2007年08月23日

弟子入りのススメ

「教師の約三割が保護者に訴えられたときのための保険に入っている」というニュースを、このあいだ見て、 それ以来ずいぶん考えさせられている。

ニュースを見たときには、その現実にショックを受けて愕然となってしまったが、昨今の教育環境を鑑みてみれば、「さもありなん」 とつぶやかざるを得ない。

教師が保護者に訴訟を起こされることを念頭に入れ、その対処をしておかなければならないような、そんな時代なのだ。

そんな中で教師たちはますます萎縮し、学校教育とは「何とか無事にやり過ごす」ものになり、教育機関はそのことだけを志向するよう、 ますます拍車がかかることだろう。

今、産科・小児科でも同じようなことが起きているけれど、教育は行政が義務として行なっているので辞めるわけにはいかないが、 こちらは純然たる公的な機関ではないので、個人で細々とやっていたような医師たちはそのリスクの高さに次々と辞めてしまって、 深刻な医師不足、産院不足に直面してしまっているのが現実だ。


個々がそれぞれの権利を無思慮に言い募り始めると、それぞれの利害があちこちで摩擦を引き起こし、 きわめてコストパフォーマンスの悪い社会が到来する。

訴訟社会。

「権利は手放され譲られてこそその真価を発揮する」という倫理観が、もう少し社会全体で共有されると按配がよろしくなるのだけれど。


教育においても、被教育者(保護者)側が、自分たちで自分たちの首を絞めるようなことをしているということに早く気づかなければ、 教育をめぐる環境はますます悪化する一方である。

もちろん法的にその在り方が問われなくてはならない教師が少数ながら存在することは確かであろうが、 そのわずかな存在の排除のために生態系全体に殺虫剤を撒き散らすようなことはいかがなものであろう。

「何とか無事にやり過ごす」ことばかり要請される教育現場で、はたして良い教育が行なわれるものかどうか、 もう一度私たち大人がみんなで顔をつき合わせて考え直してみなければならないのではなかろうか。


今、教育には「敬意」というものが欠けてしまっているような気がする。

私も気づけば、人に「先生」と呼ばれるような立ち位置に立ってしまって改めて気づかされるのだけれど、世間で「先生」 と呼ばれるような職業は「敬意を払われてナンボ」というヤクザなところがやっぱりあるのだ。

(もちろん勘違いしてイバりくさっている“左巻き”な人は論外であることは言うまでもない。)

だから私はあらゆる先生に対して「敬意」を払っているし、自分が先生として「敬意」を払われる際には、それを真摯に受け止めている。

それは私の「個人的な資質」とは関係ない。

あくまで「先生」という立ち位置が含む構造的な仕組みであって、その「敬意」 は必ずしも私の個人的な資質に対して払われているわけではない、ということはさすがの私も重々承知している。

…なんて、そんなことを書いたら、私の師事する先生方に対しても失礼であるな。

あくまで一般論でありますので、どうか平にご容赦を。


最近、私はよく「弟子入り」をいろんな人にオススメしている。

誰でもいいからコレという人を選んだら、その人を師匠と思って仕えなさい、と。

前に朝日カルチャーセンターの講座で、河野先生が私の講座に顔を出してくださったときに、受講生の皆さんに「弟子入りのススメ」 のお話をしたことがあって、「師匠というのは誰でもいいんです。てゆうか何でもいいんです。何でもいいからコレと決めて弟子入りするんです。 」と、今思えば師匠を前にしてずいぶん失礼な事をぶちまけたことがあった。

まぁさすがに「何でもいい」とは、我ながらずいぶんな言い草であるけれど、それを笑って受け止めるのがさすが河野先生である。

なぜ私が「何でもいい」などということを言うのかといえば、師弟関係において一番大切なことは、弟子の「師に対する敬意」 そのものの内に秘められているからである。

言ってみれば、「師」とは「弟子」が呼び出す「第三者」なのである。


懐かしのアニメ「いなかっぺ大将」の風大左衛門がニャンコ先生を師と仰ぎ、その素早い身のこなし(キャット空中三回転)を身につけ、 圧倒的な強さを誇るのも(美人には弱いけど)、風大左衛門が美人に弱いヘンなトラ猫に「敬意」を払ってその教えに耳を傾けたからである。

彼が師匠であるニャンコ先生の言葉を聴き取ることができ、またその素早い身のこなしに柔道の奥義を見出すことができたのも、「敬意」 の態度がその回路を開いていたからだ。


前にこのブログでも書いたことがあるけれど(コレとかコレとか)、 「敬意」とは「教え」を引き出すために、絶対必要な「学びの構え」である。

すべての物象に神や精霊が宿っているとするアニミズムのような世界観は、その真偽のほどはとりあえず置いておいても、 現実としてとてもすぐれた教育的効果を発揮している。

動物に、植物に、岩に、土地に、空に、火に、水に、ありとあらゆる事象に何がしかの霊的な存在を想定し、「敬意」を払い、 そこに何らかの意図を感じとることは、その者の前に「オープンクエスチョン」に満ちた世界を現出させる。

人はその世界の中でどこまでも問うことができ、無限の答えを導き出すことができる。


しゃべれぬ幼児に愛を教えられ、
野に咲く花に自立を教えられ、
路傍の石に人生を諭され、
高い青空に敬虔さを教えられる。

そんな経験は誰しもあるはず。

もちろん、幼児も花も、石も空も、べつに何も言いはしない。

人がそこにポカンと何がしかを聴き取るのだ。

それらに常日頃から「敬意」を払っている者ほど、それはよく訪れる。

そのときその人は、世界の「弟子」である。

「師」を持つ者は幸いだ。

「良い師」は、つねに余剰の空白を備えている。


ところで先ほど「師匠は何でもいい」とは言ったけれど、できればやっぱり「生身の人」であるのが最も良い、ということは付け足しておこう。

「三年かけて稽古をするより、三年かけて良い師を探せ」と、先達は言う。

そのことも踏まえた上で、「生身の人」を師匠に持つことをオススメする。

「歴史上の人物」でも悪くはないのだけれど、「生身の人」が最も良い。

なぜか?

分かる人には分かる。

posted by RYO at 21:12| Comment(14) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月16日

お洒落ドリンコ探検隊in猛暑

暑い。

とつぶやいてみたところで涼しくなるものでもないが、暑い。

昨日、東日本の43地点で観測史上最高気温を記録したかと思えば、今日は熊谷市、多治見市の両市で最高気温40.9度を記録し、 観測史上74年ぶりに国内最高気温を塗り替えたそうである。

まぁともかくこの暑さで、線路は歪むわ、お城の植栽は枯れるわ、芸能人の熱愛は次々スクープされるわで(?)、 世の中もなかなか大変なことになっている。

けれどもこういうのは「ヤダなぁ。暑いなぁ。汗かきたくないなぁ。」という萎縮した考え方が、よりいっそう暑さを増し、 だるさを感じさせるもの。

「夏は暑いもんだ。暑けりゃ汗はかくもんだ。」

そう覚悟を決めて、汗をかいた後の着替えなど準備万端にして出かけると、とたんに暑さもそう気にならなくなるから、 人間は不思議である。

命の発揮をもっとも妨げるのは萎縮した心だ。

心が萎縮したまま動かなければならないのは、からだにとってもっとも不幸なことである。

やる気のない人と一緒に何かをやらなければならないことほど草臥れるものはない。

どうせなら開き直って覚悟を決めるべし。


そういうわけで、暑い夏こそ熱々のラーメンでも食べてドバドバと汗をかこう。

久しぶりの「お洒落ドリンコ探検隊」 が、渋谷の自販機でこんなものを発見してまいりました。

バーン! 「ラーメン缶」。

秋葉原方面では「おでん缶」なるものが、驚異的な売り上げを見せているそうだけれど、それに続けと登場したのがこの「ラーメン缶」 だそうで、これまたなかなか好調な売れ行きらしい。

しかし、ラーメンの缶詰がはたして「お洒落ドリンコ」に分類されるのかどうかは微妙なところだが、 そういう細かいところを気にしていては探検隊は努まらない。

たとえ「人類未踏の地」に「人食い虎」を発見したって、「イヤ、それおかしいでしょ。」なんてツッコんだりはしないのが、 探検隊の大人のマナ−。

なので大人の皆さんにはそのへんの細かいところは軽くスルーしていただいて、ラーメン缶の話を続ける。


ラーメンが自販機で販売されているというのもなかなか面白いところだけれど、気になるのは「麺はのびないのか?」ということ。

調べてみると、麺には新開発の「こんにゃく麺」とやらを使用しているらしく、その心配は一切ご無用とのこと。

ほほう。

さっそく我が家へ持ち帰って、冷めてしまった缶詰をもう一度温めなおして、味見をしてみることにする。


麺は見た目、ホントにラーメンそのもの。

だが、大事なのは味。

さっそく一口食べてみる。

ズズズ…。

…う、こんにゃくだ…。

ま、まぁ、ラベルにきちんと「こんにゃく麺」と書かれているのだから当然なんだけれど、 いわゆる普通のラーメンをイメージしながら食べるとちょっとしたギャップに肩すかし。

スープも若干こんにゃく臭がして、全体的に「こんにゃく煮」感が否めないが、はじめからそういうものとして食べれば、 食べられないこともない。

イメージと味のギャップという点からしても、「お洒落ドリンコ」としての素質は十分備えている。

というわけで、晴れて「お洒落ドリンコ・トリッキー」に認定。


そして汗をかきかき、ラーメン缶を完食。

ラーメンを食べた後には冷たい飲み物が欲しくなるものであるが、そこはやっぱり「お洒落ドリンコ探検隊」。

「お洒落ドリンコ」で抑えておくべし。


バーン! 人間飲料。

懐かしきかな。妖怪人間ベム。

キャッチコピーが素晴らしい。


「人間ニナリタイ成分ヲ補給!」
「アミノ酸ガ足リナイ…」

「妖怪人間ベム」を観たことのない人には、サッパリ分からないジョークであるが、そのマニアックさがまた良い。

飲んでみるとこちらは意外に普通のジュース。

「お洒落ドリンコ・スタンダード」に認定。

ヘンなことばかり興味を惹かれ、人と違うことばかりしたがる天邪鬼な隊長(私)も、これで少しは人間に近づけるか?

「お洒落ドリンコ探検隊」は猛暑の中、今日も街をゆくのである。

posted by RYO at 20:37| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月08日

カオスな稽古

つい最近、量販店でビールを買おうとしたら、レジの人に「年齢を確認できるものはありますか?」と言われた。

最初何を言われているのかよく判らなくて、しばし呆然。

「あの…、年齢を確認できる証明書など…」と改めて言われてハッと我に返り、モソモソと免許証を出したけれども、「…そんなに若く見えますかね?」と思わず苦笑い。


二十歳の頃タイで四十過ぎに、インドでは子持ちのパパに間違えられた経験を持つ年齢不詳の私は、 およそ若く見られるなんてことはありえないと思っていたけれど、まさかこの歳にして未成年に疑われるとは、 あまりの虚を突いた攻撃に微動だにできず。

もしこれが暴漢の不意打ち攻撃だったならば、今ごろ私は路上に突っ伏していたであろうし、 キャッチセールスであれば暴値の教材セットの契約書にふらふらと印鑑を押してしまっていたかもしれない。

あるいは私が混乱しているうちに「あ、やっぱり結構です。失礼致しました。」と慇懃に頭を下げられすみやかに会計を済まされて、 その隙にお釣りを千円ばかりちょろまかされたとしても、もしかしたら全然気がつかなかったかもしれない。

まぁ今回の場合、べつに店員も私を混乱させようと思って発言したわけではあるまいが、人を幻惑するプロというものは、人を混乱させ、 そこから立ち直る隙を与える間もなく、正常な判断ができないうちに、すみやかにすべての仕事を終わらせてしまう。

催眠術などでもよく使われる手口であるが、何であれ新しいシステムへの移行期には多く混乱がともなうものであって、 それは逆を言えば混乱を起こすことによって新しいシステムへ移行しやすくなるということでもあって、それをうまく利用している手法だ。

いずれにせよ武術をたしなむ人間としては一生の不覚である。(って何度目だろう…)

むぅ…まだまだ修行不足だ。 さらりとかわしてゆけ。


そのような混乱に乗じた構造変化というものは、意識のレベルのみならず、物質のレベルでも、運動のレベルでも、 組織のレベルでもよく行なわれていることである。

十分に準備を整えた後、あえて混乱を引き起こし、そのわずかな混乱の間に古いシステムを破棄して新しいシステムを稼動し、 その新しいシステムによって構造全体に協調と安定をもたらしてしまえば、 混乱を回復した後には何事もなかったかのように組織が新しいシステムによって動き始める。

それはさながら銀行強盗のグループが、警報システムをわずか10秒ダウンさせている間に監視カメラの映像をすり替えてしまって、 一瞬不審に思った警備員も復帰したモニターを見て「異常なし」と思い込んでしまうような、そんなさまにも似ている。


私が最近考えている新しい稽古の構築において、課題の焦点の一つとしてそのことがある。

今までの動きとまったく違う動きを獲得するということは、 今までの運動を量的にボリュームアップさせても決して到達できる地点にはない。

新しい動きは、今までの動きの同一直線上にはないからである。

新しい動きを獲得しようとするのであれば、違う直線上への「跳躍」が必要になる。

そのためにはその「違う直線」、つまり「新しい運動システム」を構築しなければならないのだが、そのさいにもっとも障害となるのが 「今までの運動システム」である。

その跳躍を阻害する最大の要因が、「その古いシステムがけっこう有効であり、なおかつ今までそれでうまくやってきた」 という事実である。

これがなかなか厄介だ。

「からだに染み付いた癖をどう取ってゆくか」。

そのとっかかりとして、この「混乱に乗じる」手法はなかなか利用できるのではないかと、そう思っているのである。


『そのように、問題のあるパターンが必要以上に固定してしまっているときには、 それを解きほぐすようなダイナミカルな方策を講じる。それはたとえば、さまざまに「制御パラメータ」(歩行速度)を変化させることで、 「秩序パラメータ」(歩行パターン)が不安定になる領域を探していくことによって発見されるかもしれない。 ダイナミカルな観点から見れば、たとえば「歩く」から「走る」への転換期など、 ある運動からそれとは違う運動に変化する瞬間には一時的に「秩序パラメータ」が不安定になることがわかっている(これを「臨界ゆらぎ」 と呼ぶ)。不安定とはいえ、前述のように、新しい行為が「創発される」ための条件なのだ。したがって、もし歩行速度などの 「制御パラメータ」を変化させていったときに、歩行パターンなどの「秩序パラメータ」が不安定になる領域を見つけることができれば、 まさにそのときが、固着した運動から、それを新しい、より適切な運動に再構成していくためのチャンスなのかもしれない。』
(三嶋博之『エコロジカル・ マインド』NHKブックス、2000、p110)


この「歩く」から「走る」への運動の相転移のさいに生まれる「臨界ゆらぎ」、これこそ先に述べた「混乱期」に当たるわけだけれども、 これをうまく用いて固定化されてしまったある種の癖をいったん解きほぐし、そしてそこから新しい動きを再構築する。

一瞬のカオスは新しい秩序が誕生するためのターニングポイントだ。

リハビリテーションの現場において、そのことが確認されている例も実際にある。


『具体的な例を見てみよう。R・ヴァン・エメリックと、その共同研究者のR・ ワーヘナールは、一人のパーキンソン症候群の患者のケースを報告している。この人は、左手に、 パーキンソン症候群の震顫(しんせん)があることが確認されていた。意図とは関係なく、手が震えてしまうのである。この人に、 トレッドミルと呼ばれる、駅や空港などにある「動く歩道」のような装置の上で歩いてもらい、その速度を徐々に上げていった。すると、 驚くべきことだが速度が毎秒0.8メートルほどになったところで、手の震顫が消失したのである。歩行速度がゆっくりしていたときには、 腕をあまり振ることもできず、毎秒4〜6回くらいのパーキンソン症候群の震顫が認められていた。しかし、歩行速度が上がると、 腕の振動は歩行にともなう脚の周期と同期し、それによって、パーキンソン症候群の震顫が「乗っ取られる」ような状態になった。しかも、 一度「乗っ取られる」と、歩行速度をゆっくりとしたものに戻しても、パーキンソン症候群の震顫は現れることはなかったのである。』
(三嶋博之『エコロジカル・マインド』NHKブックス、2000、p107)


前にもこのブログで床の格子パターンによって歩行困難を克服するアプローチについて触れたことがあったけれど、 「手の震え」を、その部位を含めたより大きなシステムである「歩行」という運動の中に投げ入れ、その大きなシステムのレベルでの「相」 を変化させることで、ホメオスタシス効果によって丸ごと全体の中で調整していってしまう。

そのような包括的な視点に立ったアプローチは、私にはとても馴染みやすい。

失調をきたした「部分」が、より大きな「全体」の中に組み込まれ、その「全体」がゆらぎながら新しい秩序に移行しようとする中で、 「部分」も再び「全体性」を回復してゆく。

それこそまさに癒しがおこなわれる過程であり、整体的なアプローチの根幹をなすものでもある。


そしてそれは新しい運動の獲得(運動システムの構築)においても、かなり有効なアプローチであるように思える。

そのために必要なのは、ある程度の長い混乱(カオス)に耐えうる「知的肺活量」の向上と、カオスの中で創発する所作を邪魔せぬよう、 からだを空けておく「ゆだね」の構えの構築である。

それが実現できれば、あとは一人で放っておいても動きをどんどん洗練させてゆくことは可能だ。

現実としてそれらを実現するために、どのような稽古を創っていけばよいのか、それはこれからの課題であるけれど、複雑系としての人間、 そしてその表れとしての行為、それらの仕合わせな落とし所を探りたいと思う。

posted by RYO at 10:40| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする