2007年01月28日

野口体操と明日館

野口体操を習っている受講生の人たちの交流会に行ってきた。

会場は、池袋駅から歩いて10分ほどのところにある、重要文化財にも指定されている「自由学園 明日館(みょうにちかん)」。

…と書こうと思ったら「妙に痴漢」と出たけれど(笑)、そんな誤変換とは似ても似つかぬとても素敵な建物である。

現在ある建物は2001年に保全修理されたものであるが、最初の建物が建築されたのは1921年というから、 80年以上も前の学校建築である。

椅子などの家具も、建物のカタチに合わせて作られており、建築全体を貫くフラクタルな構造が、 ある種のリズムとハーモニーを奏でている。

う〜む…美しい。

このような学び舎で学ぶことのできた子どもたちの仕合わせを想う。



門を入って、美しい芝生の庭をてくてくと歩き、奥の建物へ。

交流会の部屋に入ると、羽鳥先生も含めすでにいらっしゃっている方々がちらほら。

羽鳥先生にご挨拶をして受付を済ませ、荷物を置こうと壁際の棚のほうへ行くと、その棚の上に何気なくこんなボードが置いてあった。



「建物は使ってこそ活きる」
「動態保存」

おお! なんと素晴らしき言葉。

からだの研鑽を重ねる人々の会合にふさわしい言葉である。

そう、「からだ」も使ってこそ活きる「動態」だ。


昔どこかの街で、現役で使われている古い木造の橋があって、歴史的にも価値のある建造物だったのだけれど、 橋そのものがだいぶ傷んできたので、通行禁止にして保存することにしたら、むしろ逆に劣化が激しくなってきてしまったので、 あわててふたたび通行禁止を解除して、修復しながら利用することにした、という話を聞いたことがある。

家も人が住まないとあっという間に荒れていってしまうが、建物も橋も人間のからだも一緒で、なにかが出たり入ったり、そこに「動き」 がないと、錆びたり腐ったりしてゆくものなのかもしれない。

この「明日館」も、重要文化財だからといって立ち入り禁止にして柵越しに見学するだけという形にはせず、どんどん開放して、 いろいろな行事に使っていってもらうことで、建物を活かしていこうという、その発想が素晴らしい。

さすが自由学園。


そんな美しい理念に守られた建物の中、まず羽鳥先生のご挨拶をいただいた後、一人一人自己紹介をして、お茶を飲みながらの交流会がはじまる。

ふだん参加している教室とは別日の教室に参加されている方々とは初対面の方が多い。

私などは野口体操を始めてまだ日の浅い新参者の部類であるが、 野口体操を創始された野口三千三(みちぞう)先生のご存命だった頃から続けている方々の中には、やり始めて20年、 30年という方がざらにいらっしゃるのが驚きである。

それくらいずっと打ち込めるものと出会えるということは、ホントに仕合わせなことだなぁとつくづく思う。


今回の参加者の中には馬頭琴の演奏家の方がいらっしゃったのだけれど、みんなでワイワイと歓談していたら、おもむろに馬頭琴の演奏が始まり、 その隣で演奏に合わせて羽鳥先生とベテランのAさんが「上体のぶら下げ」という体操を始める。

なんだか可笑しくて、怪しくて、美しくて、素晴らしい。

「みなさんもご一緒に」というリクエストに、全員で馬頭琴を聴きながらそれぞれくねくねと体操を始めると、会場は一見、 怪しい新興宗教のお祈りの時間といった光景と化す(笑)。

途中、会場のスタッフがお茶のお代わりを持って入ってきたが、彼女の心境は果たしていかなるものであったろう。

みなさん、バランス感覚のよい方ばかりなので、ガチャリと扉が開いてスタッフが入ってきた瞬間、 そのスタッフの心中のたじろぐ様子を想像して爆笑が起こる。

「我が身のオカシサ」を笑うことのできる「ユーモア」も、またバランス感覚。


いろいろな活動をしている個性的な方々と触れ合って、いつもと違う波やリズムを感じ、受け取り、 新しく力を呼び起こされる素敵な集りであった。

こういう「場」は、日常の中で徐々に磨耗してきてしまったなにか大切なモノを、快復させてくれる。

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2007年01月22日

自分がいなくてもいいように

録画してあった「情熱大陸」(TBS、 日曜23時放送)を観た。

今回取り上げられていたのは、早稲田大学ラグビー蹴球部の監督・中竹竜二さん。

私はあまりスポーツを観る習慣がないのでよく知らないのだけれど、去年までカリスマ監督に率いられていた早稲田大学ラグビー部は、 全国大学2連覇を達成した大学最強クラブであったそうだ。

