2006年09月29日

彼岸花。ニューヨーク。

彼岸花のぽしゃぽしゃした風貌が、あちらこちらで。



この季節になるとおもむろに地中深くからにょきにょきと伸びてきて群生しているさまは、まるでムーミン谷のニョロニョロのよう。

パンクなニョロニョロ。 でも黙って風に揺れている。


しばらく街中をほのかな香りに包み、私たちを和ませてくれた金木犀も、百日紅とともにだいぶその花を落として、 季節はますます秋へとfalling down.

もの想う季節。

散歩するにはちょうどよい。

なので一念発起。一路ニューヨークまで足を伸ばしてみた。

ニューヨークへ行きたいぞー! おー!


ということでやってまいりました! 自由の女神。

おお、これがかの有名な自由の女神か。

ふ〜ん。意外と小さいんだなぁ。観光客も日本人ばかりだし。

向こう側に見えるのはありゃレインボーブリッジじゃないか?

地球も小さくなったなぁ…。


……嘘です(当たり前)。

ホントはお台場です。

遠景はこんな感じ。


国の史跡にも認定されている台場公園にまわって、反対側から望むとこんな感じ。



お台場 松の木 フジテレビ。

いつも気になるあの球の中。

ぐるっとまわってみるとここにも彼岸花。



台場跡に咲く彼岸花を見ているうちに、想いは江戸の名も知らぬ人々へ。

彼らはここを築きながら何を考え、ここに詰めながら何を想ったのか…。

150年の昔、きっと彼らの足の下にも、おなじように彼岸花が咲いていた。

自由の女神はいなかっただろうけど。

posted by RYO at 23:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月26日

聴こえる?

「10代にしか聴こえない音」というのをネットで拾ってきた。

前にニュースか何かで聞いたことはあったけれど、実際に音を聴いてみるのは初めて。

もともと、イギリスの会社が街中でたむろする若者を追い払うために研究開発したものだそうで、 たとえば店先でこれを大音量で流しておくと、店の親父の耳には何も聴こえなくとも、 いつも店の前にたむろしている若者たちの耳には不快な音響が鳴り響き、「こりゃたまらん」と逃げ出す仕組みなのだそうだ。

(それって蚊とかネズミとか追い出すっていう装置と同じ発想…)


その正体はといえば単なる高周波なのだが、聴覚は歳を取るにつれ高音を聴き取りづらくなってゆくので、 まだ10代の若い世代には聴こえるけれど、おじさまおばさまになると聴こえなくなる、というわけなのである。

その高周波をもっと高めていくと、犬の調教に使われる犬の耳にしか聴こえない音を出す「犬笛」の音になるわけなのだが、なるほど、 もしかしたら子どもや動物だけにその声が聴こえる天使や妖精さんは、じつは高周波で語りかけていたのかもしれない(笑)。


さてさて、それでは皆さんも、「天使の声」が聴こえるかチャレンジ。
「ボリュームに注意!」(…って聴こえないかもしれないけど…)



どうでしょう…? 聴こえました? 「10代にしか聴こえない音」。

「何にも聴こえないよ。私のこと騙してるんじゃない?」と思われた方、 ぜひぜひお子さんかペットを近くに連れてきて聴かせて反応を見てください。

なんと驚くべき事実があなたを襲う!(っておどかしてどうする。)


ちなみに、私はと言えば…… 聴こえました。(ほっ)

たしかにかなり耳障りな音ですね。これは。


でもこれって、テレビの電源がつけっぱなしになっていて、ビデオ入力になっているけれど入力がなくて何も映っていない、 っていうときに聴こえる音と一緒だ。

ってことは部屋に入った瞬間、「あ、テレビつけっぱなし。」って気づくのも、みんながみんな聴こえているわけじゃなかったんだ。ふ〜ん、そうなのか。

(この高音も、40代でも聴こえる人もいれば、20代で聴こえない人もいたりして、一概に年齢云々とは言えないようですから、 もし万が一聴こえなかったとしても、そう落ち込まないでくださいね。そもそも「10代にしか聴こえない」という触れ込みですしね(笑)。 )


人間の聴覚というのも面白い感覚で、「音を聴く」という感覚は決して完全に受動的な感覚というわけではない。

それは、雑踏の中から目的の人の声だけを拾い上げて聴き取ることができる、という志向性があることを考えても想像がつくと思うが、 人間の耳には、聴き取りづらい音声を聴き取ろうとする時、その音声と同じ振動数を自ら発生させ、音を増幅させて知覚する、 という驚くべき能力が具わっている。

つまり、耳は自ら振動しながら、目的の音と共鳴する振動数を探し出すことによって、 雑多な音の中からその音のみを識別し抽出するという、まさに熟練した打検士の行なう職人技のようなことをやってのけているのである。


『内耳には、水素原子の直径よりも小さい揺れ幅の機械的な振動を増幅させて「イエス/ノー」の二値信号に変換する能力がある。10のマイナス11乗メートルという信じられないほど小さな振幅から感覚が生じるのだ。 内耳のなかにある基底膜は、音声信号によって働くマイクロフォンのような、ただ受動的なだけの振動系とは異なるようだ。そこには、微小な興奮励起パターンでさえもうまく識別できるような付加的なシステムが備わっている。 耳が受動的な共鳴モードで作動するのは大きな信号のときだけである。小さな信号になると、耳はみずから振動を発生させ、 入ってくる信号を「自動追尾(ロックオン)」するのだ。つまり、微細な音を感受する場合には、外部からの信号と、 耳自身が発生する信号とが相互に作用している。人間の聴覚は、耳の外部の振動体と内部の振動体とのあいだの位相一貫性(フェイズ・ コヒーレンス)を分析した結果生じるのである。』
(『創造する真空(コスモス)』アーヴィン・ラズロー、日本教文社、1999、p78)


人間の脳内には、目の前の人間の行動を見ているとき、 自らその行動をとっているときとまったく同じ反応を示すミラーニューロンというものがある。

そのミラーニューロンによって人間は、まるで自分が同じ行動をしているかのように目の前の人と同調し、感応し、 その行動をとっている人間の意図や目的などを、自らの内面から発生してくるモノとして連想することができるのだが、先の現象は、 それと同じようなことを、耳という一器官が外部の音声との接触において行っている、ということを示している。

つまり、耳は耳に入ってくる音声を、自らまったく同じ声で語ることによって共鳴させ、 他者の声と自らの声の倍音として聴き取っているのである。

ひょっとして、人間が人間や自然の現象を理解するということは、そのモノやコトと同調しシンクロしてゆく中で、 自らのうちに同じモノを形成し、外部のモノと共鳴させてゆくということなのかもしれない。

私のからだは「世界」と出会いながら、一緒に「世界」を歌っている!

