2006年11月29日

トリのイチ

講座に参加したTさんとIくんと一緒に、花園神社の「酉の市」(⇒Wiki)に行ってきた。


出店で熊手がいっぱい売られている。

新宿繁華街という場所柄、巨大な熊手をかついで歩いているソッチ系の厳ついアンちゃんとよくすれ違う。「アガリ」 をこういうところでボーンと蕩尽しているのだろうか。

あちらこちらで景気のよい商売繁盛祈願の声が響く。

いろんな出店が処狭しと並んでいるのをウロウロしてみると、なんと見世物小屋まで出ている。


うわ!懐かしいなぁ。 こんなのまだやってんだ。

調べたところによると、見世物小屋は花園神社の名物であるらしい。

怪しい雰囲気に怪しい呼び込み。

はるか昔、小さい頃にワクワクドキドキして入ったけれど、ガッカリして出てきたことを思い出す。

呼び込みのおばちゃんが「蛇女」をしきりに薦めるが、それこそ幼少時の私のガッカリさん。

それより「サバイバルの女」というのが気になって仕方がない。なんだそりゃ?

それってただの…いや、言うまい。


射的の出店もあったので、3人で挑戦。


おっちゃんが、落とし方の秘訣を嬉々として語るので、言われたとおり肩のあたりを狙うが倒れてもなかなか落ちるところまでいかない。

下から狙って打ち上げてみたり、斜めから狙ってみたり、いろいろ試してみるが一個も取れず。

悔しい…。

横を見ればTさんは、おっちゃんに景品を落としやすいところに移してもらっていて、そのことを悔しがっている。チャレンジャー。


出店の中で、一番私の眼を惹いたのは可愛らしい銀杏細工。


銀杏の殻を、割れないように丁寧に穴を開けて細工して、色を塗ってある。

赤ベコみたいに手足や頭がゆらゆら揺れて可愛らしい。

おっちゃんいわく、買った数にあわせて台をオマケでつけてくれるというので、迷わず干支シリーズをコンプリート。

ネズミからイノシシまで、一個一個自分の気に入ったのを選んで台に乗せる。

ちなみに一番奥の高いところで「シュワッチ!」しているのが来年の干支、イノシシ君である。


ところで一匹だけちょっと変なのが混じっているのだけれど、どれだか分かるでしょうか?


ちなみに「全部変。」っていうのは無し(笑)。

それはおっちゃんいわく、「銀杏だから。大目に見てね。」の一言ですべて却下である。

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2006年11月26日

「銀河鉄道の夜」に彷徨う

立川のシネマシティで、「銀河鉄道の夜」の実写版が上映されているというので観に行った。

「銀河鉄道の夜」の実写版が上映されるという情報を聞いたときには、「ええっ?」と思ったけれど、 宮沢賢治先生を心の師と仰ぐ私としてはやはりチェックしておかねばなるまい、と足を運ぶことにしたのだ。

張り切って朝一番の回に観に行ったのだけれど、私以外の観客は3人。

なんだかちょっと寂しい…。


劇中、ジョバンニが映画館でアルバイトをするシーンがあったのだけれど、その映画館の入口の扉のシーンを観て、思わず目をみはった。

「んん??  これ…って……ここ?」

そう。 スクリーンに大きく映し出されたその扉は、どう見ても今私が映画を観ている立川シネマシティの映画館の扉なのである。

現実の世界を忘れて映画の世界に入っていたところに、いきなり「私のいる風景」 (ってフィルムだから自分が映っているわけじゃないけど)がパッと映し出されるというサプライズに、しばしあっけに取られる。

「映画を観ながら、映画の世界に没頭している、その私のいる場所が、映画の世界に登場する」という、 なんだかとってもややこしい入れ子構造にいきなり投げ入れられた私は、再び落ち着いて映画の世界に没頭するまでに、「え?あれ?」 と5分くらいずっと混乱していた。

スクリーンの向こうに、それを観ている自分の存在を感じる、という「メタな立ち位置」に立たされると、人間は混乱するものだ、 というオモシロイ経験をさせてもらった。

いやぁ、ビックリ、ビックリ。


でも、今回はあらかじめ撮影したフィルムであったわけだけれども、考えてみればこれだけオーディオ機器やデジタル機器が発達した現在なら、 映画の中の1シーンにたった今映画を観ている私たちの風景が差し込まれて映画に参加させられてしまう、 というトリッキーな映画の手法も不可能ではないだろう。

それぞれの映画館の後方にカメラをつけて、たとえばフィルムの交換の合間などに、 一瞬その映像を差し込んでスクリーンに映し出せばいいんだから、技術的にはそう難しいことではあるまい。(あれ? 今、フィルムの交換ってしないのかな?)

けっこうオモシロイ演出だと思うんだけど、だれかやってみてくれないかなぁ…。

イタズラ好きの私としては、ぜひとも映写室に入ってそのときの観客の反応を見てみたい。

じつに愉しそうだ(笑)。


「銀河鉄道の夜」の映画化といえば、今から20年以上も前の1985年に製作された劇場用アニメがある。

ジョバンニもカムパネルラも登場人物をネコに置き換えて描き出した独特の世界観は、原作をかなり忠実に再現した完成度の高いもので、 私にしてはめずらしく原作と映画の両方が両方ともにそれぞれ大好きな作品である。

ちなみにずいぶん前に、この劇場アニメ版「銀河鉄道の夜」のキャラクターデザインを担当したますむらひろしさんの講演会を聞きにいったことがある。

ますむらさんは、「アタゴオルは猫の森」などのファンタジー作品を描いている漫画家で、 それらの世界観も幻想的で私は好きなのだけれど(ちなみに今劇場版が上映中)、この方、かなりの宮沢賢治マニアでもある。

そのときは、賢治の詩(心象スケッチって言わないと怒られるかな?)「青森挽歌」に出てくる青森行きの夜行列車が、 いったいいつの何時の列車なのかということを、当時の時刻表とにらめっこして研究中で、自分の仮説を熱く語っていた姿が印象深い。

研究熱心なますむらさんは、賢治の作品を漫画化するに当たって、コマの背景に至るまでかなり細かく考証しており、 銀河鉄道の客車の座席は何色なのか、天の川のどちら側の岸を走っているのか、ジョバンニたちはどちら側の座席に座っているのか、 三角標とはどんなカタチをしているのか…などなど、徹底して調べあげた上で描き込んでいて、そういう仕事の「密度の濃さ」みたいなものは、 言わずとも作品に表れるものである。

そんな、原作の雰囲気を壊さずに漫画化するという難題を見事にやってのけるますむらさんの仕事ぶりに、私は深く感銘を受ける。

小説から漫画へという、大きなメディアチェンジを経たにもかかわらず、しかも登場人物を人から猫へと変えてしまったにもかかわらず、 その仕事をした人間の「私」がちっとも匂わないというのは、ホントにすごいことだと思う。

そのような「無人称の仕事」に、私は人の持つ「宗教性」というものの原点を感じてならない。


意外と知らない方も多いけれども、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」には、四つの異稿が存在する。

ふだんよく語られるのは、その最終稿である第四次稿のものであるが、 初期稿から第四次稿に至るまでにはかなり大きな改稿がなされている。

初期稿を仕上げた1924−25年頃から、第四次稿の完成を見る1931年ごろまでには6,7年の月日が経っているが、 そのあいだ賢治は何度も手を加え続け、「銀河鉄道の夜」は賢治とともに成長していくようにして書かれたのである。

変化し続けることを生命の本質とした賢治らしい書き方であるけれども、もし仮に賢治がもっと長生きをして、 死ぬ直前まで書き続けていたとしたら、いったいどんな作品になったのだろうか。


ちなみに私は第四次稿も好きだけれど、初期稿もけっこう好きである。

初期稿は、人間「宮沢賢治」の言葉がかなり混じりこんでいて、それがたびたび「セロのようなごうごうした声」として作品中登場し、 ジョバンニに語りかけては世界の成り立ち方を教えて、ジョバンニを導いたりする。

先ほど述べた「無人称の仕事」という意味では、「セロのような声」 をすべて削除してしまった第四次稿のほうが完成度は高いのかもしれないけれども、人間「宮沢賢治」 の主張が見え隠れする初期稿もまた好きである。

賢治の主張といえば、昔、賢治の書いた論文(というか宣言文?)「農民芸術概論綱要」を、ワープロで打ち出して壁に張り付け、 折りにつれ読んでいた時期があった。

その主張は江戸時代の思想家、安藤昌益(⇒Wiki)にも通じるものがあって、 当時、学生だった私の心をふるわせ、力をくれたものである。

賢治先生は私にとって、からだの底から力を湧き立たせてくれる、心の恩師である。


『新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系統を解き放て』
(@「春と修羅 四 『生徒諸君に寄せる』」)

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2006年11月21日

物語に風を招き入れて

我が懐かしの下宿「木村家」へと向かうのに、ちょうどボジョレーヌーヴォーが出たので、 それを手みやげにしようと思って酒屋さんへ行く。

(…って去年もそんなことがあったな。 )

今回は人数がけっこう大勢来るみたいなので、ヌーヴォー以外にも何か買おうと思ったら、たまたま鉢合わせた後輩の学生が「お金出しますよ。」 と言うので、「うるせぇ。」と黙らせて、さらに日本酒二升、YEBISビールやら地ビールやらを1ダースばかりドカドカと買い込む。

「重いから持って行って。」と、当然のごとく学生に持たせて先に行かせ、私は後からふらふらと手ぶらで下宿へと向かう。

下宿では学生たちがもう鍋の用意をしており、六畳一間の真ん中に二つ並んで置かれたテーブルの上に、所狭しと料理が並んでいる。


今回は、「RYOさん、例のアレ、そろそろやりましょう。」と、学生の一人に呼び出されたので、わざわざ下宿まで足を運んだのだけれど、 呼び出した張本人が「バイトで不在」という、なんだか理不尽な仕打ちに会わされるが、温厚篤実な私は笑顔でスルーして、 さっそくビールで乾杯。

Salud!


「例のアレ」とは何かというと、「自分史を語る」という企画のことである。

前もちょっと触れたけれども、「自分史を語る」というのは、一人の人間に自分の生い立ちなり、子どもの頃のことなり、 今思っていることなり、思いつくままに自分に関する「物語」を語ってもらい、その「語り」を周りの人間がただひたすら「聴く」 ことによって支える、というそんな場のことである。

私たちは誰でも、「自分の物語」というものをもっている。

それは「私」という人間を構築する由来であり、根拠であり、歴史であり、個性である。

そんなそれぞれの「物語」を思いつくままに語ってもらい、それを聴き合うことで、お互いの理解を深めようというわけである。

けれども、なんで私がひと回りも歳の差のある学生たちのあいだにしゃしゃり出て、こんなことをしているのか、私にもよく分からない。

謎だ。

だが、よく分からないけれども、私なんぞを呼んでくれるのであればどこへでも行こう。


「語る―聴く」という関係性をいい形で構築するために何よりも大切なことは「場作り」である。

なので、人と人の距離を縮めるべく、明かりを消してロウソクを灯し、「闇」と「光」の助けを借りつつ、さらにもっとも大切な 「聴く人の心構え」をみんなにきちんと説明して、「自分史を語る会」をスタート。

ろうそくの炎がゆらゆらと揺れ、みんなの顔の陰影を陽炎のように映しだす中、ひとりひとり思いつくままに語りだす。

よく見知った仲間の口からほろほろと零れ落ちる言葉たちに、みんな先輩も後輩もなくじーっと聴いている。

聞いた話、初めて聞く話、それぞれがそれぞれ感じ入っているようである。

濃密な時間。

とくに「語る人」は、まるでちがう時の流れに身を浸す。

ちなみに「語り」はすべて録音しているので、自分史をしゃべってくれた人には、私から「自分史CD」の特典付きである。

いつか一人で夜中にこっそり聴いて、こっ恥ずかしさに身悶えするがいい。

フハハ!(笑)


ところで「自分史」というのは、読んで字のごとく「その人の歴史」である。

「History」(歴史)という言葉が、「His story」(彼の物語)という言葉に由来するように、基本的に歴史とは「物語」 なのであり、それは「物語られる」ことが本来の在り方である。

今はどのように教授されているか知らないが、歴史の授業で受験対策によく行われる「年号と史実をセットにしてガンガン暗記して覚える」 みたいなやり方では、その本質は決してつかめない。

年号や事実を覚えることもたしかに大切なことではあるが、それよりも大切なことは、その歴史的事実が 「どのような文脈の中に置かれるか」ということだからである。

一つの単語がどんな意味を持つのかは、前後にどんな言葉が来るのかによって、まったく異なるように、歴史的事実も、 それを前後の事実とどのように組み合わせるかによって、まったく異なる意味が浮かび上がってくるものである。

だから歴史的事実というものは、流れの中から取り出して語られても、その本質的なところが見えなくなってしまうのであって、 それゆえに流れの中に置いたまま語られる必要があり、そのために歴史には「物語」の語り口が必要になるのである。

その、事実を組み合わせて「物語」にしてゆくときに、「考えうる組み合わせの可能性」 に思いを巡らせることのできるような空想力を身につけさせるということが、歴史を学ぶということの意義であろうと私は思うのだが、それはまた別の話であって、話が長くなりそうなので、とりあえずは置いておこう。


たいていの人はおそらく、いきなり「自分史を語ってください」と言われても、だいたい当たり障りの無い事をしゃべると思う。

まぁ、それはそうだろう。

私はそれを「ストックフレーズ」と呼んでいるけれど、とにかくそれはまあ序奏みたいなものなので、自分史の場合、 とにかくそのまま黙って聴く。

しばらく語っていると、ある程度語ったところでやがて、今まで自分が考えていた「自分を記述する物語」、 つまりストックフレーズが無くなってくる。

そして、自分を語るためのストックフレーズが無くなると、語りは徐々に揺らぎはじめ、やがて躓き、躊躇い、逡巡しはじめる。

「物語」がほつれ始めるのだ。

そうすると、そのほつれから、未だ語られたことの無い「新しい物語」が生まれ始める。

自分の知っている自分から、自分も知らない自分へ。

その本人自身が、言うつもりも無く聴いたことも無い「物語」は、「聴く」人たちの支えてくれる場の力を受けて、 次から次へと紡ぎ出されてゆく。

ときに、語る人を困惑させながら、聴く人の心を深く打ちながら…。


去年「自分史」をやったときに、「自分史」を語ってもらいCDをあげた人間も何人かいたので、「CD聴いた?」と訊ねてみると、「いや、 ダメッス。聴けないッス。無理無理。すぐ止めちゃいました。」と言う。

ウンウン。そうだろう、そうだろう(嬉)。

いいことだ(笑)。

でもね、いつか自分の語りをきちんと聴くことができたらね、一番気をつけて聴いてみて欲しいのは、「何を語っているか」 ということではなくて、「何を語りあぐねているか」ということなんだよ。

いつもそこに戻ってくる言葉。
ツッかえたり、口ごもる瞬間。
言葉がつい早口になる箇所。

そんな、自分でも意識していないような振る舞いが強調されるところが、君にとってとても大切な部分である可能性は高い。

ただ、そこに向き合うのはシンドイかもしれないけどね。


なんて、そんな感じで、私のような異邦人が、なんだかワケの分からない風を巻き起こして去ってゆく。

ワケの分からない風が、みんなのあいだに何か目に見えないほどのちょっとの変化を引き起こす。

そうして、そこに残される、いつもと同じ仲間たちと、ちょっぴり違う何か。

「風を招き入れる」ということ。

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2006年11月17日

人と道具のマリアージュ

前にも書いたけれど、 最近はドングリでヤジロベエを作ったり、独楽を作ったりして遊んでばかりいたので、講座に来るちびっ子に「ドングリ先生」 との称号をいただいた。

お、それは光栄ですグリ(笑)。

ドングリみたいに美しいものに喩えていただけるなんて、光栄至極でございますグリ。


ドングリでヤジロベエを作ったり独楽を作ったりして置いておくと、子どもたちが熱中して遊ぶのは当然のこと、 大人たちも何となく遊び始めてハマッてしまうのが面白い。

まるで直立静止しているかのように静かに高速回転する独楽や、ゆらゆらと揺らぎながら絶妙なバランスを保ち続けるヤジロベエには、 何かそこに、ある「美しい働き」が現れていて、それがどうにも人を惹きつけて止まないのだろう。

そういう「美しい働き」を見ているだけで人はなぜかホッとし、落ち着き、元気を取り戻すもの。

どうでしょう? 一家に一つ、ヤジロベエ。

家族の集う、食卓の醤油差しの上などにぜひどうぞ(笑)。


独楽も、ちょっと大きな子どもはうまく回して遊べるが、まだ小さい子どもはうまく回すことができない。

何度も挑戦してみる子。
回せないと分かるや、さっさと他の遊び方を工夫する子。
回せないことが許せなくて、ガチャガチャーっとかき乱す子。
何が起きているのかドングリを調べる子。
「喰えるのか?」と食べようとする子(笑)。

それぞれの子どもたちの、いろんな反応が、見ていて愉しい。


私はこういう自然のオモチャもそうだけれど、昔ながらの素朴な玩具や道具を愛して止まない。

昔ながらの素朴な玩具や道具というものは、モノの特性をホントに生かして作られており、そしてまた、 長い年月伝えられてきただけあって、要らない箇所をかぎりなく削り落としてあるので、もはや何も引くものがないくらいにシンプルである。

もちろん、特に玩具などには、ちょっとした「遊び」を残してはあるものの、それでも現代の玩具に比べればはるかに質素なもので、 しかもその「遊び具合」がまた洒落ていたりして、もう見ていてすっかり参ってしまう。


道具とは、それを人が使って何かをするために作られたものであるので、道具を語るということはまた、人を語るということでもある。

素朴で単純な道具よりも、よく考えられ、部品も多く、設計が複雑な道具の方が、使う人に知恵と技術を要求するように思えるが、 実際には必ずしもそうとは限らない。

むしろシンプルになればなるほど、人に知恵と技術を要求するということもある。

最近の道具は、初めて使う人でもなるべく使いやすいようにと、ホントに親切丁寧に考え抜いて設計して作られている。

その善意は疑わないし、素晴らしいことだと思う。

けれどもそれは、本来なら私が悩み、考え、練習し、習得していくべき手間と労力を、代わりにやってもらって省略した、 ということに他ならないのであって、使うほうもあまり手放しで喜んではいられない。

現代生活を送る上で、そんな「ものづくり」の恩恵にあずかっている私は、もとよりそれを否定するつもりはないが、子どもが成長し、 これからさまざまなことを学んで身につけていこうというときに、身の回りにあるものが、 どれもたいして手間も労力もかけずに思い通りに動かせる道具ばかりあふれていたとすると、ちょっと考えてしまう。

果たして、そのような環境の中で、人間の意図を超えた、自然を成り立たせている精妙な「働き」というものを、 どれだけ感じられるだろうか、と。

その「働き」を感じとり、その「働き」の助けを借りてモノや物事に接していく在り方を、 子どもたちにはぜひとも身につけてほしいと願う私には、非常に気になるところではある。


昔ながらの素朴な道具というものは必ず、それを扱う身体技法とともに次の世代へと継承された。

なぜならシンプルに作られた汎用性のある道具は、それを扱うワザがなくては使えない代物だからである。

道具だけが託されても、使えなければ無用の長物である。

なぜ、そんな練習しなければ使えないようなメンドくさい道具を先人たちは使い、そして下の者に対して、 そんなメンドくさい道具の扱い方を教授するなんてことを繰り返してきたのだろう。

今、工場で大量生産されているような、誰でもすぐ使えるような親切な道具を開発して、それを使って子どもに渡せば、 わざわざ子どもにその使い方を仕込んで練習させるというような、そんなメンドくさいことをやらなくても、与えておくだけですむのに……。


「ものづくり」の現場で働く職人たちの使う道具は、昔ながらのシンプルなものが多い。

経験豊富な職人は道具を選ぶときに、だれでも簡単に使えるように親切に作られた道具は、あまり手にとらない。

それよりはむしろ、一見とってもシンプルではあるけれども、それを使うには熟練を要するような道具を好んで使う。

それは「日本の伝統」だからとか、「職人のプライド」だからとか、そういう説明もできるだろう。

でも私は、厳しい「ものづくり」の現場で、それだけの理由で残ったりはしないと思う。


二輪車という道具を考えてみよう。いわゆる自転車である。

みなさんご存知のように、二輪車というものはきわめて不安定で、乗りこなすためにはそれ相応の熟練が必要とされる。

誰が最初に思いついたのか、あんな細いタイヤ二つで地面に立とうなんて、よく考えたものだ。

子どもの頃に、補助輪をつけてガラガラと自転車に乗った記憶のある方も多いと思うが、 あれを付けておくとバランスを崩しても転倒しないし、止まったときに足がつかなくても倒れず安心なので、 小さい頃はずいぶんお世話になったのではないだろうか。

でも考えてみると、そのほうが乗るのに簡単で安全だとするならば、なぜ私たち大人はそうしないのだろう。

三輪車だって、二輪車に比べればはるかに安定していて安全だ。

便利じゃないか。 練習なんてしなくてもいい。 誰でもすぐ乗れる。

そうだ!みんなで三輪車に乗ろう。


…な〜んて、そんなことを言われても、おそらく私たちは、たとえ練習が必要だとしても二輪車を選ぶと思う。

そして、いったん二輪車を乗りこなしてしまったら、誰もがふたたび補助輪を付けようとは思わないし、 三輪車に乗ろうとも思わないだろう。

何で? カッコ悪いから? ダサい? お子ちゃまに見える?


違う。

はっきり言おう。 そのほうが「使い勝手がいい」からである。

職人が、考えられた親切な道具には手を伸ばさずに、昔ながらのシンプルな道具を好んで使うのも、そのほうが「使い勝手がいい」 からである。

道具はシンプルになればなるほど、そのものに動きがない分、その道具の「働き」の多くを人間の身体操作に拠ることになる。

そしてそのことが逆に、道具にまるで我が身のような自由さを与えることになるのだ。

シンプルな道具はからだの一部となって、人間と同じ自由さを得る。

そのときには、余計な意匠はむしろ邪魔でしかないのである。

自転車に熟練してくると、安定さを与えてくれた補助輪は、スピードを出すにも、カーブを曲がるにも、 もはや動きを制限する枷(かせ)としてしか働かない。

いったん使い方を身につけてしまえば、道具はシンプルなほど、自由で柔軟で操作性に優れ、さらには安定性もあるものなのである。

(今、街で道路を見ても、二輪車はいっぱい走っているのに三輪車(オート三輪等)がほとんど走っていないのは、 二輪車よりも三輪車のほうが不安定で「転倒しやすかった」からである。)


シンプルな道具は継承されてゆく中で、より練り上げられ洗練された身体技法の研究とともに、むしろ磨きをかけて受け継がれていった。

人と道具は、影響を及ぼしあいながらともに成長し、日本においては、それは「道」と呼ばれるくらいに、偉大な文化を作り上げてきたのである。

人が道具を作り、道具が人を育てる。

お互いの本質に即した「自らに由る」モノ同士が、決め細やかなインターフェイスを通して出会い、馴染んでゆく。

人と道具の「仕合わせな関係」 がそこにはある。

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2006年11月14日

交響曲を醸し出す

録画してあった「プロフェッショナル」 (NHK総合、木曜夜10時放送)を観た。

今回のプロフェッショナルは、ウイスキーブレンダーの輿水精一さん。

ウイスキーや焼酎のようないわゆる「蒸留酒」と呼ばれる酒は「醸造酒」と違って、出来たてをすぐ飲むというような飲み方はしない。

(昔、芋焼酎を造ったときに、蒸留してぽたぽたと落ちてきたばかりの出来たての芋焼酎を味見してみたことがあるけれど、 そのあまりのマズさに愕然としたことがある。)

蒸留酒というのは、蒸留した後に瓶や樽に入れて、何年、何十年と静かに寝かせ、ゆっくりじっくり熟成させて味を整えていくのだ。

時間だけが醸し出せるもの、というものがある。


ウイスキーの場合、蒸留した後に樽に入れ、12年、15年、あるいは25年といったように、長い年月をかけて寝かせて、 味を作り上げていくのだけれど、その長い年月の間に、それぞれの樽によって、味に個性が出てくる。

それは樽の木の材質にもよるし、置かれた保管場所の気温や湿度にもよるし、その要因となるのはさまざまなものがあるけれども、 その個性豊かなそれぞれの原酒を、ときに40種類近くも合わせてブレンドし、 一つのウイスキーとして完成させていくのがブレンダーという仕事である。


自らの仕事を「味と香りの指揮者」と表現する輿水さんは、繊細な味と香りのその微妙なキメ細かさを、五感をフルに活用して感じとり、 わずか一滴レベルの絶妙なバランス調整を行なう。

その姿は、前にこのブログで触れた 「水のテースター」前田學さんにも通じるものがある。

前田さんもそうであったけれど、番組の中で輿水さんは原酒の匂いを嗅いでは、

「ちょっとドクダミだな こりゃ」
「カツオ節だな こりゃ」
「おせんべいだな」

と、独特の言葉でもって表現する。

それらはおそらく、どれもきわめて「雄弁な一言」であって、その奥にはものすごい豊穣性をたたえているのだろうけれども、残念ながら、 私たちにはその世界を簡単には窺い知ることができない。

そもそも言葉にならないものを言葉にし、さらにはそれを取り出し、配分を考え、合わせてカタチにしていく、 ということを常日頃行なっている輿水さんは、自分の思いを言葉にするにも、 一つ一つとても慎重に言葉を選んでいる様子が画面を通しても伝わってきて、そのモノやコトに対する丁寧な態度に、 こちらも身を正される思いである。


輿水さんのようなしゃべり方は、よく世間的に「言葉を絞り出すようにしゃべる」と表現されることがあるが、今一度よく考えてみると「絞り出す」 という現象は、「出ようとする働き」と「押しとどめようとする働き」の二つの働きの葛藤の上に成り立っている、ということに気づく。

同じ現象ではあるけれど、「出ようとする働き」に焦点を当てるか、「押しとどめようとする働き」に焦点を当てるかで、 イメージはずいぶん異なってくる。

今回、輿水さんが語る様子を見ていて、どちらかというと私には「押しとどめようとする働き」が強く感じられた。

輿水さんの語りは、「すでに内にある言葉を一生懸命、表に出そうとしている」というよりも、むしろ、 「内にあるカオスがそのまま口から飛び出ようとするのを抑制して、それに一つ一つ、適切な名前を与えている」ように思えるのだ。

あくまで私の個人的な感覚であるけれど、私の中でその差はでかい。

「抑えて語る」ということが、「抑えられているもの」の強大さを、雄弁に物語ることがある。


そんな輿水さんの語るさまを見て、番組キャスターの茂木さんはこう言葉を発した。

「輿水さんの目の動きがすごい印象的で。どうも脳をやっていると、 そういうことばっかり気になっちゃうんですけど。 あの〜、目に見えないものを一生懸命見ようとしている感じがすごくするんですよね〜。 」

激しく同意。


ところで、先ほども述べたように、ウイスキーというのは、何年も前に作られた酒であって、 おいそれと新たに作り出すことができるものではない。

それゆえ、ブレンダーという仕事は、輿水さんが「限定された世界」と言うように、今目の前にある限られたお酒を、 いかに組み合わせていくか、というブリコラージュ的(@レヴィ=ストロース)な素質を問われる仕事である。


そのような「手元にあるもので何とかする」というブリコラージュ的能力は、生命体にとってきわめて重要な能力である。

何でも簡単に手に入るようになった現代、「無いからどこかで手に入れてくる」とか「無いからできない。無理」といった語り口が、 当たり前のように使われているけれども、それらの語り口は、「資源が無限に存在する」 という経済成長神話の根底にある誤謬にも通じるものがある。

私はそれらの語り口が、まったく疑われることなく瀰漫してゆくことに危惧を抱いてしかたがない。

サスティナビリティ(持続性)という意味でも、エコロジーという意味でも、今あるものを転用、あるいは組み換えることによって、 新しい意味(価値)を作り出す、ということはとても大切な考え方であるし、実際、生命というものは、地球上に誕生して以来、 そうして何とかやりくりして生き延びてきたのである。

今書いているこのブログの文章だって、日本語に許されたわずか51文字の音を、 いかにうまく組み合わせて新しい意味をそこに立ち上げるかということであるし、身体技法の「巧みさ(デクステリティ)」 と呼ばれるものだって、目の前の課題に対して、今あるからだの筋肉や骨、感覚器官をどのように組み合わせて使うか、という「即応性」 の問題なのである。

そういうセンスを身に付けていくことは、ジャンルを問わずとても大切なことであると思うのだけれど、 それはまた話すと長い話となってしまうので、いずれまた。


そのような、手元にある酒で何とか絶妙な酒を作り出さなければならないという「制限性」というものと、ずっと向かい合ってきた輿水さんは、 だからこそ、良いものを次の世代へと残していかなければならない必要性を身に沁みて感じており、 これから仕込むウイスキーのための樽材選びなどにも奔走する。

輿水さんは言う。

「今作っている商品ていうのは、10年前に原酒を仕込んでくれた人、 20年前に作ってくれた人、そういう人たちの積み重ねの上ですよね。今の仕事は。で、私自身は将来、10年先、20年先、 もっと先も含めて、その時代の商品でできるだけいいものを作るために、できるだけ今いいものを残す。」

そうして、世代を超えて受け継がれていく、壮大な贈り物のリレー。

そのような時間軸の中に我が身を置いて空想するということは、ホントに大事だ。

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2006年11月12日

テンセグリティとフラーレン

えこまさんがブログの中で、 「テンセグリティ構造」について触れ、その文中でテンセグリティ構造のオモチャのWebページを紹介していて、 それを見ていたら何となく作ってみたくなったので、割り箸と輪ゴムを使ってさっそく作ってみた。



ジャーン!

う〜む。我ながら美しい(笑)。

制作時間1時間。 久しぶりの日曜大工(工作?)だ。

ちなみに材料はこれだけ。


短くカットして輪ゴムをつけた割り箸6本。

材料の割り箸も輪ゴムも、お店で貰っては使わずに取っておいたものばかりなので、材料費は0円。

う〜ん。エコロジー(笑)。

でもそのかわり、輪ゴムのよれ具合がもらったお店や時期によって微妙に異なるので、どれだけ苦心してもちょっぴりいびつなのは、ご愛嬌。


10cmほどに切った割り箸のはじっこに、輪ゴムが引っかかるような切込みを入れて、それぞれバランスを考えながら、 どんどん引っかけていっただけなのだけれど、それぞれの部分がすべて形を保つように拮抗しているので、ぽんぽん放り投げても全然壊れない。

しかも変形すると、拮抗する輪ゴムの張力が元の形に戻そうとするので、床でバウンドして、まるでボールみたいで面白い。

冗長な自由度(可動部位)をもつこのオモチャは、ある場所のゴムが収縮すると、その部位の割り箸が動き、 それと連動してさらに全体が動いてバランスをとる。

でもだからこそ、きれいな形を作り出すのが難しい。

何しろ「ここのゴムが少し短いな」と思って伸ばしてみると、また思わぬところのバランスが変わって、「わぁ、今度はこっちがズレた」 ということの繰り返しである。

冗長な自由度を持つ構造は、一つのきっかけが思わぬ変化を生み出すもの。


このテンセグリティ構造というものが何なのかということについては、えこまさんがブログで熱く語っていらっしゃる上に、いろんなWebを紹介してくださっているので、 詳しくはそちらの方をご参考いただくことにして、このオモチャを手にとってじっくり見ていると、じつに人体の構造に似ていることに気づく。

ごく単純なアナロジーで、硬い割り箸の部分が骨で、輪ゴムの部分が筋(肉)だと見てみると、まさに人体の構造で、 引っ張る方向にのみ働く輪ゴムの張力は、収縮方向にのみ働く筋にふさわしい。

もちろん人体の筋は常にテンションがかかっているわけではないので、そのまま応用するわけにはいかないが、 似たような原理が働いていたとしても、全然おかしくはない。

ゴムが収縮して、割り箸が動き、それに付随して他の部分も連動してバランスを取る。

まさにからだの骨と筋が奏でる協応構造にそっくりである。


この構造において重要な部分とは、 張力でリンクする頂点の関係にあるけれども(1つの頂点が4つの張力と1つの斥力で他の頂点とリンクしている)、 それがまたネットワークの構造にも似ていて、私の興味をくすぐる。

重要なのはモノよりもむしろ、「つながり」であり、「働き」であるということ。

このフレキシビリティは、きっと生命が宿っている。


ところで、この構造を提唱したバックミンスター・フラー氏という人物をWikiで調べていたら、「炭素60(C60)」 で表わされるサッカーボール型の炭素原子クラスター「フラーレン」が、フラー氏の名前を取ってつけられた、 という事実を初めて知った。

へぇ〜、そうだったんだ。

まさかフラーレンという名前は、フラー氏へのオマージュだったとは。


このフラーレンという物質(右図)、その形のみならず、たいへん面白い性質をもっている。

このフラーレンを使って「二重スリット実験(⇒Wiki)」 を行うと、「冷たいときには干渉模様が現れ、熱いときには干渉模様が現れない」という奇妙な現象が起こるのだ。

量子力学に馴染みのない方には、何の話だかさっぱり分からないかもしれないが、つまり、このフラーレンという物質、 熱いときには古典力学に従ういわゆる普通の物質なのだけれど、温度を冷やしていくと、あるとき突如として量子的振る舞いをしはじめ、 量子力学の支配する量子の世界の存在へと変貌するという、境界上のあわいな処に身を置くモノなのである。

熱いときにはこの手でしっかりつかめるのだけれど、ひとたび冷やすと突然その姿がぼやけ出し、 幽霊のような実態のないモノになってしまう、と表現すればイメージしやすいだろうか。

量子の世界と私たちの世界がまったく断絶しているのではなく、ゆるやかにつながっていることを示す興味深い現象であるが、でも、 まさかこんなところで、量子論とつながりがあるとは思いもしなかった。面白いなぁ。


今、「モノの助けを借りて伝える」 ということが、自分の中のテーマとしてあるのだけれど、その候補としてこのテンセグリティ構造のオモチャはいいかもしれない。

ただ、あまりに美しく幾何学的に過ぎるので、もう少し、見る人が自分のからだとのつながりをイメージしやすくなるように、 なんらかの助けが必要かもしれないなぁ。

モノに助けてもらっておいて、モノに助けが必要だというのは、本末転倒なような気もしないでもないけれど。

…まぁいいか。

posted by RYO at 22:06| Comment(11) | TrackBack(2) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月09日

妖怪汁とポポポの鬼太郎

前に「そばビール」 なる怪しい飲み物を紹介したが、またまた怪しい飲み物を発見。



よ、妖怪汁! しかも「ダイダイはちみつ味」! そのこころはいったい?(笑)

しかもよく見てみると「其の弐」とある。

なに? ではもしや「其の壱」も近くにあるのでは? と思って、辺りの棚を探したけれど見つからない。

うぅ…「其の壱」って何だ? 気になる〜。

でも、その代わりにさらなる怪しい飲み物が。



うわぁ…、ヤダなぁ…。

目玉のおやじは「ゆず味」、ねずみ男は「甘夏&はっさく味」と書かれている。

ど、どういう基準で選んだんだろう…?


しかし、この妖怪汁たち、妖怪の呪力がかかっているのか、気がつくと私の手が勝手にそちらのほうに引っ張られてゆく(笑)。

「うぅ…手が、手が勝手に! ダメだ。がっかりするに決まってるんだ! やめろ!やめるんだ〜!」

なんて心の中で葛藤しつつ、手は勝手に片っ端からカゴに入れていってしまう。

ああ! しかも足は勝手にレジのほうへ!

「足よ! お前もか!」(@ジュリアス・シーザー)

うわぁ〜!

……。

チーン!お買い上げ(笑)。

恐るべし。妖怪「モッテケ」。


う〜む。

しかし、こういう怪しいものに、ついつい理性を失い、まんまと操られてしまう私は、どうもそういう方向に自我が漏洩、 外部化しているのかもしれない。

そうぞみなさん、私がボケたり、手足が動かなくなったら、そういう「怪しいもの」で操作してやってください。

「怪しいものの意志」を借りれば、きっと見事に動くはず(笑)。


さてさて、そんなことはともかく、さっそく家に帰って毒見をしてみると…。

「妖怪汁」・・・・・・・・・・アマ〜イ…(;´Д`)
「目玉のおやじ汁」・・・アマ〜イ…(;´Д`)
「ねずみ男汁」・・・・・・ちょっとだけ甘夏…?
「妖怪珈琲」・・・・・・・・ほっ…、いちおうコーヒー。

見事なまでに予想通りの「ああ…やっぱり…味」。

予想通りの「期待外れ味」というのは、嬉しいのか何なのか。

まぁ、「目玉のおやじ汁」が絶妙なおいしさでも、やっぱりイヤだけど…。

(ちなみに「はてなダイアリー」によると、そういうたぐいを「毒飲料」というらしい。 )


ハッ?!そうか!

もしかして今日昼間に突然、「ポポポの鬼太郎」というくだらない替え歌を思いついてしまったのは、昨日、 妖怪汁を飲んだせいだったのか?!

なんと、気づかぬうちにまたまた操られていたとは…。

恐るべし!妖怪汁。


そしてついでにもう一つ、一緒に買った怪しい飲み物。



いい味出してるなぁ…。いや、中身じゃなくてね(笑)。

posted by RYO at 22:29| Comment(12) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月06日

環境の医師?

この前ちょっと紹介した 『レナードの朝』のDVDを借りてきて観た。

前に観たのが、たぶん10年前だかそれくらいになると思うのだけれど、今回改めて観てみたら、もう後半、涙流しっぱなし(笑)。

ネタバレになっちゃうから、あんまり細かく言えないけれど、やっぱりいいなぁ…。グスン。

この前『ミリオンダラー・ ベイビー』を観て泣いたけど、それよりさらに泣ける。


ただ、最後の「いかにもハリウッド」みたいな終わり方が、もうちょっと何と言うかこう、普通に終えることはできなかったかなぁ… と思わないではいられなかったけれども。
(前半のコーヒーを断るシーンで、何となくイヤな予感はしたんだ…(笑)。)

でも、それを勘定に入れても、全体を通して脚色が過剰に過ぎず、私にはとても心地よかった。


でもしかしロバート・デ・ニーロはやっぱりすごい。迫真の演技。

実際の患者さんたちと出会って、ずっと彼らを観察したというけれども、改めてその演技力に驚嘆。

ロビン・ウィリアムズも私の好きな俳優で、この前の年(1989)に公開された『今を生きる』でもいい役をやっていたけれども、今回もまた、いい役やっているなぁ。

グッドモーニングベトナム』みたいにマシンガントーク炸裂のロビンもいいけれど、こういうシャイな役柄も好きだ。 (しかしロビンはコメディからヒューマンまで守備範囲が広いなぁ)

『レナードの朝』、久しぶりに観たけれど、改めてMy favorite MOVIEに決定。


今回は、前に観たときにはあまり気づかなかったさまざまなエピソードに気づいて、それもまたたいへん面白かった。

この前触れた床の格子模様のエピソードは何となく覚えていたけれど、普通の人にはノイズでしかないテレビのスクロールパターンが、 患者にとってはむしろテレビを注視するためのサポートになっている、ということに気づくシーンも、さりげないカットではあるが、 格子模様と同じくやっぱりとても意味深い。


興味深かったのは、ロビン・ウィリアムズ演じるセイヤー医師が、仲間の医師たちに自分の発見を紹介するときに 「行動意志を失って球の意志を借りたのです」という表現をしていたことだ。

「球の意志」(The will of the ball)という表現に、仲間の医師たちには一笑に付されて終わっていたけれども、 その考え方は「モノが人間に与える行為の可能性」を論ずるアフォーダンス理論には、とても馴染みやすいものである。

私たちが「歩く」ためには、「歩かせてくれる固い床」の助けが無ければ不可能であるし(水や壁を歩くことはできない)、逆に私たちが 「泳ぐ」ためには、「泳がせてくれる水」の助けが無ければ不可能なわけで、それらはつまり「床(水)の助けを借りた」と言うことができる。

「歩く」とは、それを可能にする「床」を呼び出すことでもある。

私たちの「行為」と「環境」はまったく切り離せないものであって、私たちがある「行為」をしようと「意志」を持つ時には、すでに 「環境」のサポートを受けているのだ。


そのような、すでに私たちの「意志」にすべり込んでいる「環境の助け」を、セイヤー医師は「球(環境)の意志」 と表現したのだと思うけれども、それこそアフォーダンスであると言ってもよい。

(「環境の意志」が「環境の医師」と変換されたけれども、これまた意味深い…)

ふだんはとても歩くことすら難しいような老人が、「すわ火事だ!」というときに、目をみはるようなスピードで家を飛び出したり、 ふだんは清楚で心優しい妙齢の婦人が、いざブランド物の流出大バーゲンというときには、となりの人を押しのけてでも前に進もう、 とするならば、それは、もちろん本人の意志が働いていることは疑いないけれども、そこにもう一つ、セイヤー医師の言うところの「火事」や「バーゲン」の「意志」(アフォーダンス)を借りているとも言えるのではなかろうか。

個人の「意志」を超えた、より広い意味での大きな「意志」。

「意志」という言葉に抵抗があるならば、「促し」「誘因」「きっかけ」「アフォーダンス」…、別にそれを何と呼ぼうとかまわない。


「行為」を、ひとりの人間を超えたより大きなシステムの中に置いて捉えることで、浮かび上がってくるもの。

「行為」の起源を仮に「意志」と呼ぶのであるならば、それは大きなシステムの中で無限の分岐の中に偏在し、 おぼろげに消えてゆく儚げなもの。

が、しかしそれゆえに、北京の蝶の羽ばたきのように、何気ないきっかけで大きな変化を生み出す可能性もまた、そこにはある。

そしてそれが、その人にとって良い方向へと向かう助けやきっかけになるのであれば、どんどん利用していけばよいのだ。

整体の野口先生も、相手の着物にタバコの灰を落としたり、オモチャの蛇をパッと投げつけたりして(ワルイなぁ…)、 相手の意志を超えた咄嗟の動きを誘導して変化を促したけれど、「行為」をより大きなシステムの中に置いて捉えようという考え方からは、 まだまだいろんなソリューションが導き出せるような気がする。

posted by RYO at 20:55| Comment(11) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月02日

へりくつ問答リターンズ

「こんにちは。RYOさん、お久しぶりですね。」
「いや、これはこれは。どうもお久しぶりです。今日はわざわざお越しいただいて…。」
「どうしたんですか?今日はまた突然呼び出したりして。」
「いや、なんとなくね…。ホントはこの『へりくつ問答』 も、ちょくちょくやっていこうかと思ってたんですよ。でも、気がついたら前回からもう1年経っちゃいましたね。」
「そうですね。あれからもう1年ですか…。」

「このブログも、いつもモノローグで書かれてますけど、こうしてダイアローグの形式でしか書けないことってあって、 だから時々こういう場を設けたいと思ってたんですけどね。いつも“思いついたら”みたいな感じで書いてるもんで、なかなか…。」
「まぁ、そんな感じですよね。」
「ん?」
「いえいえ、いつも愉しそうだな…って。」
「まぁ、せめてブログくらいはね。」

「え?なんですか? 『ブログくらいは』ってどういう意味ですか? 現実はツライんですか? 師匠にいじめられてるとか?  痔が治らないとか?」
「どこから痔なんて発想が出てきたんですか?違いますよ。べつに師匠にいじめられてもいません。師匠にも仲間にも恵まれています。」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
「だからべつに、現実がツライとかそういうことじゃなくてね。やっぱり書いてる本人が愉しくないと、読んでてもつまらないでしょ?  だからなるべく愉しいことを愉しく書こうと思ってね。」

「ああ、そういうことですか。でも最近ややこしいことばっかり書いてるじゃないですか? 愉しいんですか?  カオスだかキャビアだかそんなこと書いてて。」
「フォービーア。 『愉しいんですか?』って…愉しいですよもちろん! 愉しいから書いてるんです。…なんか今日は突っかかりますねぇ。」
「前回、いじめられましたからね。その仕返しですよ。」
「いじめてないですよ!それに前回って1年前じゃないですか。根に持つなぁ。何でそんなこと覚えてるんですか?」
「今、しゃべってて思い出したんです。」
「『今、思い出した』ねぇ…。どうだかねぇ。でもまぁ、たしかにそういうことってありますね。『記憶の状況依存性』っていうか…」
「そういうふうに、さりげなく嫌味をはさむの止めてください。」
「何言ってんですか。嫌味なんて言ってませんよ。『どうだかねぇ』って疑問を投げかけただけじゃないですか。」
「そうですかあ?」

「でもまぁ、たしかに一つの心理誘導ではあるかもしれませんね。疑問を提示しておきながら、すぐさま訂正して、 疑問に対する相手の反発を封じてしまうっていうね。そしてそのまま繰り込んだ形で会話を先に進めちゃってサブリミナル効果を狙う、みたいな。 覚えておくといいですよ。うまく使えば相手と良い関係を作れるし、悪く使えば“呪い”になります。」
「呪いって…怖いこと言わないで下さい。」
「いやいや、呪いということについては、もっともっとみんなきちんと知っておくべきです。いつ自分が人に呪いをかけてしまうか、 ホントに分からないですよ。自分でも知らないうちに人に呪いをかけていたりするんです。すごく効くからこそ人は無意識にそんな“呪いの言葉”を選んで吐く。その害悪はホントに罪です。その理解がちっとも無い。」
「そうなんですか?」

「『君のためを思って言ってるんだ』とか、『将来どうなるか分かってんの?』とか、相手に選択肢を与えているように見えて、 じつは最初から選択するべき答えを無言の圧力で押し付けているみたいなね。ダブルバインドって言うんですけどね。よくあるでしょ? そういうの。」
「あ〜ありますね、そういうの。 なるほど。」
「これは、呪いをかけてる方もかけられてる方も、それを『愛ゆえ』だと思っているのが、問題をややこしくするんです。 キミも彼氏が 『君のためを思って…』とか言い出したら気をつけなさいね。そういう時は片目をつぶって聞きなさい。」
「片目をつぶるといいんですか?」
「眉に唾つけたりね。とにかく効くと思ってやれば効く。」
「何ですかそれ…。」
「そういうもんです。 でもちゃんと野口先生が言ってるんですよ?」
「へぇ〜。」
「魔法にかかりたいときだけ両目で見つめればよろしい。」
「何言ってんですか、真顔で。恥ずかしい。」
「ほら、片目つぶっとかないと。」


「…なんでこんな話になってるんでしょう?」
「なんでだろうね?」
「そうだ。『記憶の状況依存性』とか何とかいう話から脱線していったんですよ。」
「キミが突っかかったせいじゃないか。まぁいいや。『記憶の状況依存性』ね。そうそう。…なんだか説明するのがメンドくさくなっちゃったな。 」
「そんなこと言わずに、ちゃんと説明してくださいよ。」
「そうねぇ…。 そういえば物理学者でオモシロイこと言ってる人がいてね。その人が言うには記憶は人間の脳の中にあるんじゃなくて、 ある情報場に蓄積されるんだって。人間の脳はその情報場にアクセスするためのアンテナで、だからこんなに小さくても構わないんだって。」
「それが『記憶の状況依存性』なんですか?」
「いや別に…。 ただ思い出しただけなんだけど…繋がるかなと思って…。」
「またいい加減な…。」

「いや、でもそれに近いんですよ、言いたいことは。 ある匂いをかいだ瞬間にすっかり忘れていた記憶が甦ったり、 ある歌を聴くといつも思い出すことだったり、いろんな状況の刺激と記憶がセットになっていて、そうやって思い出すことってありません?」
「ありますね。思い出の曲とか。」
「そうそう。そうやって状況と記憶ってけっこう一体に繋がっていて、逆にそれを利用した記憶術みたいのがあるでしょう?  物語にして覚えるとか、それぞれポーズを作って覚えるとか…。」
「あ〜、テレビで見たことあるかも。」

「からだのことをやっていて案外ネックなのはそういうところで、 思い込みとか固定観念でどれだけからだの動きが制限されてるかってことなんですけど、 逆に言えば活用してしまえばいい方向に持っていくことができるんですよね。さっきの“呪い”と一緒で。 悪影響になるってことはそれだけ強い力を持ってるってことだから、ようは使いようですよね。」
「どういうふうに使うんですか?」

「そうねぇ。たとえばスイッチを作ったりとかね。家でからだを動かすときにね、 匂いでも音楽でもいいから自分の好きなものを必ずかけたりして、このお香はからだを緩める時間とか、 この体操するときはいつもこの音楽を聴きながら、とか。そうすると繰り返しているうちに、それらがスイッチになって、かけた瞬間にパッとリラックス、あるいは集中できるようになります。それで慣れてきたら、 それらの助け無しでもスッとそのモードに入れるように持っていくんです。」
「ふ〜ん。」
「まずはモノの助けを借りて学んで、身に付いてきたらモノを手放す、と。」

「今日はめずらしく実践的なことしゃべってますね。」
「しまった…。」
「何が『しまった』なんですか?」
「こういうことって文章だけだと勘違いされやすいんですよ。だからブログでは書かないようにしてるんですけど…。口が、いや手がすべったな… 。」
「え、それって私の話術が上手いってことですよね?」
「それはどうかなぁ。」
「またまた照れちゃって。」
「まぁでも、それがダイアローグのオモシロさでもありますよね。自分が何をしゃべりだすのか分からない、みたいな。」
「いつもそうじゃないですか。」
「うるさいな。」
「で、結局ダイアローグで伝えたかったことって何なんですか?」
「え? う〜ん…。やっぱりよく分かんないや。」
「……。 今度から片目をつぶって聞くことにします。」

posted by RYO at 22:00| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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