2006年06月30日

2006年上半期 記事一覧

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2006年06月28日

子育て修行

今日は群馬の子育てママさんたちの講座の日。

いつも思うのだけれど、群馬のママさんたちのパワーはすごい。

車で二時間以上かけてやってくるなんて当たり前のような感覚で、「一時間なんて近いよねぇ。」なんて言って、ケラケラと笑っている。

私は東京から出てきているのに、かかっている時間はみなさんとそう大差なさそうである。

恐れ入りました。母は強し。


今日、あるママさんとお話していた時に、「つい色々考えてしまったり、眠りが悪いんです。」ということだったので、 「足湯をするといいですよ。でもそのときに「ついでだから」とか言って本とか読んじゃダメですよ。それじゃ意味ないですからね。」と言うと、 笑いながら「子どもがいると自分の時間がないので、お風呂に入っているときに歯磨きしながら本を読んだりしてます。」と言う。

す、すごいですね…。それは…。

でもそれじゃあやっぱり、なかなか弛まらないでしょう(笑)。


私の講座に来ている皆さんは特にそうなのだろうけれど、子育てしているママさんたちというのは、ものすごい勉強熱心な方たちばかりである。

私が必然的にそういう人たちばかりと出会っているから、そう感じるのかもしれないけれど、実際、 子育てというものは誰にとっても初めての経験であるわけで、生まれちゃって初めていろんな問題がわっと出てきて、 あたふたと勉強し始めるということも多いと思う。

それで、今日も話していてそんな話になったのであるが、子どもと関わる時間というのは、大抵それだけで手一杯で、 他にやりたいことがあってもほとんどできない。

それで勢い、子どもが寝た後やひとりの時間に集中的にやりたいことをまとめてこなすということになる。

子どもと接する中で、大切なことに気づくことももちろん多いだろうし、自分の不勉強さに不甲斐なさを感じて「もっと勉強しなきゃ」 という思いに駆られて猛勉強、ということはよく分かるのだけれど、それはやっぱり大変だろうなぁ、とつくづく思うのである。


それで私が最近よく思うのは、「子育ての勉強は子どもができる前にやっておけたら一番いいんだけどなぁ。」ということなのである。

今日来たママさんたちは、皆さんその意見に「うん、うん。」と頷いていらっしゃいましたけど、でも実際には、「子どもができなきゃ、 そんなことは思わない。」(笑)

できたら、子どもができる前に子育ての勉強はある程度やっておいて、子どもができたら余裕をもって子育てに専念する、 という形がとれたら理想的であるのだけれど、それが、「とても難しいことである」ということはよく分かる。

「私は子どもは作らない」「私は子どもができても仕事を続ける」「子育てって想像と実際じゃ違うんじゃないか」…etc.

いろいろな価値観がある中で画一的に実施などできないし、無理強いしたところで何の効果もない。

でも、少なくとも自分で子育てをしようと思うママさん(パパさん)は、自分で少しでも接する機会を増やすなり、 勉強したりしておけるといいなぁ……なんて思うのである。

(だから、時々「子どもいないんですけど、講座って出てもいいんですか?」なんて方がいるのだけれど、 むしろそんな方こそ大歓迎! 私もいませんから(笑)。)


たとえば、からだの使い方が身に付かないうちに、あっという間に重くなってゆく子どもを「抱っこ」し続けて、 腱鞘炎になるママさんたちの多さを目の当たりにして、「ちょっと抱っこの仕方でもあらかじめ身に付けていたらなぁ。」と、 どうしても思わずにはいられないのである。

実際、ママさんたちとしゃべっていて、「腱鞘炎とか大丈夫ですか?」なんて話を振ると、「実はちょっと…」 なんて言うママさんたちはけっこう多くて、予備軍も含めてかなりの数がいるんじゃなかろうか、と思う。

そのたび「抱っこの身体操法」を教えることになるのだが、そういうことってすぐ身に付くものじゃないし、 日ごろの身体運用が無意識に出てしまうものだから、なかなか難しくて、やっぱりあらかじめそれを知っているかどうかの差はかなり大きい。

痛めてからでは遅いのである。

5kgや10kgなどという重い物を持つことがほとんどない現代で、重い物を持つときの“身のこなし”なんて、 身に付ける機会はまずない。

それが急に「右手に子どもを抱っこして、左手にはベビーカー、肩にはオムツや着替えの入ったバッグを担いで…」 なんて状態にいきなり突入したら、誰だってからだを壊しても仕方がない。

少しでもそのような所作を身に付ける機会があれば、とつねづね思うのだが、昔はそれが「花嫁修業」 とか称してさまざまな芸道の所作を身に付けていく中で、自然と果たされていたのかもしれないけれど、まさか今どき「花嫁修業」も無い。

そんなこと言ったって「何言ってんの?この男は。」と、女性陣に冷たく白眼視されるだけだろう。

それに“そういうこと”は女性だけが身に付けるべきことでもない。

男と女の「生物学的役割」は確かに違うが、父と母という「社会的役割」はフレキシブルなものであろう。

そういう議論の際に、そのあたりをごちゃごちゃにして論じるから、厄介なことになるのであって、 その辺はもっと明確にしておいた方がいいと思う。

私のまったく個人的な意見を言わせていただくと、「パパ時々ママ、ママ時々パパ、ところによって一時子ども」 (笑)ぐらいのフレキシビリティーは“アリ”だと思っている。

まぁそんなことはともかく、子育てを余裕をもって愉しみ、さらにはからだを壊さないためにも、 男であれ女であれそういう機会をもっと作れたらなぁ、と思う今日この頃。


そんなことを思いながら、今日は帰路に着いたのであるが、帰る途中、電車が大宮を通過するあたりでものすごい土砂降りに遭遇。

稲光が光り、滝のような豪雨。

電車の屋根がバリバリとものすごい音を立てているので、何事かとビックリして外を見たら、ホームに落ちた雹が跳ねている。

ス、スゴイ…。こんな激しい大粒の雹は初めて見た。

窓には雨が滝のように流れ、ホームでは雹が踊る。

見ていてふと、昼間の子どもたちの賑やかさを思い出す。

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2006年06月26日

トラウマ退治の物語

ゴーストバスターズ』を観る。

「何だって今ごろ?」と思われるかもしれないが、理由はある。

昨年末に京都大学で四日間にわたって行なわれた内田先生の集中講義を、ちょっと前にダウンロードしておいたのを、 最近になってちょっとずつ聴いていて、『ゴーストバスターズ』がその題材の一つだったのである。

その集中講義のお題はと言えば…、

『映画が図らずも語ってしまうことについて私が考える二、三の事柄、 もしくは私は如何にして映画の耐えられない軽さに目をとじることなく映画を愛し続けてきたのか』

…長い(笑)。

まぁ早い話が、「映画を観て内田先生が一席ぶつ」という内容である。

これで単位がもらえるんだから、大学って素晴らしいところだなぁ(笑)。

『「将来の夢は?」って訊かれたら「学生」って答えるね。』なんて、ときどき洒落で言ったりするが、 実はけっこう本気だったりして(笑)。


内田先生の『映画の構造分析』(内田樹、晶文社、2003)、『新版 映画は死んだ』(内田樹・松下正己、いなほ書房、2003)は、 ともにたいへん興味深く拝読させていただいたけれど、内田先生は映画を語っているときが最も「面目躍如」って感じがする。

いや、他のトピックについて語っているときも、もちろん素晴らしいですけどね(笑)。

内田先生の真骨頂というのは、どうも私には「ストーリーテリング」にあるような気がしてしかたがないのである。

「何かを見ているときに、ふとある物語を想起する」という形で語られる物語。

「ところで、そういえば思い出したんだけどね…」といって語られることは、 その前に語られたお話と何か関係がありそうだけれど飛躍がある、というお話が後に来るし、
「あ、コレってアレなんですよ…」といって語られることは、その前に語られたお話と“要素”は異なるのだけれど“構造”が一緒、 というお話が来る。

「何かが一緒だけど、どこか違う物語」のような、そういう似たもの同士があったときに、 それぞれ一つずつ見ても前景化されなかったものが、並べてみた瞬間、前景化されるというのはよくあることである。

それら似たもの同士の二つの間には「遊び」があるわけだが、その「遊び」を架橋し、つなげているのは私たちの脳であるので、その 「間にかかる橋」 は私たちに馴染み深いし、たいへんすんなり腑に落ちる。

だって、その橋は「自分で」構築したんだから。

繋がりそうで繋がっていない二つは、見る者に繋げることをアフォードする。

くっつきそうでくっつかない男女が、見る者にくっつかせることをアフォードするように(笑)。


そのように「コレってアレなんですよ…」といって語られるときに、語り手の中で起きている「二つをつなぐ空想、連想」 の未だ言葉を持たぬ道筋。

それらを結ぼうと「語り手の中で行なわれているダイナミックな作業」。

それが実は、最も本質的なところのギリギリの水際を迂回して通る漸近線であり、 その道程を共に行くことが大事なのであって、お話の内容そのものは実はどうでも良かったりする。(というのは失礼か(笑)。)

だから教育的観点からすると、話の内容を正確に把握することよりもむしろ、語り手の中で行なわれているダイナミックな飛躍に感応し、 同調し、そのダイナミズムに翻弄される感覚を、全身で感じることのほうが大事なことなのではあるまいか、と私は思う。


まぁそれはともかく、今回の集中講義でとりあげた映画を挙げてみると、
エイリアン』『大脱走』『北北西に進路を取れ』、そして『ゴーストバスターズ』の四本。

なので、講義を聴くに当たって、それらを借りてきて「映画を観て内田先生の講義を聴く」という、 講義内容そのままを体験してみようと思ったのである。

それで選んだのが、まずは『ゴーストバスターズ』。

「なんで『エイリアン』からじゃないの?」という声も聞こえてきそうだが、梅雨の湿気にやられて頭があんまり働かないので、 とりあえず「もっともリーズナブル」なところをチョイスしてみただけの話であって、深い意味は無い。


というわけで、この『ゴーストバスターズ』。

詳しくは内田先生の講義をぜひご聴講いただきたいが、内田先生いわく、これは「トラウマ退治の物語」だと言う。

つまりゴーストは「トラウマ」であり、ゴーストバスターズはそれを治療する「精神分析医」であるというのである。

前にこの映画を観たのはいつだったか覚えてないが、「よくあるチープな娯楽映画」というくらいの記憶しかない。

けれども、なるほど、「トラウマ退治の物語」を念頭に置いてあらためて観てみると、たいへん面白い物語へとたちまち変容する。

「ゴーストバスターズ」を開業したとたん、ニューヨーク中に「ゴースト」による事件があふれかえること。(⇒ゴーストバスターズがゴーストを実体化させた?)

物語の中心となる「ディナのルイスに対する欲望」が、最後まで前景化されないということ。(⇒欲望は意識化されず、それを抑圧するもののみ意識化される。)

ルイスが、キーマスター(鍵の神)に取り憑かれる直前の言葉が、開かないドアの前で叫ぶ「入れてくれ!入り口がない!どこ?」 ということ(それも「食の欲望を満たす」レストランの前で)。(⇒鍵を持たない(不能)者に、鍵の悪霊が取り憑く。)

……などなど。


見事、精神分析の物語としてきちんと成立している。

う〜ん、オモシロイな。 なんかこういう映画の見方もハマリそう。

そういう視点で、いろんな映画を観てみようかな。

とりあえずは、『エイリアン』、『大脱走』、『北北西に進路を取れ』の三本が手元にあるから、内田先生の講義を聞きながら、 それらをまずは観ていこう。

愉しみ愉しみ。


ところで、改めて未公開シーンを観ていたら、ゴーストを退治した後に、ルイスが「ディナ、僕たちもしかして…」と言うと、 ディナがちょっと考えた後、「いいえ、そんな事ないわ」と答えるシーンがあった。

『「それ」を否定するシーンすら編集作業で取り除かれてしまっている』という、あまりにも深く抑圧されたルイスの立ち位置に、 私は同情を感じてしまった(笑)。

がんばれルイス! 君は鍵を手に入れた! それがたとえ憑依中ではあっても(笑)。

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2006年06月24日

人と動物をつなぐ言葉

ひさしぶりの知人、みゆさんと会った。

みゆさんは昔ともに整体の勉強をしていた整体仲間で、現在はアニマル・コミュニケーターを目指して勉強中だそうである。

アニマル・コミュニケーター(AC)というのは、私もよく知らないのだけれど、ペットとコミュニケーションをする中でその訴えを聴き、 それを飼い主に伝えることで、「人」と「動物」との間に入ってよりよい関係を築くお手伝いをする、という「橋渡し=メッセンジャー」 的職業であるらしい。(…って合ってる?)


そういえば書店に行っても、最近は「犬猫本」がずいぶん増えてきているようで、よく目にする。

なるほど、たしかに晩婚化少子化傾向の強い現代、「家族」に代わる「親密圏」の形成に、ヒト以外、 つまり動物や植物などが重要な役割をもって関わり始めるであろうことは、当然といえば当然のことである。

最近はニュースなどを見ていても、ペットヨガ、ペットマッサージ、ペット整体、ペットファッション、ペットの葬式、ペット供養、 ペットロスのカウンセリング…などなど(って最後は完全に人間向けか)、ペット産業はどこもかしこも賑やかそうな様子。

そのうちきっとペットブライダルなんてのも出るだろうと、私は予想しているのだけれど、どうだろうか、この商売。  伸びそうな気もするんだけど。 それとももうあるのかな?

『ワンちゃんの出会いから結婚、そして妊娠、出産。さらには「お子さんたち」の将来も含めた親身なトータルケアを実現。 私たちが 「アナタのワンちゃんの幸せ」をサポートします!』みたいな感じで(笑)。


ちなみに私も最近は、実家に帰ると我が家の老犬テツのからだを労わるように、背中や骨盤などを触りつつ、「腰が硬いなぁ。オマエ」 とか言って整体してあげているのだが、じーっと押さえてあげると彼も大変気持ち良さそうにしている。

構造が大きく異なる人と犬では、アプローチの仕方も異なるといえば異なるのだけれど、「触るという行為」そのものに関しては、 私からすると犬も人もさほど変わりはない。

むしろ「からだが素直」な分、いくぶんかやりやすいかもしらん。

「ヒトの大人」は何よりも、「頭の中の硬結」が至極しぶといゆえ(笑)。


これらペットを中心とした昨今のさまざまな現象は、「最近の人は、人とコミュニケーションが取れなくなった」と見るか、 「動物ともコミュニケーションが取れるようになった」と見るかによって、その意味合いは大きく異なってくるけれども(笑)、 そのような議論はさておいて、大変重要な問題であると私は思う。

「人間、動物、植物、あるいはその他のモノを含めた親密圏」を何と呼べばいいのか知らないが(どなたかご存知ですか?)、 その在り方は今後、人類史上はじめての「人口自然減少社会」を生きる私たち日本人こそ、 もっとも切実に考えていかなければならない問題だろう。


ところで、「アニマル・コミュニケーション」とは、具体的に一体どんなことをするのか興味津々なので、みゆさんに訊いてみる。

すると、みゆさんいわく、

犬が「お手」とか「お座り」とかするのは、私たちが「お手!」とか「お座り!」とか言うその言葉を聞いているんじゃなくて、 まず最初に、私たちが「お手!」とか「お座り!」とか言っているそのときに、私たちが頭に思い描いている「お手をしている姿」とか 「お座りをしている姿」とかのイメージに感応して、その感じたイメージの行動をとるんだそうである。

そうして、何度か繰り返しているうちに、そのときに発している私たちの「お手」や「お座り」といった言葉を、 あとから覚えていくんだそうで、とにかくしっかりイメージができると、きちんと通じるそうである。

それは当然こちらからだけでなく、あちらからも同じ経由でメッセージの授受が行なわれることになる。

その訓練はきちんと検証可能な形で行なうそうであるが(飼い主に確認して正誤を確かめる)、 たしかに人間の思い込みにならないように当然の配慮である。


なるほど。たいへん納得。

ふだん子どもと接する機会も多く、また武術やボディワークなどをやっている私の経験からして、 はっきりとしたイメージを持つことによって及ぼされる人への影響はかなり大きい、と断言できる。

世界中の修養法や行法にも必ず「イメージ力のトレーニング」は出てくるくらい大切なことであるし、 自己啓発系のビジネス書はほとんどすべてコレだけを言っているといっても過言ではない(って知らないけど)。

それが、人間ほど「個の感覚」に目覚めていない動物にとっては、もっとより大きな影響を及ぼすであろうことは、想像に易い。


「動物と会話する」という行為は、世間一般の分類で言うと、おそらく「スピ(リチュアル)系」というか、もっとひらたく言えば 「アヤシイ系」(笑)という扱いをされるのだろうけれど、「スピ系」でありながら「ボディワーク系」でもあるみゆさんは、 バランスの取れた言語表現を身に付けているので、私の耳にも違和感なくスルリと入る。

とはいえ、「スピ系」も「ボディワーク系」も、世間一般の分類ではおそらく一括りで、「同類(アヤシイ系)」 扱いされることになるんだろうなぁ(笑)。

けれども、両方をかじっている私に言わせると、その間には「関東人と関西人」くらいの違いがある(…って分かりづらいな)。

みゆさんとしゃべりながら、「お互い近いところにいるんだから、共に語り合える言語を持てるといいね〜。」と共感。


最近「違うモノを違うままで共に語り合えるフォーマット」の必要性というものを深く感じる。

幸いなことに(不幸なことに?)、「唯物志向」の人にも「ボディ志向」の人にも「スピリチュアル志向」の人にも、あるいはどんな 「志向」の人であろうと、「頭の固い人」というのは等しく存在する(笑)。

私は「唯物志向」であろうが「ボディ志向」であろうが「スピリチュアル志向」であろうが、何の違和感もなく接するし、 むしろそれぞれの視点から世界を見てゆくことは、より豊かな世界が浮かび上がってきて、とってもオモシロイので望むところであるのだが、 ただその人がどのような志向性をもつ人であろうと、「頭の固い人」に対してだけは、正直、辟易としてしまうこともある。

だから私はそういう人にポソリとつぶやく。

「私から出ていった言葉がね、私の知らない世界にたどり着いたときにはまた、私も見たことがない色で輝きだすんですよ。」
「それがまた美しくてね…。」
「そんなことってありません?」


言葉はホントに無限の顔を持つと、私は思っている。

それは長所でもあり短所でもあるが、たとえば「米」と「ライス」は同じ物を指しながら、やっぱり違う物であるのであって、 それらを無理に一つにする必要はない。

一つに統合しようという「言葉のグローバリズム」は世界を貧相にしてしまう。

「米」という言葉の持つ豊饒性と、「ライス」という言葉の持つ豊饒性を、共に損なうことなく尊重しながら語り合うことはできるはずだ。

「違う言語を共有できるフォーマット」、「言語場」とでも言うようなものを、これからの時代、 私たちは作りあげていかなければならないのではなかろうか。


む。 考えてみれば、それこそ「違う言語をもつ異種族間のコミュニケーションを実現するアニマル・コミュニケーター」 に必要な感性なんじゃなかろうか?(笑)。

みゆさんに期待。

「え?どっちが人間でどっちが動物?」とかそういうジョークは無しね(笑)。

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2006年06月20日

日本のゴーギャンと梅干し

田中一村ギャラリーへ恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館に行ってきた。

お目当ては映画『アダン』。

「日本のゴーギャン」とも称される孤高の日本画家、田中一村(たなかいっそん)の生涯をつづった物語である。

日本の画壇と訣別し、「絵を売ることは、魂を売ることだ」と言い張って、頑なまでに己の信念を貫き通した田中一村は、50歳で単身、 奄美大島に渡り、亡くなるまでその地で画を描き続けた。

死後数年が経ってから、NHKのディレクターが取材先の家で、一村のデッサンを見たことがきっかけとなって、 ようやく彼の業績が世間に注目されるようになったのであるが、そんな不遇の画家、田中一村を演じるのは、自ら画家としても活躍している名優、 榎木孝明。

やや狂人の気が混じった天才、田中一村を見事に演じて見せている。

(昔、旅番組でサラサラとスケッチしている榎木孝明さんを見かけたが、とってもいい絵を描いていた記憶がある。多才だなぁ。 )


私が田中一村を知ったのは、何年か前に知人が「今、この人にはまってるの」と田中一村の画集を私に見せてくれたことがきっかけである。

その画集をパラパラとめくりながら、まるでゴーギャンのような画でありながら、同時に、 日本画独特の静寂さというか透明感のようなものを感じさせる、そんな不思議な作風を目にして、ほ〜っと心を奪われた記憶がある。

その画集に載っていた「いのち」のディティールを細やかに描きあげたデッサンの数々は、まるで博物学者のそれのようでもあった。

睦稔さんもそうだけれど、 芸術家の見る眼というのは、ホントにその透徹力がすごいなぁ、と心底思う。

少し分けてくれないかしら(笑)。

そんな透徹した眼差しを手に入れられたら、どんなにか世界がさらに輝きを増すことだろう。

……でも、自分で育てなきゃね。


自分の信念を貫きとおした孤高の画家の生きざまに感動したあと、その感動冷めやらぬうちに山手線に乗って新橋へと向かう。

帰路へと急ぐサラリーマンをかきわけ、梅干し専門店「紀州五代梅本舗」へ。

この前、 ブログに梅のことを書いていたら、どうしても美味しい梅干しが食べたくなってしまったので、先日ネットで調べて探したのである。

二坪ばかりの小さな店舗に足を踏み入れると、梅関連の商品が並んでいる。

お客が絶え間なく入れ替わり、けっこう繁盛しているよう。

店員さんに説明を聞きながら、いろんな梅干しを試食させてもらう。

うーむ。甘いのやら、酸っぱいのやら、旨みのあるのやら…、もぐもぐ。

と食べながら、商品を見回していたら一粒3150円とかいう「セレブ御用達ウメピコー」発見!

むご! なんと、「壺(!)」による個別包装。

しかも「サルノコシカケ」と「金箔」つき!

イヤイヤ、梅干し一粒に3000円払うって一体どんな方々なんでしょうか…。


いろいろ食べ比べて悩んだ結果、甘さも酸っぱさも中くらいの「しそ漬け梅」に決定。

よーし、これを食べて梅雨を快適に過ごそう。

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2006年06月18日

魔女の教え

魔女』(五十嵐大介、IKKICOMIX、小学館)というマンガがある。

前回の記事でモノノケのことを書いていたら、 なんとなく『魔女』の第2集に掲載されている「ペトラ・ゲニタリクス」というお話を読み返したくなったので、読み返す。

私はこの著者である五十嵐大介さんが大好きで、著作は全部そろえているのだが、この方もまた発する言葉が言霊に満ち満ちた方で、 1頁1頁めくるたびに「う〜む。」と考えさせられることばかり。

とても繊細な身体感覚の持ち主であろうことは、丁寧に選び取られた言葉の節々から感じとることができる。

「言葉をいい加減に扱う人は、すべてをいい加減に扱う」とは、どこで読んだ言葉か忘れたが(いい加減だなぁ)、 たしかにそういうことは言えるかもしれない。

キメ細やかな感性をもつ人は、発する言葉にそのキメ細やかさが表れているもの。


五十嵐さんご本人は、里山の集落でコメや野菜を作りながら執筆活動をしていらっしゃるそうだが、ちなみに、 そこでの暮らしをモデルにしたマンガ、『リトル・ フォレスト』(五十嵐大介、ワイドKCアフタヌーン、講談社)もまた、たいへんオススメの本である。

地に足のついた「スローライフ」が丁寧に描かれている。(勉強にもなる。)

五十嵐さんの作品は『リトル・フォレスト』も含めてどれも好きなのだけれど、特に私はこの『魔女』シリーズが好きで、中でもこの 「ぺトラ・ゲニタリクス」というお話が一番好きで、幾度となく読み返している。


このお話は、アリシアという感受性の豊かな女の子が、その繊細な感受性ゆえに世話になる家々を追い出される羽目になり、その末に、 ミラという魔女の家に引き取られることになるのだが、そこでの二人の暮らしぶりと、 やがてある事件に巻き込まれていく様子を描いた短編の物語である。

このミラという女性、彼女は人々に「魔女」と呼ばれ、慕われ、あるいは蔑まれているのだが、 魔女と言っても私たちが思い描くような何か特別な魔法を使うわけではないし、怪しげな薬を作るわけでもない。

ただの人である。

ただ、山に「生活」している「生活者」である。

ただの「生活者」である彼女が、なぜ魔女と呼ばれるのだろう。

それは、物語を読みすすめていくと、おぼろげながら彼女の魔女たる所以が浮かび上がってくるかもしれない。


ミラは魔女ならではの豊富な蔵書を所有しているのだが、それらの本を好奇心から読んでみようとするアリシアに、ミラは 「本を読んではいけない」とたしなめる。

「どうして本を読んではいけないの?」と尋ねるアリシアに、ミラは答える。

「あんたには経験が足りないからよ。」

「“体験”と“言葉”は同じ量ずつないと、心のバランスがとれない」とミラは言い、「それよりあしあとを読みなさい」と、 アリシアを雪山に行かせて獣の追跡(トラック)をさせる。

そうして、アリシアは雪山であしあとを読みながら、獣のこと、山のこと、さまざまな知恵がそこに現れていることに自ら気づいて、 「あしあと」に学んでゆく。


さらにある日、アリシアが薪を割っていたときに、そこにある模様が現われる。

不安になったアリシアはミラを呼び、その模様を見せ、ミラはその模様を見て、それが「古代文字」であることを教え、 そこからある予兆を読み取る。

「裂けた薪の中から古代文字が出てくる」なんて、あまりに漫画的表現のようにも思われるかもしれないが、 私はこれが単なる漫画的表現だとは思わない。

裂けた薪に何かヘンな模様があるのを見つけた時に、ぱっと不安を感じるその「直感」。
そしてその模様から、ある意味を読み出して「物語」を語る「知恵」。

「少女の直感」と、「大人(魔女)の知恵」が合わさることで、紡ぎだされるモノ。

それがそのまま「魔女の知恵」なのではなかろうか、と私は思うのだ。


ほかにも、パン種が発酵しているさまを見てアリシアがある言葉を発したときに、それがまるで“何かが私を通して語っている” かのようにアリシアが感じた瞬間、ふとヒバリが飛び立ち、それに気づくシーンなんて、よくこんな描写を描き出せるな、と正直、愕然。

おそらく五十嵐さん自身が、たびたびこんな感覚に見舞われるんじゃなかろうか、とは私の勝手な空想。

でも、もしかしてまったく無意識に描いていたりして。ホントに何気ないシーンだからなぁ。

どうなんだろう…聞いてみたい。

(ちなみにまことに野暮な解説をさせていただくと、深層心理学的に言えば、鳥は「母」の象徴であり、神話学的に言えば、「この世とあの世を仲介するメッセンジャー」である。つまり「生命」「誕生」「生まれ変わり」の象徴とされる。)


そのような暮らしの中で、魔女は小さな少女に「生活」を伝承してゆく。

畑仕事、牧畜仕事、山仕事に道具作り。雪山で獣のあしあとを読むこと、雲の様子から嵐を読むこと、裂けた薪から現われた模様から予兆を読み取ること…。

ミラは生活の中で、自然のさまざまな現象に現れる繊細なメッセージを読み取ることのできる五感を、アリシアの中に育てる。

魔女とは、自然の精妙な徴(しるし)を読み取り、自然と交感できる者のことを言うのである。

そのためには、丁寧に「生活」すること。

丁寧にモノと物事に向かってゆくことを、それこそ薄紙を重ねるように積み重ねてゆくことによって、 初めて身に付いてくるものなのである。

だから、ミラはアリシアに魔法や魔術などではなく、「生活」を教える。

私たちの今の生活を振り返ったときに、丁寧に「生活」できている人、つまり丁寧に「生を活きる」ことができている人が、 どれほどいるだろうか。

ここに描かれた「魔女の教え」とは、丁寧に生活し、丁寧に生活と向き合うことである。


物語の終盤、ミラがある責任を負わなくてはならなくなったときに、アリシアは「なぜ、ミラじゃなくてはいけないの?」と問う。

それに対してミラは答える。

「“魔女”は考えないの。魔女はただ知っているのよ。自分自身のするべきことをね。」

真摯に丁寧に「生活」を重ねてきた者にのみ、発せられる言葉であると、私は思う。


「あなた自身のからだで… 世界を確かめていきなさい。」

という物語の最後に語られる言葉が、心に響く。

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2006年06月15日

モノノケたちの梅雨

雨が降っている。 梅雨だなぁ。

この季節はみんな湿気にやられて物は腐りやすくカビやすくなるし、からだもまた湿気にやられて重くなったり、息苦しくなったりする。

そういえばこのところ、私もなんとなくからだが億劫だし、なにより頭のほうが注意散漫だ。

何かに意識を集中させようとするが、その集中が長く続かない。

肌にまとわりつく湿気は呼吸器の負担となり、多くの人がどことなく息が浅くなるのだが、「息が続く」「息が長い」と言うように、 集中力というものは息の長さ、深さと関係する。

なので、この時期は集中力もまた散漫になる。

この時期に、多くの人に見られるどことなく茫洋とした表情は「湿気に中った」顔である。

湿気で息は苦しく、物にも中り、呼吸器にも消化器にも負担が増えているところに、 かかり始めたばかりの電車の冷房が濡れたからだを冷やして、あっという間に体調を崩すことも少なくない。


そんな、人々のからだが重く意識も茫洋とし、物もカビやすく腐りやすくなるこの時期は、モノノケたちの増える時期とされてきた。

茫洋とした意識の「間」には「魔」 が入りやすい

息も浅く鬱々としているところに、ふと「魔」が差して引き起こされるあんな事件、こんな事件。

そんな季節は風を通し、物に風を当てるか、火をおこして「場」から湿気(邪気)を払うのが昔からの知恵。
(ただ、風は人に直接当てると「冷え」につながり、「風に中る」ので要注意。)

かつては部屋で火を起こして湿気(邪気)を払ったりしたが、今の住宅状況でそんなことができるはずもなく、 なにかその代替品になるものはないかと考えてみれば、ふと思いつくのは「除湿機」(笑)。

…う〜ん、なんか根本的に違うような気もする。

でもまぁ、マイナスイオンも出るしね…(笑)。


「除湿機にやられるモノノケ」というのもイマイチ想像しづらいが(笑)、そんなモノノケたちが活躍するお話と言えば「怪談」。

日本の怪談といえば夏の納涼の風物詩であるけれど、みなさんもよくご存知のように日本の怪談のほとんどは、 その話が水のメタファーに満ち満ちている。

沼、井戸、水辺、濡れた髪、したたり落ちる水音、水から上がった足音、生温かい風、などなど。

これほどまでに怪談に水のメタファーが用いられるのは、湿度の高い日本ならではの心性によるものかと思っていたが、 少し前のホラー映画「リング」の、水のメタファーに満ちた怪談的恐怖譚がハリウッドでも大絶賛されたことを考えると、 人類全体に共通するものなのかもしれない。

…と思ったけれど、調べてみたら今はジャパニーズホラーもイマイチであるらしい。

う〜ん、結局どうなんだろう。

でも欧米のホラーって日本の怪談みたいに、あんまり「しっとり感」(笑)のあるイメージはないなぁ、やっぱり。

日本が「ひゅ〜ドロドロドロ…。ぴちゃ〜んぴちゃ〜ん。べちゃり。ひえ〜!」って感じだとすると、

欧米は「ピカ、ゴロゴロゴロ…。ギギギギギ。ガシャーン!バリーン!キャー!」みたいな感じ。

あれ? でも雷雨は降っているな。

まぁでも、あくまで「土砂降り」って感じで、「しっとり」って感じではないか。


「物に当たって軽い中毒状態になり、ムカムカして人に当たる」という、臨時開店の「当たり屋」(笑)が急増するこの時期、 人々がみな鬱々とする中、モノノケたちは賑やかに大手を振って跋扈する。

カビを招き、物を腐らせ、人を鬱屈とさせ、古傷を痛ませる。

そんなモノノケたちにやられて、発散して人に当たるタイプあり、内攻してからだを壊すタイプあり…。


そんな「梅雨」という季節であるけれど、その名に「梅」の字がつくように「梅」の季節でもある。

梅は食中毒や水あたりを防ぐものとして、「梅はその日の難のがれ」と、昔から重宝されてきたが、まさにこの季節にはうってつけの 「魔除け」である。

しょうしょうと降る雨を見ながら、「梅仕事」をし、「梅」を食べ、昔はそんなふうにして過ごしていたのだろうか。

「一日中、梅仕事してた。」と最近、ある知人が言っていたが、そんな「季節の仕事」 を坦々と丁寧にこなしてゆくことが生活に張りをもたせ、モノノケたちに入り込む隙を見せない秘訣なのかもしれないなぁと、ふと。

「梅仕事」…、いいなぁ。


湿気に中って、集中力の散漫な状態で徒然なるままに書き記してみたが、なんだか無性に美味しい梅干しが食べたくなってきた。

そうだ。梅干し食べよう。

posted by RYO at 19:36| Comment(14) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月12日

ビールにてんぶら

酒屋さんをウロウロしていたらこんなビールを発見。

そ、そばビール?

その瓶全体から発せられる「とにかく黙って飲んでみろ」という耐えがたいアフォーダンスに刺激された私の手は、 頭で考える間もなく手に取っている。

でもどうせ「そばビール」と言っても、ホップにそばの実でもちょこっと使っているんだろう、と思って原材料のところをふと見てみれば、 なんと原材料が「そば・麦芽・ホップ」の順。

こ…、これは!

裏書きをよく読んでみればなんと「そばの実使用量55%」だと言う。

おお! これは気合の入った本物の「そばビール」。 恐れ入りました。

これは「珍品発掘調査委員会」(たった今結成)のメンバーの一員としては、ぜひとも飲んでみねばなるまい。

とりあえずは裏書きをしっかり読んでみよう。


“ざる印”そばビールは世界で初めて、そばの実で作った発泡酒。
日本にも輸入されているノースダコタ産のそばの実を55%使い、 オレゴン産2条種モルトやクリスタルモルトとホップ以外の原料は一切使用していません。
日本人が好きなそばは、高血圧を防ぐルチンやたんばく質…

たんばく質?

どこかひっかかりながら、さらに裏書きを読みすすめてみると、最後にただし書きがある。


ただし、ビールの上にてんぶらやネギ、のりなどはのせないで下さい。

のせませんがな、そんなもの(笑)。

てゆうかどうやって「ビールの上」にのせんの?

しかも「てんぶら」じゃなくて「てんぷら」ね。

どうもなんか日本語がヘンなので原産国を見たら「アメリカ」とある。

なるほど、アメリカのマイナーな工場で日本語のできる現地スタッフが一生懸命考えた文章か。

いいなぁ、このアバウトさ。 珍品決定!

ついでにこんなくだらないビールも一緒に入手。


時期にあわせたつもりか…。しかしこのセンスは…(笑)。


さてさて、それはともかく気になる「そばビール」のお味の程は…。

グビグビ。

こ…、これは!

(⇒な、なになに?)
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2006年06月10日

バトンがひとつ

ukiki01様よりバトンのご指名を頂きました。

あちこちのブログでいろんなバトンは目にしていたけど、指名されたのは初めて。

私はバトンに対しては、基本的には「バトンを受け取るのも回すのも、気が向いたら」というスタンスを取らせていただきたいと思います。

バトンを回して私が受け取らなかったとしても、それは「気が向かなかった」というだけのことであって、そこに他意はありませんし、 また同時に皆さんの中で、もし仮に私からバトンが回ってきたときに、そのバトンを受け取っていただかなかったとしても、 私は一向に気にしませんので、回された方はどうぞお気になさらず。

「いちおう、ここ置いとくから。」みたいな感じ、と言えばいいでしょうか。

ですから、はるか後になっておもむろに取り上げることもあるかもしれませんが、原則は「気が向いたら」ということで、 ご理解いただきたいと思います。


さて…

というわけで初バトン。

最初にあちこちのブログでバトンが回されてゆくのを目にしたときは「なるほど。こうしてネタを回しているのか。」と思ったが、 たしかに同じ質問に対して、それぞれの人がちょっとずつ違う「受け止めかた」をして、ちょっとずつ違う「答えかた」 をするのを見比べてみるのは、お互いの個性が浮かび上がってオモシロイ。

「個性(独特さ)」とは「似ているけどちょっと違う何か」と比べることによって、もっともくっきり浮かび上がるもの。

はてさて、いったいどんな「個性」が浮かび上がるのやら。

それではスタート。


1) 回してくれた方の印象をどうぞ

ukiki01さん
私のブログ仲間であり、またブログ師匠。
その「たおやかな構え」にハッと気づかされたこと数知れず。
私の感じる印象を言葉にすると、「しなやか」「丁寧」「気働き」「礼節」「颯爽」「感応」 etc.


2) 周りから見た自分はどんな人だと思われていますか? 5つ述べてください。

周りから見た自分は私にはよく分かりません。
私の口から語るより、今までに私が周りから言われた言葉をそのまま列挙してみるのが良さそうなので、 テキトーに思い出せるものをコメント付きで並べてみます。

「やめて!つぶらな瞳で見つめないで!」 (プリティ?)
「『こだま(@もののけ姫)』に似てるよね。」 (新幹線のことかと思いました)
「おやかた様!殿中でござる!」 (え〜い!放さんか!)
「前世はチベット僧。」 (それって見たまんまじゃなくて?)
「ダメだ。聞こえてないよ。」 (本に没頭)

イメージできましたでしょうか?(笑)


3) 自分の好きな人間性について5つ述べてください。

じゃあ四字熟語シリーズで。

「臨機応変」
「自由闊達」
「融通無碍」
「変幻自在」
「当意即妙」

って「全部一緒」(笑)。


4) では、反対に嫌いなタイプは?

「ハイ次の質問。」


5) 自分がこうなりたいと思う理想とかありますか?

振り向けば、夢はかなっている。


6) 自分のことを慕ってくれる人に叫んでください

「誰かいますかー?」


7) そんな人にバトンタッチ5名!(印象付きで)

「そんな人」…。 だから誰?(笑)

…じゃ、じゃあWebという大海原に、 メッセージボトルに入れて流してみようかな。
誰か拾ってくれるかな? 誰かの手許に届くかな?

「名も知らぬ遠き島より、流れ着いたバトンがひとつ。」

posted by RYO at 20:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月08日

ヴァーチャルな私に学ぶ

ネット上のブログや掲示板といったものは、ほんのちょっとした一言がきっかけで「荒れる」。

ネット用語ではそのさまを「火事」や「お祭り」に喩えるが、発言が発言を呼び収集がつかなくなってゆくそのさまは、まさに言いえて妙。

ネット上のやり取りというものは基本的に、非言語メッセージを排した言語メッセージのみによって行なわれるので、 どんなに注意深く言葉を選んだとしても、そこに誤解が生じることは不可避である。

だからネット上においては、「発言はほぼ確実に誤解される」というネガティブな状況をつねに念頭に置いて言葉を選ばなくては、 たちまち火がつきメラメラと燃え上がってしまうことも稀ではない。

それを消そうと懸命に行なう消火作業が、さらに火に油を注ぐような事態を招くこともよくあることだし、そして景気よく炎上中の火事は 「薪をくべてみる」ことを訪れる者にアフォードするので、たまたま訪れた野次馬からさらなる燃料が投下され、 ますます火の手が勢いを増してゆくこともまたよくあることである(消火のつもりがまたよく燃えるんだ)。


私はしばしば頂いたコメントに対して「私は邪悪な人間だから信用しないように」と申し上げているが、それは謙遜でもなんでもなく本心からである。

これは、このブログを読んでくださっている皆様には、重々承知しておいて頂きたいことであるのだが、私はホントに邪悪な人間である。

リアルな私は、いい加減でわがままで、頑固でテキトーで、勝手なことばかりやっている、かなり自堕落な人間である。

くりかえし申し上げるが、信用しない方がよろしい。

このブログの書き手であるRYOは、私のネット上のハンドルネームでもあり、私の本名でもあるのだけれど、 その人格はあくまでヴァーチャルなものであって、リアルな私のそれとは違う。

私の口から言うのもなんだが、ヴァーチャルな私であるRYOは、確かにけっこう「いい人」そうに見える。

いや、実際かなり「いい人」であるかもしれない。

それは先ほども述べたように、私はネット上では「言葉は誤解される」ということが当たり前であると思っているので、 言葉をかなり慎重に選んでいる(…つもり)からである。

前にも述べたが、 私の文章は誤読に対して開かれている。

けれどもそれは「豊かな誤読」に対してであって、曲解され傷つけたり怒らせたりするようなことは私の本意ではない。

だから私は文章を書くときには、誤解されることを前提にしながら、なるべくその誤解が悪い形で発展していかないよう、 つねに礼節を心がけて書いている。

それこそリアルな私よりはるかに慎重に。

そうは見えないかもしれないけど(笑)。

つまりそれはリアルな私はよっぽどイイ加(以下略)。

だからあらかじめ申し上げておくが、このブログを読んでとっても素敵なRYO像を抱き、 実際にリアルな私と出会ったときに果てしなく幻滅したとしても、私は一切責任を持ちませんので。


ともかく、私がブログで発する言葉の数々は、「伝わらない」というあきらめの極致から始まっているのであって、 少しでも伝わればそれだけで嬉しいくらいなのである。

それは別に悲しいことだとは思っていない。

「伝わらない」という究極にネガティブな立ち位置から物事を始めるのは、必ずしも悪いことではない。というよりもむしろ、 起こりうるアクシデントをあらかじめ予期して回避するためにはけっこう有効なことであったりする。

「最悪の場合を想定する」というのは、リスクマネージメントの基本である。

「最悪な事態」を想定し、それを回避することに全力を尽くしているヴァーチャルなRYOという人物は、当然とっても「いい人」 であって、ヘンな話、私自身にとっても「こうありたい」と少なからず思える人格であったりもする。

それは、私自身から生み出されていながら、皆さんの見つめる視線(と私が思っているもの)を取り込みながら成長して作りあげられた、 複合的な人格なのである。

ときどきとっても立派なことを発言していたりして、私も読んでいて「イイこと言うなぁ。」と感心するくらいである。

けれどもRYOがブログ上で大層なことを口にしてしまった以上、「やらなくては…」と自分の尻に鞭打つこともまた、しばしばである。

そんなRYOというヴァーチャルな人間は、今の私の一番身近な師匠であったりもする。

posted by RYO at 22:18| Comment(12) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月05日

「オトナな権利」と「背中合わせ恋愛論」

以前、「私の肩甲骨の間に指が入ったらカレーおごってあげる〜。」と言っていた友人の肩甲骨の間に、 見事指を滑り込ませたことがあった。

それで「今日おごってあげる。」というMさんのお声がかかったので、Iくんと一緒にインドカレー屋さんへと向かうことになった。

Iくんは、いつも子どもだらけの私の講座に子どもたちのセバスチャン(執事)役として、最近お手伝いをしてもらっている若者で、 「今日、Mさんがおごってくれるって言うから、ボクが君におごってあげる。」と言って誘ったのである。

それを聞いたMさんは「それじゃ意味無いじゃん。」と言っていたが、「あなたから私へ、私からあなたへ。 きちんとお金は流れているから意味はあります。それでいいんです。」と屁理屈こねて説き伏せる。

そして、Iくんには、「お金は流れることが大事なんだ。その流れが大きい人、小さい人、世の中にはいろいろあるけれど、 それは良いとか悪いとかじゃなくて、きちんと流れてさえいればどっちでもいいんだよ。滞ることが問題なんだ。大きな流れの中にいる人は、 大きな流れを持つ人の義務がある。それを「ノブレス・オブリージュ」(⇒Wiki)と言うんだよ。 大きな稼ぎを得たいなら、大きな使い方をまず身に付けなくちゃいけない。まぁ、オレには無理だけど(笑)。」ともっともらしく、のたまう。


正直、私のような「小さな小川に棲む微生物」が語るようなことではない。

そんな話をしながら、カレー屋さんへとテクテク歩いていたら、やがて話題は「お金」のことから「権利」の話に発展してゆく。


「「権利、権利」って声高に叫ぶ人がいるけど、ボクは「いかがなものか」と思っているんだ。例えば満員電車で椅子に座っているときに、 目の前におばあちゃんが来たときにね、「ここどうぞ」と言って譲ることはね、「私の座る権利」を譲るということなんだよ。」

「基本的人権はみんな平等なんだから「椅子に座る権利」は誰だろうとみんな平等に持っているよ確かに。先に座っていた私が 「ここは私が最初に座っていたんだ。私にはここに座り続ける権利がある。」と主張することは、まったく正しいし間違っちゃいないよ。 でもやっぱりそれは「いかがなものか」と思うでしょ?」

話がノッテきたので口がぺらぺらと回る。

「あのね、だからオレはね、「権利は譲るためにある」と思うんだよ。極端な話。もちろん、それを侵されそうになった時には、断固として主張するよ。でも基本的には「譲ることで機能するもの」だと思うんだよ。つまりネガティブな時にだけ前景化して、それ以外はどんどん手放してゆくものって言うのかな。みんなが権利を主張する社会と、 みんなが権利を譲渡する社会を想像してごらん。どっちが住みやすい社会かは、考えるまでもないでしょ。」

「だから著作権とか特許権とか、ああいうのもさ、基本的には「どうぞ使ってください」って譲るもんだと思うんだよ。 オープンソースの時代なんだし。これからもっともっとそういう時代になってゆくよ、きっと。「どうぞご自由に」 ってみんなに自由に使ってもらってね、みんながそれを自由に解釈して、自由に発展させて、どんどん「みんなで」 いいモノを作っていけばいいじゃない。イイと思わない?そんな社会。」

「で、じゃあ、権利ってなにかっていうとさ、それは「おイタが過ぎた子どもを叱るときに初めて見せる大人の怖い顔」だと思うんだよ。 みんなが自由にそれを使っているときにね、あんまり勝手な振る舞いをして、みんなが困るようなことをしたりする人がいた時にさ、「ボク。 それはいけないよ」ってゆうのが権利なんだよ。」

「だから権利っていうのはさ、「それを自分の好きに扱うため」っていうより、「それをみんなが自由に扱えるため」 のものだと思うんだよ。勝手なことをする人の手から、それを取り上げるための最終手段って言うのかな。」

「やっぱり「これはボクのだ!」とか言って権利を握りしめて、何があっても手放さないっていうのは、お子ちゃまだよね。 大人っていうのはそれをパッと手放せる人のことでしょ。みんなの前にポンと放って「好きにしな…」とか言ってさ。それである程度の身勝手には黙って見守っているんだけど、図に乗ってあんまり調子こいてるお子ちゃまのところにはサッと単身乗り込んで、44マグナムの銃口を向けながら「おイタが過ぎたな…」 とか言って懲らしめるんだよ。カッコいい〜(笑)。」


…とか、そんな話をしているうちに、目的のカレー屋さんに到着。

インドビールを飲んでいるうちに、やがてMさんも到着。

インドビールを飲みながら三人でタンドリーチキンを頬張る。

ウマイウマイ。

みんな別々のカレーを頼み、それをナンにつけながらいろんな味を楽しむ。

はじめはやっぱりオープンソースについての話をワァワァしゃべりちらしていたが、いつしかどこからそんな話題になったのか、 「どんな異性を好ましいと思うか」という人類発祥以来の究極の難題でありながら、 酒が回って酩酊状態となったときに世界中でおそらくもっとも熱く語られるお手軽テーマの話題となる。

私は酔った頭で「う〜ん…」としばし悩んだ後、「背中を任せられる人」と答える。

「オレはこっちを守るから、背中はお前に任せた」って言って、まったく何の心配もなく信頼できる人。 背中にその温もりと信頼感が感じられれば、きっと仕合わせだ。

それはつまり、「お互い見つめあうよりも、一緒に同じものを見つめる関係がいい」とかよく言うけど、それをさらにもっと進めて、 「違うものを見ていてもその背中の温もりを感じられる関係」ということだ。

お、自分で言っててなんかカッコいいぞ(笑)。

なるほど、そうして生きるうえで襲い掛かるさまざまな敵を一緒にバッサバッサと倒していって、 やがて辺りもようやく静かになった時にはじめてクルリと背中を振り返り、相棒の顔を見てお互い笑顔でハイタッチを決めるんだ。

そこに言葉は要らない。

おお〜。なんてカッコいいんだ。素敵じゃないか。

そういうのが私の理想だったんだ。なるほど。はじめて知った(笑)。

posted by RYO at 21:59| Comment(23) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月02日

地底で蠢くモノたち

センチュリーハイアットで行なわれている東京国際ミネラルフェアに行ってきた。

狙ったわけじゃないけど、ちょうど前回の記事で 「自己組織化」について書いたばかり。

今回まさにその地球上の鉱物たちが「自己組織化」して作り上げた芸術品を、手にとって思う存分見ることができて感動。

入場料1000円を払って会場に入ると、大勢の人があふれんばかりで熱気ムンムン。

ところせましと並んだ世界各国の「石屋」さんのブースには、目もくらむ宝石や幾何学的造形をした鉱物が、 これまたところせましと並んでいる。

ブースの机を挟んでバイヤーらしい人たちが値段を交渉していたりして、とっても活気があって賑やかだ。

しかし美しいなぁ。そして不思議だなぁ。

カットされた宝石は、ある瞬間を抽出して完全に時間が止まった美しさがあるが、原石は未だ成長し続けているかのような「運動態」 をそこに秘めている美しさがある。

丁寧にカットされ目も眩む輝きを放つ宝石たちも確かに美しいが、 私はやっぱりそこに動きを秘めて己の本性を現わした原石の方に目をとられる。

石たちは己の本性に従って数万年という時をかけて結晶を作りあげてゆく。


三角を好むモノ、四角を好むモノ、五角を好むモノ。
立方体を好むモノ、細長さを好むモノ、丸みを好むモノ。

それぞれ個性的な特徴をもってカタチを成している。

いったいどうやって地中で集合し結晶など作り出すのか、どうしてこんな奇妙なカタチを作り出すのか。

見れば見るほど不思議でしょうがない。

砂漠に咲く結晶の花「デザートローズ」や、虫の閉じ込められた琥珀、さらには隕石まで。

私の誕生石「アメジスト」もいろいろある。

晶洞と呼ばれる石の内側に結晶ができるものなど、とても惹かれる。

う〜ん、欲しい…。でも我慢。

他にもないかとブースを回ると、化石ばかりを置いてあるブースも。

カンブリア紀の三葉虫の化石など部屋に置いておけば、爆発的なインスピレーションでももらえるかと、 くだらないことを考えていろいろ見てみたが、やっぱり良いものは高い…。

泥の中に閉じこめられて化石になった海老や魚など、まるで絵画や版画のような美しさがある。

でも、考えてみれば、これこそ薄紙を重ねるかのようにして作りあげられた日々の積み重ねによる自然の芸術作品。

遅々たる歩みの中に自然はきちんと丁寧な仕事を果たしてゆく。

自然はいつも師匠だ。見習わなくては…。

posted by RYO at 23:41| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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