わ〜お、ロマンチック。

posted by RYO at 20:08| Comment(14) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月24日

たべるのむみるしゃべる

後輩のWくんとMくんが「ガイアシンフォニー観せてください」 と言ってやってきた。

ビールや手みやげのワインなどをカパカパ飲みつつ、ガイアシンフォニーの何番を観るか話し合った結果、「四番が観たいです」 というWくんのリクエストに応えて、第四番に決定。

さっそく電気を消し、プロジェクターで部屋の白壁に映し出して上映会を開始。

「これを作った杜氏はすごいな」と私が感心して仕方がない「一の蔵」の「すず音」をちびちび飲みつつ(絶品! オススメ)、三人でガイアシンフォニーに没頭。

観終わったあと、ジェリー・ロペスのかっこよさについて語り、名嘉睦稔さんの神懸かりのさまについて語り、 ジェーン博士の凛とした構えについて語り、ラブロック博士のガイア理論の地球物質大循環の不思議さなどについて語り合う。


ガイア理論の話から発展し、前にも書いた 「私の中を通り抜けてゆく物質」の話をしていたら、ちょうど最近読んでいた『もう牛を食べても安心か』(福岡伸一、文春新書、2004)の話になる。

この本が、まるで週刊誌の特集記事の見出しのようなタイトルにそぐわぬ、深い生命観を提示している名著である、ということを力説し、 「ぜひ読んでみろ」と強く勧める。


私たちのからだは環境と一繋がりの物質循環の流れの中にあり、「私」という現象は、 その流れの中で物質がたまたま一瞬とどまり密度が高まった、いわば分子のゆるい「淀み」でしかない、と筆者は言う。
(そう!そうですよね。 まさにそうなんですよね。)

そして、そのような生命観から表われてくるさまざまな知見を、筆者はこれでもかと提示する。

「なぜタンパク質を食べ続けなければならないのか?」、「なぜ人の肉を食べてはいけないか?(カンニバリズム)」、 「記憶はどこに保持されるのか?(自己同一性)」、「臓器移植とは?」、そして「狂牛病とはいったい何であるのか?」。

次々と流れ通り過ぎてゆく物質たちが、ひととき形作る「生命体」という現象を、 その大きな生命の流れの中に置いたままの状態で記述しようという試みを、筆者はこの本の中で行なっている。

その試みは、もうとても「もう牛を食べても安心か?」などというタイトルの範疇からは大きく逸脱しており、 このタイトルは編集者がつけたのか出版社がつけたのか知らないが、はなはだもったいないことであり、残念で仕方がない。


この本の中で、ネズミの体内に取り込まれたタンパク質が、たちまち分子レベルまで分解され、 ネズミの肉体を構成するタンパク質へと取り込まれ、ネズミの肉体は細胞レベルはおろか、分子レベルで絶えず物質が入れ替わっている、 という実験結果について書かれている。


『この間(注:実験中)、ネズミの体重は変化していない。この事実が意味するのは、 身体を構成していたタンパク質が、三日間のうちに食事由来のアミノ酸によってがらりと置き換えられ、そのかわり、 もとあったアミノ酸は体外へ捨てさられた、ということである。もし、ネズミをもう三日間、今度は15N(重窒素)を含まない餌で飼った後、同じ測定を行えば、 身体に取り込まれていた15Nが捨てられ、新しいアミノ酸に置き換わる様子が観察できるはずだ。 つまり、外から来た15Nは、ネズミの身体の中を通り過ぎていったのである。しかし、 通り過ぎた、という表現は正確ではない。なぜなら、そこには物質が“通り過ぎる”べき入れ物があったわけではなく、 ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、“通り過ぎつつある”物質が、一時、形作っていたに過ぎないからである。 つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。
…(中略)…肉体というものについて、感覚としては、外界と隔てられた個物としての実体があるように私たちは感じているが、 分子のレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている、分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ換わっている。 この回転自体が「生きている」ということであり、常にタンパク質を外部から与えないと、出ていくタンパク質との収支が合わなくなる。 それがタンパク質を食べ続けなければならない理由なのである。』
(同著、p60−62)


そしてさらに筆者は、「食物連鎖とは情報(タンパク質)の解体と再構築である」という驚くべき知見を述べている。


『タンパク質のもっている情報は、そのアミノ酸配列である。 これは言語における文章にたとえられる。消化酵素は、文章を切断して文脈を壊し、単語に切り分け、 最終的には単音節(単一のアミノ酸)にまで分解して、情報を解体する。 タンパク質を言語にたとえるアナロジーは興味深いことを示唆してくれる。つまり、自分と近い種、 あるいは同種の生物がもっていた情報というのは、それだけ近接した言語であるから、 それがそのまま体内に取り込まれればそれだけ干渉が起こる可能性が高い、ということである。 基本的にすべての生物は単音節(アミノ酸)のレベルでは同じ言語を使っている。だからこそ情報の再構成が可能となるわけだが、 種が遠ければ遠いほど、構成のための文法や語法が違う、というふうに捉えることができる。』
(同著、p100−101)


「食べる」とは「情報」を取り込むことであり、私たちは食べたり食べられたりしながら「生命の情報」を交換し合っている。

あまりに近い「情報」を取り込むと、それが体内の命令系に混乱を引き起こすことにつながり、その混乱した「情報」 がまた食べる者に取り込まれてゆくことになる。


う〜む…。もしそれが本当だとすると、私たちはその生物の「情報」を食べているということか。

すると私は、「生命」という巨大な文脈の中のほんの一小節(センテンス)であるのかしらん。

「物質」が通り抜け、「情報」が通り抜け、それらが通り抜けるいっときにおぼろげながら浮かび上がる「私」という現象。

私の中を巨大な流れが通り抜け続け、またその巨大な流れ自体の一部である私。


『おお、この身とこの命よ!
答えはひとつ。
君がそこにいるということ。
命が息づき、この身がまさしく存在するということ。
壮麗な芝居が続けられ、君もそこに一篇の詩を寄せることができるということ。』
(@ウォルト・ホイットマン)


