2007年04月23日

石に親しみ石に訊く

野口体操の石の会「石に親しみ石に訊く」に行ってきた。

会場は高円寺駅から歩いて程ないところにある、なんとも味のある古い木造の建物。

畳の部屋に所狭しと石が並んでおり、そのどれもが目を惹きつけて止まない。

何だかこんな変な石や…


まるで絵画のような化石…


毛虫みたいな結晶や…


ウミユリの化石…


ブラックライトを当てて光るウランの結晶なども…


羽鳥先生によると、野口三千三(みちぞう)先生は、とにかく石を集めるのが大好きだったそうで、 今回並んでいた大量の石たちは、それでもその一部でしかないというから驚き。

『からだは地球物質のまとまりかたのひとつであり、心はその働きかたのひとつである』とおっしゃる野口三千三先生は、 地球物質としての「からだ」ということをとても大切にしていたそうである。


なぜ体操の先生が石に魅せられ、また受講生に石を見せて、石を説くのか。

ともすれば忘れがちなことであるけれど、私たちは地球物質がいっとき集まってできた「物質体」であって、 地球上の物質大循環を構成する一鎖なのであって、 つまり私は地球上のあらゆる物質とその構成要素をともにする兄弟であるといっても過言ではないのである。

私たちのからだの中にある「ある働き」を特化させたカタチで見せてくれるもの。

石を見つめるということはまた、自分のからだを見つめるということでもある。

石を見つめているこの一瞬も、私は世界と分子レベルで混じり合い、交流しあっているのだ。

『安定同位体を使うと食物が体内でどのように代謝されるかを自在に追跡することができる。彼は、当初、食物を構成する分子のほとんどは、 生物体内で燃やされて排泄されるだろうと思っていた。ところが実験結果は違った。分子は高速度で身体の構成分子の中に入り込み、 それと同時に身体の分子は高速度で分解されて外へ出ていくことが判明したのだ。つまり、生命は、まったく比喩ではなく、「流れ」 の中にある。個体は感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思えるが、 ミクロなレベルではたまたまそこに密度が高まっている分子の、ゆるい「淀み」でしかない。その流れ自体が「生きている」 ということである。』
(福岡伸一『もう牛を食べても安心か』文春新書、2004、p14)


二階の一角には双眼実体顕微鏡なるものがいくつか置かれており、さまざまな石たちの表情をより大きく見つめることができた。

肉眼で見るのとはまた全然違う表情を見せる石たち。

携帯のカメラで撮れるかなぁ…と恐る恐るレンズに近づけ撮ってみたら、なんと予想外に綺麗に撮れた。

上手く撮るにはなかなか技術がいるが、それが逆に燃える。

しばらく四苦八苦しながら石たちを激写。


左から珊瑚、水晶、雲母、金。


こんな虹色をした石も。


そして琥珀に閉じこめられたウン万年前の虫。
題して「月夜に飛ぶ怪物」。


最後に、野口三千三先生の珠玉のお言葉を載せておきたい。


『自然現象の力に抵抗する能力を力と呼び、
そのような力を量的に増すことがいいことだ、
という考え方は傲慢の極みである。
力とは、自分自身のまるごと全体が、
本来の自然そのものになり切る能力のことである。

筋肉の存在を忘れよ…
その時筋肉は最高の働きをするであろう…。

意識の存在を忘れよ…
その時意識は最高の働きをするであろう…。

無数の巨大隕石の衝突によって、原初の地球は生まれたのだという。
その後も絶えず隕石などの宇宙物質が注ぎ込まれて、地球は成長してきたのだ。
その地球物質でできている私達のからだの全ては、
かつて隕石だった物質であるといってもよい。
隕石の中の鉄は、地球の核となっていると同時に、
私達の赤血球の中のヘモグロビンともなっている。
隕石は正に私達と血縁関係の
先祖であり、先輩であり、仲間だということになる。』


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2007年04月18日

結界の思想

シュタイナー学校の先生と、低学年の武道クラスのカリキュラムについて話をしていると、子どもたちの足腰の話になった。

子どもたちの足腰を育てるという教育的な観点から暮らしを見たとき、「しゃがむ」とか「正座する」とか、 そういう所作が暮らしの中に自然と入り込んでいると、とても理想的であると私は思っている。

家屋から日本間が減り、掃除器具や家電製品がどんどん進化していくにしたがって、 ほとんど立ってか腰掛けてかの日常所作だけになってきた現代では、なかなか生活の中で自然にしゃがむという機会は無くなってしまった。

それで子どもたちの暮らしの中に「しゃがむ」という行為の機会を増やすために、 ママさんたちにはよく砂場遊びなどを勧めているのだけれど、砂場遊びなどは砂場の砂をいじるために必然的にしゃがまなければならないので、 遊びの中に自然と腰を育てる「からだそだて」が入ることになるのである。

けれども、シュタイナー学校の先生によると、子どもたちの最近の傾向として、 砂場で遊ぶときにぺたんと地面に座ってしまう子どもが多い、という。

昔の子どもたちに比べて、足腰が弱くなってきたということもあるかもしれないけれど、どうも最近の子どもたちは 「自分のからだが汚れる」ということについて無頓着であるような気がするんですよね、という先生の発言に、私も思うところあり。

それで、

「それは今の暮らしの中に『汚れ』とか『穢れ』とかいう、『結界(境界線)を意識する思想』 が無くなってきたということも背景にあるのではないですかね?」

と訊くと、

「そう。そうなんですよねぇ…」

とおっしゃる。


「汚れ」とか「穢れ」という思想は、「本来触れてはならないものに触れた」とか、「入ってはならないところに入った」というように、 さまざまなところに「境界線」を見出す文化的背景から生まれてくる感覚である。

昔は家の中においても、床框、座敷、廊下、玄関、門戸と幾重にも張り巡らされた境界が存在し、 そのつど振る舞いを変えなくてはいけないという重層的な「作法の空間」が存在した。

(わずか数メートルの廊下を歩くためにいちいちスリッパを履く日本人の感性が、 欧米人には意味が分からないという話を聞いたことがある。言われてみればそうなんだけど…)


そしてその中でもとくに特別な空間として、それぞれの家には仏間があり、神棚があり、床框があり、 そういうところははっきりと別次元の空間として存在していて、「この境界線はまたいではいけない」とか、あるいは 「いったんまたいだら日常のままの振る舞いではいけない」という決まりごとが、そこに住む家族の中で共有されていた。

そのように、かつてはどの家にも必ずウチの中には内包されたソトがあり、 それら振る舞いの次数を一つ繰り上げなければならない空間(ひとつソト)で、次数の低いままの振る舞い(ウチの振る舞い)をすることは、 礼を失しているとされ、またそのような振る舞いをすると場が乱れ、汚れ、穢れるとされたのである。


ところが、そういう境界というのは「幻想である」という近代合理的思考の元に、家の中においてもどんどんグローバル化、ボーダレス化が進み、 仏間がなくなり、神棚がなくなり、畏怖すべき聖なる場所(ソト)がなくなって、「越えてはいけない境界」や、 「越えたら振る舞いを変えなくてはいけない境界」がどんどん消えていってしまった。

たしかにそれらは、長い年月のうちに徐々に構築されてきた文化的産物であり、同じ文化的背景を持たない者には存在しないにも等しい、 あわいな境界線であるかもしれない。

そういう意味では幻想といえば幻想だけれども、長年消えずに代々受け継がれるような幻想は、 そこになんらかの機能があるからこそ残されているものである。

というよりむしろ、「幻想である」という事実そのものが、ある種の機能を果たしているようにも私には思えて、そこに「ある境界線」 がはっきりとしたカタチを持っていないからこそ、そこに自ら境界線を見出さなければならない、という、人の注意力、空想力、 構築力を賦活する教育的システムがあったのではなかろうか、と私などは思うのである。


そのような「境界線」や「間合い」というものがいたるところでうつろいゆくボーダレスな現代、「線引きできない」 ことによる問題がどんどん増えてきているように思えてならないが、そこに今まで伝承されてきた「結界の文化」が担ってきた役割を、 いかにして現代の中に引き継ぎながら生かしてゆけるかを考えてゆくことが、解決の糸口を探ることになることと思う。


ちなみに結界とは、まずその場を示(標)し、占めて、締めて、〆るものであり、とにかくシメルものなのであるが、その際、 シメルものは縄であったり、紙であったり、木であったり、石であったり、柱であったり、音であったり、言葉であったりと、 じつにさまざまである。

個人で自らに結界を張る場合、それらを用いることも当然あるが、何を用いるにせよ何よりも一番大事であるとされるのが、いわゆる「氣」 と呼ばれるものである。

「氣」で張る個人的な結界。

それを「けじめ」(氣・締め)と言う。

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2007年04月10日

シュタイナーと武術と言語

この4月から、都内にあるシュタイナー教育を実践している学校で、武道のクラスを担当することになった。

今、それに向けてのカリキュラム作りをしているのだけれど、シュタイナー学校で武術を教えるというのも、 なかなか面白い組み合わせである。

シュタイナー教育ではオイリュトミーというものが教育的身体操作の要になっているけれども、 もともと西欧的な文化背景から生まれたものである上に、「見える言葉」として組み立てられたオイリュトミーは、 その骨子をドイツ語文化に深く根ざしているので、発音も文法も大きく異なる日本においては、どこまで忠実に取り入れ、 どこから独自の在り方を探っていかなければならないのか、大変むずかしい問題である。

「言語構造」とは、そのままその言語使用文化圏の「世界構造」を現しているのであって、「使用言語が違う」という事実は、 想像以上にお互いの「世界の違い」を生み出しているもの。

シュタイナー自身は、それぞれの言語においてのオイリュトミーの発展については、わずかながらの示唆を残しているだけであり、 そういう意味では、日本における教育としてのオイリュトミーのあり方は、 日本でシュタイナー教育を実践していこうという人たちが試行錯誤を重ねながら、これから作り上げていかなければならない大きな課題である。


そんなところに、オイリュトミーとはその出自をまったく異にする、地へ地へと沈んで腰肚を作ってゆく「武術」 という日本的身体操作をカリキュラムに入れてゆくというのは、ある意味チャレンジでもある。

とりあえず子どもたちの「からだ育て」という観点から考えれば、ほとんどすべての武術が目指すべき目標として定めている「腰を作り、 肚を育てる」ということを中心にして、カリキュラムを組み立てていくことになるが、 オイリュトミーが言語に対応して組み立てられているのであれば、 武術カリキュラムもまた言語に対応して組み立てられるのも良いのかもしれない。


『私は 本を 持っている。』
『I have a book.』

ともに同じ光景を表すセンテンスではあるが、『私は 本を…』というところまで聴いた時に聴き手の脳裏に浮かぶ像と、『I have a…』というところまで聴いた時に浮かぶ像。

日本語の表現が、まず「私」と「本」という二つのモノを心象に呼び出してから、最後にその「関係(持っている/持たれている)」 を描き出すように語られるのに対して、英語の表現では「私」が「持っている」という、「主体の行動」をまず描き出してから、最後にその 「行動の対象(本を)」が描かれるように語られるということ。

それらのちょっとした違いの空想の積み重ねが、脳内の思考回路の使い方の癖になっていったとしても何ら不思議なことではない。

武術やオイリュトミーが身体の使い方の「型」となるならば、言葉は精神の使い方の「型」である。

実際それぞれの文化において、何に重きを置かれているかを考えてみれば、いろいろ気づかされることもあるかもしれない。


枯山水の石庭のように、玉砂利を敷き詰めただけの何もない広い空間に何の変哲もない岩をポツリポツリと置いて、 廊下を歩きながらその配置や関係性が微妙に変化してゆくさまを見て愉しむ「日本的感性」は、そのまま「日本語的感性」 でもあるような気がしてならない。

だからこそ日本語においては、その二者の「関係性」を描き出す「敬語」という表現が発達し、仮に主語が抜け落ち、 二者の姿がまったく見えなくなったとしても、その「関係性」だけは容易に空想できるような構造を持ったのではないか。


関係性を重視し、関係を描き出す日本語。

そしてそれに対応するような身体操作とその稽古の構築。

どこまで実践していけるのかは分からないけれども、なかなかやりがいのある仕事ではある。

posted by RYO at 00:07| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月01日

チェリー&ピース

庭の桜が満開だ。


窓から見える桜を見つつ、「そういえばここに引っ越してきたときもちょうど桜が満開だったなぁ」とふと思い出す。

と同時に、「朝の掃除が大変になるなぁ」という思いも浮かぶが、そういうことはすぐさま脳内から消去して、 目の前の桜の美しさにしばし見惚れる。ほぅ…。

刹那に込めた渾身の乱れ咲き。

  さくら
          さ く ら
                          さ  く  ら


あんまり気持ちがいいので、もっと桜を観に行こうと部屋を飛び出す。

コンビニでYEBISUを買って、代々木公園へ。

NHKの前の広場を歩いていると、どこからか耳に懐かしいフレーズ。


見れば路上で女子が中島みゆきの『ホームにて』を歌ってる。

お、いいねぇ。ちょっと呼ばれていこうか。

近くの植え込みに腰掛けて、酒袋の布でできた柿渋バッグから、 先ほど買ったYEBISUを取り出しパキョンと開けて、グビグビ飲みながら『ホームにて』に聴き入る。

う〜ん…いい歌だ。しみじみ。

学生時代、下宿でよく聴いてたなぁ。


しばし聴き入ったあとに、いざ代々木公園に行ってみると、そこは人、人、人。


うへぇ…こりゃすげぇ。

二本目のYEBISUを開けてグビグビと飲みながら、人ごみを縫い縫い、そぞろ歩く。

そぞろ漫ろ。

しかし、さすがは代々木公園。

老いも若きも男も女も、日本人も白人も、韓国人も中国人も、フィリピン系もラテン系も、あちこち混じり合って超多国籍な花見大会。

今や桜を見れば踊り出すのは、日本人だけではないらしい。

花を愛でる文化が広まるのは大いに結構だが、散らかして帰る無作法だけは真似せぬよう願いたい。

人の去った桜を清める 名も知らぬ人を想え。


ついでにオマケ。

暗くて見づらいが、新宿の夜の横断歩道に落ちていた熱きメッセンジャー。


巨きなものたちに蹂躙されながらも、歩行者に「Peace(平和)」を贈る者。

おお、お前こそ愛である。

posted by RYO at 20:54| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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