2007年06月30日

2007年上半期 記事一覧

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2007年06月28日

ピタゴラアルマジロ

突然だが、私はからくりモノがとても大好きである。

だから、今人気の「ピタゴラスイッチ(⇒YouTube)」なんてものすごく 「ツボ」である。

お店などでも、あの軽快なBGMが流れてくると思わずそちらに目が行って、デモ画面をしばしぼーっと見つめてしまうのだけれど、 そんな私のことだから当然のごとくDVDは2巻とも購入して持っている。

持っていても思わず見入ってしまうのである。

家でビールを飲みながら、小物たちが転がったり飛んだり跳ねたりしながら連鎖してゆくさまを見ていると、その予想外の動きに 「おおっと!」とか「なんと!」とか、思わず声を出してしまうのだけれど、なんだって人間はこんなにも、 連鎖するモノに心を奪われてしまうのか。(え?オレだけ?)


そんな「連鎖フェチ」である私なのだが、つい最近、思わず身を乗り出してしまう面白いデモゲームをネットで発見。

その名も「Armadillo Run(アルマジロラン)」。

(デモ版(1MB)ダウンロード可能)


タイトル画面を見ても「ピタゴラ感」が伝わると思う。

ルールは単純で、丸まったアルマジロを青い領域まで誘導するのが目的。

プレイヤーは、初期配置の固定軸を中心に、鉄パイプやロープや布などといった素材を組み合わせて、アルマジロの道を作ってゆく。

配置が済んだら“Run”させて、あとはアルマジロがコロコロと動いてゆくのを観てるだけ。

アルマジロも含めたすべての素材は、コンピュータの物理演算で計算された動きを忠実に再現するだけである。

ただそれだけなのに面白い。

素材はシンプルだが、組み合わせ方によって滑車やブランコやシーソーやエレベーターやジャンプ台など、いろいろな物が作れる。

素材の性質や強度などを考えながらギミックを凝らしてゆく。

ああ〜、もうそういうの大好き!

それぞれの素材は強度が設定されていて、限界以上に負荷がかかると崩壊するようにできていて、 テキトーに鉄橋を作ってみてもあっさり崩壊してしまって、けっこうヤワである。

だから充分な強度を持った構造体を作らなければならないのだが、クリアするためには予算の制限があって、 限られた予算で間に合わせなければならない。

結構しっかり作らないと構造が保てないのに、資材の使用には制限がある。

そこらへんのシビアさがまたたまらない。


…で。

当然、ただクリアするだけなんてつまらない。

いかにエレガントなギミックを構築するか、「職人魂」の火が点くのである。

とりあえず予算なんて「Out of 眼中」で、いろいろ作ってゆくべし。


たとえば「ロープウェイ」。

ずるずると滑りながら全体がギーッと傾いてゴールへ。


ロープにテンション(緊張)をかけて、発射装置を作って「フリースロー」。
(ロープが赤いのはテンションがかかっている証拠)


そのバリエーションで「ダンクシュート」。
飛んできたアルマジロを落ちてきた鉄板がバシッとゴールへ。


逆に、凝った挙句の大惨事なんてのも、見ていてむしろ爽快だったりして。

グゥワラグゥワラグゥワラ! ガッシャーン! うひょー!


そんでもって最後にセレンデピティで出来上がった、「ティーショット(ちょんぼVer)」。


上から振り下ろされたドライバーがバシッとアルマジロを打ち出す。バシッ! 届くか?


あ、微妙だ。落ちる。


え〜い、押し込んだれ! グリグリ。


ほ〜ら、入った(笑)。


なんて感じで、予想外の動きに意表を突かれることも多々あって、非常に面白い。

デモバージョンは無料でダウンロードできるので、興味のある方はぜひぜひお試しあれ。

ハマルこと必至。

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2007年06月24日

合言葉は「キミこそヒーロー」

このあいだ取材を受けたクレヨンハウスの編集者Hさんと、 その後何度も電話やファックスのやりとりをして、何とか無事に記事としてまとめることができた。

これもひとえに、私のまとまりのない話をなんとか文章に起こしてくれた上に、「この文章を入れ替えてほしい」だの、 「言い回しを変えよう」だの、「イラストを差し替えてくれ」だの、仕上げてくれたゲラにつべこべ注文をつける私に、「分かりました」 とサササと機敏な対応を見せてくれたHさんの編集力のたまものである。

どうもありがとうございます。

(注文が多くてスイマセン。)


こういう「雑誌の記事」というのは、取材を受ける側の私が「伝えたい」と思うことがあり、取材をする側の編集者が「こういう記事にしたい」 と思うことがあり、その切磋琢磨で一つの記事が出来上がってゆくわけだけれど、実際にはそこにはさらに、 読者層(ママさんたち)に馴染みやすい表現だろうかとか、PC(ポリティカルコレクトネス)的問題発言はないかとか(これは微妙だなぁ…)、 他の関係者方に迷惑をかけるような表現をしていないかとか、さまざまな配慮や思惑が絡んでいる。

してみるとかような「記事」というのは、たしかに私が取材を受けたにもかかわらず、実際には多くの人間の思惑が複雑に絡み合った 「言葉の複合体」のようにも思えてくる。

はたしてそれらの「言葉の主」はいったい誰なんだろう?
(「透明な幽霊の複合体?」@宮沢賢治)

けれども公の場で発言するとはそういうことだ。

そして、それらの発言に対して、「ワタシ」がはっきりとその言葉の身元引受人として名乗りを挙げるということ。

「たしかにこれらは私の言葉です。」

「言葉を発する」とは、「肚を決める」ことでもある。

そのとき言葉に言霊がこもる。


振り返ってみれば小さい頃から私は、「言葉」というものについてよく考えていた。

自分の言いたいことを的確に相手に伝えるためには、言葉というものをどう扱えばいいのか。

自分の思いを精確に表現できる言葉が見つからずに、自分の語彙の貧困さに嘆いたことはしょっちゅうだったし(それは今もか)、 あんまり精確な表現を心がけるあまりに、ほとんどしゃべれなくなってしまったこともあった。


そして今、私は人を指導する立場になって、「言わなくちゃいけないこと」や、逆に「言わないほうがいいこと」というのが劇的に増えた。

当然と言えば当然なのだけれど、自分の言葉の影響力というものを改めて考えさせられる。

気づけば自分が人を指導する立場に立っていて、その立ち位置から発言することが、私の言葉に予想もしない「力」を与えるということ。

それは、はっきり実感として学んだ。

指導者である私がうかつな事を口走れば、それが「呪(しゅ)」 となって相手をしばりつけることになりかねない。

たとえそんなつもりではなかったとしても。


お釈迦様が「人を見て法を説く」と言われたように、たとえ伝えたい想いは一つであっても、 伝える言葉は相手によって一人一人変えていかなければならない。

言葉というのは「私」と「相手」をつなぐインターフェイスであって、そこで選ばれる言葉は「私」と「相手」 の関係性によって決められるもの。

だから私の口から出てくる「私の言葉」だって、本当は「私が選んでいる」とはとても言えない。

「聴き手」が私に選ばせている。

私がどんな言葉でしゃべればいいのかは「聴き手」に訊くしかない、という奇妙な事実。

私が一心不乱にしゃべっているとき、私は「聴き手」に訊いているのだ。

「私の口から出てくる言葉たちは、あなたに届いていますか?」
「あなたが必要とする言葉ですか?」

おずおずと差し出される、全力投球の言葉たち。

「私」と「あなた」の間で、やりとりされるモノ。

あなたの傾聴に導かれるようにして、私の口から発せられる言葉たち。

少なくともそれらの「言葉」にとっては、「あなた」こそ主体。


…とまあ、相変わらず話はふらふらとバガボンド。

ともあれそんなこんなで(?)今回の記事は、編集者のHさんと私とその他大勢の幽霊たち(笑)の切磋琢磨の合作として、 素晴らしい仕上がりになりましたので、7月3日発売の「月刊クーヨン8月号」、書店で見かけた方はよろしければ御笑覧。

おもに「整体的な子どもの手当て」について書かれておりますが、「大人の手当て」としても使えます。

誰だってへこんでいる時は心は子どもに帰っておりますから、することは一緒なのであります。

困ったときにすぐさま駆けつけ、手当てをしてくれるヒーロー。

そう。 ヒーローはいつだってキミを助けてくれる!

強くて優しくて最高のヒーローだ。

でもね。ヒーローは言うよ。

「キミの助けが必要なんだ!」

本当は、キミこそヒーロー。

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2007年06月16日

古民家にて

木曜日。

大学時代からの友人Yさんが二人目のお子さんを無事出産したというので、そのお祝い(&産後のからだケア)に、 群馬県は上野村のお宅へと向かう。

最近、近くの古民家を直して引っ越したというので、古民家好きの私はとても楽しみである。

朝いつもより早く家を出て、池袋の駅前から高速バスに乗って下仁田へ。

下仁田のバス停でYさんのダンナであるKさんに軽トラでピックアップしてもらって、野を超え山超え谷超えて、 山深く入ったところにあるお宅へ。

「敷地内に滝がある」(!)とは聞いていたけれど、実際見てみるとホントに立派な滝。



玄関から歩いて10秒のところで渓流釣りができる贅沢。

橋を渡って坂を上ってゆくと、坂の向こうに見えてきた縁側で長男のSくん(5歳)が満面の笑顔で放尿しながらのお出迎え。



いいなぁ、気持ち良さそうだなぁ。

その縁側は、貰いすぎて余ってしまったという畳が敷いてあり、最高に気持ちよい座り心地に、「縁側好き」 の私の心は一挙に鷲掴みにされて、到着するなり腰掛けたまましばし放心。

ほげ〜…。

いいなぁ…。

ふと隣を見れば猫がいて、額に鎌が刺さって「イテー!」と叫んでいる。



縁側には猫がよく合う。


 (ヘンな注釈つけてんじゃねぇよ。欠伸だよ欠伸。べらぼうめ。)

 


80年ほど前に建てられた古民家を直したというお宅は、とても広くて立派でうらやましい。



かつては養蚕をしていたという大きな二階は、今は板で仕切ってあって、合わせて十二畳ほどの二部屋になっている。

誰もいないシンとした二階でSくんと二人、一緒に並んで廊下に寝そべり、階段の隙間から階下の様子をこっそり覗けば、 なんだかどこかで体験したような懐かしさがフラッシュバックし、たちまち少年の日にタイムスリップする。

おばあちゃんが生まれたばかりの弟をあやしていて、ママがお菓子の用意をしていて、それを縁側から差し込む外の光が照らし出し、 外からは樹々に降る雨の音。

そんな様子を天井から覗いているボク。

家族が
ボクのいないところで
ボクに見られているとも気づかないで
普段どおりに生活しているよ

なぜそんな何気ないことがこんなにも可笑しいのか。

Sくんはホントに可笑しそうに、顔をひしゃげて腹をよじって涙を浮かべて笑いをこらえている。

そんな様子を見ているうちに、こちらもなんだかおかしくてたまらなくなって、笑いがこぼれる。

二人で顔を見合わせ必死に笑いをこらえていると、いつのまにか階段の下にママが立っていて、怪訝そうにこちらを見つめている。

「キミたち何やってんの…?」

やべ! 見つかった! 逃げろー!(笑)

……! ……!


そんな光景を、古民家の囲炉裏の煙で煤けた天井がキシキシと笑って包み込む。

きっと何十年分の家族の暮らしの音が、古民家の柱には沁み込んでいて、それが今でもそっと呼吸をしているのだ。

巨きな時間の集積が、イエに宿り、住むヒトを見守る。

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2007年06月07日

クレヨンハウス取材

水曜日。

クレヨンハウスの雑誌「クーヨン」の取材を受ける。

どうも編集者の方が前に一度私の講座に参加されたことがあるらしく、それで「このたび改めて取材を」ということだそうであるが、 私ごときのお話をわざわざ雑誌で取り上げていただけるなんてありがたい話である。

編集者のHさんによれば、講座に出て話を聞き、ブログも読んでその考え方を吟味した上での取材であるそうだから、いちおう 「お眼鏡にかなった」ということなのであろう。

どうもありがとうございます。

でもそれにしても、子どももおらず子育ての経験もない人間に取材を敢行し、育児雑誌の4ページも割いて記事にしてしまおうなんて、 クレヨンハウスもなかなか無謀な企画を通したものである。

はたしてそれが、キチと出るか、狂と出るか…ってどっちも(以下略)。


とりあえず過去の育児講座で使ったレジュメをテキトーに見つくろってばさばさとプリントアウトし、 ブログの記事も何か使えそうなエントリーをばさばさとプリントアウトして用意をしておいて、取材開始。

「野口整体とシュタイナー教育の両方を取り入れながら子育てについて語っているRYO先生のお話を…」ということだったので、 整体やシュタイナー思想との出会いなどを語りつつ、その二つが入り混じって生まれてきた私の人間観、育児観などをお話したり、 実際に家庭でできる手当てを説明したりする。


私のブログを読んでくださっている方はよく分かると思うけれども、とにかく私のしゃべることは往々にして「言語化できないもの」 を中心として語られることが多い。

私が調子に乗ってベラベラしゃべっていると、たいてい話はいつのまにかその「言語化できないもの」「名付けえぬもの」 が主題化されてくるのであるが、当然のごとく今回の取材もそんな調子になってゆく。

Hさんはベラベラしゃべる私の話に「うん、うん」とうなづき、「そうなんですよね」と非常に得心してくださっていたのだが、 やがて話を聞いているうちにメモする手が止まり、その表情に陰りが見えはじめる。

そして途方に暮れたようにポツリと一言。

「どうやって記事にしましょうね…」。


ス、スイマセン…(汗)。

つまりは「私の言いたいことは非常に納得できるのだけれど記事にしづらい」ということでありますよね?

ハイ。ワタクシも充分すぎるほど分かっております…(笑)。

私が編集者でもおそらく同じ溜め息を洩らすでしょう。

けれどもそんな人間と一番身近で付き合っている私自身が、終始悩みあぐねている難題なのだから致し方ないのであります。

どうか平にご容赦を。

けれどもHさんはすぐさまキュッと唇をかみしめそんな表情を振り払うと、「それを記事にするのが私の仕事ですから。悩んでみます。」 と、エディタープロフェッショナル意識を見せる。

おお、カッコいい!

よろしくお願いします! お任せします!


ところで私は記事にするに当たってHさんに、挿絵には「手当て一覧表」とか「人体急所図」 のような一瞥してサッと見通すことができるような図ではなく、実際の手当ての様子のイラストを載せてほしいとお願いした。

「ココはこういう手当ての急所」なんていうのがふんだんに散りばめられた「手当てハウツー人体図」のようなものは、 たしかに雑誌記事として見栄えがいいし永久保存判みたいな感じで、読者もそういうものを望んでいるだろうことは、私もよく分かる。

けれども、できれば私はそういうものではなく、実際に手当てをしている母子の姿をイラストにして、 その手当てをしているさまがありありと空想できるような画にして欲しいのである。

編集者であるHさんには申し訳ないけれど、私の記事は雑誌の売り上げに貢献するよりも前に、 雑誌を手にとりパラパラと読んでくださるママさんたちのためのページでありたいと願っている。

(あくまでどちらも「できれば」の話ではあるが。)

ママさんたちにとって「知識」が「行動」と結びつくために大事なのは、どれだけ自分が実際に行動したときの「イメージ」 が持てるかであり、とくに雑誌のような一過性の読書の仕方にはそれがもっとも馴染む方法であろうと私は思う。

犯罪捜査でもそうだけれど、いざというとき私たちの脳裏にパッと思い浮かぶのは犯人の特徴を事細かに記したプロフィールではなく、 証言を基に描かれた犯人の「似顔絵の素描」なのである。

「一瞥俯瞰的に網羅する」という超合理的な記事よりも、パラッとページをめくってぼんやり眺めた時に、その「手当てをしている母子像」 の画がなんとなく目に映って、そのまま通り過ぎてしまうような、それくらいの記事が私は良いのである。

手当てを「知識」として覚えていると、いざという時に考えてしまって手が出ない。

「イメージ」として持っていたときに、咄嗟に手が出るのである。

たとえ、そのことをまったく忘れていたとしても。

イヤ、忘れているからこそ。

Hさんの取材に、「『咄嗟に出るその手』が大事なのです!」と力説しまくった私にしてみれば、 やはり記事の構成の仕方からフラクタルにその信念が貫かれていてほしい。


…とは言ったものの、とても記事にしづらいお話ばかりをベラベラとしゃべってしまった私に、そんな強い要望をする資格は無いのかもしれない。

書き手のことを考えていないインタビュイーはダメですよハイすいません。(自責自応)

はたして、あんなにまとめづらいインタビューを、どうまとめてくださるのだろうか。

それは記事になってのお楽しみである。

乞うご期待!

…って、そういえば何月号に載るのか訊くの忘れてた(笑)。

posted by RYO at 21:50| Comment(13) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月01日

要求の流れ

このブログでも何度も触れていることだが、生命の本質とは「流れる」ことであると私は思っている。
(参照:この記事とかこの記事とか)

入ってくるモノがあり、出てゆくモノがある。

それがともに過不足なく満たされているとき、その生命体は滞りなく健やかであると言える。

その「流れ」が滞ると、その滞った部分が病み(止み)始める。

だから、食べたら出して、休んだら働いて、寝たら起きて、吸ったら吐いて、貰ったら与えて、稼いだら使って、 とにかく自分の中を流れの良い状態にしておくのはとても大切なことである。

執着心からいろいろなものを溜め込むのはからだに良くない。

大量に焚き木をくべた焚き火がくすぶってばかりでいっこうに燃焼効率が上がらないように、エネルギー過剰は自家中毒状態を生み出し、 自壊欲求を引き起こす。

だから、食べてばかり、休んでばかり、寝てばかり、吸ってばかり、貰ってばかり、稼いでばかりで、どんどん溜め込むばかりなのは、 からだに良くない。

そう。お金を貯め込むのは 「からだに悪い」。

過剰なお金は蕩尽(発散)されたがっている。

きちんとそれを全うさせてあげる人を、昔は「お大尽」と呼んでみんなで言祝いだのである。

貴金属やジュエリーをいっぱい買って、「私はお金を使っているわ」と言う人がいるかもしれないが、 残念ながらそれらはとても蕩尽とは呼べない。

貴金属を買うのはカタチを変えた「貯蓄」であって、それはむしろ貨幣と貴金属を「交換している」と言う方が近い。

貴金属のようなものは「価値の凝固したもの」であって、むしろ流れを留めたモノである。

「蕩尽」とは、跡形も無くなるように使うことをいうのである。

手元に溜まったモノを、再び大きな流れのなかに帰してゆくということ。

そうして初めて正しい意味での「発散」になり、新たな流れを呼び込むことにもなるのだ。


供給過剰気味な現代社会においては、何につれ意図的に「発散」し、手放し、捨てるほうに意識を向けるぐらいでちょうど良い。

「発散」し欠乏すれば、「吸収」の要求は自ずとハッキリするもの。

自分が何を食べたいのか分からないのは、中途半端にお腹が空いているからであって、とことんまでお腹が空けば 「やぶそばのせいろが食べたい!」とか「ルタオのドゥーブルフロマージュが食べたい!」とか、 要求もわがままなくらいにハッキリしてくるものである。

そうしてハッキリ浮かび上がった要求にしたがって生きていくことほど仕合わせなことは無い。

突き動かされるように働き、飢えたようにがっつき、斃れるようにして眠る。

ワタシの本当に欲するモノ。


ワタシを出てゆくモノがあり、ワタシに入ってくるモノがあり、滞りなく流れているということ。

「人」も「お金」も「情報」も、流れるモノは流れのあるところに引かれて集まる。

だから意識は、とにかく「流してゆく」ことだけ志向すれば良い。

流れるモノの本質を考えるとそういう結論に達する。

まず、自ら動くこと。

posted by RYO at 20:07| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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