う〜む。なんと深い話であろう。

「食」という行為について、考え直させられることしきりである。

ますます「もう牛を食べても安心か?」というタイトルが悔やまれてならない。


「誰がこんなタイトルつけたんだ?!」と喚きながら、ワインや日本酒をカパカパ飲み、WくんとMくんに「私」というものがいかに曖昧で世界と区別できない現象であるかを滔々と語っているうちに、話はベナード対流、 自己組織化、複雑系、ネットワーク構造、量子テレポーテーション、情報場、観測者効果、と次々飛んでゆく。

やがて酔いも回り、意識レベルも徐々に低下してくる中、いつのまにか「まどみちお」の詩集をそれぞれ回して、 朗読しながらゲラゲラ笑いころげていたかと思えば、白洲次郎がいかにダンディーでカッコいいかということを、 さまざまなエピソードとともに熱く語っていたりした。


「…まどみちおはいいよねぇ。」
「いや、サイコーですよ〜。カニッとしているのは嬉しい!」
「あおあお あおあお 青竹になる なるなる」
「なるなる!(笑)」

「とうとう やじるしに なって きいている  うみは あちらですかと…」
「とうとう!」「とうとう!」
「スルメ〜!(泣)」

「…白洲次郎は終戦後の食糧難に、畑で採れた野菜を友人の家の玄関の前にボンと置いて、黙って帰っちゃうんだ。あとでお礼に行くと 「何のことだ?オレは知らねぇ」(笑)。」
「シャイなところがまたカッコいい〜。」

「…白洲次郎の遺言知ってるか?たったの八文字。「葬式無用 戒名不用」。」
「おぉ〜(笑)。」

「……! ……!」


う〜む。こうして文章にしてみると完全にただの酔っ払いの会話だな。

でも今回改めて分かったことがある。

「まどみちおの詩は声に出して読むに限る」

posted by RYO at 19:13| Comment(10) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月20日

「それである空」

合衆国の片隅で」 のTAMAさんが、グーグルのウェブページ翻訳機能のサービスで遊んでいるのを見て、面白そうだったので、私のブログ『雑念する「からだ」』 も英語翻訳してみた。

(⇒全部見たい方はこちら)


う〜む。英語力貧困な私にはどれくらいデタラメな英語であるのかパッと見たところ分かりづらいが、さすがに一行目の「芸大へ」が「art to large.」(笑)になっているのは、とんでもなくデタラメであるということくらいはすぐ分かる。

しかし、英文をにらんでいてもやっぱりよく分からんな。

よし、逆翻訳してみよう。 Retranslation!

グーグルのテキスト翻訳機能を使って、今度は英文の記事を日本語に翻訳してみる。

すると…、


『、芸術大きいにUeno公園を通る。
それは芸術の大きいキャンパスの中にある芸術の大きい芸術博物館で、「によって芸術博物館30年」広がるか、 または表示する行った日曜日持っていた。
「それと情報を受け取ったので田中何人かの人々、[ru]」、[isoiso]の知人から出る1つの村すぐに出かけるために遠くにした。
(皆は、有益な情報。感謝する)
「NHK日曜日のため、よく表示したので芸術博物館」 はのそれらだけ[ri]すぐに集める放送の開始から選ぶべきそれらの中のからの30年、それ表示される仕事変化で豊富だった。
rhodanピカソでは、[mone]、[ruo]および[runowaru]。
Koutarou Takamura、Kuroda Kiyoshiの輝やき、Fujishima Tekeji、 隆起部分1意志Isao、タロイモOkamoto…等および等。
耳の耳、それは十分に胃であり、(笑う)。』
(前半部分抜粋:原文の記事はこちら)


ぶはは!(爆笑)

タロイモOkamoto! 岡本太郎先生も散々だな(笑)。

いったいどうやったら太郎がタロイモになるんだろうか。

「イヤイヤ」が「耳の耳」になってるし…、そのまんまやん!

他にも珍訳がぞくぞく。


「芸術の秋」⇒「Fall of art」⇒「芸術の落下」
「芸術は懐がでかい」⇒「Art bosom is huge」⇒「芸術の胸は巨大である」
「小腹が空いたので」⇒「because the small stomach was less crowded」
   ⇒「小さい胃はより少なく混雑したので」
「釈迦」⇒「failure」⇒「失敗」


「芸術の胸は巨大である」!

わーお!セクシー。 ゲラゲラ(大爆笑)。

…って気持ちは分かるけれどね、ぜんぜん違う意味ですよ。

(皆さんのコメントも珍訳になって読めますので、読んでみられると面白いかも。)


耳の耳(笑)、しかしミスリードってのは、なんでこんなに面白いんだろう?

前にも似たことを書いたけれど、 どうも、当たり前だと思っていたものから、全然違う意味が浮かび上がってきた時に、人はすごいinterestingに感じるらしい。

それって、なぜなんだろう?

でも考えてみれば、手品とかジョークとか漫才とか、既存の意味(常識)を破壊して新しい意味を生み出すという意味では、みんな一緒だ。

脳の中の既存の「意味(認知)のネットワーク」がいったん分解される。

すると、新しいつながりでもって再構築することが可能になる。

つながり(接続詞)が変われば同じ単語でもまったく違う意味を持つもの。

美女と野獣。 美女も野獣。
美女なのに野獣。 美女だから野獣。


破壊されることの愉悦。 崩壊の愉悦。 組み合わせの愉悦。

みんな誰かに壊してほしい〜♪(笑)

ひょっとして「お笑い」とは「暴力性」のメタモルフォーゼ(変容)なのかもしれない。

社会情勢が不安になると「お笑い」と「格闘技」がブームになるらしいけども、去年あたりの日本はまさにそんな感じでしたな。

みんな誰かに壊してほしい〜♪(クドイ? さいですか…)


ところで私のブログの名前『雑念する「からだ」』は、「Idle thought it does, “it is empty”」 と英訳されていたけれど、それはいったいどんな意味になるのだろう。

さっそくグーグルで逆翻訳してみると…、

『遊んでいる思考それは、「それである空」』

む。なんか意味深いな…。

posted by RYO at 21:06| Comment(18) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月18日

スマばあさん蓮華忍ばず美術館

上野公園を抜けて芸大へ。

芸大キャンパス内にある芸大美術館で催されている「日曜美術館30年展」 に行ってきた。

数人の知人から、「田中一村が出てるよ」 との情報をいただいたので、さっそくイソイソとお出かけしてきたのである。

(みなさま、貴重な情報ありがとうございます。)

「NHK日曜美術館」は放送開始から30年、その中から選りすぐりのものばかりを集めて展示しているので、まぁ、 展示されている作品のバラエティーに富んだこと。

ロダンにピカソ、モネ、ルオー、ルノワール。
高村光太郎、黒田清輝、藤島武二、棟方志功、岡本太郎…etc,etc.

イヤイヤ、お腹いっぱいです(笑)。


芸術の秋。一品一品じっくり鑑賞して回る。

集中して観ているとけっこう疲れるものだが、ちょうど良い感じで番組のダイジェストコーナーがあるので、 そこでイスに腰掛けしばらく番組をボケーッと観て、ダイジェストが一巡したら再び席を立って観て回る。

ふむふむ。

さてさて、お目当ての田中一村はと言えば、順路の最後も最後。シメに観る。

う〜む…。実物を見ると、改めてその凄さに感じ入ってしまう。

近づいてみたり遠ざかってみたり、ちょっとほかの絵を見てみてはまた戻ってきたりして、しばし「一村ワールド」へトリップする。

緻密に描かれた亜熱帯の海や動植物たち。

熱と冷性。喧騒と静寂。躍動と停止。冷静な狂気。

う〜ん、この絵の放つこの「えもいわれぬ感じ」は、いったい何なのであろうか。

引き裂かれそうで、置いてかれそうで、そわそわして、落ち着けなくて…。

う〜ん…参った。

何ですか。何なんですか? 誰ですか、あなたは?

アンタ私の何なのさ。(笑)


ところで今回もう一人。

田中一村の絵のそばに展示されていた絵に眼を惹かれた。

ふっと目を惹かれて見入ったその作品。

作者の名前は丸木スマ。

説明によると、丸木スマさんは74歳で初めて絵を書いて、翌年には女流展に入選したという天才ばあちゃんである。

満州から帰ってきた親孝行の息子とお嫁さんに、ありがたいことに仕事を干されて(笑)、毎日やることもなく「退屈じゃ退屈じゃ」 とぼやいていたところに、「おばあちゃん、絵を書いたら」とお嫁さんに促され、絵を書くことを覚えたそうである。

字も書けない農家の嫁が天衣無縫に絵を書き続けて、81歳で亡くなるまでの7年間、「面白かろうがの」 と絵を書くことをホントに愉しんだ、というエピソードを聞くだけでも何とも心が躍る。


 『おばあちゃんが、「わしは退屈でやれんよ」というものですから、 「おばあちゃん絵を書いたら」と勧めたんです。そのとき、ちょっとびっくりしたような顔で私を見ていましたが、書きそうな顔でしたから、 魚屋さんに行ってメバルを買ってきて、これを描いたら、と勧めました。
 硯で墨をすって、 はじめ左手で筆を持つのを右手に持ち直させると、 おばあちゃんは、ちょんと点を描き、メバルを見て、またちょんと点を描く。 おばあちゃんは字が読めませんでしたから、 筆なんか持ったことがないし、線を引くということもまだ知らなかったんです。 点々だけで描いた絵でしたが、 色をつけるとものすごくきれいだったのです。柔らかくて、暖かくて、ちょっと桃色の、 素敵な魚だったのです。
 それから私たちが東京へ帰り、また広島へ戻ってきました。そしたらおばあちゃん、「おおい、見てくれ」 といって、 いっぱい絵を持ってきたのです。ひょっと見て、「おばあちゃん、これ、犬?」って聞いたら、「魚だよ」 といって笑っています。 次を見ると、木に豹と虎が登って喧嘩をしているので、「これ豹と虎ね」というと、「なあに、猫じゃよ」 というのです。 どれもみんな面白いので、そういうと、本人も「面白かろうがの、面白かろうがの」といって見せるのです。』
(『日曜美術館30年展』カタログより抜粋、p232)


会場に流れていた番組のダイジェストには、満面の笑みを浮べたスマさんの映像があった。

なんとも仕合わせな絵との出会いの様子に、思わず笑みがこぼれる。

スマさんの絵は、決していわゆる「上手な絵」ではない。(と私が言うのもおこがましいが。)

けれどもなんとも生命感あふれる絵で、なぜか眼を惹かれるし、見ていて愉しい。

世の中にはいろんな人がいて、いろんな作品があるものだ。

芸術は懐がでかい。


美術館を出たあと、小腹が空いたので一階にある学食に入る。

美術館を見に来た人たちだろうか。学生たちの喧騒がこだまする中、ご年配の方がけっこういらっしゃる。

大学内にいろんな年代の人々が行き交うのは良いことだ。

少子化で学生もますます減ってゆくことだし、団塊の世代の大量退職に向けて、聴講生とかもっと広く公募して、 ばんばん知を還元していくといいと思うのだけれど、どうだろう。

学生には厳しく、ご年配の聴講生にはサービスを。 内弟子外弟子。


ガラスケースのサンプルメニューをふ〜むと眺め、学食定番の日替わり定食490円に決定。

学生たちと一緒にトレイを持って列に並び、「日替わり定食。」と頼めば、おばちゃんがガチャガチャと次々お皿を出してくれる。

冷たくてしょっぱい鶏の香草焼きに、乾燥した分厚いキャベツの千切り。ポソポソした白米に、薄い味噌汁。

ああ、懐かしいなぁ。学食の味だ。

芸大の学食は何か違うかと思ったけれど、やっぱりきっぱり学食の味だ。

毎日じゃ辟易するが、たまに食べるとノスタルジック。


ふらふらと芸大を出て上野公園へ。


不忍池の蓮、蓮、蓮。

手の届くところに咲く蓮華はみんな摘まれてしまうのか、切り取られた茎があちこちに。

けれども閉鎖される蓮見茶屋のすぐ裏手に、葉っぱに守られてきれいな蓮華が一輪。

でも撮ってビックリ。


この蓮華、なんか光ってるんですけど…。 気のせい?

花弁がすべて開いたあとに出るはお釈迦か竹取姫か。

なにかイイことがありそうな予感。

posted by RYO at 21:15| Comment(14) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月15日

涙なんて…

My favorite comics,『オフィス北極星』(真刈信二・中山昌亮、モーニングKC、講談社)を久しぶりに読んだ。(ちなみに作者は 「PS羅生門」の漫画家。)

第10巻のエピソード「天使の懺悔」を読んで、またもや涙する。

うぅ…ちくしょう。何度読んでも泣けるぜ。グスン。

人ってのは、ホントに弱くて小さくて優しくて暖かい生き物だなぁ。

この話、映画の脚本にぴったりだと思うんだけど、どこか映画化してくれないかなぁ。

いや、やっぱりして欲しくないかなぁ…。

うぅ、揺れる侠心(オトコゴコロ)。


そういえば昔、ほかの人はどれくらいの頻度で泣いているのか興味が湧いてきて、友人などに聞いて回ったことがあった。

(そういうことは思いつくと聞いて回らずにはいられない性分。)

「ねぇねぇ、一年に何回くらい泣く? ドラマとか映画観て泣くのはナシね。でも音楽聴いて泣くのはアリ。」

と、我ながらイマイチよく分からない判断基準で、いろいろ友人に聞いて回ってみたら、当然というかやっぱりというか、 女性のほうが圧倒的に泣く回数は多かった。

多いといってもそれでも一ヶ月に一回あるかないかくらいの頻度であって、男性はといえば、一年に一回、ここ何年か泣いてない、 あるいは覚えてない、という感じで、ほとんど涙を流さない、という結果であった。

もちろんそのとき聞いた人数なんて両手で数えて余るくらいであって、統計学的には何の有効性も無いけれど、私の中では「まぁ、 そんなもんか。」と納得して、「聞きまわり衝動」も収まってしまったのだけれど、やっぱり大人になると、とくに男は泣かないものなんだなぁ、 と改めて思った記憶がある。


私自身はと言うと、どちらかというと泣き虫であるような気がする。

弱虫ではないけれど、泣き虫。

「悲しみに浸る」のがけっこう好きなナルシスト…じゃないか…あれ?なんて言うんだ? ロマンチスト? 悲劇スト? ん? ナルシストでいいのか?

…まぁ、それはともかく泣き虫なんだけれど、そのくせ見栄っ張りのところがあって、人前では泣かない、 と意地を張ってしまうところがけっこうあった。…いや、今もあるかな。

というより泣くと周りの人間に、その「涙」に変な意味づけをされてしまうのが鬱陶しくて、だから人前では泣きたくない、 という思いが強い。

それを魂の叫びとして言葉にするならば、

「泣きたいから泣いてるだけやっちゅうねん。変な気遣いとか解釈とかすんな!ボケ!人の悲しみ邪魔すんな!放っとけ!好きに泣かせろ! 」

って感じかな?(笑)


私にとって「涙」とは、単なる心理現象であり生理現象であって、欠伸やゲップと同じく放っておいて欲しいんだけれど、世間的にはどうも「涙」 は非言語メッセージとしての強力な意味を付与されがちなので、「解釈せよ!(あるいは同情せよ)」 というメッセージに取られてしまうことが多いみたいである。

私においてはまったく余計なお世話なのだけれど。


どうもそういう傾向って、マンガやドラマの影響もけっこうあるのではなかろうか。

何しろそういう「演出」って、ここ一番ってときに「泣き」が入るんだ、これが。悲しい音楽とカメラワークとともに(笑)。

ドラマのたびに、最大限のメッセージを込めて「涙」のシーンが演じられれば、繰り返し観ているうちにやっぱり、涙が「記号化」 してくるもの。

でも現実には脈絡のない「涙」なんて山ほどあるんだぞー!(その人の中ではあるかもしれないけど。)

もっと、「笑うシーンなのに泣いてる」とか、「いつも冒頭で意味も無くヒロインが泣いている」とか、 「エキストラが話の筋と関係ないところで画の中で号泣している」とか、「出演者全員泣きながらストーリーが進む」とか、だれか「涙の記号」 を解体するような、アヴァンギャルドなドラマを作ってくれないかなぁ。

…冗談だけど。


よく、男が「泣けない」というのも、もしかしたらそういう鬱陶しい意味づけがあるからなのかもしれない。

もし誰も「涙」に対して何の解釈もしなかったら、みんなもう少し何気なくふだんの生活の中で涙を流したりするだろうか。

う〜ん…どうだろう。


でも、「男が泣くのはうっとうしい」という言葉がまれに女性の口から飛び出るのも、やはりそこに社会的な意味が込められた「記号」 としての意味合いが存在するからだろうと思う。

人目を気にしたり、慰めなくちゃいけない気がしたり、男のくせにと思ったり…。

べつに男だろうと女だろうと、欠伸してるのと同じくらいに放っておいていいと思うんだけれど、それじゃダメなんだろうか。

もっとも「私の目の前で欠伸をするなんて許せない」という人には通じないかもしれないけど(笑)。


そういう意味では、私にいわゆる「女の涙」は効かない。

なにしろ「鼻水たらしてる」のと同じくらいにしか思わないから。

涙を解釈などしない。涙は涙だ。

落ち着くのを待って、冷静にさっきの話の続きをするだけである。

そう言うと、私がたいへん冷たい人間であるように思われるかもしれない。

私もそんな態度は他人から見て「いかがなものなんだろうか?」と思ったので、そんな私の態度を女性に訊いてみたことがある。

すると彼女いわく、「それが一番嬉しい」とのことだった。

「そうしてくれる人はなかなかいない」と。

ふ〜ん、そうなんかな。じゃあいいのかな。どうなんだろう。どうなんですか?


目の前に泣いている人がいたならば、私がとる行動はたぶん、共感すれば「一緒に泣いて」、理解及ばずなすすべが無ければ「待つ」、かな?

私は、「涙はその人のものであって私が名付けて奪ってしまったりはしたくない」と思う。

posted by RYO at 22:21| Comment(12) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月13日

求道者の呪縛

前回、 礼法の「所作」について触れたが、「礼法」という言葉を聞くといつも思い出すエピソードがある。

それはこんなエピソード。

『あるとき、田中角栄と周恩来が同席しているところに、 給仕がおしぼりを持って来た。田中角栄はそのおしぼりを受け取ると、そのおしぼりでもって顔をゴシゴシと拭き始めた。 それを見た周恩来はニコリと笑って、同じように受けとったおしぼりでゴシゴシと顔を拭いた。』

終わり。

それだけです。


「受け取ったおしぼりでまず顔を拭く」という行為が、文化人類学的に世界各国でどのような意味づけをされているのか私は知らない。

私の知る限り、日本においては、それは「オヤジの行為」として認知されており、どちらかというとネガティブなイメージを連想させる。

私にはよく分からないが、国際的社交の場において、「受け取ったおしぼりでまず顔を拭く」という行為が、それほど「作法」 に則ったエレガントな行為だとは、とても思えない。

けれども、一国の首脳同士が介する国際的にも重要な社交的な場において、相手がそういう行為を選択した際に、 すぐさまそれに合わせて自らも同じ行為を取ることができるというのは、「作法」には則っていなくとも、「礼法」には則っていると、私は思う。


「礼法」とは何であるか、ということを語るのは大変ムツカシイけれども、もし仮に「愉悦」という切り口から語るとすると、それは 「記号的なお約束の行為の積み重ねの文脈の中から、規範とそこからの逸脱の濃淡を見抜いて愉しむ」ということであろう…って分かりづらいな。

つまり、「お約束の中に、マニアだけが判るようなニュアンスが散りばめられているのを見つけては愉しみ、 さらにもっと細かい遊びが込められているのを発見しては、それを愉しみ、さらにもっと…(以下略)」という感じで、「型」と 「型からの微分的なズレ」のグラデーションに「愉悦」を見出すという、高尚(?)な道楽なのではなかろうか。

(もちろん、あくまで「愉悦」という切り口で語った場合の話である。)


それはアニメオタクであろうと、カーマニアであろうと、ありとあらゆる専門分野において、構造的にはさほど変わらないことで、 その会話は一般人には「どこが違うの? てゆうかどうでもいいじゃん。そんなこと。」 と思わずにはいられないような細かい違いを判別しあって、「違いの分かる男(女)」度のくらべっこをする、ということに尽きる。

(繰り返し申し上げるが、あくまで「愉悦」という切り口で語った場合の話である。)


勘違いしてほしくは無いのだけれど、べつに私は「礼法」やその他の「芸道」を馬鹿にしているつもりは無い。

私もまた、それらの道に学び、またその道の極みを目指さんとする求道者のはしくれであるつもりである。

私がここで言いたいのは、というより危惧しているのは、道を究めんとする者が、ともすれば陥りがちな、いわゆる「無知な素人」 に対する「排他性」ということについてである。

「ルール」を知らずに「お座敷」に上ってくる者を「野暮」と言って嫌う文化が、ともすれば外を排して内に籠もって、 自らの毒に中って異臭を放ち始めるのだ。


追求すればするほど陥りがちなこのピットフォールに、それと気づかずに陥る者は意外に多い。

私自身もいろんな出会いをする中で、たびたび感じる匂いであるのだが、ただムツカシイことに、そのような匂いを漂わせていたとしても、 その人自身は、きわめて熱心で誠実な求道者であったりするのである。

私自身もつねに自分を省みなくては、気が付かぬうちに「鼻持ちならない異臭」をほんのり漂わせているかもしれない、 と思うと正直怖くなる。

「匂い」というのは、自分ではなかなか気づかないもので、だからこそ怖い。

(ちなみに禅宗では、「坊さん臭い」のはまだまだ修行不足で、とても「坊さん」とは信じてもらえないくらいにまでなったら、「本物」 だそうである。)


あらゆる「道」において、先人たちが口を酸っぱくしておっしゃることは「礼節」である。

そして「礼節」とはあくまで、「作法」に拠るのではなく、「人」に拠るものなのではなかろうか。

周恩来のエピソードは、思い出すたびに私にそのことを教えてくれる。


「自分は良い道を歩んでいる」と心の底から思っている時ほど、その「作法」に縛られやすく、また逃れ難くなるもの。そして「他人の道」 が十把一絡げに凡庸に見えてくるのだ。

「求道者の呪縛」。

うぅ、書いてて我ながら怖ろしくなってきた…。

大丈夫かな…自分。

ナマネコ、ナマネコ…。

「礼節」だ。「礼節」を忘れちゃいかん。

そして「礼」を尽くすのは「作法」にではなく、「人」にだ。

posted by RYO at 23:54| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月10日

育児の所作をご先祖様に倣う

金曜日。今日のママさんたちの講座は雨も降っていることだし、「参加者も少ないかなぁ。」と思っていたら、予想外に大盛況。

ママさんたちと子どもたちの熱気で部屋が暑いくらい。

う…。今日はこじんまりと地道にからだの使い方の稽古でもしようかと思っていたんだけれど、初めての人もいっぱいいるし、どうしよう… 。

え〜い、こういう時はとりあえずしゃべってしまうしかない。

しゃべっていれば何か思いつくだろう。

ということで、まずは定石どおりに時候の挨拶。

「では講座を始めましょう。よろしくお願いします。いやぁ〜、すっかり秋らしくなってきましたけれども…」

などとしゃべりだしてみれば、季節のからだの変化の話などが口からベラベラと出てきて、 いつのまにやら徐々に今日のテーマが形を成してくる。

人は世につれ、講座は場につれ(笑)。

ということで、私のからだを通して、みんなで作りあげた今日の講座のテーマは「所作」。


礼法の立ち居振る舞いの話から、それが育児にとっても大変重要であり、また助けになってくれるという話をする。

子どもが高いところにのぼってフラフラしている時に、「危ない!」と叫んでビックリさせて、落っことしてしまう、 というあまり笑い事でもないことがしばしばある。

同じように、ハッと気がついたら子どもが熱いストーブに手を伸ばそうとしていた時、大声で叫んでドタバタと駆けて行くことが、 ますます危険な情況を生み出さないとも限らない。

そういうときに、場の空気を乱さないように振る舞うということ。

動作がごちゃごちゃと騒がしくなく、その場に溶け込んでいるようにサラサラと振る舞うということ。

スッと煙のように立ち、サッと風のように近づいて、「それはアツイアツイよ〜。」とかなんとか言いながら、 ふわりと抱え上げるような所作ができれば素晴らしい。

子どもも何だかよく判らないうちに抱き取られているくらいにさりげなければ、それは理想的だけれども、 その境地は達人の域であるということだけは申し上げておく。


そうして抱き上げた後で、改めてきちんと大人の手の届くところで、「それは触るとアツイ」ということを子どもに実感させれば、 次には自ら注意するようになるだろう。

(と言っても別に、「触って火傷させろ」と言っているわけではありませんので(笑)、念のため。)

そういう意味では「触っちゃダメ」という言葉は、子どもにはその意味(関連)が分からないので、空想が湧きづらい上、 触っちゃいけない理由が「お母さんがそう言ったから」という、ねじれた意味づけをしてしまうことになるので、ただ「触るとアツイ」 という事実に学ばせた方が、より単純で素朴で自然である。

何につれ、できれば大人は、「モノ」と「子ども」の出会いを邪魔しないように、出会いができる限り仕合わせなものであるように、 裏方仕事に徹しているのが一番良いように思う。


ちなみに今書いていてフト思いついたのだが、もしどうしても「禁止」を言い渡さなくてはならないときは、 可能ならばお母さんやお父さんでなく「別のモノの命令」にすると良いかもしれない。

たとえば「神様」であったり「仏様」であったり、べつにそれは何でもいいのだけれど、「目に見えぬ畏怖の対象」 のようなモノによる命令であること。

父や母ですら問答無用で従わなくてはならない「大いなる存在」の気配を、子ども心に感じさせることは、 子どもの世界観にとても大切な基盤を与えることにつながる。

その役割は本来、宗教が担うものであるけれど、「宗教はどうも…」という人が多い現在、それは「手作り」のものでも構わない、 と私は単純に思っている。

そういう意味で一番、日本人になじみやすいものと言えば、「ご先祖様」あたりだろうか。

あまり宗教色も感じさせないし、自分の起源でもあることだし、すんなり受け入れられて良いかもしれない。

そういえば大学時代、「正月三が日はお風呂に入らない」という家の仕来たりがある友達がいて、わけを聞くと、「ひぃおじいちゃんが昔、 正月にお風呂を焚いたら火事になって、家が全焼したから」なんだそうである。

まぁ、仕来たりってそういうもんですわな(笑)。

そうして起源はいつしか忘れられ、作法だけが残っていく。

そういう中身の空洞さが、意外とけっこう大事だったりする。

「起源が知れない」ということが、霊的な力の源泉だったりするものである。

ホメオパシックカルチャー。

む。よく分からん(笑)。


どうにも口が止まらんな。いや指か。

まぁそれはともかく、講座の話であった。

そのような「場を乱さない所作」という話は、けっこうママさんたちの心の琴線に触れたようで、みなさん話に食いついて、 なるほどなるほど、とうなづいている。

「そういう所作で言えば、子どもを抱っこするときにもからだの使い方というものがあるんです。」

と言って、子どもの抱っこの身体技法を教えながら、 腱鞘炎になる前にそういうからだの使い方を覚えておくのはとても大事なことなんです、と話をしていたら、 隣の方が右手に巻いたサポーターを見せながら「ワタシ腱鞘炎なんです…。」と、申し訳なさそうにつぶやいた。

あ、そ、そうなんですか(汗)。 い、今からでも遅くはないですから…。


礼法に、「円相にして水走り」と呼ばれる腕の使い方があって、それは肩に落ちた水がツーッと指の先まで走るように、 腕をなめらかに円く使う使い方のことなのだが、そのような幾何学的なラインを示す美しい腕の使い方は、 すべてが一体となっているので関節など壊すことが非常に少ない。

末端まで力を伝える時には、力学的に折れている箇所に負担が集中するので、指が折れていれば指に、手首が折れていれば手首に、 肘が折れていれば肘に負担が集中し、そのうちそこが痛み出すことになる。

抱っこをするとき、多くのママさんたちが手で抱き、手首を折って子どもを抱え上げているので、どんどん重くなっていく子どもに、 手首を傷めるママさんが非常に多いという事実には、何とかしなければと思わずにはいられない。

「腕を一本につなげて腰で抱く」という、言葉にすればとても単純な「抱っこの所作」を、 日ごろからちょっと練習しておけばよい話なのだけれど…。(学校の体育でやったらどうだろうか)


ほかにも講座中、鉛筆の握り方であったり、家具の配置であったり、この前書いた 「場をデザインする」ことが人間の所作を生み出すという、「物」と「からだ」のコラボレーション(アフォーダンス)についてのお話をする。

「場」をととのえ、居心地の良い空間を作るということ。

「暮らしの所作」を助けてくれるような配置をするということ。

それらのことを、日本人はとても美しい言葉で「室礼(しつらい)」と呼んだが、 そのような長い年月をかけて練り上げられてきた文化というものは、必ず私たちのからだに馴染むものがあるはずだ。

私たちの「ご先祖様」の練り上げてきた「文化」や「道具」というものを、今一度見直してみることは、けっこう大切なことかもしれない。

posted by RYO at 09:23| Comment(19) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月07日

左手小指にご用心

茗荷のヌカ漬けをシャクシャクつまみつつ、ビールをグビグビと飲み、 パソコンに向かってほろ酔い加減でパシャパシャと文章を打っていたら、「同士」と打ったつもりが「相愛」と出た。

おおっと?! 何が起きたんだ?

ビールを一口グビリと飲んで、モニターとキーボードを交互に見つめる。

う〜む…。

グビグビ… シャクシャク…

あ、分かった。 なるほど。

どうも「dousi」と打つとき、左手の打つキーが一つ左にずれてしまったらしい。

つまり「D」を「S」と、「S」を「A」と打ってしまったのだ(詳しくはお手元をご参照)。

するとあら不思議。

「同士(dousi)」が「相愛(souai)」になってしまう。

あれま。 これまた不思議なセレンディピティ。(ってほどのものでもないか…)

みなさん、身近な仲間の左手の小指にはご用心。

たちまち恋に落ちる危険性が(笑)。

posted by RYO at 20:48| Comment(12) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月05日

浮世忘れて茗荷に冥加

最近知り合った福井のIさんから、近くの山で採ってきたという茗荷が山ほど届いた。

バーン!


みょうがミョウガ茗荷…。 大漁です(笑)。

さっそくIさんにお礼の電話をかけて、「こんなにいっぱい大変だったでしょう?」と訊ねると、「べつに1時間くらいですよ。」と言う。

「でも場所は遠いんでしょ?」

「山に入ってすぐです。」

そ、そうですか…。

山を1時間歩くだけでこんなに大量の茗荷が採れるんだ…。 いいなぁ。


でも、「茗荷を食べると物忘れをする」とかよく言われるけれど、こんなに大量に食べたら何もかも忘れてしまいそうだな。

いいなぁ… いいかなぁ?


さて、けれどもどうしようか。

半分くらいはおすそ分けするとして、せっかくの好物だし、残りはいろいろ試して食べてみよう。

とりあえずは何を置いてもヌカ漬けだ。

「発酵人」としては、決して外せぬ定番メニュー。

ほかにもセロリや人参と一緒に甘酢漬けにするのも良さそうだし、大葉や生姜と合わせてマグロ納豆の薬味として使っても最高だ。

あとは刻んでお味噌汁にすれば酒呑みの箸休めに最高だし、茎の部分はキンピラにすると美味しいと言うから、それはぜひ挑戦。

意外なところで、ローストビーフでくるんでポン酢で食べても美味しそう。そうだな、生姜もちょこんと挟もうか。

天ぷらもいいし、塩もみ胡瓜と合わせても美味しそうだし、オクラ、鰯、お酢、ごま油…。

性に合いそうなものが、ポカリポカリ…。

う〜ん。茗荷三昧。冥加三昧。

茗荷は冥加に通じる。

冥加とは、「知らないうちに受ける神仏のご加護」。

こんなに大量の茗荷を頂戴して、まさに冥加に余ります(「ありがたすぎてもったいない」)。

身に余るほどの冥加に、しばらくは恍惚の人かもしれません…。

posted by RYO at 21:08| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月02日

手の内で遊ばせる

横浜での精神病の人たちのボディワークの後、スタッフと利用者の方が部屋で相談をしていて、それを隣で何気なく聞く。

聞いているとどうも、その利用者の方が、自立支援法に関する何かの役員をお願いされて任されているのだけれど、 それが負担であるらしい。

ご自身もその役員を務めているスタッフさんが、そんな彼を一生懸命に励ます。

ふむふむと隣で黙って聞いていたら電話が鳴ったのでスタッフさんはその場を離れ、私と彼の二人になった。

「どうしたらいいんでしょうかね?」と聞く彼は、パッと見た感じ、責任感の強い緊張型のタイプで、聞けばやはり 「お願いされると引き受けてしまう」と言う。


「う〜ん、ホントに責任感のある方なんだと思うんですよ。やってくださいとお願いされたら断れない。そしてやるからには期待に応えたい。 こうあるべきという理想があるんだけれど、とてもそうではない今の自分がいて、それがますます自分を苦しめる。」

「はい。」

「大事な役職だからと肩に力を入れて頑張ってしまう。大事なモノだからと、ぎゅっと力を入れて握り締める。でも握り続けてたら、 やっぱりくたびれちゃいますよね。」

と、今日の講座でお話した、「腕の力をゆるめて握ったモノを手放す」ということの大切さを絡めてしゃべる。


「私なんか武術をやっているので、なんでもからだに置き換えて考えるんですけど、たとえば棒とか剣を持つときに、これは大事なものだからと、 ぎゅっと握ってしまうと、棒が死んでしまうんです。棒も死ぬし、私も死ぬ。武術だったらそれはホントに死んでしまうわけですよ。 それを活かすためには手の内で遊ばせるように持たなくてはいけないんです。」

「師匠には繰り返し、『力を抜け!』『もっとやわらかく!』と叱られるわけですけど(笑)。
でも、ホントにそうなんですよ。 手をやわらかく使って、手の内で遊ばせるように持つと、こちらもくたびれないし、棒も活きてくる。」

「はぁ。」

「そういう『からだで身に付く感覚』、『そうか、モノというのはこうやって扱うものなんだ。』っていうことは、 言葉とちがってまたとっても大切で、そうやって日々の繰り返しの中で、自然と身に付いてくることって、それがやがて他のモノ、 たとえば子どもとか、別に子どもに限らず大人だってそうですけど…、あるいはいろんな道具、 ほかにも今みたいな役員とかそういう役職とかもね、そういうモノと接した瞬間に、ふっとそのときの感覚で接していけたりするんですよ。」

「そういえば、赤ちゃんとか苦手なんです。どうやって抱けばいいのかよく分からない。」

「やっぱり責任感が強いんだと思いますよ。壊しちゃいけない、失くしちゃいけないって、ぎゅっと握り締めてしまう傾向が、 からだにあるんです。もっと腕とかからだとかをゆるめて、やわらかく持つことができるようになると、ずいぶん楽になれると思いますよ。 今日やった『腕のゆるめ』とか『肘のゆるめ』とか、よくやっておいてください。」


ベラベラしゃべる私を、彼はじっと見つめて真剣に聞いている。

真剣な聴き手は、私の中からさらに言葉を引き出してくれる。


「それでね、そういう感覚をいったん身に付けると、それがどんなモノであっても、手の内で遊ばせるようにやわらかく接する、 というその感覚を活かしていくことができるんです。同じなんですよ。人間は幸いなことに違うモノに同じモノを観ることができる。 そういう認識の機能を持っている。」

「たとえば、何でもいいんですけど…」

とキョロキョロして、後ろの食器棚からカップを一つ取り出す。

「たとえば、こういうカップとかをね、いつも手に持ってコロコロと遊ばせたりして、『おもちゃ』の語源ですよね、『もてあそぶ』 というんでしょうか。こうやってやわらかく持って手の内でコロコロと遊ばせたりしている感覚というのは、ほかのどんなモノに対しても、 おのずとスッと出てしまうんですよ。」

「こうやって、からだから身に付けることって、ほとんどその重要性が語られませんけど、ホントに大事なことなんです。 何気なく出てしまうものってみんなからだで覚えたことなんです。頭で覚えたことはすぐ忘れても、からだで覚えたことは死ぬまで忘れない。」


「でも、このカップも、落として割れたら危ないからと、ぎゅっと握りしめて手放さないようにしていると、やがて腕が強張り、肘が強張り、 どんどん力が抜けなくなってガチガチになっていってくたびれちゃう。」

「だから今日の講座の話じゃないけど、どんどん手放してゆくということ。手の内をゆるめて、 モノや物事を遊ばせながら扱う感覚を身に付けるということなんです。言葉じゃないんですよ。からだでその感覚を身に付けるんです。」

「何であっても、遊んでいるときがもっともその力を発揮するんです。ご自分を振り返ってもそうじゃありませんか?  遊んでいるときにモノはその本性を発揮する。全力を発揮する。」

「ですからその役員というのも、こう、もう少し遊ばせるような感覚というんでしょうか、なんとも言葉にできませんけど、 こうでなければならない、とかそういうことを手放して、やわらかくね、接するといいと思いますよ。」

「そういう『手の内で遊ばせる感覚』というのを、ぜひ身に付けてください。」


と、口から出てくるのに任せてベラベラとしゃべっていたら(それを「出任せ」という)、熱心に話を聞いていた彼は、眼をキラキラさせながら、 「面白いですね。全部つながっているんですね。」と、素直に感動してくれた。

いやいや、こんな話でよければいくらでもいたしますよ。

そのかわり止まらなくなっても責任は持ちませんからね。


そのあと「今日は来て良かった。」と言って明るい顔をして帰っていかれたけれど、そう言っていただけると私もたいへん嬉しい。

でも、こうして振り返ってみると、何ら具体的なアドバイスなどしていないな、私。

「腕をゆるめる」ということと、「おもちゃで遊ぶ」ということだけだ。

いったいそれと自立支援法の役員に何の関係が?(笑)

でも何だかよく分からないけど、自分で勝手に元気になっちゃった。

う〜む、素晴らしい。

posted by RYO at 08:47| Comment(16) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする