2007年05月24日

ナナメ上をゆく大人

児童文学の名作にケストナーの『飛ぶ教室』(ケストナー、光文社文庫、2006)というのがある。

その中に「正義先生」と「禁煙さん」という二人の大人が出てくる。

「正義先生」というのは、子どもたちが暮らす寄宿舎の舎監で、いつも正しいことを言って子どもたちを正しい道へと導く先生である。

子どもたちのことを真剣に想い一人一人ときちんと向き合って、困った時には真摯に相談に乗り、いつだって正しい答えを教えてくれる。

そんな「正義先生」を、子どもたちは心から尊敬し、愛している。


それに対して「禁煙さん」というのは、廃棄処分された客車に住んでいる人で、その客車には「禁煙車」 というプレートが付けっぱなしになっているので、子どもたちは「禁煙さん」と呼んでいるのだけれども、 当人はいつもぷかぷかとタバコをふかしている、そんな大人である。

「正義先生」がその名の通りいつだって「正義」であるならば、「禁煙さん」はちょっと世の中からはみ出た「ちょいワルおやじ」である。

子どもたちは「正義先生」には相談できないような揉め事が起きたときには、みんなで「禁煙さん」のところに相談に行く。

「禁煙さん」は、そういう「ちょっとワルイこと」の世界の事情やルールをよく知っており、困った時には相談に乗り、 いつだってその対処法を教えてくれる。

そんな「禁煙さん」もまた、子どもたちは心から尊敬し、愛しているのである。


自分が子どもだった頃のことを思い出してみても、子どもは子どもなりに、 けっこう世の中の事情というものにうすうす気づいていたような気がする。

理想は理想として大事だし、現実は現実としてまた大事なのだと。

「正義先生」に相談できることと、「禁煙さん」に相談できることは、その種類が違うと。

子どももまたその二つの世界を行き来しながら生きているわけで、それぞれ本気のところで教えてほしい、 先達に導いてほしいと思っているものではなかろうか。

少なくとも私が子どもなら、「正義先生」や「禁煙さん」のような大人が近くにいたならば、とにかく「安心」できたろう。

「世界」に、「生きてゆくこと」に、「安心」できる。

間違ってしまったときに「正しいこと」を諭して「道」に戻してくれる大人がいて、どうしても「悪いこと」をしなければならないときに 「その世界」での作法を教えてくれる人がいる。

そういう大人が「子どもたちの世界」のそばにいることは、子どもにとってどれだけ仕合わせなことであるだろう。

どちらも何もすぐ隣にいる必要はない。

「子どもが歩いて行ける距離」にいればいいのだ。


私はときどきふと思う。

今、「禁煙さん」のような大人というのは「子どもたちの世界」にいるのだろうか。

「禁煙さん」のような存在は、おそらく多くの親や大人たちが、子どもがそういう人と関わるのを必ずしも良しとしない類の大人である。

けれども「こども界の住人」には、「おとな界の住人」には相談できないことも起こりうるわけで、 そういうときにどちらの世界にも属さない「アジールの住人」としての「禁煙さん」が、子どもたちには必要だったりする。

周りの大人が建て前ばかりを語る、うわべだけの「正義先生」のような人ばかりであったら、 その中で子どもは誰にも相談できない悩みを一人抱えて苦しんで、思い詰めてしまうかもしれない。

そういうことって、けっこうある。

イヤ、きっとものすごくある。

「正義先生」は、その「正しさ」ゆえにできないこともあるのであって、そこをすくい上げてくれる「禁煙さん」 の存在が現実としてどれだけ支えてくれているか知れない。

「禁煙さん」のような存在ばかりでは困ってしまうかもしれないが、いなくなってもまた何かバランスが崩れてしまうような気がする。


たとえば昔なら、「実親」に相談できないことがあっても、「叔父(伯父)さん」という存在がいただろう。

叔父さんに相談に乗ってもらったり、親に直接言えないことをさりげなく遠まわしに言ってもらったりできた。

直系でない「ナナメ上の大人」が、もう少し子どもの周りにいたのである。

子どもの教育というものを考えたときにも、「禁煙さん」のように世の中というものにどこか斜に構えた「ナナメ上をゆく大人」 の在り方が、もう少し問われてもいいのではなかろうか。

