

目の前にかざした自分の手さえ見えない完全な暗闇の中をガイドするためには、暗闇での振る舞いを熟知した人でなければならない。

だからいわば「暗闇の達人」である視覚障害者の方が、そのガイドを担ってくださっているのだけれど、 これが暗闇に入った時にどれだけ頼もしく感じられたことか。

参加者の人たちもみな、まずアテンドの声を聴き取ろうと必死になって、部屋を移動しようなんてときには、「○○さ〜ん。どこ〜?」 と呼びかけてばかりであった。


これから参加される方もいらっしゃるかもしれないので、中での状況はあまり事細かには書かないけれど、 最初の部屋では中に鈴の入ったボールを転がして遊んでみたりした。

まだ暗闇に慣れていないということもあって新鮮な驚きは山ほどあったのだけれど、アテンドの方の「暗闇の世界とのなじみ方」には、 一番驚かされた。

考えてみれば「当たりまえ」のことなんだけど。

転がしたボールが、だれもキャッチできずにどこかへ行ってしまった時に、ささっと行って取ってきてしまうその振る舞いは、 まるで神業のようであった。(って見えないけど)

彼らは普段の生活でそういうことをしていたのか、と思うと改めてすごいことである。

でもやっぱり、「当たりまえ」のことなのだ。

彼らにとってはそれは「当たりまえ」のことで、それは私の「当たりまえ」と現われは違うけれども、しかしそこには何の変わりもない 「当たりまえ」があるだけなのだ。

こんなにも違う「当たりまえ」と接することが、自分の「当たりまえ」を相対化してくれる。

前にこのブログで触れたことのある視覚障害者の内田さんに感じられている世界など、 はたしてどのような現われをしているのか、私には空想することもできない。

自分の知っている世界など、かぎりなく狭い。


そして全部で1時間くらいだろうか、いろいろな体験をしつつ、 ようやく暗闇での振る舞いにも慣れてきた頃にDIDのプログラムは終了するのだけれど、最後に暗闇を出た後、 わずかな明かりのある部屋でゆっくり目を慣らす時間がある。

その部屋は、入口の部屋よりももっと暗いということだったが、 完全に暗順応した私たちの目には入口の部屋よりはるかに明るい部屋であるように感じられた。

カーテンを垂らした壁で仕切られた小さなスペースには、壁際に沿って椅子がコの字に並べてあり、「どうぞ皆さん腰掛けてください」 というアテンドの声に促されて、参加者全員腰掛けてほっとひと息つく。

そしてみんな腰掛けた後、最後にアテンドの方が「空いてる椅子はありますか?」と私たちに何気なく訊いた。

その瞬間、私はドキッとした。

同じとまどいが一瞬みんなの間に走った気がした。

質問の後に訪れた一瞬の空白を埋めようとするかのように、近くの人がみんなとっさに椅子を差し示そうとする。

「あ、ここにあります。」

ごくわずかな光の存在が、瞬時にアテンド役を交代させた。


そのとき私の中で起きたことを何と表現すればいいのか分からない。

不意に訪れた出来事に動揺する自分がいて、その意味を瞬時に了解し動揺を抑えようとする自分がいて、 それらを冷静に感じている自分がまたいた。

不意の刺激に自分がバラッと分裂して、同時にそれぞれの立ち位置で感じ分けている自分がまた統合した時に、 結局カタチをとることができなかった居心地の悪さは、小さな違和感だけを残してぼんやり消えてしまった。

日常の中ではささやかなこととして流れていってしまうことであるかもしれない、ほんの小さな出来事だけれど、 それは確かに二つの世界の狭間で起きた強烈な変化だった。

ごくわずかに世界が変化しただけで、瞬時に入れ替わってしまった「何か」。

劇的な変化であったにもかかわらず、それはきわめて淡いで微細な、ほとんど無いにも等しい小さな変化の結果でしかなかったのだ。

たんに「目が不自由であるかどうか」という話ではない。

自分の存在しているまさにその場所が、いつ、ある二つの世界の境界線となってしまうのか、それは誰にも分からないということなのだ。

そのとき果たして自分がどちらの世界に身を置くことになるのか。

境界線が1ミリずれていたならば、もしかしてその変化を引き受けるのは私だったかもしれない。

あるいは境界線は今この瞬間も私の1ミリ隣にあるのかもしれない。


みんなでそれぞれの体験をシェアして会場を後にするとき、アテンドの方は次のグループのガイドをするため、 そのままほの暗い暗闇のふちに残り、私たちに手を振って見送ってくれた。

闇夜も煌々と明るく照らし出す光の世界へ戻る階段を降りながら、たった今起きたことを私は思っていた。

私が暗闇のふちで見たもの。

私が暗闇の中で対話した相手とは、いったい何だったのだろうか。

Dialog in the dark.

「知らぬままに対話する」という意味もある。

posted by RYO at 21:36| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月12日

「学問」という熱病

つねづね茂木さんが絶賛している小林秀雄の講演CDの全集を、最近アマゾンで購入し(じつは初アマゾン!)、さっそくMP3にして携帯に入れ、 ちょっとした合間にちょくちょく聴いている。

だいたい1960年代から70年代にかけての講演を収録したものなので、聴衆もまさに昭和の雰囲気で、「全員起立。礼!」 で始まる講演に何とも言えない新鮮さを感じてしまう。

「しゃべる方は自分の商売じゃありませんから、いっこう一生懸命なんかなったこと無いんで…」なんて、 ぶつぶつと愚痴のような言い訳をするところから始まる小林秀雄の講演は、中盤に差し掛かると最初の朴訥とした語り口とは打って変わって、 激しく熱のこもったものになる。

「どうぞ上着をお脱ぎください」と司会に促されれば、「ええ、ええ、勝手にやりますよ」とうっちゃらかして、それより 「もっと諸君と対話しようじゃないか」と、壇上から聴衆に語りかけるのだ。

「どうもやっぱりいろいろしゃべってもキリがないようなことで失敬したな。じゃあ失敬」 と言うが早いかサッと壇上を後にしてしまう去り際などは、もう惚れ惚れしてしまう。


そんな熱っぽい小林秀雄の話を聴いていて、「なるほど茂木さんのあの講演の熱っぽさは、小林秀雄の血を引き継いでいたのか」と、ふと思った。

前から茂木さんがブログにアップしている講演録もちょくちょく聴いているのだけれど、 語られる内容のオモシロさもさることながら、いつもその「熱」に感心してしかたがない。

茂木さんのお話を聴いていると、教育っていうものは「伝染させる」ものなんじゃないかと思えてくる。

「学問」という熱病にかかった人のうわごと(失礼)を聴いているうちに、やがてその熱が感染してきて同じ熱病にかかってしまう、 みたいな。

私なども繰り返し聴いているうちに、気づけばすっかり感染してしまったが、 これは気をつけないとそのうちアディクション(依存症)まで発症するんじゃないかしら。

ホントの学問ってのは「冷静を装った情熱」で、それは気づかぬうちに感染するのだ。

気をつけろ!


茂木さんの話は、一つお話をしゃべりだすと、それに付随したいくつものお話がぱぱぱっと浮かんできてしまって、どんどん連鎖的に次の「島」 へと話が飛んでいってしまう、という感じである。

「でさ、今思い出したんだけど…」と言いつつ、ずんずん進んでいってしまう。

茂木さんの振る舞いそのものが、人間の思考というものが本来決してリニアル(直線的)なものではなくて、 ネットワークのように張り巡らされているのだということを教えてくれる。

茂木さんは「人間の脳がいかなる構造をもっているか」ということを、まさに目の前で再現してくれているのだ。

そうか。

あの髪形を見て最初に気づくべきであった(笑)。


でもネットワークのままじゃ時間がつぶれているから、論理に起こすときにはそれを「一筆書き」で描き直さなきゃいけなくって、 「論理というものは、そのネットワークのうちの一つの経路を恣意的に抽出したものであるのだぞ」ということなのだ。

きっと。

知らないけど。

いつだって人間は綺麗にまとまった「納得いくお話」を欲望し続けている。

ヘンな生き物だ。

人間の頭の中はいつだってピタゴラスイッチで、 年がら年中ピタゴラピタゴラ転がりながら落としどころを探していて、ときどき現れるその絶妙な落としどころにピャーッと興奮するのだ。

落としどころにポコッとはまって、意味が立ち現れる瞬間。

さァ大変だ。

中からドジョウが出てくるぞ。


自らピタゴラ転がって、落としどころにポコッとはまってピャーッと輝くその振る舞いを、みんなの前で再演することによって、 見る者をその知的興奮の悦楽にぐぐぐいっと引きこんでゆく。

それこそまさに一回性の講演の醍醐味だろう。

みんなそんな舞台にぐぐぐいっと引き込まれて全身で熱を浴びたら、どんどん熱病に浮かされてみるのだ。

ふらふらになってぼーっとして、熱を出して汗をかけ。

熱こそがすべての構造をがらりと変える大事な要素。

こころもからだも、「たまには風邪を引いて熱を出せ」と古人は教えているぞ。

ようし。

私ももっともっとピタゴラピャーッとして、熱病感染の宿主(ホスト)を目指すのだ。

「聴けば熱に浮かされる」

おお、なんかカッコいいじゃないか。

posted by RYO at 20:28| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月06日

クーヨン講座

金曜日。

発売後、注文しようと思って編集者のHさんに電話をしたら、すぐに在庫がはけてしまったそうで「倉庫に一冊も無いんです」 という衝撃的事実を告げられ、嬉しいのか悲しいのか何とも複雑な思いにさせられてしまった『クーヨン8月号』の発売から、はや4ヶ月。

