2006年08月30日

シ、マ、ノ、ウ、タ。

風待人さんに教えてもらった 「島の唄」を、 ポレポレ東中野に観に行った。

「島の唄」は、詩人の吉増剛造さんが奄美や沖縄の島々を訪ね歩くという映画。

この吉増剛造さんという詩人の名前を私が知ったのは、ごく最近のことである。

ひと月ほど前に、本屋さんをウロウロしていたときに『アーキペラゴ― 群島としての世界へ』(今福龍太・吉増剛造、岩波書店、2006)という本を見て、その「アーキペラゴ」 という聞きなれない言葉の語感と、「群島思考」 というなんだかとてもイマジネーションをかきたてるコピーに心惹かれてパラパラと立ち読みしたのが初めて。(買ってはいない。 )


映画の中で、吉増さんが自作の詩を朗読するシーンがたびたびあるのだけれど、吉増さんはホントに言葉をひとつひとつ丁寧に、口から、 というより、からだから発する。

一言一句どころか、一音一音に「言霊」(「音霊」?)が込められているかのようなその語り口は、聴いているこちらのからだを、 ぐんぐんと言葉の中へと誘い込む。

気がつくと私は、スクリーンを見つめながら吉増さんの語る詩を、口の中で復唱していた。

ひ、と、つ。 ひ、と、つ。


聴く者に、繰り返し語らせる「語り」。

その中に、それが何だか分からないまま放り込まれた。

すごい人だ。


吉増さんは劇中、「街の光景を重ね合わせる」という言葉を口にした。

過去と今が重ね合わさることで、今、眼に見えていないものが浮かび上がる、と。

街という現象。
暮らしという現象。
人という現象。

過去と今の狭間に浮かび上がる空白。

その空白を埋めるのは、「確かに存在した」「確かに続いている」という見る者の確信だけだ。


繰り返し感官に訪れるそれらの現象に身を浸しながら、それらが自らの言葉を獲得するまで、吉増さんはからだの中で、自由に遊ばせているのか。

名づけるのは簡単だ。名乗るのを待つのは辛抱がいる。信頼もいる。

詩人が言葉を選ぶのでない。言葉が人を選ぶのだ。


映画館で買ったパンフレットには、吉増さん直筆の詩の原稿のコピーが挟まっていた。

繰り返し繰り返し手を入れ、削り取られる言葉さえも、朱できっちり丁寧に塗りつぶす、言葉に対する敬意、誠実さが滲み出ている原稿。

今一度、「言葉ときちんと向き合わなくては。」と思わせる、そんな映画であった。

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2006年08月28日

叱言の保ち

今日は群馬で子育てママさんたちの講座。

いつものことながら思いつくままにベラベラしゃべる。

その中で「叱言の保ち」についてのお話をした。

「いかにして叱言の効果を保たせるか。」

これはなかなかにして難しい問題である。どんなママさんたちも悩むところであろう。

私自身も、あらゆることにおいて「保つ」ということの難しさは十分すぎるほど感じているし、ほとんど一生の課題でもある。

う〜む。どうするか。

難問を解くときにはコツがある。

逆にして考えてみる。

「どうすると叱言の保ちが悪いか。」

うむ。べつに何てことでもないが、考えやすくなったかもしれない。


しばしば子どもを叱る大人の口ぐせで「分かった? 分かったら返事をしなさい!」というのを耳にするが、この言い回し、 自分が言われる側に回ってみれば分かるが、あまり気持ちの良いものではない。

まぁ、考えてみれば「叱言」プラス「屈辱的な命令」であるこの言い回しが、聞いていて心地がよいわけがない。

単純に考えても、このような「叱言」が子どもの心に「響かない」というのは想像にたやすいが、また「保ちの悪さ」 という点でもいかがなものかと思われる。

「叱言」の目的は、あくまで「素行の是正」であるわけだけれども、「叱言」を言ったすぐ後に「返事をしなさい!」とか 「手を挙げなさい!」とか、「命令」によって子どもにある種の行動をとらせることは、子どもの中で「叱言」の「清算」 を済ませてしまうことになる。

「悪い素行」と「叱言」+「命令(服従)」の取引が、その時点で終了することになるのである。

「叱言」の後に、すぐさま「命令」によって行動させても、子どもにとってその行動は、大人に対する「取引」であり「取り繕い」 であって、たんなる「清算行動」である。

特にそのときに、「不快」な形で、「屈辱的」な形で、子どもに行動をさせ、それらの行動に対する「不快な先入観」を子どもに抱かせることは、なおよろしくない。

招来、その子が大人になってその行動を他人に依頼されたとき、無意識に嫌悪感を呼び起こすことになるだけだ。( 「何でオレがそんなことやんなくちゃいけないんだよ!」)


そのような「間」を読むこともとても大事なことだし、「度」というものも大事だ。

「素行」に対して「叱言」が過ぎれば、「叱言」のインフレが起こり、やがて「叱言」の価値が暴落し通用しなくなり、逆にあまりに 「叱言」が少なすぎれば、「素行」はちっとも直らない。

「叱言」は、叱る者の中に「抑制」の葛藤が含まれていると、そのエネルギーの拮抗が、聞く者の裡で模倣され、伝播する。

なんにつれ、その内に「逆の要素」を含んでいるものは浸透しやすいものだ。

とにかく「叱言」は、その場で終わらせずに、子どもの中に残し、響かせることが大事であって、そうすることによって初めて、「叱言」 がその子の一挙手一投足に染みとおることになるのである。

それも程度によって、その「素行」と「叱言」の塩梅を見ながら、適度にその子の中に残るように、「叱言」を終わらせることがとても大切なことである。

子どもには重過ぎるほど、あまりに多く残しすぎると、その子を卑屈にする。

大人の顔色をいちいち伺うようにしてしまったならば、その荷は重過ぎる。

そのさじ加減は難しいが、それくらい集中して子どもを愛しながら叱ることは、その行為自体が、子どもに通じることだろう。


ただし、その子に非がない「不可抗力」のものに対しては、基本的に「叱言」をその場で清算し、終わらせたほうが良い。

「不可抗力の非」を、子どもに引きずらせるのは酷だ。

「叱言の機」というものもある。

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2006年08月24日

秋来ぬと…

夕暮れ時の帰り路、樹々の茂る公園の中を歩けば、うるさいくらいのツクツクホウシ。

しばし立ち止まって、樹々を見上げて大合唱に耳を澄ましていたら、高い梢のさらにその先の、空の色にふと秋の気配。

今年初めて感じた秋。

季節の中でも秋が一番好きなせいか、秋の気配には敏感だ。

というより、どんな些細なことでも、秋に結びつけ、秋を感じてしまう(笑)。

例年だったら、まず風の匂いに秋を感じるのに、今年はなぜか空の色に秋を感じた。

なんでだろう。初めてだ。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」

とは、藤原敏行。

これは音に感じてる。

でも今まで、風の音に秋を感じたことは無いなぁ。

いつも風の匂いだ。

それとも匂いも含めて、音と表現しているのかな…。


どうも私は匂いに特別な判断基準があるらしい。

初めての街はいつも必ず、到着したらまず匂いを目いっぱい吸い込んで、気分がすがすがしくなれば、「うん、いい街だ」(笑)と、 とても単純に結論付けてしまうくらい、匂いを重要視している(…重要嗅?)。

食事に行っても、初めての料理はすべて必ず匂いをまず嗅ぐから、一緒にいる相手に「やめて」と嫌がられるくらいである。

ハハハ。やめません(笑)。

食べる前に匂いを嗅ぐのは、生物として当たり前の行為だ。

匂いも嗅がずに、口の中に異物を入れるなんて、自殺行為じゃないか(笑)。

てゆうか、もう習性なので多めに見てやってください。お願いします。

(そういえば昔、ある歯医者で最初に口を調べられたあとにすぐ、「やっぱりやめます。お金は払いますので。」 と言ってさっさと逃げ出したことがあったな。嫌悪感を感じたら速やかに逃げ出すのは、身を守るためには何よりもまず大切なことだ。  特にからだを任せる人を選ぶときには、直感を大事にした方が良いと私は思う。医者とか料理人とか連れ合いとか…。)


海外に行ったときの記憶も、やはり何よりもその国の空気の匂いだなぁ。

匂いを嗅ぐだけで、いろんな思い出が一気によみがえってくる。

ずいぶん昔にチョロンと書いたけれど、 人間の五感のうち、匂いだけは新皮質を介さずにダイレクトに辺縁系に届くようになっている。

匂いは、知性を通さず、直接、本能へと働きかけるのである。


ん? ということは?

今まではまず、本能で秋の気配を感じていたのに、今年は理性で感じたということ?

む。はたしてそのココロは…。

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2006年08月21日

育児をデザインする

私の講座によく参加してくださっているママさんのKさんに誘われて、「子育ち講座」というものに参加してきた。

「一品持ち寄り」とのことだったので、前の晩から漬けておいた、きゅうりと谷中生姜のヌカ漬けをタッパーに入れて、 いそいそと光が丘へと向かう。

ジリジリと照らしつける陽光の下、光が丘公園を抜けて、会場であるお宅へ。

会場のお宅に着くと、もうすでに何人ものママさんと子どもたちがワイワイと賑やかそうにしている。

いつものことながら大人の男性は私一人。

と言いたいところだが、今回は講師の方が男性だったので、何とか二人(笑)。

育児において男は相変わらずのマイノリティである。…いいけど別に。イヤ、いいのか?


静岡の富士市で「もりの」というおもちゃ屋さんを経営なさっている遠藤先生という方が講師だったのだが、 お店から軽のワゴンに山と積んで持ってきたおもちゃを、講座の空間に丁寧にしつらえて、その隙間でママさんたち相手にしゃべりたおす(笑)、 という何ともファンタスティックな講座であった。

しゃべり出すと止まらない遠藤先生に、まるで我が身を見るようで、「う〜ん、 やっぱりブレーキをかけるということも意識しなくてはならないかな…」などと、密かに我が身を反省などしてみたりもして…(笑)。

けれども、話はたいへん興味深く、出てきたキーワードとしては「生活」「日課」「贈与」「物語」などなど、 私がふだん考えていることともいくつか共通点を感じ、なるほどとうなずくことも多々。

止まらないお話をぼんやり聞きながら(子どもの相手などしていたので…)、私の頭に浮かんだ言葉は、「育児をデザインする」 ということであった。

遠藤先生がそういう言葉を使っていたわけではないけれども、私の中ではそのような言葉として腑に落ちてきた。

話の中で、繰り返し出てきたのは「日課」という言葉であり、「片づける」という言葉であったのだが、とくに「日課が助けてくれる」 という言葉は、もっとも深く落ちてきた。


日々の暮らしの中で、「日課」を作るということ。「片づける」ということ。

それは言い換えると、「時間をデザインする」ことであり、「空間をデザインする」ことである。

私たち人間は思った以上に、環境に左右されるものである。

「デザイン」が人の行動や心理に及ぼす影響は大きい。

「デザインって何ですか?」とか言われると、私にもよく分かっていないので説明に困ってしまうのだが、それは詩的に言えば 「空間を奏でる」ということであり、平たく言えば「場作り」といってもいいかもしれない。

私がこのブログでもたびたび触れているアフォーダンス理論は今、 さまざまな方面のデザインで応用されている認知(生態)心理学の理論であるけれども、あるデザインが人間の行動を決定づけるということは、 日常生活の中のあらゆる場面で繰り返されていることである。

たとえば、「扉にある腰の高さの位置のくぼみ」は、そこに指をかけ、その扉を「横にスライドさせる」ことをアフォードする。

扉についている取っ手が「突起」ではなく「くぼみ」である場合(たとえば障子やふすまなど)、その扉は、 私たちにそれを押すのでも引くのでもなく、横にスライドさせて開けることを促している(と感じる)。

つまり、極端な言い方をすると、「デザインが人のとる行動を選択(制限)している」のである。

そのような視点で街中を見てみると、実に多くの物たちが、人のとる行動を「私たちにそれと気づかせることなく」絞り込ませていることに、 改めて気づくことだろう。

『「場(物)」の及ぼす力』と呼んでもいいかもしれない。

もちろん、そのおかげで私たちは、日々の暮らしの中で、あまりにも無限に開かれた行為可能性の前に呆然と立ち尽くすことなく、 スムーズに暮らしていけているのであるから、べつに悪いことではない。

扉の前に立つたびに、その扉は、押すのか、引くのか、横にスライドさせるのか、ボタンを押すのか、上に持ち上げるのか、蹴り壊すのか、いちいち試さなくては分からないようなものであっては、メンドくさくて仕方がない。

そのようにして私たちの生活はデザインに囲まれ、そしてその影響を大きく受けているわけだけれども、そう考えてみると当然、 デザインの及ぼす「教育的効果」というものがあるのではなかろうか、ということに思い至る。


前にこのブログで、『犯罪は 「この場所」で起こる』(小宮信夫、光文社新書、2005)という本を取り上げたことがある。

その本は「どのような空間が人に犯罪を起こさせるか」ということについて書かれた本であるが、たとえば身近な例で言えば、部屋が散らかっているときというのは、そこにいる人間(子ども)も、何だかガチャガチャと騒々しくなるものである。

それはつまり、「空間」の乱れが、「人間」の乱れを助長している、とも言える。

「場」を形成するのは、「時間」「空間」「人間」という「三つの間」である。
(とは私が勝手に言っているのだが。)

その「場」を形成する三つの「間」のうち、どれか一つでもその「間」が乱れ始めれば、それ以外の「間」も乱れ始めるものである。

逆に言えば、どれか一つの「間」をきっちりしつらえると、それ以外の「間」も徐々に整ってくる。


つまり、生活において「時間を整えること」「空間を整えること」「人間を整えること」は三位一体となっていることであり、 つなげて考えるべきことなのである。

「時間をデザインする」とは、
「日課」を作り、日々の暮らしの「時間」に美しい「間」(リズム)を形成することである。
「空間をデザインする」とは、
「整頓」をして、日々の暮らしの「空間」に美しい「間」(リズム)を形成することである。
「人間をデザインする」とは、
「所作」を身につけ、日々を暮らす私たちに美しい「間」(リズム)を形成することである。

それら「美しいリズム」「整ったリズム」は、私たちを助けてくれる。

大きくリズミカルに揺れるブランコが、頂点に達したときに加えるごくわずかな力だけで、いつまでも大きく揺れ続けるように、「リズム」 、「波」に乗ることによって、私たちはごくわずかな「力」を入れるだけで、仕事を果してゆくことができる。

日々の暮らしの「時間」や「空間」に、ある「リズム」を形成しておくことが、どれだけ私たちを支えてくれる力となるか知れない。

それが暮らしの「型」と呼ばれるものである。


「育児」において、「時間をデザインする」ということ、「空間をデザインする」ということ。

暮らしを、「子育ちへと向かうデザイン」で演出するということ。

自由に遊ばせていても、危険性の少ないようなデザイン。
子どもがどこにいても、お母さんの視界に入りやすいようなデザイン。
子どもが、試してみたくなる、お片づけしたくなる、食べたくなるようなデザイン。
泥んこになって帰ってきたときに、風呂場へと直行できる動線のデザイン。
…etc.etc.

眼の届かぬところは、眼が届かなくても済むように、手の届かぬところは、手が届かなくても済むように、子どもが自ずとそうしてしまうように、「時間」を「空間」を、暮らしの「場」をデザインするということ。

そうした日々のちょっとした「場づくり」が、「子どもが育つこと」を構造的に援助してくれる。

そのように、「物」の力を引き出し助けてもらいながら、「場」の力を引き出し助けてもらいながら、暮らしそのものが私を支えてくれるように、暮らしを構築してゆくということは、それがつまり「魔女の教え(魔法)」であるのかもしれない。


そのような、「薄紙を重ねてゆく」 ような日々の暮らしの「型」の中にこそ、「育児」において、親子双方にとっての仕合わせの秘訣があるのではなかろうか。

もちろん、「それだけではあまりにも単調に過ぎる」とおっしゃる方もいるかもしれない。

たしかに、「間」の中にある種の「余白」「遊び」を取り入れ、ときに「崩す」ことも必要ではある。

「時間の余白」、「空間の余白」、「人間の余白」…。

「余白」とは、「何も無い間」「遊び」「自由」「無垢」「創造」。

「型」は「余白」があって活きてくるもの。

「型」は大事。 「余白」はもっと大事。

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2006年08月17日

キメ細かな「からだ」と「ことば」

原初生命体としての人間』 (野口三千三、岩波現代文庫、2003)を読了。

この本の著者である野口三千三(みちぞう)先生が提唱、実践されていた「野口体操」は、それ以降の健康系、 演劇系のボディワークのみならず、哲学、社会学などの人文科学系の思想にも多大な影響をおよぼしたメソッドであるけれども、 私自身の身体観も野口体操の思想を抜きにしては決して語れないほど、多大な影響を受けた素晴らしいメソッドであり、 今現在も地道に勉強させていただいている最中である。


私がこの本を初めて読んだのは、今からもう10年ほど前のことになるだろうか。

「同時代ライブラリー」版の同著は当時の私には難解で、「う〜む。」 と頭をひねりつつ、分からないながらもなんとか読破した覚えがあるが、今回改めて読んでみて、 当時の私ではおそらく理解できなかったであろう文言も、腑に染みとおるように入りこんできた。

この10年の間に、それだけ私の言語運用能力、身体感受能力も成長したということだろうか?

う〜ん、どうだろう…。

まぁ、とりあえずはそういうことにしておいて、少しでも慰みにしておこう。


ちょうど最近、言葉のもつ「呪(しゅ)の構造」 について、いろいろ考えていたときに、この書の中で野口三千三先生が言葉について素晴らしい卓見を述べておられて、「おお、 セレンディピティ! 」と、思わず喜んでしまった。

『すべてのことばは必ずからだの動きを内に含み、 それぞれのことばが内臓の働きや筋肉の運動その他、行動へのエネルギーをもち、独特な肉体感覚をもっているのである。 音声や文字言語とからだの動きは、おたがいに拘束し合ったり増幅し合ったりする。

ことばを大切にするということは、ことばを選んでしまった後で(動きを選んでしまった後で)、そのことば(動き)をいくら大切にしても、 もうおそい。ほんとうにことばを大切にするためには、ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階を大切にしなければならない。 選んで決めてしまうことを急がないで、ことば選び(動き選び)を大切にしなければならない。何かを選ぶということは、 それ以外のものを選ばないということ、捨ててしまうということであるから、いったん選んだ後でも、選ばなかったもの、 捨ててしまったものの中に、大切な何かが残されているかも知れないという慎重な姿勢がなければならない。

その姿勢があるとき、それが選ばれたことばを発するときのからだの中身のあり方を決定し、 その中身のあり方によってからだの動きが生まれ、捨てられたものをも含むような呼吸・発声となり、 そのことばの微妙なニュアンスを含ませるものとなるのだと言えよう。』
(同著、p225−226)

『からだの中身の変化の感覚を言語化する作業にとって大切なことは、 一つのことばに絞ることにこだわらないことだ。早く決定してしまおうとしてはいけない。決めてしまうとその作業が完結した感じになって、 止まってしまうからである。ほんとうに納得するまで、それに近いいくつものことばを併立させ、「あいまいさ・不安定さ」 を大事にして未完成のままにして置くことだ。完結へのエネルギーがさらにそれを検討させ深化させ、 続いて新しい発見へ導いてくれるからである。』
(同著、p231)


野口三千三先生は、「うかつに言葉にすることの危険性」と「きちんと言語化することの重要性」の両方を説いておられて、 その拮抗した矛盾の奔流の中に身を置きながらゆるやかに立つその姿勢に、深く感銘を受けた。

う〜む。すごい人ほど矛盾の中に身を置いていらっしゃるものだ。


しかし、このような素晴らしい身体思想を30年以上も前に言語化していた野口三千三という人間に、あらためて脱帽、感服である。

「からだ」と「ことば」を本当に丁寧にキメ細かく探求されていた野口三千三先生の「ことば」は、それこそ本当になめらかでキメ細かく、 繊細なテクスチャーを感じさせるものばかりである。

今回そのようなキメ細かな「ことば」に触れながら、「ことば」自体のもつ「キメ細かさ」がすでに、 「その受け取り手の感受性を極めて敏感にする」という教育的機能をもっているのだ、ということに気がついた。


私たちは誰でも、極上のシルクに手を触れた瞬間、そのあまりにもなめらかなキメ細かさにハッとし、その繊細なキメをより繊細に感知しようと、 シルクに触れる指に全神経を傾け、感受性を研ぎ澄ますと思う。

同じように、「ことば」のもつキメ細かさは、それに触れる者の「ことばの感受性」を格段に高めるのではなかろうか。

丁寧に選ばれた言葉の切り口、抑揚の利いた声のバイブレーション、情熱を秘めた息の熱さ、 そういったほとんど意識にのぼることのないノンバーバル(非言語的)なキメ細かさが、聴く者の「からだ」に響くような「言霊」を「ことば」に付与する。

まぁときには、どれほどキメ細かな「ことば」を差し出してもちっとも響かない、という人もいるかもしれないが、 その場合はまず準備段階として、話し手の「からだ」に感応できるように、共鳴できるように、「息を合わせる」 ところから始めなければなるまい。

そうして、響く「からだ」を準備し、通る「声」で、キメ細かな「ことば」をかける。

「ことば」を聴く者は、聴いた「ことば」を、内で繰り返している。

聴いた「ことば」を、改めて自分の「声」で繰り返す中で、「ことば」の持つ「分節力」が、聴く者の「からだ」の中に育ってゆくのだ。

そうして「ヴォイス」の伝授が果される。

キメ細かな「ことば」を使うことで「からだ」を細分化し、微分化し、「からだ」を細かく細かく割ってゆく。

細かく割れば割るほど、「ことば」も「からだ」もなめらかにつながってゆく。

細かく砕かれた石が粘土としてまた一体となるように、細かく割られた「からだ」はまた一つとなって動き始める。


ちなみに話は暴走するが(笑)、細かく分けられ「自由度」が増した(可動箇所が多い)システムが、複雑な制御を必要とするということは、 考えれば誰でもすぐ分かることだが、その「自由度」があまりにも高くなると、やがて自己組織化が起こり始めるという 「複雑系」(⇒Wiki)の考え方に従えば、 「からだ」は細かく割れば割るほど、「からだ」に任せても良いということになる。

つまり、「からだ」を細かく割れば割るほど、(アタマによる)単純な制御が利かなくなるのだけれど、べつに「しなくていい」のである。

むしろアタマは『「からだ」の邪魔をしない』ことのほうが重要である。

「からだ」を細かく割っていき「からだ」を動かしたときに「意識にのぼる箇所」、それはつまり「違和感」(「快」であれ「不快」 であれ)であるのだけれど、その「違和感の生まれる箇所」から「すみやかな自己組織化を妨げる因子」を取り除くことだけを、 アタマは仕事としてすればよいのだと、私は考えている。

「快」も「不快」も「違和感」である、という私の持論には首をかしげる方もいらっしゃるかもしれないが、「快」とは 「消えつつある違和感」であり、「不快」とは「増えつつある違和感」だと私は思っている。

「違和感(差異)」のない箇所に、感覚は生じない。

(もちろん、訓練を積んだ者が意図して集中した場合は例外であるが。)

あくまで理想は「何も意識されない(違和感のない)状態」であり、つまりはできうる限り「快」も「不快」もない状態であり、 それを普通は「一体感」と呼ぶ。

アタマの仕事は、至極乱暴に言ってしまえば「違和感の解消(一体感)に向けた焦点化」ということに尽きる。


…む。キメ細かさとはかけ離れてしまったな(笑)。

このまま放っておくと止まらなくなってしまうので、とりあえず暴走はその辺にしておいて…。

ともかく、「からだ」をキメ細かな「ことば」によって微分化してゆきながらも、次なる「運動」のための「遊び」「余白」 を残しておくということ。

そして、粗雑な「ことば」で「からだ」を型枠にはめてしまう、あるいは釘を刺してしまうようなことはしないということ。

野口三千三先生の文章をふむふむと拝読させていただきながら、私はそのようなことを考えた。

もしかしたら、てんで見当違いであるやも知れないけれど、一歩でも前に進むためには、恐る恐るでも足を踏み出してみなければなるまい。

ダメそうならば引っ込めて、三歩進んで二歩下がる。

遅々と、着着と。

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2006年08月15日

ウェブに立つ墓標

ふと思い立ち、今までに拙ブログにいただいたコメントを読み返してみた。

読み返してみると、ブログの本文と違って、自分の書いた文章に「へぇ、こんなこと書いてたんだ。」と、 忘れているのが多いのが興味深かった。

自分が書いたであろう言葉にハッと気づかされたりして。

なかなかイイことを言う(笑)。


ブログの記事に書いている文章は、基本的にモノローグ(独り語り)である。

もちろん、書いている最中にふと、読んでくださっている方々を思い浮かべたりすることもあるが、 かといって特定の誰かに向けて書いているわけではない。

私も気分によって、そのつどいろいろな語り口を試して、マイ「ヴォイス」(@内田樹)を探求中(チューニング中?)であるので、 文章によって響きや息づかいなどは多少異なるとは思うけれども、基本的にはすべてモノローグであると言ってもいいだろう。


それに対して、いただいたコメントに対するお返事はダイアローグ(対話)であり、最初から言葉の宛先がはっきりとしている。

宛先のはっきりしている言葉のほうが忘れていて、宛先の不明瞭な言葉のほうが覚えているというのは、我ながらなかなか面白い。

言葉の引き受け手がいない(あるいは実定できない)ということが、自らを引き受け手として喚び出すのだろうか?

う〜む。


「テクストに作者はいない」とはロラン・バルトの言だが、当然ダイアローグにも作者はいない。

「Aさん」と「Bさん」が対話をしたときに、その対話の作者の欄を「Aさん」「Bさん」の連名で書くということは、単純に作者が 「Aさん」プラス「Bさん」である、ということではない。

全体は部分の総和ではない。

ダイアローグの作者は「Aさん」でも「Bさん」でもなく、「Aさん」プラス「Bさん」でもない。

「出会う」ことで生まれる何か新しいモノが、必ずそこに混じりこんでいる。

作者の欄に「Aさん」「Bさん」の連名で記すということは、その「『間』も含む」ということである。


ゆえにダイアローグの作者ははっきり実定できない。

強いて言うならば、「当事者がいる」だけである。

その場にいるすべての者たち、つまり、問う人、答える人、聞く人、見てる人、聞いているかもしれない人、見てるかもしれない人、 実在の人から空想の人まで、何人もの当事者によって作り上げられてゆくテクスト。

「テクスト」とは、その語義通り「織り上げられたもの」であり、そこにはさまざまな縦糸、横糸がいくつも織り込まれ、複雑な 「肌理(キメ)細かさ」(テクスチャー)が表現されている。

今回、ブログにいただいたコメントとそれに対するお返事を読み返しながら、そこに描かれた複雑な「肌理細かさ」(テクスチャー)は、 本文よりはるかに豊かなものであることに、改めて驚嘆した。


私は何も、コメントが欲しくてブログを書いているわけではない。

けれども、私の書いた文章に、読んでくださった方からコメントをいただけることは何よりも嬉しいことだし、愉しみなことだし、 さらにブログの記事を種としたダイアローグの織り上げられていく様は自分の思惑を超えていて、そういう意味でも見ていて愉しいし、嬉しい。


私はいったいこのブログを「誰に向けて」書いているのか?

それに答えることはとてもムツカシイ。

だれか特定の人間に向けて書いているつもりはないし、そんな感じもしない。

不特定多数の人間に向けて開かれているわけだけれども、かといって不特定多数の人間に向けて書いているというのも、 また何か違うような気がする。

www(ワールド・ワイド・ウェブ)上にポツンと置かれた、私の文章はいったい「誰に向けて」書かれているのか?

う〜む…。


人はみないつか必ず死ぬ。

けれども、ウェブ上の情報というものはいつまでも残る。

怖い表現で申し訳ないが、近い将来、ウェブ上はそのような「死者の声」で満ち満ちることになるだろう。

私のこのブログもいつまで書き続けるのか知らないけれど、もし私がひょんな拍子でパタリと倒れて帰らぬ人となったとき、 このブログは書き手不在のままウェブ上にポツンと残り続けることになる。

世界には、ウェブ上のすべてのドキュメントを残すための「www図書館」のようなものも存在し、 そこのロボットが世界中のサイトを点々としながら、 そのすべてのキャッシュを何百だか何千テラバイトのハードディスクに保存し続けているそうであるから、 おそらくほぼ半永久的に残り続けることになるだろう。

あと50年も経てば、そのような「書き手不在のサイト」は、おそらくかなりの数に達することになる。

ウェブ上に遺された、膨大な数の死者の墓標。死者の声。

かつて生きた「思い」が「生き様」が、そこに書き連ねられており、時折訪ねてくる人に訴え続ける。

そしてやがて訪れる人も徐々に減り、最後のリンクが消えたとき(それを「ネットワーク上に存在している」 と言えるかどうかは微妙なところだが)、すべての参道を閉ざされたまったく孤独な墓標となったとしても、そのサイトは確かに存在し続けている。

いつか万が一にも、自ら参道を切り開き、直接アクセスしてくるかもしれない訪問者を待ちながら。


そういえば前にニュースか何かで、亡くなったお子さんのブログを、お母さんが書き込まれたコメントの返事を書いているうちに、 そのブログを引き継ぐことになって書き続けている、というような話を聞いたことがあるが、そのような形で引き継がれる「死者の声」 もあるだろう。

よく分からないけれども、それはやっぱり幸せなことかもしれない。

そんな形があってもいいかもしれない。


思えば「Windows95」が華々しく世に登場してから11年。

その合間にwwwのネットワークはそれこそ急激な勢いで成長を続け、 人間の手を完全に離れ自己組織化してまるで生き物のように振る舞いはじめ、今やコンピュータネットワーク(Web2.0)の研究とは、 完全に生態学(エコロジー)の様相を呈している。

その生態系を作りあげる死者の声たち。

「死者の声の生態学」。

宛先不明の私の「言葉」は、どこかで私の「言葉」を受け止め、返事をしてくれた方たちの「言葉」とともに、 豊かなテクスチャーを形成しながら、山稜に積まれたケルンのようにウェブ上にその痕跡を残してゆく。

やがていつか私も死者の参列に加わるとき、そのテクスチャーがウェブ上に墓標として残るのだ。

…そうか、しまった。もうちょっとカッコいいこと書くべきだったな…(笑)。

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2006年08月11日

仕合わせの美しい人

思えば、「昔聴いてどこか心に残っていながら名前を知らない曲」というのは、たとえば「言えなかった一言」や、 「その意味がよく判らなかった言葉」のように、いつまでも心の中に居場所を定められずに、微弱に反響し続けているものだ。

前回このブログで、 私にとってのそのような歌を問うたところ、ukiki01さんがたちまち探し出してくれた。

(あまりにも素早い仕事振りに感動。多謝多謝。)

10年以上に渡り、私の中で微弱に反響し続けた歌も、ここにきてようやく落ち着ける居場所を見つけたようで、何か、 鬼ごっこでやっとのことで捕まっちゃった子どもがする照れ笑いの、残念感と安心感の混じったようなそんな表情が、めぐり会えた歌に重なる。

たしかに嬉しいことなのだが、なぜか一抹の寂しさもある。

人の心とはムツカシイ。


歌の名は『美しい人よ』。

原曲はスペインの『LA VIOLETERA』という曲で、1923年に作られ世界的にヒットした曲だそうで、その後、 チャップリンの『街の灯』のBGMに使われたのだそうだ。

この日本語の歌は、歌手の大貫妙子さんが日本語歌詞をつけ、歌っている歌。

説明書きによると、JR東日本のCMに使われていたのは1994年ということなので、じつに12年越しの再会ということになる。


『美しい人よ』

風 薫る街で あなたの瞳に
めぐり会った時 手をさしのべれば
胸は躍る

花咲く小道の 美しい人よ
この腕の中に そっと抱きよせて
恋に落ちる

(@大貫妙子「美しい人よ」より抜粋)

追補:YouTubeでCMを発見したのでリンクを貼っておきます。


今回、はじめて全部を聴いて、ちゃんと歌詞を知った。

「美しい人よ」という表現が美しい。

「美人」じゃないんだよな。「美しい人」。

「美しい人」というのは、そのシチュエーションと切っては語れないような、そんな感じがする。

風景に溶け込んでいるというか、風景と仕合わせな出会いを果している人。絵になっている人、調和している人。

風も光も空も土も、その人の美しさを引き立てる。

やわらかに、凛としている。

そんな仕合わせな人

「その人」と「風景」が仕合わせな出会いを果たし、そこに「私」が仕合わせな出会いを果す。

そこに「美しい」がある。

仕合わせな出会いの関係を、人が「美しい」と感じる不思議。

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2006年08月08日

「街の灯」だった

チャップリンの『街の灯』を観ていたら、スピーカーから流れてきたBGMに思わず「あっ!」と声を出して驚いた。

「うわ!『街の灯』だったのか!」

というのは何かというと、10年以上前のこと、JR東日本(だったかな?)のCMで、「風、薫る街の〜あなたの瞳に〜♪」 とかなんとかいう歌詞の歌が流れていて、そのフレーズがやたら耳に残っていて、でも曲名が分からなくて、いろんな人に訊いたのだけれど 「知らない。」という、つれない返事しかもらえず、結局分からずじまいだったことがあったのである。

(今思えば、そのときにJRに問い合わせればよかった。)

そのときのCMの、画面に映し出された日本の自然の光景と、そこに流れる優しいメロディーと歌声が、 ずうっと心に残っていたのだけれど、それがなんと、チャップリンの「街の灯」を観ていたら、 そのメロディーが流れてきたので仰天してしまったのだ(興奮して思わず立ち上がってしまったくらい)。

「これだ!」と思った私は、すぐさまネットでいろいろ調べたのだけれど、チャップリンの「街の灯」のサントラはあっても、 日本語の歌は見つからず…。

うう、なんで…?(泣)

『街の灯』に使われた音楽は、チャップリン本人が作曲したものばかりということなので、どこかで引っかかるはずだと思うんだけど…。

それとも、CM用に作った歌だったのかな?


そういえば前にも、トヨタのカローラ(だったかな?)かなにかのCMで流れていた、バッハの「無伴奏チェロ組曲」 をサックスとピアノで演奏している音楽を聴いたときに、「これいい!」と感動して、すぐさまトヨタに電話して 「CMに使われている音楽のCDの名前を教えてください」と、お願いしたことがあった。

そうしたら電話応対のお姉さんは「少々お待ちください。」と言ったあと、「バッハの無伴奏チェロ組曲になりますね。」と答えたので、 「いや、それは分かるんです(笑)。あの演奏がいいんです。」とさらに訊ねたら、結局 「あの曲はCM用に録音されたものでCDにはなっておりません」とのことだった。(ガーン…!)

ただ、そのサックス演奏者の名前が「清水靖晃」 という名前であることだけは分かったので、いくつかCDを聴いてその中にバッハ(試聴可能)もあって、 それも素晴らしかったのだけれど、やっぱり、あのピアノとのコラボレーションが良かったよ〜(泣)。


…とまぁ、それはともかく、『街の灯』で使われたBGMに日本語で歌詞をつけた歌について、 どなたかご存知ある方いらっしゃらないでしょうか?

もしどなたかご存知でしたら、ぜひぜひ教えてください! お願いしまする〜。

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2006年08月04日

弱い舟

茂木さんのブログ「クオリア日記」を拝見していたら、 「もの言わぬもの」 と題して、言葉について書かれていた。

その中でご本人の著書である『生きて死ぬ私』(茂木健一郎、ちくま文庫、2006)の中の一説を取り上げている。

『船の前方には、次第に那覇の港が近づいてきていた。大型船、小型船が行き交い、 灯台が見え、浮標が点在し、海面にはオイルが浮き、飛行機が上空を飛び、そしてビル群はますます大きく見えてきた。これらのものが、 「文明」を構成する「言葉」であることが、その時痛切に私の胸に迫ってきた。好きであれ、嫌いであれ、私たちの文明は、これらの「言葉」 、私たちが作り出し、流通させ、操作する「言葉」から成り立っているのである。』
(@クオリア日記:「もの言わぬもの」より)

船上より映る都市の光景を空想しながら、言葉とビルの美しいアナロジーに「ほぅ…」とため息をつく。

区画整理された土地の上に、現代科学の粋をきわめて建造された、ネオンまばゆい「言葉」の摩天楼。

『船が那覇港に着いても、慶良間諸島は依然として洋上遥か彼方に見え続けていた。 私は、「言葉」以前の、「もの言わぬものたち」があふれる世界から、「言葉」が飛び交い、 流通するものがあふれる文明の世界へと戻ってきたのである。
人間にとって、「言葉」とはマルオミナエシの貝殻のようなものだ。「言葉」は、私たちの生の痕跡の、ほんの一部分の、 不十分かつ誤謬に満ちた証人に過ぎないのである。それにも関わらず、人間は「言葉」にすがって生きていかざるを得ない。「言葉」 という貝殻に、必死になって自分の人生の模様を書いていくしかないのである。』
(@クオリア日記:「もの言わぬもの」より)

ちょうど今、名嘉睦念さんとよしもとばななさんのコラボレーション小説『海のふた』(よしもとばなな、中公文庫、2006)を読んでいて、 茂木さんの言葉がその物語にオーバーラップする。

言葉は文化、分化する文化。


私の中では今、テーマとして「手放す」 というのが、とてつもなく大きな難題として存在している。

とくに最近は、その「手放す」ことが「手放せない」という何だか良く判らない難問に悩まされてしまっているのだけれど(誰か助けて! )、それはともかく、とにかくたびたび実感するのは「手放す」ということのムズカシさである。

「物」を手放せない。「常識」を手放せない。「子ども」を手放せない。「言葉」を手放せない…。


言葉は便利だ。

ひとたび名付ければ、 たちまち言葉は対象をからめとり、私のものとしてしまう。

細やかなキメはすべてつぶして圧縮し、デジタル化して気軽に持ち運べるUSBメモリのよう。

野生をそがれ、躾けられ、言葉の檻に飼いならされた、「もの言わぬもの」たち。

本来の霊力をごっそり剥ぎ落とされた抜け殻。 「呪い」をかけられたモノたち。

でもそのモノを知らぬ者にとってみれば、それがすべて。

野生のモノたちが、どれほど躍動的に生き生きとしていることか、そのモノを観たことの無い者には分からない。

言葉の檻に囚われないままの状態で他の人に観せてあげることができればと、いつも思わずにはいられないが、 それでも私たちは言葉を使わざるを得ない。


言葉のモノは、現実のモノより飼い慣らされ扱いやすいので多くの人に好まれるけれども、だがしかし気軽に扱えるがゆえに、また、 そこに縛られやすい。

たとえば講座で、私が何か一言しゃべれば、その言葉が相手を縛る「呪(しゅ)」になり、何か型をひとつ見せればそれが「呪」になる。

しかもその「呪」は、相手がかかるのはもちろん、気を抜くと自らもかかる。

いつだって自分の言葉を一番近くで聞いているのは自分の耳だ。

かといって「伝授」は、「呪」抜きでは果されない。

すべての教育は、多かれ少なかれ「呪」の構造で成り立っている。

何かを得るとは何かを失うことであって、それはイケニエを捧げて「力」を得るという、古来より受け継がれる『「呪」の構造』 であるのだから、仕方がない。

いや、「仕方がない」とかつぶやくと、これまた己に「呪」をかける。


私の講座に出てくださる方には大変ややこしい注文をつけていることとは思うが、最近は講座の中で、 「私の言った言葉に縛られないでくださいね。言葉というのはただの舟なんです。」と皆さんに申し上げたりしている。

前に荘子の言葉をちょっと書いたことがあるが、 「言葉というのは意味を捉えるための道具」であって、意味そのものではない。

私の思っている「ある何か」を、誰か他の人に伝えるためには、言葉で表現するしかない。

「いや、言葉でなくても絵でも音楽でも伝えることはできるでしょう」と言われるかもしれないが、それらも畢竟、「ある何か」 を表現するための道具という意味では、言葉と変わりはない。

私の思いを相手に届けるためには、相手に届けるための乗り物(ハコ)が必要で、それが言葉であり表現であるのだ。

だから私たちは、自分の思いを相手に伝えたいと思うとき、思いを言葉という舟に乗せて、相手の元まで届かせるのだけれど、 ときどき届いたものを「舟ごと」かついで持ち運ぼうとする方がいて、そんなとき私は、「いや、それじゃ重くて大変でしょう。 舟はべつにどうでもいいんですよ。大事なのは積荷です。」と声をかけたくなってしまうのだ。

舟は自分から相手へと渡すときには、たしかに必要な乗り物であるけれど、渡ればなにも一緒に持ち運ぶことはない。

陸に上がって、そんな重い物をずるずると引きずっていては、やがてそれが枷となり、身動きが取れなくなってきてしまう。

だから私はつねづね「捨ててください。捨ててください。」と繰り返し申し上げて、まるで「右手で板書しながら、 左手ですぐさま消してゆく」ような、何だか恥ずかしがりやの先生みたいな振る舞いをするしかないのである。

私の話を聴いてくださっている方には、大変ややこしいことをして申し訳ないのだけれど。


言葉はその場その時だけのもの。言葉は意味ではない。

積荷が届けば舟は捨てて欲しい。舟は渡すときに要るだけのもの。

「また使えるから」なんて思わないで欲しい。

舟が必要になったのならば、そのつど新しく「あなたの手で」舟を造りあげて欲しい。

それが結果、私の舟にそっくりになったとしても、それは「あなたの舟」であって、「私の舟」ではない。

あなたが「私の舟」を捨て、「あなたの舟」を造りはじめて、その舟でいつか私の送った積荷を、 それを必要とする者のいる対岸に送り(贈り)出すのならば、私はこれほど嬉しいことはない。

それが「私の舟」に似ていようが、まったく違うものであろうが、そんなことはどうでもいい。

あなたが「あなたの舟」を造り、なおかつそれを当たり前のように手放せるということが、それが何より一番嬉しいのだ。

変わってゆくモノ、変わらないコト。


だから、というわけでもないが、

「私の舟」は弱くありたい。

届いた瞬間、その衝撃で壊れて沈むほどに弱くありたい。

急いで積荷を揚げなければ、舟とともに沈んでいってしまうかもしれないくらいに。

対岸まで届くほどには丈夫で、陸に揚げられるほどには強くない。

署名もなく、設計図もなく、そして形も残らず、ただその一回のためだけの渡し舟。

あなたのためだけの舟。

posted by RYO at 21:39| Comment(26) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月02日

Nature is Tough!

今日は趣向を変えて、最近出会った生き物たち集。

ただし、虫の苦手な方は、今回の記事は飛ばしたほうが良いかもしれません(笑)。

では…
posted by RYO at 22:01| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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