2007年09月25日

ロールテイキング

前回触れた 『カウンセリング方法序説』(菅野泰蔵、日本評論社、2006)の中に、「ロールテイキング」という言葉が出てくる。

今まで私はそれに似た感覚を「役割を引き受ける」とか「ロールプレイング」とか言っていたのだけれど、それを読んだ瞬間、「あ、 その表現いいな。」とえらく得心してしまった。

「プレイ(演じる)」という感覚もあながち間違ってはいないけれども、より「覚悟」を前面に出した「テイク(引き受ける)」 という方が、やっぱり私の感覚としては近い感じがする。


私は講座でからだのことや子育てのことについていろいろとお話をしているので、 当然のことながらいらっしゃる方々からさまざまな相談を受けるのだけれど、そのような相談に対して「どのような応答をするべきか?」 ということは、日々考えさせられている。

その際、私は「役割を引き受ける(ロールテイキング)」という感覚が何より大切なことだと思っているのだけれど、 それはこのような相談の場面に限らず、ありとあらゆるコミュニケーションの場面においても、その関係をよりよい関係にしてゆくために、 とても大切な構えであるように思う。


この本の中で著者の菅野さんは、カウンセリングの成否はこの「ロールテイキング」次第ではないかとハッキリおっしゃるくらい、 やはり重要視されている。

菅野さんは、この「ロールテイキング」という言葉を「相手の立場(ロール)を自分の中に取り込む(テイク)」 というニュアンスで使っているが、私はどちらかというと「望まれている私の役割(ロール)を引き受ける(テイク)」というイメージがある。

私はいつも「場」を主体として考える癖があるので、引き受ける(取り込む)べきロールが、必ずしも人称的なものとは限らない、 つまり特定の個人ではない場全体に要請されるロールのようなものがあるのではないかと思っている。

その場合、「そのロールの起源は誰なのか?」という問いに答えは見つからない。

もっとも「一対一」という対個人的なカウンセリングのような場においては、そこにほとんど差はないわけであって、 イメージとしては若干違うけれども、基本的には同じような事を指していると解釈したのだけれど、でももしかしたらやっぱり違うかもしれない。 (どっちなんじゃい)

いずれにしても導き出される行動としては、おおむね似たものになるような気がするので、その違いはとりあえず置いておいて、 私の感覚で話を先に進める。


じゃあ、そのような「テイクするべきロール」というものはどのようにして浮かび上がってくるか、といったらこれはもう、「場の流れ」 を読むことに尽きる。

「流れ」というと、時系列に沿った事象の連なりを連想するかもしれないが、私が「流れ」という言葉を使うときには、 そこに空間的なニュアンスも含まれていて、喩えるならば「潮流の航空写真」のような、「流れ」 をある時間で切り取った空間的な配置も意味している。

すべての場には、時間的、空間的にマッピングできるある種の「流れ」が存在しており、それを読み解くことで、押さえると「全体の流れ」 が大きく変化するという「押さえるべきポイント(交流点)」が浮かび上がってくるのだ。

ありきたりの表現で言えば、「場の中心」とでも言えばよいか。
(ホントは中心というとちょっと違うニュアンスなのだけれど)

そしておよそ「テイクするべきロール」とはそのポイントの近辺にあって(私の感覚で言えばポコッと「欠如」がある感じ)、そこに「我」 を捨てた限りなく透明な状態で身を置くことで、全体の「流れ」をスムーズに活性化することができるのだ。


技量のある指導者であれば、そのロールテイキングを行うことによって、より活発な流れを誘導することもできるわけだけれど、先に 「我を捨てた透明な状態」と書いたように、原理的にはまったくカラッポであっても良いのである。

その場のコンテキストに乗ってさえいれば、その中心はカラッポであっても良い、 というよりむしろ下手に癖があるよりカラッポであるほうが良い。

なぜならその本質は「流れる」というところにあるのであって、「多くの流れの交わるところ」、つまり言ってみれば「流通センター」 のようなところは、できるかぎり摩擦の少ない方が、流れはより活性化され、多くのモノたちが自由に行き交うことができるからである。

だからカラッポでさえあればそれで充分なのだけれど、もしプロフェッショナルを目指すのであれば、基本的にはカラッポでありながらも、 そこに絶妙なワザで流れを誘導したり編集したりして、双方にとってより意義のある形でのやりとりができるようになれると素晴らしい。

ますます情報が溢れるこれからの時代、そんな「独特の偏向具合を備えたフロースポット(流れの焦点)」のような存在は、余人をもって代えがたい個性的な編集点として、おそらく多くの人々に重宝がられるに違いない。

「私の代わりに、私も知らない、私好みの情報を収集編集提供してくれる存在」というものが、社会的ニッチとしてこれから需要が増える立ち位置であるよ。きっと。


…で、

話は突如として全然カンケーないところに飛ぶのだけれど、新しいビジネスを思いついてしまって、 もしかしたらすでに似たようなビジネスはあるのかもしれないけれど、「OFFコンサルティングサービス」なんていうのはどうだろうか。

どんなものかというと、クライアントの趣味や好みについて綿密にアンケートを取った上で、「OFFの日」を丸一日使って、 「あなた好みのショッピングコース」をコンサルタントがエスコートするというビジネスである。

アクセサリーショップや、ブランドショップ、エステサロン、書店、雑貨屋、お洒落なカフェ、レストラン、バーから居酒屋まで、 すべてあなたの知らない「あなた好み」のみをセレクトし、それらを絶妙なコースでめぐって、ほっこりしようという計画。

その日の気分や天候によってフレキシブルに対応できるよう、コースは数パターンを用意しておいて、後日、 それらすべてのプランをまとめたものを、「世界でたった一つのマイセレクトブック」として、 ともに回ったコンサルタントからの一言も書き添えてプレゼント。

それを参考に、気の合う友人と一緒に別のコースを回れば、ふたたび愉しい時間を過ごせる上に、友人から一目置かれること間違いなし。

もちろんコンサルタントは「会話の弾む同性」から「大人な感じの素敵な異性」まで、自分の好きなタイプをチョイスでき、 言ってみれば好みのツアコンをつけて一日ショッピングを愉しむツアーのようなもの。

1人で申し込んでもいいけれど、仲の良い友達2,3人と一緒に申し込んでみれば、さらに愉しいOFFを過ごせるかもしれない。

なかなかイケるような気がするのだけれど、こんな「情報編集提供奉仕ビジネス」はいかがなものだろうか。 (痒いトコロは全部掻いちゃうよ!)

…とか言いつつ何だけど、別に私は自分でやる気はさらさら無いので、このアイデア、だれか欲しい人にアッゲ〜ル。

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2007年09月19日

文脈という流れに乗って

カウンセリング方法序説』(菅野泰蔵、日本評論社、2006)を読了。

好著であった。素晴らしい。

私がつねづね感じている事が、エッセイのような軽い文体で非常に丁寧に分かりやすく書かれており、正直、 「私の言いたいことはココに書かれています。」と人に進呈してしまいたくなるくらいである。

素晴らしい本を見つけたので、もはや私もこんなブログでだらだらと文章を書く必要もない。

この本を読んでいただければ、こんなブログは読んでいただかなくても結構です。


…嘘です。 読んでね。

まぁ、そんなわけなので、この本に関しては触れたいところはいろいろあるのだけれど、とくに私に響いた箇所は「コンテキスト(文脈)」 というところである。


『いずれにしても、自分はそこそこにうまくやれていると感じているのは、 ほとんどのクライエントが、カウンセラーの気を悪くしないように、面接やカウンセリングがうまくいくようにと配慮しているからである。 それはカウンセリングそのものの力ではなく、コンテキストの問題である部分が大きい。すなわち、うまくいくときは、 うまくいくようなコンテキストがそこにでき上がっているという原理にのっとれば、 クライエントの配慮なしにカウンセリングが成立しようもないことは明らかである。このことを強く自覚している者が、 まずは専門家としての入り口に立っていると言うべきであろうが、私の印象では無自覚な人が多いようである。
…中略…私たちがさらなる専門性を高めるということは、ひとつには、そのようなコンテキストから外れ、 カウンセラーにあまり配慮しないようなクライエントに対して、どれだけのことができるかということである。はっきり言えば、 先述のようなコンテキストに乗っかっているクライエントならば、誰がやっても「うまくいく」ものである。少なくともカウンセラーが 「失敗した」と思うことは稀れとなるだろう。』
(同著、p66−67)


非常に身につまされる話であるが、これは何もカウンセリングの現場だけの話ではあるまい。

あらゆる教育的関係においても言えることであると思うが、著者の菅野さんが言うように、たしかにこの「コンテキストの力」 に自覚的である人は、とても少ないのかもしれない。

「コンテキストの力」とは、たとえば同じ「バカだなぁ」という言葉であっても、 それがどのようなコンテキスト(文脈)の中に置かれているかによって、慰めの言葉にもなれば侮蔑の言葉にもなるように、「あることの意味」 を劇的に変える力がある。

ネットサーフィンをしていると、ときに素晴らしい知見にあふれるブログやWebページに出会うことがあるけれども、 「内容は素晴らしいのにどうも読みづらいな」と思うことがときどきある。

それは改めて考えてみると、必ずしも文章そのものの問題ではなく、テンプレートやページの色やフォントなど、 文章を成り立たせている広義の「コンテキスト」が原因であることもしばしばである。


そのように、現実のコンテキストとはそれこそ背景のようなものとして前景化されにくい状態で存在するので、なかなか顧みられることが少ない。

それはこの「コンテキストから考える」という思考のあり方が、 自分自身をもコンテキストの一部として考えるきわめてクールな思考である、ということと無関係ではないだろう。

カウンセラーに限らず、「成功を『自分の実力』の成果として認知したい」というささやかな欲望は誰しもが持つものであろうが、 指導者がそのようなささやかな個人的な欲望を持ち続けている限りは、その指導の先に暗い影を落とすことになり、もっとも肝心な「最後の伝授」 が果たされる事を阻むことになる、ということははっきり申し上げておかねばなるまい。


教育的関係における指導者の立ち位置について、菅野さんの言うように、ある程度までは 「コンテキストに乗ってさえいれば誰がやってもうまくいく」という事実を、指導者自身がクールに受け止めておく必要がある。

そのような事実は、指導者当人にとって(当然私にとっても)さほど愉快なことではないが、 そこはクールに受け止めた上で思考を進めていかなければ、最後の大切なところで必ず道を間違えることになるだろう。

指導の多くは、その「指導関係」を維持しようとする「相手の気遣い」というコンテキストなどによって支えられているということ。

その事実をまず踏まえた上で、指導者としてはさらにその先、つまり最初のコンテキストの生成に同意をしない相手を前にしたときにも、 徒手空拳のまま新たなコンテキストをその場で生成しつつ、それを自分の望む方向へと誘導してゆくというワザ、 それを身につけることが目指すべき目標であるだろう。


…え〜、ちょっと展開が早すぎた。

勢いに乗って、指導者が目指すべき目標をいきなり掲げてしまったけれども、とりあえず私たちにはその前にやるべきことがある。

何かというと、「すでにあるコンテキストを活用する」ということ、「コンテキストをあらかじめ構築する」ということである。

「コンテキスト」という概念自体があまり顧みられていないので、このことすらあまり重要視されていない感もあるけれど、 「コンテキストの力」に自覚的であるならば、それをつねにあらかじめ構築しておくこと、つまり「あたりまえのことをあたりまえに行なう」 ことの大切さが、ハッキリ浮かび上がってくる。


