2007年03月24日

シンデレラボーズ駆け巡る

20日。

後輩の学生たちの卒業式。

夜に卒業祝いの飲み会を行うというので、日本酒片手に顔を出す。

卒業生みんな晴れやかな顔で進路先の報告をしてくれる。

ちょっとばかり足踏みしての卒業生もいたけれど、今年の卒業生はみんなそろって進路先も決定し、なかなか上々の出来。

ウチらの時なんてもっと、「オマエどうすんの? てゆうかオレどうしよう?(笑)」的な状況だったような気もするし、 それに比べればはるかに優秀だ。

みんなホントにいい顔していて、見ているだけでこちらも嬉しくなってくる。


目を潤ませながらの卒業生一人一人の挨拶は、こちらも胸に込み上げてくるものがある。

一人一人の挨拶が終わるたびに、そのこらえる涙を隠してあげようと、親切にもみんなでバシャバシャと日本酒やらビールを浴びせる。

涙は酒で隠すのが一番。 酒が目に沁みるぜ。チキショー。

「このスーツ、会社でも使いたいんでシャワーだけは…。」と慎ましく遠慮していた女の子もいたけれど、 その言葉を聞いてみんなお互い目くばせした瞬間、「それは『ぜひかけてくれ』ってことだろう」という暗黙の合意が瞬時に共有され、 挨拶が終わるや否や、やっぱり「おめでとう」の酒シャワー。

おめでとう! バシャバシャ! キャー!

うむ。以心伝心。仲良きことは美しき哉。

こうして、「瞬時に肚をくくる」というイニシエーションが毎年繰り返され、 卒業生たちは丹田の満ちた状態で社会の荒波へと送り出されるのだ。


卒業生挨拶の締めをくくった大学5年生のTくん。

いろいろあって一年足踏みをしながら卒業を迎えたTくんの言葉には、その場にいた全員それぞれの想い極まり、涙がその場を包んだ。

うん、いろいろあったね。

でもみんなの支えがあって、今こうして素晴らしい門出を迎えられる。

ホントに仕合わせなことだと思う。

二人で話していたときにキミは、「こんなに仲間や先輩にお世話になってどう返していけばいいのか…」と言っていたけれど、 恩は直接返すものじゃない、というより返せるものじゃない。

めぐりめぐって返ってゆくものなんだから、流れる方へ流してゆけばいいんだよ。

先輩に受けた恩は、後輩に返す。

やがてその後輩がまたその後輩にと、「連綿と続く流れ」 がある。

先輩には礼を尽くせばそれでいい。

キミは絶対いい先輩になるよ。確信してる。


前途洋洋の若い彼らに自分を重ねて感極まって、睡魔、あるいは酔魔に襲われ意識を失うまで飲みまくって、 彼らを祝福したいところであるけれど、明日朝イチの新幹線で大阪に行かなくちゃいけない私は、終電を逃すわけにはいかない。

からだ中からお酒の匂いをプンプンさせてる卒業生を、一人一人ギュッギュッと抱きしめながら「卒業おめでとう!」と言祝いで、 後ろ髪を引かれる思いで(ってボーズだからつかめないけど)帰路につく。

家に帰っても興奮冷めやらず寝付けないので、さらに一人祝杯を挙げて酔いを重ねる。

だから、朝早いっちゅうのに。


21日。

昨日の酒も残ったままに朝早く起き出して、品川から新幹線に乗っていざ大阪へ。

私の師匠である河野先生が出演される大阪舞台公演のお手伝いのためである。

武術家である私の師匠と、観世流シテ方の能役者の梅若基徳先生、日本のベリーダンスのパイオニア的存在である海老原美代子先生の、 武術、能、ベリーダンスの異色のコラボレーション。

演目は「天之岩戸」。

音楽には、能の地謡と囃子方のほかに、劇団四季のミュージカルの作曲も手がけるパーカッショニストも加わって、 超盛りだくさんな貴重な舞台であった。

能と武術のような身体技法のコラボレーションはこれからもっとバンバンやっていって、 日本の伝統芸能の世界ももっともっと活力を湧かしていけるとホントにいいなぁ。

今回の公演では久しぶりに会う人たちや東京から駆けつけてくれた人たちも大勢いたので、入口近辺をウロウロウロウロ。

記念Tシャツや手拭いなど販売しながらいろんな人と挨拶を交わすのは、手と口とアタマを同時に別々に動かす稽古になった。

遠くからはるばる来てくださった皆さん、ホントにありがとうございました。ペコリ。


公演が終わって片付けをしていると、あっというまに新幹線の終電の時間となってしまう。

次の日もまた朝から東京で仕事がある私は、やはり今日中に東京へ帰らねばならない。

シンデレラボーズは辛いぜ。

ケツをまくるようにして会場を飛び出しタクシーで荷物を運んだら、すぐさま新大阪へ。

新幹線の発車までのあいだに、一緒に東京まで帰るNさん、Sさんと駅のおみやげ屋さんをめぐり、「蓬莱」の豚マン、「くくる」 のたこ焼き、にごり酒、ビールにおつまみを次々と買い揃え、車内での打ち上げ準備万端にして新幹線に乗り込む。

今ごろ他の人たちは公演後の打ち上げで盛り上がってるはず。

こっちも負けてたまるかとガンガン飲んで、バカバカ喰って、ゲラゲラ笑う。

でも昨日から酒をガンガン飲んで、心情も大きく動きまくってくたびれたのか、途中で寝落ち。

カクン、グー。


22日。

今日は大阪舞台公演を終えてそのまま大阪に残る河野先生の代行で、朝カル講座。

朝カルで武術を教えるのは初めてだ。

いつも作務衣を着ている自分の講座から道着と袴に変身し、まだ誰もいない教室をウロウロしながら今日の講座でやることを考える。

都知事選の公示だか何だかで、目の前の都庁が賑やかだ。

しばらくして講座の担当Mさんが顔を出すと、私の格好を一目見るなり「お、センセ〜!(笑)」と声を上げる。

何ですかその(笑)は。確かにいつもとカッコは違いますけどね。ふん。


やがて受講生も集まり、時間となったので講座をはじめる。

何をやるか漠然としか考えていなかったけれど、私の口は便利なものでしゃべり出すと次から次へといろいろ出てくる。

初めて会う人たちも多かったけれど、「武術家の端くれとして、いついかなる時も、どんな質問に対しても、 見事さばいて受け答えしてみせますから、いつでも質問してください。常在戦場。」といきなり大風呂敷を広げてみせる。

こういうのは先手必勝だ。

大風呂敷にゲラゲラ笑った受講生は、もはや私の術中である。掌握。


この平和の時代に武術を稽古することの意味やら、型というものの在り方、「モノ」ではなく「つながり(関係)」 に焦点を当てるということなど、ベラベラしゃべっていると話は武術に収まらず、日本文化的な中空思想に発展してゆく。

枯山水の意味、言葉の奥を見ること、感覚の孤独、自分の言葉をもつこと、中心には何も置かないこと、…etc.etc.

話ばかりでも何なので、途中でからだを動かす稽古に入りながら、すっかり2時間だと思って講座を進めていたら、 途中から参加してくださっていた朝カルのNさんに「時間過ぎてますよ」と注意が入る。

え? あれ? 1時間半でしたっけ?

「わぁ、みなさんスイマセン!」と謝ったら、みなさん笑ってくれた。

どうやら怒ってはいない様子。ホッ。

でも、言われなかったら気づかなかった。怖ろしい。くわばらくわばら。


朝カル講座代行を終えて、なんだか身心ともに駆け巡る3日間を無事終了。

ふぅ。 でもこういうのもたまには面白い。

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2007年03月16日

初雪5分

昨日から突然風邪を引いて、朝からからだが重い。

うりゃーと気合を入れて外に飛び出ると、まるで冬の朝のように寒い。

外周りをホウキでサッサカ掃除していると、視界の脇を白いものがヒラリ。

「ん?」と思い、しばし掃除の手を止めて、じっと中空を見つめていると、ごくたまに空から小さな雪がチラリ、そしてホラリ。

「お、ひょっとして初雪?」

…と思うや否や、くしゃみが一つ。


あとでネットを見てみると、こんなニュース。

『【東京都心で初雪、観測史上最も遅い記録を更新】 3月16日9時31分配信
気象庁は16日、東京都心で今季初の雪が観測されたと発表した。1876年(明治9年)の観測開始以来、 これまで都心の初雪が最も遅かったのは1960年2月10日で、この記録を47年ぶりに1か月以上も塗り替えた。昨季より95日、 平年より73日遅い。日本付近に今週、寒気が居座り、本州の南海上を通過する低気圧の影響で、東京・大手町では午前7時から約5分間、 みぞれが降り、初雪の観測となった。』
(「読売オンラインニュース」 より)


なんと、観測わずか5分の初雪。

そんな貴重な初雪を5片目視し、1片おでこに受け止めた私は運がいい(笑)。

なにかイイコトあるかも。

でも、みぞれじゃなかったけどな。まぁ場所と時間によるか。


ついこのあいだ散歩をした代々木公園では、梅が咲き、 桜のつぼみも樹によってはまさにはちきれんばかりの勢いでふくらみ、爛漫の春をすぐそこに感じさせる様子であったけれど、 そんな矢先の初雪の報。

三寒四温。自然のリズムはゆっくりと。3歩下がって4歩進む。

ズルズルと出る鼻水をかみながら、「お待たせいたしません!」が至上命令の現代に、「じっくりと心待ちにする」ことの意味を思う。

「待つ」って大事だよなぁ。

…と思うや否や、くしゃみが一つ。

うぅ…症状がだんだん花粉症みたいになってきた。


今日は横浜で仕事である。

なので、鼻をズルズルとすすりつつティッシュを大量に消費しながら横浜へ。

ズルズル、ブー。

脇に小川の流れる素敵な感じの遊歩道をテクテクと歩いて作業所へと向かう。



小川のせせらぎがボーッとする頭に心地よく響く。

作業所に着くと、ちょうどお昼の支度の真っ最中。

作業所では、いつもそこに来ているメンバーの人たちと一緒にお昼ご飯を作っているのだけれど、 今日の献立はロールキャベツ。

「お肉入れすぎだよ〜」、「キャベツやぶけてる〜」、「じゃあ二枚重ね」、「二枚重ねってトイレットペーパーみたい(笑)。」 とか言いながら、みんなでワイワイとキャベツをロールする。

巻き巻き。

とても個性豊かなロールキャベツたちに、生態系の豊かさを感じる。

みんなで和やかにお昼ご飯を作って、一緒に美味しくパクパク食べていたら、気づけばいつのまにか鼻も止まり、くしゃみも出なくなった。

おお、すごいぜ、みんな。さすが豊かな生態系はホメオスタシスも活発だ(笑)。

みんなの元気と笑顔のおかげで元気百倍だよ。ありがとう。

からだに任せてただ愉快に経過を待ってれば、素直に経過するもんだ。

また一つからだに教えられてしまった。

<追記> …と書いたら今朝(17日)もちらほら舞っていた。
       卒業シーズンの雪もまた風情。

posted by RYO at 23:40| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月11日

ディテールに宿るモノ

たとえば、ある空間に入ったとき、床に目をやると、そこにはきれいに掃き清められて塵一つ落ちていない床が広がり、 奥のほうには美しい花が生けられ、ふと息を吸い込んでみたらどことなくほのかにお香の香りがしたようなそんな気がしたとき、 何とはなしにフッと身が引き締まり厳粛な気持ちが湧き起こってくるのを感じることがある。

その場の何がしかの雰囲気を敏感に感じ取って、からだが反応する。

それは人間が言葉以前の働きとしてもっている本能的な反応である。


空間というものは、微細でキメ細かい情報で覆われている。

私たちは、そのような周囲の環境に散りばめられた微細な情報をつねに感じ取ってはいるが、 それら一つ一つが意識にまでのぼってくることは少ない。

細部が発する膨大なメッセージは、私たちの意識にはのぼらずともからだはきちんと感覚しており、 そのようなメッセージを無意識のうちに受け取った私たちは、やはり意識もしないうちに反応し、 無意識のうちに身心の構え(モード)を変えたりする。

建築やデザインの世界でよく言われる言葉に「ディテールに神が宿る」というのがあるけれど、 ディテールというのはそのモノの縁(ふち)であり、肌理であり、インターフェイスであり、境界であり、 まさに何がしかが生まれる命のほとりであるのであって、そこに「神が宿る」というのも頷ける。

フラクタル図形(⇒Wiki)のディテールなどは、 整数次元から小数次元へと展開する無限小の世界であり、それは鏡と鏡を向かい合わせたような無限回廊のごとき、神秘の世界が宿っている。

そのような私たちの通常意識では「捉え切れない」「名付けることのできない」、淡いで微細でキメ細かな囁きたちは、 ビブラートのように倍音声明のように、自己干渉し、共鳴しながら、私たちの感覚に働きかけ、 それと意識することすらできないうちに多大な影響を与えることになる。

ときに美術館や遺跡などで、その芸術的な作品のディテールが洪水のように襲い掛かってくるのに圧倒され、絶句し、 呆然と立ち尽くすような経験をすることがあるが、その「表現の隙間」から一斉に零れ落ちる「意味の雪崩」を浴びて全身打ち震えるのは、 ある意味ひとつの禊(みそぎ)のようなものであるやも知れない。


先ほどのような空間に散りばめられたさまざまな室礼(しつらい)は、ある誰かの意思の下にしつらえられたものであり、そこには「気の集注」 というものがある。

それを無意識のうちに感じ取った私たちは、その「気の集注度合い」にその場の神聖さを感じ取り、おのずと背すじを正してしまう。

空間のディテールには、それをしつらえた人の魂が宿っており、それが見る者に伝わるのだ。

あくまでもさりげなく。けれどもキメ細やかに。

見る者がそれと気づかなければ気づかないほど、その宿るモノはその人の意識をくぐり抜けてからだに直接働きかける。

安寧として、あるいは違和感として。

「何だかよく分からないけど落ち着く」とか、「何だかよく分からないけどソワソワする」とか、それらの「何だかよく分からない」 部分というのは、多く見過ごされてしまいがちであるけれど、じつはとても大切なモノを含んでいたりする。

言葉にならないところを、あえて言葉にしないままに抱えるということ。

「漠然」や「矛盾」をそのままに抱えるのは、白黒はっきりつけたがるアタマにとってはきわめて不快な状態であるので、 ときにそれらはまるで「悪」のように捉えられるが、そうして単純に二極化することで失われてしまうモノも多いのではないか。

からだのことに関わる人間として、そこの部分こそを一番丁寧に大切に取り扱いたいけれども、これほど繊細で難しいこともなく、また、 これを他人に伝えるのはさらなる困難を極める。

意識にのぼることはないが、からだが感じているであろう微細で膨大な情報群に、そっと優しく触れて、そのままにすくいあげる所作。

それを丁寧に探りたいと思う。


ところで、この「気の集注度合い」というのは、誰しもほとんど本能的に敏感に感じ取っており、そしてまたそれを欲するものであるのだな、 ということは多くの赤ちゃんを見ていてつくづく感じさせられる。

私は小さな子どもたちと接する機会が多いのだけれど、どの子も必ずママの「お財布」と「携帯電話」がとても大好きだ。

ママの手からお財布をひったくっては、中のお札を全部引っ張り出し、カードや領収書も引っ張り出し、 それでもまだ何か中に入っていないか懸命にいじくるさまを見ていると、自分の大好きなママの注意を一身に集めている、この小さな物体の「謎」 を解いてやらんとする探求者のように思えてくる。

全部引っ張り出してみても、ママの注意を一身に集める「秘密」は一切出てこないので、子どもは「何にもないよ?」 とママの顔を見つめたりして、はたから見ていると思わずおかしくなってしまう。

私はそんなさまを見ていると、

「謎だよねぇ。何でママはそんなものを大事にしてるんだろうねぇ。 その謎が分かれば今よりもっとボクのこと大事にしてくれるかもしれないのにねぇ〜(笑)。」

と、思わず共感の意を表してしまうのだけれど、「どこに意識が集注しているのか」ということに関して、 人間(特に子ども)は驚くほど敏感である。

新しいオモチャにみんなの意識がフッと集まると、今まで絶対に手放さなかったオモチャですらとたんに興味をなくして、 みんなの注意を一身に集める新しいオモチャを、突然「欲望」し始めるさまなどは、見ていると「人間の欲望は他者の欲望である」 というラカンの言葉を髣髴とさせる。

さまざまな人間関係のうちにこのコトを観るようになると、人間関係はまた、まったくちがった様相を示すようになって面白いのだけれど、 そうして私の中で世界はますます「流体」へと変貌してゆく。

いざ、もののあはれの世界へ。

posted by RYO at 23:25| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月05日

贈与の霊力

中沢さんと茂木さんの朝カルの対談の予習にと思って読んでいた『対称性人類学』(中沢新一、講談社選書メチエ、2004)の中に、こんな一節があった。


『交換の場合には、商品とそれを売る商人とのあいだには、 何の人格的絆もありません。またそういう商品をなかだちにして売り手と買い手が交換をおこなったとしても、 ここでも何の人格的関係も発生しません。つまり交換は物と人、人と人とを分離する働きがあるわけです。「贈与の環が動くとき霊力が動く」 という古い表現には、贈与物が移動をおこすとそれにつれて高次元的な流動する力まで動き始め、 社会全体に停滞を打ち破る流動が発生するという感覚がこめられていたものですが、交換の場合にはこういうことはおこりません。 交換にはエモーションが介在する必要がありません。それはいたってクールな経済活動なのです。
そのかわり、私たちの生きている資本主義社会のような「巨大な商品の集積としてつくられている社会」(マルクス)では、 面倒くさい物と人との人格的絆などから解放されたおびただしい量の商品が、社会の表面を勢いよく流通していくことによって、「魂の流動」 ならぬ「富の流動」がおこっているように感じられます。贈与的社会では魂が、資本主義社会では物質化された富が流動することによって、 それぞれの社会は活気づけられているわけです。』
(中沢新一『対称性人類学』、講談社選書メチエ、2004、p96)


「贈与の環が動くとき霊力が動く」。

う〜む…。 とても意味深い言葉であるなぁ。

「等価交換の原理」が支配的な現代社会、この言葉の持つ意味を今一度考え直してみる必要があるのではなかろうか。


贈り物が動くとき、そこには計量不可能な価値が浮かび上がる。

それはつまり、相手に対する感謝であったり、激励であったり、便宜であったり、ときには威圧であったり、 さらにはそれらの複雑に入り混じったような、曖昧で計量不可能なものが贈り物に付与され、相手に贈られるのだ。
(交換においては、そのような計量不可能なものは「無いもの」として扱わなければ、交換ができなくなってしまう)

私たちの社会では、贈り物に付与されたその計量不可能な価値は、計量不可能なままで取り扱うというのがマナーであって、 それを精確に査定することはマナー違反とされる。

贈り物を受け取ったとき、すぐさまそのお礼の品を返すのは失礼なのである。

なぜならそれは、「あなたの贈り物は私にとってこれくらいの価値ですよ。」とただちに査定し、即答しているということに他ならず、 祝ぐべき「贈与」の霊性を剥ぎ取って、透明な「等価交換」へと貶めてしまう行為だからである。

人が贈りものを贈られたときに、「こんなにして頂いて、なんとお礼を申し上げればいいか…」とぺこぺこお辞儀をして恐縮し、 自らの返礼能力の無力さをことさらにアピールするのは、「あなたの贈与は、私が全身全霊を込めてもまだ足りないほどに偉大である。」 という査定不能の意思表示をするためなのである。


それでも返礼せずにはいられない人間は、せめて「贈与」と「返礼」のあいだに「時間」という不可逆的なファクターを挟み込んで、 それらを決して回収することのできない不可逆的なやりとりにすることによって、相手の「贈与」 の価値を拝して一段高いところに置くという儀礼を行なうことにした。

そうして私たちは、一度生まれたその「借り(恩)」の落差を、決して清算しつくしてしまわないようにすることによって、 次なる運動を生み出すためのきっかけとしているのだ。

「贈与」の意義は、「交換」の中でエントロピーが増大し徐々に停滞してゆく運動に、インパクトを与え、差異を生み出し、新たな「流れ」 を生み出すというところにあり、それは新たな命を生み出すという意味でやはり「霊力の動く」ところであり、世界各地の宗教で「贈与」が 「霊的な行為」として位置づけられる所以でもあろう。


私たちは経済活動をより活発にしていくために、「物」の流通をよりスムーズに、速やかにしようと経済構造を作り上げてきた。

その中で、「物」の流通を速やかにしていくために、先の「贈り物の例」に代表されるような「物」 に付随する雑多な情報や価値を一元化し、共通の通貨(貨幣とか貝とか米とか)でもって数値化する、ということを考えついた。

人間の行う生産活動やサービス活動には、そこにあまりにも多くの物や人が関わり、多くの情報や価値が含まれることになるわけで、 ほんらいからして数値化に馴染むものではない。

がしかし、私たちはあえてそれら雑多な情報をばっさり切り捨て、一つの物差しで計り直して数値化してゆくことによって、 すべての生産物、サービスを交換可能な状態へともってゆき、それがすみやかに流通することを可能にした。

物やサービスをすばやく流通させ、普及させるために考えうる戦略としては、たしかにベストな選択である。


けれども、そのような物やサービスに含まれたディテールを削ぎ落として限りなくフラットにしてゆく社会は、突きつめれば、「 “交換不可能なもの”はない」世界を目指しているわけで、それは言い換えると「“欠けがえのないもの”はない」世界であり、「 “金で買えないもの”はない」世界である。

“交換不可能なもの”、“欠けがえのないもの”、“金で買えないもの”はどれも同じ意味であり、 それらがない世界というのはつまり、 すべて“交換可能なもの”、“代わりのあるもの”、“金で買えるもの”で構成される世界のことである。

アタマで考える限り、これほど便利な世界もあるまいが、残念ながら人間はどうしたって、そのような帰結に満足できる存在ではない。

少なくとも私は嫌だ。

もし人間が細胞分裂して繁殖する生命体であったなら、 ひょっとしてその経済システムで幸福な社会を作り上げることができたかもしれない。

けれども幸か不幸か人間は、「時間」をもち、「個」をもち、「個の死」をもった存在なのであって、「欠けがえのない存在」 でありたいと願う私たちにとって、「代わりの存在などいくらでもいる」と宣言されることには、どうしたって抵抗を感じないではいられない。


一時期、日本各地でも盛んに行なわれた「地域通貨(⇒Wiki)」という試みがあるけれど、うまく継続してゆくことができずに、 そのまま立ち消えしていった事例も多い。

それらの失敗の背景には、「地域通貨」という試みが、「交換」の原理に「贈与」 の原理をうまく組み込もうという試みであるにもかかわらず、結局、根本的なところで、「その場で支払いが清算される」という、「交換」 の原理をベースにした経済モデル(無時間モデル)から、今一歩踏み出せないでいた、ということがあるような気がする。

どのような形になるかは想像できないけれど、通貨のやり取りにうまく「贈与性」あるいは「時間性」を組み込めれば、 何かもっと違う形の経済モデルが浮かび上がってくるような気もするが、果たしてそんなにうまく行くかどうかは謎である。

「贈与」と「交換」の、いい塩梅を探りたい。

posted by RYO at 21:00| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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