2007年07月31日

日本一美しいキャンパスへ

日曜日、神戸女学院のオープンキャンパスに参加してきた。

まさか自分が女子大のオープンキャンパスに訪れることになろうとは夢にも思わなかったけれど、今回オープンキャンパスに参加したのは、 別に入学しようとかそういうわけではなく、内田樹、甲野善紀、 島崎徹という豪華パネリスト陣による特別トークセッションに参加するためである。

それに、内田先生が「日本一美しい」という神戸女学院のキャンパスを、ぜひとも一度は見てみたかったという思いもあった。


朝、新幹線に飛び乗って新大阪へ向かい、そこから阪急に乗り換え西宮へ。

門戸厄神で下車して夏の日差しが照りつける中、住宅街をテクテク歩いて最後の角を曲がると、不意に、 植え込みに招かれるようにして森の奥へと続く、なだらかなスロープが目に飛び込む。

おお、ここか。

入口には本日のメインイベントがでかでかと書かれている。

「身体性の教育」。

う〜む。

ミッション系の女子大において「身体」をテーマに、 それも武術と舞踊を中心に新しい試みがなされるというのはなんとも不思議な時代である。

まぁ私もシュタイナー学校で武術を教えていることを考えると、ヘンな立ち位置にいるのだけれど。


開場まで小1時間ばかりあったので、さっそくキャンパス探検にとウロウロしていると、キャンパス案内スタッフの女子大生が、 すれ違うたびみんな愛想良く「こんにちは〜。」と挨拶してくるので、毎回「あ、こ、こんにちは。」とためらいつつ返事を返す。

なんだかとてもファミリアな雰囲気にカレッジの本質を感じる。

なるほど。日本一美しいキャンパスは学生たちのファミリアな雰囲気に支えられていたか。


昔インドのミッションスクールにしばらく滞在したときも思ったけれど、ミッション系の学校というのは、ホントに「場」が良い。

うっそうと生い茂る森に囲まれた小高い丘に立ち並ぶ学舎。

こういう場所を見ていると、やっぱり教育というものは原理的に「寄付」という形で支えられているのが、 もっとも理想的なのではないかと改めて思う。

教育という、そもそも「贈与の原理」を基にして成り立っているものに、経済合理性というものが混じってくると、 なにか歪みが出てきてしまうのではないか。

親と地域の大人たちが、子どもたちのために教師と学びの場を用意し、それを支え、教師はその想いに全力で応える。

原初、学びの場とはそういうものではなかったか。

親は教育においてサービス(贈与)を受ける側であるのではなく、 あくまで与える側にあるという意識をもつことはとても大切なことであろう。

「贈与の流れ」の中に自らの身を置くということ。

「教育」と「学び」が、最高のパフォーマンスを発揮しつつ果たされてゆくためには、どのような「場」を作っていけばいいのか、「流れ」 の上流にいる私たち大人が考えるべき仕事である。

教育の場において、私たちは子どもに「何を一番伝えたいのか」、そして現実として子どもには「何が一番伝わっているか」、 じっくり考えてみる必要があるかもしれない。

「子どもに学校で一番学んでほしいことは何ですか?」
「あなた自身が学校で一番学んだことは何ですか?」

みんなに質問しまくったら、はたしてどんな答えが集まるだろう。


オープンキャンパスの話であった。

満面の笑顔で挨拶をしてくる芦屋のお嬢さん方に「あ、どうも」 とペコペコしつつ、カメラを片手に女子大をウロウロする怪しい人となって、あちこちパシャパシャと写真を撮る。



美しい立地に美しい建築群。

さすが内田先生が「日本一美しい」と豪語するだけのことはある。

大学淘汰の波が吹き荒れる中、こういう希少種が根こそぎ絶滅させられてしまうようなことだけは、ぜひとも避けて欲しいものである。

世界に多様性を。


セミの鳴きしきるキャンパスをうろうろしていると、あっという間に開場の時間になってしまったので講堂へ。

大きなパイプオルガンが据えてある立派な講堂は、なんとも人を厳粛な気持ちにさせる。

チャペル独特の長椅子にぎゅぎゅっと詰めて腰掛け、しばらく待っているとお三方が登場し、ようやくトークセッション開始。

結果から言えば、わざわざ東京から出てきた甲斐のある、とても興味深く、また笑いの絶えない素晴らしいセッションであった。

寡黙な甲野先生と、饒舌な島崎先生に、その二人を何とかうまくケミストリーさせようという内田先生の掛け合いも面白かったが、 話される内容そのものにも、いろいろインスパイアされること多々。

昨日の今日のことで(っておとといか)、まだまだとても言葉にはできないが、私が最近ずっと考えていた稽古論、 教育論について何かさらなる気づきが生まれそうな予感。

ちなみにこのトークセッション、次回は11月17日に行なわれることがすでに決定しているそうで、 しかも今回のお三方にさらなるゲストを加えて行なわれるそうなので、これまた見逃せないものになりそうである。

posted by RYO at 21:27| Comment(5) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月24日

「愛と邪悪の人」@脳内メーカー

遅ればせながら「脳内メーカー」なるものをやってみた。
(上記サイトはアクセスが集中してつながりづらいことアリ。)

ちょっと前にそんなのが流行っているというニュースをYahoo!ニュースか何かで見て、 今度やってみようと思いながらそのままにしていたら、友人のMさんから、「アンタの頭は愛とHでいっぱいなのよ〜。ホホホ。」 (やや誇張あり)と、わざわざご丁寧に画像まで添付したメールが届いたので、ムムッとしつつ、またしばらく遠のいていたのだけれど(笑)、 ようやくまたやってみる気になったのである。

…と思っていたら、ukikiさんのブログでちょうど同じネタを取り上げていたのでシンクロニシティにびっくり。


それで今回、あらためて自分の名前を入れてみたら、当たり前だけどやっぱり私の脳は「愛」と「H」でいっぱいであった。


う〜む。

うすうすそうじゃないかとは思っていたが、やっぱりそうなのか。Amoretto!

でも「愛」は前面に出して、「H」は後ろに隠されているのがミソだな。ふふふ。

今度から横顔に注意しよう。

じゃあ私のハンドルネームである「RYO」ではどうなのかと調べてみたら、こんな感じ。


う〜む。映画の冒頭でヒロインに絡んで主役にあっさりやられるいきがった小者って感じの脳だな。微妙だ。


でも他にもいろいろ愉しんでいたら、どうもこの脳内メーカー、「正面バージョン」があるらしく、さっそくそちらでも試してみた。

とりあえず本名を入れてみると…


おお!愛の花咲く脳畑。 Amore!

素敵じゃないか。でも真ん中が空っぽなのが気になるぜ。

しかし、この様子だとハンドルネームも期待ができそうだ。

はてさて。いかがであろうか。


うお!これまたなんと! 陽極まりて陰となったか。

まさにダークサイドに堕ちたダースベイダー。

一分の隙も見せぬほどに満ち溢れる邪悪さ。

これぞ「邪悪」を名乗るにふさわしい。

「THE邪悪オブ邪悪」。

えー、このブログでも何度も申し上げておりますが、ワタクシ邪悪な人間でございますので、ゆめゆめ信頼などせぬよう。 あらためてかしこみかしこみ申す。


ちなみに私の名前を全部「ひらいて」(平仮名にして)調べてみたら、こんな結果が。


これまたなんと正反対に愛溢れるドタマであることか。

名前がひらかれると、心もひらかれるのか。

おお! 渺茫たる「愛」と「邪悪」の人よ! Amorevolmente!

posted by RYO at 23:32| Comment(11) | TrackBack(5) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月18日

「Word2.0」若しくは「なるほどの臨界状態」

気がつけば、私はいろんなところで、いろんな人たちを相手に講座をおこなっている。

受講生は、下は二歳児三歳児から、小学生、中学生、高校生と続き(プライベートでは大学生も)、 大人はママさんをはじめ三十代、四十代の社会人、それに精神病を抱えたいろんな年代の人たちに、七十八十を数えるご年配の方々と、 そのバリエーションたるや我ながら呆れるくらい幅広い。

なんだってこんなに幅広い年代の人たちを相手に講座をやることになったんだろう?

私にもよく分からない。

よく分からないがありがたいことである。

なぜならほとんどすべての講座は、あちらがわから「講座をやってください」とお願いされて、「ハイ。分かりました」 と答えただけなのである。

考えようによっては「それだけ多くの人に望まれている」と考えられなくもない。

ホントにその期待に応えられているのかどうかよく分からないが、ありがたいことである。


ママさんたちの講座もけっこう活況ではあるのだけれど、最近はなぜか、酸いも甘いも噛み分けた、 人生の先達であるご年配の方々の受けが非常に良いように感じられる。

私のワケの分からない話がご年配の方々にはどうも「響く」らしい。

何故でありましょう?

私にもよく分からない。

よく分からないが思い当たる節はある。

だって、私のような経験浅い若造の話が、私の人生の二倍以上の長い年月を経てきたご年配の方々の心に響くというのである。

だったら考えられる理由はひとつしかない。

みなさんが私の言葉に「自分自身の経験」を見出しているのである。

それしか考えられない。


私はしゃべるときにいつも気をつけていることがあって、それは言葉に「余白」をもたせるというか「遊び」をもたせるというか、 カチッとした定義付けをしないようにしているということである。

私の言葉に、私は意味付けをしない。

なるべく「ゆらぎ」のある言葉を選んだ上で、さらに手放してしまうので、そこに意味を見出そうとするならば、 聞き手が自分なりの解釈をするしかない。

私の発した言葉であっても、私自身が思いもしていない解釈は成り立ちうる。

そうすると私の言葉には聞き手の数だけ意味が浮かび上がることになる。

だから私のような若造の話にも、きっとご年配の方たちは、 私のわずかな経験以上のさまざまなことを見出していらっしゃるに違いないのである。

(でなければ「子育ての苦労」も「結婚の苦労」も経験していない私の話が響くわけがない)

まことに勝手な想いであるが、言葉もその方が仕合わせであろうと思う。

私は人間は三つくらい顔を持っているほうが良いと思っているのだが、言葉だっていろんな意味や解釈があったってよかろう。

「意味」と「意味」のすきまにしか棲息できないカヨワキモノたちだっている。

私一人の経験に矮小化されるよりも、多くの人の経験に触れられることで微妙にニュアンスを変えながら、 言葉自身が自らの意味をつねに新しく創り上げてゆく。

言葉のオープンソースだ。

「Word2.0」。


言葉をそんなオープンエンドな状態にしておけば、当然のことながら開放系の特徴を示すのであって、私の言葉に「なるほど」 と触発された聞き手の話を聞いて、私自身が再び「なるほど」と触発される、なんていうポジティブフィードバックがかかって、 「なるほどの臨界状態」が生じることもある。

お互いの、あるいはその場にいる全員の「経験知」「暗黙知」を含み合わせた膨大なネットワークが活性化しながら、「なるほど」 がさらなる高みへと上昇し、「ヒラメキ」が創発する。

そんな場に居合わせることができたならば、ホントに仕合わせだ。

そのためには、その場にいる全員の共有言語が「弱い言葉」 であることが大切であろう。

「強い言葉」ではなんというか、「アク」がきつくて「摩擦/抵抗」が大きい。

「強いモノ」は独立しようとし、「弱いモノ」は連帯しようとするもの。

つながりあい、連携し、一体化しようというときは、「強さ」がネックになることもある。

「フラジャイル(壊れやすさ)」なものを中心とした共有場。

そんな場を立ち上げたい。


…でもそうすると一番邪魔なのは、いろんな意味で「私」ということになる。

う〜む。まだまだ先の話であろうけれども、いつか必ず捨てます。

イヤ、「引き取ります」。

posted by RYO at 21:24| Comment(6) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月10日

へりくつ問答その参

「RYOさん、どうもお久しぶりです。このまえが11月だから8ヶ月ぶりですね。 」
「もうそんなに経っちゃったんですね。早いなぁ。」
「クーヨン読みましたよ。」
「あ、いやいや、これはどうもありがとうございます。」
「笑顔が固いです。」
「………。 …いや、まぁ、その…、ね。 苦手なんですよ写真とか。野口先生も嫌いだったみたいだし。」
「べつに野口先生は関係ないじゃないですか。」
「…まぁ、ね。」 
「でも、どんどん世に出て行って素晴らしいですね。センセ。」
「ね、ねぇ。 ありがたいことですよ。ブログで好きなこと書き散らしているとはいえ、やっぱり紙媒介で世に出るのとはまた違いますからね。 とくに私がもっと注目されるべきだとつねづね思っている子育て中のママさん層に向けて、少しでもエールを送れたらと思っていましたから、 その思いを汲み取ってくれたことには感謝ですね。」
「あら、殊勝なこと言いますね。」
「いつだって言ってますよ。」
「そうでしたっけ?」
「そうですよ?」
「ふ〜ん…。」

「だって、脈々と続く人類の命の流れのカナメですよ? カナメ。 GDPだとか何だとかいう以前のこととして、 もう少し重点を置いて然るべきだと思いますけどね。もちろん排他的にならないようにね。」
「排他的?」
「え? だからそのことが『女はみんな子どもを産め』みたいな圧力にならないようにってことです。」
「ああ、そういうことですか。それは大事ですね。たしかに。私もいませんし。産まないっていう選択肢だって認められるべきだと思いますよ。 やっぱり。だからそういうのって一番イヤですよね。そういえば女性を機械発言している大臣がいましたね。どこかの国に。 なかには産みたくたって産めない人だっているってことも分かってないんじゃないんですか? 想像力が足りませんよ!ホントに。  何考えてんですかね?! よくそれで……」
「ま…まぁまぁ。落ち着いて落ち着いて。だからすごく難しいんですけどね、やっぱり丁寧に慎重に、 でも確固とした意思を持ってやっていかなくちゃいけないと思うんです。」
「まぁそうですね。(ハァハァ…)」
「機械発言は論外として、反論をしづらいようないわゆる正論って一番謙虚さを忘れちゃダメだと思うんです。 正論は予想以上に人を傷つけますよ。」
「そうかもしれませんね。」

「だから、私だってこう見えてもしゃべるときはけっこう気をつけてるんですよ?」
「思いつくままにベラベラしゃべっているようにしか見えないですけどねぇ。」
「思いつくままにベラベラしゃべっている中にそういう配慮があるというのが、ワザなんじゃないですか。」
「あら、左様でございますか。失礼。」
「いつも出産とか、育児とか、性とか、からだとか、一番PC的にホットスポットなところを中心にベラベラとしゃべってるんだから、 そりゃものすごく気をつけてますよ。」
「何ですか? ピーシーって? パソコン?…じゃないですよね。」
「え? え〜っと…、もうめんどくさいから自分でWikipediaで調べてください。」
「不っ親切ですね〜!」

「ところで、話はまた全然変わるんですけど、『言っていることはいちいちごもっともなんだけど、 聞いているうちになんだかだんだん疲れてきちゃう』人っているでしょう?」
「ああ、いますねぇ。」
「それよりはね、『何を言っているんだかよく分からないけれども、聞いているうちになんだか元気になってきちゃう』 っていう方がいいんじゃないかと、私は思うんです。」
「ふ〜ん。 …それって、いつもわけの分からないことばかり言っている言い訳ですか?」
「な…何を失礼な。そういうことじゃないですよ。『聞いていて元気になる』っていうのが大事なんじゃないかって言いたいんですよ。」
「でもだからって『わけの分からない話をしていていい』っていうことにはなりませんよね?」
「う…キミだんだんツッコミが厳しくなってきたね。 ふん。そうですよ。 あなたの言ってることが正論ですよ!」
「いじけないでくださいよ。」

「だからね、『なんだか疲れてきちゃう』っていう感覚を、もっと大切にしてもいいんじゃないかって言いたいんですよ。  何かあるんですよ。きっと。そこには。」
「何かある?」
「『なんだか疲れてきちゃう話』っていうのは多分、その論理的な瑕疵とは関係なくね、そのしゃべる人の語り口、 もっと言ってしまえばその人の潜在的な欲望のレベルが関係してくるんだと思うんですよ。 まぁ『ハラスメント』 っていう概念にも近いのかもしれませんけど。」
「『ハラスメント』ってこのまえ書いてましたね。 」
「そう。そのことです。 …そういえば、あのエントリーはけっこう響く人が多かったみたいで、いろんな方からお言葉を頂戴しましたね。 関係ないですけど。」
「へ〜、そうなんですか?」
「やっぱり多いんでしょうね。そういうハラスメント的なことって。」
「そうなんですねぇ。」

「で、その、何て言うんでしょう? しゃべっている本人すら気づかない欲望が漏れ出しているっていうんでしょうか。 そういう言葉って言葉の節々にごくわずかずつ欲望が混じっているから、そういうのってアタマでは捉えきれなくて、 なんだかよく分からない息苦しさとか圧迫感とか疲弊感とか、そういう身体的な症状として兆候化されるんですよね。 からだってそういう微細なノンバーバル(非言語)メッセージをはっきり受け止めますから。」
「あ〜、あるかもしれないですね。そういうのって。」
「だから、そのしゃべる人が、それを伝えることでどうしたいのか、どうして欲しいのか、そこのところのイメージの問題が、 すごく大事なんだと思うんですよ。」
「どうして欲しいのか?」
「うん。だから話を聞いてもらってね、その人が自分の博覧強記ぶりに感心してもらいたいのか、自分の意見に同調してもらいたいのか、 理解してもらいたいのか、あるいはその人に何か気づいて欲しいのか、元気になって欲しいのか、一緒に嘆いて欲しいのか、 そこは大事なところですよね。漠然とでも『どんな空想を思い描いているか』ということです。」
「しゃべる人が思い描いている空想ってことですか?」
「そう。でもそれが必ずしも自覚的とは限らないんですよね。それが厄介なんですけど。欲望ってのは自覚がないことが多いですからね。 でも、 そういう空想、イメージって『語る内容そのもの』よりも、ホントにより色濃く、 それこそ雰囲気とかそういう言語化されないカタチではっきりと伝わるんですよ。」
「しゃべっていても、『コイツはいやらしいこと考えてるな』っていう男は、見てて分かりますもんね。」
「恐いなそれは。 でもそういうことですよね(…気をつけよう)。」
「RYOさんも気をつけてくださいね。」
「(う…)は〜い、ご忠告どうも。」

「ちなみに私はね、いつもその人が日常生活の中で愉しそうにしているのをイメージしているんです。すべては『そのための話』 でしかない。だから私は、私の話を聞いて、いや聞いてなくてもいいから、その人とその周りの人たちが元気で愉快に暮らしていれば、 別に何も言うことはないんですよ。だからそうなったら黙っちゃう。ニコニコして眺めてるだけ。」
「さすがチベット僧。」
「チベット僧じゃないっつーの。」
「旧日本兵でしたっけ?」
「…あのね。たしかにどっちも言われたことあるけどね。失礼ですよ。ホントに。せっかくいいこと言ったのに。」
「『私の話なんか聞いても何にも役に立たない』ってことですか?」
「そこまで言ってないでしょ!」

posted by RYO at 21:32| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月02日

たとえパンツ一丁になったとしても

下北沢でカフェをオープンしたTさんのオープン記念に、「miniからだ講座」と題して小さな講座を一席ぶつ。

今回の講座は、基本的に小さいお子さんを連れたママさんたち相手の講座で、自然育児友の会の会報を見たとか、 ミクシィの案内を見たとかいう方たちが次々と集まってくれて、小さな(失礼)店内はベビーカーと子どもとママさんたちで、 たちまちギュギュッといっぱいになってしまった。

聞けば幾人かは断らざるを得なかったとのこと。

(お断りしてしまった方々には申し訳ありません。またの機会にはぜひ)

カフェのソファや椅子を円座に並べて、真ん中には子どもたちがみんなの注目を浴びながら遊べるように場をしつらえて講座を開始。

始まる前に作務衣に着替えようとしたら腰紐がブツリとちぎれて、「ええ〜?!」と一瞬ひるんだりもしたが、 講座中に作務衣の下だけずるりと脱げ落ちるような惨事には至らず、無事に終えることができてホッとする。
(ちなみに腰紐は今この記事を書く前にチクチクと縫い付けた。)


お話は季節のことを中心としたからだの手当てについて。

お互いのからだを触れながらワイワイとしゃべっていたら30分なんて時間はたちまち過ぎ去ってしまって講座は早々と終了。

みんなでテーブルを並べて、Tさんが用意してくださったお茶やパンやいろいろな料理を一緒にいただく。

美味し。

食事も終わってお茶を飲みながらみなさんとお話していたら、Tさんが「RYO先生は長々としたブログを書いているんですけど…」 という辛辣な言葉を枕詞にはるか昔のエントリーである「根拠なき自信」 について話を振ってくれた(スイマセンね長々で)。

おお、そういえばそんな事を書いておりましたね。


そう。そうなのである。

いつもみなさん、はるばる遠くからわざわざ私の話などを聞きにいらっしゃっているものだから、 つい楽しんでお帰りいただくためにリップサービスで、「まぁ怖いわねぇ」といったことや「へぇ〜スゴ〜イ」 といったトリビアルなことをおしゃべりしてしまいがちなのだけれども、ホントはそんなことは全部どうでもよくって、 ぜひ自分の子どもの生命力を自信を持って信頼してほしいというのが、私の言いたいすべてなのである。

ハッキリ言うがそれ以外には無い。

でも、ホントにそれだけしかしゃべらずに「今日のお話は以上です。」なんて講座を終えてしまった日には、ママさんたちに「あんたたち、 あのオジサン殴っていいわよ。」と、わんぱく盛りのちびっこ精鋭部隊をけしかけられて、 コテンパンにやられるのは火を見るより明らかであるので、そんなことはとてもできないだけである。

だからつい、いろいろとしゃべってしまうのだけれど、私はママさんたちに自分自身や自分の子どもの「いのち」 に対する確固たる信頼感さえ持っていただければ、ホントはそれで良いのである。


前にこのブログでも書いたけれども、 子どもを取り巻く環境が及ぼす影響については、語れば語るほど、 環境に拠らずにたくましく育ってゆく子ども自身が見えなくなってゆくというジレンマがある。

子育てにおいてその環境がとても大切なことであることは確かなのだけれど、そこに重きを置きすぎては、 今度は子ども自身の環境をはね退ける生命力を信じきることができなくなってしまう。

それはどうしたって相容れないものであって、理屈で解消のしようがない逃れがたいアポリア(難問)として存在する。

だから私はいつも、「子どもを取り巻く環境はとても大事なんです」と言いながら、その5分後には 「子どもは勝手に育つから親はそれを邪魔さえしなきゃいいんです」と矛盾した事を言って、 講座に出る人たちを煙に巻いてしまうことになったりしてしまうのだ。

別に私はなにも嫌がらせをしたくてそんなことをしているわけではなくて、 本当のことをしゃべろうとすると矛盾せざるをえなくなってくるのであって、そこのところだけはご理解願いたい。

もうどうやって伝えればいいのか、私自身、身悶えして仕方がないのである。


でも、それでもやっぱり、私の本当に言いたいことは何なのかと問われれば、「もうちょっと世界を(からだを、子どもを、 自分を)信じてもいいんじゃないか」ということに他ならない。

「世界をもうちょっと信じてもいいんじゃないか」ということを真面目に語ると、「ただのモノ知らずの甘ったれ」と、 無知蒙昧扱いされてしまう世の中であるけれども、私だってたかが知れているとはいえ、世界に裏切られるような経験は無いわけではない。

その証拠にこれから講座ってときに作務衣の腰紐が切れたばかりである。(小っちゃ!)

でも。

にもかかわらず。

それでも「もうちょっと信じてもいいんじゃないか」と言うためには、その結果がどうなろうと、そのすべてを自らが引き受ける「覚悟」 がなければいけない。
(例えばズボンがずり落ちてパンツ一丁になっても動じることなく講座を続けたり)

整体や武道で「肚を作る」ということをきわめて重視するのも、結局その「自らが引き受ける覚悟」を身につけてゆくためには、 その拠り所としての他ならぬ「我が身」を練り上げてゆくことでしか成し得ないからなのである。


「根拠なき自信」は、その結果を引き受ける「覚悟」の上に成り立っていて、「覚悟」とはアタマではなく、「肚」で決めるものなのである。

そしてその「肚」は、自分が手放した「権利」の数だけ育つのだ。

私の持論である「権利は捨てられてこそその本性を表す」という暴論は、 「権利を言い募ってばかりいると肚はぺしゃぺしゃになる」という経験則に基づいている。

「権利」は手放され、他人に譲られたときに、その本性が光り輝くもの。

あらゆる「権利」を手放し(ときに自らの「生存権」さえ)、それを他人に譲り、「覚悟」のできた人間が、 芯のところから世界を信頼しているかのように見えるのが、ただの私の勘違いであるようにはとても思えない。

イエスであれ、ブッダであれ、マホメットであれ、マザーテレサであれ、ガンジーであれ、 あるいはありとあらゆる歴史上の偉大な人物たちは、きっとどこかで「覚悟」を決めたのだ。

「たとえパンツ一丁になっても私はやるべきことをやる」と。

「覚悟」を決めた人間は強い。そしてどこか人の心を打つものがある。

何かが起きたときにその責任を他人に求めようとする者は、やはりどこかで弱いのだ。

その弱さも分かる。

けれども、そのことに気づくだけでも人は変わってゆける。

「覚悟を決める」ということ。

その「覚悟」を決めた人間から発せられる絶対的な「信頼感」は、その下で育つ子どもの心身の成長に、 絶大な贈り物を贈ることになるだろう。

posted by RYO at 22:51| Comment(16) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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