菅野さんは言う。


『それは数々の研修やセミナーを行っている経験から確信できることであるが、 ほとんどの人は、ある種の技法や効果的な手法に幻想を抱き、それを手に入れることに躍起となっており、 変化を生むためのコンテキストをつくるという基本を鑑みない。つまり、どのような大技や小技を知っているにしても、 それがあるコンテキストに乗っていない限りは何の効果も持たないのだということが理解されていないわけである。』
(同著、p69)


このことはまさに私もいつも危惧していることである。

どうも人は手軽に把握しやすいシャープでテクニカルなことに目を奪われがちであるけれど、この「コンテキストをつくる」 というもっと地道で堅実的なことこそ、現実の場においては何より大切なことなのである。

まぁ私が講座でしゃべっていることなんて、ほとんど「それしか言っていない」ので、講座に出てくださっている方には、 もはや聞き飽きた話であるかもしれない。

…ん?なに?

『そんなこと言ってたっけ』?(笑)

いやいや、何をおっしゃるウサギさん。そう思われるのは、私が講座のたびに「いろんな言い回しをしているから」というだけであって、 言っていることはホントに「これだけ」なのですよ。

場作り、コンテキスト作り。

つまりは、「あたりまえのことをあたりまえにやる」ということ。

その「あたりまえ」が、「コンテキストづくり」であり、「場づくり」であり、「日々の暮らし」 であり、その積み重ねが「自分の振る舞いを、一挙手一投足を支えてくれる」のである。

「役割」、「働き」あるいは「個性」というものは、 必ずコンテキスト内にあるそれ以外の何物かと参照されることで浮かび上がってくるもの。

文脈の流れのなかに身を置いている自分という存在を、今一度捉えなおしてみるのは大事なことだ。

それは「治療の関係」しかり、「指導の関係」しかり、「親子の関係」しかり。


整体の野口晴哉先生は、「世の中で一番大きな仕事をした人は誰だろうか」との質問に、「キリストをキリストにした人達だ。」と答えた。

野口晴哉という偉大な先人ですら、「そのこと」の意味を深く真摯に受け止めているということ。

人は一人では何者にもなれない。

posted by RYO at 20:56| Comment(21) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月11日

水晶の振り子は

第1感』(マルコム・グラッドウェル、光文社、2006)を読んでいたら面白い実験が出ていた。

裏に「○○ドルの勝ち」「○○ドルの負け」と書かれたカードを用意し、被験者に一枚ずつ引いていってもらって、 最終的に儲けが出れば勝ちというゲームをやってもらうのだが、カードには「赤いカード」と「青いカード」の二種類があって、 それぞれの山が二つずつ、合計四つの山がある。

実はこのゲームには必勝法があって、「赤いカード」のほうは大勝ちもあれば大負けのカードもあってリスクが高く、 それよりは勝ち負けともに額面の少ない「青いカード」のほうを引き続けると勝てるような割合でカードが構成されているのだが、 「その法則に被験者がいつ気づくか?」という実験なのである。


『しばらく前にアイオワ大学の研究者たちが行なった実験によると、 たいていの人はカードを50枚ほどめくったところで、なんとなく必勝の法則に気づいたという。まだ「青を引けば勝てる」 という確信はないが、なんとなく「青のほうがよさそうだ」と思い始める。さらに続けて、80枚ほどめくれば必勝法に確信を持ち、 なぜ赤いカードを避けたほうがいいのかも正確に説明できた。経験の積み重ねで一定の仮説をたて、さらに経験を重ねて仮説を検証する。 きわめて常識的な学習のプロセスである。
面白いのはここからだ。研究者らは被験者の手のひらに測定器を取りつけ、汗の出方を調べた。 手のひらの汗腺はストレスに反応する(だから緊張すると、手のひらがじわっと汗ばむ)。さて、結果は? なんと10枚目くらいで、 みんな赤いカードにストレス反応を示し始めた。彼らが「なんとなく」赤は危ないと意識したのは、それから40枚もめくったあとである。 それだけではない。手のひらが汗ばんできたのとほぼ同時に、参加者の行動パターンも変わり始めたのだ。青いカードをめくる回数が増え、 赤いカードをめくる回数は減った。つまり、「なんとなく」ルールがわかったと意識する前から、何らかの方法で法則に気づき、 危険を回避する行動を取り始めていたことになる。』
(同著、p15)


「意識」というのは、知覚した事象の「辻褄合わせ」がその仕事の大部分であるので、基本的に「からだの変化」 の後追いとして遅れて生じるものだけれど、それでも実際これだけ早い段階からからだには反応が出ているとなると、 その変化にできうる限り早く気づくことは、何にも増して有益なことである。

たとえば護身術として、ナイフを持っている相手の対処の仕方であるとか、後ろから羽交い絞めにされた場合の対処の仕方であるとか、 そういうことを身につけるよりも、そういう危険な場所や状況に至る前に、事前にそれこそ「なんとなく」 イヤな感じがして回避するということのほうが、はるかに理にかなっている。


けれども、そのようなからだの中に生じた微細な変化を感じ取るためには、それなりの訓練を必要とするし、 人によってはどれだけ訓練を積んでも「やっぱり分からない」ということも、よくあることである。

そこで昔の人は、少しでも多くの人に分かりやすくするために、先端に水晶などを付けた鎖を手に持ってぶら下げることで、 腕の微細な運動を増幅し目に見える形に変換する、というダウジングのような手法を編み出した。

たしかにそれなら実際に自分のからだの微細な変化を感じ取るより、はるかに短い訓練で自分のからだの変化を感じ取ることができる。

私も前に「五円玉を糸に吊るして裏向きのカードを当てる」という実験を、仲間とやったことがあるけれど、 たしかに非常にその変化が分かりやすい上によく当たるので、「こりゃ便利だな。」と感心したことがある。

実際、「糸を吊るして動きを見る」というのは非常に素朴で原始的な手法だが、やっていることは、 手のひらにセンサーを付けてその発汗の度合いから緊張度を計測するのと、たいして変わりはない。

まあ人間は、高価で、その理屈がよく分からなくて、構造も複雑そうな仰々しい機械のモニターにピコピコと出てくるグラフの方が、 なんだか信用してしまうものなので、五円玉を吊るした糸がぶらぶら揺れている程度では鼻にもかけないから、 もっともらしく装飾する必要があるというのも現実である。

だからダウジングも、「○○産の水晶にその精錬に手間暇かけた銀の鎖を付けた」とかいうデコラティブなものを使用して、 説得力を出したりもするわけで、そういう意味ではどっちも似たようなところがある。

いずれにしても、自分でやる分には五円玉と糸で十分なので、皆さんも実験してみると面白いかもしれない。

ただ何を使うにしても、「丁寧に」「真剣に」やらなければ結果は出ないのは当然のことであるので、そこだけはお忘れなく。

どうしても「五円玉では『丁寧に』『真剣に』できずに結果が出ない」というのであれば、 そんな時には自分の気に入るグッズでも何でも使えばよろしいのである。

それで結果が出るならば、まずはそこから始めればよい。

「どうでもいいようなもの」でも「丁寧に」「真剣に」なれるというのも、一つのワザなのだから。

真の剣士は笹の葉一枚で人を斬る。


ともかく私としてはなんにつれ、身体運用そのものを磨いてゆくことで、「モノに頼り切ることのない方向性」 というものを志向したい性質なので、どうもそのようにソトのモノに頼ることから脱却することを考えてしまうのだ。

普段からいつもそのようなモノを持ち歩き、いちいち取り出しては「こっちがいい」とか「あっちがいい」 とか生活上のすべての判断をそれに委ねるというのも、「周りの人に距離を置かれる」という社会性の問題だけでなく、むしろモノに頼り、 感覚を鈍らせる方向に行ってしまうような気がして、それではやはりダメなのではなかろうかと思えて仕方がないのである。

だから私も一時期、「モノを手放してゆくダウジング」に凝って練習していたことがある。

最初はモノの助けを借りながら、徐々にそれが無くても良いように、自分自身を変容させてゆくのである。

もう今は飽きてしまってやっていないので、今やってできるかどうか分からないけれど、 そうして徐々にモノを手放していく練習をしていくと、「モノは媒介にすぎない」という事実がはっきり浮かび上がってきて、最終的に 「モノは要らない」という結論に至る。

だって無くてもできるんだもの。

おそらく誰でも続けていればそのような結論に至ると思う。

私にとってはそのことがハッキリ自覚できたことが一番の収穫であった。

モノも言葉も、理解を進めるための「精神の補助線」でしかない。

水晶の振り子は自分自身の中にある。


そういえば前に「波動を測定する」とかなんとかいう機械を取り扱っている人の話を聞いていたときに、「別に中身は空っぽなんですよ。 何にもありません。」と言うので、そんなこと言っちゃっていいのかと他人事ながら心配していたら、 「別に中身を開けてみれば誰だって分かりますよ。」とあっけらかんとしているので、ヘンな人だと思いながらも、 「まぁそんなもんなんだろうな。」と妙に納得してしまったことがある。

結局どんな仕組みなのかはよく分からなかったけれど、「別に中身は空っぽなんですよ。」と言っても、買う人は買うし、 効果のある人は効果があるのだから、人間というのは不思議だ。

「でも高いんですよね〜。」と、自分でツッコミを入れるその人はホントにヘンな人だった。

ホメオパシー関連の団体のエライ人だった覚えがあるけれど、そういうヘンな人は好きだ。

私はそういう人とこそ、「人間の霊性」について大真面目に語り合ってみたい。

posted by RYO at 20:21| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月04日

古の知恵と新しい世界

ネットの世界というものは、検索技術の劇的な向上によって、ほぼ「関心による距離」だけでマッピングされている。 (たまに入力間違いなどにより全然知らないサイトに飛んだりする偶有性もあるけど)

現実世界では、すべての事物は地理的物理的な距離によってマッピングされているが、 そのような物理的制約から開放されているウェブ世界では、地理的にどれだけ離れていようと、 心理的な距離が近ければ(好きなアーティストが一緒だとか、同じ小説を愛しているとか)、たちまちご近所さんになってしまう、 きわめて可塑性の高いフレキシブルな世界なのである。

私のブラウザの「お気に入り」の中にも、「ご近所さん」がいっぱい並んでいるけれど、その「ご近所さん」たちも地理的に並べてみれば、 知りうる限りでもホントにワールドワイドな状態を呈している。

それはまるで、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治、新潮文庫、1989)の中で描いた、「鳥を捕る人」が「来よう」 と思っただけでたちまち列車の中に来れてしまう「幻想四次空間」のようである。

ひとたびあることを欲すれば、 それに関するあらゆる情報がたちまちシュルシュルッと手の届く範囲にやってきてしまうそんな不思議な幻想空間を、 私たちは共有することになったのだ。

私たちは自分が知りたいと思えば、それが最新の論文の一文であろうが、歴史的史料の一節であろうが、 それに関するあらゆる情報がほとんどゼロコストで手に入れられる時代に生きている。


そのようなインターネットや衛星放送などの世界的な情報網の発達により、 私たちは地球の裏側で起きた出来事を瞬時に知ることができるようになり、そしてまた同時に、自らの立ち位置を鳥瞰的な視点から、 全体の中で相対的に位置づけることができるようになった。

今や私たちは、地球の裏側で起きた不幸な出来事を思いやり、ともに悲しむことができるまでになったのだ。

「こころ」という、人と世界の境界に現れるこの奇妙な現象は、人と世界のインターフェイスが変化すれば、 それにともなってその現れも変化するもの。

それを「人類のこころの成長」と言えるかどうかは分からないけれども、 少なくとも遠い地に住む人間を思いやることができるようになったということは、言祝ぐべきことではあるだろう。

もっとも、技術の進歩による急激な「世界の収縮(あるいは拡大)」にぐらぐらとゆれ動く「こころ」に、意識の方がまだ十分対処しきれていないような感もあるけれど、そのような「巨きなものとの接し方」については、じっくり丁寧に考えてみなければならないだろう。


最近よく思うのだけれど、「ネットってホントに人間の無意識みたいだなぁ」とつくづく思う。

2ちゃんねるに代表されるようなネットの世界には、普段の生活では抑圧されている多くの人のさまざまな欲望が、 検閲を受けることなくアップされ、それが中枢的な制御を受けることなくお互い干渉しながらぐるぐると渦巻いている。

そのさまはまるでフロイトの言った無意識そのもののようである。

あるいはそこには多くの人間の欲望が複雑に絡み合って関与しているわけだから、その集合的、非人称的な動向は、ユングの言う 「集合的無意識」と言ってもいいかもしれない。

正視に耐えない誹謗中傷から、ささいな情報、有意な情報、あるいは卓越した知見まで、 さまざまな思念がほとんど等価で扱われるネットの世界(まさに無意識)に対して、私たちがそれとうまく付き合っていくためには、 その中のどんな情報を手元の端末(自分のパソコン)に前景化させるべきか、その探索力、検閲力、編集力のようなものが問われることになる。

もちろんそこには、GoogleやYahoo!といった検索エンジンの性能の向上も大きく関与してくるわけだけれど、 最終的にそれらの情報を編集するのは私たち個人なのであって、我々個人の資質、能力を磨いてゆくということも、 やはりとても大切なことであろう。


「いろんな情報を知っておくことが大事」とは、よく言われることではあるけれど、 あらゆる情報がほとんどゼロコストで瞬時に手に入れられる高度情報化社会である現在では、むしろそのありとあらゆる情報に翻弄されて、 何が正しいのかよく分からずに混乱の只中に放り込まれてしまっている人たちも少なくない。

溢れかえるいろいろな情報や理念の洪水に、「どれが正しいのかよく分からない」「自分は何を採用すればいいのか分からない」 という状態になりつつある。

それは先の喩えで言えば、「圧倒的な無意識からの表出に混乱している意識の状態」である。

今までは、身体的・時間的・空間的な限界が、そのまま「知の限界」として私たちを制約し、また、 拠って立つべきところを明確にしていたけれど、自らの関心の持ち方によってその現れを劇的に変化させる世界との邂逅に、 私たちはこれからいかにして自己同一性(アイデンティティ)を確立してゆくべきなのか、 改めて考え直さなければいけない時代になってきている。


そんな時代、溢れる情報に混乱を来してしまわないためにも、膨大な情報の中から「私に必要な情報」だけをピックアップして、 それらを編集してゆく能力(編集力)は、その必要性がますます高まっている。

「巨きなもの」といかに接してゆくか。

「潜在意識的なもの」とどう付き合ってゆくか。

そのようなものとうまく付き合ってゆく知恵というのは太古より人類学的な智恵として継承されてきたはずであるけれど、 ここ数百年の近代化(顕在意識化)によって、そういう矛盾を孕んだ「ワケの分からないモノ」たちは、「ワケの分かるモノ」 に置き換えられるか、世迷言や迷信、奇習として社会の片隅に追いやられてしまって、すっかりその力を失ってしまっているのが現実だ。

けれども、今ほど「ワケの分かる時代」ではなかった昔に生きた人々が、それでも何とか生き延びてゆくために、たびたび到来する 「ワケの分からないこと」に対する対処法として、試行錯誤しながらも卓越した手法を練り上げ、伝承してきたであろうことは、 十分考えられることである。


ネットがますます世界中をつなげてゆき、制御されえない膨大な欲望がそこで共有されてゆくことになる現代に、 そのようなものとの接し方について、まるでそんなものが無かった時代の「古の智恵」に学べることが多いような気がするのは、私だけだろうか。

posted by RYO at 19:53| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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