2006年01月29日

「どーもスイマセン」と謝りつつ…

天気がいいので、朝から部屋の掃除をする。

超旧式のピンクの掃除機(91年製。フィルターをレバーでガリガリやって掃除するやつ…って分かるかな?)を肩から掛け、 部屋中すみずみまで清め、布団も毛布も表に干して、パンパンとほこりを払う。

う〜ん、いい天気だ。

今週はけっこう忙しいので今日一日英気を養おう。

と思ったけど、まずは今度の群馬の講座のレジュメを作らなくては。

何をしゃべろうか、パシパシ。

考えるのと指が文字を打つのが同時だ。こういうのを「指で考える」と言う。

大事、大事。

いつも思うのだけれど、講座というものはなにしろ自分がしゃべらなくてはいけない。

私はバカな奴ほどよくしゃべると思っているのだけれど、講座というのはしゃべらなくては成り立たないのである。

私が黙ってみなさんの話をニコニコ聴いているだけで、 あるいは私のニコニコ笑っている笑顔をみなさんが眺めているだけで講座が成り立つのであればいいのだけれど、残念ながらそうはいかない。

人前に出て、自分の思っていることをべらべらしゃべり散らすなんて、まるで自分のバカっぷりをみなさんにさらけ出しているようで、 何とも気恥ずかしい(ブログはいいのか?)。

少しは知的にしゃべってみたいとも思うのだけれど、ふと、「あ、そうか。逆なんだ。」と思いついた。

つまりどういうことかと言うと、

「バカな奴ほどよくしゃべる」
「講座をやるときはしゃべらなくてはいけない」
「つまり講座をやるときはバカになればよい」

ということなのである。

おぉ、見事な三段論法。

なるほど! これで合点がいった。

講座をやるときは自分がバカになればいいのだ。

自分がセンセイとしてふさわしいように、まるで知的であるかのように(ホントは違うのに)みなさんに振舞おうとするから、 いけないのだ。

そうか、講演会などでもときどき聴いていてとてもつまらないものがあるのは、その演者が「いかに自分が知的であるか」 を示そうとしているからなのかもしれない。

あるプレイボーイが言っていたのだけれど、モテない男はとにかく「オレってすごいだろ?」を連発し、モテる男はとにかく 「キミってすごいよね。」を連発すると言う。

なるほど。

金を払ってまで延々と「オレって頭イイだろ? どう?この論理立て。」なんて自慢話を聴かされるのであれば、 それはつまらないに決まっている。

やっぱり講座のときは、みなさんの前に出てべらべらと思いつくまましゃべりまくるバカと化し、「どーもスイマセン。」(@ 林家三平)とか言って頭を掻いているくらいでちょうどいいのかもしれない。

そういえば、しゃべることを生業としている方々を「噺家」あるいは「咄家」というけれど、「はなし」という漢字は「口に新しい」 「口から出る」と書く。

それはつまり「口から新しいことが飛び出してくる」のが「おはなし」であるということではなかろうか。

それならやっぱり、レジュメをせっせと作りながらも一向にその通りに進まずに、 その場で思いついた新しいことをべらべらとしゃべる私のお話しは、それで良いという事だろう。

…と、超ポジティブに自己正当化しつつ、今度の講座に向かうのだけれど、いったい私の口からはどんな話が飛び出すのやら。

それはお釈迦様でも知りゃすまい。

けれども私は小心者なので、いちおうレジュメもパシパシと言い訳のように作っておくのである。

パシパシ。

講座に出られたみなさんには、そのレジュメは「どれくらい脱線したか」という迷子地図のようなものと思っていただければよろしいかと… 。

どーもスイマセン。

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2006年01月28日

呼びかけること、応えること

前回の記事で、

「無表情にわずかでもなんらかのメッセージを読み取る(名前をつける)ことができれば、その呪縛から解き放たれる。」

ということを書いたが、それを改めて読んでいて、ふとあることを思い出した。

それはDV(家庭内暴力)についての取材に応える女性の言葉である。

DV(Domestic Violence)というのは男性の専売特許のように思われているが、DVの母国(って不名誉な称号だな)、 アメリカの1998年の司法省の統計によると、全米で「夫に暴力をふるわれた妻」が151万人であるのに対し、「妻に暴力をふるわれた夫」 は83万人に上っており、さらに「物で殴られる」「ナイフで脅される」件数は、夫も妻もほぼ同数であるらしい。

まだまだ男性からの暴力のほうが多いとはいえ、だんだんDVも「性差による云々」 の説明では対処しきれないような事態になってきているようである。

その傾向は日本においても同様で、国内においても「妻から夫への暴力」は確実に増えていっている(そういえば巷では 「鬼嫁日記」なるものが流行ってるな)。

でも、こういうことはべらべらしゃべっていると、確実に踏まなくてもいい虎の尾を踏んでしまったりするので、これくらいにしておこう。

性(ジェンダー)、 政(政治)、 聖(宗教)、 正(倫理)。

「せい」の話は迂闊にすると痛い目を見る。


私が「ふと思い出した」のは『トラウマの国』(高橋秀美、新潮社、2005)に出ていた女性の言葉である。

『――(夫は殴られて)オレが悪かったと、反省してるんじゃないですか。
「反省は一番腹が立つ。なんか殴ってる私が悪いみたいじゃないの。それで同情を買おうという根性がムカつくのよね。クールに “わかったから”って顔しちゃってさ」
――じゃあ、どうすれば?
「やめろ! と言ってほしいのよ。抵抗してほしいのよ。こっちが怒ってんだから、そっちも怒るなり何なりしてほしいんです。 愛しているから愛してほしい。それと同じなんですよ」』

この女性はとにかく「私にきちんと返事(レスポンス)をしてほしい」と言う。

『「ある意味、試したくなるんです。ここまでやったら、どういう顔をするか、どう答えるか。無反応だったら、どんどん激しくなるのは当然ですよね。自分がおかしいことをしているのはわかってます。 でもそこまでやっているのに、夫はひとりで哀しそうな顔をしている。許せないのは当然です」』(同著、p149−150)

読んでいてなんだか恐ろしくなってくるが、この女性の言っていることはおそらく、かなりホンネに近いことなんだろう。


昔、あるワークショップでサイコドラマ(心理劇)に参加したことがある。

サイコドラマというのは、ドラマ形式を用いた集団療法のことであり、演者の心のイメージを即興劇によって表現して、 個人の抱えている心的葛藤を「演じる」ことで整理していくというものである。

そのときはある中年の女性が「息子との関係をやってみたい」と言ったので、その女性の「母と息子」のワークをすることになり、 私がその息子役になった。

(なんと偶然なのだが、その女性の娘さんと私は一度会ったことがあった。これもご縁。)

最初のうちは母と息子のあいだで「ああだ、こうだ」と言い合っていたのだが、 言い合っているうちになんだかその女性(母役)のしゃべる言葉に、「私にかまってほしい」という匂いというか何というか、 まるで私にまとわりつくようなものが感じられはじめて、息子(役)としてうっとうしくて仕方が無くなってきたときに、 おもむろに進行役の人が「誰か旦那役やってくれない?」と言って、聴者の中から男性をひとり旦那役としてドラマに加えた。

今、思えば見事な采配であったのだけれど、そのままその女性は私(息子役)のことよりも、 その旦那(役)に向かっていろいろしゃべりはじめた。

かなりホンネに近いところまでワーッとしゃべっているうちに、だんだん激昂してきて、

「あんた、私のことちゃんと見てるの?! セックスしてるときにあたしのこと感じてるの?! あたしのことちゃんと見てよ!  ちゃんと感じてよ!」

と叫びはじめた。

旦那(役)はその勢いに圧倒されて、ただ呆然と立っていただけだった。

やがて女性が少し落ち着きを取り戻したときに、

「息子として君はどう思う?」

と進行役の人が、おもむろに私のほうに振った。

私は、いまだ興奮冷めやらぬ母親(役)を見つめながら、

「ボクがどうこう言うことじゃない。お母さんとお父さんの問題だ。お母さんとお父さんがきちんと向き合ってくれれば、 それがいいことだと思う。ボクはボクの人生をしっかり生きていけるから、お母さんはお母さんの人生をしっかり生きてほしい。」

とかなんとか、そんなような事を言った気がする。

(そういう言葉は私がしゃべっているというより「場」がしゃべらせているという感覚に近い。「私の中の誰か」 が私の口を借りてしゃべる、という感覚をそのとき初めて強く実感した。)


結局その女性は、夫としっかり向き合うことを避けて息子に過剰にかまっていたのかもしれない、 ということがサイコドラマを演じる中でおぼろげながらに浮かび上がってきたことだった。

もちろん「それがホントに原因か?」と言われれば、そんなことは誰にも分からないけれども、もし、それによってその後、 その女性の家族の関係がうまくいくのであれば、それはそれでアリだと思う。

でもそのときの、「私のことをちゃんと見てよ! ちゃんと感じてよ!」という夫に対するその女性の叫びには、 確かに私の奥深くにまで響いた。(なにしろ、そのときは息子になりきっていたからね。)


「愛の反対は憎しみではありません。無関心です。」

マザー・テレサはおっしゃったけれど、何をしてもレスポンス(返事)が無い、 ということから生まれる空虚さはたしかに計り知れないような気がする。

この前書いた「打検士の話」 じゃないけど、「相手(夫)の反応を探っている」女性が、夫のなんだかよく分からないその態度(表情)にメッセージを呼び起こすために、 より強い「叩き」が必要になってきてしまうのかもしれない。


無表情の相手と対した時に、その呪縛から逃れるためにできることは「呼びかける」ことである。

それも相手が反応せざるを得ないものであると良い。

「なに考えてんの?」であれば無視されてしまうかもしれないが、たとえば何かモノを投げつけてみれば、より反応は期待できる。

おそらく受け取るか、かわすかするだろうし、うまくいけば「なに考えてんだ! オマエは?」と、 むしろ相手の欲望を喚起するかもしれない。

けれどもそれでも何の反応も示さないのであれば、最終的にもっとも反応がしっかり期待できることは「殴ってみる」ということである。

(誤解の無いように申し上げておくけれども、決して「返事をしない夫は殴ってみろ」と勧めているわけではありませんので。あしからず。)

シュールな話だが、何を考えているのかよく分からない人間であっても「痛がって」さえくれれば、「ああ、今、痛いんだな。」 と理解できるのである。

(そういえば昔、星新一のショートショートにそんな話があったな。うぅ、恐ろしい。ブルブル。)

殴られて無表情でいられる人間はそうはいない。

いたらそれはきっと変身したターミネーターだ。

すぐさま逃げろ!


『「その顔が許せない」 私の知る限り、暴力妻は必ずそう叫ぶ。 無反応な夫の顔は死んだも同然なのである。フライパン事件の妻もフライパンを振り回しながら「これでもか、これでもか」 と夫に叫んでいたような気がする。「様子を見たら、息をしていなかった」という供述は、言い逃れではない。おそらく彼女は最後まで夫の 「反応」だけを待っていたのだろう。』(同著、p150)

「応えてよ!応えてよ!」という叫びが、ときに悲劇を生みかねない。

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2006年01月26日

冬芽以前、ユニセクシャル以後

久しぶりに朝、代々木公園を散歩してみる。

うぅ〜、寒い。

公園内の土の上は霜柱がびっしり立っている。

うわ、なんか懐かしいなぁ。霜柱なんて久しぶりに見た気がする。

昔、小学校の頃は冬の朝、校庭にびっしりと霜柱が立っていて、中休みに外に出て校庭を走り回ったりしていると、 靴の底に泥がくっついて3センチくらい上げ底になったりしていたことを思い出す。

懐かしさに浸りながら、霜柱がびっしり立っている中、シャクシャクと音をたてて歩く。

シャクシャク。

まだ朝早いせいか寒すぎて靴の底にはくっつかない。

ふと樹々の梢を見上げてみると、冬芽がだいぶ伸びてきている(「梢」なんて言葉久しぶりに使った)。

枝振りを遠目に見ても、なんとなく冬芽が目立つようになってきていて、 人間で言えば妊娠7ヶ月から8ヶ月といったところだろうか(ヘンな喩え)。

たしかに大寒も過ぎたし、暦の上ではどんどん暖かくなっていく時期には入っている。


桜もけっこう芽が出てきているし、イチョウもところによってチョビチョビ。イロハモミジはまだかなぁ。
(左はイチョウ、右二つは桜)

う〜ん、森に生命が満ち溢れている。

満開に咲いた桜も好きだし、サーっと散りしきる桜も好きだけれど、「今まさに出でんと欲す」といった、はちきれんばかりの桜も好きだ。

まだ今は、「今まさに出でんと欲す」というには時期が早いけれど、気が早い私はもうその予兆の気配に、 そぞろにワクワクしている(予兆の気配って同語反復か)。

前に「徒然草」 の話を書いたけれど、自然は私たちより早くきちんと季節の準備している。


碧厳録の第二十一則にこんな話がある。

『僧、智門に問う、蓮花未だ水を出でざる時如何。智門云く、蓮花。僧云く、水を出て後如何。門云く、荷葉。』

(ある僧が智門和尚に訊く。「蓮の花が水の中でまだ咲いていないとき、それは一体なんなんでしょうか?」「蓮花だ。」「では、 水から出て咲いているものはなんですか?」「荷葉だ。(葉っぱの荷物)」)

植物というのは、青々と生い茂り、ものすごい生命力に満ち溢れているように見える夏よりも、 葉をすべて落とし春に向けてじっと備えている冬の方が、じつは生命力に満ち溢れているのだ、と昔の人は教える。

植物が夏に青々と生い茂るさまは、植物の生命力が実際に発揮された後に残ったカタチであり、 植物が冬に葉っぱをすべて落としシンとしているさまこそが、来るべき時に備えて次世代の実や芽の中で生命力を高め、 そのときを今か今かと待っている、ウチに勢いを秘めた状態である、と言うのである。

なるほど。

智門はカタチとなってあらわれた蓮の花を、もはやすでにただの惰性のものとして「葉っぱの荷物」と言ってのけた(厳しいなぁ)。


たしかに考えてみれば、「現われてしまったモノ」には「未だ現われぬモノ」ほどの強い力はない。

ホラー映画などでも、人を襲う化け物の正体は最初はその影を示すのみで、すべての姿を見せるのは、 クライマックスに差し掛かってからである(あるいは最後まで明かされない)。

物語の序盤にいきなりその正体をすべて映し出してしまっては、私たちを恐怖させる力をすっかり失ってしまい、おそらくちっとも盛り上がらない。

そもそも「何だか正体がよく分からない」というのが化け物の本質であり、私たちの恐怖の源なのである。

「何だか得体の知れないもの」であるがゆえに「名前をつける(言語化する)ことができない」ということに、私たちは恐怖を感じ、嫌悪感を感じる。

そういう意味では、「激烈に怒っている人」というのも確かに怖いけれども、「何を考えているのか分からない無表情の人」の方が、 私たちはもっと恐怖を感じる。

無表情のままこちらにどんどん近づいてくる人を想像してほしい(ヤダなぁ…)。

その表情になんのメッセージも、どうレスポンスすればいいのかも見出せない時点で、こちらはその場に居着いているのであって、 もうすでにその人に喰われている。

逆に、その無表情にわずかでもなんらかのメッセージを読み取る(名前をつける)ことができれば、その呪縛から解き放たれる。


「カタチ以前」、「コトバ以前」。

その正体が「あるカタチ」に確定する前こそが、最も強い力を持っている状態である。

いかにうまく「カタチ以前」を観察し、いかにうまく「コトバ以前」を扱うか。

それは前にブログに書いた「名前をつけずに漠然としたままで意味を捉える」 ということや、「悪さをするモノには、 適切な名前を与えて飼いならす」ということにもつながる。

そして、その追求は私の一生の課題でもあるのである。


……「冬芽」の話であったはずなのに、いつのまにか「化け物」の話になってしまった。

なんでこう、私は話がどんどんワケの分からない方向へいってしまうんだろう(いつものコトだけど)。

とか言いながら、さらに別の話をしてしまうのだけれど、私は街で男だか女だかよく分からないユニセクシャルな人を見かけると、 ついついその人をじーっと見てしまう、という癖(?)がある。

皆さんはそんなことないだろうか?

その人が「男か女か」という分類をきっちりつけてすっきりしたい、がゆえだと私は思うのだけれど、 もしその人がそれを狙っているのであれば、私はまんまと術中にはまっていることになる。

でもきっと、「私は男(女)です。」と本人に言われても、やっぱり見ちゃうんだろうなぁ…。

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2006年01月23日

「シュタイナーふりかけ」と「ホスピタリティー」

昨日は「オーガニック縁日」というイベントに行ってきた。

「無農薬で庭づくり」運動をしている「日本オーガニック・ ガーデン協会(JOGA)」というところの主催で、後輩の学生たちがお手伝いしているらしいので、 ちょっと遊びに行ってみたのである。

会場はいつも私が(後輩ともども)とってもお世話になっている酒屋さん(のとなりのカフェ。正確には)。

今回のイベントではさまざまなワークショップが催されていたのだけれど、「生命農法」という農業を実践していらっしゃる高橋丈夫さんのお話が、 私の一番のお目当てである。

高橋さんの農場には、去年、学生たちと一緒にお邪魔しに行ったことがあるのだけれど、ぜひまたお話を聞いてみたいと思っていたのだが、 大盛況で人があふれんばかりだったので、今回は見送ることにした。残念。

でも、関係者の特権で講座が始まる前に、何人かで個人的にお話をうかがうことができた。ワーイ。

高橋さんが実践している「生命農法」というのは、なんとも不思議な農法で、こう言っては失礼だが、お話を聞いていても半分くらいは 「よく分からない」。

なにしろ「生命農法」というのは、シュタイナー農法(バイオダイナミック農法)や栄養周期理論などを研究、 応用した独自の農業理論によるかなりオリジナルな農法で、 ある意味まったく常識からは外れているのである(しかも多分つねに進化しつづけている)。

それでも私はソッチ方面(ってどっちだ?)は多少なりとも勉強しているし、なんとか食いついていっているのだが、 ソッチ方面をよく知らない人にはかなり理解困難なんじゃなかろうか。

けれども、分かりやすいところで言えば、ニワトリを丈夫にするために、ヒナの段階で一回きちんと病気を経過させることとか、食欲増進のために一時期、餌をやらないこととか、 月の周期を利用したりとか、整体的な考えともかなり似通っている部分も多く、私にとっては大変魅力的なお話なのである。

今回もたいへんオモシロイお話を聞かせていただいたのだが、おもむろに高橋さんが

「あのね、『シュタイナーふりかけ』っていうの作ったんだよ。」

と、おっしゃる。

「シュ、シュタイナーふりかけ? なんですか、そりゃ?」

詳しい内容は企業秘密であるので、ここに書き記すわけにはいかないが、シュタイナーの理論から研究し、 独自の配合をしたそのふりかけを水で希釈して作物にふりかけると、すごい勢いでぐんぐん育つそうなのである。

それを使うとトマトも山ほど実るうえ大変甘くなるらしい。

「四十段実る」とおっしゃっていたが、トマトが「四十段実る」というのがどれくらいすごいことなのか、私にはよく分からない。

けれども、一緒に聞いていた農業を実践している後輩が、「えぇ〜?!」と驚いていたので、どうやらやっぱりすごいらしい(「とりあえずノッてみた」わけじゃないよね?Dくん)。

「飲めるよ。」とおっしゃるので(それがまたスゴイ)、ぺろっと舐めさせていただいたら意外と甘くておいしい。

作り方は詳しく知らないが、とにかくいろんなものが混ぜて発酵させてあると言う。

さすが発酵パワー。舐めた私もたわわに実っちゃうんだろうか?

農業をやってる後輩に「キミには、またウチに来たとき作り方を伝授してあげよう。」とおっしゃって、 惜しげもなくその研究成果を伝授してしまうそのホスピタリティーには、なんとも頭が下がる。

高橋さんの田んぼでは「紅カブトエビ農法」というのを実践されているのだが(右写真)、 前に高橋さんの農場に行ったときも、その田んぼに紅カブトエビを取りに来たという人に、「どうぞ、どうぞ。 どんどん持って行って下さい。あっちの方がよく捕れますよ。」と、捕獲ポイントからその生態まで惜しげもなく教えたりして、 そのときもそのホスピタリティーあふれる態度には驚いたものである。

(そういえば、むかし自分の立ち上げた会社も人にあげちゃった、とか言ってたような…。)


そんな感じでしばらく談笑しているとスタッフの人が来て

「そろそろ時間です〜。」

とお声がかかったので、「いってらっしゃ〜い!」とみんなで手を振ったら、 跳びあがって手を振ってくれた(さらにリクエストしてもう一回)。

う〜ん、ホントになんともホスピタリティーあふれる方である。


そのあとは私も時間が空いてしまったので、テントの売店で後輩たちの売り子さんのお手伝い(邪魔)をする。

おいしいお酒もいろいろ販売しており(酒屋さんなので)、どれも試飲できるようになっているので、 お客さんも飲み比べてみたりして和気あいあいである。

「寒いし、ちょっと暖まろうか。」

と、お手伝いしている後輩のWくんと一緒に試飲のお酒をカパカパ飲んでいたら、酒屋さんの奥さんに「減りが早いよ〜。」と怒られる。

ス、スイマセン。

でも、懐かしいなぁ、こんな雰囲気。大学時代の学祭の模擬店以来である。

たまにこんな縁日の出店をやるのもオモシロイ。

縁日は「ご縁のある日」と書く。

いろんな人とのご縁を心ゆくまで愉しんだ、とても愉快な一日であった。

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2006年01月21日

雪かき仕事のネットワーク

本日の東京は雪でございます。

一日中降っております。

(写真は世田谷。)

内田先生がよく、「誰かがやらなければならないこと」を雪かき仕事に喩えられますが、確かに誰かがやらねばなりません。

ですので、先ほど夜の10時半頃に帰ってまいりまして、玄関に荷物を下ろしてそのままおもむろにスコップを手に取り、 再び表へと飛び出し、ガリガリと30分ばかり雪かき仕事をしてまいりました。

ガリガリ。

誰かがやらねばならないと思ったのなら、まず私から始めたいものです。

思想とは手で考え、足で思うものでありたい。手考足思

思想即実践、実践即思想。

ガリガリ。

などと大層なことを口にしてしまった以上、私はますますスコップを持って外へ飛び出さなければなりません。

根っから不真面目で無精者の私は、自ら尻に火をつけてしまうくらいでちょうどよい。

ガリガリ。

このようにあまり人目に触れない仕事を黙々とするときには、ふと宮沢賢治の詩が口をついて出ます。

「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ…。」

一人仕事に宮沢賢治はよく似合う。

ガリガリ。


思えば今日私は、「どこかの誰かが雪かきしてくれた」おかげで、たいへん歩きやすくなっていた歩道を30分以上は歩いてまいりました。

ありがたいことです。

今日の東京はそのように、「どこかの誰かが歩くのに不便しないように」ガリガリと雪かきをなさった人たちが、大勢いたことでしょう。

今日一日、空を分厚く覆う雪雲の上から東京の街を見下ろしていたならば、 そのような人たちがガリガリと雪かきした道があちらこちらで結ばれて、壮大な「雪かき仕事のネットワーク」が 形成されていくさまを見ることができたことでしょう。

私もついででしたので先ほど、となりの家の前まで雪かきしまして、2件ばかりとなりの「どこかの誰かがしたであろう」 雪かきの道まで道をつなげてみました。祝開通!ワーイ。

ささやかながら、私もそのような「雪かき仕事のネットワーク」形成の一助を担うことができましたこと、たいへん嬉しく思います。

今日、東京中の道路を結んだ「雪かき仕事のネットワーク」は、多くの人のささやかな善意とちょっとの仕事というおもてなしによって結ばれております。

素敵なことです。


今日の記事が、なんだかくすぐったい口調であることに、特に意味はございません。

強いて言うならば、今日「雪かき仕事のネットワーク」に参加された大勢の方々に感謝の意を表して、といったところでしょうか。

けれども、やはりその理由も後付けですね。

というより、自分で書いててなんですが理由がよく分かりません。

次回はいつものデタラメ口調に戻っていることでしょう。

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2006年01月19日

手考足思

今日ネットをうろうろしていたら、柳宗悦がアメリカの詩人ウォルト(ウォルター)・ ホイットマンに影響を受けていたなんてことを初めて知った。

へぇ〜、そうだったんだ。

ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman、1819−1892)とはアメリカを代表する詩人であるが、その詩は人間の自由と宇宙の素晴らしさを讃える、 なんというか脈動あふれる素晴らしいもので、私の愛する詩人でもある。

ちなみに映画『今を生きる』(原題『Dead Poets Society』)の中で、ロビン・ ウィリアムス演じるキーティング先生が敬愛し、劇中でもその詩を生徒たちに高らかに謳い上げたりする詩人でもあるのだが、 この映画もまた名作である。(こういう役やらせたらロビンはピカイチですね。オススメ!)。


その柳宗悦、濱田庄司らとともに民藝運動に尽力を尽くし、東京駒場に「日本民藝館」を設立した河井寛次郎という陶芸家がいるのだが、 今日読んだ彼の言葉に深く感銘を受けたので、ちょっと紹介したい。


『手考足思』

私は木の中にゐる石の中にゐる 鉄や真鍮の中にもゐる
人の中にもゐる
一度も見た事のない私が沢山ゐる
始終こんな私は出してくれとせがむ
私はそれを掘り出し度い 出してやり度い
私は今自分で作らうが人が作らうが
そんな事はどうでもよい
新しからうが古からうが西で出来たものでも
東で出来たものでも そんな事はどうでもよい
すきなものの中には必ず私はゐる
私は習慣から身をねじる、未だ見ぬ私が見度いから

私は私を形でしやべる 土でしやべる 火でしやべる
木や石や鉄などでもしやべる
形はじつとしてゐる唄
飛んでゐながらじつとしてゐる鳥
さういふ私をしやべり度い
こんなおしやべりがあなたに通ずるならば
それはそのままあなたのものだ
その時私はあなたに私の席をゆづる
あなたの中の私 私の中のあなた

私はどんなものの中にもゐる
立ち止つてその声をきく
こんなものの中にもゐたのか
あんなものの中にもゐたのか

あなたは私のしたい事をしてくれた
あなたはあなたでありながら それでそのまま私であつた
あなたのこさへたものを
私がしたと言つたならあなたは怒るかも知れぬ
でも私のしたい事を
あなたではたされたのだから仕方がない

あなたは一体誰ですか
さういふ私も誰でしやう
道ですれちがったあなたと私

あれはあれで あれ
これはこれで これ
言葉なんかはしぼりかす

あれは何ですか あれはあれです あなたのあれです
あれはかうだと言つたなら
それは私のものであなたのものではなくなる

過去が咲いてゐる今
未来の蕾で一杯な今

(『六十年前の今』より)
河井寛次郎/ 棟方志功』(近代浪漫派文庫、新学社、2004)


う〜ん…、私から何も言うことはありません…。
(まさに『私のしたい事をあなたで はたされたのだから仕方がない。』)

【追補】スイマセン。上記の本は誤りです。「手考足思」は掲載されておりませんでした。今月出たばかりの『蝶が飛ぶ葉っぱが飛ぶ』(河井寛次郎、講談社文芸文庫、2006)に、読みやすい現代仮名使いで載っておりますので、そちらの方をご参照ください。

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2006年01月17日

ノーブラザールデイ!

昨日の記事を読んだ方から 「コリオリとかいうのはどうなったの?」と質問された。

「はい? もちろん続いておりますよ?」

と答えたのだが、どうやら私がコリオリとやらにもう飽きてしまって、別の興味にすっかり移ってしまったと思っていたらしい。

いやいや、とんでもございません。私の頭の中はあいかわらず右に左にぐるぐるしておりますですよ。

昨日書いたのは、植物のねじれというものを今までと違う角度から眺めてみたら、「こんなん出ましたけど〜。」というだけの話である。 (懐かしいな…)

別の角度から語っていたので、コリオリにはとくに触れなかったのであって、 桜のねじれとコリオリの関係については今現在も鋭意調査中でありますです。ハイ。

そうか、最後に「右巻きに見えるのは私たちの主観の問題だ」って書いたのが、そういうふうに思われてしまったのかな?

なるほど、それはですね、プロペラが高速で回っているとき、あるときを境に逆回転しはじめるかのように見えることがありますね。

そんな感じで、右巻きに見えるからといって、右巻きに生長しているとは限らないかもしれないね、ということが言いたかっただけである。

まぁ、ようはただのアマノジャクな私の語り口であるので、お気になさらず。

誤解を招くような書き方をしてスイマセン。


今日は横浜の方で、精神病の人たちのボディワークの日。

「からだの時間」と称して、軽くからだを動かしたり、おたがいからだを触りあったりするのであるが、今日は参加者が全部で10人。

8畳で10人はちょっと狭いが、なんとか座ってみたり寝転んでみたりしながら、おたがいからだをゆるめあう。

みなさん、気持ちよさそうに恍惚の表情をしていらっしゃる。

終わってみんなでお茶を飲んでいたら、どうやら今日のワークはとても気持ちよかったようで、「先生に触ってほしい。」 とみなさんやってきて、なんと私に触られるのを順番待ちしはじめる。

まるで新興宗教の教祖のようである。

そうして次から次へとやってくる、みなさんのからだをゆるめていたのであるが、ふと、あることを思い出した。

「そういえば昔、マザーテレサの施設で、似たようなことがあったなぁ…。」


私がインドへ行ったのは、大学時代の頃の話である。

教育に興味のあるサークルの仲間と4人で、「インドの学校を見て回る」という目的でインドを2ヶ月間のあいだ、あちこち回った。

その頃はマザーもまだご存命であったのだが、私たちがカルカッタ(現コルカタ)に行った時、マザーは体調を崩して入院中であったので、 早朝のミサにも参加したけれども、残念ながらお姿を拝見することはできなかった。

私たちは、老人たちの施設や、子どもたちの施設を訪ね、勝手にボランティアしていたのであるが(ホントは登録しなくちゃいけない)、 ある日、老人たちの施設に行ったら、ボランティアの若者たちが一人もいない。

男は私一人であったので、他のメンバーとは別れて行動していたので、私の周りはインド人のおじいちゃんだらけである。

私がたった一人でぽつんと立っていると、おじいちゃんたちがワラワラと私の周りに集まってきて「ノーブラザールデイ!」 と口々につぶやく。

(インド英語はRの音を発音するので「BROTHER」を「ブラザール」と発音する。)

どうやらその日はボランティアは休みの日だったらしく、それで誰もいなかったようなのである。

けれども、おじいちゃんたちはそんなことはお構いなしに、たった一人ワケも分からず紛れ込んでしまった日本のアンちゃんに対して、 口々に「ブラザール!ブラザール!」と声をかけ、おもむろに背中を向けて座り込み、背中をぱしぱし叩いて「マッサージしろ。」とせがむ。

しかたがないので、よく分からないままおじいちゃんの背中をマッサージしはじめたら、次から次へと並び始め、 私の前にはおじいちゃんたちが10人以上もずらっと並んでしまったのである。

ひえ〜!

その頃マッサージなんてほとんどしたことの無かった私は、2、3人マッサージした時点ですでに腕がくたびれ果ててしまったが、 ずらっと私にマッサージされるのを待っている眼光鋭いインド人のおじいちゃんたちに微笑まれて(睨まれてるように感じる)しまっては、 続けるしかない。

ほとんど泣きそうになりながらマッサージをしつづけていたが、やがてお昼の時間になったらしく、みんなぞろぞろと移動し始めたので、 「しめた!」と思い「フィニッシュ!フィニッシュ!」と叫んで、強引に終わらせてしまった。

すると、おじいちゃんたちが私の腕を引き、「一緒に食え」とボディランゲージで表現するので、「オーケー、オーケー。」と付いていく。

何百人も座れる大食堂に、インド人のおじいちゃんたちがぎっしり座ってカレー(ダールだったかな? )を手でこねくり回しながら食べている中、私もぽつんとそのあいだに座って、一緒にカレーを手でこねくり回しながらもぐもぐと食べる。

「アチャカナ、アチャカナ(おいしい)。」と連発しながら、おじいちゃんたちと和気あいあいカレーを食べていたら、 お代わり当番のシスターがやってきて、私を見て口を開けて唖然とする。

「アチャカナ!」と笑顔で返したら、苦笑いをしながら私の皿にお代わりをよそってくれた。

「テンキュー、シスタール!」

(あとで聞いて知ったのだが、ブラザールはご飯食べちゃいけなかったらしい。)

「ノーブラザールデイ」だったからこそ、そのような不躾も許されたのかもしれないが、なんとも貴重なマザーの施設での体験であった。


…と、まあ精神病のみなさんのからだを触りながら、そんなことを思い出してしまったのである。

なんだか、たいへん懐かしくなってちょっぴりセンチメンタルになってしまったボディワークであった。

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2006年01月16日

右ねじれのフィボナッチ

はてさて、「右ねじれの桜たち」 シリーズも、みなさんのフォローアップを受けて3回転も跳んでしまったが、今回はちょっと番外編である。

今書いているこの冒頭の文章、記事を全部書き終えて最後に書いているのだけれど、 しかし我ながら今回もなんだかとんでもない結末になってしまった。

どんな事態になってしまったのかは、読んでみてのお愉しみ。


ブリスベン暮らし。 』のKYOさんが調べてきてくださった情報によると、南半球の桜はもしかしたら左巻きになっているかもしれない、 ということであったが、そもそも植物はなぜねじれているのだろう?

私は気になって樹になって仕方が無くなってしまったので、ちょっと調べてみることにした。

そうしていろいろ調べてみて分かったのだが、植物のねじれ(回旋)運動については、 けっこう多くの方たちが調べていらっしゃるようである。

それもダーウィンとかゲーテとかかなり有名どころだったりする。

自然科学者としても非常に優れていたゲーテは(あまり知られていないが)、彼の長年の観察と卓越した洞察力でもって、 「生命の本質はらせんにある。」ということを確信をもって述べていたそうであるが、DNAの二重らせん構造が発見されたのは、 そのはるか100年以上後のことである(さすが!)。

なぜ植物がねじれているのかということに関しては、調べてみても諸説さまざまで結論は出てはいないようであるが(そりゃそうか)、 ねじれがどういう現象であるのか、あるいはどのようにねじれているのか、という現象面を扱った研究は数も多く、 ずいぶん細かく分析されているようである。

そこで私は、諸説の中から「どのようにしてねじれるのか?」、そして「どのようにねじれているのか?」ということを、 私なりの考えを軽くまとめて紹介させていただこうと思う。

けれども、なにぶんしゃべりだすとあちらこちらへと暴走してしまう私のことなので、縦横無尽(支離滅裂? )の論理展開となるであろうことは必至であるので、そのあたりはあらかじめご了承いただきたい。


それではまず、「どのようにしてねじれるのか?」ということについて書き出してみよう。

いきなり結論を申し上げてしまうが、これは私は、ダーウィンが著書『植物の運動力』(C.ダーウィン、森北出版、1987)で示した「植物の(探りの)運動」によって生まれてくる、 というのが妥当なような気がする。

つまり、植物が「どっちに生長して行こうかな?」と頭をアッチへ振ったりコッチヘ振ったりしてぐるぐる回る中で、 その運動が痕跡としてカタチとなって残っていくのではないだろうか? ということである。

みなさんもテレビか何かで、 一週間くらいかけて植物の芽がにょきにょきと伸びていく様を30秒くらいに縮めた映像をご覧になったことは無いだろうか?

あの映像を観ると、私たちには止まって見える植物がまるでミミズか何かのようにのたうち回っていることに驚いてしまうが、 植物たちは私たちの知らない時間の流れの中で元気に活動しているのである。

ダーウィンは私たちの時代よりはるか昔に、何十種以上の植物を観察した結果、そのように芽も茎も葉っぱもどの部分も「回っている」 ことを突き止めた。

ただし、これは「ねじれのカタチ」ではなく「回りの運動」である。

植物はぐるぐる回っている。

植物はぐるぐる回る中で、生長するのに最も好ましい方向を空中に探っている。

それは「光の差し具合」や「風の通り具合」や「他の植物との距離」やら、さまざまな要因の重ね合わせの中から探られるものであって、 ほとんど、植物の意志(というものがあるとすれば)というよりむしろ、環境が植物にそうさせていると言ってもいいくらいである。

つまり、伸びるべき方向はすでに環境に潜在しており、植物はそれをぐるぐる回りながら発見しているのである。

それはこの前書いた打検士の 「叩き」の探りにも似ている。

と、こんなところで、この前私がブログに書いたこととの「結び目」が見つかってしまったが、そちらの方へ行ってしまうと、 これまた収拾がつかなくなってしまうので、ここではとりあえず置いておく(うぅ、そっちの道もオモシロそう…)。

とりあえず、「生長するべき方向を探る植物の運動が、ねじれの痕跡を残し、それがカタチとなって表われる」というのが、 ここでの仮説であるが、それでは次に「どのようにねじれているのか?」という現象面について触れてみることにしよう。


「葉序」というものがある。

どういうものであるかというと、読んで字のごとく「葉の出る順序」のことである。

葉序は植物の種類によるのはもちろん、植物の部分や発生の段階によってもさまざまであるのだが、葉序には「輪生」「縦生」「斜生」 という3つの様式がある。

そのうち、ここではねじれの運動とかかわりの深い「斜生」について考察してみる。

(正確に言うと、桜のような幹のねじれと、葉の付き方では対比することはできないが、 いちおう植物に現われるねじれのカタチということで、なにか共通点のようなものが探れればと思う。)

「斜生」というのは斜めに葉がついていくタイプのことを指すのであるが、当然そのように葉がついていけば、私たちが見たときにそこに 「ねじれのカタチ」が観察される。

ある葉からはじまって葉を下から上にたどっていき、最初の葉の真上にきた葉が何回、茎を回ってきたかで写生葉序の型が決まるのだが、 その型は分数の形で表わすのが習わしである。

最初の葉から数えて、2枚目で1周して最初の葉の真上にきたならば、それは1/ 2という分数で表わされる。

3枚目で1周して最初の葉の真上にきたならば、1/3と表わされる。
5枚目で2周して最初の葉の真上にきたならば、2/5と表わされる。

という感じで、斜生葉序のタイプでもいくつかのパターンに分類できるのだが、それらをとりあえず並べてみると、

1/2、 1/3、 2/5、 3/8、 5/13、 8/21、 13/34、 ……となる。

こうして並べてみると、これらがある法則(級数関係)にしたがっていることに気づく。

つまり、分母は分母、分子は分子で前の2つの数字を足した数字になっているのである。

1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144、……。
(1+1=2、 1+2=3、 2+3=5、 3+5=8、 5+8=13、 8+13=21、 ……。)

じつはこのような数列をフィボナッチ数列と言い、自然界のあらゆるところに見られる神秘の数列なのである。

この数列の隣り合う2つの数字の比の近似値を調べてみると1:1.168…(無限数)となるのだが、この数比こそかの有名な「黄金比」 であり、さまざまな美術品の中にも見られる数比なのである。

おおっ!なんと!またまたこんなところで私のブログと結び目が出てきてしまった!

前にもチョロンと書いたが実はこのブログ、 文字の高さと文字のあいだが1:1.168の黄金比となっているのである。

「だから?」と言われても困る。なんとなくやってみただけである。

その結び目から展開していくのもオモシロそうだけれど、やはり、そちらの方へ行ってしまうと、 これまた収拾がつかなくなってしまうので、ここではとりあえず置いておく(うぅ、そっちの道も…略)。


この黄金比、ヒマワリや、マツカサや、孔雀の羽など自然界のあらゆるところで見られるのであるが、 たとえば、マツカサを見てみると、りんぺんは葉序の法則にしたがって順序よく出てくるのだが、 よく見てみるとりんぺんの葉序のライン以外にも斜めに走るラインがあることに気づく(右図のライン)。

これはりんぺんの出てくる葉序とは別物であり、種子が葉序にしたがって出てくるうちに、 おぼろげながら現われてくる隠されたラインであり、このラインを斜列線と呼ぶ。

この斜列線、たとえば5/13の葉序の型をもつ植物であれば、右(左)巻きに5本、 左(右)巻きに8本という感じで、必ず5:8の関係で現われるのである(8/21の葉序であれば8:13の関係、13/ 34の葉序であれば13:21の関係)。

つまり、この斜列線もまた黄金比によって構成されていることになる。


疑り深い私はホントにそうなっているのか、さっそくヒマワリで調べてみようと思い、 ヒマワリの写真のらせんを一生懸命数えてみることにした。

そうしたら、内に向かって右巻きのラインが55本、左巻きのラインが34本あり、 見事に理論どおりの数字が出てきて、我ながらちょっと感動してしまった(ふぅ、疲れた)。

先程の法則で言えば、斜生線が右巻きに55本、左巻きに34本だとすると、このヒマワリは34/ 89という葉序を持っていることになる。

つまり、このヒマワリは葉っぱを数えながら茎の周りを34回転して89枚目の葉っぱでようやく最初の葉っぱの真上に付いている、 ということが予想できる。

けれども、実際には「89枚の葉っぱによって34回転するらせんのライン」というものをヒマワリの中に観察するなんてことは、 私たちにはとてもできないだろう。

ヒマワリの実物を見ても、そこにそんな長大な「らせんの法則」を見つけることなんて、 とうてい不可能である(だいたい89枚も葉っぱは付いてない)。

もし、他の植物も同じようなことが起きているとすると、一見ねじれていないように見える植物たちも、 そのねじれがあまりに緩やかすぎるがゆえに観察できない、という可能性も出てくる。

もしかして、まっすぐに伸びている植物もものすごい縦に縮めて観察してみると、 そこに右巻きのねじれも左巻きのねじれも観察することができるのかもしれない。

…って、あれ? でもそうすると、たとえ葉が出る順序が右巻きだったとしても、線の引き方によって右巻きにも結べるし、 左巻きにも結べるってこと?

ってことは、右巻きに見える植物は、「私たちがそこに右巻きのラインを見ているから」という主観の問題になっちゃったりして?

あらら? これまた藪をつついて蛇が出てきてしまった。

なんてこった!


さぁ、ますますややこしいことになってきてしまいました。(ワクワク。)

果たして私はこの事態にいったいどう収拾つけるのでしょうか?

私にもさっぱり予想がつきません。

本人も困惑している様子ですので、皆様にはどうぞ生暖かい目で見守っていただきたいものです。

てゆうか、誰かヘルプミー!

posted by RYO at 23:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月14日

残された手紙

よくコメントを下さるukiki01さんのブログにオモシロイ記事が出ている。

図書館で借りた本にメモが挟まっており、そこには次のように書かれていたそうである。

面接が終わったら、
コーヒーでも、御一緒に。
経済学部の先程の場所で
待っています。よろしければ。

おー、なんだかいろんなことを妄想してしまうメッセージですね、これは。

文章がきわめて短いにもかかわらず、メッセージが誰にでもすぐ分かるくらいはっきりとしており、さらに「面接」や「経済学部」 といった状況を限定するキーワードがさりげなくちりばめられていることで、 第三者がその後の物語を思わず想像してしまうことを、あきらかに誘っております(ってそんなつもりはないか)。

しかも、それが図書館の本に挟まっていて誰の目に止まるか(あるいは誰の目にも止まらない)、まったくの未知であるという、 まるでドラマになりそうなそのシチュエーションもなかなかおいしく、それらも含めてとにかく最高のメッセージである。

これだけで私は、ご飯を軽くどんぶり3杯はいける。

ukiki01さんが借りたこの本は、私がこのあいだ触れた 『知性はどこに生まれるか』という佐々木先生の本であるそうだけれど、その本に絡めて言えば、

「図書館で借りた本に挟まっていたメッセージは、その後の二人の物語を妄想することをアフォードする。」

といったところであろうか。


けれども、この手の妄想はホントにオモシロイ。ワクワク。

ukiki01さんのブログにコメント書き込んだにもかかわらず、筆(キーボード? )が止まらず自分のブログでもこうして書いているくらいである。

じつは、ukiki01さんのブログに最初書き込もうとしていたコメントは、書き込んだものよりもっとはるかに長かったのであるが、

「エラー! 文章長すぎ! 短くまとめて出直してこい!」

みたいなメッセージが出て、削っても削っても散々断られてしまったのである(ukiki01さんごめんなさい)。

ひとたび書き(しゃべり)始めると、手も口もすべりまくってとどまることを知らない私には、なかなか酷な注文であるが、 そのような者のためにこそ制限が設定されているのであるから、いたしかたない。


とりあえず、この文章、いろいろな妄想を湧き起こしてくれたが、まず気になるのは「この二人の関係はどんな関係であるのか?」 というところである。

「書き手は教授」説というのが浮上しているが(書き手が教授だとすると、受け取り手はゼミ生か助手あたりか)、 これはなかなかイイ線をいっていると私も思う。

というより、そうだとするととっても愉しい。

私の場合、その説に賛同する一番の理由には「そうだったらオモシロイなぁ。」という私の欲望が絡んでいるのであるけれど、 なぜ人はこうも「乗り越えがたい差異を乗り越えようとする物語」を欲望してしまうのだろうか?

教授と助手、あるいはゼミ生のあいだに芽生える、師弟関係以上の関係…。

ワー!(恥ずかしい。)

「おぉロミオ!あなたはなぜロミオなの?」

とあのシェイクスピアもジュリエットにもだえさせているではないか。

きっと誰もが似たような欲望は持っているはず(でしょでしょ?)。


よくドラマや漫画で「キミのことなら何でも分かるよ。」などというセリフで女性を口説く男性と、それにクラッとくる女性が出てきたりするが、 その言葉が女性をバカにしている言葉であるということには男も女も気づかないのだろうか?

「キミのことなら何でも分かるよ。」というセリフは、言い換えれば「キミって分かりやすいよね。」と言っているのと同じことである。

私があえて言うまでも無いことかもしれないけれど、女性陣はこのような男は決して相手にしてはいけない。

これはひがみなどではなく、忠告として申し上げているのである。

それは先のセリフが、「あなたのことを見下している」ということの表れだからである。

「分からないものを分かろうとする(けど分からない)。」
「食べたいものを食べようとする(けど食べられない)。」
「欲しいものを手に入れようとする(けど手に入らない)。」

そういうシチュエーションこそ、欲望が欲望たる所以であるのであって、「キミのことなら何でも分かるよ。」と言っている者の欲望は、あなたを正視していない。

…とまた、気がつけば話が脱線している。

残念ながら私のコメントを拒否するlivedoor blogは正しい。


この二人の関係は想像すると他にもいろいろ考えられるが、この文章そのものにも注目するとまた、なかなかオモシロイ。

私がとくに気になるのが最後の『よろしければ。』の一言である。

ukiki01さんやコメントを寄せているtomoayaさんも注目しているが、文脈上、この一語だけが浮いている。無くても、 伝えるべきメッセージを損なわない。

この文章、最後に『よろしければ。』という一言が添えてあることで、きわめて謙虚な印象を受けるが、よくよく読んでみると、 その直前には『先程の場所で待っています。』と相手の有無を言わさない断定があり、書き手の確固たる意志の強さが表れている。

「あなたが来ようと来まいと私は待つ!」という意思表示である。

これほどまでに押しの強い言葉を書いていながら、それほど強引な感じがしないのは、最後に添えられた『よろしければ。』の一言の効果である。

最後に謙虚な言葉でしめくくることで、押しの強さをうまく当たりの弱いものにして受け入れやすくしている。

もし心優しい人であればこんなこと言われたら、

「どうしよう。私が行かないとずっと待っているのかな? 私のせいで待たせるのも悪いな。行って断るだけ断ろうか。 でもそれだけ言って帰るのも失礼かな。やっぱり一杯くらいは…。」

などと思いあぐねて、でも、とりあえずはその場所へ行ってみるのではなかろうか。

(もちろん、クシャクシャにしてさっさと捨てるというツワモノもいるであろうが。)

でもその場合、「とりあえずその場に行ってしまった」という時点で、書き手からすると見事、誘い出すことに成功していることになる。

この文章の最後の一言、「思いのまま書き記したら、あんまり強引な感じだったので最後に一言付け足した」 という可能性も大いにあるけれど、もし、これが狙ってやっているのであれば、書き手はかなりの「手錬れ」であると思われる。

その場合ノコノコと行ってしまった人間は、先手を取られている上に油断しているので、 そのまま相手の術中に絡めとられてしまう可能性がきわめて高い。

あやうし!

果たしてその後、この二人はどうなったのか?

経済学部の「先程の場所」へと向かった、人の良い彼女(彼であるかも)を待ち受ける運命は?!

それはメッセージが挟まった本だけが知っている…。

posted by RYO at 22:01| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月13日

右ねじれの桜たち<3回転>

ブリスベン在住の特派員、KYOさんから『南半球の桜の樹ははたして左にねじれているのか?!』プロジェクトの第二次経過報告が上がってまいりました。

【桜のねじれについての過去記事】
 12月01日『右ねじれの桜たち
 12月13日『右ねじれの桜たち<2回転>
 12月15日『右ねじれの桜たち<2回転半>
 12月16日『「右・左」 問題について

なんと、今回は南半球の桜のねじれ方を調査するために、わざわざ桜のある植物園まで足を伸ばしていただいたそうです。

タンボリン・マウンテンとやらは遠かったんではないでしょうか? 「ホンの20km」というあたりに距離感の違いを感じますけども。

大御足(おみあし)が「骨折した上に指を捻挫する」という、大変チャレンジドな状態にもかかわらず、 そんなに伸ばしていただいてホントに頭が上がりません。

感謝感謝。

それではさっそくですが、いったい南半球の桜はどちら向きにねじれていたのか、報告を拝見させていただくことにしましょう。

(以下、ブログ『ブリスベン暮らし。』 より抜粋ところどころ)

前回の記事へのコメントで、イプスウィッチにお住まいのtsukiさんに、 ブリスベンに比較的近いところに植わっている桜の木はココ!という情報を教えていただきました(tsukiさん、 ありがとうございました!)
そのうちのひとつ、タンボリン・マウンテンのボタニックガーデンに早速調査に行ってまいりましたー!!
…中略…
マウント・タンボリンの植物園は、想像以上に広かったです。
実は私、骨折が直ったばかりの足の指を捻挫するという悲しい事態に陥ってまして、だだっ広い植物園の中を歩くのはちょっと大変でした・・ ・

うぅ、ありがとうございます…(泣)。涙で文字がかすんで読めません。あ、モニターが汚れてた。

しかし、目指す桜並木への看板を発見し、元気ふっかーつ!
いざ行かん>cherry blossom walkへ!!
・・・などと話を引っ張っておいてアレなんですが、「桜並木」を訪ねておきながら なかなか記事にまとめる気になれなかったのは・・・
・・・こんな桜だったからです・・・
【桜の写真】
(ご覧になりたい方はKYOさんのブログへどうぞ。 RYO註)

お? …カ、カワイイcherry blossomですねぇ。しかも下半分は接木ですか?  ソメイヨシノはバラ科ですからバラの種類の木なんでしょうねぇ、きっと…

…って、小っちゃ!

まっすぐ伸びている桜の木というのも初めて見たので、なんだか違和感がありますけど、まぁ、たしかに桜の樹には間違いないですね。

そのわずかでも桜の幹のある部分をいちおう調べていただいたそうで、いったいどのようになっているんでしょう?

さて、Tamborine Mountain Botanic Gardensの桜のねじりはどっちむきだったでしょう?
ドコドコドコ・・・(太鼓の音)
【桜の写真】
(ご覧になりたい方はKYOさんのブログへどうぞ。 RYO註)
おわかりになりますでしょうか?
・・・なんと!
見事に日本の桜と逆ねじれの『左まき』でした!!!!

おぉ? なんと! 確かによーく見てみると若干「左巻き」になっていますね。

これはまた驚きの報告!

KYOさんによると、ほとんどねじれていない桜ばかりだったと言うことですが、かなり微妙なねじれとはいえ、 もし北半球と南半球でねじれが変わるという現象が起きているのだとすれば、これはすごいことですね。う〜む。

自分が言い出した事ながら、ホントに植物の生長にコリオリの力が影響をおよぼしていたりするなんてことがあるんでしょうか?

私もあれ以降いろいろ調べてみたのですが、植物のねじれ方には、種類によって「右巻き」「左巻き」が決定しているもの、 種類内でも個別に変わるもの、単体でも両方のねじれを示すもの、といろいろあってかなり複雑なようなんですよね。

ですから「コリオリの働き」説にはちょっと期待が薄れていたんですが、また新たな観察結果が見られたことで、 再び期待が湧いてまいりました。

とりあえずは、植物のねじれについてしばらく調べていたことを、 私も近いうちにアップしてみたいと思います(なんとあのダーウィンも植物のねじれ運動について調べていたそうです)。

だけど、私が散歩中にふと気づいて「なんだろうなぁ」と何気なく気になったことが、 まさかこんな形でさまざまな人との関わりを生み出したり、さらに新しい疑問を生み出したりするようなことになるとは、 まったく思いもしませんでした。

不思議だなぁ。こういうご縁って…。

でもまだまだ拡がっていきそうな気がします。

(→「右ねじれのフィボナッチ」へ)

posted by RYO at 23:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月10日

打検士、波に乗る

「打検士」という職業がある。

缶詰を「打検棒」と呼ばれる金属製の棒で叩いて、その音を聞き分けて異常品を選別するという、「人間非破壊検査機」 とでも言えるような技術職である。

知性はどこに生まれるか』(佐々木正人、講談社現代新書、1996)を読んでいたら、その打検士についての話が出ていた。

『缶詰輸入の倉庫で働く「打検士」という職業がある。打検士は金属製の「打検棒」 で、1日10万缶もの缶詰をたたき、「不良缶」を識別している。缶に表示されている重量よりも数パーセント軽い、あるいは重い、「軽量」 や「過量」、内容物が腐敗しはじめているかどうか(腐ってしまったものはふくらんでいて容易に発見できる)、中身が分離している 「身くずれ」など、「不良」は十数種に及ぶ。打検士は多種の大量の缶をただたたき、「不良缶」の情報をつくり出し知覚する。 熟練が進むほど打検士のたてる音は聴きわけやすくなる。彼らは自分の職業を、「音を聴く仕事ではなく、音をたてる仕事」だと表現する。 彼らは缶の内側の状態を特定する情報としての振動をつくり出す職人である。』(同著、p78)

打検士という職業は、前にテレビで見たことがあってその存在だけは知っていた。

そのとき見た番組では、いろんなものが入っているラベルの貼っていない缶を10個くらい並べてどれに何が入っているか当てる、 というゲームを打検士の人にやってもらっていたが、「ブラックコーヒー」と「ミルクの入ったコーヒー」 なんていうものまでずばり言い当てていて、その熟練のワザには感嘆したものである。

その彼らが自分たちの仕事を「音を聴く仕事ではなく、音をたてる仕事」だと表現しているというのを読んで、私は目からうろこが落ちた。

なるほど! そうだったのか。

たいていの人は、「物を叩いて確かめる」と言われれば、その微妙な音の違いを聴き分けるために、 全神経を耳(聴覚)に集中させるだろう。

たしかに金属同士がぶつかり合う音の中から、「有意な差異」(音が鈍いとか響きが悪いとか)を聴き分けることのできる繊細な聴覚も、 打検士には必要なことであるし大切なことである。

がしかし、缶の中身がわずかに軽いか重いか、あるいはくずれているかどうか、というような微細な情報を、「叩く」 というきわめてシンプルな方法で見極めるためには、そのような「有意な差異」を、よりはっきりと際立たせる「叩き」 のワザを身に付けるということも、またきわめて重要なことなのである。

普通は忘れてしまいがちなそのようなことを伝えたいがために、先人たちは自分たちの仕事を「音を聴く仕事ではなく、音をたてる仕事」 である、と表現するのかもしれない。


では、そのような「叩き」のワザはどのようにして修得されるのだろう?

私はあいにく打検士の知り合いがいないので想像するしかないのだけれども、おそらく

「力んじゃダメだって。 耳で聴くんじゃなくて、叩いてる手で聴くんだよ。」

というような、あるいはそれに似たような「教え」が、先輩から後輩へと受け継がれていっているのではなかろうかと思う。

そのモノの有意な情報を導き出す「叩き」は決して、「私」の中には無い。
そのモノの有意な情報を導き出す「叩き」はすでに、そのモノの中に存在している。

「私」はその「叩き」を、そのモノを叩く中で探し出し、「発見する」のである。

すでにそのモノが持っている「叩き」と出会うために、打検士はまるでそうすることが「聴(訊)くこと」であるかのように、 繊細に叩く。

異常の種類が変われば探るべき「叩き」も変わるし、探るべき「叩き」が変われば「叩き」方も変わる。

探るべき「叩き」そのものが千差万別であり、そのつど異なる「叩き」方の微細な調整を行なうのもまた、彼らのワザなのである。

それはカウンセリングの際にカウンセラーが、もっとも本質的で的確な「するべき質問」(「答え」ではない)を導き出すために、 さまざまな角度からの会話の中から、クライアントの「声」の微妙な変化を聴きとるのにも似ている。

その出会うべき「叩き(質問)」は、すでに相手の中に情報として存在している。

打検士のすることは、いわばそれにチューニングを合わせる(シンクロする)ことだけなのである。

そのモノに含まれている「叩き」を発見した時点で、もうすでに彼らの仕事はほとんど終わっていると言ってもいいだろう。

彼らは耳で聴いているのではなく、指で聴いているのである。


でも考えてみると、ここで奇妙なことが起きている。

まだ知らぬ未知の情報を含んだ「叩き」を発見するための「探り」の「叩き」が、すでに探すべき「叩き」 によって規定されているのである。

佐々木先生は先ほどの本の中でこのように述べている。

『動物の行為は情報を発見する途上にありながら、情報について予期的に知っている。 行為は探索を開始したときから、それが探していることについて十分ではないにしても知っているようにふるまう。 あることを知るために開始された行為は、その行為が未来にもっと深く知ることになることによってその動きをつくられている。』(同著、 p119)

そのようなことを考えると、まるで「行為」そのものが「行為の結果」に要請されて起動するかのようにも思えてくる。

「やっぱりね!」
「なんとなく『これかな?』と思って。」
「そうそう、これがやりたかったんだよ。」
「この人よ! 私の運命の人は!」

以上のセリフはすべて、私たちがそのような「行為」におよび、その「結果」と出会った瞬間に思わず発する言葉である。

私はそのような「行為」と、そのような「行為」をワザ化している人間を称して、「波に乗ってる」と表現する。

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2006年01月08日

ヌカドコと。

ホーローのふたをそっと開いて、愛しのヌカドコの様子をふと覗いてみる。

う〜ん、どうもイマイチ元気のない様子。

今年の暦によると、もうすでに「寒の入り」しているのであるが(5日が小寒)、気温の上ではすでに「大寒」以上(以下?)らしい。

まぁ言われてみれば、確かに寒い。朝、原付に乗ると顔が冷たすぎてイタイくらいだ(血管切れそう)。

この寒さには、愛しのヌカドコもほとんど冬眠状態。

ヌカドコをかき回すにも、手を突っ込むのに思わず躊躇してしまうが、思い切って突っ込んでみれば、あまりの冷たさに思わず吠える。

「ウキ〜! しかも擦りむいたところに塩がしみる〜!」

けれども、カワイイ我が子を手袋して触るような真似は、私はしたくない。

なので給湯器から出てくるお湯で手を暖め暖め、優しくかき回す。

くぅ〜、いろんなモノが身にしみるなぁ〜。


「寒仕込み」というのは、たいていどんな発酵食品でもたいへん美味しく仕上がるものである。

微生物というのは、ある程度の温度があったほうが繁殖しやすいのだが、あまりにも早く繁殖しすぎてしまうと、 これまたあんまり具合がよろしくない。

微生物が活動できるギリギリの環境をキープしつつじっくり育てると、彼らもたいへん「いい仕事」をしてくれる。  もちろん作り手としては、微生物たちを元気に繁殖させたいのだけれど、それを一つ抑えるようにしながら、 ゆっくりじっくり育てていくのである。

そうすると、たいへん丈夫で元気な微生物たちが育ち、その彼らが絶妙な発酵の仕事をして、絶品の発酵食を作りあげてくれるのである。

(それは子どもの教育でも一緒かもしれない。何かを「育てる」ということは、いかに「適切な抵抗を与えるか」 ということに尽きる。)


とは言ったものの、しばらくぶりに復活したばかりの私のヌカドコにはまだリハビリ期間が必要なようで、 どうやらこの寒さはちょっと厳しすぎるようである。

この前、炒りぬかを1kgばかり塩やらカラシやら鷹の爪やらと一緒に足したばかりだしなぁ。

しょうがない。暖気(だき)でも入れてやるか。

暖気(だき)というのは何かというと、日本酒を仕込む際に、仕込みの最初の頃に、中にお湯をいれた樽を仕込みタンクの中にいれ、 温度を上げて微生物を活性化させ発酵を促すという「てこ入れ」のことである。

私も自分でどぶろくを作るときには、トックリに熱めのお湯を入れくるくるとかき回したりして「暖気入れ」するのだけれど、 ヌカドコでやるのは初めてである。

ヌカドコの真ん中に穴を掘り、中にお湯を入れたコップを埋めて「元気出せよ〜。」と声をかけてみる。

するとちょうどそのとき、後ろにあった冷蔵庫がブ〜ンと唸りだした。

「おっと、元気だな。でも、オマエに言ったんじゃないし。」と、振り向きざま、とりあえず冷蔵庫にツッコんでみる。

あ、そういえばついこのあいだ、冷凍庫にへばりついた5年分の霜取りをしたばかりだった(5センチくらいの厚さになってて、 ウォッカが半分埋もれていた)。

そうかそうか、それで返事したのか。カワイイやつめ。

よしよし、そうだな、オマエも元気だ。 ビールきちんと冷やしておいてくれよ。

(と、レスポンスを返してくれた冷蔵庫にもいちおう気をかけておく。)


そうして「暖気入れ」をしてヌカドコを元気づけてやり、ちょっと暖かいところに移してやる。

(そういえば「暖めた宝くじ」 は4等(1万円)が当たっていた。小額とはいえ見事「当たった」。ワーイ。)

風水では、「大寒に産まれたタマゴを食べると運気が上昇する」そうである。

大寒というのは暦上、一年でもっとも寒い日であり、そこからは気温が徐々に上がるという境目の日であるので、 そのもっとも寒い日に産まれたモノを食べることが、運気の上昇につながるということらしい。

だったら、ぬか漬けだって一緒だ(ってよく分からないけど)。

大寒(20日)を迎える頃までには元気に育ってくれるだろうか。

「大寒漬け」食べたいなぁ。

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2006年01月05日

ボケとツッコミのあいだ

忘年会などで久しぶりに中学時代の仲間と集まって飲んだりすると、基本的に悪ガキどもの集まりのようなものなので、気持ちも若返って、 くだらない話で盛り上がったりするものである。

このあいだの忘年会も、中学時代の部活仲間と集まって飲んだときは、 とてもここでは書けないようなお下品な話でゲラゲラと盛り上がった。

「朱に交われば赤くなる」もので、日頃、品行方正(?)なこの私も、(元)悪ガキどもの影響で、 お下品な会話についつい加わっていってしまった。

(というよりむしろ率先して入っていったという噂も…。)

けれどもそんな、女性陣が聞いていれば「コイツら、馬鹿じゃないの?」と鼻で笑われてしまいそうなくだらない話をしている中で、 ふと気づいたことがあった。

(そのような馬鹿話から「素晴らしい教え」を引き出してしまうのは、私の得意とするところである。)


それは何かというと、もし普通に聞かされたとしたら別におかしくも何ともないような話でも、 メタファー(隠喩)でもって語られると大爆笑となってしまう、ということである。

ある事柄をそのまんま露骨にしゃべるのではなく、何かに喩えてしゃべるとそれが大変おかしみを放つのである。

(そのときの大爆笑の具体例をここではとても挙げられないのが残念である。)

それはおそらく「語られた言葉」と「込められた意味」のあいだに「意味の跳躍」があるからではないだろうかと思う。

そのような「語られた言葉」はそれだけを聞くと、たいした意味のないただの言葉であるのだが、前後の文脈を含めて考えてみると、 にわかに別の意味が浮かび上がってくるようなそんな言葉なのである。

その「語られた言葉」と「込められた意味」のあいだの空隙を架橋するのは、聴き手の仕事である。

つまり、その場合の「言葉」と「意味」のあいだには「遊び(Space)」があり、その「遊び」を聴き手の空想によって架橋するいう「遊び(Play)」でもあるのである(ややこしいな)。

そんな「遊び」に興じていると、やがて「言葉に含まれるメタメッセージをいち早く読み込み、他の人より先んじて笑う」 というある種のゲーム(競争)の様相を呈してくる。

他の人より先んじてメタメッセージを読み込んで、その「含み」にゲラゲラと笑いながら、まだよく分からずにポカンとしている人間を 「コイツ、まだ分かってねぇよ。」とまた笑うのである。

(書いてて思ったけどけっこう悪趣味だな…。まぁ「悪ガキ」同士だからいいか。)

考えてみると、その飲み会の会場は焼肉屋さんであったので、まだ「食えない生肉」を焼いて「食える焼肉」に変えてパクパク食べつつ、 「ただの言葉」を「笑える言葉」に変えてゲラゲラ笑っていた、というのはなんとも意味深い。

(「食事」も「意味」も、自分の手で完成させたモノは親和性が高い。 )


その「意味の跳躍」というのは、漫才のボケとツッコミの関係の原理でもある。

ボケの人間はたいてい「意味がすでに跳躍している言葉」を語り、ツッコミが「その跳躍を言葉で架橋する」のである。

分かりづらいな。

どういうことかというと、たいていボケの人間はある言葉を聞いたときに、 普通の人は思いもつかないような突拍子もないイメージを思い浮かべて、返事をする。

だから会話がちぐはぐしてくる。

その「言葉」と「突拍子もないイメージ」のあいだに「意味の跳躍」があり、そのボケの跳躍の「間の空き様」を、人は「間抜け」 と呼ぶのである。

ツッコミの人間は、その跳躍(間抜け)を架橋するために、その「言葉」と「イメージ」 の空隙を論理(言葉による説明)でもってつなげる。

一見、突拍子もない「言葉」と「イメージ」が、論理でもってきちんと結びつくところに「笑い」がある。

それは本来、聴き手である私たちの仕事であるのだが、それをツッコミの人間が代わりにやってくれることで、 私たちは何の知的負荷もなく、ツッコミによって架けられた橋を歩いて楽々「意味の空隙」を渡ることができるのである。

だからこそ、それが商売として成り立つ。

私たちはテレビや劇場の前でボケーッとしたまま、「意味の跳躍」と「意味の架橋」の反復運動を愉しむことができる。

なにしろ全部、芸人さんがやってくれるんだから。

(商売の本質は「みんなの分、代わりにまとめてやっといてあげる。」ということである。)


う〜ん、しかし我ながらこのようなオチになるとは書き始めたときには思いもつかなかった。

もし文章に意味の跳躍があるとしたら、それを結びつけるのはみなさんの仕事であるので、あとはお任せします。

…え? きちんとまとめろ?

別にボク、商売でブログ書いてるわけじゃないもんね〜。

そんなこと知んな〜い(悪ガキ風)。

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2006年01月03日

寒の水で供養する

年末年始のどたばたもようやく落ち着いてきた。

忘年会やら新年会やら、がばがば飲み食いして消化器系を酷使しつつ旧交を温める、 ということの繰り返しで背中が重い(消化器系の酷使は背中に如実に出る)。

毎年こんなことしてるから、吐いたり下したりするんだろうな。

だから今年は悔い(食い?)改めて、飲み会のない日は食をガクッと減らして、かわりに水をちびちびと一日中飲んでいる。

「飢えと渇き」という表現をよく使うが、「飢え」は食の欲求であり「渇き」は水の欲求である。

とても乾燥する「冬」という季節は、私たちの思う以上に、からだも乾いて乾燥しているのであるが、なぜか私たちはしばしば、その 「渇き」を「飢え」と混同して間違える。

「ノドが渇いている」のに「お腹がすいた」と思うのである。

なぜかは知らない。

食物に含まれる水分を欲してそう感じてしまうのかもしれないが、それだと必要な分の水分を摂るのに、 ずいぶん余計な栄養分まで摂ってしまうことになるので、「食べ過ぎ」になってしまう。

もともと冬というのは食が細る季節であって、がばがば飲み食いする季節ではない。

だって自然界に食べる物がなくなるんだから。

冬になっておもむろに食が旺盛になって、がばがばと食べ始める生物なんて人間くらいなんじゃなかろうか。

もともと「夏の間にせっせと溜め込んだ食べ物を、春が来るまで細々と食いつないでいく」というのが、「冬」という季節なのである。

だからその道理でいけば、私たちも冬には食を落とすということが理に適っている(というより「からだに適っている」)。

長い年月のあいだ、私たちの祖先はそのようにして暮らしてきたし、からだもそれに適応するように成長してきたのである。

それとも、冬のあいだひもじい生活を強いられてきた先祖代々の想いが、 豊かな時代に生まれてきた私たちにがばがばと食わせたりしているのだろうか。

そうすると「寒の入り」の前に、ご先祖様に食べ物をお供えして満足していただく、という供養の儀式を設けることが、 私たちの身心の健康という面から考えてもよいのかもしれないが、そういうお話はとりあえず置いておこう。

ともかく、冬は本来そんなに消化器を酷使する季節ではないのだけれど、先ほど述べたように、たいへん乾燥する季節である。

洗濯物の乾きかたを考えればお分かりいただけると思うが、日なたにしばらく干しておくとあっという間に乾く。

からだも同じように皮膚をとおして、かなりの勢いで水分が蒸散し渇いていくのである。

しかも夏の渇きと違って、純粋に水分だけが減る。

夏の渇きは汗によるものなので、水分だけでなく塩分などさまざまな成分と一緒に排泄されるのだが、 冬の渇きは水分だけが蒸発していくのである。

だからからだは水分だけが極端に減り、その影響で血液がどろどろしてきたりして、頭が痛くなったり、 気持ち悪くなったりすることがある。

それで突然ケロッと吐いたりすることがあるが、それは水不足なのである。

だから冬には水を摂ることがそのまま健康法となる。

それで私は水を飲んでいるのである。空腹も収まるし一石二鳥だ。

ちびちび。


ちなみに、二十四節気では、「小寒」(寒の入り)から「節分」(立春の前日)までの約1ヶ月間(1月5日頃〜2月3日頃)を「寒(かん)」 と呼び、一年中でもっとも寒いこの時期に汲み置いた水のことを、「寒の水(かんのみず)」と呼ぶ。

(「小寒」から九日目に汲んだ水を「寒九の水」、「大寒」に汲んだ水を「大寒の水」と呼び、どちらも特別な水とされてきた。 )

昔から「寒の水は腐らない」として、酒や味噌などの発酵食品の「寒仕込み」に使われてきたり、 あるいは健康に良いとされてそのまま飲んだりされてきたが、それは微生物や細菌が少ないから水質が良いというだけでなく、 私たちのからだそのものが「水分を必要としている」ということも大いに関係しているのだと思う。

もっと言うと、夏と冬では水の「流れ方」も変わり、それによってまた性質もずいぶん変わってくるのだが、 そこまで書くとややこしくなるので、それについてはまたいつか(…って「流体論」もいつかきちんとまとめなくちゃなぁ)。

posted by RYO at 15:11| Comment(22) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月01日

あけましておめでとうございます


みなさん、あけましておめでとうございます。
今年もみなさんにとって良い年でありますように。

posted by RYO at 00:00| 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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