ようやく編集部の倉庫に何冊か戻ってきたということで、さっそく取り寄せて『クーヨン』記事のおさらい会を催すことになった。

前に下北沢のカフェで講座を開催してくれたTさんが、 ミクシィやらで呼びかけてくれたおかげで満員御礼。

取り寄せた『クーヨン』もたちまち完売してしまった。

みなさま遠いところからわざわざありがとうございました。


今回の講座は初めての方が多かったので、まずは「子ども(人間)をどう観るか、どう捉えるか」という整体的な発想のお話からはじめる。

整体的な人間観というのは、いわゆる一般的な人間観とはちょっと違う。

その違いはいろいろあるけれども、一番大事なことは「ダイナミック(動的)なものとして観る」ということであろう。

人間、あるいは人間の営為のようなあるダイナミックな現象があった時に、一般的にそれを考えようとするさいには、 時間を止めてある瞬間の姿形を取り出し、要素に分解して、スタティック(静的)なものとしてじっくり考える、 というのが現代的な考察の基本姿勢である。

なぜなら動き続けるモノは、二度と同じことが起こらない「一回性」の世界にいるわけだけれども、科学において一番重要なポイントは 「再現性」ということであって、そのままでは研究対象になりえないからである。

整体では、その「一回性」のダイナミズムを重視し、対象をもっと流れのままに、ダイナミズムの中に置かれたままで捉えようとする。

そこから見えてくる事象と、そこから出てくるアプローチと、そこから出てくる語り口は、 スタティックな発想の上にどれだけ積み重ねても、つながるものでない。

だから今までの発想の上にどれだけ整体的知識を乗っけていっても、決してその本質的なところはつかみきれないのであって、 発想の仕方そのものから違うんですよ、というアッピールから始めなくては、講座が始まらないのである。

「そんなこと初めて聞いた」という人もいるかもしれないけど、そういうことなんですよ。はい。


子どもにかぎらず、人間とは、きわめてダイナミックなものとして、要求があり、発散があり、活動があり、 絶えず変化し続けているものであるが、それを一瞬止めてじっくり考えてみようという一般的な発想による捉え方では、精密な論文は書けても、 その場で対処するには確実に「一歩遅れる」であろう、ということは誰でもすぐ分かることである。

じっくり止めて考えてみる発想から生まれた対処は、その止めた瞬間にとっては限りなく適したことであったとしても、 一瞬ズレればまったく間の外れたことになりかねない。


だいたい前日に「完璧に」立てたデートプランなど、当日、破綻するに決まっているのであって、 それよりも当日何があってもフレキシブルに対応できるよう、アタマを柔らかく、フットワークを軽くしておいた方が良いに決まっている。

独り妄想的に立てたプランが相手に適うかどうかなど、まったく保証できるもんじゃない。

まぁ、もし自分のために寝ないで完璧に立ててくれたプランを、当日「気が向かない」 とスネる自分のためにあっさり捨ててくれる人間がいたならば、それは愛と呼んでいいかもしれない。

(でも愛は試しちゃいけないよ。イエスがそう言ってる。)


ともかく、今まさにいのちと向き合う現場に置いては、ある限定された状況において100%適したことであるよりも、今この瞬間に70% 適したことであることの方がはるかに重要であることが多い。

「機に応じて敏である」ということが整体的な処し方の要であって、だから私はクーヨンの記事でも、 あのわずかな文章の中で申し上げたかったことは、何かあった時に理由や原因や対処を考えるよりも、まず手が出て、 手を当てることが大事なんですよ、ということだったのである。


一ヶ月間、ちょうど良い時間にちょうど良い湯加減でお風呂を沸かすことのできたお弟子さんに、「君はもう卒業だ」 と免状を出した野口先生のエピソードを取り上げるまでも無く、整体の技術とは、「処」の用い方よりも、「機・度・間」の用い方なのであって、 それが分からないうちはまだ何も分かっていないということなのだ。

それは実践の中でしか磨かれないものであって、いくら勉強したって稽古したって身につくもんじゃない。

私はときどき、「稽古なんていくらやったって上手くなるのは稽古だけだよ」とシニカルに言い放ったりもするが、 ホントにそういうもんである。

稽古は確かに大事だが、稽古だけやってたって何にもならない。

稽古という場を成り立たせているその「力」にまで空想が及ばなければ、稽古の場で何が起きているのか、 その本質を理解することはできない。

そのために必要なのは「場の主体感覚」ということなのであるが、それはまた全然別の話であるので、いつかまた別の機会に。


そういう意味では、講座に来てくださっているママさんたちは、稽古も何も、今まさに一回こっきりぶっつけ本番の現実を生きているのであって、 だからこそ私は本当にすごいと思っているし、尊敬しているし、その笑顔にホッとさせられるのだ。

私は、そんなママさんたちが、ときにあまりに強大に吹き荒れる現実の風に吹き飛ばされることなく、 がっちり大地に足を踏みしめて歩こうというその姿勢に心打たれるものであって、微力ながらでもその助けになることができればと、 心から思っているのである。


…というわけで結局、話はクーヨン講座と全然違う話になってしまったけれど、 同じ話は書いてるこちらが飽きちゃって筆が進まないからこういう事態になってしまうわけで、まぁ平たく言えばいつものことであるのでご勘弁。

posted by RYO at 00:17| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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