2006年03月30日

古事記は二度語る

この前の記事で、 蔵に奉られていた神様たちを調べるにあたって、昔読んだ古事記の解説本などをパシャパシャめくっていたら、 そういえば前にふと疑問に思っていたことを思い出した。

それは、古事記では「似たエピソードが二度くりかえし語られる」ということである。

内田先生が著書『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(内田樹、海鳥社、2004)の中で「二度、くりかえし語られること」について、 たいへん興味深い論述を繰り広げられているけれども、日本の神話「古事記」においても同じような記述方法がとられている。

何しろ始まりからして「七柱の神が次々登場してはそのまま身を隠してしまう」という奇妙なエピソードから始まるのである。

「登場、そしてすぐさま退場」という「前言撤回」で物語が始まる。

国生みに関しても最初のまぐわいでは蛭子(ひるこ)が生まれてしまい、「女が最初に声をかけたのが悪い」 という理由から再度くりかえされる。

(このあたりのエピソードは女性陣も心穏やかではいられないかもしれないが、なにしろ「昔の話(笑)」ですので、 「そんな時代もあったのね。」と笑い飛ばしてください。)


「黄泉の国へ妻のイザナミを迎えに行きながら恐怖で一人逃げ帰って恨まれるイザナギ」と、 「根堅洲国でスセリヒメと出会いスサノオの祝福を背に二人で帰ってくるオオクニヌシノミコト」のエピソード。

「姿を見てはいけないと言ったのに夫に見られて(実はゾンビだった)郷里へ逃げられてしまい恨みを抱くイザナミ」と、 「姿を見てはいけないと言ったのに夫に見られて(実はワニだった)それを恥じて自ら郷里へ帰るが愛し続けるトヨタマビメ」のエピソード。

「火の神を生んだことによって火傷で死んでしまうイザナミと殺される子ども」と、 「炎の中で出産するが母子共に無事に生き残るコノハナサクヤビメ」のエピソード。

「困って逃げ込んだ根堅洲国でスサノオに邪険に扱われるオオクニヌシノミコト」と、 「困って相談しに行った海の国で海の神に大歓迎されるホオリノミコト」のエピソード (ちなみに共に神具をもらって娘を伴侶として郷里へ連れ帰る)。


…などなど。

挙げていけばまだまだありそうだが、どれも「ちょっと違う似たエピソード」として繰り返し描かれており、 それもだいたい後に語られる話の方が「ちょっといい話」になっている。

内田先生は同著の中で「反復が欲望を点火する」と言う。


「ハイデガーの「真理」と同じく、「謎」もまた単独では存在しない。 何かが二度繰り返されるときにはじめて「謎」は生成する。「謎」が「謎」となるためには二度何かが指示されることが必要だ。「ア・ レーテイア」と同じように、一度目は示すために、二度目はそれを取り消すために、そのときに人は、「それは何か?」 (quod)という問いを発せずにはいられなくなる。」
(『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』内田樹、海鳥社、2004、p75−76)


「咄家殺すに刃物は要らぬ。三度続けて褒めりゃいい。」

という言葉があるが、それは内田先生の論によるとつまり、咄家を三度続けて褒めちぎることで「お前は一体何を言いたいのか?」 という疑念を思わざるを得ないような「呪い」にかけてしまう(笑)、ということになる。


私は古事記もほかの神話も舐める程度にしか読んだことがないので、深いことは良く知らないけれども、このような「前言撤回」あるいは 「反復朗誦」という物語の構造は、世界中どこでも見られるものではなかろうか、と思う。

「はじめの言葉」と「つぎの言葉」のその狭間、そしてちょっと違うそのズレにこそ、決して言葉にはならない「言外の知(謎)」 が潜んでいると思うのだ。


生きてる言葉は必ずズレる。矛盾する。

ズレるその仕方、矛盾するその狭間に、とどまることのない「言葉の運動性」が宿るのではなかろうか。

動き続けるモノ、変化し続けるモノを捉えるためには、ある程度の空間(遊び)が必要であり、そのためには何かで囲んで「間」 を作るしかない。

そしてそれは、ズレたモノ同士、矛盾したモノ同士という、お互いのあいだに「隙間」のあるモノ同士を配置し、 囲むことによってしかなしえない。

矛盾で挟むことによって言葉は生きたまま捕獲され、その運動性を損なうことなく封じ込めることができる。


だいたい先人の遺した教えをひもといてみれば、そこは矛盾のオンパレードである。

私も勉強していて正直、「言ってることが違うじゃねーか! どっちなんだよ!」と叫びたくなることもよくある。

けれどもそれは浅学の私の浅はかさであって、ホントはその違いこそが大切なのである。
(…ということにしておく。とりあえず。だってそうしなきゃそれ以上考察できないもの。)

つまりおそらくは、先人の教えとは「矛盾を矛盾のままに受け入れる」ということを暗に示しているのではないだろうか。

「ダブルスタンダード」ならぬ「マルチスタンダード」をこそ身に付けよ、と。

そうすると、それが胆力を磨く「行法」の発展、継承に直結してくるということに気づく。

なぜなら、矛盾の受け止めどころは「頭」ではなく、「肚(はら)」だからである。

頭でっかちは矛盾を許すことができないが、肚のでかい人は矛盾をそのまま受けとめる。

肚のできた人は酒でも飲めば、「よかよか。よかばってん。」と、どんな矛盾も清濁合わせて内腑に呑み込み、呵呵大笑である。

頭は矛盾を一つのスタンダードで語れるように、うまく整合性を見つけて説明しようと試みるが、 肚はそのまま受けとめて矛盾を言語化しようなどとはしない。


一つのスタンダードに沿ってクリアカットに論じるのは頭の専売特許であるが、それがもっとも効力を発揮するのは平常時である。

つまりおおむね環境条件が予想どおりであること。

理論がすべて仮定と定義の列挙から始まるのはそれゆえである。

それに対して肚は、環境条件が予想を超えて変動するとき、つまり窮時に際してもっともその力を発揮する。

激変する環境に一つのスタンダードでは対処しきれなくなったときこそ、「ワシの七つ道具の出番じゃのう。」 とマルチスタンダードを備えた者の出番なのである。

知に働く人が予定通りの進行を目指し、肚で動く人がお祭り騒ぎを起こそうとするのはそれゆえである。

「場」を、自分のパフォーマンスが最大限発揮できるような環境に作り上げようとするのは、生物として当然といえば当然。


切れ味抜群だけど折れやすく使い回しができない刀(頭)と、なまくらだけど頑丈で非常に使い回しが利く刀(肚)と、 どちらもとっても大事である。

「切れ味抜群でしかも頑丈な刀が一本だけ欲しい」と思うのは、人の性かもしれないが、もし万が一そのような刀を手に入れたときは、 「気をつけたほうがいい」とだけ言っておく。

妖刀の虜になって浮世で生きていけなくなる人が稀にいる。


……。

結局、話が思いっきり飛んでるな…(笑)。いつものことだけど。

え〜っと、何の話だったっけ?

そうか「古事記」の話か。

「古事記」から「妖刀」へ。

…あながち外れちゃいないか(笑)。

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2006年03月28日

ウキウキ酒蔵見学ツアー第二弾!

ということで第二弾。

今回、訪れたのは酒蔵「大木代吉本店」と醤油蔵「若喜商店」。

酒屋さんのご家族5人に学生2人と私の同行8人。

10人乗りのでっかいワゴンのレンタカーに乗り込んで、まずは福島県にある酒蔵「大木代吉本店」を目指して、東北自動車道を一路北へ。

前回のツアーと同じ往路だけれど、 前回が気温が「0℃」で雪が舞っていたのに比べ、今回は掲示板には「11℃」と表示されており、道沿いには桜が咲いている。

実に気持ちの良い春模様。

酒屋さん一家の子どもたちが3人も乗り込んでいるので、車の中は大変賑やかである。

一番下の子とドラゴンボールやら北斗の拳やらアニメの話をしていたら、だんだん眠くなってきたのか私のヒザの上でゴロゴロしはじめ、 そのうちイナバウアーみたいなトリッキーな寝相で熟睡しはじめる。

あんぐりと口を大きく開けて爆睡している彼の頭をなでつつ、うららかな外の田園風景に目の保養。

車内に流れる中島みゆきを、なんとはなしに口ずさむ。

途中サービスエリアで休憩したとき、むくりと起きた彼に「RYOさんの膝、とっても気持ちよくて寝やすい。」 とお褒めの言葉を頂戴した。

さいですか。


その後もガンガン飛ばして目的の矢吹町の酒蔵「大木代吉本店」に到着。

この蔵では珍しく料理専用の「料理酒」を造っている。

飲用の日本酒に比べて、旨み成分であるアミノ酸が多くできるような造りをしているとのことで、 これを料理のさいに使うと大変まろやかな旨みとコクが出る。

着いてさっそく、そのご自慢の料理酒を使った和え物や粕漬け、さらにはチーズケーキや牛乳寒天などをお茶請けにお茶をご馳走になる。

どれも料理酒が入っているらしいけれども、どれもみな大変美味しい。


お茶を飲みながら簡単に蔵の説明をしていただいた後、さっそく酒蔵見学。

こちらの蔵ではすでに今年の造りは終わっており「甑倒し(こしきだおし)」は済んでいるので、蔵の中は薄暗く静寂そのもの。

そこかしこで発酵している賑やかな蔵もいいけど、シンと静まり返った蔵もまた良い。

本来賑やかな場所が静かであるのは何とも言えない風情がある。

静けさの中に沁み込んだ蔵人や微生物の声や息づかいが聴こえる。

静かな方が「潜むモノたち」の気配を肌で感じるのは何故だろうか。

一年寝かせていた酒をろ過作業中であったので一口飲ませていただいた。

搾りたての若々しい酒とはまた違って、グッと大人びた力強さが口に広がる。

搾りたての酒がやんちゃ盛りの少年だとすると、1年寝かせたこの酒は思春期を迎えた青年当たりか。

どちらもそれぞれが、それぞれに良い。

若いモノには若いモノの、歳を重ねたモノには歳を重ねたモノの美しさがある。


蔵人たちの休憩所に松尾様。

ここでもきちんとご挨拶。

右手に穀物の神とも言われる大歳神、左手に竈神である火産霊神、中央は言わずもがな国つ神の大親分、 大国主神(とその息子)が奉られている。

なるほど、酒造りは、国(大地)の神様、稲の神様、竈の神様、すべての神々のご助力を仰がねばできるものではない。

そうそうたる面子の前には、さすがの松尾様も身形を潜めていらっしゃる様子。
(…ってほとんど見えないな。中央に奉られている札の右手にちょっとだけ見えてるのがそう。)

天照大神の蔭に隠れて覗き見ているような佇まいが何とも可愛らしい。

そのさまは「松尾様」というよりむしろ「松尾くん」て感じ。


そのあと蔵元の案内で近くの蕎麦屋さんに行き、矢吹名物の「大根そば」を食す。

「大根そば」とは、十辺舎一九の「諸国道中金之草鞋」で、弥次郎兵衛と喜多八が矢吹の宿の蕎麦屋で食べ「こいつは大根そばでない、 そば大根だ」とあきれたという、大根盛りだくさんの蕎麦である。

シャキシャキの千切り大根が冷たい蕎麦の上に山ほど乗っているのだが、なんとこれがよく合う。

しかも、女将さんが「からだで挽いてます」という自慢の蕎麦が、風味といいシコシコ具合といい、これまた絶品。

みんなで顔を見合わせながら「美味いな、これ。」と舌鼓を打つ。

美味い蕎麦というものには、なかなかめぐり合わないものだけれど、これは文句なし。

「矢吹の大根そば」、要チェック。オススメである。

大根そばだけでなく、突き出しに出た蕎麦豆腐の天ぷらのその不思議な食感に驚き、山芋に乗せたふきのとう味噌に旬を味わい、 けんちんの温かさにホッと息をつき、みんなすっかりご満悦。

しかもすべて蔵元がご馳走してくれた。

あぁ、蔵元。なんと素晴らしい方なんでしょう。

感謝感謝。


そのあと蔵元に感謝と別れを告げ、一路西へ。

次に目指すは会津若松の醤油蔵、「若喜商店」。

運転手は私。道中、子どもたちはアニメソングを合唱し、私は一人中島みゆきを独唱する。

若干、時間が押しているのでガンガン飛ばすと、カーナビの予定到着時刻がみるみるうちに巻き戻る。

となりでT君が「あ、危ない。」とかつぶやいて、やきもきしている。

最近のカーナビは電話番号を入れるだけで目的地の入力ができるらしいが、たいへん便利な世の中になったものである。

まったく言われるままに運転していったら、きちんと目の前に着いた。

たいへん便利でありがたいが、バカになるな、これは。


挨拶もそこそこに、さっそく醤油蔵を見学させていただく。

酒蔵はいくつかまわったことがあるけれども、醤油蔵は初めてである。

昔ながらの大きな木桶が並ぶ。

扱うモノが違うと蔵の雰囲気も全然違う。

「お酒に比べて汚いですよ。」と蔵元(って言うのか?)のおっしゃるとおり、 壁などにも麹やもろみの飛んだ跡がいっぱいある。

お酒に比べて醤油のもろみはたいへん重いので、下から圧縮空気を送り込んで撹拌するので、けっこう飛び散るそうである。

なるほど。


ヨーロッパの小さなビール醸造所などでもそうだが、本来、蔵は基本的に掃除をしない。

それは壁や天井などに、「蔵つき」と呼ばれるその蔵独特の酵母や菌たちがいっぱい棲んでいるからである。

掃除してしまうと彼らの生態系は壊滅的なダメージを受け、製品の味が大きく変わってしまう。

ヨーロッパでもビールのモルトエキスなど、わざわざクモの巣だらけの天井裏に薄く広げて、空気中の「蔵つき」 を取り込んで発酵させたり、日本酒でも「生もと造り(きもとづくり。「もと」が出ない…。「酉元」をくっつけた字です。)」という昔ながらの造り方では、同じように空中の乳酸菌を取り込んで造る。

世の中、抗菌、除菌、殺菌ブームだが、深く考えずに善玉も悪玉も関係なく絨毯爆撃するような無差別攻撃は、 ただミクロな生態系をグチャグチャに破壊するだけであって、あまり賢いやり方だとは思えない。

壊滅的なダメージを受けた生態系に、ひょいっと招かざる菌がやってくればたちまち大繁殖して、 それこそマクロな生態系(つまり人体)にまで甚大な影響を及ぼす。

だから菌を排除することよりも、好ましい菌が繁殖しやすい環境を整えることの方が大切なことではなかろうか。

だから私はとにかく自分好みの発酵食品をバンバン食べるように奨める。

美味しいと思える、いい匂いと思える発酵食品は、あなたのミクロな生態系を好ましい環境にしてくれる「イイ人」たちの集まりである。

できれば自分で育てるとなお良い。

ヌカドコなど毎日毎日かき回していると、ヌカドコと私の皮膚の常在菌がだんだん同じモノになってくるので、 ヌカドコと私はまさに一体となり、そんじょそこらの悪ガ菌には手出しできない鉄壁の守りができるのである。

来るなら来やがれ! オイラのかわいい酵母と乳酸菌たちが相手だ。


閑話休題。

この蔵では空いたスペースを改造して、駄菓子屋兼和雑貨屋さんとして営業しており、 その昭和初期といったレトロな感じがなんとも素敵である。

昔の電柱がそのままあったり、昔のタバコ屋のショーケースをそのまま展示用に使っていたり、 使わなくなった仕込み用の樽をテーブルや棚に作り直したり、いい味を出している。

いろいろ商品を見ていたら、酒を搾る袋に使われている酒彩布で作ったバッグを草木染めしたものが売店で販売しており、 その色合いの美しさに参って、同じ色合いの巾着袋と合わせてすぐさま購入。

搾りに使う布は、高圧に耐えうるようたいへん丈夫にできているので、頑丈さでも折り紙つきである。

いい買い物をした(もちろん醤油も購入)。


私以外の人間はこのまま新潟に回り、私だけ会津若松から電車で帰る予定だったのだけれど、T君が「RYOさんも新潟行きましょうよ。 ウチに来てご飯食べていってくださいよ。」と散々誘うので、悩んだ挙句、「分かった。じゃあ新潟まで行くからその代わり飛ばせ。」 と言って覚悟を決める。

片側一車線で前の車を追い越せないローカルな高速道路を走るT君を、

「ホラ、早く飛ばせって言ってるだろう!」といじめると、

「無理ですよぅ。」と泣き言を言う。


それでも予定より早くT君の実家に着いた私たちは、挨拶もそこそこに今日仕入れてきたお酒をテーブルに並べ、お茶も飲まずに酒を酌み交わす。

T君のお母様のたいへん美味しい料理を肴にしつつカパカパ飲めば、酒もぐるぐるからだを巡る。

今日は美味しいものばかり口にしているなぁ。シアワセ…。

あっという間に新幹線の終電の時間となってしまったので、私一人だけ新潟駅まで送っていただき、帰路に着く。

相変わらずの強行軍であるけれども、たいへん満足のゆくツアー第二弾であった。

Hさん、今度は油屋さんにぜひぜひ行きましょう!

posted by RYO at 21:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月26日

お邪魔タクシー

…ってオタマジャクシや〜ん!

と一人ノリツッコミをしつつのおメザです。

みなさん、どうもおはようございます。ブログ再開です。

上の写真は二子玉川の河原をふらふらと散歩していたら、小川に大量のオタマジャクシがひしめいていたので、 嬉しくなって携帯のカメラでパシャリと撮ったもの。

近づいて水をパシャパシャやっても一匹も動じない。

ガマになれば睨まれてタラリタラリとかく汗も、小さいうちは怖いものなど知りもせず。

そりゃそうか、生まれたばかりで無力そのもの。手も足も出ず。

10日ばかりぐっすり眠っている間に、世の中はすっかり春の気配。

東京の桜もすでに三分咲き。

思えばソメイヨシノさんにはブログのネタをずいぶん提供していただいたうえ、海を越えて素敵な方々とのつながりをもたらしてくれた。

感謝感謝。


ふとその根元に眼をやると、ユキヤナギが可愛らしい白い花をつけている。

写真を撮ろうとかがんでみれば、サッと一陣、薫風。なぜか私はユキヤナギの香りをかぐと靴屋のイメージが浮かぶ。


世田谷線の終点、下高井戸をそのままテクテクと線路沿いに歩いていると、線路の柵に奇妙なメッセージを発見。

「ダイヤモンドのわすれもの?」

見ればそんなメッセージがいくつも貼ってある。

たった一つのメッセージだとその意味がよく分からなくても、いくつも貼ってあると何故か言いたいことが頭にポッと思い浮かぶ。

なるほど、あなたのおっしゃりたいことは、つまり「犬の雲香無用」ということですな。

洒落たつもりか知らないが、通じなきゃ意味がない。

ちょっと「ひねりすぎ」とちゃいますか?


もっとおっきく そのあと渋谷の本屋に行って、出たばかりの新刊『とりぱん』(とりのなん子、ワイドKCモーニング)を買いにいく。

うろうろ歩いて探してもなかなか見つからない。

「無いなぁ。」と思っていたら、実は1コーナー、棚がまるごと『とりぱん』一色。

表紙のアオゲラ「ポンちゃん」が棚を一面飾っている。

「どうせちょこんと隅っこのほうに置いてあるんだろう(失礼)」と予想していたので、まったく目に入っていなかった。

そ、そんなに人気があるの?このマンガ。

でも、昨日行った本屋には1冊も置いてなかったぞ。

う〜ん、やっぱり本屋選びは、店員と趣味が合うかどうかが一番大事。

こんなに強力にプッシュするとはよほどのお気に入りか。

店員さん、どこのどなたか存じませんがあなたとは気が合いそうです。

神戸在住』(木村紺、アフタヌーンKC)の連載がいよいよ終わってしまって悲しみに浸る心を、『とりぱん』 に癒してもらおう。


そういえばTSUTAYAがレンタル半額サービス中。

スーパーサイズ・ミー』と『ディープ・ブルー』を借りる。

我ながらなんとまぁ対極的なチョイス。

かたや文化帝国主義の象徴のように扱われるファストフードの映画、かたや海に住むいろんな生き物たちのドキュメンタリー。 DVDの色も赤と青。

家に帰ってどちらを先に見ようかと悩んだ末に、選んだのは『スーパーサイズ・ミー』。

「30日間、毎日3食マクドナルドで食べ続けたらどうなるか?」という衝撃体当たり映画。

驚いたのは、アメリカのコンビニでは半ガロン(1900cc)!の紙コップでコーラを売っているという事実。

半ガロンって……。しかもその10パーセントは砂糖だ。

う〜む。いやはや。これはまた…。

と呆れつつ、秋田名物「いぶりがっこ(沢庵の燻製)」をポリポリ齧りながら、ビールをグビグビ。

大して変わりないような…。


何ともいろんな表象が私の中を通り過ぎていった春の一日。

オタマジャクシ→桜→ユキヤナギ→犬の雲香→アオゲラ→マクドナルド→いぶりがっこ。

目覚めの一発。とりあえず。

posted by RYO at 19:47| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月16日

突如として昔からそこにいるアイツ

録画してあった「プロフェッショナル―仕事の流儀」(NHK、木曜22時放送)を観た。

パーソナリティを務めるのは、今をときめく脳科学者(IMEによると「農家学者」。それも素敵だ…。)の茂木健一郎さん。

そして今回のプロフェッショナルは、人気漫画『ドラゴン桜』(三田紀房、モーニングKC)の英語講師のモデルとなった熱血英語講師、竹岡広信さん。

竹岡さんは西日本各地の予備校や高校に呼ばれる超人気英語講師であり、自身京都で私塾を開いている方でもある。


番組の中でこんなエピソードがあった。

竹岡さんの教えている塾生たちの成績が思ったように伸びず、塾生たちに英語をどう教えればいいのか分からなくて、 自暴自棄になって一日中パチンコばかりしている時期があった。

ある日、知り合ったパチンコの常連が競馬について、ものすごく詳しい知識を披露しながら熱く語っているのを聴いているうちに、 はっと気づく。

「興味を持てば人は進んで勉強し、自分のものにする。」

そのときの経験を竹岡さんはこう語る。

「もし、悩んでいなかったら聞き逃したと思う。すごく悩んでて 『なにか解決策がないかなぁ』と考えていて、たまたまその話が来たんですよね。(心に)刺さったんですね。それで動き始めた。」

そして、そのエピソードを聞いて茂木さんが、こう返す。

「じゃあ、そのとき質問していたんですね。世界に対して質問していて、答えがバーッと入ってきたんですね。だからつかめたんですね。」


「世界に対して質問をしていたから、答えが返ってきた。」

茂木さんはよく素敵な表現をされるけれども、これもまたなかなか素敵な表現である。

なるほど〜。そうか、そうか。

一時期、私は「積極的受動性」とか「全力で待つ」とか、そういう表現を好んで使っていたことがあるのだけれども、 それはただ何もせずボケーッとしているというのとは違う。

「人事を尽くして天命を待つ」と言えば良いだろうか。

それはつまり、茂木さんの言葉を借りれば「世界に対して質問を投げかけ、その返事を待つ」ということである。

それには、どんな小さな返事でも聞き漏らさないようなある種の「静けさの集中」がなくてはならないし、また、 いつ返事が来てもそれに咄嗟に反応できる「中腰の構え」でなくてはならない。

今でもそれは、人生に対するもっとも大切な「構え」である、と私は思っている。


考えてみれば、それらは「『何か』を待っている」という状態である。

その『何か』が何であるのかは、出会ってみるまで分からない。

けれども、おそらくそれと出会った瞬間、「これだ!」と思うような『何か』なのである。

ということは、その『何か』は未だ言葉にはならないにしても、おぼろげながら「知っていた」ということになる。


その『何か』の訪れる瞬間とは、私には、その「ある瞬間」を構成するあらゆるモノたちが引き寄せられるようにして出会う「結束点」、 というようなイメージがある。

さまざまな未だ出会わぬ「平行世界(パラレルワールド)」が、ある瞬間、ある場所において一点に流れ込み、収斂されて生まれる新しい 「一つの世界」。

そんな量子力学で言う「波動関数の収縮」のようなイメージが、どうしても私の中にはある。


「私の世界」と「あなたの世界」は必ずしも同じ一つの「世界」であるとは限らない。

もちろん、地球という一つの同じ惑星上というきわめて「近いところ」にいる以上、「私」 の吐いた炭酸ガスの炭素原子がめぐり巡っていつかどこかで「あなた」が吸って、それが血となり肉となっているかもしれない。

そうしてたとえ原子一個分でも、限りなくさまざまな人間たちとつねに交流しあっているから、 私たちは同じ一つの世界を共有し続けることができるけれども、もし仮にいっさいの「出会う可能性」がない状態になったとき、 お互いの関係は不確定性に包まれてしまい、「同じ世界に存在している」とはとても言えないくらい、曖昧な関係になってしまう。

それは、いっさいのモノと出会わない粒子が、不確定性に包まれた「波動関数の重ね合わせ(量子)状態」であるようなものである。

(「量子状態」とは簡単に言うと「矛盾」が「矛盾」のまま同居して(重ね合わさって)いる状態のこと。)

「波」でもあるし「粒」でもあるし、「そこ」にもいるし「ここ」にもいるし、「あっちを向いて」もいるし「こっちを向いて」もいるし、 「生きて」もいるし「死んで」もいるし…。

交わらないモノ同士には、決して知ることはできない相手の姿。

その姿は「シュレーディンガーの猫」(⇒Wiki)のように矛盾に満ち満ちている。


私はこんな空想をする。

「出会う」とは、「私の世界」と「あなた(他者)の世界」が収斂され、「私たちの世界」が誕生するということではないだろうか。

「出会った」瞬間、ありえたかもしれない無数の「平行世界」が、たった一つの「世界」に収斂される。

もちろん私たちを量子のようなミクロの世界と同等に語ることはできないし、「出会う可能性のない人間」 なんてものが存在するわけがないけれども、私たちを構成する小さなモノたちの世界の法則が、私たちの世界の法則とまったく無関係であるとは、 これもやっぱり言えないような気がするのである。

とはいえあくまで「空想」であるので、できればあんまりツッコまないでいただきたい。

お願い。

もし「世界」という言葉がどうしても違和感があるのであれば、その言葉はすべて「物語」と言い変えても全然構わない。

「私の物語」と「あなたの物語」が出会って「私たちの物語」が誕生する。
ありえたかもしれない無数の「物語」が、たった一つの「物語」に収斂される。

うわ! なんかやたらロマンチックな表現になってしまった。

でもホントにそうだと思っているんだもの。しょうがないじゃないの。

…って誰に言い訳しているんだろう。


けれども、やっぱり謎なのは「出会った瞬間、『これだ!』と思うような『何か』を、なぜ出会う前から知っているのか?」ということである。

その「出会いの予感」はどこから来るのか?

それは量子力学においても、「電子は自分の跳ぶ位置をなぜあらかじめ知っているのか?」 という似たような問題として存在しているし(いちおう「確率の問題」として説明はされているけど)、生物の行動についても、 あきらかにこれから起こる変化をあらかじめ知っていたとしか思えない行動は、数限りなく観測される。

(脳も神経もない細菌や植物のそれは、あきらかに「知性」ではない。たしかに「知性」のように見えるけれども。 ひょっとして私たち人間も…。)

もしかしたら私たちは世界について、時間について、あるいは知性について、何か大きく誤解しているんじゃなかろうか?

思わずそんなことまで考えてしまうのは、あまりにも突拍子のないことだろうか。


私たちの「常識」は、100年後の「非常識」であるかもしれない。

私たちの思い描く「世界」は過去も未来も含めて、私たちがそのように思い描いているに過ぎないのだから。

歴史はそのようにして進んできた(というのもホントは「現代の私がそのように見ている」に過ぎないのだけれど)。

だとしたら、これから世界はどのような姿を私たち(未来のね)に見せてくれるのだろうか?

もしかしたらその「予感」は、私たちの中にもうすでにあるのかもしれない。

量子状態という矛盾を保ったまま。

そして私たちに見つかった瞬間、さも当然昔からそこにあったかのように澄ました顔をして現われるんだ。

きっと。

「突如として昔からそこにいるヤツ」。

まったく喰えないヤツである。

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2006年03月13日

ウキウキ酒蔵見学ツアー

朝早く、前にも触れたことのある馴染みの酒屋さんの前で人を待つ。

寒い。

そういえば今朝6時頃、外に出たとき空からちらほらと雪が舞っていた。

昨日までの暖かさが嘘のようである。

三寒四温。春の暖かさも三歩進んで二歩下がる。

しばらく待っていると、やがて待ち人である学生たちも今朝の雪のごとく、ちらほらとやってきたので(時間は守りなさいねキミたち)、 さっそく車に乗り込み外環を通って東北自動車道を一路、北へ。

今日はウキウキ酒蔵見学ツアー。

向かうは、福島県郡山市「仁井田本家」。

酒屋の主人は一足先に蔵元へ行っているので、同行者は学生4人と私。

途中ドライバーを交代しつつ、東北自動車道をがんがんかっ飛ばす。

交通量も少なく快適なドライブ。

宇都宮を過ぎたあたりで、晴天の中、風にひらりひらりと雪が舞う。

「こういう雪をね、『風花(かざはな)』って言うんだよ。『風の花』なんて、日本語ってのは繊細で美しいねぇ。」

と学生たちに薀蓄をたれつつ、洒落で買った駄菓子(遠足にはお約束)を口に頬張る。

ときどき設置されている過ぎ去る電光掲示板に表示されている外気温はことごとく「0℃」。

寒いわけである。


蔵の近くまで来てやや迷いつつも、なんとかお目当ての仁井田本家に到着。

いつもお世話になっている酒屋の主人と蔵元が出迎えてくれる。

実は後輩の学生たち、今年この蔵の田んぼを借りて酒米を育て、それを使って蔵元がどぶろくを作る、という計画をもくろんでいるらしい。

この蔵元、創業三百周年を迎える2011年を目標に、すべての原料米を、無農薬、 無化学肥料の有機農法で育てた自然米にしていきたいということで、今、自社田を持って目下実験中であるそうで、 そこにちょうど学生たちとご縁があったので「うちの田んぼで米育ててみない?」ということで、今回の話の運びとなったそうなのである。

蔵元は地元の志高い農家や飲食店を巻き込んで、地場産業を活性化し「身土不二」の町づくりをしていこうと活動をしており、 それをまた各地の志高い酒販店の方たちが集まって応援していこうということで、 毎年集まって今年の美酒を酌み交わしつつ喧々諤々の議論をかわしているそうである。(いつもお世話になっている酒屋の主人はそのメンバー。)

う〜ん、素晴らしい!

日本の田舎がどんどん活性化していくのは(「都市化」とは違う仕方で)、たいへん好ましいことであるし、またとても大切なことである。

国の減反政策によって、「数十年後には日本米が食べられなくなる(作り手がいない)」なんてことも言われるくらいに、 現在の日本の農業環境は悲惨な状態である。

なにしろ、不作で収量が少ないときに国から出る補助金のほうが、田んぼできちんと収穫するよりも割りがイイらしい。

命をはぐくむ実践者たちがもっとも報われる社会システムが、なんとか構築されないものだろうか。

はてさて、そのような暗い話は置いておいて、話を蔵に戻そう。


今日のウキウキ酒蔵見学ツアーは日帰りの予定で時間もないので、さっそくいろいろ見学へと向かう。

最初に、蔵の田んぼの堆肥用の鶏糞を提供してもらっているという養鶏場を訪ねて、お話を伺わせていただく。

拾ってきた野良犬がすでに20匹になってしまったという愛情あふれる養鶏場は、あちらこちらで犬の鳴き声が響き渡る。

ここのニワトリたちは、ここの畑で育てた無農薬の有機野菜などをあげて育てているそうで、今はまだすべてとはいかないけれども、 いずれそういう形にしていきたいということで試行錯誤しているらしい。

鶏の健康状態のチェックポイントなど、プロならではの観察方法など教えていただき、 たいへん勉強になる。

おっしゃるところによると、手羽にある先端の7枚の羽根を見れば、その鶏が「いつごろ」「どのような状態(健康状態とか怪我とか)」 だったのか、だいたい分かるそうである。

う〜ん、すごい。プロである。

ちなみに、蔵ではここのタマゴを使った「たまご酒」も作っており、これがまたクリーミーで美味い。

風邪のときに限らず、やや肌寒い時などにちょっと燗して飲むのにもオススメの一品である。


そのあとは再び蔵に戻り、いよいよ蔵内見学。

わくわく。

入る前に入り口左手にある仕込み水で、手を清め口をすすぎ、一礼してから入る。

こう見えて、いちおう発酵学を修めている私にとって、蔵は神社に匹敵する聖地である。

無論、「酒好きの私」にとっても同じく聖地であるが。

蔵の中に一歩足を踏み入れると、厳かな雰囲気の中に「もろみ」と「麹」の香りが拡がっており、 その香りをかぐだけでくらくらと眩暈がする。

あぁ…なんてかぐわしいんでしょう。


「じゃあ、こちらについてきてください。」という蔵元の後をみんなでぞろぞろついていくと、 酒母室の手前、神棚の前で止まる。

「こちらが松尾様です。」

そう、すべての蔵で必ず奉られているお酒の神様、「松尾様」である。

その名は『夏子の酒』(尾瀬あきら、講談社漫画文庫、 2004)にも出てくるので、学生たちも名前くらいは知っている(よね?)。

(『夏子の酒』は私が卒業時、後輩たちに「必修!」と言い残して全巻寄付していった必読書である。)

全員そろって「松尾様」に二礼二拍手。

パンパン。(いつも至福の歓びありがとうございます…。)


そのあと蔵元の案内で麹室、酒母室、発酵室、 槽(ふね)と一連の工程を説明していただきながら見学させていただき、最後に槽口(ふなくち)から滴り落ちる、 ホントのしぼりたての美酒をいただく。

柄杓ですくい鼻元に近づけると、フルーティーで芳醇な香りが鼻腔いっぱいに広がる。

そっとひとくち口に含むと、さらに芳醇な香りが口腔内に広がり、しぼりたてゆえの荒々しい若さあふれる微発泡の軽い刺激と麹の甘さが、 舌の上で軽やかに踊る。

くぅ〜、うめぇ〜。

学生たちも初めて味わうホントの槽口に眼を丸くして感動している。

まるで、初めてハチミツというものを舐めた「くまのプーさん」状態である。

キミもプーさん、あなたもプーさん。

そうなんだよ、キミたち。これがね、発酵というもののパワーなんだよ。

まさに「メタモルフォーゼ(変容)」と呼ぶのにふさわしい。

その偉大な仕事を成し遂げるのは「眼に見えない微細なモノたち」と「時間」という働きであるけれども、 それを杜氏の知恵と勘と技によって、芸術的とまで言えるくらいの見事な作品に育て上げてゆくのだよ。

飲みすぎて「気持ち悪りぃ〜。」とか言ってゲロゲロ吐いているのが、どれだけ失礼なことか分かったかね?

これからは大切に、丁寧に、ありがたく頂戴しなさい。

(あ、そういえば2日前に吐いたばかりだった…。)


いやいやしかし、この計画一体どうなることやら。

私もできるかぎり関わろうとは思っているけれども、 ただでさえふつうのコメよりむずかしい酒造好適米をきちんと育てて酒造りにまで持っていく、というのはそんな簡単なことじゃないからね。

蔵元の期待に応えられるよう精一杯全力を発揮して、最高の酒を醸し出すように。

そのためには、みんなの「醸したい!」という意志の一致団結がとっても大事だよ。

和醸良酒。

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2006年03月11日

春の阿修羅の頭の上にカラスの阿呆は降りそそぐ

たまりにたまっていた文献整理をしようと思って、机の上にドサドサと本を置き、 チェックを入れておいた箇所をパシパシとパソコンに打ち込んでいく。

パシパシ。

一度読んで響いた箇所をチェックしておいて、後日改めてパソコンに打ち込む、ということをしていると、最初に読んで、 もう一度読み直して、打ち込んでまた読む、という感じで最低三度読むことになるので、それだけでけっこう頭に残る。

けれどもごくまれに、自分でチェックしておきながら、どの言葉が響いたのやらさっぱり思い出せないときがある。

わずか1、2ヶ月の間に私の脳内がガラリと変化してしまったのだろうか?う〜む。

そういうときはあっさり却下である。


しばらくそうしてパソコンに文章をパシパシと打ちこんでいたのだけれど、部屋に差し込む春の日差しがあんまり気持ちよいので、

「え〜い、もうやめじゃ〜!」

と叫んで、パソコンをぶちっと切って表に飛び出してしまう。

(こうして、やるべきことがたまっていく。チェックした箇所をパソコンに打ち込むより早く本を読み、 本を読み終えるより早く本を買っていくので、やることはどんどんたまっていく一方である。)


あんまりいい陽気なので、ひさしぶりに代々木公園へと足を向ける。

代々木公園の梅も見事咲き誇り、週末客の人出で代々木公園も大賑わいである。

そんな賑やかな代々木公園をうろうろと歩き、空いているベンチを探して座り「森のおろか者」と化して、一気呵成に『 「阿修羅」の呼吸と身体』(勇崎賀雄、現代書林、2006)を読み通し、ようやく読了。

…う〜む。これはすごい。大著であった。

また、すごい身体論研究実践家(って長いな。でもそう呼ぶしかない。)が現れたものである。

自ら行法を実践しながら、これほど幅広く身体論を網羅している人間は、おそらくそうはいないだろう(って知らないけど)。

「一年半をかけて原稿用紙3000枚の身体論を書き上げておきながら、『そんな本、誰が読むのか』ということで、 ほとんどまた新たに書き直し、400ページにまとめた」と、あとがきで触れているように、かなり密度の濃いものに仕上がっている。

そのような文章は「行間が詰まっている」というかなんというか、とにかく「間が密」なので、油断していると意識があえいで、 息を吸いに意識の沈潜から上がっていってしまうので、しっかり沈潜していくためには、充分な知的肺活量が必要とされる。

絶好のダイブポイントを発見した喜びに何の準備もなく飛び込んでしまったが、最初その深さに油断して、 うっかり溺れてしまうところだった。

「しまった。これは脳の回転速度を上げなくては息が続かない。」と、読みはじめてすぐ気づき、いったん仕切り直しをして、 また読み直し始めた。

「ひさしぶりに深いダイブをした。」というのが率直な感想である。

そのように「濃縮された文章を還元していく」という濃縮還元作業は、私は大好きである。

私の中で特に響いたのは、ハイデガーが著書『存在と時間』の中で述べている「気遣い(Sorge)」 という概念についての考察であるけれども、それについては、もう少し私なりに咀嚼して日を改めてまた触れてみたいと思う。


…とまぁ、そのような表象世界の話はさておいて、代々木公園内に眼を向けてみれば、梅は咲き誇り、 桜のつぼみは今や遅しとはちきれんばかりである。

森の中を歩いていると、まるで脳内をオーバーホールされるようでたいへんすっきりする。

森の中をてくてくと歩いていると、つぎつぎと表象が浮かんでくる。

今日は久しぶりだったので、表象という排泄行為もたいへん活発で、たまりにたまっていた宿便が次々と出てくる。

ほうほう、ふむふむ、なるほど。

排泄物をチェックするのは、自分の健康状態を知るのにもっとも良い。

その姿かたち、色、匂いで健康具合がチェックできる。

今回歩いている最中にひねり出されてきた表象たちは、硬すぎもせず軟らかすぎもせず。細すぎもせず太さも充分。

どうやら私の思考状態はたいへん健康的なようである。

よかったよかった。


脳内環境が混沌としているときは、出てくる表象たちも下痢気味でとても臭いものばかりである。

たとえばイヤラシイ思考をする者は、その脳内にすえた匂いが充満しているので、そこから発せられる言葉もたいへん鼻につく。

人は誰でも自分の匂いには鈍感であまり気づかないものであるが、注意深く気をつけていれば気づくことはできる。

「気づかぬは本人ばかりなり」みたいなことにならないように、気をつけて自分の匂いをチェックしておこう。

自分の言葉に対して自ら受け手に回り、鼻につくような匂いがしないかチェックしてみる。

クンクン。

う〜ん、大丈夫……かな?


などと、そんなくだらないコトを考えながらさらに森の中をテクテクと歩く。

するとまた雑念は止まらない。

なるほど、そうか。表象が硬くて便秘気味のときは、若くて荒々しい槽口からのあらばしりのような「発酵したての思想」を摂取し、 表象がグズグズで下痢気味のときは、じっくり寝かせて充分熟成させた十年古酒のような「熟成させた思想」を摂取すればいいんじゃないのか?

う〜む。

自分で言ってて意味がよく分からない。

でも、なんとなく説得力はありそうなので、思わず「なるほど。」と頷いたら、頭上でカラスが「アホッ!アホッ!」と鳴いた。

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2006年03月09日

家族の息を合わせる

今日は群馬の子育てママさんたちに講座をぶつ日。

しかし毎度のことながら思うが、子どももおらず子育ての経験もない私が、 なぜ子育て中のママさんたち相手に子育てについて語っているのだろう?

そんなことを平気で引き受けているのは、よっぽど図々しいか、ただのバカということなんだろうけれども、「図々しいバカ」である私は、 逆に考えれば理想的な適任者であるかもしれない。

子どもがいないからこそ怖いものなしで語れること、というものもある。

なにしろ棚に上げるべき自分がいないのだから。

なるほど。そういうことにしておこう。(まぁ!図々しい。)


というわけで、講座は話のマクラに春のからだと花粉症について。

花粉症については野口先生もシュタイナー先生も似たようなコトをおっしゃっています、というお話に始まり、からだの古傷、 こころの古傷。からだが弛んで眠れるモノたちが蠢きだす啓蟄の時期の対処の仕方などをベラベラとしゃべりつつ、 そのまま二人組みになって呼吸法などを行なう。

前にも書いたけれども、 「息を合わせる」ということは人と一緒に何かをやろうというときには、何よりも大切なことである。

「息を合わせる」ことによって、人はつながる。

痒いところに手が届くような細やかな気配りというのは、「息を合わせる」ことによって可能になるのである。

「ちょうど今まさにそれが欲しかった。」というタイミングで物を出せるような関係の二人は、きわめてキメ細かく「息が合っている」。

それは「相手が次に何をしたいのか」ということを、考えるというより感じてしまうからである。

息の合った者同士は、音叉のように相手の状態にすぐさま感応しあう。


違うリズムの波はお互い干渉しないけれども、同じリズムを持った波はお互い干渉し始める。

干渉しあう波の関係とは、言うなれば「機にして敏」。

わずかな入力(インプット)に反応して、すぐさまそれを取り込んだ波のカタチに姿を変える(アウトプット)。

そのインプットとアウトプットはほぼ同時的に起こり、また双方向的に起こる。

それは、穏やかに流れる水の流れに、そっと手を入れてみればすぐ分かる。

差し入れた「手」に「流れる水」は瞬時にカタチを変え、もっとも適したカタチの波を作りだす。

「手」は「流れる水」に押し流されないよう、絶えず微妙に変わる水流の強さに拮抗する。

「手」と「流れる水」の「出会い」に波が生まれるわけであるが、その波とは「手と水の出会いのカタチ」そのモノである。

手と水が独特の仕方で出会うところに、独特の仕方で波が生まれる。

それは二度と再び生まれ得ない、一期一会の独特の波である。

その波のリズムには、「手」と「流れる水」の二つの情報がすべて刻み込まれているのであるが、 そこまで述べると話が超脱線していってしまうので、それについてはまたいつか機会があれば…。


ともかく、「息の合った」者同士というのはまさに、その関係は「機にして敏」。

そのような関係を構築するのが、どのような関係においても理想的であるのは言うまでもない。

今回は二人組みになってお互いの息を合わせてみたが、ふだんの生活において、 子どもや家族の者たちと常日頃ふっと息を合わせるようにしておくと、「機にして敏」な一体感のある家族関係を作り出していくことができる。

だがしかし、本来もっとも近い存在である家族が一番息を合わせやすいはずが、じつは近いがゆえに一番息を合わせづらい関係でもある。

それは似た波を持つもの同士だからこそ、違いを強調しようと「我」を張ってしまうがゆえである。

人とは、まっこと業の深いモノ。似ようと欲し、似れば嫌う。

家族になろうと「息を合わせて」いくのが家族の成長期。
家族から「私」を引き離すために、わざわざ「息をずらして」いくのが家族の成熟期。
それを超えて、一つ高いレベルでもう一度「息を合わせて」いくのが家族の完成期。

家族で「息を合わせる」というのは、まこと「行(ぎょう)」のように困難な場合もありうるが、 ぜひとも実践していっていただきたいものである。


講座のあとはいつものように食卓を囲んで、みんなでワイワイとご飯を食べる。

私が座って美味しい料理をパクパク食べていたら、隣にちょこんと座っていた赤ちゃんが、もそもそと私のヒザの上に移動してくる。

「お? なんじゃい。」

私のヒザの上でテーブルを蹴飛ばしたり、腕をぶんぶん振り回したりご機嫌である。

パンを取って食べやすくちぎってあげると、おいしそうにモグモグしている。

「可愛いやつめ。」とニコニコ見ていたら、ふと上を向いて私の顔をじっと見る。

「ん?」

すると口に入れていたパンを取り出すや否や、おもむろに私の口にねじりこむ。

「ムグ。いやいや、いいよ。いいから君が食べなさい。てゆうかヨダレでベチャベチャやん。」

先月会った時は、まだ自分のことしか考えられなかったのに、「これ、美味しいよ。」 と食べてる物を人に勧めることまでできるようなコミュニケーション能力を身につけてしまっている。

子どもの成長ってすごいなぁ。

このわずか数ヶ月の間にみるみるうちに成長していってしまった。

歳を取るわけである。

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2006年03月07日

丁寧なスープに仕合わせを…

録画してあった「情熱大陸」(TBS、 日曜23時放送)を観た。

誰の回だかまったく知らないまま観ていたら、素敵な感じのおばあちゃん料理家が出ていた。

何気なくぽか〜んと観ていたら、 その穏やかな表情のお顔の口からほろほろと珠玉の言葉が出てくるのを聴いているうちにだんだん腰が入ってきて、 いつのまにやら佇まいを正して熱心に聴き入っている。

こ、この人…。すごい!

思わず感動してしまったので、すぐさまもう一度最初から観なおす。

料理人の名は辰巳芳子さん。

柔和な物腰の裏に凛と立った一本の軸が、観ている私の姿勢を正させる。

私はまったく知らなかったが大変有名な方であるらしい。

月に一度、鎌倉の自宅で開いているスープ作りの講習会「スープの会」は3年先まで予約がいっぱいであるという。

ほえ〜。すごいなぁ。でも、さもありなん。

気がつけば画面を見ながら、珠玉の御言葉をちょうど眼の前にあった封筒の裏紙にカリカリと書きとめている。

ふむふむ。ほうほう。

ちなみに今、手元にある封筒はもう余白がないくらい文字で埋め尽くされている。

(こういう「発する言葉がすべて言霊に満ち満ちている」方というのは、ごく稀にいらっしゃるものである。)


辰巳さんの口から幾度となく出てくるキーワードは「丁寧」という言葉であった。

たしかに辰巳さんの料理に向かう姿勢は、本当にかぎりなく真摯で丁寧であった。

番組の中でも、サラダに使うレタスを扱うその手の所作は、とてもとても丁寧なものであった。

「葉っぱが傷むとね、ドレッシングの中のお酢だけ先にその傷口に入っちゃうんです。酸っぱくまだらになるんです。」

だから丁寧に手でちぎったあと、まずオリーブオイルで軽くあえてコーティングをする。

そうすると、酢が葉の中に入るのを防ぐことができるし、塩を振ったあとに水分が染み出てこないと言う。

なるほど〜。丁寧さは理に適ったところから生まれているのである。

辰巳さんは言う。

「本質に即するということが『丁寧』の始まりなんです。」

ハ、ハイ。

スイマセン。申し訳ありません。(何に?…ってこの前も同じようなことがあったな…。)


辰巳さんの伝えたいことは料理の技術ではなかった。

「料理をする」という行為を通じて、もっと奥にあるなにか大切なコトを伝えようとしていた。

「丁寧」という所作からその「心構え」が生まれるのか、その「心構え」から「丁寧」という所作が生まれるのか。

「丁寧」。

美しい言葉である。

が、そういえば最近、あまり聞かなくなった言葉でもある。

料理をするその所作も当然のことながら、辰巳さんの口から出てくる言葉は、「丁寧」 に選ばれ取り扱われているその気配を感じさせる言葉たちばかりだった。

言葉が軽々しく扱われてしまう今の時代、そのように「丁寧」に扱われる言葉たちを想うと、「仕合わせだろうなぁ。」 と想わずにはいられない。

私が一番感動したのは、由布院の一流旅館の料理人たち相手にかけたお言葉である。


「私たちは幸いなことにね、ものと物事に向かってゆくときに、 自分というものを引っ込めなきゃならないでしょ。ね?ものにしたがっていくんだから。そのときは、 脂の乗っている魚に向かっていくときはね、そのようにしなきゃダメなのよ。ということはね、だんだん本当を言うと料理人はね、 「我(が)」が落ちるはずなんですよ。それで我が落ちるとね、だんだん仕合わせになります。そして人の命に仕えることができる。 ということはね、善い道だと、私は仕合わせな道だと思うのね…。」


「自分というものを引っ込めなきゃならないことは、幸いなことである。」

まこと珠玉の御言葉である。

けれども心の底からそのように思えるようになるには、私はまだまだ修行が必要だなぁ。

まずは辰巳先生(今から先生)のご著書を拝読させていただくことからはじめよう。

posted by RYO at 21:06| Comment(16) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月06日

敬意の自動アップデート

パソコンで遊んでいたら、画面右下のツールバーから「最新版にアップデートできます。」というポップアップがぴょこんと出た。

「はい」という返事をクリックして、カリカリいうハードディスクの音を聞きながらボーっとしていたら、はたと思いついた。

なるほど、そうか。「学び」とは「自動アップデート機能」のようなものなのだ。


「あらゆるモノに『敬意』を払う者は、あらゆるモノから『学ぶ』ことができる」ということを、以前書いたことがあるが、 「学び」とはほんらい、自分で「勝手に学ぶもの」である。

誰かに懇切丁寧教えられたとしたって、やっぱり「勝手に学ぶもの」である。

だから初等教育では、子どもたちに「学びの仕方」を身につけさせ、卒業しても自分で勝手に学んでいけるような「構え」 を身につけさせるということが、とても大切なことだと私は思っている。

卒業した後に子どもたちが「もう勉強はこりごり。」と思うようにではなく、卒業してからますます「もっと勉強したい!」 と思うような状態に持っていくように、その手を手放してあげるということが、理想的な「手放し方」 だと私は思う。

(それを「保ちの技術」というが、それにつけても「手放す」ということのむずかしさよ…。)


それはつまり、生徒たちに「自動アップデート機能」を身につけさせる、ということなのである。

念のため説明しておくと、「自動アップデート機能」というのは、パソコンのOSやいろんなソフトに搭載されている機能で、 ようはこちらが何もしなくても勝手にネット上に更新情報を探しに行き、 あれば自ら更新情報を取ってきて自分で勝手に成長してしまうという機能のことである。

パソコンを使っている本人は、パソコンの発する「最新版にアップデートできます。更新しますか?」の質問に対して「はい」 と答えればよいだけなのである。

(そんな賢い生徒ばかりだと先生も楽だろうなぁ。)

残念ながらパソコンの自動アップデート機能は、その製品の会社のホームページに情報を取りに行くだけだけれども、 人間はどんなモノにだってつながることができる。

見るもの聴くものすべてにケーブルのアダプタをカチャリと繋げてつながりを作り、そこに自らの更新情報を見出して、 どんどんアップデートしていくことができる。

つまり、世界のすべてが私のアップデート先なのであり、私を飛躍的にバージョンアップさせる更新情報が、そこでダウンロードされるのを待っているかもしれないのである。

私のいる場所はすべてどこでも「学校」であり、周りにあるモノはすべてなんでも「先生」である。


そして、そのアップデートのケーブルこそが、つまり「敬意」なのである。

環境と「敬意」でもってつながることで、私たちはそこからさまざまな更新情報を引き出すことができる。

それは私たちが「そこに意味があるかもしれない」と敬意を払うことによって、初めて発見されるものであって、「意味など無い」 と蔑む人の前には、立ち現れない。

「敬意」とは、モノに対するダイナミックな「働きかけ」であり、「行為」である。

「敬意」という働きかけによって、モノはその姿をいくらでも変える。

「恋」という働きかけによって、ブサイクがその姿をいくらでも変えてしまうように(笑)。

それは決して客観的な変化ではないので、機械やその「関係の構造」の中にいない者には、その変化がまったく分からないけれど、「関係」 の中にいる者にとってはとても大きな「環境の変化」なのである。

そして「さまざまな外的要因と密接に関わりながらインタラクティブに振舞う『開放系』 」である「私」は、そのような「環境の変化」に対応して「変化すること」を促される。

「私」が「環境」に違う意味を見出し変化させながら、「私」自身がその変化にフィードバックされて変化してゆくのである。

「敬意」によって「環境」の見えが変化し、それによって「自分が変化」してゆく。

「私」と「環境」の間で、何かダイナミックで繊細な「力」が双方向に働いている。

その「力」の活用、つまり習熟によって磨き上げられたその「力」の取り扱い能力は、ベルンシュタインが 「巧みさ(デクステリティ)」と名づけたモノに似ているのだけれど、その話はまたいつか…。


桜の木の芽がはちきれんばかりに命溢れていることに、風に春の香りがしていることに(今日は関東に「春一番」の訪れ)、 子どもが今日幼稚園で先生に褒められたことに…、そのような微細な変化に「敬意」をもって気づく者は、そのとき自分も「変化」し、 成長していることになる。

「敬意」というケーブルを、身の回りのありとあらゆるものにつなげてみて、どんどん「自動アップデート機能」 を活用していきたいと思う、今日この頃。

さて、じゃあ散歩にでも…。

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2006年03月04日

「追い越し再生」そして「脳内迷子」

気がつけばもう3月。

このブログをはじめたのが去年の9月だから、半年経ったことになる。早いなぁ。

よく人から「ブログほとんど毎日書いてるよね。よく書けるねぇ。」と言われるが、たしかに我ながらよく書いている思う。

なかばあきれるくらいであるが、でも、さすがに毎日は書いていない。

いったいどれくらいのペースで書いているんだろう、と思ってこの半年分に書いた記事を調べてみたら、 9月から2月までの181日間で96エントリー書いている。

ということは、記事をアップしてから次の記事をアップするまでのあいだが平均1.88日。

おぉ、2日を切っている。

…って、そんなに書いてたっけ? あ、そうか。最初のスタートダッシュの分か。

パソコンに打ち込んだ文章の量で言うと、Wordの容量で940キロバイト。文字数はおよそ15万8000字となっている。

15万8000字!

400字詰めの原稿用紙で400枚分に近い。

でも実際には、ブログを始めるやっぱり半年前から日々思ったことをパソコンにはパシパシと打ち込んでいたので、 そちらもすべて含めると容量は1.3メガバイトになる。

文字数で言うと21万2000字。原稿用紙で530枚。

いやいや、思えばずいぶん書いたものである。

この一年が原稿用紙530枚に詰まっている、と考えるとなかなか感慨深いものがある。

と言っても、脱線しまくり大迷走の「雑念」だらけであるけれども。


そこで改めて最初から全部読み直してみた。

…ふむふむ。
おお!なんと!そうきますか!
ってお〜い、どこに行くんだ?
ゲラゲラ。

う〜む、大変オモシロイな(笑)。

自分で書いた文章を、自分で読んでゲラゲラ笑っている。

我がことながら、まことにシアワセな男である。

いやぁ、でもホントにオモシロイなぁ。

論理の破綻具合がタマラナイ。何言ってんだコイツ(笑)。

タレントの明石家さんまや落語家の春風亭昇太は、 家に帰って自分のビデオを見て「いつ見てもオモシロイ」とゲラゲラ笑っているというが、それに近いかもしれない。

考えてみれば自分の文章というものは、自分の好きなことを、自分の好きな文体で、自分の好きなように書いているのだから、 自分で読んでいて愉しくないわけがない。

でもそれを職場で実践してしまっている明石家さんまや春風亭昇太という人間はやっぱりすごいと思う。

人生を愉しむ達人だな。

よーし、私も目指すは「自分の一挙手一投足が愉快で愉快で仕方がない」という状態だ。

周りから「ただのバカ」と呼ばれるくらいに、強力な自己肯定感を作り出して宇宙一シアワセな人間になろう。


この「強力な自己肯定力」というのは、周りからはバカにされること必死であるけれども、人生を幸福に生きていくためには、 たいへん大事なことであると思う。

だいたいシアワセな状態というのは、えてして周りからはバカみたいに見えるものである。

(新婚ホヤホヤのデレデレ具合とか、夜中に布団を抜け出して車庫にある新車をウットリ眺めてるさまとか、我が子に頬ずりしながら 「世界一カワイイ」とつぶやいているさまとか。)

そういえば昔、知り合いの女性と待ち合わせをしていたとき、遅れてやってきた彼女がやたらニコニコしてクスクス笑ったりしているので、 「なんかあったの?」と聞いたら、

「あのね、来る途中、電車の中でふと『あぁ、私ってホントに私のこと好きだよなぁ。』って思ったら、なんだかおかしくなっちゃって。」

と言うので、そんな彼女の様子に私も思わずつられて笑って、「あぁ、分かる分かる。大事だよね、そういう感覚。」と答えたことがある。

私も私のことがたいへん大好きである。

っておもむろにこんなところでそんなことを告白するのも何であるが、 私は別に容姿も学歴も収入も人より優れているものなど何もないけれど、そんなことは関係なくとても大好きである。


「自分のことを大好きでいる」ということと、いわゆる「ありのままでいい」ということは違う。

たしかに「ありのままでいい」ということは真実だと私も思うけれども、「真実」というやつも時と場合による(笑)。

お釈迦様も「人を見て法を説く」とおっしゃっているではないか。

(人によって「そのとき響く言葉」は違うから、「教え」も聴く人に必要なカタチに手直しして説くものである。だから「教え」 は文字に落とすと矛盾したりするので本来「口伝」で行なわれるものである。)

90過ぎた老人が「そのまんまでいいんぢゃよ。」と言うことと、中学生が「そのまんまでいいじゃん。」と言うことの間には、 天と地ほどの差がある。

「ありのままでいい」という言葉が、私たちの耳になんとなく心地よく聞こえるのは、 接する人によって自分をいろいろ演じ分けなくてもいい、という「省エネ」で「誰でも簡単」なコミュニケーションを想像するからであるが、 この言葉は決してそういう意味ではないと私は思う。

「ありのまま」と言っているときに「変わらない自分」を想定するのは勘違いである。

「変わらない自分」とは、すでに時の流れに置いてけぼりにされた「過去の自分」であるからである。

「ありのまま」とは、接する人によって、場によって、時によって、相互作用的なインタラクティブな関係としてつねに新しく生成される、 その場その場の「ありのまま」であって、「あるときのまま」という意味ではない。

「今の自分」というものは絶えず新しく生成される現象のようなものであるので、決して把握しきれるものではない。

「『今の私』を語る」とは、基本的に「追いかけ再生」なのである。

(舌が脳の回転数を上回り、ブレイクスルーして「未知の(未来の)自分」を語り始めるということもある。)

けれども、そんなことはたいへんメンドくさいので、どこか良いシーンでテキトーに一時停止して、「これが自分!」 と決めてしまいたくなってしまうが、そんな楽をすることなく、丁寧に「追いかけ再生」(ときに「追い越し再生」)し続けるというのは、 とてもとても大変なことである。

「ありのままの自分」で居続ける、ということは実はそれだけ高度なワザなのである。

お子ちゃまの考えるほど簡単なことではない。


…ってまた話が飛んでるな(笑)。

「自分が大好き」って話だった。

私は私が大好きなのだけれど、だから私にとって「私」としゃべる時間はとても愉しみである。

それはつまり一人の時間ということだけれど、他人としゃべっているより、 自分としゃべっているほうが愉しくて仕方がないときもしばしばあるくらいである。

「それは、オマエどっかおかしいよ。」

と言われたとしても、そうなんだから仕方がない。

なにしろ、私は「私の思いもつかないこと」を思いついてしゃべってくれて、とても愉しませてくれるのである。

いや、ホントに。

さきほどの「追い越し再生」だって、「追いかけ再生」と書いたら自然と筆(キーボード?)が滑って、続けて書いてしまったのである。

自分で「おお、なるほど。それは良い喩えだ!」と、書いて仰天である。

とにかく、「自分の話が『思いもつかないことばかり』ってなんでだろう?」と考えてみたのだけれど、それはたぶん(それもまた「私」 が答えてくれた)、人としゃべるときは「仲間の確認の合言葉」のように「いつものこと」をしゃべるのに対し、 自分としゃべるときは、そのような「合言葉」が必要ないので、いきなり突拍子もないことをしゃべったとしても、 きちんと受け止めてくれるからではなかろうかと思う。

つまり、知人と話をするときは、相手は「いつもの私」を期待(想定)して私の話を聴いてくれているので、 それから大きく外れるわけにはいかないのである(じつは自分自身が「いつもの知人」をすでに想定しているんだけど)。

もちろん、別に外れたっていいのだけれど、突然いつもと違う「私」になってしゃべりだしたりすると、「オマエらしくない。」とか言って 「いつもの私」であることを、なかば無意識的に強制されるのである(外圧的にも、自発的にも)。

それは喩えるならば、「印籠出さなくちゃ水戸黄門じゃない。」みたいな感じであろうか。

(聞いた話によると実際、印籠を出さずに終わった放送回があったらしいけど、「抗議」の電話が殺到したそうである。「印籠を出せ!」 と(笑)。だから黄門様が毎回印籠を出すのは正義感からではなく、視聴者へのホスピタリティーからである。)

知人と会うたび、いつも全然違う人間になっていたら、相手はそのたびに周波数をチューニングしなおさなくてはならないので、そんな 「遊び」込みで私を捉えてくれる人であればいいけれど、人によっては、「オマエといると疲れる。」 とか言って去っていってしまうことになりかねない。

けれども、自分ならまったくそんな遠慮はいらない。

眼の前に相手がいる場合、矛盾したことばかり言ったりやったりしているわけにはいかないが、私は一人でいるとき、 平気で矛盾していられる。

それは、光などの量子が、観測されないかぎり 「波であるのと同時に粒である」という矛盾した状態で居続けるのにも似ている。

私は「私がどんな人間でもオッケー」だと思っている。

私は、私が「粒」であろうが「波」であろうがどうでもよいのである。

その場その場で都合の良いほうを選択するだけである。

人に「オマエは波だ。」と言われれば「ああ、そうかもね。」と答えるし、「あなたは粒ですね。」と言われれば「そうかもしれません。」 と答えるだけである。

「そんなことはどうでもいい。」

そのような矛盾した状態というものを、「頭」というものは大変嫌うので、頭で自分を捉えようとする人には我慢ならないかもしれない。

「どっちなんだ?!」と怒鳴られても、私は

「どっちもホントでどっちでもない。てゆうかどっちでもいいんだ。そんなことは。イヤならお前が決めてくれ。」と言う。

(しかし、考えてみれば量子の態度というものは、まことに意地が悪いものである。量子物理学者も大変だな…。 たいへんオモシロイとは思うけど。)


人は少なからずそのように、つねにその「場」におけるなんらかの「役割(ロール)」を演じている。

その「場」に求められる役割を演じるのである。

それは先生であったり、上司であったり、妻であったり、夫であったり、親友であったり、子どもであったり、患者であったり、 教祖様であったり…。

もしかしたら一人でいるときだって、「自分らしい自分」を自分に演じさせているかもしれない。

だから「自分はこういう人間だ。」と思っている人は、「『自分が思っている自分』を演じてやしないだろうか?」 と見つめなおしてみることも必要かもしれない。

けれども、残念ながら私たちは「誰にも見られていない自分」というものを想像することができない。

少なくともそれを想像する自分がいなくてはならないからである。

だから「自分が自分を演じているかどうか」という問いに答えが出ることはない。

ただ、自分をつねに再確認するために問い続けることは大切なことである。


…ってまた話がどっか行きはじめてるな…(笑)。

まったく私は、一つの時系列に沿って話を展開するということのできないタチであるな。

とりとめもなくチンタラポンタラした自分の筆運びを見ていると、まるで私の脳内構造が眼に見えるようである。

スタート地点からある方向に向かい始めたと思ったら、突然道を外れてみたり(うわ!私の散歩そのままだ)、そして、 またさらにヘンな道に入っていったり、いちおう元の場所に戻ってみたり…。

あらゆる分岐点からあらゆる方向に道が枝葉のように伸びていって、さらにそこからまた枝葉が…みたいに、 とりとめもなく続くWeb(クモの巣)構造。

道があまりにも複雑に絡みすぎていて、自分で歩いても人に教えようとしてもさっぱり説明できなくて呆然とする…。ここはドコ?

そんな私は「脳内迷子」。

でもそんな自分も大好きなの。


(今、改めて今回の記事を読み直して気づいたんだけど、今回の文章は「まるごとひっくり返っている」のである。それがどういう意味かはとりあえず置いておいて、謎なのは「なぜ私はそのように書いたのか?」ということである。なんでだろう?)

posted by RYO at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月02日

確定申告と教祖様

確定申告に行ってきた。

お昼頃に申告書作成会場に行ったら、相談員の休み時間だったらしく記入している人たちも少ないので、机もパソコンも空きが多い。

しかも、休み時間はあと5分で終わるらしい。

しめた、なかなか良い時間に来たようである。

申告書作成用のパソコンの前にちょこんと座り、 パソコンと隣の相談員の若いお兄ちゃんに指示されるままに画面をタッチして入力していく。

隣のお兄ちゃんは私の源泉徴収票などのすべての書類をチェックしつつ、パソコンの画面にあわせて、

「これを打ち込んでください。」
「次はこれです。」

とやることを指示しつつ、入力すべき書類をつぎつぎと渡してくれる。

私は「はい。はい。」と答えて、言われるままに動くだけである。

はい、ピッピッピッ。 はい、ピッピッピッ。


あぁ、何も考えずに言われるままに動くって楽だなぁ。

どこかに、私の無意識的欲求を瞬時に察知して、いつでもそれを満たすようなお告げ「のみ」をくださる「My教祖様」でもいないかしら。

「今日の晩御飯はステーキを食べなさい。」
「はい!喜んで。」
「ステーキの部位はサーロイン。焼き方はレア。そしてソースは既製品のものではなく、バター醤油が望ましい。」
「はい!そしてガーリックも一緒に焼くんですね?」
「うむ。その通りである。そして、そのとき決して、キンと冷やした生ビールと共にいただくのを忘れないように。」
「はい!もう注いでます!」

いやぁ、シアワセだなぁ。

誰かに咎められたとしても「教祖様のおっしゃることですから。」と言えばよいのだから、こんなに心強いことはない。

喜んで入信してついていくんだけどなぁ。


とまぁ、冗談はさておき、確定申告のお話である。

源泉徴収されているのですでに納めている分もあるのだけれど、お金が返ってくるのか、それとも足りずに払わなくちゃいけないのかは、 さっぱり見当がつかない。

だから全部入力したあとに出るパソコンの結果によっては、飛び上がって喜んだり、激しく落ち込んだりすることになる。

ど、どうなんだろう…? ドキドキ。

すると最後に出た金額の前に△の印が。

「?」と思ったら、隣にいた若い相談員のお兄ちゃんが、

「あ、それは還付金のマークですね。のちほど口座のほうに振り込まれますんで。」

と言う。

それを聞いて「ヨッシャ!」と小さくガッツポーズ。

ワーイ。良かった良かった。

でも考えてみれば、もともと払わなくても良かった税金を多く納めすぎていたというだけの話であるので、 嬉しいことでもなんでもないはずなのに、臨時収入が入ったような気分になってしまうのは、なんでだろうか。

まぁでも、とにかく嬉しいものは嬉しい。素直に喜んでおこう。

帰り道、一仕事終えた爽快感と、臨時収入のある喜びで足取りも軽い。

ふんふ〜ん♪ なんだ、今の日本もなかなか捨てたもんじゃないな。(単純)

サーロインステーキまでいかないけれど、カツ丼くらいは食べて帰ろうか。


なんて考えながら、ウキウキと本屋さんに入って新刊を物色。

<心>はからだの外にある』(河野哲也、NHKブックス、2006)という新刊が出ていて、そのタイトルに「おっ?」 と惹かれてパラパラとめくる。

目次をめくるとそこには「心理主義の罠」、「環境と共にある<心>」、「なぜ『自分探し』に失敗するのか」、「行動すなわち心」と、 私の感性にキャッチィなコピーが並んでいる上、「アフォーダンス」の文字が目に飛び込んだ瞬間、即座に「買い」。

第1感』(マルコム・グラッドウェル、光文社、2006)。

副題に「最初の2秒のなんとなくが正しい」と書かれていたので、その言葉どおりにこれも「買い」。

ビジネス・ コールドリーディング』(石井裕之、日本実業出版社、2006)。

「お、石井裕之さんの新刊だ。」と、これも「買い」。

「あたりまえ」を疑う社会学』(好井裕明、光文社新書、2006)。

目次の表題が「はいりこむ」、「あるものになる」、「聞き取る」、「語りだす」と、簡潔な動詞で書かれているのを見て、その潔い 「動き」につられて「手にとる」、「買う」。

解剖男』(遠藤秀紀、講談社現代新書、2006)。

そのタイトルのインパクトに「買い」。

「複雑ネットワーク」とは何か』(増田直紀・今野紀雄、講談社ブルーバックス、2006)。

中身をパラパラと見ていたら「ベーコン数」について出ていたので、一度きちんと知っておきたいと思ってこれも「買い」。

(「ベーコン数」とは、ある俳優がハリウッド俳優のケビン・ ベーコンまでたどりつくのに何人の共演者をあいだに挟むかというゲームの数値のこと。日本の俳優であってもベーコン数は多くて5程度であり、 世界(ネットワーク)というのは意外と狭いということがよく分かる。コンピュータウィルスが世界中をあっという間にかけめぐるのも、そのようにネットワークというものが意外に狭いという理由による。 )


ハッ?! 気づけば小脇に新刊を6冊も抱えている!

またまた本をこんなにドサドサと買ってしまった。

部屋の片隅にうずたかく積まれた未読の本たちの恨めしそうな表情が眼に浮かぶ。

「またなの? アンタ。」

で、でもでも、これは教祖様の指示で…。

posted by RYO at 23:48| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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