中竹監督は、その後釜として早稲田大学ラグビー部の監督に就任したのである。

その重責はとてつもない。

監督就任前まではシンクタンク(三菱総研)で働いていたという経歴を持つ中竹さんの組織論は、とても興味深く面白かった。


『どんなリーダーがきても、 それをきちっと支えてあげるフォロアーが成り立ってる組織が一番強いなと、ずっと感じてたんですよね。
例えばキャプテンが怪我しても、他のヤツがポッと代わった瞬間に、まだまだ組織が存続できる力を持つためには、 リーダーシップで作る組織よりも、フォロアーシップで作る組織のほうが、断然、地に足着いてるなっていうのは思ってたんで。
僕の組織の作り方は、僕がいなくなっても、 リーダーがいなくなっても進化し続けるというか、存続し続けるのが理想の作り方だったし、 リーダーの要らない組織を作るためのリーダーだなと思ってたんで。』


その言葉どおりというのか何なのか、番組の構成はほとんどラグビー部の選手たちばかりが映し出されていて、 主役であるはずの中竹監督の見せ場となるシーンがあまりない。

監督が選手に的確なアドバイスをするとか、叱責するとか、そんなシーンは皆無である。

(逆にOBに叱責激励されているシーンはあったけど(笑)。)

もしかして番組の編集スタッフも、撮りためたフィルムを観ながら、使えるシーンが少なくて編集にとても苦労したりしたのだろうか? (笑)

(な〜んて、あえて外したのかな?)

けれども私はそんな番組の構成を感じながら、皮肉でなく、この監督は「すごい!」と思った。

つまり、言ってる事をちゃんと実践している。

「リーダーは要らない」と(笑)。


その象徴的なシーンがハーフタイムのロッカールームのシーンだ。

試合中、前半にリードされて迎えたハーフタイムのロッカールーム。

選手たちがお互い前半の注意や意見を言い合う中、監督は画面の真ん中あたりに黙って突っ立っている。

ずっと沈黙だ。


『僕はハーフタイムではほとんど何も言わないですよ。大事なことは。
練習中もほとんどみんな自分で考えてって言ってます。
だからやっぱこちら側は考えることを委ねて、考えることをさせていることに対する責任がこっちにもあるんで、 ちょっとぐらいの間違いであったり、ちょっとぐらいの違いがあっても、それは受け入れるべきだな、という責任を感じてますね。』


そう本人が言うように、ロッカールームで監督はホントに全然しゃべらない。

ただ黙って部屋の中に突っ立っているだけである。

しかも、最初は部屋の真ん中あたりにいたのが、追いやられるようにだんだん奥へと引っ込んでいく。 まるで所在が無さげなくらいに(笑)。

選手たちがお互いワァワァと意見を言い合う中に、口を閉じ、黙って身を置く監督。

ロッカールームという空間に、権力者が身を引いたことで生まれる 「自由広場」がある。

それは「楽市楽座」のように、相互の交流を促し、活性化させる。

だが、「黙っているだけなら要らない」かと言われればそれは違う。

「黙って」、「いる」ことが重要なのだ。

『なんか彼は中心にいますよね。「なぜか?」と思われているのに中心に来る、 というのは優れてるんじゃないですか。』

というスポーツライターのインタビューが印象深い。


周囲に「自分がいなくてもいい」ような環境を作っていくということは、すべての基本であると私は思っているが、内田先生が 「できるビジネスマンの仕事振り」について、著書の中でこんなことを言っている。


『出来の悪いビジネスマンとか組織人にいるね。 その人が休むと仕事が停滞してしまうというような形に仕事を構築しちゃう人。あの人がいないんで仕事が回らないよって。 自分がいなくなったら、組織が損失を受けるという仕方で、自分の存在価値を確証しようとする。』
(『東京ファイティングキッズ・ リターン』内田樹・平川克美、バジリコ、2006、p277)


優秀な者は、そういう事態になるまいとしながらも、周囲の要請により常にそういう状態が生み出されてゆくのに対して、 そのような状態にある種の自己実現を見出す者は、自ら望んでそういう状態を作ろうとする。

自分がいなくちゃいけないように、自分が必ず必要とされるように、周囲の環境を作り上げていく者は、 実はねじれた形で周囲に依存している。

必ずしもそれが悪いと言うわけではないが、ただ、それを自覚しているかどうか、その差は大きい。

なぜなら、組織としてそれがネックとなる可能性があるのはもちろん、個人としても、やがて時が経ち、本人が 「老いて周囲に頼られるほどの力が無くなった時」に、それ以外に周囲との関係性を構築する仕方を知らない、 ということによる問題が浮上する恐れがあるからだ。

「それ以外のやり方」で自己確立できるように、早いうちから準備しておくことはとても大事だ。

まぁ、それは平たく言えば「趣味を持て」ということになるが。

(…ん? 何か別の話になってるな。)


人生でも仕事でも教育でも、「自分がいなくなった後の世界を空想する(メメント・モリ)」ということはとても大事だ。

自分がいなくなってもいいように周囲の環境を作り上げてゆくこと。

譲りながら、委ねながら、任せながら、身を引いてゆくということ。

「“自分”が生き続けようとする者」は、周囲を巻き込み、居着かせ、育てない。


『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、 豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちにいたるのです。』
(@『ヨハネの福音書』12章)


…なんて、まさか「ラグビー監督のテレビ番組」から「聖書の言葉」にまで広がっていってしまうとは我ながら予想もしなかったけれど(笑)、 まぁ、それはともかく。


シンクタンクで働いていたという中竹監督の頭の中には、「理想の組織論」というものがおそらくある。

それが具体的にどのようなものなのか私は知らないが、おそらくとても納得できるものであろうことは、 番組の中で監督が語る言葉を聞いていて感じられる。

シンクタンクで「理想の組織とは」「理想の企業とは」ということを研究してきた(と私は勝手に想像しているのだが)監督は、 もしかしたら、「それをスポーツの世界で実践してみたら勝てるのか?」という壮大な野望のようなものがあるのかもしれない。


私はスポーツのことは詳しくないし、今回だってテレビでチラッと見ただけだけれど、「これはいいチームになる」と私も思った。

だが本人も言うように、「いいチームが勝つとは限らない」。

「いいチームを作る」ということと、「ゲームに勝つ」ということ。

それは必ずしも一致しないが、理想と現実をすり合わせながら、中竹監督にはぜひとも実現し、一つのロールモデルを提示して欲しいと、 心から願う次第である。

posted by RYO at 20:45| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月17日

異邦人の立ち位置を取る

火曜日、杉並のママさんたちの育児サークルで講座を一席ぶつ。

毎度のことながら、このような集まりにおいては女性だらけの中に男は私一人である。

何ゆえに私は「女だらけの中に男一人」という状況に、これほどまでに飛び込んでゆくのだろうか。

インドの旅でそういう状況は懲りているはずなのに、 ふだんの講座もそんなことはしょっちゅうだし、聴く側として講演会に行ってもそんな状況だったり、 ついこのあいだの講座もベリーダンスのグループで麗しき踊り子さんたちに囲まれての講座だったし、前世で何かあったとしか思えない。

「いったい何しでかしたんだ?オレ!」(笑)


しかし考えてみれば、つねに「人と違っていたい」という欲求に満ち溢れているアマノジャクな私は、 そういう状況に身を置くことがもっともお手軽かつ必然的に「人と違う立ち位置にいる」ことになるのであって、 本人すらそれと気づかぬ無意識的欲求のなせる業だったりするのかもしれない。

ただボケッとその場にいるだけで「人と違う立ち位置に立てる」というのは、たしかにこれほど楽なことはない。 (が同時にこれほどツライこともない)


