2005年11月28日

遊びのルールとミソッカス

昨日会ったKくんは野球の審判員という特殊な仕事をしているせいか、そのお話がとてもオモシロイ。

審判員という職種が、どのように組織化されていて実際どのような仕事をしているのか、私は知らない。

だいたい審判員というものにどうやったらなれるのかも、私は寡聞にしてよく知らない(毎日のように耳にするという人も稀であろうが)。

審判員というものはゲームを支配するルール(法)の執行者であるわけだが、それは実際社会において言えば「刑事」と「検事」と 「裁判官」をくっつけたような絶対的な権力者である。

つまり「逮捕」から「起訴」、「判決」までが、たった一人の中で一瞬にして行なわれてしまうのである(うぅ、恐ろしい、ブルブル)。

当然、その過程はまわりの人間にとっては、まったくのブラックボックスであって見る事ができないので、審判員が何を見て、 いかなる根拠でもって判定を下しているのかは、決してうかがい知ることができない。

だからそれゆえに、まわりの人間にはいかなる論駁の余地も与えられていない。

たとえ、どんなに審判員の顔の眼の前で抗議の声を荒げたとしても、

たとえ、実は審判員が、

「ヤベ、こんなにブーイングが来るとは。ミスったか? でも、言っちゃったんだから、しょうがない。」

などと、心の中で思っていたとしても、ポーカーフェイスで首を横に振られたら、プレイヤーも果ては監督や観客までもが、 黙って(ということもないか)その主文を聞き入れるしかない。

「ゲーム(スポーツ)」という特殊な環境の世界では、何よりも「滞りなくゲームが進むこと」が最重要課題とされているので、「真実」 がどうであるのか追究することよりも、ゲームが中断されることを回避して、 すみやかにプレイが続行されることをできるかぎり優先するのである(だからゲームの進行を妨げる者はすぐさま退場させ、 説得などという悠長なことはしない)。

であるので、ゲームにおいては一人とか三人とか少人数の人間に絶対的な権限を持たせて、あらゆる「滞り」 をバサバサと斬って(それがたとえ誤認であっても)、ゲームの「流れ」を良くするということが、たいへん効果的な方法なのである。

では、実際そのような誤認に基づく「斬捨て御免」がどれくらいの頻度であるのだろうかと素朴に思うけれども、 Kくんの話を聴いていると、そういうことって結構あるらしい(あくまで自己申告だけどね)。

やっぱり調子が悪いときはそういうことが多くなると言うが、そりゃ、そうだよね。人間だし。


ゲームを成り立たせるための柱となるルールそのものは地域によって大きく異なる。

それは日本のプロ野球とメジャーリーグの話だけに限らず、子どもの草野球のようなものであっても同じである。

子どもの頃の遊びを、大人になってから久しぶりに知り合い同士でやろうとしたら、ホントに多様なローカルルールがあることに、 みんなでお互いびっくりした経験はみなさんにもあると思う(透明ランナーとか、知ってる?)。

その、ちょっとズレていたり、あるいは突拍子もないローカルルールをきちんと聞いていくと、 それぞれのルールがきわめて合理的な成り立ち方をしていたりする。

それぞれのルールは各地の「遊びの共同体」の中で、年長者から年少者へと伝承されてきたのであろうから、考えてみれば当然である。

でも、思い出してみると、子どもの頃のルールってきわめて可塑的であったなぁと思う。

たとえば、いつものメンバーで遊ぼうとみんなで集まったときに、ある子が、

「今日、家に母ちゃんがいなくてさ、弟も一緒なんだけど混ぜてやってくんない?」

なんて言うと、

「おぅ、いいぜ。」

なんてスッと仲間に入れて、一緒に遊んだりするなんてことはよくあった。

けれども、たとえば鬼ごっことかしようとすると、小っちゃい弟なんかいると、すぐつかまってずっと鬼をやる羽目になったりして、 ゲームとして成り立たなくなってしまう。

だから、そういう時その場で急遽、特別ルールとして、

「コイツさ、小っちゃいから『ミソッカス』ね、つかまっても鬼になんないの。」

なんてことを誰かが言い出して、その提案にみんなも「オッケー!」とあっさり応えて、ワイワイとみんなで愉しく遊んでいた記憶がある。

みんなで遊ぶときには不公平うんぬんよりも、とにかく「みんなで愉快に楽しめる」ということが最優先である、 ということを子どもながら無意識に感じていたのだろう。

おそらくそれは、ルールというものの本質的な部分を直観していたのだと思う。

ルールというものは「とりあえず」あるものであって、 そのルールではうまいこといかないような事態になったときにはルールを変えればいい、ということを、私はそのような「遊びの共同体」 の中で自然と身に付けてきた。

というより、考えてみればそもそも「遊び」というものは、「何かルールを作って、それを守る」という、「ごっこ」や「ロールプレイ」のようなものが、その本質である。

「学校から帰る途中、家に着くまで影しか踏んじゃいけない」とか、「できるだけ長く鉄棒の上で立っていられた方が勝ち」とか、「パパ、怪獣ね。ボク、ウルトラマンティガ。」とか。

そして、最初に決めたルールではどうにも具合の悪い場面に出会うと、「やっぱり、3回までは『不死身』が使えるの」とか言いだして、おもむろにルール変更したりするのである(都合がいいよなぁ)。

今の子どもが「遊ぶ」と言うとき、それは誰か大人の人が一生懸命に考え抜いて作った「すでに完成されているルール」の上での「プレイ」 を指すことが非常に多いような気がするが、それはとても残念なことであると私は思う。

ルールとは「すでにある」ものではなく、つねに「作っていく」ものなのであり、 そして一見めんどくさくてシンドイようにも見えるそのような姿勢が、実ははるかに「愉しいことである」ということに、 ぜひとも早く気がついて欲しいものである。

(それは私はモラルというものについても同じことが言えると思う。「善」「悪」という判断は「すでにある」ものではなく、つねに 「作られていく」ものではないだろうか。)


もう一つ、ついでに昨日の話の中で、Kくんいわく、

「野球とソフトボールの違いよりも、野球とBaseballの違いの方がはるかに大きいです。」

だそうである。

なんと、スポーツ種目の違いよりも、文化性、民族性といった違いの方が、スポーツの判定において影響力が大きいというのである。

ルールというものの成り立ち方は、「何」をプレイするのか、ということよりも、「誰」がプレイするのか、ということによる影響の方が大きい、 ということであるな。

なるほど。

posted by RYO at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月27日

審判と非日常

家でパソコンをパシパシと打って遊んでいたら、ふとOさんというある女性のことを思い出した。

そういえば、先月電話で「ひさしぶりに来月あたりに時間を作って会いましょう。」とか言って盛り上がっていたよなぁ。

え〜と、今日は27日。あと3日しかないじゃん。

と、思っていたら昨日変えたばかりのおニューの携帯(ただしくはPHS、使ってる人をあまり見たことがない)がおもむろに鳴る。

はじめて聴く着信音であったので、大いにたじろいだが、もたもたと手にとって待ち受け画面をひょいと覗くとOさんである。

おお、私の予感が的中したのか、はたまた、Oさんが私の想いに感応してしまったのか。

それはともかく、電話に出てみると「今、これから渋谷に出るのだけれど、時間ある?」というお誘いの電話だったので、「ちょうど今、 あなたのことを考えていました。」という歯の浮くようなセリフを口にして、会う約束をする。

(これが同年代の女性であれば、私もなにか赤い糸のようなものを感じて期待に胸を高まらせてしまうのだが、 まことに残念ながら涙を飲んで立候補を辞退させていただく次第である。)

このOさんとは、ときどき会ってお話したりするのだが、とてもお話が興味深くたいへんオモシロイので、お話を伺っていて私はただ 「へぇ〜」とか「ほぉ〜」とか基本的に「ハ行」の単音が口から漏れるばかりである。

喫茶店に入ってコーヒーを飲みながらお話をしたのだが、「白い蛇」の話だとか、「あわいに立ち現われるモノ」についての話だとか、 とてもここには書き記せないようなお話で盛り上がる。

何か「大切なこと」について語ろうとする時、「日常」とはやや離れた「非日常」 の言葉でもって語らざるを得ないというようなところがある。

だからあんまりふだんの生活で、そのような話をする機会というのはそうないのだけれど、なんとなく「この人には話が通じる」 というような出会いがあるものである。

光栄なことに私はOさんにとって「話が通じる人」であるようで、そのようなお話を聞かせていただいているわけであるが、当然ながら、 私にとってもOさんが「話が通じる人」であることは言うまでもない。


そうして二人でさんざん「通じる話」に興じていたら、もう一人Kくんという院生がこれから来るというので河岸を変えて居酒屋へ行き、 さらに盛り上がることにする。

毎週、野球場に行っては審判を務めているという異色の輝きを放つ院生のKくんは「ルール」 というものについて日々思うところがあるらしく、「ルールと文化性」というものについて、野球の話を軸に熱く語る。

私とOさんはその卓見に「ほぉ〜」と感心していたのであるが、「ルールとは正確さよりも一貫性が大事なんです。」という言葉が、 その口から飛び出したときには私は思わずクラッときてしまった。

何にクラッときてしまったのかは私にもよく分からない。けれども、そういう言葉はいつかあるときに劇的にその真髄がひらめく、 そんな強烈な言霊を秘めていることがよくある。

なので、私は「いいよ〜。今のセリフいいよ〜。」と言ってメモを取りだし、コリコリとメモる。

けれども、気がつくとKくんもいつのまにやら「勝手に動く名札」の話などをしはじめて、またもや会話は「非日常」の様相を呈してきた。

なんだ。Kくんもいけるクチじゃない。いいよ、いいよ〜。

ばんばん口からすべって「非日常」を語ってちょうだいよ。

適切な「非日常」が「日常」を成り立たせているんだからね。

posted by RYO at 23:55| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月24日

そして私も愛の手みやげ

今日はふたたび群馬の子育てママさんたちに講座を一席ぶつ日である。

「湘南新宿ライン」に乗って本をふむふむと読んでいたつもりであったが、 気がつくと眠りに落ちていてあっという間に目的の駅についてしまった。

そうか、当たり前のことだけど、どんな遠いところであっても眠れば近いんだな。なるほど。

駅の改札を出てみると、迎えに来てくれてるはずのママさんがいない。

ちょっとさみしい気持になってしまったが、日当たりのいいところに移動して背中をポカポカと温めていたら5分ばかり遅れてやってきた。

もう一人お友達が来るのを待って、そのまま会場となるお宅へと向かう。

前回の講座からすでに2ヶ月近くたっているので、この前はただ抱っこされていただけの赤ちゃんも、 すでにうつ伏せで頭をググーッと持ち上げるくらいにまで成長している。

おお、すごいぞ。子どもの成長は速いなぁ。


今回も子どもだらけの中でお話しを始めたが、子どもたちがそこらじゅうをキャーキャーと走り回っているので、声が聞こえない。

そこでこちらも負けじと大きな声を出すが、子どもたちの「たった今、生まれ出(いずる)言葉」と私の「準備してあった言葉」では、 もうはなっから言葉に備わった「言霊」の力が違うので、とてもかなわない。

「たった今、生まれ出(いずる)言葉」というのは、その「場」にあるすべてのモノの後押しを受けて、そこにある。

その「場」にあるすべてのモノをリソース(資源)として生まれているのである。

それに対して「準備してあった言葉」は、その「場」にあるモノを無視して初めて成り立つ言葉であるので、その「場」 にあるほとんどすべてのモノから「抵抗」しかされない。

目の前で起きるほとんどあらゆることは「邪魔」にしかならないのである。

その「場」にあるすべてのモノを「味方」としているか「敵」としているかでは、そこには雲泥の差がある。

そんな言葉でかなうわけがない。

これはもう、こちらも語り口を「たった今、生まれ出(いずる)言葉」に切り替えて、「場」を「味方」につけてお話しするしかない。

なので、考えていた手順をすべてすっ飛ばして、とりあえず思いつくままにしゃべりだして講座を進める。(…っていつものことか。 それは。)


今日の講座は「人間のからだに見られるリズム、波」についてお話をしつつ、からだを動かしたりしながら進めていく。

相手のからだを揺すりながら、相手の持っている固有のリズムをつかんで、 そのリズムに合わせて自分も揺れながら感応していき二人の息を合わせていく、というワークをすると、みなさん「ほんにゃらほんにゃら」 と気持ちよさそうである。

子どもたちにも「ほんにゃらほんにゃら」。

「波はからだを通り抜けていきますよ〜。」

と、あくまで通り抜けるモノであることを強調しつつ、一緒になって「ほんにゃらほんにゃら」。

あぁ、気持ちいいなぁ。

水でも電気でもお金でも、「通り抜けていく」ことが「働き」なのである。

コンセントに穴が二つ開いているのは、電気が出たり入ったりするためである。

電気エネルギーがただ発電所からやってきて、こちらはそのエネルギーを受け取って使うだけであるならば、 穴は一つでいいはずであるがそうはできていない。

「交流」であるので、その流れの向きは絶えず入れ替わってはいるが、電気はきちんと「やって来て」「去っていって」いる。

その「通り抜ける」合間に電気は「仕事」をしているのである(まるで仕事人みたいだ)。

だから同じように「波」も相手の中でとどまるのではなく、通り抜けていくことが「働き」となる。

「通り抜けていきますよ〜。頭のてっぺんから通り抜けていくイメージでユラユラ〜。相手も自分も一緒にユラユラ〜。」

あぁ、気持ちいいなぁ(あれ?デジャヴ)。


そんな感じで気持ちよくなったところで、子どもたちも「腹減った」という雰囲気になってきたので、「じゃあそろそろお開きに…」 と食事に移る。

前回もそうであったが、今回もまたみなさんの手作り料理がテーブルにところせましと並び、たいへん豪華な食卓である。

もちろんタッパーも持参して抜かりはない(今回は言われる前に用意した)。

美味いなぁ。パクパク。

ちょうど会場となったお宅の庭にミカンと柚子がたわわに実っていたので、お土産にいっぱいいただいてしまった。

もちろんタッパーの中にも愛情料理がたっぷりである。

これこそ「愛の手みやげ」。

posted by RYO at 21:41| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月22日

握るんじゃなくてね、結ぶの

昨日の「豊かな誤読」に関連して、ふたたび「言葉」について。

言語によるコミュニケーションにおいて、その発話内容の構造は「発話内容形成」と「発話場面形成」 という二つの部分から成り立っている(@『言葉、 通じてない?』石井正人、新日本出版社、2005)。

「発話内容形成」とは「言いたいことをいかに正確に表現するか」ということであり、
「発話場面形成」とは「言いたいことをいかに効果的に伝達するか」ということである。

私は今でこそ、「誤読したっていいじゃん」と平然と言ってのけてしまうくらい(「豊か」であるならね)、とてもいい加減な人間であるが、 かつては大変まじめな青年であった(誰だ?笑ってるのは)。

その当時は、自分の伝えたいことをいかに正確に相手に伝えるか、ということにずいぶん頭を悩ませ、なにかよい言葉、 よい表現方法というものはないだろうかと考えていた。

世界中の全ての問題は、結局のところ人間関係の問題であり、 その人間関係の問題はコミュニケーションが上手くいかないところに原因があるのだと思っていた。

(まぁ、それは今でもけっこうそう思ってる節はある。)

ある時期、私は何かしゃべろうとすると自分の中にある「思い」に最もしっくりくる名前をつけることに専念してしまい、 内側の言葉の検索作業で精一杯で、外側がほとんどフリーズしてしまい、 うまくしゃべれなくなってしまうという状態になってしまっていたことがあった。

私は「思い」とぴったり一致する「言葉」というものを探し求めていたのである。

もちろんしゃべる相手にもまったく誤解を生ずることなく伝わるような、ただ一つの意味を持つぴったりとした「マコトノコトバ」(@ 宮沢賢治)である。

そんな言葉があればどれだけ幸せなコミュニケーションをとることができるだろうか。

誤解も生じず、不必要ないざこざも起きることはなくなるだろう。

確かにすばらしいと思う。

けれどもそんな私も成長した。

良いのか悪いのか、物事をもう少し現実的に方法論から考えるようになった。

「私が相手に望むことを、より効果的に伝えるためにはどうしたらよいのだろう?」

そう思って考えてみたら、ちょっと違う考え方をするようになった。

ある言葉に誤解の生じることのない一義的な意味を持たせることは「発話内容形成」においてはきわめて有効なことであるが、 「発話場面形成」においてはそうとは限らないということに気づいたからである。

言いたいことを「効果的に」伝達するためには逆に一つの言葉に複数の意味をもたせ、「含み」 のある言葉を使ったほうが効果的である場合が多いのである。

それはなぜか?

「これあげる。」

と言って一つのものを差し出すよりも、相手の前に選択肢をいっぱい出しておいて、

「どれでも好きなの選んでいいよ。」

と自分で選ばせたほうが、その選択したものに対して相手の愛着が強くなるからである。

よくマジシャンが「どれでも好きなカードを選んでください」と言って、カードを自由に選ばせたりするが、あれと同じことである。

客は「カードを自分で選んだ」という思いから、それを当てられたときの驚きはよりいっそう強くなる。

もちろんマジシャンからすれば、どのカードを選ぼうが大して違いはないのであるが。

(というよりよく見ていると「選ばされている」ことが非常にしばしばある。)

「自分で選び取った答えである」「自分が導き出した答えである」ということがその答えに対する親和感を生み出す。

だから、昔から「教え」というのは、たとえ話であったり、やたら短い一言だったりして、 わざわざいろんな解釈が導き出せるような形をとって、伝えられてきたのではないだろうか。


昔、ビートたけしの『教祖誕生』という映画を観ていたとき、いきなり教祖に祭り上げられてしまった青年(萩原聖人)が 「どうしたらいいんですか?」と泣き言を言っているときに、たけしが「なんか適当なこと言ってりゃ、信者が勝手に解釈して納得するから。」みたいなことを言っていて、思わず大爆笑してしまったことがあった。

なるべく「簡単な言葉」で、「よく分からないこと」を、「はっきりと断言する」 というのはなんだか説得力があるような気がするもんである。

私がかつて出会った飲み屋で隣に座っていたオヤジの力説。

「おむすびってのはな。にぎるんじゃねぇんだ。むすぶんだよ!」

なるほど、そうだったのか!

私はこれを「力を入れすぎてはいけない」という意味だと勝手に解釈して、それ以来おむすびを作るのが格段に上手くなってしまった。

ぜひぜひみなさんに振舞って、召し上がっていただきたいくらいである。

もちろん、そのオヤジがどういう意味で言っていたのかは今もって謎である。

ただ、そのオヤジはそのときかなり泥酔していらっしゃったので、ただのたわごとであった可能性は非常に高い。

言った本人が教えたつもりのないことを「誤読」して勝手に学んでしまう、というのはたいへん大切な「学び」の能力ではあるまいか、 と私はこれまた勝手に思っている。

posted by RYO at 21:27| Comment(6) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月21日

豊かな誤読、命の誕生

何か文章を読んだ人が自分なりの解釈をしたときに、その解釈が「正しいか、間違っているか」を問うことはあまり意味がない、 と私は思っている。

むしろ重要なのは、その解釈が「豊かか、貧しいか」ということであろう。

たとえば私は、このブログの文章をなるべくあんまりすっきりしないように、決定的、断定的にならないように、 と心がけて書いているのだが(でもムズカシくてできていない)、 それは読み手の解釈をできるだけバラエティーに富んだものにしたいからである。

私の文章は「誤読」に対して開かれている。

私の文章に「正しい解釈」というのは「正しく」言うと「無い」。

というのもまたホントは正しくない。というのもまた…(終わらないな、やめよう)。

私の言葉は私の口から出た瞬間、もはや私の言葉ではない。言葉が発せられた瞬間、私もまたその言葉の聴き手の一人になるのである。

語られた言葉に意味を見出すのは聴き手である。

だから、私の言葉に対する私の解釈は、あらゆる解釈の可能性のうちの一つに過ぎない。

書き手による「正しい解釈」というものが無いのだとすると、正確に言うと「誤読」というものもまた無いわけなのであるが、 先ほど書いたように、その解釈が「豊かなもの」であるか「貧しいもの」であるかという違いはありうる。

「つねにあるひとつの理論に帰結する」とか「理論の齟齬ばかりを探す」とか「悲観的にしか受け取れない」とか、「貧しいフィルター」 を通してしか物事を捉えられない人というのは、確かにいる。

そういう人たちには、

「どうせ人間は『主観』というフィルターを通してしか、物事を見ることができないんだから、できうるかぎり発展的で、開かれた、 豊かなフィルターを作り上げて、それを通して言葉や世界を解釈するようにしたほうが、人生愉しいと思わない?」

と、私は言いたい。


私が、私の文章を読んでいただくことでみなさんに望んでいるのは、私の文章を見事なまでに「誤読」して、 書き手である私ですら思いもつかなかったような解釈を私の文章に見出し、より「豊かな勘違い」をしていただくことである。

そして、さらにそこからますます話が発展して、いまだかつて誰も思いつきもしなかったようなモノがつぎつぎと生まれてきてしまう、 というようなことが起こったとしたら、こんなに愉快で楽しいことは無い。

そんな「創造の場」の立ち上がりの一助を担うことができる、ということが私にとってもっとも光栄なことであり、嬉しいことなのである。

自分の知らない自分の魅力に気づいてくれる、あるいは気づかせてくれる人がいるなんて、誰にとってもこんなにシアワセなことはない。

ましてやそれが異性であれば、

「あぁ、私ってそんなに素敵な人だったのね。知らなかったわ。こんな私でも生きていて役に立てているのね。 気づかせてくれてありがとう。あなたって素敵ね。」

という感じで、「恋がはじまる」というのが世間一般における一つのセオリーである。

私はいまいち実践で生かしきれていないので、そのセオリーをいまだしっかりと検証できていないが、昔、雑誌の「恋愛必勝テクニック」 みたいな記事に、「相手の気づいていないところを褒める」とか書いてあった記憶があるので、おそらく正しいのであろう(笑)。

(しかし、最近の雑誌は「本カノ」とか「マジカノ」とか、「彼女が何人かいる」あるいは「テキトーに付き合う」 ことが普通であるという前提で語られていることに「時代」を感じる。ところで恋愛って勝ち負けか?)

それに、相手のさりげない一言を「豊かに誤読」してしまうことによってはじまる恋、というものもあろう。

お互いの「誤読」がかみ合えば、それは「めでたしめでたし」である。

それで新しい命が生まれるわけだから、世の中オモシロイ。


だから、このブログを読んでくださっているみなさんには、ぜひぜひ、より「豊かな誤読」をバンバンしていただいて、「おぉ、 私はそんな洞察力あふれる知見を無意識のうちに述べていたのですか。」とびっくりしてみたり、ときには「そうなんだよ。 まさにそのことが言いたかったんだよ。よく気づいたね、キミ。ハハハ。飯でも食うか?」といった知ったかぶりもさせていただきたい、 と思っている。

そして、その「誤読」を私がまた「誤読」して、というやりとりから、何か新しいモノが狭間に立ち現われてくるのである。

もしも万が一、そのような「誤読」のやり取りから何か新しい画期的な物語の「誕生」ということにでもなったとしたら、みんなの新しい 「言葉の誕生」を言祝(ことほ)いで祝いの祭りを催し、ぜひみんなで祝杯をあげたい、とこのように願っている次第なのである。

みなみなさまにかしこみかしこみもうす。

posted by RYO at 19:42| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月18日

下宿で量子力学のシャワー

17日、大学の後輩に誘われて後輩たちのところへ顔を出しに行く。

ちょうどボジョレーヌーヴォーの解禁日であったので、手みやげにボジョレーヌーヴォーをもって慣れ親しんだ街を歩いて下宿へと向かう。

場所は私がかつて大学時代に住んでいた下宿であるが、私が出てからもずうっと先輩から後輩へと受け継がれ続けて、 いまだに後輩が住んでいるのである。

だから敷金は私の払ったものが、おそらくいまだに使われているはずである。

「木村家」の愛称で親しまれるその下宿は、私たち貧乏学生に集いの「場」 を提供してくれる今ではめずらしいありがたい下宿である(ふつうはいやがられるよね)。

私も大学時代はずいぶんお世話になったので大家さんには決して足を向けては眠れない。

携帯電話もあまり普及していなかった(というより持つことを拒否していた)その当時は呼び出し電話だったので、 電話がかかってくると大家さんの娘さんが、私たち下宿生の名前を下宿全体に響き渡る大声で「○○さ〜ん!」と呼ぶ。

「は〜い!」とこちらもまた大声で返事して、下宿の暗い板張りの廊下をどたどたと駆けて行って大家さんのお茶の間から「もらい電話」 を受け取る、というきわめてコミュニケーションあふれる電話の光景であった。

電話に出ると「今のナニ?」という一言が発せられることもしばしばであったが、「お電話で〜す!」 という快活な中学生の娘さんの呼び声が今も耳に残る。

そんな築40年以上はたつ「木村家」の家賃は、眼の前の駐車場より安い。

「オレたちは車以下かっちゅうねん!」

と、いまいち納得のいかない社会構造に噛みつきつつ、鍋をズルズルとかき込み、酒をガバガバとかっくらう。

(かといって「では車以上の待遇にしてあげよう」と言われても、おそらく学生たちはニコヤカに断るであろうが。 てゆうかきちんと家賃払いなさいね、キミたち。)


ちょっと前に一度、彼ら後輩の学生たちと餃子パーティーというのをやって、そのときに裏企画として「自分史を語る」 というのをやったことがあるのだが、今回その場にいなかった学生たちも参加していたので、キラキラと目を輝かせながら「自分史って何ですか? 」と聞いてくる。

「うぅ、そんなつぶらな瞳で私を見つめないで。」

とややひるみながらも、期待に応えるべく「自分史」について説明する。

以前このブログで 「聴く人の存在が語りの場を支える」ということをお話したが、基本的にはそれと一緒で、語る人の「語り」をみんなで聴きましょう ということですよ、とお話しする。

「聴く」ということは、その場において「身を引く」ということである。

「聴く人」みんなが「しゃべる権利」を手放して、「語る人」に譲渡するということ。

そして、その語られる言葉の場所を、きちんと場の中に作るということ。

場の中心をみんなで「口をつぐむ」という形で空けてあげて、言葉がおのずと出てくるのをみんなは待つのである。

(こうして書いてみると、なんだか「天岩戸開き」とか「降霊術」みたいだな。)

自分の「物語」を他人に聴いてもらうことで、そこに自分でも気づかなかった自分を発見する。そして新しい物語がそこに生まれてくる。

どんな人の中にも「言いたかった言葉」「語られなかった言葉」がホントにたくさん眠っている(ということに語ってから気づく)。

「聴く」ということは「身を引く」ことによって生まれる「抜き」の技術であり、そしてその「抜き」 によって生まれた沈黙を埋めるように、語る人の中から言葉が語られ始めるのである。


というようなことをお話しする。

そうしたらあんまりみんなの「聴く構え」が堂に入ってるものだから、なんだかだんだんこちらの舌も回り出す。

なので、話がそのまま来る途中の電車の中で突然思いついた「量子的ふるまいをする『からだ』」というお話に飛んでしまった。

量子というミクロの世界では「物質であるのと同時に波である」という奇妙な現象が起きている。

世界は同じ構造が入れ子のように繰り返されるフラクタルな構造を持っているということを考えてみると、私たちのからだが 「物質であるのと同時に波でもある」ということがあっても別におかしくはない。

私たちのからだは物質であるのと同時に波であるというふうに考えてみると、またいろんなことが分かってきて説明できるんですよ。

という感じで、話が量子力学、さらには流体力学にまでおよぶにいたって、みんなのキラキラした瞳という表情は次第に、 ポカンとあいた口という表情へと様変わりしていった。

「私という形は『世界』と『私』が出会うときに生まれる波のような…。」
「その波のリズムが脈であり呼吸であるってことで…。」
「そして肋骨という骨も…。」
「でも実は波というのは出会う前から生まれ始めて…。」
「……。」「……。」

理解不能な言語のシャワーを全身で浴びるというのも、若いうちは貴重な経験である。

みんな貴重な経験をしたね。

posted by RYO at 23:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月16日

「場の流れ」を読む

私はときどき「学会」というものに顔を出してみることがある。

私はべつに何の研究者でもないうえ、たいてい関係者ですらないので、 末席の方にちょこんと座って大先生方の高説にふむふむとうなずいているだけであるのだが、学会というのは講演会などとはまた違って、 学会独特のおもしろさがある。

学会に参加されるような方というのは、当然そこで論じられることについての研究者である可能性が高いわけで、 つまり学会はオーディエンスの質がきわめて高い。

それは、発表者も勉強不足でうかつなことを口走れば、糾弾の嵐(あるいは白眼視の静けさ)となることは避けられない、 真剣勝負の場であるということを意味する。

だから一般の講演会などと違って、質疑応答の際にきわめてハイブローなやりとりが応酬されるので、 それが見ていて非常におもしろいのである。

質疑応答をずっと眺めているだけでも、 研究者同士の人間関係というか勢力図のようなものまでうっすらと浮かび上がってくるような気がする。

学会という場は論客どうしの決闘の場なのである。


学会というのは、そのような真剣勝負が繰り広げられる場であるのだが、ときどきおもむろにちんぷんかんぷんなことを言い出して、その「流れ」 をぶち切る人間がいる。

どんなところに行っても「場の流れを読めない人」というのはいるものだが、学会という研究者の集まりですらけっこういるものである。

というよりむしろ自分の専門だけを集中してやっている研究者という人種には、そういう「場の感知力」 というものが極度に欠落している人が多いのかもしれない。

まして教員などであれば、まわりからは「先生、先生」とリスペクトを当然のように受け、講義においては学生の退屈さなど関係なく、 絶対的な権威でもって一方的に話すことを常日頃行なっているわけであるから、なおのことかもしれない。

昔、ある全国大会に参加したときも元学者みたいな人が、自分のしてきた研究について延々喋り続けていたことがあった。

「場の流れを読めない人」であるかどうかということは、その人がその「場の流れを止める」という行為に及ぶことによって判明する。

「場の流れを読めない」ということ自体は決してまわりに害を及ぼすものではない。

それが問題となるのは「場の流れを読めていない」ということに本人が気づいておらず、「場の流れに乗れていない」にもかかわらず、 「場の流れに手を突っこんでくる」という行為に及ぶに至ったときである。

場の「流れ」についていけてないと感じることはむしろ、自分の立ち位置をマッピングできているという点において、場の「流れ」 を読めない人間よりも聴者として一段高い位置にいる。

黙っている人は「流れ」を乱すことは無いが、「流れ」に手を突っ込む人は場合によっては「流れ」を乱し、「流れ」を止める。


場の「流れ」を止める人の発言というのは本人が気づいているかどうかに関わらず、「自分という存在のアピール」がその目的である場合が多い。

「支離滅裂で何を言っているのかよく分からない人」の場合は論外として、

「自分が今までやってきたこと、あるいは常々考えていることを滔々としゃべる人」 はその眼差しが過去の方角を凝視してしまっているので、たった今の話の「流れ」には乗れていない場合が多い。 加えてそもそも人の話を聞いていない場合も多い。

「正論、理想論をつらつらと述べる人」は他者に尊敬のまなざしでもって迎え入れてもらうことを期待しているのだろうが、 そもそも正論の「働き」というものについて誤解している。

正論というものは自己完結しているので当然、そこから繋げて発展させる言葉が生まれようが無い。 だから正論は話の流れを打ち切りたいときに、相手を絶句させることを目的として使用するものである。

「流れ」が乗ってきたところに、正論を持ち出して「流れ」を止める人はマナーがなっていない。

それは「いきなり印籠を見せつけてしまって5分で終わる水戸黄門」みたいなものである。

「思いついたことを突然口に出してしゃべり始める人」はほかに比べればまだ「流れ」の中に身を置いているが、 やはりちょっとマナーが悪い。

「流れ」には波のようなものがあるので、自分が乗るのにちょうどよい波が来るまで待つという態度が必要である。とくにトークの場合 「流れ」はただ存在するだけでなく、自分で生み出しながらそれに乗るという「手前波」のようなものでもあるので、 相手が乗りつつじょじょに育てた波を「お、いい波に乗ってんじゃん」と横から奪うというのはきわめて失礼なことにあたる。

逆に「いい波を作って相手に譲る」という態度は相手に対してきわめて親切でありホスピタリティーに溢れ、とても素晴らしい態度である。

私はそのような「贈与者」には最大限のリスペクトを送るものである。

posted by RYO at 23:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月14日

警備員さんも「どうぞ」

私は毎朝、住んでいるところの周りの道路を掃除しているのだが、敷地に桜の木があるので、この季節はちょうど葉が落ちて、 道路はいつも落ち葉でいっぱいである。

今朝、いつものように竹箒とちり取りを両手に外に出てみたら、落ち葉がぜんぜん落ちていない。

「あれ?」

と思っていたら、近くのおばさんが

「おはようございます。」

と声をかけてきた。

「あ、おはようございます。」

「あのね、この人がね、全部掃除してくれたのよ。」

と言って指を指したのは、近くで工事が始まったために封鎖中の道路を警備している警備員さん。

「え? 掃除してくださったんですか? ありがとうございます。 なんだか申し訳ないです。」

と言うと、

「いや、まぁ、暇なもんで…。」

と言う。

いや、いくら暇だからといって、よそのウチの周りを掃いてくれるような親切な方はなかなかいない。 ペコペコと頭を下げてお礼を述べたが、それだけでは私の気がすまない。

部屋に戻って、何かお礼に差し上げられるものはなかろうか、と思って探してみたら、ついこのあいだ「韓国市場」(@ 歌舞伎町)で買ってきた「蔘鶏湯」(サムゲタン)のスープがあった。

「よし、これにしよう」と紙の手提げ袋に入れて、再び警備員さんのもとへと赴く。

「あの、これよかったらどうぞ。韓国のサムゲタンというスープなんですけど。」

「いや、そんな申し訳ない。」

「いやいや、もらいもんですから。どうぞどうぞ(食べようと思って買ってきたものであって、ホントはもらいもんではない)。」

「そうですか?」

「美味しかったんで、ぜひ召し上がってみてください(食べようと思って買ってきたものであって、ホントはまだ食べてない)。」

「あ、じゃあいただきます。」

と、お互い頭をペコペコしながらお別れする。


昨日に引き続き、またまた「無私」の親切に出会ってしまった。

もし、おばさんに教えてもらわなかったら、「昨日の風で全部飛んでっちゃったのかな?」などと、とぼけたことを考えるだけで 「誰かが代わりに掃いてくれた」なんてことは思いつきもしなかっただろう。

そしてきっと、その警備員さんはそんなことはまったく気にもかけずに、澄まして立っていただろう(そういう人だ、きっと)。

うぅ、カッコいいよ。警備員のオジサン。あんた、ヒーローだよ。


けれどもそのあと、ふと心配事がひとつ浮かんできた。

そこで夜、急いで帰宅してさっそく、もう一つ買ってあったサムゲタンを温めて食べてみる。

すると、たいへん美味である。どうやら「食べてみたら不味かった」というような嫌がらせにはならなかったようで、ほっと一安心。

あぁ、よかった。美味しい美味しい。パクパク。

posted by RYO at 21:25| Comment(5) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月13日

だぶだぶのコートをそっと…

今日の電車の中での出来事。

仕事帰りの夕方、東京行きの中央線に乗ると、座席はほとんど埋まっており、立っている人も歩いて移動するには多いくらいの混み具合。 その中に5歳くらいの男の子と、そのとなりにお母さんらしき人が座席に座っていた。

ある駅でおばあさんが乗ってきて、その子の前に立つと、その子は迷うことなくスッと席を立ち「ここどうぞ」 と言っておばあさんに席を譲った。

おばあさんは恐縮しながらも嬉しそうにその席に腰掛け、「ありがとう」とその子にお礼を言うと、その子は照れくさそうに、 となりのお母さんの膝の上にちょこんと腰掛けた。

けれども周りの人が自分を見ているのが照れくさいのか、パッと飛び降りるとドアの所にいる私のほうへトコトコとやってきた。

どうやらドアのとなりに離れて座っていた人がお父さんだったらしく、なにやら話しかけている。

お父さんもなんだか嬉しそう。

すると、お母さんも荷物を持ってこちらへ移動してきた。

ニコニコ嬉しそうな親子三人、なんだかその雰囲気がとっても素敵だ。

「あぁ、いいなぁ。 おウチの中もきっと、とっても素敵な雰囲気なんだろうなぁ。いい家族だ…。う〜ん。」

と、しばしシアワセのおこぼれの余韻にトリップする。

ふと子どもを見ると、だぶだぶのコートを着ている。

そういえばお母さんは上着を着ていない。どうやらお母さんのコートのようだ。

なるほど、今日は天気も良くて、昼間はちょっと汗ばむくらいだった。上着を着ないでウチを出てきて、夕方になって冷えてきたから、 お母さんがコートをかけてくれたんだろう。

その光景をふと思い浮かべたら、ますますジーンとトリップしてしまった。

なんて素敵な家族なんでしょう。

母は子どもに、子どもはおばあさんに。

「私はいいから、あなたがどうぞ」の精神がこうして巡っていくんだなぁ。

ついおととい「お先にどうぞ」 の精神について書いたら、こんな素敵な光景とめぐり会ってしまった。

だぶだぶコートの少年と、その家族の「お先にどうぞ」の精神は、私の心にもとっても大きなだぶだぶコートを優しくかけてくれた。

う〜ん、だぶだぶ暖か〜い。

posted by RYO at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月11日

究極奥義「お先にどうぞ」の術

本屋さんをうろうろしていたら、ビジネス書コーナーで、『「抜く」技術』(上原春男、サンマーク出版、2005)という本が置いてあるのが眼に入った。

「お?」と思い、手にとってパラパラとめくってみたらなかなかおもしろそうである。

これは「買い」だ、と思ってすぐさまレジへと持っていく。

この「抜く」というワザは、あらゆる場面で大変有効である。

私はより高い運動性を感じられる「抜き」という表現を好んで使うけれども、世の中のさまざまな現象を見渡してみると、この「抜き」 という現象が応用されているものが非常に多いことに気づく。

「抜く」とか「引く」とか、そこに「間」を作ることが周りに変化を促す。

車の中の空気を入れ替えるときにドアを閉じたり開いたりバタバタとすることがあるが、空気が一番入れ替わるのはドアを「引く」 ときである。

ドアを引いたときに生まれる隙間を埋めようと周りの空気がそこに流れ込んでくることによって、空気に「流れ」を生み出すのである。

この原理はジャンボジェット機が空を飛ぶ原理でもある。

翼は前から来た風を受けて二つの流れを作る。翼の上部を流れる気流と下部を流れる気流である。 翼のやや上を向いた形状はその二つの流れに速度の差異を生み出し、それによって上部と下部で気圧差を生み出すような構造になっている。

翼の上部では、すばやく空気が抜けることによって、気圧が下がるようになっているのである。

それによって、そこに生まれた隙間を埋めようと翼が上へと吸い込まれて、 あの巨大な鉄の塊を1万メートル上空にまで引き上げる力が生み出されるのである。

人間関係においても、身を「引く」ということが周りに変化を促すためには一番有効な方法である。

「そこどけ」と言われるのと、「ここどうぞ」と言われるのでは、雲泥の差がある。

「そこどけ」と言われて動くのはくたびれるが、「ここどうぞ」と言われて動くのはむしろ力をいただいてしまうくらいである。

「無我」の境地というのは、先賢たちが何千年も前からずっと目指してきた境地であるが、それこそ「我を抜く」という「抜き」 のワザの究極の形であろう。


そのような科学技術にも、人間関係にも、教育や治療の現場においても、およそこの世界のあらゆる現象の中に「抜き」 の原理は発見できるのではなかろうか、と私は思っている。

そして、なんとこの上原先生という人は「抜き」の技術を応用して、「海洋温度差発電」という技術を開発して、 電気まで生み出してしまっているのである。

ほかにも地震の揺れをまともに受けるのではなく、引いて「抜く」という受け流しの原理を利用して、 地震の揺れを熱や電気エネルギーに変換してしまうという、びっくりの技術まで開発している。

世の中にはおもしろいことを考える人がいるものである。

足すこと、出ることばかりを考えて、引くこと、抜くことを忘れてしまいがちな世の中であるが、引くこと、 抜くことによってこんなに大きな仕事をしてしまう人がいることに、私もちょっと勇気付けられた。

「オレが、オレが」の精神よりも、「どうぞ、どうぞ」の精神で、究極まで身を引いた姿勢が生み出す力というものを、私は見てみたい。

ささやかながらも、そちらの方へと足を向けて歩いていきたいと思う今日この頃。

「設計が完璧だと思えるのは、もうこれ以上付け足すものがないときではなく、もうこれ以上取り去るものがないときである」(@ サン=テグジュペリ)

posted by RYO at 21:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月09日

身体感覚を磨こう

ヘンな夢を見た。

板の間のようなところで正座で座っているのだが、なんだかからだが後ろに引っ張られるのだ。

一生懸命からだを前の方にもっていくのだがなかなか前にもっていけない。

しかもしまいには後ろの方へズルズルと、からだがまるで引きずられるように移動していく。

「なんだかなぁ」と思っていたら、ふと目が覚めた。

すると床を背もたれのようにして、壁に足を立てかけてうとうとしている自分に気づいた(何でそんな姿勢だったのかは定かではない)。

なんだ、重力だったのか。

しかし、壁に足をつけて眠っていただけなのに、からだは簡単に足のついている方を床であると勘違いして夢に見てしまうんだなぁ。

私たちは何かを考えたりする時、無意識のうちにからだの状態の影響を受けてしまう。

おしっこを我慢しながらゆったりとくつろぐのは難しいし、頭痛に顔をしかめながら物事を楽観的に捉えるのは至難の業であるし、 美味しい物でも食べればなんだか頬がゆるんで「まぁいいんじゃないの?」とジャンボリーな気分になってしまう。

物事を考えるということが、脳という臓器を使った身体運動である以上、からだの影響を受けてしまうのは避けられない。

「たのしい」という言葉の語源が「手伸す(てのす)」から来ているという説を聞いたことがあるが、 ちょっと胸を広げるように手を大きく開いて息を深く吸い込んでみれば、なんとなく落ち込んだ気分も消えて、 晴れ晴れとした気分になってくるものだ。

この前書いた「泣きの呼吸」「笑いの呼吸」もそうだが、そうやって姿勢一つ、呼吸一つ変えるだけで、 人間の感情や思考はずいぶん影響を受けてしまうのである。

そのことを意識化するというのは習熟を必要とする一つの「身体技法」である。

自分のからだが今どういう状態で、それによって今自分の気持ちや思考がどういう影響を受けているのか、 それをきちっと把握できるというのは、身体感覚を研ぎ澄まさなければなかなかむずかしい。

いや、いかに研ぎ澄ましたとはいえ完全に把握することはとうてい不可能である。

けれども、その研ぎ澄まされた身体感覚をより多くの人がお互い身につけるだけで、 ずいぶん不必要なすれ違いによる誤解などが減ると思う。

それは、自分のからだの状態を俯瞰的にマッピングできるという「身体的な知性」である。

自分のからだがとても苦しい状態で何か新しいものをとても受け入れられないときに、

「ごめん、今はちょっと無理、今度にしてくれる?」

と自分を内観でき、それをきちんと言語化できること。

そして聞き手も、その言葉の意味をきちんと理解できる身体感覚が育っているということ。

それが不必要なケンカや争いを生み出さないことにつながる。

自分のからだの状態から生み出されている不快なのに相手に当り散らしたり、「今は無理」という言葉を「私」 に対する否定として受け止めて腹を立てたりしてしまうようなことは、身体感覚を敏感にしていくことでずいぶん減るのではないだろうか。

身体感覚を磨いていくことによって、自分のからだの状態を把握してマッピングするという身体的な知性を身につけることが、 より円滑なコミュニケーションを行なうためにも、とても大切なことであると、私は思う。

posted by RYO at 23:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月07日

モグラとカラスと大根と

大根「Yahoo! News」にアスファルトを突き抜けて生えてきた大根の記事が出ていた。

アスファルトを突き破って成長する大根の生命力にもびっくりだが、なぜこのような道路際に大根が生えてきたのかも謎である。

誰かのお茶目なイタズラである可能性も大いにあるが、もし本当だとしたら、 アスファルトを敷きつめる前の地面に大根の種があったとしか考えられない。

でも野生の大根なんて見たことない。その種はどこから来たのだろうか?

謎は深まるばかりである。


今回はそんな記事と土つながりで、モグラのお話。

代々木公園にはヒマラヤ杉の森があるのだが、そこの地面の下にはモグラがいる。

その姿を見かけたことはないが、あちらこちらにヘンな土塊がポコポコと盛り上がっているので、いるらしいことだけは分かる。

モグラは漢字で「土竜」と書くが、モグラの通ったあとはもこもことした土が地面の上を伸びているので、 その光景はたしかに土の竜が這いずっているかのようである。

そのモグラの土塊をほじくり返してみると、モグラがそこから顔を出したらしい小さな穴が開いている。けっこう小さい。 よくこんな固い地面をこれだけ掘り起こしていくもんだと感心してしまう。

オモシロイなぁと思って森の中をモグラの穴を求めてうろうろしていると、突然カラスがどこからともなくやってきて、 ガァガァと叫びだす。

最初はあんまり意識していなかったのだが、どうやら私を警戒しているらしい。

近くに巣でもあるのかもしれないと思い「つつかれたらたまらん」と、すみやかにその場を立ち去る。

けれども、私のモグラ探求の情熱はまだまだ満足していない。

なので場所を変え、あらたにモグラの穴を探して土塊のあるところをうろうろしていたら、またまたそこにもカラスがやってきて、 私に向かってわめきはじめる。

同じことが二回起きると人は「ん?」と思う。「なんかヘンだぞ?」と思うのである。

そこで私はさらに場所を移動し、モグラのいそうな所で今度は「カラス」を探す。

すると見事にカラスがやってきて枝の上から私を見つめる。

同じことが三回起きると人は「お?」と思う。「これはなにかあるぞ。」と思うのである。

モグラとカラス。

私はその生態についてはまったくの無知であるので、その関係性はさっぱり見当がつかない。

モグラがいるところにカラスがいるのか、カラスがいるところにモグラがいるのか。

私の予想はこうである。

1、カラスの巣がある樹の下にはその糞が落ちる。
2、よって巣のある樹の下の土は肥えている。
3、土が肥えているところにはミミズが多い。
4、そのミミズを狙ってモグラが寄ってくる。
5、だからモグラのいる樹にはカラスの巣がある可能性が高い。
6、ゆえにモグラを探しているとカラスに鳴かれる。

ツッコミどころ満載の仮説理論であるが、別に私は動物生態学者でもなんでもないので、こんな程度のいい加減な理屈で十分に満足である。 なるほど、なるほど。

でも、みなさんは信用してはならない。

ご自分でも確かめてみて、もしその通りだったらはじめて信用してみるのがよろしいかと思う。

もっとも「別にモグラとカラスの関係なんて、私にはなんの興味もない」という方ばかりであると思うので、 今回のお話はまったくどうでもいいお話であるやもしれない。

でも、だからこそ私は安心してでたらめ話に興じられるのである。

posted by RYO at 20:14| Comment(8) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月04日

月を掴む

今日の「子育て講座」はこの前ブログでちょろっと触れた 「手」についてのお話しをする。

子育て中のママさんたちは子どもの「抱っこ抱っこ」の嵐を受けて、手や腕が疲れてしまって「もう大変」という方が非常に多い。 子どもは抱っこしなきゃいけないし、オムツやら着替えやらで荷物は重いし、腕がくたびれるのも当然である。

場合によっては腱鞘炎など起こしている人もいるので、「腕をゆるめる」 ということは子育て中のママさんたちにとってはかなり切実なことである。

だから今回は子どものからだのことだけに限らず、「ママさんたち自身の腕をゆるめましょう」という趣旨のもと、講座を進めていく。

腕の動きの鈍りが執着というものと関連している、ということを前に書いたが、考えてみれば「抱っこ」という姿勢は、そのまま 「抱え込む」という姿勢である。

「抱え込んだまま」という姿勢がからだに焼きついて抜けなくなることが、日常生活の中でもいろんなことに影響を及ぼすであろうことは、 想像に難くない。

「じっくりじっくりゆるめましょうね〜」と、みんなでお互いの腕を触りあってゆるめあう。

「イタタタ」とか「クゥ〜」とか、みなさん笑顔で悶絶していらっしゃるので、どうやら喜んでいただけたようである。

おもしろいことに「抱え込む」という姿勢は、そのまま「食べ過ぎ」の姿勢でもあったり、そのポイントとなる箇所が「便秘」 と関係していたりする。

「抱え込む」ということが、食べ物を「摂り過ぎる」ということに関連していたり、要らなくなったものを「捨てない」 ということと繋がってくるということは、なかなかおもしろいものである。

ホントに「からだ」ってオモシロイ。


ところで、手には「掴む」以前に「触る」という大切な仕事がある。

子どもの触覚というのはおもに、「手」と「舌」によって育つ。

もちろん触覚というのは「触る―触られる」という双方向性のものであるので、 からだ全体を触られることによって育つという面も確かにあるが、「触る」という能動的な意味においては、やはり「手」と「舌」に集中する。

人は「触る」ことによって世界を認識し、「触られる」ことによって自己を認識する。それはつねに同時に起こり、 その感覚の起こる箇所が「世界」と「私」との接点(皮膚)なのである。

「世界」を知ることと「自分」を知ることは表裏一体だ。

そのような「触る」という感覚は、何かの「概念を認識する」という思考活動の基盤として、とても重要なものである。

たとえば、床の上に置いてある「ナニか」は、「見た」だけではそれが何なのかも、その周りにある床との関係性も分からない。

極端なことを言うと、ある一点から見たとき、その「ナニか」は床のレイアウトとしての「見え」を示す。 つまり床との区分が曖昧なのである。

視覚においては、床と「ナニか」との境目はただの色の違いでしかない。ある一点から見るとき、眼に映るすべてはただの「模様」 なのである。

(先天盲の人が視力回復手術を受けたあとにはじめて眼を開いたときに、その「光(色)の洪水」 が何であるのかまったく把握できずに気持ち悪くなってしまうということを聞いたことがあるが、それが本来の純粋な「視覚」 だけによる知覚状態であろう。)

そこで私たちは自ら動き、そこに床とは違う法則で変形していく「ナニか」を見つける。違う視点からの「見え」を探ることによって、 それがどうやらただの床の一面(レイアウト)ではないらしいことを知るのである。

けれどもそれだけではやはり、床と「ナニか」との関係性は決定的なものにはならない。

その「ナニか」は床にくっついているのかもしれない。

そうすると、その「ナニか」は細かく言うと「突出した床」ということになる。

私たちはそこで、「触ってみて、動かしてみる」ことによって、どうやらこの「ナニか」は床とは遊離している存在であることを知る。

触っているその触感や、動かしたときのその重さ、さらにいろいろな動きを試して連動するその大きさや形などを知ることによって、その 「ナニか」の「概念」がおぼろげながら形成されてくるのである。

そして、そのときに聞こえるママの「それは絵本よ」という言葉とともに、絵本という「言葉」と「概念」が結びつきはじめるのである。

手でその絵本を掴んで、振ったり、投げたり、叩いたり、舐めたり、かじったりすることによって、絵本という「概念」を、 よりはっきりとした、豊かなものにしていく。

言葉の持つ豊饒性はそういった体験に裏打ちされている。

「手で物を捉える」という事と、「言葉で意味を捉える」という事は、そういうふうに考えてみると、 たしかに非常に密接に関係しているような気がしてくる。

なるほど。

いつもこんなでたらめな話ばかりしているのに、しゃべっている本人が一番「なるほど、なるほど」と感心している。

救い難いまでにシアワセな男である。

あ、シアワセなんだから救わなくてもいいのか。


そういえば、ずいぶん前に「またいつか」とか言いながら、そのままになっていた「荘子」 の話(お、ようやくだ)。

今回の話とちょうど関連してくることなので、後ればせながらここに載せたいと思う。まぁ、こうして書いてみると別になんてことはない文章なんだけれども…。

『「筌(うえ)」というのは魚を捕まえるための道具だ。魚を捕らえてしまえば「筌(うえ)」に用はない。「筌(うえ)」 のことは忘れてしまう。わなは兎を捕らえるための道具だ。兎を捕らえてしまえばわなのことなど忘れてしまう。言葉というものは、 意味を捕らえるための道具だ。意味を捕らえてしまえば、もう言葉には用はないのだから、忘れてしまえばよい。私は、 言葉を忘れることのできる人間を見つけ出して、共に語り合いたいものだ。』
「荘子」より

月を指す その指を見ても 月は無し。 指月。

posted by RYO at 20:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月03日

泣いて笑ってほっとして

呼吸には「泣きの呼吸」と「笑いの呼吸」というものがある。

大人になるとあんまり心の底からわんわん泣くようなことは少なくなってしまうが、子どもなどはよく泣きじゃくっていたりする。

そのときの呼吸をよく観察していると「泣きじゃくる」と表現するようにしゃくり上げるような「ヒックヒック」 という断続的な細かい吸いの呼吸を繰り返した後に、一息で吐くという呼吸をしている。

「ヒッヒッヒッヒッヒッ(吸い)フー(吐き)」という呼吸だ。

(何だかこんなふうに書くとラマーズ法の呼吸みたいだな。)

それに対して笑いのときはまったく反対の呼吸になる。

腹を抱えて笑っているような人を観察してみると、断続的に細かく吐いて、一息で吸っている。

「アッハッハッハッハッ(吐き)ハー(吸い)」という呼吸である。

つまり人は、

泣くときは「細かく断続的に息を吸い、一息で吐く」という呼吸になり、
笑うときは「細かく断続的に息を吐き、一息で吸う」という呼吸になるのだ。

この呼吸は実際にやってみるとおもしろい。

「泣きの呼吸」をしていると何だか悲しい気持ちになってくるし、「笑いの呼吸」をしていると何だか楽しくなってくる。

「呼吸」というのはからだの緊張と弛緩ということに密接に結びついている。

からだは息を吸うと緊張し、吐くと緩む。

だから断続的に息を吸うとからだの緊張の誘導になるし、逆に断続的に吐くことによって弛緩の誘導になる。

つまり「泣きの呼吸」はからだを緊張させ「笑いの呼吸」はからだを緩めるのである。

泣くということは自分と世界の断絶の悲しみである。

拒絶、否定、別離。

つながりを断ち切られるときに人は悲しみを感じ、泣く。悲しみに耐えるために人はからだをこわばらせ守りの姿勢をとるのである。

「泣きの呼吸」はそのための防衛本能だ。

それに対して笑いは世界との邂逅だ。

理解、共感、再会。

つながりを感じたときに人は笑う。笑ってからだを緩め相手に対して受け入れの姿勢を作る。


でもおもしろいことにからだは緊張したらしっぱなし、緩んだら緩みっぱなしというわけではないのである。

「陰極まって陽となる」という言葉があるが、とことんまで行くと今度は反転して、対極の方へとからだは向かうのだ。

つまり悲しいときはもう涙がなくなるくらいとことんまで泣くとからだはフッと緩みだすし、逆に「もうこれでもか」 というくらい笑い倒すと、からだは引き締まって行動体制になるのである。

とことんまで泣いた後に訪れる妙な安心感というか安堵感のようなものは、何だか人を優しい気持ちにさせる。

そういえば最近そこまで泣いたことがないなぁ。

泣きたいときは泣きたいだけ泣いて、笑いたいときはとことん笑うのがやっぱり一番いい。

「泣きなさい、笑いなさい」(@喜納昌吉)。

posted by RYO at 19:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月01日

ボク、代理の者なんで…

日本人は結婚式の祝辞などで挨拶を述べた後に「挨拶と代えさせていただきます。」なんて言う。

「挨拶と代える」ってことは、今しゃべっていたことは本当の挨拶ではない、ということである。

本当の挨拶は言葉で語るものではないということなのだろうか。

それとも「挨拶なんてほどのものじゃありやせん。戯言みたいなもんでげす。げへへ…。」 という卑屈なまでに謙譲的な態度から生まれたものなのだろうか。

そう思ってふと考えてみると「代」の字のつく日本語というのはけっこう多い。

「屋代(やしろ)」「苗代(なわしろ)」「神代(かみしろ)」「依代(よりしろ)」「身代(みのしろ)」「所司代」「師範代」「代官」 「代表」。

それぞれみんな「何か」の代わりとして、あるいは「何か」を支えるその「土台」として位置付けられている。

「所司代」なんてもともと「所司」の代理で仕事を行なう立場であったのに、実務を行なっているうちに事実上、「所司」 よりも立場的に上にあったという話をどこかで聞いたことがある。

変なの。

そこでふと思いついたのだが、会社の役割もみんな代理にしたらどうであろうか。

社長代理、専務代理、部長代理、課長代理、平社員代理(笑)。

みんな「本当の役職の人の代わりを臨時で勤めているのに過ぎない」という意識はけっこう有効な方法だと思う。

それは責任を誰か別の人のせいにするという意味ではなく、その「誰か」が帰ってくるまで責任を持ってその地位を預かり、「その時」 が来たらすみやかにその席を譲る、というそういう態度のことである。

自分の責任を背負うよりも、誰かの責任を背負う方が、人は責任感が強くなる。

「おい、社長を出せ!」
「社長はあいにく席をはずしておりまして…。社長代理の私が話を伺います。」
「代理じゃ話にならん。社長はいつ戻ってくるんだ。」
「さあ、いつになるのやら…。何しろ私もお姿を拝見したことがありませんから。」

みたいな感じで。

いいと思うんだけどなぁ…。

posted by RYO at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。