どこに行っても基本的に「異邦人体質」 である私としては、ぜひとも「ナナメ上をゆく大人」として、子どもたちに接していきたいと思う。

物語の中では、そんな「正義先生」と「禁煙さん」という、一見対極的な二人の大人にまつわるエピソードも語られる。

それもまた心温まる素敵な物語であるけれども、ここでそれを語るのは野暮というもの。

本編にお譲りすることにしたい。


ちなみにこの『飛ぶ教室』は、ヒトラー率いるナチス党が政権をとった1933年に出版されたのだけれど、 この後ケストナーはナチス政権下において批判的な自由主義者であるとされ、国内での出版を禁じられた上に、 その著書を公衆の面前で焼かれたり、ゲシュタポに逮捕されたりと、思想統制の迫害を受け続けた。

けれども、他の作家たちがどんどん国外へと亡命する中にあって、ケストナーは連合軍が進攻し戦渦が迫るぎりぎりまでベルリンに留まり続ける。

そんな彼の「主張」が、というより順序を考えれば「宣言」が、この本の登場人物の口を通して語られている。

「すべて悪いことをしたばあいには、それをやったものばかりでなく、 それをとめなかったものにも責任がある」

踏みとどまった彼だからこそ、その言葉が重い。

posted by RYO at 20:24| Comment(12) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月20日

玩具Gun's Gang

横浜駅前に出ていた露店でこんなオモチャを買ってしまった。



木製輪ゴム鉄砲!

修学旅行先のお土産屋さんで小学生が見つけたらもう絶対買ってしまうであろうこんな玩具を、 三十路も過ぎたいい大人が興奮しながら思わずゲット。

いやぁ、いいよなぁ。こういうの。えへへ…(笑)。

でも、いじくってみて分かったけれど、実際かなりいい作りをしている。



そうそう壊れないように頑丈に作ってあるし、輪ゴムを撃ってみたらこれがきちんと狙い通りに飛ぶ。撃った時に音も出るし。

こんな安い玩具なのに(500円)、ひとつひとつ丁寧に作ってあるだろうことが思われる。

しかもいろいろ試していて気づいたのだけれど、この輪ゴム銃、なんと連発式!



一回トリガーを引くたびに、きちんと輪ゴムが一つ一つ送り出されて、連続してしかもどれもちゃんとまっすぐ飛ぶではないか。

なんてこった! すごいぜ!

中国製の玩具なんていったらなんだか子供騙しのちゃちなものばかりが目に付く中で、こんないい仕事をしている職人さんがいるなんて…。 ウルウル。

いろいろ言われるけれど、中国の職人さんもいい仕事してる人はいるよ。

(カンケーないけどGW頃に話題になった「例の遊園地」 も、HPを見てみたらさすがにキャラクターを変えたらしい)


ほかにもその時一緒に買った空気鉄砲と、このまえ浅草で買ってきた玉すだれ。



玉すだれの大道芸を見たことはあっても、実際に自分で触って遊んでみるとやはりまた新鮮な驚きと感動がある。

何より現れる曲線が美しい。

意味もなく玉すだれを青空に放り投げてみたりして。



私がいろんな玩具を買ってくるのは、そこに身近な物理(モノのことわり)が現れており、 それがひいては自分のからだに対する気づきになるからであって、断じて単なる趣味からというわけではない。

二度言う。

断じて単なる趣味からというわけではない。

講座に「でんでん太鼓」や「玉すだれ」や「びんざさら」や「逆さ独楽」や「ヤジロベエ」や、いろんな玩具を持ち込んで、 受講生に見せながら「いいでしょ。フフフ…」とにやけながら、それらの玩具を扱っている時の私の顔がキラキラ輝いていたとしても、 ただ趣味に没頭しているわけではない。

違うったら違う。

前にもブログで書いたけれど、「モノに学ぶ」 というべきものがあるのだ。

そういうことなのである。

そういうことにしておく。

posted by RYO at 23:19| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月14日

理想の椅子考

私の講座によく来てくれる方でMさんという方がいて、この方は身体障害者用の椅子をオーダーメイドで作る仕事をなさっている。

医師や作業療法士、カウンセラーや家族などの意見や要望を取り入れながら、その人のからだに合った椅子を作るのである。

たとえば何らかの理由で自立姿勢を保てないような方でも、椅子が姿勢をまっすぐにすることをサポートしてくれることによって、 一人でも座っていられるようになれば、行動範囲が広がる。

そのことがどれだけ本人や家族にとって仕合わせであるか分からない。

とても素晴らしい仕事であると思う。


そんな、それぞれ違う症状をもった人たちのからだに合わせて、一つ一つ吟味しながらオーダーメイドで椅子を作っているMさんは、 どうしたって人間にとっての最高の椅子とは何だろうかということを考えずにはいられない。

Mさんは言う。
「私はつねに最高の椅子を作りたいと願っている。」
「では最高の椅子とは何か?」
「その椅子に座っていると、からだの不具合をまったく意識しないで済むというのが理想である。」
「でも、もっと最高なものがある。それは、その椅子に座っていると元気になる、不具合がなくなる、という椅子である。」

う〜む。なるほど。ごもっとも。私も同意です。

そんなMさんと、デクステリティや、コーディネーション、アフォーダンス理論、 逆説的歩行など、 人間の身体運動の巧妙さについてお話をしていたら、おもむろに質問された。

「あのぅ、先生の考える『最高の椅子』って何ですか?」

…む。そうきましたか。こりゃ難しい。

しばし腕を組み、う〜む…とアタマをひねらせる。

「う〜ん…私の考えですけど、たぶん、可能な限り『不安定な椅子』になるんじゃないでしょうかね…。」

苦し紛れにそんな返事をする。


Mさん自身もおっしゃっていたことだけれど、じっと座っていると前に倒れてしまう、あるいは横に倒れてしまうというような方の場合、 それを支えるために、前にベルトを付けたり、横に背もたれを付けたりと、いろいろな機能を付与していくと、 どんどん座る人のからだを拘束するようにデザインされていってしまう。

たしかにからだ中をあちこちから支えていけば、その姿勢を維持するのにきわめて楽であろうし、 どんな方であっても座り続けることができるだろう。

けれども人間は物ではない。

生活するとは動くことであり、一つのいわゆる「理想的な姿勢」を保ち続けることが良いわけではない。

「理想的な姿勢」とは、現実には、刻一刻と変化し続けるものである。

よく雑誌などで「理想的な姿勢」などと言ってモデルがピシッと立っている写真があったりするが、あくまでもそれは生活の中の 「何もしていない一瞬」を切り取った、理念的な姿勢でしかない。

確かにスッと背すじが伸びた「立ち姿勢」は見ていて素晴らしいものであるが、 そのままずっと立ち続けているだけではただの木偶の坊であって、そこから自分の思うようにからだを自在に動かせるということが、 生活の中ではより重要なことである。

「軸がまっすぐ立っている」ということを、見る者に分かりやすく伝えるために、できる限りニュートラルな姿勢をとったのが、いわゆる 「立ち姿勢」なのであって、その「感覚」を身につけるために「立ち姿勢」を稽古することには意味があっても、「立ち姿勢」 そのものに深い意味はない。

その「立ち姿勢」のときに感じられる「ある感覚の測度」が、生活の中のさまざまな所作において活かされてこそ、 はじめて意味を持つのである。

いろんな姿勢をとった時に、そこにバランスが保たれている「からだ」。
自在にバランスを崩し、また瞬時に取り戻せる「からだ」。

それこそ目指すべき「からだ」のあり方であって、「姿勢」というものを固定的に考えては本質を見誤る。


そう考えてみると、椅子によってサポートを受けてバランスが崩れたままでもまったく違和感なく生活ができるということは、 たしかに楽で快適ではあるが、必ずしもその人のからだを「元気」に「健康」になる方向には導かないということに気づく。

「教育とは『適切な抵抗』を与えるということである」という言葉があるように、椅子が「自分の姿勢を制御しようという要求」 を呼び起こすアフォーダンスを備えていなければ、座る人をより「元気」にしてゆく教育的装置とはなりえない。

教育的効果を考えるのであれば、自分の姿勢をぎりぎり制御できる範囲までは「遊び」を持たせて、拘束から解かれているほうがよい。

自分のからだを自分で制御しなければならない状態を完全に取り除いてしまうことは、からだを萎縮させる方向にしか働かない。


私がMさんに「最高の椅子とは何ですか?」と問われたときに、苦し紛れに『可能な限り不安定な椅子になるんじゃないでしょうかね…』 と答えたのは、それゆえのことである。

「愛深くして為すこと多し」
と書かれた書を見て「僕ならこう書く」と言って、
「愛深くして慎むこと多し」
と書いた野口先生じゃないけれど、

手助けするのはぎりぎりまで我慢して、「任せる」ということも必要なのではあるまいか。


けれどもそうは言っても、どんな人間もさんざん立ったり歩いたりした後は、床に横たわってゆっくり休みたくなるように、 つねに自分のからだを制御することを強いられているのもまた、あまりにも過酷である。

それが自分でその椅子から立ち上がることのできない人間であるなら、なおさらである。

だから本当は「生活の椅子」と「安寧の椅子」で、それぞれ用途に合わせて若干仕様を変更することが望ましいのだけれど、 そういうことは現実的には難しいのだろうか。

あるいはスイッチを切り替えることによって、「生活モード」と「安寧モード」に切り替わるような椅子もいいかもしれない。

積極的に動きたいときは「生活モード」にして、ちょっと疲れて一休みしたいようなときは「安寧モード」にする。 そんなことができたら素晴らしい。


完全に「不安定な椅子」では、たんなるトレーニング用具であるし、完全に「安定させる椅子」では座る人を育てない。

モノが人を育て、人がモノの本質を引き出す「仕合わせな関係」 を構築するためには、絶妙な仕事が必要である。

その按配は人それぞれであって、現実にモノを作らなければならない人間にとっては、きわめて難しい課題であるだろうけれども、 ぜひとも目指していただきたい境地である。

ぜひぜひ、座る人にほどよく課題を突きつけてくる椅子をば。

posted by RYO at 20:23| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月04日

ハラスメントとフィードバック

ハラスメントは連鎖する』(安富歩・本條晴一郎、光文社新書、2007)を読了。

この本、もともと複雑系科学を専門とする二人の研究者によるハラスメント論という、やや異色の本であるけれども、前に著者の安富さんの著書 『複雑さを生きる』(安富歩、岩波書店、2006)を読んだ時に、その中で触れていたハラスメント論が面白かったので、 この本が書店に並んでいたのを見てふと手にとってみたのである。

読んでいて思ったが、これはまったく「呪術」の指南書である。

人はいかにして呪術にかかり、また呪術をかけるのか、そして呪術はいかにして解かれてゆくか。

悪用すれば人を思いのままに操ることのできる呪術者となりえようが、けれどもそう簡単に使いこなすことのできないのが「術」 というものである。

だから読んだからといって使えるものでもないのであしからず。

てゆうか人を呪っちゃいけません。人を呪わば穴二つ。


「呪い」とは基本的に、ある種の媒介を通じて相手をある空間(時間)に縛り付け、 そこから逃げ出すことができない逡巡状態にすることであるが、「ハラスメント」もまたまったく同じ構造をもっている。

というより「呪い」とはハラスメントに他ならない。

ハラスメントとは基本的に「人格に対する攻撃(否定)」と「その攻撃に気が付いてはならない」という、「否定」と「強制」の二つから成り立っていると著者は言う。

「呪い」をかけるときに人の寝静まった深夜(丑三つ時)を選ぶのは、その「呪い」をかけているさまを他人に見つかっては「呪い」の効果がなくなるからであり(あるいは自分に返ってくるから)、同じようにハラスメントもまたそれが効果的に働くためには、攻撃が隠されていなければならないのだ。


ハラスメントをかける人間とは基本的に、「相手に対する学習が停止している人間」であると著者は言う。

だから人はハラスメントをかけられると、「学習しない人間」に対する「無意味な学習の循環」の中に置かれることになる。

そのような情況になったときに、その場を去るなり抵抗するなりといった決断の下せない状態のまま居続けてしまうと、 やがて学習能力の麻痺が起こり、いつしか学習停止の状態に落ち込んでゆく。

世界にたいしてそのようなインターフェイスを構築してしまった人間は、もはや立派なハラッサー(ハラスメントを仕掛ける人間)として、 今度は自らハラスメントを周囲に仕掛ける存在となる。

それが「連鎖するハラスメント」である。


そのような「学習を停止した人間」が何を規範に行動しているかというと、「出来合いの物語」である。

それを著者は「パッケージ」と呼ぶ。

「パッケージ」とは、ある時間、空間で切り取られた、固定された物語、世界観である。

「パッケージ」はその本質からフィードバック機能がないので変化することはない。

いくつかのバリエーションを有していることはあっても、それぞれは変化しない。

そのような人間とコミュニケーションをとろうとすると、相手が採用した「パッケージ」が変化することはないので、 こちらが一方的に相手に対して学習能力を発揮することになる。

けれども「パッケージ」はあくまで「パッケージ」であるので、相手の本質に触れることはなく、 どこまで学習しても相手への理解が深まることはない。

相手はそのつど適当な「パッケージ」を採用しているだけであるので、相手がおもむろに違う「パッケージ」を採用することによって、 今までの学習成果が瓦解してしまうこともしばしばである。

「学習しない人間」というのは、他人が言う言葉はもちろん、自分が言う言葉に対しても学習(フィードバック)が閉じられているので、 他人の言葉に自分の価値観を見直すこともなければ、自分の言葉の矛盾点に疑問を抱くこともない。

「自らの行動(アウトプット)による変化が、再度刺激(インプット)となって、アウトプットを変化させる」というフィードバックは、 コミュニケーションにおいて、というより生物の成長にとって何よりも大切なことであるが、 それが機能しなくなってしまうというのは生命体としては致命的なことである。

現在、このフィードバックさえはっきりと認識できれば、 人間は血圧やアルファ波でさえもコントロールすることができるということが分かっていて、このフィードバックによる 「心身のコントロール能力」の会得という事実は、生命体の本質のとても深いところを示唆しているように思う。

『血圧を調整しているのは自律神経系だよね。自律という名前がついているように、 意識ではコントロールできない独立した神経系だ。本来であれば、「血圧よ、10下がれ」と念じたって血圧は下がりっこない。でも、 血圧を測定して現在の血圧を常に目の前に表示させてやると、血圧を下げたり、上げたりすることができるようになる。 これをバイオフィードバックという。つまり、自律というのは「フィードバックがない」という意味なんだよね。フィードバック、 つまり血圧値を本人に知らせるというシステムを作れば血圧でさえも意識でコントロールできる。もはや自律神経系ではなくなる。 脳波も同じで、「いまアルファ波が出ています」「いまは出ていません」って逐一教えてやると、きちんとアルファ波が出せるようになる。』
(池谷裕二『進化しすぎた脳』講談社ブルーバックス、2007、p349−350)


フィードバックの閉じられた空間とは、たとえば「こちらのアウトプットに対してセンシティブなインプットが返ってこない」とか、 「こちらのアウトプットに対して、返ってくるインプットに整合性がない」というような場である。

いくら血圧を上げようと努力しても、その努力の結果として血圧が上がったのか下がったのか知るすべがなければ、 血圧をコントロールする能力を身につけることができないように、共感や理解といった能力もまた、 その結果がフィードバックとして返ってこなければ、共感を構築するコミュニケーション能力を身につけることは難しいのではないだろうか。

不幸にも、ハラッサーばかりに囲まれて育ってしまった場合、コミュニケーションにおける適切なフィードバックに恵まれずに、 キメ細かなインターフェイスを構築する機会を逸してしまうかもしれない。

けれども訓練すれば血圧がコントロールできるようになるように、適切な情況さえ設定すれば、 人間の学習能力はいくつになっても起動すると私は信じている。

その場合まず、「学習する」という回路を学習しなおさなければならないが…。


世界とのフィードバックの結節点としての生命体は、世界と交感し続けることこそがその本質であり、本分である。

だからこそ、ハラスメントの起きている場のように「フィードバックの閉じられた場」に、その身を置き続けることが、いわゆる「生命力」 と呼ばれるようなものを磨耗させてゆくことにつながってゆくのだろう。

あらゆるコミュニケーションはハラスメントの可能性をつねに孕んでいるが、それを回避するためにも、 世界にたいして開かれた構えを忘れないでいたいものである。

posted by RYO at 18:00| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。