2007年02月25日

アウェアネスを磨く

哲学、 脳を揺さぶる』(河本英夫、日経BP、2007)を読了。

いやぁ、これまたオモシロイ本であった。

まったくもって毎度のことながら、オモシロイ本にばかり出会うことに我ながら感心してしまうが、それは何も私に 「素晴らしい本を選ぶ慧眼」が具わっているというわけではなく、 いつもそのつど何かしらご縁のある本を手にとって読んでいるというだけであるので、別段驚くには値しない。

ずいぶん前にも書いたことがあるが、 ちょうど今「ご縁がある」と思って読む本は、読み手である私の側が、読むにあたって「本に対して開かれている」ので、 すでに受け入れ態勢ができていて、言葉に対する感受性がすこぶる高まっている。

なので、ことあるごとに、

「おお!これは! やはりこの本は今、私に読まれるべき本であったのだな。なるほど。ふふふ…(笑)。」

と感奮極まりながら読み込んでいくので、読む本すべてが「運命の本」と化してしまうのだ。

「物事をポジティブに捉え、ポジティブに発揮する」というのは私の得意とするところであるが、そのような「白魔術」は、 学習効果を高めるという点から見ても、けっこう大事なことのような気がする。

「しょうがねーな。別に興味ないけど暇つぶしに読んでやるか。」と思って読むのと、「なんだかよく分からないけど、 ふっと惹かれたから読んでみよう。」と思って読むのでは、その読み込みの深さには雲泥の差が出る。

本には「読むべき時機」というものがあり、「読むべき構え」というものがある。


今回の本の場合、書店で手にしてすぐさま購入し、積ん読に組み込まれることなくすぐさま読み出された、突発的出会い型の本であった。

著者である河本英夫さんは「オートポイエーシス(⇒Wiki)」 研究の第一人者で、私がカオス理論や自己組織化に興味をもっていろいろ本を調べている時に幾度となく目にした名前であったので、 前から気にはなっていた。

今回、はじめて著書を読んだのだけれど、本の中には、自己組織化、アフォーダンス、ミラーニューロン、フラクタル、物語、6の中の5、 フラーレン、テンセグリティ、カンブリア、半側空間無視…… etc.etc. 私が興味をもって止まないキーワードがこれでもかと並んでいて、鼻息も荒く、一気に読み終えてしまった。

う〜む。オモシロイ。

副題に「オートポイエーシスの練習問題」とあるように、ある感覚、 素養を習得するためのトレーニングをイメージできるよう本全体が構成されていて、しかもそれがまた「言葉にできない“それ”」を、 丁重に読者に届けようという心配りが感じられて非常に好感。


オモシロイ箇所はいくつもあったのだが、私の関心ともっとも近いところで挙げるならば以下の箇所。


 『真っ暗闇のなかで足先に何かがあると感じられることがある。この“なにかがある” という場面は、既に現実の「個体化」が起きているが、その個体がなんであるかはまったくわかっていない。しかし、 これは現実だと感じられるものは、既に個体化している。この個体の内容が何であるかは決まっていないし、 個体といっても個物のようなまとまりである必要はない。この現実、このものという特定さえできていればよい。そうした経験の局面がある。
 このとき既にこの現実に注意が向いている。この場面の注意は、現実をそれとして成立させる働きであり、 現実をこのものとして個体化させる働きである。成立した現実のなかでそれがなんであるかを知る働きの中心にあるのが、知覚である。 知覚は見るべきものが既に決まっている。多くの場合、見えるものが見えているだけである。それに対して注意は、 見るということが出現する働きであり、見るという行為が起動する場面を指定している。』
 『学校教育では、観察にさいして、注意ではなく、焦点的意識、 すなわち知覚を教えている。最短距離で物事を修得するために、それが最も都合がよいからである。 だがそれが良い教育かどうかは別問題である。新たなものを見いだすことは、知覚ではなく、注意が向くかどうかに依存している。』
(河本英夫『哲学、脳を揺さぶる』、日経BP、2007、p190、p192−193)


「目が見える」「耳が聞こえる」ということは、いわゆる「視力」「聴力」と呼ばれる能力に限られた話ではない

「何かが見えていない」人がいたとして、その人の視力を矯正したからといって、必ずしも「それが見える」ようになるとは限らない。

「注意力散漫」な人が、見えているものにぶつかり、聴こえているものに気づかないように、「何かが見える」という能力は、 「そこに何かがある」という「注意力(アウェアネス)」によって支えられている。