ある集団において、「人とちょっと違う立ち位置にいる」ことをメンバーに認知されていることの特権は、 何か勝手なことをやっていても放っておいてもらえるということである。

私は「好きにしていていいよ」と言われたときにもっともパフォーマンスを発揮するタイプであるので、 私にとってそのような立ち位置は望むところであるが、ただ、 何か内々で集りがあった際にフルメンバーとしてカウントされない可能性があるので、その席に呼ばれなかったり、話に加われなかったりという、 一抹の寂しさを引き受ける覚悟は必要である。


そういう立ち位置にいる者は、共同体のフルメンバー内で不満が圧縮されてきた時に、その不満の矛先となりやすいので、 「いじめられることで共同体の体制維持に貢献する」という不幸な役割を担う羽目に陥らぬよう、ある種の「位置取りのワザ」 を所作として身につけておかなければならない。

一度、「いじめられる役割」を担ってしまうと、その役割から抜け出すのはなかなか難しい。

そういうコミュニケーション作法に「同意した」とメンバーに認知され、そのように「構造化」されていってしまうからである。

メンバーがそういう役割を欲し、その役割をこちらに振ろうとしてきた時には、いちはやくその「気配」を察知して先を取り、 身をひるがえし、より良い形で共同体へ寄与できる立ち位置を見つけて素早くそこに身を置くということが必要となる。

そういうときこそ「異邦人」という「持たぬ者」の身軽さ、フレキシビリティーの発揮しどころであろう。

そのような所作、「位置取りのワザ」を身につけることは、「異邦人」や「道々の者」 のような者たちにとってはとくに、命の次に大切な護身術、処世術である。

そのような「所作」を身につけ、共同体に構造変化が起きようとするたびに、より良い構造へと構築してゆくためのキーとなる者は、 ときに「トリックスター(⇒Wiki)」 としての役割を担う。

「共同体」と「異邦人」がそのような関係を構築できることは、双方にとってとても仕合わせなことである。


このあたりの感覚は、とても武術的な「間合い」「位置取り」の感覚でもあって、たとえばそれは「対立の構造」 に巻き込まれぬような身の処し方であったり、あるいはそれに巻き込まれることが不可避であるならば、「不敗の立ち位置」 をいちはやく見つけそこに身を置くことであったりする。
(「勝たなくても良い」。というより「勝ってはいけない」。盛者必衰勝者必敗)

それらは人生を生きていく上でもとても有意義な感覚技法でもあるのだが、とはいえ「どうやって身につければいいんですか?」 と言われてしまうと困ってしまう。

感覚の世界のことであって、いくら頭で分かったって身は動くものでない。

気づき、稽古し、磨いていくしかない。


……ということで、いつものことだが、話が大幅に脱線している(笑)。

え〜っと…何だっけ? そうそう、子育て講座のことであった。

今回もいつものごとくべらべらとしゃべり倒しながらの講座であったが、整体やシュタイナーの子育て観を交えながら、季節のこと、 渇きのこと、 気をかけるということ、子どもの聖域(アジール)を作るということ、場をデザインするということ、 などなど、もはや何をしゃべったのか本人ですら覚えていないくらいしゃべり倒した。

時おり、からだを動かしたり、お互い触ったりして、リズムを作ったつもりだけれど、なんだか「走り抜けた!」という印象。

終わって猛烈にのどが渇く。 うぅ…、水、水。

講座を終えるたびいつも思うのは、「噺家の人はすごいなぁ。」という尊敬の念。


今回参加してくださった皆さんには、私が今まで会報「自由人」に書いていた育児に関する小文を冊子にまとめたものをお渡しした。

冊子の文章は、ブログと違って文字数に制限があるので書くのは大変だが、言いたいことが凝縮してまとまっており、 我ながらたいへんお気に入りの文章たちである。

長い文章を書くのは簡単だが、短い文章を書くのはむずかしい。

このブログなどはただ雑念を書き散らすだけであるので、未編集のダダ漏れ文章であるが、もしこれを「きちんとまとめて書け」 と言われたら、もう手間がかかりすぎて書いてらんない。

でもこれでもいちおう誤字、脱字、リズムといった「語り口」だけは意識しておるのですよ。

内容まではご勘弁を。


それで今回はなんとなくふと思いついて、その中の一文をここに再録しようかと思ったので、載せてみる。

なにか息づかいの違いのようなものを感じられるかもしれません。


『●行為に声なき言葉を聞く

何年も前の話になるが、子どもたちと遊んでいたときのこと。外で遊んでいた一人の男の子が玄関にいる私のところにやってきて、 キャンディーの包み紙を見せながら、「これ捨てて。」と私に言った。

ゴミ箱はすぐそこの廊下にあったので、「ゴミ箱はホラ、すぐそこにあるから自分で捨てな。」と言うと、彼は「じゃあ、いいや。」 と言って、ふたたびそのまま外へと遊びに行ってしまった。

その後しばらくして、彼はあの包み紙をどうしたろうかと思って彼らの遊んでいるところに行き、彼を見てみると、その手には持っていない。

辺りを見回してみると、その包み紙が近くの植え込みに捨ててあるのを見つけ、その瞬間、私はハッとした。

「しまった。捨てさせたのは私だ。」

私は彼に「自分のことは自分でさせよう」と思って、ゴミを自分で捨てさせようとしたのだが、そのとき私は自分のことだけを考えて、 彼の要求を完全に無視していた。

「ゴミを捨てる」という行為を通じて、彼は私と関わろうとしていたのに、「自分で捨てなさい」と言いながら 「彼がゴミを捨てようとする行為」に関わろうとしなかった私は、結果として彼との交流を拒んでいたのと変わらない。

自分でゴミ箱に捨てさせようというのは、まぁ良い。

でも、もしそうさせるのであれば、彼にすぐそこにあるゴミ箱に捨てに行かせるよりも、私がすぐそこにあるゴミ箱を取って彼の前に出し、 「はい。自分で捨てな。」と言うべきであった。

私は自分のとった行為に恥ずかしくなった。

私が彼の要求(というか交流)を拒絶したことによって、彼の中に不満の種が生まれ、それが彼を「包み紙を植え込みに捨てる」 という行為に及ばせたのだ。

植え込みに捨てられた包み紙は、私に対する不満のメッセージであった。

想像するのも恐ろしいが、私がもしそのとき、さらにその行為を「こんなところに捨てたらダメじゃないか」と叱っていたならば、 “メッセージ”を聴き取れないニブイ私の言動に、彼の不満はいよいよ圧縮され、私を困らせるような“ちょっかい”や“イタズラ” へと化けたことだろう。

それでもそれだけなら、私が苦労するだけだからまだいい。もしそれが内攻し、 自己破壊的な現象(風邪とか怪我とか)を引き起こすことになったり、あるいは大人に対する不信感を募らせるようなことになったとしたら…。

「そんなことまで…」と思われるかもしれない。
「考えすぎだよ」と言われるかもしれない。

けれども不満、不信感というものは、知らぬうちに家具に埃がたまるように、日々の暮らしの中で、 眼に見えぬほど少しずつ積もり積もってゆくもの、と私は思う。

そのようにして、それと知らぬうちに積み重なった不信感というものを、大人になってから拭い去ることは、本当に難しい。 日々の些細な出来事が、日々の暮らしを作り、日々の暮らしが、人の心を作り上げるのだ。

小さな過ちが、気づけば大きな過ちへと積もり積もるその前に、それらを今一度振り返り、丁寧に心を配っておくということは、 とてもとても大切なことではなかろうか。

「声なき者の訴えを聞く」とは野口(晴哉)先生の言葉だが、子どもの行為の奥にある要求に気づくということが、いかに難しく、 また大切なことなのか、身に沁みて反省させられる出来事だった。

私は、小さな子どもと小さなゴミくずに、またもやとても大切なことを教えられるはめになり、そんな未熟な自分に恥じ入りながら、 植え込みに捨てられた包み紙を黙って拾って、自分でゴミ箱へと捨てた。』

posted by RYO at 20:33| Comment(21) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月13日

エッシャーとDS

「Bunkamura ザ・ミュージアム」で行なわれている「スーパーエッシャー展」 に行ってきた。


じつは正月の休みのときにもいっぺんフラッと行ってみたのだけれど、その時は入り口のところにぞろっと並ぶ行列の人数と、 「80分待ち」と書かれた看板を見て、そのまますみやかに踵を返して立ち去ってしまった。


今回はそれを見越して開場前に行ったのだけれど、それでも4,50人は並んでいた。

さすがはエッシャーといったところか。

チケットを買って入場すると、入り口に入ってすぐのところでお姉さんが来場者に音声ガイドらしきものを配っている。

こういうのはたいてい借りるのに500円とかお金がかかるし、「まぁ別に要らないかな」と思ってスルーしようと思ったのだけれど、 念のためちらっと見てみると、お姉さんが配っているのは、なんと「ニンテンドーDS Lite」(携帯ゲーム機)であった。

「え?? DS??」

意表を突かれると好奇心がむくむくと湧き起こってくる私は、さっそく列に並んでお姉さんの説明を聞く。

なんとこの「スーパーエッシャー展」では音声ガイドとして、携帯ゲーム機である「DS Lite」用に作った特別なソフトを使用して、 画像と音声の両方でのガイドを試みているらしい。

しかも貸し出し無料ときた。

なんてこった! ジーザス!

こりゃ借りるしかない。


さっそくお姉さんから「DS Lite」を受け取るとストラップを首にかけ、 付属のタッチペンでぐりぐりといじくってみる。

画面をタッチしながらパシャパシャとめくってみると、エッシャーの展示作品が次々と映し出され、 ヘッドホンからはその作品のガイダンスが流れる。

しかも画面の作品をタッチすると、その部分の拡大した映像が左の画面に映し出され、隅々までじっくり観ることができる。

なんてこった! ブッダ!


ゲーム機ならではのインターフェイスを利用した、見事なガイダンスに「ほぅ〜」とすっかり感心。

なんだかこれだけでも来た価値があるなぁ(笑)。

しかし、こんな使われ方をしていたとは。やるな任天堂。

いったい何百台用意しているんだろう。そりゃ店頭で品切れが続くわけだ。

でもおそらくこれからもっと、こういう端末連動型の展示やアトラクションは増えていくだろうなぁ。

面白そうだけど落ち着いて観たいときには、周りがカチャカチャやってるのが気になりそうだ。

作品の目の前で立ち止まって「DS Lite」のほう見てる人間がいたりね(笑)。

う〜む…。一長一短。


…ハッ?! こんなことをしている場合じゃない!

私はエッシャーの絵を観に来たのだった!

我に返って作品を観ようと会場の奥へ進むと、最初のほうに並んでいたはずなのに、すでに作品の前には黒山の人が並んでいる。

なんてこった! マホメット!(ってクドイな…)


ちょっぴり悲しみにくれながら人だかりの最後尾へとそそと加わり、人の流れに身を任せて作品を一つ一つ観ていく。

エッシャーの絵といえば「だまし絵」やモザイクパターンのような「正則分割」の絵が有名であるけれども、 じつは版画家であるということを今回初めて知った。

エッシャー独特のあの緻密な絵がじつは版画であるという事実に驚愕。

ぜんぜん知らなかった…。

というか今まで構図にばっかり眼が行っていてぜんぜん気づかなかった。

すごい…。

リトグラフも木版も、その緻密さたるや信じがたいものがある。

しかもそのまるで数学者のような几帳面さとユーモアは、音楽の図像化というユニークな試みもしていて、 会場に設置されたモニターではバッハの音楽に合わせて渦巻きの中を奇妙にくるくると動く線が映し出されていた。

「だまし絵」や「正則分割」の絵も、じっと現物を見ていると、その陰でくり返されたであろう緻密な計算の膨大な仕事振りが、 私にわっと襲い掛かってくるようで頭がくらくらしてくる。

さらに会場にはエッシャーの作品をCG化して、平面作品を3Dとしてよりリアルに表現している映像や、 タッチパネルを使って自由に動かせるようにしたインタラクティブな作品なども展示してあって、かなり楽しめるものになっていて、 東京近郊に在住の皆さんにはぜひぜひ一度観に行かれることをオススメしたいところだけれど、この「エッシャー展」、 残念ながら今日までなのである。

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2007年01月08日

「お洒落ドリンコ探検隊」発足

またもや魅惑のドリンクを発見してしまった。


その名も『こどもびいる』。

ラベルのデザインがなかなかイケてる。



マークもなかなかナイスである。



さっそくネットで調べてみると、「こどもびいる専門店」と「こどもびいるオフィシャルサイト」なるサイトを発見。

「こどもだって、飲まなきゃやってらんねえよ。」と、これまたイカすコピーに、シュールなアニメが追い討ちをかける。イイねぇ。

そりゃあね。 子どもだって、いろいろあるだろうさ。

悩みの大きさは、他人と比べられるもんじゃない。

子どもには子どもの「死ぬほどの苦悩」がある。

死ぬな!死ぬくらいなら飲め!(問題発言)


さっそくコップに注いでみると、なるほど泡は荒いが見た目はビール。

補食を「赤玉ワイン」からはじめた私としては(ウソ。でもちょっぴりホント(笑))、ノンアルコールというのが物足りないが、 ドリンクとして前回の 「妖怪汁」より完成度は高い。

クリスマスシーズンに店頭に並ぶノンアルコールシャンパンにも似た味。

味もデザインもオフィシャルサイトも、なかなかイケてる「お洒落ドリンコ」であります。

「お洒落ドリンコ探検隊」(たった今発足。隊員一名)は、これからも「お洒落ドリンコ」求めて各地の街をさすらいます。

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2007年01月02日

新年の挨拶とモ・ジュストとリズム

みなさま、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


…なんて年始の挨拶をとりあえずしてみたけれど、昨年末はいろいろなことがあって、右往左往しているうちに、 あっという間に年を越してしまった。

去年一年を振り返ってみれば、たしかに一年を通してもいろいろなことがあったのだけれど、とくに師走に入ってから、 私の中をいろいろな印象が通り過ぎていって、絶えずどこかさざ波が立っているような感じだった。

それでブログを書く時間もなかなか作れないうえに、なんだかあまり書く気も起きなかったので、しばし更新の間が空いてしまった。

ご心配……は別に誰もしてくれなかったけど(笑)、私は元気で忙しくしておりますので。

どうぞ本年もお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。


ちょうど年末に、「ゲド戦記」の作者のル=グウィンのエッセイ『ファンタジーと言葉』(アーシュラ・K・ル=グウィン、岩波書店、2006)を読んでいたのだけれど、 その中で女流作家ヴァージニア・ウルフのこんな言葉を紹介していた。


『適切な言葉(モ・ジュスト)についてだけど、あなたのおっしゃっているのはまちがい。 文体なんてとても簡単なものよ。文体って全部リズムなの。いったんリズムをつかんだら、間違った言葉なんて使いようがないの。
それはそうなんだけど、もう午前中も半ばを過ぎたというのに、わたしはここにこうしてすわり、 アイディアもヴィジョンも頭にいっぱいつまっているのにそれを外に出せないわけ。正しいリズムがつかめないから。 今言ったことはとても深いことなの、リズムが何かってこと、そしてリズムは言葉よりはるかに深いところにある。ある光景、 ある感情が心のなかにこの波をつくりだすの。それにふさわしい文章を作るよりはるか以前に。
そして書くことで(というのがわたしの目下のところの信念なんだけど)人はこれをもう一度つかまえて、 動き出させて(この動きは一見したところ言葉とは何の関係もなく見えるの)、それからようやくこの波が心のなかで打ち寄せては砕け、 逆巻くにつれて、それに合った文章を作っていくの。でも、たぶん、また来年は違うことを考えているんでしょうけど。――ヴァージニア・ ウルフ』
(『ファンタジーと言葉』ル=グウィン、岩波書店、2006、pv)


私はべつに物書きを生業としている人間ではないけれど、今までの読書経験と、1年以上ブログにいろいろと書き連ねてきた経験から、 『文体ってリズムなの』というウルフの言葉は、すんなり腑に落ちてくる。

それはウルフの言うように「言葉よりはるかに深いところにある」ものとしても、もう少し広義な意味としての「息づかい」 のようなものとしても。

師走の忙しい中であろうとなかろうと、私の中には、書きたいこともしゃべりたいことも相変わらず山のようにあるのだけれど、 それらが言葉になるためにはやはりある種のリズムが必要なのであって、ずっとさざ波が立ち続けているような状態では、 なかなかそのリズムが生み出せない、というか見つけられない。

だから書きたいことはあっても、それははっきりとした輪郭を伴わず、一瞬目を覚まし蠢いた闇の生き物がすぐさま再び眠りについて、 その姿が闇に消えていってしまうような、そんな感じであった。

私の中から飛び出ようとするモノたちが、言葉と文体を伴って受肉化するためには、ある種のリズムが必要なのであって、 それは生命や自己組織化するあらゆるものに見られる、リズムであり、波であり、パターンであり、繰り返しであり、呼吸であり、 脈動であるところの「何か根源的なこと」に通じるように思えてならない。


先ほどのウルフの言葉を受けて、ル=グウィンはこう続ける。


『このリズムをウルフは「心のなかの波」と呼びます。そして、 ある光景や感情がそれを創り出す、というのです――静かな水面に石が投げ込まれ、中心から静かに、 完璧なリズムで輪がいくつも広がっていき、心は外へ外へとこの輪を追っていく、そしてこの輪はついに言葉になる……でも、 ウルフのイメージのほうが雄大です。ウルフの波は海の波で、なめらかに、音もたてずに千キロも大洋を横切って旅していき、岸にぶつかり、 凄まじい音をたてて砕け、言葉という飛沫となって空中に飛び散ります。でも、波は、リズミカルな衝撃は言葉より前にあり、それは 「言葉とは何の関係もない」のです。
したがって、作家の仕事は波を、音をたてないうねりを、陸から遠く離れた海上で、心の大洋のなかで、それと認め、 岸まで追いかけていくことです。波は岸にぶつかって言葉になり、あるいは言葉にされ、自分の物語を吐き出し、自分のイメージを投げ出し、 自分の秘密を打ち明けるのです。そして引き潮となって、物語の大洋に退いていきます。』(同著、p308)


「言葉とは何の関係もない」うねりが、「言葉という飛沫」となって飛び散るところまで、丁寧に追いかけてゆくこと。

それは、「間違った言葉なんて使いようがない」ほどにそのリズムに同調できるまで、「待つ」ということでもある。

ときにそれを待てない人が、そのうねりに手持ちの何かをぶつけて飛沫を飛び散らせて、 それをとりあえずの言葉として回収してしまうけれど、それではやはり何かが大きく違うような気がしてならない。

…とか言いながら、このブログは思いついた雑念をただ書き散らすだけの場であるので、ときに「せっかち(いらち)な私」が、 とりあえず手持ちのオモチャをうねりに「うりゃー」とぶつけてみる、ということもない訳ではないので、 あんまりもっともらしいことをシレッと言っているのも恥ずかしい。

まぁでも、それはそれで、ね。


『読者として、わたしたちはみなあの波に乗ったことがあり、その喜びを知っています。 散文も詩も――すべての美術、音楽、ダンスも――わたしたちの体、わたしたちの存在、 そしてこの世界の体と存在が刻む深遠なリズムの数々から湧きおこり、それらに合わせて動いています。 物理学者は宇宙をとてつもなく広い範囲に広がる無数の振動として、リズムとして読み取ります。芸術はこれらのリズムに従い、 これらのリズムを表現します。いったんその拍動を、適切な拍動をつかまえれば、わたしたちのアイディアと言葉はそれに合わせて踊り、 それはだれでも参加できる円舞なのです。そのときわたしはあなたになり、境界は消えます。しばらくの間だけ。』(同著、 p309)


絶妙で、即妙で、ぴったりな、仕合わせなリズムのコラボレーション。

うむ。 今年の目指すべき目標として不足はない。

てゆうかデカ過ぎ。

posted by RYO at 19:29| Comment(26) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする