2005年12月31日

2005年 記事一覧

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2005年12月29日

お太鼓叩いて極楽温泉

最近たいへんお世話になっているYさんに、「深大寺に使っていない大きな道場があるんですけど、 よかったら武術の稽古に使えないかと思って。一度見にいらしてくださいな。」と前から言われていたのであるが、それを今日、 河野先生と一緒に道場を案内していただくことになった。

三鷹駅で待ち合わせをした後、駅からタクシーで走ること15分ばかり、武蔵野の雑木林の中にひっそりとたたずむ道場に着く。

タクシーを降りると、お太鼓を叩く音が林の中から聞こえてくる。

こちらの道場は日蓮宗の道場だそうで、案内文を読んでみると「この道場は誰にでも開かれております。ご自由にお入りください。」 と書かれており、「開かれた構え」というものを愛する私は、その一言に「お、素晴らしい。」と、門をくぐる前から親和性を感じる。

うかがうところによると、こちらは「常唱題道場」だそうで、なんと朝の5時から夜の9時まで片時も休むことなく、 誰か一人はお太鼓を叩き続けるのだそうである(お太鼓を叩くことがお題目であり、オガミなのだそうである… だった気がするけど間違ってるかも…)。

道場を覗いてみると、身も引き締まるような寒さの中、一心にお太鼓を叩いている方が三人。

河野先生と私もそこに加わり、わずか15分くらいの時間だったと思うが、しばしトランス状態となってお太鼓を叩かせていただく。

「一定のリズムの音を聴きながら、一定のリズムで運動をする」というのは、いち早く変性意識状態となるのに最適の方法である。

お太鼓を叩く手の波がからだに伝わり、それがまたほかの方々のお太鼓の音と重なってくると、なんともいえない心地よさが全身に広がる。

ふだん太鼓など叩いたことのない初心者の私は、少しでも余計なことを考えるとたちまち手がもたついて、「考える」 ということが手の運動と深い関係にあることを身を持って体験する。

しばらくトランス状態となってお太鼓を叩いていたら、おもむろにYさんに声をかけられ、ふと我に帰る。

ご当主さんにお話を聞かせていただけるということなので、お太鼓と道場に一礼して退出し、Yさんの後をいそいそと付いていく。

八畳ほどの茶の間へと案内され、こちらの道場のご当主さんに挨拶する。

「こちらでは何の義務も強制もありませんので、どうぞいつでもご自由にお越しになって、オガンでいってください。」 というご当主さんの姿勢は何とも素晴らしく、またそのお人柄がお顔に柔和な表情となって表れていらっしゃる。

こちらに案内していただいたYさんもたいへんホスピタリティーあふれる方で、私もすでに、 いろんなおもてなしをしていただいているのだが(コートを頂いたり、菓子折りを頂いたり、すいとんをご馳走になったり、 甘酒をご馳走になったり、とにかくいろいろ)、そのYさんのお師匠様に当たる方であるのだから、 只者ではないであろうということだけは想像していたが、やはりお会いしてみると、たいへん「開かれた」方であった。

道場の件に関しても「それが人助けとなるならば」と快く承諾していただき、何ともありがたいことである。

このような素晴らしい方が市井に埋もれているのはなんとも残念な気がするが、市井に埋もれているからこそ、 そのような在り方をすることができるのかもしれない、と自問自答し、そんなに都合よくいかない世の中の仕組みにガシガシと歯噛みする。

しばし、日蓮上人のお話や昔の武蔵野の風土についてのお話を聞かせていただいたあと、「そろそろ、食事の方へ参りましょうか。」 というYさんのお声に、「ちょうど、お腹もすいてきました。」と道場を失礼する。

Yさんのお知り合いという女性も加わり、通りに出てタクシーをつかまえ、走ること10分ばかり、「城山亭」 というなんとも風情ある佇まいの料理屋さんに着く。

タクシーを降りてそのお店を見てみると、入り口の門から玄関までのあいだに、急勾配の石階段がバーンと続いている。

おぉ、なんだこりゃ。 山のてっぺんにあるじゃないか。

Yさんの荷物を「持ちますよ。」と言って、遠慮するYさんの手から奪い取り、よいしょよいしょと玄関まで向かうが、Yさん、 階段を登りながらこのお店の説明をしてくれるので、息をハァハァ切らしている。

いやいや、そんな無理をなさらず。あとでゆっくり伺いますから。

「これは。食事の前に。運動させて。ご飯を。おいしくさせよう…って。魂胆だな。ハァハァ。」

と息も絶え絶えつぶやくと、案内してくれている店員さんが「ははは…。」と乾いた声で笑う。


聞く所によると、この「城山亭」は、囲炉裏端で野趣料理に舌鼓を打ちつつ、温泉にのんびり浸かることもできるという、 なんとも贅沢な趣向の料理屋さんらしい。

な、なんと贅沢な! そのようなところに私のようなものがお邪魔してよろしいんですか? バチでも当たるんじゃなかろうか。

けれども、Yさんの喜捨の一助になれればと思い直し、肚に気合を入れ、覚悟を決める(ワーイ)。

「お風呂、先になさいますか? それとも料理を先になさいますか?」という仲居さんの質問に、「腹 ぺこ左衛門」 の私たちはお互い顔を見合わせたのち、「料理を先に。」とお願いする。

このお店、客室はすべて個室となっていて、真ん中には大きな囲炉裏がある。

私たちが来る前から暖房用に入れて暖めておいた炭を、店員さんが鮮やかな手つきで炭焼き用の炭にサッと入れ替えると、 さっそく料理がバンバン運ばれてくる。

仲居さんに一つ一つ料理の説明をしてもらうのももどかしく、片っ端から囲炉裏の周りに串をぷすぷすと刺し、 網の上にガンガンと載せてゆく。

刺身盛りに唸り、囲炉裏で焼いた虹鱒にため息をつき、有名な深大寺蕎麦にのどを鳴らし、自然酒の竹酒に舌を潤わせ、歓談に興じ、 たいへん愉快なひと時を過ごす。


やがて愉しい食事も終わり、しばらくくつろいだあと温泉へと向かう。(右は「兵どもが夢の跡」の図)

ここの温泉は「風水温泉」として一部の方たちにはたいへん有名だそうであるが、パンフレットを見てみると 「日本初の風水波動ヒーリング温泉」と書かれている。 なんだそりゃ。

中に入ってみると、そんなネーミングとは裏腹にサービスはきちっとしているし、造りもたいへん立派で、至れり尽くせりである。

む、なかなかやるじゃないか。風水温泉。

湯船にザブリと浸かり、「ふぃ〜。」と弛んでいると何だか肌がぬるぬるする。

「なんだろう?」と思って湯をすくってよく見てみると、お湯が黒い(というか緑というか黄色というか…)。 なんだこりゃ。

もう夜も遅かったので全然気がつかなかった。

あとでYさんに教えてもらったのだが、関東平野で出る温泉は黒い湯が多いらしい。

(そういえば代沢にある温泉銭湯も湯が黒かった。関東ローム層とかそこらへんの関係なんだろうか。)

露天風呂には五色石を並べたお風呂だとか、五右衛門風呂だとか、洞窟風呂だとか、いろんなお風呂があり、 好奇心旺盛な私はざばざばと黒い湯をかき分け片っ端から浸かっていく。

中央にある檜でできた八角形のコテージのような建物に入ると、真ん中に小さな湯船がある。

壁に能書きが書いてあるので読んでみると、

「日ごとに変わる妖艶な香りはあなたの『欲求本能』を活発にし、忘れかけていた下半身の若さの回復が始まります。」

と書かれている。 なんだそりゃ。

さらに読みすすめてみると、

「ゆっくりゆったり今夜の興奮を考えながら入浴ください。」

と書いてある。

「今夜の興奮」って…、アンタ。 裸の男同士が狭い湯船に向かい合って浸かって、「今夜の興奮」 を思い浮かべている図ってなんか気持ち悪いぞ。

そして能書きの最後には「…では成功を祈ります。」と書かれている。

帰っても一人の私にどうしろと?

今夜帰ってから自分がどうなってしまうのか一抹の不安を抱きつつ、 いまいち本気なんだか受け狙いなんだかよく分からない温泉を後にして、 このような素晴らしいお接待をしてくださったYさんにお礼を申し上げる。


いやいや、しかしホントにこんなご接待までしただいてありがたい話である。

Yさんのホスピタリティーはとどまるところを知らぬらしい。

今年最後にたいへんありがたいカルマ落しをさせていただいて、感謝感謝の嵐である。

またよろしかったら来年もぜひ、…って私が言うことじゃないな。

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2005年12月27日

オニババ化するぬか漬け

今日は年賀状づくりに励む。

いつも年賀状はたいてい手書きか版画で作っているのだけど、今年は初めてパソコンで作ってみた。

と言っても手書きのものをパソコンに取り込んで印刷する、という形なので半分手書きと言えば手書きでもある。

年賀状は毎年、早め早めにやろうと思いつつ気がつくと年末になっている、ということの繰り返しで、「来年こそは」 と思うのだが相変わらずその反省がまったく生かされていない。

おかげで今年もこんな時期になって、どたばたと作るはめになってしまった。

うぅ、来年こそは。


だけど、パソコンは便利だなぁ。

ぐりぐりと描いた絵を、さらにぐりぐりと大きくしたり小さくしたり、横に伸ばしたり回転させたり、ほかの絵とつなげたりできて、 まったく自由自在である。

失敗しても簡単に修復できる、ということがどれだけ便利なことか、ありがたくて涙が出る。

版画を彫ってるときなんか、手が滑ってガツッとほかの部分を削ってしまった日にゃ、自分の迂闊さに、別の意味で涙が出る。

(まぁ、そんなハプニングもうまく取り込んで彫っていくんだけど…。)


とにかく、そんなこんなでなんとか作りあげてプリンタで印刷してみたら、どうもあんまり具合がよろしくない。私のプリンタが安物のせいか、 はがきの余白がやたら広くて不恰好なのである。

いろいろ試してみたがやっぱりどうにも気に入らないので、コピー機を使うことにして、 原画と白紙の年賀状を持って新宿の世界堂へと向かう。

世界堂というのは、いろんな種類の文房具が山ほどある文房具屋さんで、子どもの頃から文房具大好きの私としては、 大変興奮してしまう空間でもある。

印刷する前に店内をうろうろしていたら、紙コーナーにいろんなはがきサイズの紙が置いてあって、 もうさっそく興奮してクギ付けになってしまう。

見ても触っても素敵なカードがいっぱいあって、こんなはがきで年賀状が届いたらちょっぴり嬉しいなぁ、と想いにふける。

しまった。ここで買えばよかった。

うぅ、来年こそは。


無事、年賀状も印刷し終わり、その足で入院中の知り合いのところへとお見舞いに行く。

2日ほど前に「吐いて下して」というひどい状態になっていて大変だった、という話をされるが、整体的身体観で病気を捉える私は「あ、 そうですか。それはよかったですね。」と言って、たいへん不愉快な顔をされる。

私は、ちょうど年末年始というこの時期に、毎年、先の症状とまったく同じような症状の風邪を引く。

そうなってくるとこちらも慣れたもので、「あ、これは今夜来るな。」というのが分かるようになってくるので、 布団に入るときに覚悟ができて多少余裕ができる。

消化器系の風邪は苦しいというか気持ち悪いので、初日の夜は一晩中もだえ続ける。トイレにも何度も行って吐いたり下したりもする。

けれどもそれは私の一年分の不摂生の大掃除であるので、私は感謝こそすれ文句を言うべき立場ではない。私は「うぅ、済まないねぇ。 がんばってくれ…。」と、からだに言っているのか、自分に言い聞かせているのかよく分からない励ましをするのみである。

そんな自分の経験をお話しつつ、「たった1日で経過してしまったあなたはすごい。私でも2日はかかる。」と、 そのからだの経過の速さを褒める。

そして、「吐いたり下したりした後は腸内環境が激変しているので、梅干しとか、漬け物とか自分の気に入る発酵食品をとって、 自分のお気に入りの乳酸菌やら酵母やらで腸内をいっぱいにして素敵な環境にするいい機会ですよ。」とアドバイスをする。

そんな発酵食品話をしつつ、「私もぬか漬けを作っているけど、最近いじくっていないからスネているかもしれないなぁ。」 なんてお話していたら、

「RYOさんの作ったぬか漬け食べたい。ニンジンとセロリね。お願い。」

と言われる。

しまった。余計なことを言ってしまった。

まぁ、でもしばらく放って置いたぬか漬けと「より」を戻すいいチャンスかもしれない、と思い、

「分かりました。前向きに善処いたします。」

と、返事をして失礼する。


そしてさっき帰ってきてから、ずっと冷蔵庫に入れたまま放って置いたぬか漬けのホーローの蓋を恐る恐る開けてみたのである。

するとそこには、ちょっと乾いてそっけない感じにはなっていたが、匂いは別れた時のまんまの彼女がいた。(なんかロマンチックだ。 )

「あ…久しぶり。 ……元気?」

というちょっと照れくさい会話のようなご対面であったが、「オニババ化」(@三砂ちづる)してはいなかったのでほっと一安心。

「オニババ化した発酵食品」なんて、「マジ」で洒落にならないからね。

死ぬって。

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2005年12月24日

ちっともお金に困らないので困る

今年も「年末ジャンボ宝くじ」を買った。

よく「買った宝くじを冷蔵庫に保管する」という人の話を聞くが、べつに冷やしたからって当たる確率が上がるわけでもなさそうだけれど、 どうなんだろう?

昔テレビで、高額当選数十回というような宝くじ長者の人もそんなような事を言っていたが、まぁ、それだけ宝くじに思いを込めてる人は、 確かにほかの人より当たりそうな気もするし、だいたいふつうの人よりいっぱい買っているんだろうから、 高額が当たる確率が高くなるのは当然といえば当然なのかもしれない。

ちなみに私は、買った宝くじを陽の当たる暖かいところに置いた。

なぜかと言われれば「暖かいところに置いておくと、モノは当たりやすくなるから」である。

…ただの洒落です。

ホントは、みんなが冷蔵庫に入れて冷やして保管するというのであれば、オレは日なたに置いてやれ、 というただの私の天邪鬼な性格によるだけである。


私はそんなに金勘定に興味があるわけではないし、たとえ急に大金が手に入ったとしても使い道にはたと困ってしまうような小者である。

むしろ「お金稼ぐとかメンドくさいなぁ。誰か喰わせてくれないかなぁ。」なんていうヒモ願望すらあるくらいである。

かといって私は別に怠けたいわけではない。むしろからだを動かして働くのは大好きである。

ただ「自分の『働き』を『お金』に換算する」という行為にイマイチ馴染めないのである。

だから私の「働き」に対する報酬は、「これくらいでいい?」という相手のサジェスチョンに対して、「じゃあ、それで。」 と私がレスポンスを返すことで、たいてい決定されている。

おかげさまで、それでも生きていけているのが何ともありがたい話であるが、それよりありがたいのは、 皆さんが自ら自己申告によって値上げしていってくださることである。

何にも言ってないのに…。 ありがたいなぁ。

世の人たちというのは、なんて親切な人たちばっかりなんだろう。


そんな私がなぜ宝くじなど買うのかといえば、それは「お金のことなんか考えたくない」がゆえに、「お金のことなんか考えなくて済む」 程度にはお金が欲しい、という逆説的な欲求となって私の中にあるからなのである。

小さいころ、親が私の運勢を「よく当たる」という占い師に見てもらったところ、「この子は将来お金に困りません」と言われたらしい。

「お、すばらしい。」とお思いになられるかもしれないが、よく考えてみると「お金に困らない」というのは、決して「お金持ちになる」 という意味ではない。

金持ちでもお金に困る人はいるし、貧乏でもぜんぜんお金に困っていない人はいる。

(むしろ金持ちの方が、お金のことをしょっちゅう考えていなくちゃいけないから「お金に困ってる」んじゃなかろうか。)

私はあんまりお金も使わないし(本だけは自己投資と思ってバカバカ買うけど)、趣味は「散歩」ときわめて経済的なものであるから、 何も考えずにお金を使っていても決して収入を超えることはない(決して収入が多いということではない)。

だからいつも、自分がいくら持っていて、いくら使えるのかとか、ふだんあんまり考えたことがない。「財布の中身が減ってきたなぁ。」 と思ったら、棚からテキトーに一万円札を取り出してズボズボと突っ込んでおくだけである。

そういう意味で「お金に困らない」というのであれば、もうすでに占いは当たっているかもしれない。

でもそんな状態で満足している私は、いわゆる「負け組」にカテゴライズされてしまうんだろうな。

どうでもいいけど。

とにかく宝くじ当たりますように。なまねこなまねこ。

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2005年12月22日

フレンドリー護身術

今日、二子玉川の街を歩いていたら、前から歩いてきた杖を突いたおじいさんに突然声をかけられた。

「ちょっと、あんた。」

「はい?」

「実はね、今日、何年かぶりで歩けるようになったんで、久しぶりに散歩に出てみたんだけどね、あんな建物あったかい? ありゃ何だい? 」

と、嬉しそうに高島屋のビルを指す。

「ええっと、あれは高島屋ですね。」

「高島屋? いつからあそこに建ってんだい?」

「いや、ちょっとボク分からないですけど…。」

と言ったら、

「な〜んだ、もう〜。」

と言って叩かれた。

な、なんだよ。じいさん。テンション高いなぁ。

そうしたらおじいさん、相変わらず嬉しそうにしながら、

「じゃあ、ごめんね〜。」

と言って、そのまま高島屋の方へと行ってしまった。

な、何だったんだろう?

人は大勢歩いているのに、なぜ私に声をかけてきたんだろう? うーん、謎だ。

でも、おじいさん、なんだかとっても嬉しそうだったな。何年かぶりで歩けたからすごい嬉しかったのかな。

もうちょっとお話に付き合ってあげればよかったかなぁ、と今になって思う。


どうも私は「道訊かれ顔」をしているらしい。

だから初めての土地でも、なぜかよく道を訊かれるのであるが、それどころか、どうも私はどこへ行っても「関係者」 に見えるらしいのである。

たとえば、フリーマーケットなどぶらぶら歩いて物色していたりすると、

「ちょっと、お兄さん。これいくら?」なんて訊かれて、

「いや、ボクお店の人じゃないんで…。」と応えたり、

作品展に行ってぷらぷらと作品を見ているときも、

「こちらの先生?」と訊かれて、

「いやいや、違います違います。」なんて応えたり、

いったい私のなにが皆さんの勘違いを誘うんだろうか?

自分でもよく分からない。

もしかしたら、私が「どこへ行ってもまるで我が家のようにくつろいでしまう」という図々しさにあるのだろうか…。


私は武術を習っているのだが、犯罪はたしかに増えてきているとはいえ、まだまだかなり安全と言えるこの時代のこの日本で、 武術を身に付ける意義がどこにあるのか、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれない。

武術を身に付けることが今の時代、何の役に立つのかと言われれば、それは「とっさの際に混乱することなく瞬時に対応できる『構え』 が身に付く。」と、私は答える。

「男子ひとたび門を出ずれば、七人の敵あり」というように、敵の攻撃はどこから来るとも限らない。

ふすまを開けたら、そこで刺客が刀を大上段に構えているかもしれないし、障子の向こうから槍が飛んでくるかもしれないし、 天井から吹き矢を吹かれるかもしれない。

あらゆる角度からのあらゆる攻撃に対し、瞬時に対応できるような「構え」をつねに保つことが、 武術を学ぶ者の日常的基本姿勢なのである。

でも、「今の日本で、刀も槍も吹き矢も飛んでくるわけないでしょ。」とおっしゃるかもしれない。

それなら、すべての攻撃を「事故」や「天災」に置き換えればいい。「事故」や「天災」はいつの時代であっても無くなる事はない。

「武術的構え」は、いつの時代であっても通じる「構え」なのである。


…と書いていたら、このまえ新宿で知らないおばさんに「裏拳(手の甲で打つ突き)」を入れられたことを思い出した。

新宿の道路上でおばさんが何か道の説明をしていたらしく、「あっちの方…」と、 おもむろに振り返って指を差そうと手を大きく振りかぶったところに、ちょうど私が歩いてきて「バシッ!」とキレイに鼻に「裏拳」 が入ったのである。

「何すんだ、この人。」

と正直ムッとしたが、すぐさま、

「いや、街では何が起こるか分からない。今のは、とっさにかわせない私が未熟なのだ。」

と思い直し、

「お気になさらず。」

と立ち去ったのである。

これはまだまだ私の修行が足りないということの証であるが、このような事態に際してパッと避けうる「構え」を身に付けることが、 この時代に武術を習うことの意義なのである。


なので私は、講座中の受講者のあらゆる角度からのあらゆる質問に対して、見事に捌いて切り返してみせる、という課題を自らに課している。

それは先ほど申し上げたように、武術をたしなむ人間としての基本的姿勢である。

そのような「構え」をとれるようになるということが、この時代に武術を習うことの意義であるだろうし、実際、 一番役に立つだろうと思う。

不意の質問に対し、「えっ…と、それは〜…。」などとたじろいでしまうということは、それは武術家にとっての「死」を意味する。

あらゆる瞬間、あらゆる角度からの、あらゆる種類の質問に対し、見事に身を捌いて相手に返し、ピタッと押さえ込んでみせることが、 武術家としての処し方なのである。

私の講座は子どもたちが大変多く、皆さんにお話している最中も、子どもにナナメの角度からの、走りこんできての「ダイビング抱っこ」 などを仕掛けられたりもするので、ひと時も油断することは許されない。

もしも油断していたならば、「ダイビング抱っこ」はそのまま「フライングヘッドバット」の技と化し、私が痛いのはもちろん、 痛さに泣きわめく子どもの対処にその後テンヤワンヤとなってしまうのは眼に見えている。

そのような事態は断じて避けねばならない。

かといって、睨みを利かせて子どもたちを黙らせて近寄らせない、というのは私の性分に合わない。

それに勝手ながらそれでは私にとっての修行にもならない。

それゆえ「隙があったらいつでもかかって来なさい。」という「開かれた構え」の自然体で立ち、そこに仕掛けられるあらゆる「攻撃」 を見事に捌いてみせる、ということが、私にとっての修行でもあり、また理想的なあり方でもあるのである。


…で、そのことが最初の話と何の関係があるのかというと、私はつねにそのような「開かれた構え」を目指しているがゆえに、その「構え」 が私の顔に「どうぞ、いつでも声をかけてください。」という表情となって表れているのかもしれない、ということなのである。

そのせいで私はよく声をかけられたり、道を訊かれたりするのかもしれない。

もしそうだとしたら、私の「構え」もだいぶ「からだ」に染み込んできたということである。

もしかすると、武術を稽古してゆくと、人はだんだんフレンドリーになってゆくのかもしれない。

「誰にでもフレンドリー」というのは最大の護身術でもある。

誰とでもすぐ仲良くなっちゃえば、争いの生まれようがない。


私の知り合いが前に、山道でばったりと出くわしてしまった熊に「わー!クマさんだー!」と言って、 その胸にパッと飛び込んでいってしまった女の子の話をしてくれたことがある(もちろん無事に済んだらしい。熊もさすがに襲えなかったんだろう)。

私にとって理想の「構え」とは、その子の「構え」である。

それは世界を変える力を持っている、と私は本気で思っている。

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2005年12月19日

脚光を浴びる「雑念」

新解さん私の愛する「新解さん」をぱしゃぱしゃとめくって遊んでみる。

「新解さん」というのはなにかと言うと、「新明解国語辞典」(三省堂、1972年初版)のことである(ちなみに私のは「第六版」)。

「新解さん」がどんな辞書なのかということについては、『新解さんリターンズ』(夏石鈴子、角川文庫、2005)や、『新解さんの謎』(赤瀬川原平、文春文庫、1999)などを読んでみられるとよく分かるのだが、一言で言えば、 「新解さん」は「主張する辞書」なのである。

たとえば、「性交」などというちょっぴりエロチックな言葉を「新解さん」で調べてみると、

【性交】成熟した男女が時を置いて性的な欲望を満たすために肉体的に結合すること。

とある。

「時を置いて」である。

「新解さん」としては行きずりの行為など断じて「性交」としては認めたくないらしい。

まるで風紀委員のような心がけである。

一部からは「余計なお世話だ!」と突っ込まれかねないおせっかいな辞書であるが、「ではいったい『時を置く』とは、 どの程度の期間までを指すのか?」などと、正しい解釈を覚えながらも、また新しい問題に悩んだりして愉しむことが出来るという、 個性あふれるエンターテイメントな辞書なのである。


そんな「新解さん」と戯れながら「ふむふむ」と頷いたりゲラゲラ笑ったりしていたら、ふと、ブログのタイトル『雑念する「からだ」』 ってなんとなく付けてみたけど、「雑念」っていったい何だろう?と思い立ち「新解さん」で調べてみる。

すると、そこには、

【雑念】考えを集中させる時に、そのじゃまをするいろいろな思い。

とある。

いやいや、えらい言われようだな。

まぁ、世間一般的にはそれが普通の解釈なのだろうけど、「雑念」をこよなく愛し、自分のブログのタイトルにまでつけた身としては、 ちょっと哀しい。

哀しみにくれながらその隣のページに目を移してみると、そこには「雑草」の項目がある。

「おぉ、徒然草だな。新解さんはどんな解釈しとんねん。」

と少し気を取り直して読んでみると、

【雑草】@あちこちに自然に生えているが、 利用(観賞)価値がないものとして注目されることがない草。農作物や栽培樹木の生長の妨げになる場合は取り除かれたりする。

……。

…まぁ、そうだろうね。そうですよ。有機農家の「草取り」の大変さも十分、分かっておりますよ。ハイ。でも、哀しいなぁ。

けれども読みすすめてみると、そのあとにAとしてこのように書かれている。

A知識が乏しいために、名前を言うことが出来ない、多くの草。

おぉ、なんだ。さすが新解さん。素晴らしい解釈をしてくれているではないですか。

「知識が乏しいために…言うことが出来ない」というくだりのあたり、ささやかな主張が見え隠れしてますねぇ。

辞書にそんなこと言われちゃ誰も反論できない(笑)。

いいよ、いいよ〜。

この新解さんの説明、私の得意な「誤読」をさせていただくと、こうなる。

「この草が雑草であるとしたら、それはあなたが馬鹿だからです。」

ハッハッハ。 ちょっと意地が悪いかな?

でも、この「雑草」に対する説明、「雑念」に対しても言えないだろうか?

【雑念】知識が乏しいために、その価値を見出すことが出来ない、多くの思念。

うむ。意味はまったく通じる。


私は、何かを考えようとしているときにふと思い浮かんでくる思念(いわゆる「雑念」ね)には、今考えようとしていることと、 なにかつながりがあるのだと思っている。

人間はそのときそのときの自分の状態や周りの環境などから、無意識のうちに多くのことを連想している。

それは喩えるならば、パソコンの現在の作業状態から関連しそうなプログラムを予想して、 ハードディスクの底の方から引っ張り出して来て、いつでも起動できるようにメモリの中に待機させる、そんなスピードアップツールに似ている。

私たちはふだん、デスクトップ上に開かれたモノしか意識することはないが、メモリ上に待機している膨大なプログラムをも、 実は無意識に感じている。

というよりそもそも、デスクトップ上のプログラム自体が、メモリがあるおかげでスムーズに働いているのであるが、そのような 「下ごしらえ」のような裏方仕事は決して意識にのぼることはない。

「雑念」というのは、その裏方仕事で関連しそうな記憶を引っ張り出して来たモノのうち、特に関連しそうなモノを 「とりあえず舞台に上げちまえ。」と、ポーンと舞台の上に裏方さんが放り出してきたものなのではなかろうか。

突如あらわれた闖入者に舞台上の役者たちは一瞬ひるむかもしれないが、その闖入者をも劇の中に取り込んでしまえるかどうかは、役者の 「腕の見せ所」である。

この闖入者は裏方さんが、「なにかに使えるかもしれない。」と思って舞台に放り投げてきたのである。

裏方さんなくては決して成り立たないこの壮麗な芝居の舞台の上に、その裏方さんが「使ってくれ。」と放り投げてきたのだから、 きっとなにかの役に立つはずなのである。

きっと。

だからぜひとも主役クラスには、その闖入者をも巻き込んだアドリブを交えながら芝居を続けられるくらいの「遊び」が欲しいものである。

その闖入者に価値を見出せなければ、それはいわゆる「雑念」となる。
(そして客は何事かとざわめく。)

その闖入者に価値を見出すことができれば、それはいわゆる「ひらめき」となる。
(そして客は奇抜な演出だと喝采する。)

それは裏方さんの仕事ではない。表舞台に立つ者の仕事である。

つまりそれは「私」の仕事なのである。

『知識が乏しいために、その価値を見出すことが出来ない』なんて羽目にならないように、心がけたいものである。

裏方さんの期待に沿えるよう、精進、精進。

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2005年12月18日

「遊び」からニューデザイン

銀座の日産ギャラリーに行ってきた。

ちょうど今、「ニューデザインパラダイス(フジテレビ、毎週金曜日深夜放送)」 の作品展をやっているのでそれを見てきたのである。

「ニューデザインパラダイス」という番組は毎週欠かさず見ているが、毎回、 新進気鋭のデザイナーたちが知恵を絞って新しいモノを生み出すのは、見ていて愉しい(音楽は大好きな「ニューシネマパラダイス」だし)。

「へぇ〜、そういう風な視点で見るんだ!」とか「それとそれを組み合わせますか?!」とか、奇抜なアイディアには毎回驚かされるが、 私たちが見慣れてしまったモノでも違った視点から見てみると、また意外な魅力が見えてくるものである。

うちわとか、段ボールとか、暖簾とか、時計とか、手紙とか、黒板とか…。

私たちの生活の身の回りにあるモノをいろんな形でデザインしなおしていて、とってもオモシロイのだが、なかには「救急車のサイレン」 なんてものもあって、デザインする「モノ」を選ぶ視点そのものがまたオモシロイ。

前に『ダーウィンのリンゴ』 でも書いたが、一つのモノに対していろいろな角度からの「見え」を探ることは、そのものの本質に迫ることにつながるとても大切なことである。

他人がいろいろな角度からの視点でモノを見ているのを、「どれどれ」と後ろに回って一緒にひょいと覗いてみることによって、 新しい視点を自分の中に落とし込んでいくのである。

そうして、いろいろな角度からの観察の仕方そのものをバンバン吸収していくと、世界はどんどん重層的な姿を示してきて、 決して飽きることがない。

世界を変えることは大変でも、自分の視点を変えることはそうむずかしい事ではない。

足腰がこわばり、首はガチガチになり、眼は一点だけを見つめ、頭の中はいつも同じことばかり考えているような「からだ」 になってしまっていては、ちょっとむずかしいけれども、つねに頭と眼と首と足腰を弛めておくように心がけることによって、 いくらでも柔軟性は取り戻すことができる。


デザインというのは人それぞれの感受性というものがあるので、一概に「いい」とか「悪い」とか言えないけれど、でもやっぱり 「それはいかがなものかな。」と、つい思ってしまうモノがないわけでもなかった。

ちなみに私の好みは「生活者のデザイン」である(柳宗理の民藝運動なんかとっても好き。キッチンツール全部揃えたいなぁ…)。

それはいわゆる「用の美(機能美)」であり、そのモノの「働き」から自ずと生まれた「かたち」であり、サン=テグジュペリの言う 「もうこれ以上取り去るものがない」デザインである。

いや、成り立ち方からして「もう」これ以上取り去るものがない、というのはおかしいか。成るべくして成っているもので、 最初から余分なものなんて何一つないんだから。

でも、そういうデザインって頭で考えていても、なかなか浮かんではこない。

そのモノの動き(働き)をじっと観察することによって、あるいは自らずっと使い続けることによって、 おぼろげながらに浮かび上がってくるものである(だから私は「生活者のデザイン」と呼んでいる)。


私はいつも尻のポケットにメモ帳をつっこんでいるのだが、自分の好みにあうメモ帳というのは、探してみるとなかなかないもので、 ずいぶんいろいろな文具店を見てまわった。

結局、私の琴線に触れるようなメモ帳がなかったので、カバーの気に入った小さなアドレス帳を買い、 革のカバーだけ取り外して中身は放り投げ、「無印良品」 で買ったちょうど合うサイズのメモ帳を中に差し込んでオリジナルのメモ帳を作ることにした。

おかげでちょっと高くついたが、満足感には変えられない。

メモ帳を持ち歩くときには筆記具も一緒に携帯するわけだが、私はペンを差す部分が付いているカバーは選ばなかった。

私は、尻のポケットに入れてつねに身に付けておこうと考えていたので、すでに作られているペン差しではうまい具合にいかない、 と思ったからである(座った瞬間に尻に刺さったりするかもしれない)。

だからペンはカバーのテキトーなところにぶっ差してあるだけであって、見た目は一見、不恰好でペンも不安定極まりない。

けれどもそうやって、ペンをメモ帳にテキトーにぶっ差して尻のポケットに入れ、一日もふらふらと歩いたりしていると、 ペンは納まるべきところに納まるのである。

それはペンを「テキトー」にぶっ差しているがゆえの「遊び」があるおかげである。

もし既存のペン差しにぶっ差してあったのなら、1ヶ月使っていてもまだ私の尻には馴染まなかったかもしれない。

「メモ帳」と「納まるべきところに納まったペン」から生まれるデザインは、「私の尻」と「メモ帳」と「ペン」 のコラボレーションによって生まれたものであり、それはそれらの間に「遊び」があることによって初めて生まれたのである。

「何か」と「何か」の狭間とか隙間とか、そういう「間(あいだ)」に「遊び」があることによって、新しい命は生まれる。

ここ最近の「右・左」問題も、「右」と「左」のその「間」がはっきりせずに「遊び」があったというおかげで、 あんなにも多くの人を触発し「言葉」を生み出させたのだと思う。

(コメントをくださった皆さん、ありがとうございました。ホントに感謝感謝です。まだプロジェクトは続いておりますので、 ご支援よろしくお願いいたします。)

「遊び」がないモノは即興性もなく、新しいモノが生まれる余地もない。

真面目なカタブツ人間が「つまらない」と敬遠されるのは、「遊び」がないからであるし、自転車のチェーンや車のハンドルなどは適度に 「遊び」があるから、塩梅がいいのである(あんまり関係ないか…)。


とにかく「間」とか「遊び」とかいうのは、とっても大切なものであり、それによって「予想外」のモノが生まれてくるのである。

今回のメモ帳も、私はそれぞれが出会えるような「遊びの場」を提供しただけであって、新しいデザイン、 あるいは新しい関係を作り上げたのは、「メモ帳」「ペン」「私の尻」という当事者たちである。

そして、だからこそ私の思いもよらないような新しいデザインが生まれた。

世界でただ一つ、私の尻の形に馴染んだ「メモ帳」の誕生である。

そこには私の何の意図も入り込んでいない。自ずと生まれた形である。

今ではその革製のカバーに、ペンの納まるべきところもしっかり模られている(だから革っていいよなぁ)。

それを「用の美」と呼べるかどうかは微妙なところだが、「用の形」であることだけは確かである。

そこに「美」を見出すためには、私の尻の形にカーブしたメモ帳とそこに斜めに刺さったボールペンを「美しいモノ」 と見ることのできる感受性が求められる。

残念ながら私自身、見ていて「愛らしい」とは思うが「美しい」とは思えない。

そこに「美」を見出すことができるようになれば、私も何か一皮向けるような気がするんだけどなぁ。まだまだ修行不足である。

(ただのナルシストになる危険性もあるけど…)

posted by RYO at 21:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月16日

「右・左」問題について

このあいだ、あるママさんから「子育て中はパソコン見る暇がないからRYOさんのブログ、紙にプリントアウトしてちょうだい。」 とお願いされ、そこにほかのママさんからもさらに「そうそう。ぜひぜひ。」と言われ、重ね重ね、お願いされてしまった。

どんな媒介であろうと、私などの文章を読んでいただけるのであれば、それは私にとって大変喜ばしいことであるので、「了解です。」と快く承る。

「でも、どの文章をプリントアウトしようかなぁ」と考えてみたが、やっぱり私の育児観として最も根本にデンと構えている 「根拠なき自信」 と、その続きのような形になる「わんぱくでもいい。 たくましく育ってくれ。」の2本がよかろうと思い、その2つをプリントアウトして本日の講座へと向かう。

話のマクラに「根拠なき自信」というのがいかに大切であるか、ということをお話しするが、そのまま、話は私のブログの話へと発展し、 今「右・左」問題がすごい賑やかなことになっているというお話になっていく。

そこで、今日来ていただいているママさんたちに「右回りってどっちですか?」と訊いてみたら、今日の参加者はみなさん、 時計回り(反トラック回り)で一致。

お〜、ようやく全員一致した。

でも、「右・左」というのはきわめて主観的なものなんですよ、ということをみなさんに体感していただこうと思い、 ちょっとした遊びをやってみた。

みなさんも、よろしかったらぜひぜひやってみられるとオモシロイと思う。

どうするかと言うと、まず最初に、そこら辺をうろうろしている旦那や奥さんや子どもや友達を、誰でもいいから一人連れてくる。

「今からおでこにある文字を書くから、なんて書いたのか当ててみて。」

と相手に言って、まず相手のおでこに「b」と書いてみるのである。

相手の答えが合っているかどうかはとりあえずどうでもいいので、その答えは放っておいて、今度はおでこのちょっと右側に 「じゃあこれは?」と訊いて、同じく「b」と書いてみる。

そうしてコメカミの方まで、繰り返し「b」と書いては答えてもらい、さらにコメカミを通って、頭の後ろまでずっと「b」 を書いては答えてもらう、ということを繰り返すのである。

(ポイントはあんまり考えずに直感的に答えてもらうこと。)

やってみれば分かるけれど、たいていの人はおでこに書かれた「b」を「d」と誤読する。

そのまま続けて進んでいくと、多くの人はコメカミあたりから「あれ?」と気づいて、「b」と正しく答えられるようになる。

お分かりだろうか?

人は自分の皮膚上に書かれた文字を、書かれた部位によって、内から見たり、外から見たりするのである。

今回はおでことその周辺についてだけでやってみたが、他にもいろいろな部位で試してみると、 オモシロイ結果が飛び出てくるかもしれない。

これは感覚的なことで非常に個人差があるので、おでこに書かれた文字をいきなり正しく答えられる人もいるが、 その人はおそらく常日頃から自分のことを客観視することに慣れている方である。

「人から見られている自分」というものを常に意識している人は、皮膚上に書かれた文字を「外の人」 の視点から読み取ることを自然に無意識に行なう。

だから書いた人の視点でもって、書かれた「b」を「b」と視覚化するのである。

そんなふうに頭をぐるっと回って、その人の「b」と「d」の分布を調べてみると、その人がどの程度、というより「どの角度から」 自分を客観視しているのかが、おぼろげながら浮かび上がってくるのである。

もちろんこれは「遊び」であるので、それによってその人を分類できる、とかそういうようなものではない。

けれども、自分の知らない「我が身を見る我が視線」というものに気づけるので、とってもオモシロイと思う。

今日、講座に参加されていた皆さんにやってみてもらったら、その中にお一人、左右のコメカミあたりだけ「d」でそれ以外は「b」、 という不思議な分布を示していらっしゃる方がいて、これまた不思議な感覚でとてもオモシロかった。

「前」と「後ろ」からは自分を客観視しているけれども、「横」には自分の視点が伸びている、ということなのかな?

う〜ん、想像ができん。


そんなふうに「自分がどの視点から見ているのか」ということによって、「右」と「左」というのはまったく正反対になってしまうわけで、 それが結局「右・左」問題を大変ややこしいものにしている。

ここ最近のブログ上の「右・左」論争に触発されて、それについていくらか調べてみたのだが、それによって分かったことはと言えば、 「結局よく分からん」ということであった。

「右巻き」か「左巻き」かというのは、研究者のあいだでも人によって表現が異なっており、どうやら、 いまだはっきりとは定義付けられてはいないようなのである。

だから本によって「右巻き」「左巻き」の定義が変わるという大変ややこしい事情になっているので、 読者としては混乱してしまうばかりである。

しかし、その違いはつまり、「そのモノを対象として見ている」か、あるいは「そのモノになって見ている」かという違いに収斂される。

だから物理学や工学といった非生物を扱うような世界では、「外から見た視点」で考えており、植物学では「そのモノの視点」 で考えていた、といったような推移が、どうやらあったようなのである。

DNAの螺旋構造やねじなど、理工学の世界では右のような巻き方を「右巻き」と定義づけている。

(左から、DNAの螺旋構造、普通のねじ、朝顔のつる。)

普通のねじ(右写真)は「右ねじ」と呼ばれ、逆ねじは「左ねじ」と呼ばれるのも、その定義による。

けれども、昔から日本では「朝顔は左巻き」ということが常識的に語られてきており、 それはご覧の通りまったく同じ巻き方をしているのである。

「えぇ〜?!」と思うだろうけれども、事実なんだからしょうがない。

でも、やっぱり同じように感じる人がいっぱいいるらしく、現在、理工学の定義に合わせて、 植物の巻き方の呼称を変えようという動きがあって、今は「朝顔は右巻き」というのが主流となっていると言う(でもやっぱり「確定」 ではない)。

う〜ん、なんだかめんどくさいなぁ。

でも、これ以上ややこしくなるのもアレなんで、「主流」とやらにしたがって、上のねじれ方を「このブログ」では「右巻き」 と称させていただきたいと思う(地域限定だ)。

(だから「トラック回り」とかも無しってことで。)

樹のねじれ方についての問題提起だったはずが、ずいぶん凶暴なトラの尻尾を踏んでしまったようである。

でも、もうちょっと「右・左」問題も研究してみたいなぁ。

なので、また書くかもしれません。

(→「右ねじれの桜たち<3回転>」へ)

posted by RYO at 23:36| Comment(6) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月15日

右ねじれの桜たち<2回転半>

…… というわけで、もう半ひねり加えて、2回転半に突入。

魅惑の「トリプルアクセル」まで、あと1回転だけれども、皆さまの暖かいフォローアップ(追い風)にたいへん力づけられて、 あと1回転くらいは軽く空を跳べそうである。

さてさて、皆さまお待たせいたしました。「ねじれダンサーズ」の皆さんの登場です。

ちなみに上の写真はすべてソメイヨシノ(@代々木公園&井の頭公園)であるが、見事なまでに皆、同じ方向へとねじれている。

そして、その方向は「北半球における台風」と同じねじれであるが、私が観察したかぎりではソメイヨシノに関しては例外なく皆、 同じねじれだった。


そして右は、水面すれすれを伸びてゆくソメイヨシノ(@井の頭公園)。

彼らはたとえ倒れても、律儀にねじれ続けている。

右の桜など、枝振りまでもがねじれのままに螺旋を描いているが、その心意気たるや見上げるものがある。

う〜ん、見習おう。

そして「オマケ」に、メタセコイアの「ねじれブラザーズ」(@井の頭公園)。

縦にスジが入っているので、かなりはっきり浮かび上がっているので見やすい。そして、どちらも桜と同じ方向にねじれているのが分かる。

 


…と、まあ代々木公園、井の頭公園をウロウロと散策しながら、これら以外の種類の樹々も含めていろいろ観察してみたが、大部分は右(あれ? 左?ややこしいな。)にねじれている。

(え〜っと、「右・左」だとどうも混乱するので、以降、「北半球の渦巻き」と同じねじれを「北巻き」、その反対を「南巻き」 と呼ぶことにする。つまり上の写真はすべて「北巻き」。)

(…と思ったけれど、「やっぱり分かりづらい」というご指摘を受けましたので、「陸上トラック」の走る方向に喩えることにする。「北半球の渦巻き」と同じねじれが「トラック回り」、その反対が「反トラック回り」ということにします。)

「大部分」というのは、数は少ないが反対(「反トラック回り」ね。)にねじれているものも多少、見られたからである。

「観察」というのは、観察者の「こうあって欲しい」という欲望から、無意識のうちに、 都合の悪い事例を選択的に見落とすよう行動してしまうものであるので、観察する際には、その点をよほど注意深く心がけなくてはいけない。

なので、自戒の念もこめて反証例も挙げておく。

左の2本は百日紅(サルスベリ)。そしてその隣はヒノキ。一番右側は名前は分からなかったがおそらく杉の一種で、2本そろって 「反トラック回り」である。

ヒノキに関しては数を見ていないので、はっきりとは分からないが、サルスベリと一番右の杉に関しては、どうやら「反トラック回り」 が多く見られるような気もする(どれもねじれが微妙だったので確信は持てないけど)。

種別を問わず、「ねじれ」の見られたすべての樹々のうち、今回、観察した中では「反トラック回り」の割合は、 だいたい1割強くらいになるだろうか。ほとんどの樹々は「トラック回り」かあるいは「ねじれ無し」であった。

それが種の性質によるのか、はたまた、人間にも時々「左巻き」(「右ねじれの桜たち」 参照)の人がいるように、個々の性質によるのかは、まだよく分からないけれども、今回また新たな事実が浮かび上がってきて、 プロジェクトはますます混乱を示してきている。

こういう「予想通り」に行かないのが、やっぱりオモシロイなぁ。はてさて、これからどのような展開を示していくんだろうか?  愉しみになってきたぞ。

とりあえずは途中報告まで。

(→『「右・左」問題について』へ)

posted by RYO at 22:43| Comment(6) | TrackBack(2) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月13日

右ねじれの桜たち<2回転>

なーんと! 『南半球の桜の樹ははたして左にねじれているのか?!』 プロジェクトのブリスベン特派員(たった今勝手に任命)から第一経過報告が上がってきた。

この前「右ねじれの桜たち」 で書いた、「桜のねじれ問題」における「北半球では桜は右にねじれているが、はたして南半球では左にねじれているのか?」 という問題を解決すべく、急遽(ってゆうか今)発足したこのプロジェクトに、早くも現場から報告が上がってきたのである。

さすが私が目を付けただけのことはある。

プロジェクトが立ち上がるより先に、仕事を済ませてしまうなんて(笑)。

うーん、仕事が速い!

(KYOさん、ホントにありがとうございます。多謝多謝。)


…と、まぁ冗談はさておき、じつはこの前ブログに書いた後、 南半球でだれか桜の樹々を観察してくれる心優しい方はいらっしゃらないだろうかと、Web上をうろうろと放浪していたら、 オーストラリア在住というKYOさんの素敵な感じのブログを見つけたので、 「桜のねじれ問題」について、「よろしかったら近くの桜など観察していただけないでしょうか?」とコメントを残してきたのである。

そうしたら今日、自分のブログをヒョイと覗いてみたら、トラックバックにお返事が来ていたのである。

おぉ、すごいぞ。 それになんだかとっても嬉しい!

ブログというのは闇夜に鉄砲撃っているようなものなので、ときどき弾が届いているらしい返事が来るととっても嬉しいのであるが、 それがなんとはるか8000キロも離れたオーストラリアの都市ブリスベンの地から、「届いたよ〜!」と手を振ってもらえるというのは、 またさらに感慨深いものがある。

想いをしたためた手紙をガラスの瓶に入れ、「誰か受け取ってくれますように。」と固く固くフタを閉め、 いつ誰のもとへとたどり着くとも知れないWebという大海原にそっと送り出す。

そして、もう手紙を出したことなどすっかり忘れた頃になって、ある日突然たどり着く、見も知らぬ人からの返事。

「あなたの手紙、受け取りました…」

うわ! ロマンチックだなぁ。

ブログってとってもロマンチックなものだったのね。 素敵、素敵。

はてさて、そのような乙女チックな余韻に浸っている場合ではない。

経過報告とやらをさっそく見させていただこう。

(以下、ブログ『ブリスベン暮らし。 』より抜粋ところどころ)


雑念する「からだ」のRYOさんに、コメント欄でネタ振りしていただいた「南半球の桜は左ねじれか?」(元記事は「右ねじれの桜たち」) という難問に対する途中経過報告です。

いやいや、わざわざありがとうございます。恐れ入ります。

ご存知のとおり、北半球と南半球では、台風の巻き方やお風呂の栓を抜いて水が流れるときなどのうずの巻き方が違います。 北半球では右巻き(時計回り)、南半球では左巻き(反時計回り)です(一口メモ:これを、転向力、またはコリオリの力と呼びます)。
・・・と、思っていたけどさっきWikipediaで検索したら「(浴槽、プールなどの)小規模の渦はコリオリの力はほぼ無関係」 って書いてありました。
えーーーっ、これってザ・シンプソンズのネタになるくらい有名な現象だと思っていたのに!
無関係だなんて、絶対ウソだよ!
だって、蜂蜜の瓶を蓋をしめたまま逆さにして、瓶の中でむりやり右巻きに垂らそうとしても最後は絶対に左巻きになるもん!!!
ナットクいかないよ、ブツブツブツ・・・・

おぉ、そうですか。ザ・シンプソンズのネタの話も蜂蜜の話も初耳です。

私の友人が昔アフリカに行ったときに、赤道直下で穴の開いたバケツに水を入れ「北半球」と「南半球」で(歩いて3秒)、 渦の向きが変わるのを観光客相手に実験してみせる、という「珍商売」があったということを耳にしましたが、 どうやらバケツにちょっとした細工がしてあるらしく、そんなにすぐ変わるもんじゃないと言うことでしたが、実際のところどうなんでしょう?

「コリオリの理論」によると「高緯度(極点近く)ほど強い力が働く」ということですから、 赤道付近をうろちょろした程度ではあんまり変わらないのかもしれません。

蜂蜜の件、今度実験してみます。

のっけから大変申し訳ないのですが、 RYOさんのブログへのコメントにも書いてきたのですがブリスベンにはソメイヨシノがありません。
探せばあるのかもしれませんが少なくとも公の場にはない(はずだ)。

うーん、残念ですね。

RYOさんに拠ると、杉もねじれがあるそうです。
そこで、近所に生えている木々にねじれがないかどうか、犬の散歩がてらチェックしてみましたよ。
【樹々の写真】
(ご覧になりたい方はKYOさんのブログへどうぞ。RYO註)
いかがでしょう?!
ごらんのとおり、どれもこれも左回りですよおおおお!!!

おぉ、ホントだ!! すごい!!

見事なまでにねじれているではないですか! こんなにはっきりとねじれているなんて! よく発見しましたね!  これは誰が見たってはっきり左にねじれ…て…
……ってあれ?

これっ…て右? え?左? んん? あれ?

えーっと、これって左回りですか? そうだとすると日本の桜も左回りですね……。

………。

…ちょっ、ちょっと整理してみましょうか。


え〜っと、さて、右にあるのが「北半球」と「南半球」の台風の衛星写真なんですけど、 これはもう御存知のように「北半球」と「南半球」で反対回りになっています。

台風というのは低気圧なので、そこに生まれる風の流れは上昇気流ということになります。 それによって地表付近の水蒸気が上空まで持ち上げられ、冷やされて雨となって再び地表に降り注ぐわけです。

これをちょっと分かりやすくするために図式化しますね。

「北半球」と「南半球」ではねじれ方が右図のようになります。

どっちが「右回り」でどっちが「左回り」かはとりあえず置いておいて、注目していただきたいのは進行方向に対する回り方です。

樹というのは当然上に向かって成長するので、下降気流である高気圧よりも上昇気流である低気圧の方に喩えることができると思います。

そういう意味では排水口に吸い込まれていく水の作り出す渦巻きは、進行方向が下向きになるので、ちょっとややこしくなりますが、 冷静に考えてみると「形」としては何も変わらないことに気づきます。

(まぁ、自分が逆立ちした瞬間に渦の方向が変わったら困りますもんね。 同じ半球なら高気圧も低気圧もお互いひっくり返しただけなので回り方は一緒です。)

それを前提に、KYOさんの撮っていただいた樹々の写真を見てみますと、ねじれ方は南半球の台風のねじれ方ではなく、 北半球のものと同じであることに気づきます。

そうすると、南半球の植物は「コリオリの力」とは正反対の方へと運動していることになります (「南」の植物は「北」 の植物より大変ってこと?)。

不思議なことですが、植物のねじれはどうやら北半球、南半球の区別は関係なく、植物そのモノの特性なのかもしれないようです。

もちろん、同じ種類の植物で比較してみなければ正しいことは言えませんので「ソメイヨシノ待ち」ということになりますが、 どうも同じねじれ方のような気もしてきましたね…。

うーん。


とりあえず、いずれにしても「驚愕!」の経過報告でした。ありがとうございました。

近いうちに、日本のねじれたソメイヨシノの写真もアップしておきますので、何日後かにまた来てみてください。

そして、もしよろしければ、可愛らしい娘さんやワンちゃんと一緒に調査隊を組んで、 引き続き調査のほどを続けていただけたらと思いますが、いかがでしょうか?

もちろん、気が向いたときで構いませんので…。


ところでまったくの余談なんですけど、最近、大勢の人間で車座になって座ったときに、「みなさん、どっちが右回りですか?」って確認したりしているんです(これもまたシンクロニシティでしょうか?)。

そんな馬鹿げたこと聞いてどうするの? とお思いになるかもしれませんが、これがまた人によって違うんですよ(まぁ、 今回のこともそうですもんね)。

私の今までの統計からすると、だいたい2:8くらいの割合で分かれます(けっこうビックリの割合だと思いません?)。

それはつまり、

「自分から右の人⇒右の人へと行くのが右回り」というグループと(2割)、
「ハンドルを右に切るのと同じ方向が右回り」というグループです(8割)。

(分かりますかね?)

理屈だけ聞くと、どちらも正しいように聞こえますけど、現象としてはまったく正反対の動きになっちゃうんです。

最初は地方によって異なるローカルルールなのかと思っていましたが、どうもそういう訳でもなく、 きわめて個人的な感覚によるところが大きいようです(地域性もないわけではないらしいけど)。

ある人なんて、水平の場合と垂直の場合で呼び方が変わったりしてましたけど、どのあたりの角度から右回りと左回りが変わるのか、 まったくもって謎です(本人も首をかしげてました)。

この「右・左問題」も調べていくとオモシロそうですね。

余談でした。

(→「右ねじれの桜たち<2回転半>」へ)

posted by RYO at 19:42| Comment(16) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月12日

考えないと実はいい人?

世界は「言葉」によって分節化されている。

虹が七色に見えるのは虹の性質によるのではなく、私たちが虹を七色に分けているからである。

たとえば英語には藍色というものがないので、虹は六色ということになっているらしいし、 もし虹の色を表す言葉を三色しか持たない民族がいれば、彼らには虹は三色に見えるだろう。

どの国の文化でも自分たちの生活に密接に関わるものは、きわめて細かく分節化されている。

日本では雨を表す言葉が数え切れないくらいあるように、アラスカでは雪を表す言葉が数え切れないくらいあるし、 アラブの方では砂の状態を表す言葉がやはり数え切れないくらいある。

同じものを見ていたとしても、どれだけ豊かな語彙数を持っているかによって、見えているものは微妙に異なる。

私たちは、季節によって微妙に色合いの変わってゆく雨の肌理(きめ)の細やかさを、 繊細に感じ取ることができるが(個人差はあるにしても)、おそらくアラブやアラスカの人は、 私たちほど繊細に雨の変わるさまを感じ取ることはできないだろうと思う。

それと同じことは、それぞれの雪や砂についても言える。

彼らの眼には映らない微妙な差異を私たちには感じ取れるように、私たちの眼には映らない微妙な差異を彼らは感じ取ることができる。

世界がどれだけ豊かなものであるかは、どれだけ世界を表す言葉を持っているかということと密接に関係している。

多くの若者たちが今、本を読まないがゆえにきわめて貧弱なボキャブラリーしか持たないということは、ホントにもったいないことだなぁ、 と私は思う。

いつも限られた仲間たちとしか会話をしないような環境にいると、「仲間内言葉」という限定的に特化された「語り口」 の中のボキャブラリーだけがどんどん増えていくことになる。

「仲間内言葉」というものは、グループ内で共有された暗黙知をその土台とすることによって成り立っているわけだが、 ふだんからそのような共同体にすっかり身を浸し、違う種類の人間と会話を交わすことがないと、 その自分たちのグループ内でのみ共有されている暗黙知の特殊性を相対化する機会がまったくなくなる。

すると、自分たちの言葉の特殊性そのものにすら気づかないという現象が起きる。

そんな状態では、ちょっと世代を超えたり、地域を越えたりしたときに、 コミュニケーションがスムーズに行なわれなくなるなんていうことは、当然のことである

ふだんからさまざまな種類の人間たちとできるだけ接することで、さまざまな「語り口」を無意識のうちに身に付け、 それによって自分の所属する小さなグループの持つ特殊性そのものにも気づいていくし、 世間的によく使われる言葉の一般性にも気づいていくのである

あまりに多様な価値観が溢れかえって、好むと好まざるとを問わず、どんどん情報が飛び込んでくる今の社会で、 ちょっと閉じて限られた信頼の置ける仲間たちと小さな優しい価値観を共有することが精神衛生上、大切なことであるということはよく分かるが、 もう少し世界を豊かに広げてみたりしてみない?とも思う。


ムチャクチャ美味しいものを食べたり、ものすごく素敵な異性と出会ってしまったときなど、若者たちは「マジ、ちょーヤバイ」 なんて言ったりする。

「ヤバイ」という言葉に、大切に守ってきた小さな自分の世界が、 想定外のものと出会ってしまったショックで壊れてしまいかねないという、未知のモノに対する恐怖が無意識に表れている。

自分が自分のコントロールを離れてどうにかなってしまうかもしれない、ということに対する恐怖は確かに大きいと私も思う。

今まで教育の中で「きちんと計画を立てて行動しなさい」とさんざん言われて、 それが絶対的に正しいと思っている人にはなおのことである。

「思いつきで行動するな」「きちんと計画を立てて行動しろ」という語り口は、

「人間という生き物はきちんと理性で本能を制御しなければならない生き物である。」

ということを暗に言っている。

このようなことを繰り返し言われ続ければ、自分の本能に対する信頼感なんて生まれるわけがない。

「自分が自分のコントロールを離れたらどんなひどいことをしてしまうか分からない」 という自己不信の物語がなんだかやたら世界中に流布しているような気がする。

「大きな力に目覚めた主人公がその力に振り回されて何か大変なことをしでかしてしまう」という物語だったり。

もちろんそれはそれでよく分かる。

けれども私は言いたい。

「自分が自分の主人であることを止めたらとんでもなくいい人になってしまって、あんまりみんなに感謝されるもんだから困ってしまう」

という物語を、みんなでもっと語り合うというのはどうであろうかと。

そのほうがみんなもっと自分を信頼できるようになって幸せになれるのではあるまいかと。

(…別に「困ってしまう」というオチでなくてもいいけど。)

からだってすっかり任せて放っておいても結構いろいろやってくれるものだし、むしろ、ふだんではとてもできなかったような仕事が、すんなりできてしまったりするようなことって結構ある。

何にも考えずに、からだが勝手に動くのに任せていると、「あれ? オレって結構いい奴だったりする?」なんて、 そんな意外なことに気づいたりするもんである。

posted by RYO at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月10日

つまり便宜上の説明でしてね…

犯罪は 「この場所」で起こる』(小宮信夫、光文社新書、2005)を読む。

小宮先生はこの本の中で「犯罪機会論」というものを展開されている。

「犯罪機会論」というのは、犯罪を犯罪者の心の中にその原因を求めるのではなく、犯罪の起こるその「場所(機会)」に注目するという、 防犯対策に重点を置いた、より解決志向的な理論である。

「原因」があるから犯罪が起きるというよりもむしろ、「機会」があるから犯罪を起こしてしまうのだという、人間に犯罪を促す「場」 というものに注目した画期的な理論であるが、ここ数年、欧米諸国ではこの理論を応用した防犯対策によって、 ずいぶん犯罪発生率が下がっているらしい(日本は劇的に増加しているけど…)。

原因を、人の心の中よりもむしろ「場」に求めるという考え方が、犯罪論でもされはじめているんだと知って「へぇ〜」と思ったが、 ずいぶん効果が挙がっているらしいし、「場」という考え方が大変大事なものだと思っている私としては、ちょっぴり嬉しい気分になる。


人間の心やからだというものが、どうやらそれほど「閉鎖系」として振舞っているのではなく、 さまざまな外的要因と密接に関わりながらインタラクティブに振舞う「開放系」であるらしい、 という認識が最近さまざまな分野で広がりを見せつつあるように感じられる。

私が今注目している「アフォーダンス理論」なども、人間に「ある行為」をさせる誘因を人間の側ではなく、環境の側に見出している。

たとえば、「ドアノブ」は人間に「その部分を持つこと」をアフォードするが、それは「ドアノブ」の持つ「可能性」であって、 人間はそれを「発見」して、その「呼びかけ」に「応える」ように行為しているのだと言う 。

もちろん「ドアノブ」には「持つこと」のほかにも、いろんな「可能性」が潜在していて、たとえば「撫でる」とか「引っ掛ける」とか、 あるいは自殺願望を持つ人間であれば「ここで首を吊れば楽になるよ…。」なんていう、 ドアノブのささやきを聴き取ってしまうこともあるかもしれない。

先の犯罪機会論でいえば「ある場所は犯罪を起こすことをアフォードする」ということになるが、ここで言う「場所」とは、「時間」や 「人間」、「まわりの状況」あるいは「自分の状況」といったさまざまなファクターを総合して言っている。

(それはつまり、いわゆる「場」ということであるが、私は「場」というものは「時間」、「空間」、「人間」 という3つのモノからできていると考えている。 日本語ってオモシロイことに、「場」を成り立たせるためのその3つを「間」 として捉えているのであるが、それについてはまたいつか。)

ゴミが散らかっている公園で、なんとなく「まぁ、捨ててもいいかな。」と思ってしまったり、 赤信号で一人が渡り始めると一人二人と後について行ったりして、「主体性」というものが極めて曖昧でおぼろげなものであるということは、 日常生活を振り返ってみると、ふだんからよく観察されることである。


「からだ」というのは、「環境」と「私」をつないでいる無数に存在する「系」の一つの「項」であり(ヒモの片一方ってこと)、 それは宮沢賢治が言うように「風景やみんなと一緒にせわしくせわしく明滅しながら、 いかにも確かに灯り続ける因果交流電灯のひとつの青い照明」なのである。

「世界」と「私」はどうやら切っては語れないらしいということは、物理学のような自然科学の世界でも実験の観測結果において、 抜き差しならない問題として浮かび上がっている。

「観測という行為自体が観測対象の振舞いを決定付ける(波動関数の収縮)」という奇妙な現象が量子の世界では起きており、 「観察の客観性」というものを放棄せざるを得ない、というところにきているのである。

「私」抜きに「現象」を語ろうと「客観の世界」を追及してきた自然科学だけれど、その最先端の研究において「私」 という存在が顕微鏡の中に観察され始め、どうやら「客観」というのは「主観の合意」に過ぎないらしい、 ということが思弁上の問題としてでなく、物理学上の問題として認識され始めているのである。

「私たちはようやく、量子論において数学的に定式化した自然の法則が、素粒子そのものではなく、素粒子に対する『私たちの知識』 を扱ったものだと信じるようになった。」
(@ハイゼンベルグ)


つまり、「私」抜きに「世界」を語ることはできないし(量子論)、「世界」抜きに「私」 を語ることもできない(アフォーダンス理論)のである。

「世界の中の現象」だろうと「私の中の現象」だろうと、お互いが密接に関わりあっているのであって、 これからはそれらを包括的に語れる理論を作り出していかなくてはならない時代になってきている。

そう考えてみると、あらゆる現象は「私」と「世界」のあらゆることが絡み合いながらその要因となって現われているのであって、 ある現象を何かたった一つの「原因」や「理由」でもって語るということの貧弱さが浮き彫りになってくる。

勘違いしていただきたくないが、「結果に対して原因なんて無限にあるんだから、『原因探し』なんてまったく意味がない。」 などということを言いたいわけではない。

「原因探し」というものが現実的な方法論として、大変に有効であることは確かである。

(小宮先生も「犯罪機会論」と「犯罪原因論」を車の両輪に喩えている。)

それを「虚構だ」と言って投げ出して、現実に起こってしまったことに対して「起きちゃったことはしょうがないよね。」とか「運命だよ。 」とか言って、何もしないことを正当化するための説明にして欲しくはない。

そのような、たんなる怠慢の言い訳にされることは、決して私の本意ではない。

私が言いたいのは、「現実に起きてしまったことに対して『主たる原因』を列挙しながらも、あくまで『ま、便宜上ね。』 という節度を保つということが、とても大切なことではなかろうか。」ということである。

「私」抜きに「世界」を語ることも、「世界」抜きに「私」を語ることも、「方法論」としては大変有効な手段である。

「あれも」「これも」と、関連する事象全てを考慮して「世界」を説明しようとしたら、もうひとつ「世界」を作るしかなくなってしまう。

それでは、何も説明していないのと同じである。

現象のたいして重要でない部分をごっそり削ぎ落として、圧縮して、小さな雛形としてまとめて、「状況」を限定して語ったときに、初めてそれが 「説明」になるのであり、それが「説明(言葉)」の持つ

「説明するために、すべてを説明することを放棄する」

という背理なのである。

「この説明ですべてを説明することはできません。使えないと思ったらただちに使用を中止してください。」

という薬の注意書きのような態度こそが、説明する者としての「節度」ではなかろうか。

と、こう申し上げたいのである。


…えーっと、あれ? 何の話だっけ?

あぁ、そうそう、「犯罪論」の本についてのお話だったっけ。

なんだか話がやたら飛んでいってしまったな。まぁ、いつものことだけど。

…なに? 言ってることが矛盾してる? もうちょっとまとめて書いて欲しい?

残念ながら、このブログは「雑念」を徒然なるままに書き散らすブログであるので、そのご要望にはお応えすることができません。 あしからず。

posted by RYO at 20:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月08日

啓蒙の予想図

ときどき人としゃべっているときに、何かつまらなさというか空虚さというものをふと感じることがあるのだが、そういう時は相手が 「コミュニケーションの完成予想図」というものを思い描いていることが多い。

私は人とおしゃべりをしているとき、 会話がこれからどちらへ向かうのかさっぱり見当が付かないというスクランブルでサプライズな状態を一番愉しむタイプである。

当然「完成図」なんて予想もしていない。

むしろ話の落としどころが予想外であればあるほど愉快でしょうがない(予想していないのに予想外というのもヘンだな)。

何か予想もできない新しいことがお互いの間で生まれることを期待して、ワクワクしているのである。

何しろ私は、相手が次に何の話をしてくるのか愉しみなのはもちろん、自分が次に突然何を思いついてしゃべりだしてしまうのか、 それさえも愉しみでワクワクしているのである(毎度のことながらシアワセな男である…)。

会話がジャズのセッションのようなコラボレーションであることが、私の理想である。

そんな私が「完成予想図」を思い描いている人としゃべった時に、何かすれ違いというか同じ「場」 を共有していない感覚に陥ったとしても不思議なことではない。

こちらは「今」を生きているのに、相手は「未来」を生きているのである。

お互い「ちがう時間」を生きている。

同じようなことで「先入観でこちらを見ている人」というのがあるが、その人は「過去」を生きているとも言える。 それもまた同じような空虚さを感じる種類のコミュニケーションである。

会話は何か思いもつかないモノが立ち現われてくる祝祭的な「場」であって欲しい。

もちろんいつもいつもそのような「場」でなくてもいいけれども、できることならば会話は「迷走」 を一緒に愉しんでくれる人としゃべりたいものだ。

「僕たちどこへ向かっているんだろうね。ワクワク。」

そういえば大学時代、ある先輩が私の同期の人間に「これからどうするの?」と聞いてまわったときに、私のときだけ突然 「君はどうなるの?」と聞かれてゲラゲラ笑ってしまったことがある。

今思えば、私の性格を見事に見抜いた卓越した洞察力をもった先輩だからこその、至言の一言であった。


そういう「場」を共有できないタイプの人に、私が「啓蒙の人」と呼んでいるタイプの人間がいる。

「啓蒙の人」というのはどういう人かというと、自分の目の前にいる相手(私)を 「まだ自分や世界の素晴らしさに気づいていない蒙昧の人である」とまず想定するのである。

そして「私が啓発してあげて自分や世界の素晴らしさに気づいてもらわなくちゃ」と、こちらの要望などは意も介せず、 いきなり啓蒙活動に入られるのである。

そうして私は問答無用のうちに、「無知」で「蒙昧」で自分や世界の素晴らしさにまだ気づいていない啓蒙されるべきかわいそうな人、 という「役割」を与えられる。

私が「蒙昧の人である」ということを、どうしてこの人は私のことをよく知りもしないのに、 そんなに確信的に断定することができるんだろう? と疑問に思うのだが、でも「蒙昧である」 ということは確かに事実であるような気もするので、はっきりと否定することもできずに、私は「はぁ…」などと、 とぼけた返事をすることになる。

(大航海時代のような「啓蒙の時代」というのは、世界中に同じような思いをした人たちが大勢いたんだろうなぁ。)

おそらくその人の頭の中では、「蒙昧な私が何かとても大切なことを教えてもらってシアワセのあまり涙を流して喜んでいる」 という感じの「コミュニケーションの完成予想図」(そういうのって「相互理解」とは言わないと思うけど)がはっきりと思い浮かんでおり、 「現在」はその予想図の「未来」へと向かう通過点にすぎないのであろう。

だから、私の発する「思いつきの言葉」は通過点というか風景として流れていってしまって、会話の舞台には上がっていけない。

台本にない私の言葉はその「場」においては、ただのノイズなのである。

私が舞台に上がるためには、相手の脚本どおりの言葉を、それもちょっと先回りしてしゃべらなくてはならない。 そうすると私は相手と同じ「場」に、というか同じ「舞台」に立てた人間としてはじめて認められ、お互いの視線が絡みだすのである。

でもその「場」は祝福された感じがまったく感じられない。

少なくとも私には。

自分がどこか「場」ちがいな人間である、という違和感を感じないではいられない。

私はそういう「場」に自分がいるなと感じた時、その「場」において自ら「秩序破壊者」の役割を演じて「場」 にインパクトを与えることに意識を向ける。

「場」ちがいな人間をわざわざ引き込もうというのだから、「場」 が今までどおりの秩序では上手くいかなくなることくらいは覚悟していただかないとしょうがない。

というよりむしろ、私にそういう役割を望んでいるのだと、そのように私は解釈する。

なので私はまるで無知な子どものように、きわめてラディカルで本質的な質問を連発して、その「場」 の世界の成り立ちをくっきりと浮かび上がらせることに専念するのである。

そうして、その「場」において、その「場」の世界(というより「その人の世界」)が別の表情をもって立ち現われてきたときに、 私ははじめてその「場」になじみを感じ始める。

そのときの「その人の世界が初めて見せる新しい表情」は、確かにその「場」において新しく生まれてきたものだからである。

一緒に「その場の生成」という協働作業をしている、という連帯感がその「場」に生まれる。

そうしてはじめて私は安心して、その「場」の祝福をはっきりと感じながら話を聴けるのである。

posted by RYO at 23:35| Comment(7) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月05日

おもてなしは裏で地味に

過去ログを調べるのに楽なように、記事の見出し一覧というのを作ってみた。

まぁ、訪れる人に対する「おもてなし」と言ってもいいかもしれないが、「自分がやりたいからやった」と言うほうが、 本当のところかもしれない。

しかし、こういう「誰かがするかもしれない苦労」を楽にするために、代わりにやっておいてあげる、 というのは実際ホントに地味な作業である。

自分が好きでやってるブログとはいえ、それぞれのエントリーからプロパティを開いて、アドレスをコピー&ペースト、コピー&ペースト、 コピー&ペースト、コピー&……、という地味〜な作業を繰り返していると、「こんなことをして一体私になんの得があるんだろう?」と、 ふと疑問が湧かないでもない。

「あぁ、そうか。おもてなしというのは、こういう誰にも知られないところでの地味な作業のことなんだなぁ。」

と改めて思う。

考えてみれば、このブログを始めるときも、文字のサイズを繰り返し変えて、何度も実際に見て確かめてみたり、 小さいウィンドウで開いても記事がそのまま読めるように左側にあったサイドバーを右側に移してみたり、行間がじつは1: 1.168という黄金比率だったり(だからどうってわけでもないんだけど…)、誰もそんなこと気づかないようなところで、 ずいぶん一生懸命いろいろとやっていたことを思い出す。

(改めて言うが、私はHTMLの知識なんて皆無であり、すべて試行錯誤である。)

でも、おもてなしとか親切というのは、やっぱり相手が「気づかない」ということが理想なのであって、「相手に気づいてもらう」 ように振舞うというのは、時と場合によってはイヤラシイものになりかねない。

「気づかない」ということは「気使わない」ということである。

「あ、気を使ってるなぁ。」と相手に「気を使わせない」ように、こちらが「気を使う」ということが最高のおもてなしではないだろうか。

「なんだか知らないけど落ち着く」とか、「なんだかよく分かんないけど気持いいんだよねぇ」とか、そういう「場」 をさりげなく提供できたら、もてなす側としてもやはり嬉しい。

茶の湯の始祖、千利休は隅々まで綺麗に掃き清めた庭にわざわざ庭木を揺すって落ち葉を散らしたと言うが、その気遣いの細やかさには、もはや完全脱帽、平伏状態である。

利休の話でふと思い出したが、利休のそんな「おもてなしの話」で私が一番印象に残っている鍬の話がある。

ある日、客人が利休の自宅を訪ねていくと、利休はちょうど畑で野良仕事をしている最中だった。

「すぐ行きますので家に上がってお待ちください。」という利休の言葉に、客人は家に上がって主人を待つ。

やがて「お待たせしました。どうぞこちらへ。」と奥の間へ案内されたとき、客人の目に飛び込んできたのは、鍬が飾られた床の間であった。

つい先ほどまで利休その人が畑を耕していた鍬が、綺麗に清められて飾られていたのである。

もし、私が仮に刺客としてそこに訪ねていったのであれば、「参りました。」と言ってすごすごと帰って行ったであろう。

男でも惚れんばかりの心憎い「おもてなし」である。

しかし、考えてみると私たちの周りにはあらゆる「おもてなし」であふれている。

私が今パシパシと打っているパソコンだって、私の手元に存在するのに、おそらく何万人といういろんな人の発見や研究や苦労の 「おもてなし」の上で成り立っているのであるから、それを思うと眩暈がしてくる。

もしあなたが、何かに「これ使いやすいな。」と感じたのなら…いや違うな、「これ使いづらいな。」と感じなかったのなら、それはおそらく誰かの「おもてなし」の上に成り立っているのである。


私の場合、そういう「おもてなし」ができているかどうかということをチェックするのに、第一の判定者として「読み手としての私」があるのだが、「彼」は同時に、一番手厳しい判定者でもある。

我ながらまるで小姑のようにウルサイ。

試作品を見ながら、「この文章の位置、あと1ミリくらい下にズレないかな?」とか、「あと3ピクセルくらい左に寄せたいなぁ。」とか、 現場の人間の苦労(って自分なんだけど…)もまったく考えずに平然とぬかすのである。

おかげで現場はもう大変である(って自分…)。

なにしろ知識が皆無であるので、「極端に数値を変えてみて、実際何が変わるのか確かめてみる」という超原始的手段でもって、 作業が進むのである。

「そんなことするくらいなら本を買ってきて調べればいいじゃない。」

と思う方もいらっしゃるかもしれない。

案ずるなかれ、そんなことはとうにやっている。

「サルでも分かるHTML」みたいな本を買ってきて調べてみたが、ちっとも使えないので部屋の片隅に投げ出してあるのである。

なにしろ私が欲するのは「この新着記事の上のスペースを気持ちもうちょっと空けたい」とか、 「新着記事の日付は別に要らないから消したい」とか、きわめて個別的で感覚的なことなのであり、「ホームページの仕組み」とか 「箇条書きの表示形式の変更の仕方」とか、そんなことが知りたいのではない。

でも、そんな苦労は意も介せず、「読み手としての私」は「イマイチ気にいらんなぁ。」とか平然とぬかすのである。

ふぅ、大変ですよ、ホントにもう。


そして実は、これらの文章もブログにアップされるまでには、「Word」でパシパシと打って、「メモ帳」 にコピーしてテキスト形式で改行を整えて、「ユビキャストブロガー(ブログ作成支援ツール、なんと無料)」でさらに校正して画像も挿入して、 Web上にアップして実物を見ながら最後の校正、という実に4段階もの工程を経ている。

最初の「Word」での文章作成が「書き手としての私」の仕事であるとするならば、あとの3段階は「読み手」の視点から 「ここはこの方がオモシロイ」とか「ここ分かりづらい。こうした方がいい」とか、「読み手としての私」の作業なのである。

「そんだけやってこの程度の文章なの?」

という痛いツッコミには、「実力不足です。」と素直に認めるしかないが、私だっていちおうこれでも一生懸命やっているので、 どうかご容赦願いたい。

(もちろんご意見、ご叱正はありがたく頂戴致します。)

厳しい批評家が傍(?)にいるということは、成長するためには大変ありがたいけれども、ときどき「どっか行ってくれないかな。」 と思うことも無いことは無い、ということは「彼」には内緒である。

posted by RYO at 21:51| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月03日

「敬意」と「学び」

2、3歳くらいの女の子が人形を持つとき、なんだかすごい持ち方をしていたりする。

足を持ってさかさまにぶら下げていたり、髪の毛をつかんで持っていたりして、ある意味ホントに自由な持ち方をする。

全然縛られていない。

子どもは相手の訴えを聞く耳なんてまだ育っていないので、人形の「形」が訴えてくる「こう持って!」 というアフォーダンスに縛られていないのである(正しく言うと「発見できない」)。

私たち大人は、子どもが人形をそんな持ち方で持っているのを見ると、

「そんな持ち方したら、お人形さん痛い痛いでしょ。」

なんて言ったりして、お人形さんを擬人化して丁寧に優しく持つように諭す。

しかしそれは、大人のほうがモノに縛られているとも言える。

しょせんモノなんだから、どう持とうと関係ないといえば関係ないかもしれない。べつに自分の好きなように、 まったく自由に持ったっていいのである。

確かにそういうふうに全然縛られずに自由に振舞えるということも大事なことではある。

けれども、先人たちの長年の知恵の結晶である作法や伝統といったものは、そうは教えてこなかった。

モノを扱うにしても、その扱い方には所作があり型がある、と先人たちは口をすっぱくして繰り返すのである。

ある意味、モノに縛られて行動することをわざわざ教えてきた。目の前にあるモノに対して、「その存在の要求に応えるように動け」 ということをさんざん教えてきたのである。

それは物言わぬモノの訴えに耳を傾け、その訴えを聴き取る感受性を育て上げようという先人たちの教えなのかもしれない。

モノたちの声なき声に傾聴し、モノと対話し、モノの訴えに応えるように振舞うということ。

それはモノに対する思いやりであり、「敬意」である。

モノに縛られて行動するということは、それはモノに対して思いやるということでもある。

たとえば、目の前にいる人間がどういう思いでそこにいようが、それに縛られずに振舞うということは確かに自由ではあるが、 そこに思いやりはない。

それはモノに対しても同じである。

個人の自由な振る舞いを自制して、あえて目の前にいる存在に縛られて行動すること、目の前の存在に対して自ら「呼応の関係」を立ち上げることを「嗜み」として身につけるのである。


そして、そのような「敬意」こそが教育において一番大切なものである、と私は思っている。

「敬意」とは「教え」を引き出すために、絶対必要な「学びの構え」である。

自分以外のものに「敬意」を払わない人間は「他者」と出会えない。

「他者」と出会ったときに、自分の手持ちの知識で説明し「既知」に還元してしまう者は、自分の世界を広げることが無い。

世界を仕切りで区切って自分の敷地をつくり、そこが世界のすべてだと言い張っているようなものだ。

先人に敬意を払い、友人に敬意を払い、後進にも、果ては道具にも「敬意」を払うことは、そこから「教え」 を導き出し成長するために不可欠な態度である。

「敬意」とは「あなたには私の知では及ばない何かが秘められている」という態度である。

「未知なるモノ」への敬意が、「学び」を発動させる。


アイヌやネイティブ・アメリカンといった民族に伝わる自然信仰(アニミズム)のようなものは、 世界中のすべてのモノたち(動物におさまらず道具や現象までも)に「敬意」を払うことによって、彼らの声なき言葉を聴き取り、「教え」 を導き出している。

道端に落ちている石コロに「神様」が宿っているとするならば、意味もなくそこに落ちている、ということはありえない。

人間には、「そのお考えが及びもしない」という存在が「神様」なのである。

そこに「神様」がいらっしゃる以上、私に対して何か「メッセージ」があるのかもしれない。

いや、というよりむしろ、私に何か「メッセージ」を伝えるために「神様」が私の前に現れたのだ、と考えてみることが「神様」 に近づくために私たち人間にできることである。

そして、その「メッセージ」を読み取れるかどうかということは、私たちの「敬虔さ」による。

「何が言いたいのかよく分かんないからさぁ、きちっと言葉にしてくれない?日本語で。」などと、 神様に対して恐れ多い要求を発する不信者には、たちまちあたりに暗雲が垂れ込め、そのアタマに神のイカヅチが落ちることになるであろう。


先人に「敬意」を払う者は、先人から多くの「教え」を引き出し学ぶ。
草木に「敬意」を払う者は、草木から多くの「教え」を引き出し学ぶ。
小石に「敬意」を払う者は、小石から多くの「教え」を引き出し学ぶ。

道端に咲く花を見て、人生について何かとても大切なことを学んでしまうような、そんな「開かれた構え」を、 つねに心がけていたいものである。

posted by RYO at 22:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月01日

右ねじれの桜たち

右の写真はちょっと前に、多摩川の近くの小川をひょいとのぞいたときに見つけたタニシ三兄弟。

なぜか親亀小亀孫亀のように、一番右側のタニシが全員を背負ってのそのそと歩いていた。

コケについた空気の泡の大きさと比べてみると、その大きさ(小ささ?)がなんとなく分かると思う。

両親を早くに失くして一家の柱となっているお兄ちゃん(かどうかは不明)、 まだ幼い姉弟のために一生懸命がんばっているのだ(かどうかは…)。

健気だなぁ。泣けるぜ。うぅ…。


タニシのような「水棲生物」という「流れの中に棲まうモノ」は、その「姿勢(形態)」に水の「流体」としての性質がよく現われているので、形の「流れ」 を読む観察の訓練の対象としては、植物と並んで、もってこいである(たとえばタニシは渦巻きの形をしている。カタツムリもそうだけど…)。

水は彼らの生活とは切っても切れない存在である。

彼らの行動も形態も、水との関係を切っては語れない。もっと言ってしまえば、「水」 の性質をそのまま彼ら自身の姿形や生態に引き継いでいる、とも言えるくらいである。

ホントはすべての生物が「流れ」の中に存在しているので(空気や時間ね)、「流体」 としての性質はすべての生物の姿勢に観察されるのだが、地上の生物は「流れ」の性質に加えて、「重力」 という上方からの非常に強い力の影響を受けているので、水棲生物に比べるとそれほど「そのまんま」 というほどのはっきりとした形では観察されない。

(ただ、空を飛ぶモノはやや重力から開放されているので、水棲生物ほどではないが「流体」 としての性質が地上の生物よりもはっきり見られる。)


これまでも何度かこのブログに書いているが、私はよく散歩をする。

散歩をしながら、だいたい何をしているかというと、…まぁ、たいていは何にも考えていないのだけど、 周りに樹があるところ(森やら街路樹やら)を歩いているときは、それらの樹々の「姿勢」を観察したりしている。

私はとにかく何かを「観察する」ということがとっても大好きなのである。

対象はあまり問わないが、ホモサピエンスのメスを観察するときが一番真剣かもしれない。

とにかく街の樹々を観察することは私にとってたいへんオモシロイことなのであるが、その観察はそのまま「流れ」の観察の「訓練」 にもなっていて、そして、それは人のからだを見る時にも生かされている。

みなさんも機会があったらぜひ、街にあるいろんな樹々を見比べてみるとお分かりになるが、樹々というのは、 みんなそれぞれホントに個性的な姿勢をしていて、とってもオモシロイ。

京筆でさらさらっとすべるように描いたかのようなハナミズキの柔らかな姿勢。

竹箒で天に向けてバッとなぎ払ったかのようなポプラの力強い姿勢。

まるでボレロか何かを踊っているかのような肉体的な魅力を放つサルスベリの姿勢。

空から養分を吸収しようと天に向けて根っこを生やしたかのようなケヤキの姿勢。

ほかにもメタセコイアやイロハモミジ、桜、サワラ、銀杏、ヒマラヤ杉に白樺などなど…。

みんなみんな、とっても素敵である。
(写真はイロハモミジと銀杏@代々木公園)

そのどれもが、何十年あるいは何百年もの時間をかけて、たった一粒の種子から流れ出て作り上げられてきた形態であり、 それが樹々の姿勢であり個性なのである。

何十年、何百年の「生長」という「種子からの流出」のうちの、わずか一時の水淵に見られる「流れ」の波の形が、たった今そこに、 一本の樹の形として現われているのである。


多くの子どもたちが大好きな「となりのトトロ」というアニメ映画があるが、その中に、トトロにもらったどんぐりが芽を出すシーンがある。

トトロにもらったどんぐりを庭に植えて、主人公の姉妹、サツキとメイが芽が出るのを「まだかな、まだかな。」と待っている。ある夜、 二人がふと目を覚まして庭を見てみると、トトロたちがどんぐりを植えたあたりでなんだか奇妙な踊りを踊っている。 二人とも裸足で庭に駆け出してその踊りに加わって、「うーん」と踏ん張ってバッと手を大きく伸ばして伸び上がると、 たちまちどんぐりが芽を出して、ぐんぐん生長していく。

そのあと、その樹はみるみるうちに樹齢何千年とでも言うぐらいの巨大な大樹にまで生長するのだが、あの、 何千年の時の流れをわずか数十秒にまで凝縮したようなあのシーンに、植物の「流体」としての性質が見事に現されている。

あの「流れ」のうちのわずか一コマを、私たちは目の前の樹の「姿勢(形)」として見ているに過ぎない。


このような「形態を空間的な概念として捉える」だけでなく、「形態を時間的な概念として捉える」というやり方は、「ゲーテの自然観察法」 の手法に似ている。

私は「ゲーテの自然観察法」についてしっかり学んだわけではなく、その著書を読んだだけであるので、 私のやり方が正しいものであるかどうかは分からない。というより、ちょっと違うことは自分でも分かっている。

けれども、表現の言葉は多少違ったとしても、だいたいポイントとなるところは外してはいないのではないかと、 怖れながら勝手に思っているのである。

(きちんと学んでらっしゃる方、ぜひ「それはぜんぜん違うよ」とツッコンでくださいね。私は「誤読」の達人でありますゆえ。 )

シュタイナー学校では子どもたちに宿題として、そのもっとも基礎的な訓練をやらせたりするが、 こういう世界の見方を子どものうちに身に付けるというのは、とてもいいことだと思う。

東洋医学などの伝統医療や民間療法は数え切れないくらいの種類があるが、それらの多くで行なわれている人間の身体観察は、 基本的にこの「形態を時間的な概念として捉える」という点で共通している。

「からだ」を「流れ」として見るのである。

いや、ちょっとちがうな。

「からだ」を「流れ」の中に現われる「波」として見るのである。

うん、この方がしっくりくるな。

からだの「空間的把握」については、解剖学などの現代医学は素晴らしい業績を残してきたが、からだの「流れ」という「時間的把握」 については先人たちの経験から、体得的にその観察法を学ぶ以外には、今のところ私たちには手段が無いように思う。

なにしろ機械というモノは、生き物のように「流れ」の中に身を置いているモノではないので、少なくとも今の段階では、機械による 「流れ」の把握というのはむずかしいように思う(将来は分からないけど。量子コンピュータとか)。

でも、「からだは波である」という話はしゃべりだすとまた止まらなくなってしまうから、このへんにしておこう(前に下宿でしゃべったときも学生たちに 「ポカン」とされてしまったからね)。

気が向けば、またいつか書きますので。


でも最後に、あと一つ。

これはみなさんにもぜひぜひ確認していただきたい、というか、お願いがあるのである。

私があちこちを散歩している中で、いろんなところで桜(ソメイヨシノ)の樹を見ているうちにふと気づいたことがある。

それは何かというと、

「ほとんどの桜の樹は右にねじれている」ということである。

きわめてゆるやかな右ねじれしか示していない樹もあるので、分かりづらいものもあるかもしれないが、私の見てきたかぎりでは、 ほとんどの桜(ソメイヨシノ)が右にねじれている。

「左ねじれ」であるならば、「あぁ、太陽を追いかけているのかな?」と予想もつくが、「右ねじれ」というのは予想がつかない。

「右ねじれ」ということは「生長する方向に向かって右に回っていく」と言うことであるが、「進行方向に対して右回り」 ということから連想されることと言えば、やはり渦巻きであり台風である。

北半球においては、「コリオリの力(地球の自転による見かけの力)」によりすべての運動は右に曲がっていくので、水も空気も「流れ」 の進行方向に向かって右回りに進む。

これはみなさん、文字で読んでもよく分からないと思うので、お風呂場などで自分で実験して、 渦巻きを作ってごらんになれば分かりやすいと思う。

ちなみにウンコは左回りで出てくる。関係ないけど。

消化器は入口において右にねじれ、出口において左にねじれている(@三木成夫)。

口から入った食べ物は右に回りながら入っていき、ある時点(どこかは知らない、たぶん小腸あたりか?)でそれが反転し、 左に回りながら出てくるのである。

ゆえに排泄物のことを「左巻き」と称するが、高じてあまりアタマの調子のよろしくない人間をも意味するので、使うときにはゆめゆめ気をつけなくてはいけない。

「ウンコが左巻きだからって、それがどうした」と言われればそれまでだが、私はそこになにか深い意味があるのではなかろうかと思っている(…と、 実際見つかるものである)。


「桜のねじれ」と「コリオリの力」というこの連想が、正しいつながりを示しているかどうかは私には分からない。

(だって「桜の樹と右ねじれの関係」なんて、調べてもどこにも出てないんだもん。グスン。)

でも、そこではたと疑問が浮かぶ。

もう同じように疑問を抱いている方もいらっしゃると思うが、それは「じゃあ、南半球では桜はどちらにねじれているのだろう?」 ということである。

もし、桜のねじれが「コリオリの力」によるのであれば、南半球においては桜は左にねじれているはずである。

もし、右にねじれているのであれば、それは桜の樹そのものの性質によるということである。

もし、日本でもオーストラリアでも桜はねじれていないというのであれば、 それは私の眼が右にねじれているということである(あるいはアタマが)。

ということで、どなたかオーストラリアの桜(ソメイヨシノ)がどちらにねじれているか、ご存知の方いらっしゃいませんか?

ご存知の方、あるいは南半球に住んでいる知人がいらっしゃるという方、そのあたりの情報がお分かりになりましたら、 ぜひぜひお教えいただきたい、とこのように思っている次第であります。

みなみなさま、ぜひともよろしくお願いいたしまする。

かしこみかしこみもうしあげる。

(→「右ねじれの桜たち<2回転>」へ)

posted by RYO at 21:24| Comment(2) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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