それは「見える」以前の働きである。


『例えば、視覚的アウェアネスが失われた視野の部分に、 ドットを動かすという刺激を提示する。そして、患者に、「ドットは上に動いているか、下に動いているか、どちらか選んでください」 と尋ねる。患者は、「何も見えないから、そんなことは無理です」と答える。それに対して、「見えなくてもいいから、 強いて言えば上に動いていると思いますか、下に動いていると思いますか?」と尋ねると、患者は、「何も見えないのですが、強いて言えば、 なんとなく上に動いているような気がする」と答える。このような試行を繰り返すと、おどろくことに、 単なる偶然よりははるかに高い確率で、患者は正しい動きの方向を当てるということが見出されたのである。これが「何も見えない」 (ブラインド)のに、ある程度の視覚的認識能力(サイト)が残っているという、 ブラインドサイトの一見パラドックスのような現象なのである。』
(茂木健一郎『クオリア入門』、ちくま学芸文庫、2006、p169)


ここで挙げたのは「ブラインドサイト(盲視)」と呼ばれる現象であるが、人は「モノ」が見えていないにもかかわらず、そのモノの「動き」 を見ることができたりする。

人には「見える」以前に、見えているものがあるのだ。

そういえば前に、テレビでアフリカの人の視力を測定する番組があって、 面白かったのがライオンの形やシマウマの形はものすごく遠く離れていても識別できて、それこそ視力7.0とか8. 0とかいう世界の話なのだけれど、私たちがよく視力検査で行なう「C」の字のどちらに隙間があるかという検査だと、とたんに視力3. 0になってしまうということであった(それでも驚異的だけど)。

どうも「見える」という現象は、いわゆる「視力」と呼ばれる能力だけでは掬いとることのできない豊穣性を抱えているようである。

「目に映る」という受動的な感受と、「注視する」という能動的な行為の出会うところに浮かび上がるもの。


「視力が上がる」「聴力が増す」ということは、つまりは入力される「情報量が増す」ということであるが、それは同時に 「情報を見落とす能力の向上」も伴うということを忘れてはいけない。

入力される情報量が増えれば、その情報処理もまた格段に増えるわけであるが、増えた分を律儀に処理していては、 私たちは物事を一つ知覚するのに膨大な時間を要するようになってしまう。

だから、視力聴力の向上は、「見落とす能力」「聞き流す能力」の向上とともに行なわれなければならない。

先天盲の人が手術をして目が見えるようになった時に、世界の色の洪水に気持ち悪くなってしまうことがあるのは、 目から飛び込んできた膨大な情報を、適当に「見落とす」ことができないからである。

その「見落とす/聞き流す能力」というのは、それを毎回意識してやっていてはその意味がまったく無いので、 その操作は完全に自動化されており、つねに無意識下において行なわれている。


『測度は生活の自然性に見合うところでおのずと形成され、 それに従って生きることは無駄を省くと同時に直ちに惰性となる。身体動作だけではなく、感覚・知覚も生活の測度に適合するように、 見ないもの、見えないものをおのずと区分しているはずである。これは無意識的な隠蔽や抑制とはまったく別のことである。 生活の測度や身体動作の細かさに合わせておのずと形成してしまった、おのずと見ないもの、すなわち見えないものの広大な領域がある。』
(河本英夫『哲学、脳を揺さぶる』、日経BP、2007、p96)


情報量が増えたときに、無意識に「見落とす/聞き流す能力」を向上させるという私たちの機能は、 逆に情報量を落とすことで注意力を向上させるというようにも働く。

それは真っ暗闇で何も見えない状態のときに、周囲の環境を認識しようと努力する自分の姿を想像すれば分かりやすい。

私たちはふだんの生活の中で、それと知らずに多くのことを「見落とし」「聞き流し」ており、 それによって意識するべきことを絞り込んでいるのだけれど、私は講座の中でみなさんを人為的に、 情報量を落とした暗闇のような状態へと誘導してゆくことによって、今一度それらのことを「再発見」させんとしているわけである。

今まで見落としていたものを見つめなおす。
今まで聞き流していたものを聞きなおす。

それが「感覚を磨く」ということの意味の一面なのである。

そのためにはいかなる訓練をしていけばいいのか、いろいろ試行錯誤しながら、頭を悩ませるところであったのだけれど、 その方向性がまたうっすら見えてきたような、そんな気がした。

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2007年02月18日

幽体離脱⇒共感?

人間の脳の中にはミラーニューロンというものがある。

ミラーニューロンというのはこのブログでも以前触れたことがあるが、 目の前にいる人物の動きを見ているときに、それをさも自分が動いているかのように頭の中でなぞる働きを担う神経細胞のことである。

人が動いているのを見ているときも、自分が動いているときも、ミラーニューロンは等しく活動する。

人は他人の動きを見ているときに、脳内で自分も同じ動きをなぞっているのだ。

そのときに自らのうちに浮かび上がる心象から相手の心情を連想、追体験し、 それによって私たちは目の前の人間に共感することができるのである。

「学ぶ」という言葉が「真似ぶ」という言葉に由来するように、基本的に学習とは「他者の模倣」を通して行なわれるのであって、 ミラーニューロンによる「脳内同調効果」は、動作から感情から社会性にいたるまで、あらゆる学習において重要な役割を担うことになる。


そのミラーニューロンの活動というのは、サルが人の動きを見ていても活性化するのであるから、「共感」「同調」 というのは同種族間に限られた現象ではない。

人は映画を観ているときにその主人公の心情に共感して泣いたりするくらいだから、モニターの画面に映し出された人の動きを見ても、 ミラーニューロンは活性化しているということであろう。

モニター画面に浮かび上がる人物(らしきもの)は、たんなる赤青緑のライトの点滅を、観る者がそれと錯覚しているに過ぎないが、 それにも係わらずそれに「同調」することができるということは、原理的には「対象のいかんを問わない」ということである。

相手が映像だろうが、人形だろうが、ロボットだろうがかまわない。

もし、きわめて精巧にできたロボットが、殴られたときにこれまた絶妙に「苦痛に顔をゆがめた人の表情」を表現したとしたら、 おそらく私たちはロボットの「痛み」を空想し、なんとなく「罪悪感」を感じることだろう(「快感」を感じる人もいるかもしれないが)。

重要なのは、「対象に自己を投影できるかどうか」ということである。

だから犬を愛して止まない人が、犬が怪我をするのを見て同じ痛みを感じたり、桜を愛して止まない人が桜の大樹が切り倒されるのを見て、 同じ苦しみ(というものがあるならば)に動悸が激しくなるということが起こりうる。

たとえ「そんなものはすべて思い込みであり錯覚である」と言われても、原理的に「錯覚(主観的)でない感覚」など存在しないのだから、 あまり根源的な批判にはならない。

「そう感じたように感じている」という素朴な事実を、私は軽視せずに丁寧に取り扱いたい。


みなさんも、ふだんの生活の中で鏡を見ながら身支度をすることは多いと思うが、それは鏡に映っている像を「自分」だと錯覚しているからこそ、 スムーズにできている。

私たちは、鏡の中で起きている出来事を、まるで我が事のように「勘違い」して、化粧をしたり、ヒゲを剃ったり、 髪を切ったりしているのだ。

もし鏡に映る自分の顔が、髭剃りでサックリ切れて血が出ているにもかかわらず、体感としてはちっとも痛くなかったら、 いったい私たちはどちらを信用するだろう?

あるいはそれが逆だったら…?

鏡の自分が勝手に動いたら…? (うぅ…怖ろしい。ブルブル)

幻肢痛(ファントムペイン)」 に悩む患者が、「鏡に映る自分の右手」を「失くしたはずの自分の左手」だと錯覚することでその痛みが軽減するように、 他者への共感によるさまざまな内的変化が、そのまま自らの変化を促すことに繋がってゆく。

自分が自分だと思っている自分というのは、それこそ自明のこととしてふだんは意識から退いているけれど、 意外とその境界はきわめて曖昧なのかもしれない。

「私」と「あなた」の間にあって、それらをつなぐモノ。


ところで今回、ミラーニューロンについて書いたのは、内田先生のブログにそのミラーニューロンについての驚くべき発見が書かれていたからである。

それによると、ミラーニューロンを活性化する薬が開発されたのだが、それを実験者に投薬してみると、全員がある同じ幻覚、つまり 「幽体離脱」を体験したのだという。

うぅ〜む…他者への共感能力の高まりが、自己への客観視につながるというのは、考えてみればとても納得のいくものだけれど…。

そうであるか…。

「目の前の人に共感する」ということは、相手の動作をじっくり観察しながら同調していって、 そのミラーニューロンによる脳内模倣動作を自分の感覚の基調に置きつつ、 同時に自分自身の肉体から昇ってくる感覚はシャットアウトしていく(自分を無にしていく)という、いわばホントに 「幽体離脱による相手への憑依」のような芸当であるのかもしれない。


他者の行為の模倣、同調、鏡像への同化、幽体離脱、自己同一性…。

はたして私が思っている「私」とは、いったいナニモノなのだろうか。

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2007年02月12日

諭吉三連星とアースダイビング

2月11日、大安吉日。

大学時代、同じ下宿に住んでいたOさんの結婚披露宴に出席する。



イメージ図

せっかく最近、「おとなのおりがみ」という新たなるワザを身に付けたので、ここぞとばかりに発揮しようと、朝からご祝儀の小細工に没頭し、名づけて 「諭吉三連星・祝福のジェットストリームアタック」(@ガンダム)なるご祝儀を作製、ご祝儀袋に入れて何でもない顔をして謹呈させていただく。
(今ごろ手にとって苦笑しているだろうか…(笑)。)


(どうぞお二人がこれからの日々を、泣いたり怒ったり笑ったりしながら、いつでも仕合わせを感じつつ愉しく過ごさんことを、 心よりお祈りいたしております。)


久しぶりに会う大学時代の友人たちは、披露宴終了後、当然のごとく我が家にやってきて、朝まで飲んで大いに語らう。

こういう集まりは、学生時代の在りし日を髣髴とさせ心を震わせるが、 話の内容は歳を重ねるごとに徐々にリアルでシビアな話題が口をついて出ることも増え、やはり歳月の流れを感じないではいられない。


明けて今日の午前中、友人たちがそれぞれ帰路に着いたあと、一人残された私は寝不足アタマで部屋の片付けと掃除をし、 あらかた片づけてボケッとしていたら、おもむろに携帯がピロピロと鳴る。

昨日の披露宴に参加していた友人Mより、「明治神宮に水を汲みに行くのだけれど、一緒に行かない?」というお誘い。

「今日の1時から3時の間に東南東で汲んだ水を飲むといい」と、ある人に言われたとか何とか。

「明治神宮で水を汲む」なんて、まさにアースダイバー

せっかくの機会だから行ってみようと思い、「よろしい。では私も汲みに行こう。」と、寝不足アタマでとりあえず返事をする。


明治神宮近辺の「Earth Diving Map」を調べながら行こうと、カバンに『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)を詰め込んで、いざ原宿へ。

カラッと晴れた陽射しが気持ちがいい。

テクテクと歩きながら、『アースダイバー』を開き、明治神宮の地層地歴をチェックしてみる。


『京都には北東の方角に比叡山があり、そこに最澄は仏教の寺を構えて、 国家の鎮護のための象徴的な場所とした。江戸にも北の方角に日光山があった。江戸の設計図を描いた天海僧正の提言で日光に聖地が開かれ、 家康の御霊(みたま)を祀ることで、そこが守護霊の宿る場所となった。こういう場所が、近代天皇の都である東京には、 まだなかったのである。首都のほぼ西北の方角にあたる代々木の御料地が、 明治天皇の御霊を祀る国家的な神社の建てられるべき場所として選ばれた背景には、あきらかに、そこを東京と国家を護るべき、 守護霊のおさまり場所にしようという、象徴的な思考が働いていた。
「東京は帝国の首府にして世界にたいして帝国を代表せり故に帝国を鎮護せらるべき地点は帝国を代表する帝都を鎮護せらるべき地点たるなり」 (「明治神宮経営地論))
広々として小高く、白虎(西)、青龍(東)、朱雀(南)、玄武(北)をあらわす吉相をそなえた地形をもち、水清く、 深々とした針葉樹林につつまれた森といえば、最有力候補として、代々木が浮上してくる。その森に、帝都と帝国を守護する、 強力な霊を祀る神社が建てられなければならない。そうしなければ、世界戦争の時代を生き抜いていくことはできない。 そういう象徴的な思考によって、明治神宮はあの場所に選ばれたのだった。』(同著、p75)


ほうほう。なるほど。

明治神宮周辺の「Earth Diving Map」を見てみると、明治神宮と代々木公園一帯は、「明治通り」と「井の頭通り」 という二つの湿った低地に挟まれた岬のような地形の小高い場所に位置しており、原宿駅前の「竹下通り」 というこれまた湿った低地の延長線上にはちょうど、「明治神宮御苑」の南池がある。

なるほど。見事なものだ。

そして、その南池のもっとも奥まったところでは清水が湧いている。

それが今回の取水の目的地、戦国武将の加藤清正が掘ったと伝えられる「清正井(きよまさのいど)」 である。


地層から言うと、ここで湧く水の「流れ」は、原宿の「竹下通り」を通って「明治通り」に合流し、そのまま渋谷へと向かって、 ここでコンクリで固められた「渋谷川」となって地表に顔を出す。

そして広尾、麻布十番、芝公園と抜けて、東京湾へと至る。


ほほう。なるほどね。

ここは広尾、麻布十番というセレブな土地を潤す水の源泉の一つであるか。

よ〜し、たっぷり飲んでやれ(笑)。

…と思ったら井戸のそばの看板に「飲まないでください」と書かれている。

「何おう? ええい!当たってくだれ…いや当たって砕けろだ!」と、友人と一緒にペットボトルを井戸に突っ込んで水を汲み、 グビグビと飲めばほのかな甘みを感じさせるなかなか美味しい水。

立春を過ぎたので「寒の水」とはいかないけれど、からだに春の目覚めを呼び起こす「呼び水」にはちょうどいいだろう。

東京の湧水めぐり、地下水脈めぐりに、ちょっとはまってしまいそうな予感。

posted by RYO at 22:18| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月05日

発酵の国

中沢新一さんの本は、一時期はまっていろいろ読んだ。

ここ最近はしばらく離れていたのだけれど、私の背後の「積ん読」には、 もうずいぶん前から中沢さんの本が何冊か待ち構えている(そういえば『三位一体モデル』は読んだ)。

今回、ひさしぶりにその「積ん読」の中から一冊、『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)をずるずると引きずり出して読んだら、やっぱりとても面白かった。

私たちがふだん暮らしている土地の層に刻み込まれた歴史というものを、今一度思い起こさせてくれる、素晴らしいインスパイア・ ブックであったが(オススメ!)、その最後の章に書かれていた「分解者」というアナロジーを読んで、私はハッとした。


『未来に生きるべき皇室の意味は、いまやまったくあきらかである。二十一世紀の天皇制は、 単一文化と経済主義を特徴とするグローバリズムにたいする強力な解毒剤としての存在を、世界にむかってアピールしなければならない。
ぼくは夢想する。双系原理によって立ち、都心部にあっても、 自分のまわりをとりかこむ騒音にすこしもそまらない森の奥で、おだやかな森番のようにして生きる天皇が、 ある日つぎのように世界に向かって発信するのである。
「わたしたちの日本文明は、キノコのように粘菌のように、グローバル文明の造りだすものを分解し、自然に戻していくことをめざしている。 多少風変わりな文明です。そしてわたしはそういう国民の意思の象徴なのです」。』
(中沢新一『アースダイバー』、講談社、2005、p238−239)


日本人は分解者である!

なるほど。分解者か。文化医者。ふふふ…(笑)。

私は酒を始めとする発酵食品を愛し、大学では醸造学まで専攻して、味噌を作ったり、ヌカ漬けを作ったり、どぶろくを作ったりして、 自分で作った発酵製品に囲まれてはニヤニヤと薄ら笑いを浮べている、かなり怪しい「発酵者」であるので、「分解者」 と言われて妙に嬉しくなってしまった。
(「発酵」とはすなわち微生物による「分解」のことである。)


日本の伝統食には、さまざまな発酵食が存在するが、基本的に温暖湿潤で、四季がはっきりしているこの土地は、 極めて多様性に富んだ微生物の生態系が存在し、土地全体が旺盛な発酵分解力を備えている。

この土地に住む私たちの祖先は古来より、その力を利用することによって、モノを分解し、カタチを壊して、 そこからスピリッツ(酒精)を取り出すワザに長けていた。

それによってこの国には高度な「発酵文化」が築き上げられていったわけだが、その力の及ぼす影響は食品だけにとどまらず、 あらゆる精神活動にまで及んだ。

西方から次々とやってくる新しい文化や文明は、極東に位置するこの吹き溜まりのような島国にたどりつくと、 この土地の持つ力によって分解され、カタチを失い、スピリッツ(精神)へと発酵、昇華させられていったのである。

東の果てに流れ着いた数々の文化は、太平洋という巨大にやわらかなモノにその前進を阻まれ、この土地で足踏みをしているうちに、 そのカタチを分解されスピリッツにされて、再び彼岸の世界へと帰されてしまった。

すべてを無や空、カタチなきあわいなものへと帰してゆく日本の思想は、この日本という国のさまざまな地理的条件から発する 「土地の霊力」により生まれたものなのではなかろうか。

日本人が極度な精神主義や根性主義といった「スピリチュアルな力」の陥穽に陥りやすいのは、 もともとこの土地がそのような力を備えているゆえであったのかもしれない。


根性主義と言えば、その精神の炸裂した第二次大戦。

太平洋という巨大にやわらかなモノを乗り越えられるだけの力を蓄えたアメリカという強大な「物質的な力」は、 今までとは逆のルートからやってきて、圧倒的な物量でもって日本の力を屈服させた。

しかし彼らはなぜか、さまざまな思惑から「天皇」という日本の精神の中心的存在を残した。

何がそうさせたのか歴史の面白いところであるけれど、「物質的な力」と「精神的な力」 の拮抗という点から考えればとても象徴的な出来事である。


「アメリカ的な力」の象徴とも言えるグローバリズムが世界中にその広がりを見せる現在、その役割を果たしたアメリカという国は、 おそらくこれからゆっくりとその身を引いてゆくだろう。

(「アメリカという国がその身を引いてゆく」というのは、アメリカの「物質的な力」が退いてゆくということではなく、 もはやすでにその力が世界中に浸透したので、その発信源としてのアメリカという「国」がその役割を終えたというだけのことである。 )

それに伴って、各地に広まった「物質的な力」はさらにその力を増してゆくことになる。

グローバリズムは現在、ますますその力を強め、世界を標準化し、ノイズを減らし、ヒエラルキーを作り、 きわめてデジタルでスムーズな世界を構築していっている。

それが悪いというわけではなく、それだけに力が偏ればその弊害が出るという事実。

そのグローバリズムのもつ「構築力」のもたらす弊害を無毒化し、 構築されたものを今一度バラバラにして自然に帰してゆくという拮抗関係にあるものが、「分解力」である。


「構築」と「分解」。

その二つは両輪のようにお互いを補いながら、世界をさらに躍動させていくだろう。

その「分解力」を豊かに持つ土地を住処とし、その力を用いる術を文化として継承してきた私たち日本人には、これからの時代、 世界に貢献できることが多いかもしれない。

ビバ!発酵!

かもすぞ!(@もやしもん)

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2007年02月01日

おりがみと雑念沸騰中

いつものように書店の巡回をしながらうろうろしていたら、この前ブログで触れた 『おとなのおりがみ』(アル中Masa、山と渓谷社、2006)が、バーンと大量に平積みにされていた。

おお!すごいじゃないか。 私が買ったときには寂しそうにポツンと書架に隠れていたのに、こんな陽の目を見ることになるなんて。

うんうん、なんだかオイラも嬉しいよ。 アル中Masaさん、おめでとう。

手にとってみると、私が買ったときに付いていた帯とはまた違う帯になっていて、「ブログで話題沸騰中」とか書いてある。

へぇ〜…

…って、何となく思いついて、たった今さっそく【おとなのおりがみ】でググってみたら、 このブログもトップページにちょろんと顔を出している。



ん? 「ブログで話題沸騰中」って…、もしかしてこのブログも入ってるの?

書いてる本人も知らぬところで、なんだか大きな流れのなかに巻き込まれている。


出版元の「山と渓谷社」も、「おとなのおりがみ」のサイトを作ってテコ入れしてるし、 書店によってはコーナーまで設けて、実際の折り紙を展示しているらしいし、う〜む…よもやこんな形で「Web2.0」 の世界の一端を担うことになるとは思いもせず。

まぁ、たしかに「おりがみ」関連での検索訪問者数は増えていたけれど、まさかグーグルのトップページを飾っていたとは。

「Web2.0」の現代、何がどんな形で注目を浴びるか、判らないものである。


ところでグーグルのトップページで思い出したのだけれど、ここ最近、【雑念】でググると、 だいたいいつも私のブログは3番手あたりにつけている。



何ともありがたいことであるし嬉しいことでもあるけれど、でも、それってつまり「【雑念】日本第3位」…ってこと?(笑)


…ええ〜、わたくし、晴れて

「日本で3番目に雑念にまみれている男」(Google 認定)

に選ばれました。

ありがとうございます。ありがとうございます。

わたくし、これからもより一層の道草を食うことに邁進し、雑念道を迷走してまいりたいと思いますので、みなさまどうぞ、 生温かい眼で見守っていって下さいますよう、心の片隅から何となくお願い申し上げます。

posted by RYO at 22:45| Comment(4) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする