2005年10月30日

へりくつ問答

「こんにちは、RYOさん。ブログ読んでます。いつも愉しみにしてます。」
「ああ、ありがとうございます。そういうお言葉をいただけるのが、なによりの励みになります。」
「でも、こんなこと言っちゃ失礼かもしれませんけど、いつも読んでいて思うんですけど、なにかいつも回りくどいと言うかなんというか…。 どうもすっきりしない感じが…。」
「それはどうもすいませんねぇ。私の文章力不足です。 でも、わざとそういうふうに書いているところもあるんで、しょうがないんですよ。」
「わざと…?」
「はい、わざとです。何についてしゃべっているのかあんまりはっきりしないように。」
「はっきりしないように? またワケの分から…、むずかしいことをおっしゃいますね。どういうことですか?」
「今、なにか言おうとしましたね? まぁいいでしょう。それはですね。あんまりはっきりさせてしまうと、 何についてしゃべっているのか確信されてしまうからなんです。」

「いいじゃないですか。」
「ダメなんです。」
「どうしてですか?」
「誤解もまた確信的にされてしまうからです。 そしてたいてい人はみんな誤解するからです。」
「誤解したまま信じ込んじゃうってことですか?」
「そうです。」
「それでわざと、なんだかすっきりしない書き方をするんですか? でも、そのほうがよっぽど誤解する人が多いと思いますけど。」
「確信的に誤解されるより、多くの人に『誤解してるかもしれない』と誤解されるほうが、害は少ないです。」
「そうですかね…? 私にはよく分かりません。」
「そうなんです。 私にもよく分かりませんけど。」

「じゃあ、一体いつも何についてしゃべっているんですか?」
「私はいつも、気というものに関連していることについてお話ししているんです。」
「あ、そうだったんですか? 気についてのお話だったんですか。」
「ちがいます。」
「は?」
「気に関連していることについてのお話です。」
「は? だから気についてじゃないんですか?」
「私はいつも『気というものに付随して起こる関連事象』について述べているのであって、 気そのものについてしゃべっているわけではありません。てゆうか気なんて言葉にできません。」
「はぁ…。」

「あなたは好きな人いますか?」
「な、なんですか…突然。 ええ、まぁ、いますけど…。」
「愛してるんですね?」
「な、なんですか? さっきから。 何が言いたいんですか?」
「彼とあなたの間には愛があるんですか?と聞いているんです。」
「ありますよ、それは。失礼ですね。」
「彼とあなたの間には愛がある…と。 じゃあその愛ってどんな愛なんですか?」
「どんな愛って…。」
「あなたがたお二人だけを特別に結び付けている愛なんでしょう? なにかほかとは違う独特な愛ってことじゃないんですか?  それとも私に対してもまったく同じ愛がありますか?」
「それはありません。」
「即答ですね…。 でもとにかく、彼とあなたの間だけにある特別な愛ってことですよね?」
「そう言われれば、そうかもしれませんけど…。」

「じゃあだから、その特別な愛とやらの特別さを、言葉にして教えてくださいよ。」
「特別さって言われても…よく分かりませんよ。ただ好きなんです。愛してるんです。」
「愛してるから愛してるって、それじゃただの同語反復でぜんぜん説明になってませんよ。」
「そんなこと言ったって、うまく言葉になんてできませんよ。」
「じゃあ、つまりあなたは『彼と私の間に確かに愛はあるけれど、言葉にはできない』と、こうおっしゃるんですね?」
「そうですね。そういうことですかね。なんか言いくるめられてるような気がしますけど。」

「それは気のせいです。そして、それが気のせいなんです。」
「はぁ?」
「いや、だから、あなたが言いくるめられている気がするというのは気のせいだけど、彼とあなたの間にある愛を言葉にできないのは、 それが気のせいなんです。」
「なんだかややこしくて、よく分からなくなってきました。」
「奇遇ですね。ボクもよく分からなくなってきましたよ。」
「自分もよく分からないようなことを、もっともらしく言わないでください。」
「しょうがない。人の口から出てくる言葉はみんな屁理屈のようなもんなんだから。」
「またそんな屁理屈言って。」
「だから屁理屈だって言ってるでしょ。」
「クッ…。 RYOさんって意外と意地が悪いんですね。はじめて知りました。」
「あれ? 今ごろ気づいたんですか? そんなことじゃこの世知辛い世の中を生きていくのに大変ですよ。」
「余計なお世話です。」

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2005年10月27日

手離すその手に愛の手みやげ

……と、いうわけで「手離す」ということ。

「手離(放)す」という言葉は、文字通り解釈すると「握っている手を離(放)す」ということである。

このような「からだ言葉」というものはなかなか奥が深いもので、「何かに執着してしまって手放せない」という状態は、 実際の手の状態ともけっこう関連しているのである。

実際に手指や肘といったところの動きが鈍くなってくると、「いま手持ちのもの」を手放せなくなって、 なかなか新しい発想に切り替えることがむずかしくなる。

思考の世界で「言葉」を使って「意味」を捉えるということと、現実の世界で「手指」を使って「物」を捉えるということとは、 けっこう近いところにある。

手指の動きが言語能力と密接に関係があるのはそんな近さからかもしれない、 と考えてみるとけっこうおもしろいことがいろいろ分かってくる。

あ、今度しゃべろうと思ってたのに先に書いちゃった。まぁ、いいか。


ところで、「手放す」ということは、何かにじっと注意を集中していたものからフッと注意を外すという意味でもある。

何かに注意を集めるというのはさほどむずかしいことではない。漠然とでもそのことを考えてさえいれば、程度の差はあれ、 なんとなくは注意が集まっている。

ところが注意を外すとなると、とたんにむずかしくなる。

何かを考えないようにするとき、それについて「考えない、考えない」と懸命になって「考える」 ことによって逆に意識を集中してしまうのである。

別れた恋人のことを「忘れよう、忘れよう」とするけれどもいつまでも忘れられない、というアレである。

……べつに何か想い出したりはしてませんよ。


よく瞑想や座禅などでも「無心になる」ということを言われるが、「無心、無心」と考え続けて「無心」 に執着してしまうという本末転倒なことはありがちである。

私はこの「無心」というのは、「何にも考えない」というよりは「何にも捉われない」 ということではないだろうかと勝手ながら思っている。

アタマを空っぽにしてポカーンとしているときに、 いろんなことがぽかりぽかりと浮かんでくるのはきわめて自然なことであるような気がするからだ。

その浮かんでくる想いをすっかり無くすことができるのかどうか、私のような凡人には分からない。けれども、 その浮かんでくる想いの一つ一つに捉われないでいる、ということは訓練していけばできそうな気がする。

ぽかりぽかりと浮かぶものをただ、浮かぶに任せ、消えていくに任せ、絶えることのない川の流れをただ眺めるように静かでいれば、 それでいいような気がするのだけれど、それじゃあダメなのかしらん。

「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。」(@ 方丈記)

って鴨長明が言ってるみたいに。


「意識しない」ということで「意識してしまう」というのは、なかなかそこから逃れることがむずかしい。

もう勘のいい人はうっすら気づいているかもしれないが、それは自分にとっては「ないはず(にしたい)のモノ」だからである。

ないモノ」 が人に及ぼす影響力は大きい。

「今はもうない」というモノがそこに残す何かの「跡」。

そこに人は「喪失感」を感じる。

「何かがない」という「喪失感」が生み出す「力」は良くも悪くもとても強い。また、だからこそ手放すことに恐怖を感じてしまって、 手放すということがむずかしいのかもしれない。

でも、子どもはいつか必ず手を離れていくものである。

子どもの小さいうちから、小さな練習を繰り返していくことで、 いつかすっかり手を離れてしまうそのときの心の準備をしておくこともいいかもしれない。

そうして子どもの手を離すそのたびに、小さな可愛い手に愛の手みやげを少しづつ持たせてあげると、いつか子どもも気づく。

小さなたくさんの愛が、自分の手や足やからだや心を育ててくれていたことに。

何かもっと大きなモノを手にするために、手離すべき時がある。

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2005年10月26日

要求を押さえて離す

子どもには「集中要求」と「独立要求」というものがある。

端的に言うと、「集中要求」というのは「ママ見てて!」ということであり、「独立要求」というのは「自分でやる!」ということである。

基本的に子どもというのは絶対的に保護を必要としている存在であるので、多くは「集中要求」を示す。

下に子どもが生まれたときに、上の子どもが今まで独り占めにしていたママが赤ちゃんに取られた気がして、 無意識に赤ちゃんをいじめたり、事故や怪我、場合によっては病気になってまで、ママの注意を引こうとすることはよくある。

大人の注意の集中が自分に向いているかどうかということは、自活していく力のない子どもにとっては直接、命にかかわることであるので、 その要求の示し方はこれまた命がけになって示すことも稀ではない。

とくに小さければ小さいほど「集中要求」は高いし、その「集中されているかどうか」という「感受能力」も高い。

しかし、子どももある程度大きくなってくると、「自分の力でなんとかしてみたい」とか、「自分の力を試してみたい」という、 「独立要求」が高まってくる。

だいたい「集中要求」がきちんと満たされていると、「独立要求」が素直な形で高まってくるというのが普通だが、 その現われには子ども一人一人の波、リズムというものがあり、 要求が高まったり弱まったりするその波の形は子どもによってさまざまであるので、 きちんと注意深く観察していなくてはよく分からない。

大人は子どものその「集中要求」と「独立要求」のどちらが強くなっているかによって、子どもとの接し方を臨機応変に変えていくことで、子どもといい関係で付き合っていくことができる。

子どもの手を引くその「手の内」を締めるか緩めるかによって、子どもの要求に応えるのである。

この「集中要求」と「独立要求」をきちんと満たすということは、子育てにおいてかなり大切なことである。


子どもの中でどちらの要求が高まっているのか、よく観察してそれに添った形で接していくということはとても大切なことであるのだが、 そうやってつねに子どもを一生懸命観察して、そのたび接し方を変えていくというのは気が張って疲れるという意見もあろう。

それはそうだ。

なにしろ子どもに先手を取られているのだから。

これが武術であれば勝敗はほぼ決している。

後手後手にまわっては、相手のペースに飲まれてしまって、自分本来のリズムが崩れてしまうのだから、呼吸が苦しくなるのは当然である。

どんなことでも自分の呼吸でやっているうちは疲れない。

他人の呼吸に合わせようとしはじめると、とたんに疲れるのである。

だから「疲れない子育て」をするためには、自分の呼吸のリズムを保つということがたいへん重要であるわけだが、 そのためには子どもの先手を取って動く必要がある。

先手を取るといっても「子どもがやることを先回りして全部やってあげる」というような、子どもを腰抜けにしてしまうようなやり方は、 当然よろしくない。

子どもの要求が高まる前に、子どもの手を引くその「手の内」を締めたり緩めたりすることによって、子どもの「独立要求」や「集中要求」 を誘導するのである。

たとえば、子どもが「ある要求」に満足して「別の要求」が湧き起こってくるその「兆し」を察したときに、 その要求のアタマをひとつ軽く押さえてからポッと離すということも誘導の一つのやり方である。

むずかしいか。

たとえば、子どもが「抱っこ、抱っこ。」と言ってきたときに、 すかさず抱っこしてあげると子どもは自分の要求がスッと通ったことにまず満足する。そうしてしばらく抱っこしてあげていると、子どもは 「集中要求」がすっかり満たされるので、満足して「もういい」と言って離れようとする。

そのときに「もうちょっと抱っこさせて」と言ってぎゅっと抱きしめるのである。

そして逃れようとする子どもをもうひとつ抱きしめて、ひとつ間を置いたところで惜しみつつ離す。「離してよォ〜」という要求を「もうちょっとだけ」と言って、ひとつ押さえることでその要求をより高めるのである。

そうすることによって「集中要求」から「独立要求」へと誘導する。

これを万が一、最初の「抱っこ」の要求に対して「あとで」とか言って要求のアタマを押さえるようなことをすると、逆に「集中要求」 を高まらせることになり、「抱っこ抱っこ」の嵐になる。

もちろんそうしたいのであれば、それはそれで別に悪いというわけではない。

でもそうして高まった要求はきちんと満たしてあげないと、あとでもっと大変な目に遭うことになるので、「てんてこ舞い」を踊らせられたくないのであれば、 きちんと要求を満たしてあげなくてはいけない。

大変な目に遭うのは、しばらく間を置いてからであったりするので、連想がつながらなかったりすることもあるけれど、そういう時は、 なにか自分が子どもの要求を高めておきながら、ほっぽらかしにしていなかったか反省してみると、たいてい思い当たることがあるはずである。

「要求」が「不満」となって内に引っ込むときの、子どもの顔の気配がフッと変わるその瞬間を見過ごさぬよう、よくよく心がけなければならない。


けれどもそういうことを意識して、いつも子どもをきちんと観察するということは、じつはそれだけで子どもの「集中要求」 を満たすことになるのである。

だからきちんと観察をしている人はむしろ、いつ握る手を離すか、いつ「手の内」を緩めるか、という「手離し」 のことだけに意識を集中していてもいいかもしれない。


ところがこの「手を離す」ということがこれまたとてもむずかしいのである。

…と返す刀でふたたび盛り上げたところで続きはまた今度。

…というこれがまた「外し」の誘導であったりするのである。

オホホ。

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2005年10月23日

夜の街にヤモリが笑う

私の携帯電話の待ち受けは、画面いっぱいのヤモリである。SECOM

ある日、玄関のタイルのところになにやら黒い影があるのを見つけ、その瞬間「ヤモリだ!」と気づき(そういう時は電光石火である)、 携帯のカメラを眼の前まで持っていって(なぜか逃げない)、パシャパシャと全部で10枚くらい撮ったのである。

私はもうヤモリを耽溺して仕方がない(なんだか愛するモノがいっぱいだな…)。

ヤモリは「家守り」とかけて家を守る「守り神」として扱われたりもするが、実際に虫などを食べてくれるのでありがたい存在である。

昔カンボジアへ行ったとき、泊まっていた宿の壁にはいつもヤモリが5、6匹くらいへばりついていた。

だいたいいつも明かりのそばにいて、飛んでくる羽虫たちを、それこそ電光石火のスピードで捕らえて、むしゃむしゃと食べていたが、 ときどき「ケッケッケッ」とヘンな笑い声のような声で鳴き、その笑い声が夜の街に響いていた。

それをぼんやりと見つめながら、氷をぶち込んだカンボジアンビール(冷蔵庫が普及していなかった)をぐびぐびと飲むのが、 カンボジアでの宵時の過ごし方だった。

ちなみに夕暮れは、アンコールワット遺跡にある小高い丘から、アンコールの森に沈む夕陽を、 これまたやっぱりカンボジアンビール(売り子から買う。あんまり冷えてない)をぐびぐびと飲みながら見つめるのが、カンボジアでの黄昏時の過ごし方だった。

その頃からヤモリは好きであったのだが、カンボジアでのそんな想い出も加わって、今はよりいっそう耽溺している。

キョロリとした愛らしい眼ん玉に爬虫類の瞳、キメ細かそうな鮫肌に丸っこい吸盤みたいな指、 虫をむしゃむしゃと食べる野生さに外見からは想像もつかない鳴き(笑い)声。

うぅ、その裏腹さがすべてたまらない。

ある時は、トイレでトイレットペーパーのところにへばりついているのを見つけて狂喜乱舞してみたり、 またある時は掃除していてゴミ箱をひょいとどけたら、そこに干からびたヤモリのミイラを見つけて哀しみに沈んでみたり、 私の日々の暮らしに彩を添えてくれる気のいい同居人である。

もしあなたが夜寝ているときに、どこかからだれかの笑い声が聴こえた気がしたなら、 それはあなたの家を守ってくれる家守りさんの声である。

そんなときはそっと「ありがとう」とつぶやいてみると、家がキシリと返事する。

…かもしれない。

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2005年10月21日

モノノケたちは「転ぶ」のを…

もっけ』(熊倉隆敏、講談社アフタヌーンKC、2002)という私の好きなモノノケ漫画があるのだが、 その第一巻に「おくりもの」という章がある。

送犬(オクリイヌ)とか送狼(オクリオオカミ)とかいわれるモノの話だ。

送狼なんてのは今でも違う意味で時々使われるが、後をついていって隙あらば喰おうとするところは基本的に一緒かもしれない。

全国に残っている送犬、送狼の話には大きく分けて2つの種類があるらしい。

1つはほかの山犬や狼に食われないよう家まで送ってくれるモノと、もう1つは転んだら食おうとして跟(つ)いてくるモノだ。

日本人とオオカミ』(栗栖健、雄山閣、2004)によると、つい平成九年くらいの聴き取り調査でも「昔、 オオカミに家まで送ってもらったことがある」という人がまだいたりするので、そんなに昔の話というわけではない。

なんか不思議な感じだけど。

オオカミという動物は、 一匹狼なんて言葉があるので群れずに生きているというイメージをもっている人もいるかもしれないがそれは例外で、 たいてい群れで行動し群れで狩りをする。

オオカミは頭のいい動物で、弱った人間がいると周りをうろうろしながらついていき、へばったり、眠ったりして隙ができるのを待つ。

隙を見せた瞬間、いっせいに襲って喰うのである。

『もっけ』で語られているのはモノノケの話だけれど、やはりそういう実際の「ついてくるもの」 の象徴として話の中に生まれてきたのだろう。

私がおもしろいと思ったのは「転んだら喰う」というところだ。

「転ぶ」というのはとくに老人になると本当に怖い。私の亡くなった祖母は庭で転んでそれ以来寝たきりになったが、 転んだときの怪我が元で体調をがたがたと崩しそのまま寝たきりになってしまうというのはけっこうある。

「転ぶ」というのはその打撲の影響もさることながら、心に及ぼす影響も大きい。

心もまた躓(つまず)く。

自信が崩れるというのだろうか。身体的にも精神的にもその及ぼす影響はけっこう大きい。

整体では打撲はその強さよりも速度の方が影響を与えると言われる。

例えば階段で転んだとき、なかほど辺りから転げ落ちるよりも最後の一、二段を踏み外して転んだ方がその打撲としての影響は大きい。

見た目の激しさや出血の度合いなどは関係ない。

高いところから落ちた場合、最後にドンと落ちるまでにからだが準備でき、そのショックを受け止められるが、一、 二段の場合最後の衝撃までの時間が瞬間的であり、からだがその準備をする前に不意にショックが訪れる。

そうするとそのショックを受け止めきれずにからだを「通り抜けて」しまう。

武術で言う「寸勁(拳を相手のからだに密着させた状態から相手を突く)」を受けたようなものだ。

前にもこのブログで書いたことがあるが 「通り抜けるもの」は非常に強い力をもっている。

ショックを受け止めた場合よりもショックが通り抜けた方が、 そのからだに及ぼす影響力は大きい(捌くとか受け流すとかいうこととはちょっと違う)。

しかも、そもそも転ぶような時というのはたいてい、気が散っていたり、急いていたり、滅入っていたりして、「心ここにあらず」 といった状態で心とからだのあいだに隙間が生まれ、その隙間に邪気が入りやすいというか、悪い風に中(あた)りやすい状態なのである。

「魔の刻」とでもいうのだろうか。

「間」は「魔」につながる。とかく「魔」は「間」をねらってつけ込んでくる。

昔からそういう時こそ細心の注意をはらって過ごすことの重要性を説く話は多いが、もっとも転びやすく、 なおかつその影響が大きい時期である。

転んだら喰おうと思ってついてくる送犬や送狼の話というのは、その「転ぶ」ということがもちろんいろいろな意味であるわけだけれど、 「転ぶ」という言葉で表現するということは実際に転んだときの身体感覚と共通しているものがあるわけで、それはやはり不意であるということ、 アッと思った瞬間にはからだを打っている「不意の打撲」であるということであろう。

「転ぶ」ということが「不意の打撲」であり、そもそも「転ぶ」ような時は心身が無防備で危うい状態であるのだ。

「転ぶ」ということが人に及ぼす影響は計り知れない。

だから「転ぶ」ことに対して注意を促すような伝承が各地で残り、またその影響の大きさがモノノケを生み出し登場させるのだと思う。

posted by RYO at 19:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月20日

ちょっと分かってきました。

内田先生の最新刊『街場のアメリカ論』(内田樹、NTT出版、2005)を読む。

そうしたらちょうどこの前書いた佐々木先生の 「マイクロ・スリップ」のお話が出ていた。

あら、なんでこう、ちょうどそのことを書いた直後に、同じことを書いてあるものを読んでしまうんでしょう。

しかもイチローの話を持ち出すところまで一緒だ。(同著、p41参照)

どこかで聞いたお話を「聞いた話」であることをすっかり失念して、時を隔ててあらためて「自分で思いつく」 ということはよくあることである。

内田先生の著書をばしばしと読みブログもまめに読んでいる人間が、内田先生の言葉に「お、 まさにちょうど私が考えていたことを言っているではないか」と感動を覚えることは、そう不思議なことではない。

どこかで言っていたのを聞いていたのかもしれない。覚えてないけど。

でも、内田先生、「マイクロスプリット」じゃなくて「マイクロ・スリップ」なんですけど…。


しかし、それにしてもさすがあいかわらず見事な語り口である。

話があっちこっちへぴょんぴょんと跳び回りながら、気がつくとそれらの糸がいつの間にやら見事なタペストリーを編み込んでいるような、 職人芸のようなものを感じる。

そんな職人芸にほほーっと感心しつつ、新しい「アメリカ」の像が私の中に浮かび上がってくるのを愉しむ。

「アメリカ」という国を見るのに新しい視点が加わって、「アメリカ」という国がまたちょっと分かってきた。


こういうなにか新しいお話を聞いたときにすぐ「分かりました」という人がいる。

そういう人はたいてい「よく分かっていない」ということが非常にしばしばある。

だいたいそういう人は話を聞きながら、似たような自分の経験を思い浮かべて「ああ、あのことか」 と自分の経験に置き換えて解釈してしまっていることが多いので、その人自身の知的フレームになんのインパクトも与えていなかったりする。

「分かりました」と口にすることは、理解という「運動」の停止を意味する。

だって「分かった」んだから。

昔、私がしゃべっていることにすぐ「分かりました」という人がいて、 なんだか私の言葉がぜんぜんその人に届かずに空中に消えていってしまっていることに腹が立ってきて、

「すぐ『分かりました』って言うな。『分かりました』って言うくらいなら『よく分からん』と言え。」

と言ったことがある。

「よく分からない」という状態であれば、まだ理解の「運動」は終わっていない。

だからこの言葉はなかなかいいと思ったのだが、実際に一生懸命しゃべった後に相手の口から「よく分からん」 という言葉が飛び出すのを耳にすると、予想以上にガックリくるということに、言われて気がついた。

うーむ、ぐったりくたびれて話すことに対するモチベーションが著しく下がってしまうというのは問題であるな。それに 「よく分からない」と口にすることが、無意識に理解を進めることを阻害することになりかねない。

「困ったな、なかなか難しいものだ」と考えていたら、ふと妙案を思いついた。

この言葉を思いついたときは嬉しさのあまり思わず小躍りをしてしまうくらいであったが、それはどういう言葉かと言うと、

「ちょっと分かってきました。」

という言葉である。

おお、これはいい。自らを理解へと向かう運動状態のまま捉えている。

「理解へと向かいながらも、まだたどり着いていない」というきわめて宙ぶらりんな状態でありながら、 話を聞く前よりもきちんと理解へと一歩、着実に足を進めている。

それは出前の遅いそば屋さんが催促の電話に対して「今、向かってます。」と言うのと似ている。今、向かっている最中であるならば何も言えない(あんまり関係ないか)。

それに「分かりかけている」という聞き手のつまずき状態は、話し手に、「じゃあもっとしゃべってみようか」という気を呼び起こす。

しかも理解状況によって、形容をうまく変えれば汎用的にどんな場合でも使えるのである。

けっこう理解が進んだな、と思ったら「だいぶ分かってきました。」と言えばいいし、もうほとんど理解したな、と思ったら 「かなり分かってきました。」と表現を使い分ければいいのである。

いずれにしても理解へと向かう運動状態を保持したままである。

そして「完全理解」というゴールには拝して接さず、アンタッチャブル。なまねこなまねこ。

これならけっしてたどり着かないニンジンを眼の前にぶら下げた馬のように、どこまでも走っていくことができる。

…あんまりいい喩えじゃないな。でも決してたどり着かないものをどこまでも追いかけることができるって実はシアワセなことだと思う。

「まだまだ深い理解ができるはず。」

うーん、「運動」は終わらない。

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2005年10月17日

そしてからだは戸惑い続ける

昨日、「からだは何かをやりながら、何をしようか考えている」ということを書いた。

からだはつねに揺らぎながら「環境」とどういう関係を結ぼうかと模索している。

私が「コップを持とう」と思って、コップに手を伸ばしてコップに手が触れるまでに、 私のからだにはさまざまな力学的変動が起きているし(腕の重さとか)、コップが必ずしも同じ位置で静止し続けているとも限らない。

時間の経過とともに変化し続ける「環境」と、より理想的な関係を結ぶためには、決断をできる限り、 行為の完了の直前まで引き伸ばすことが求められる。

からだは自らの最高のパフォーマンスを引き出すため、「意図決定」の瞬間を、最後の最後まで遅らせるのである。

『たとえば世界レベルの卓球の選手を対象にした研究は、打ち込まれてきた球と自身のラケットが衝突する直前(約20分の1秒)まで、 選手が球を打ち込むべき軌道を探して、ラケット面の向きをわずかに変更し続けていることを示している。…(中略)…「運動」 が洗練されればされるほど、それが球や地面などの環境に接触する、その先端部分は分岐の可能性を潜在させるようになる。 環境とどのように触れるのかという決定を、どこまで遅らせることができるのか、ということをあらゆるスポーツで身体は探求している。』
(『ダーウィン的方法』佐々木正人、岩波書店、2005、p10−p11)

去年、イチロー選手が84年ぶりにメジャーリーグ年間最多安打記録(262安打)を更新した。

そのあと、TBSの「ニュース23」という番組で、イチローへのシスラーからの手紙という特集をしていたときに、イチロー選手が 「左肩(奥の方の肩)を最後までピッチャーに見せない」というようなことを言っていた。

それはつまりギリギリまでボールを引き付けてから打つということである(もちろんそれだけではないだろうが)。

からだは、最高のパフォーマンスを引き出すために、瞬時に連携して動くための「遊びのなさ」と、どんな微妙な変化にも対応できる 「行為可能性」という、ともすれば相反するような要素を同時に持ち続けなければならない。

イチロー選手はさらに、番組のインタビューの中で、

「バッティングに必要なのは、タイミング、バランス、バットコントロールの3つである。それがそろったときにパワーが生まれる。 はじめにパワーありきではない。」

ということを言っていたが、

イチロー選手は、バットコントロールという「対応の行為可能性」と、それを可能にするバランスという「瞬時の連携を生む遊びのなさ」を、 「この瞬間」というタイミングで発動させることによって、からだの最高のパフォーマンスを引き出すのだろう。


む、なんだかやたらにまじめに書いてしまったな。

まあ、たまにはいいか。

一日中、降り続いていた雨のせい、ということにしておこう。

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2005年10月16日

やりたいことは、やればわかる

14日から2日間、河野先生の合宿に参加するために高野山へ行ってきた。

今回は2日間講座がみっちりあるので、昼間、勝手気ままにプラプラと散歩をする時間というのはあまりなかったが、 朝早く起きて早朝の霧雨にけぶる境内をのたりのたりと歩くのもなかなか乙なものであった。

ふだん大阪で指導している津田先生とお会いするのは久しぶりである。

「快」の追求については私以上に並々ならぬ意欲をお持ちの津田先生が今回、「快気法」の講座を行なうことになっていたので、 非常に愉しみにしていたのであるが、予想通りというか予想以上にユニークな「快気法」が講座のなかで展開され、 ビデオを撮りながら思わずこみ上げてくる「笑い」が、ビデオに入らないように気をつけるのが大変だった。


今回、講座のなかで展開されたのは「手様」「足様」「からだ様」の快気法というものであった。

自分の理想の寝相にたどり着くために「手様」「足様」「からだ様」にお伺いを立てようというのである。

二人一組になって一人に寝てもらい、もう一人が寝ている人の「手様」にごく軽いタッチで触れながら「手様」が「うむ、苦しゅうない」 という処を探し、その動きについていく。

それを「足様」「からだ様」とつぎつぎにお伺いを立てて、「からだ様ご一行」すべてが「うむ、苦しゅうない。余は満足ぢゃ。」 という状態になるまでおもてなしをするのである。

そして終わった人たちからどんどん寝ていってもらって、最後はみんな「からだ様」ご満悦の理想の寝相で涅槃に入ってしまった。

みなさん、なんと気持ちよさそうな寝顔で寝ているのだろうか。

「いいなあ。」と思いつつ、私はビデオを回しながら一人さみしく、もぞもぞとからだを動かす。

しかし、「手様」「足様」「からだ様」というふうに考えるのはとても奥が深い。

「手を出す」のではなく「手が出る」のである。

「足を向ける」のではなく「足が向かう」のである。

「私」はそれについていく。

これまたこういうことって不思議につながるもので、ちょうど今私が興味をもっている「アフォーダンス理論」の研究の中に、 まさにそういうことの研究があるのである。


人間の行動で観察されるものに「マイクロ・スリップ」という現象がある。

たとえばコーヒーをカップに入れて、そこに砂糖を入れるかクリームを入れるかというときに、 意識とは関係なく手はそのどちらかを取る直前に「とまどい」のようなものを見せることがある。

それはいろんな行動の中に観察されるものであるのだが、よっぽどじっくり観察しなければ分からないくらいの微細なゆらぎであり、 ふだんの生活のなかでは確実に見過ごされる程度のものである。

手は行為の完了の直前まで理想的行動を探索しているのである。

「意図」があって「行為」に移るのではなく、手は「行為」をしながら「意図」を探索している。

つまりからだは「やりながら、何をしようか考えている」のである。

佐々木先生が著書のなかで、 脳からの中枢指令によって末端である手足が動くという中枢指令主義の問題点(ベルンシュタイン問題)について書いている。

『リードによれば中枢指令主義の困難を厳密に指摘したのは、ロシアの運動生理学者ニコライ・ベルンシュタインである。彼は、 質量を持つ身体のどの部分の軌道も、運動それ自体によって引き起こされる力の変化を組み込んで、 情報を刻々と更新しなくては計算不可能であることを数学的に示した。このような身体の特徴を認めれば、まったく同じ中枢指令が、 現在進行中の運動の力学的文脈に依存して、異なる運動を帰結することも、逆に異なる中枢指令が同一の運動として現れることもあるわけである。 』
(『ダーウィン的方法』佐々木正人、岩波書店、2005、p124)

さらに別の著書でこんなことも言っている。

『私たちは「感覚されたものが脳で処理されて運動を制御する」という説明図式に慣れ親しんでいる。しかし、 以上に紹介した知覚と行為の関係をこの図式に当てはめることには困難がある。なぜなら神経系の伝達速度は、このように急速な行為を、 その結果をフィードバックして修正しながら進めることを期待できるほど速くはないからである。』
(『アフォーダンス― 新しい認知の理論』佐々木正人、岩波書店、1994、p97)

「マイクロ・スリップ」とは日本語に訳すと「微小錯誤」となるが、佐々木先生はそれを「微小探索」と名づけることを提唱している。

「錯誤」というのは「やっていること(行為)」が「やろうとしていること(意図)」から逸脱した場合をさすわけなのだから、「意図」 を「行為」しながら探索している状態のとまどいを「錯誤」とは呼べないのではないか、というわけである。

なるほど、「歯磨きをしようと洗面台に立ったのに、鏡に映るぽっちゃりした自分の顔を見ているうちに、 なんとなくスクワットを始めてしまい、それだけじゃ満足できなくなって外に走りに出てしまう」というような行動を、はたして「錯誤」 と呼べるだろうか。

…ってそれは違うか。

(もっとも本人には「微小」とは呼べないくらいの一大事であるかもしれない。「グレート・スリップ」とでも名づけたほうがいいか。 )


私たちは「行為」の青写真である「意図」を、「行為」の中で探索し、書き換えていく。

からだは何かをやりながら、何をやりたいのか決めていくのであるから、その「探索」をより開放していけば、つまり、 からだにその選択の主体をよりゆだねていけば、結果的に「やりたかったことを、やっている」 自分を見つけるという機会が増えることになるのではあるまいか。

今回の講座で津田先生はそれを

「自分のやりたいことが何であるのかなんて分からない。やってみて初めて、ああ、自分はこれがやりたかったんだ、と気づくのである。」

と表現した。

私もそう思う。

私のからだも賛成している。「愉快」というメッセージで。

「自分がホントは何をやりたいのか」なんていう「やりたいこと探し」なんて空しいだけだから、そんなことはとっととやめてとにかく 「やりなさい」、と若者たちにはソッとささやいてあげよう。

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2005年10月13日

非電化クールダウン

非電化工房」というところのホームページを見る。

なにやら、いろんな電気製品を非電化製品にしてしまおうと、いろいろ発明している団体らしいが、 私の子供心をくすぐる面白そうな物をいっぱい作っている。

なんだか愉しそう。

非電化冷蔵庫というものもあるらしいが、電気を使わずにどうやって物を冷やすのか非常に興味をそそられる。

昔、冷蔵庫の下にアルコールランプを置いて火をつけることで冷やす仕組みの冷蔵庫をテレビで見たことがあるが、あれもいまいち、 どういう仕組みになっているかさっぱり分からない。

しかし、この非電化冷蔵庫はもっとすごい。なにしろ外に置いておくだけである。

外気温とは直接関係なく、夜空が澄んで綺麗であればあるほどよく冷えるらしい。

まあ、なんてロマンティックにクールダウンする冷蔵庫なんでしょう。

冷蔵庫の上空が外宇宙に向けて開かれているということが何より重要なことらしいが、読んでみると仕組みは非常に簡単であるようだし、 その原理もまあ何とか分かる。

しかし、そういう現象がこの世の中にあるということそのものが、なんとも神秘的で不思議である。

「頭寒足熱」という言葉があるが「頭が外宇宙に向けて開かれている」ということも、実はけっこう重要だったりするのだろうか。

頭のてっぺん辺りからナントカ線が放射されて、それが宇宙に吸い込まれていくことで頭が冷やされるのだとしたら、 やっぱり夜に外を散歩するのは頭を冷やすのにはちょうどいいということになる。

夜の散歩は気持ちいいもんなぁ。

空から何かを受け取っているイメージというのはよくしていたけど、 自分の頭から何かが放射されていくイメージというのは今までしたことなかったなぁ。

明日から高野山に行くから、神聖で澄み切った霊峰の夜空をそういうイメージで散歩してみよう。

宇宙とつながって歩く!

ああ、いいなあ。ウフフ。

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2005年10月11日

ダーウィンのリンゴ

今、私の中では「アフォーダンス理論」というのがブームで、その第一人者である佐々木正人先生の著書をがしがしと読んでいる。

佐々木正人先生は、内田樹先生に並び、今私がもっともインスパイアされる研究者のうちの一人である。

お二人とも物事をきわめてラディカルに考える方であり、その姿勢が謙虚というか真摯である(って書くと「それは言いすぎ」 とか言われそう)。私は、お二方の理論の内容のみならず、その理論の提出の仕方、フレキシブルな立ち位置からの理論展開といった、研究の 「構え」そのものに感銘を受けているのである。

その佐々木先生の最新刊、『ダーウィン的方法』(佐々木正人、岩波書店、2005)を読んでいたらこんな文章が出ていた。

『何かを語るときにいつも背景をなす「理論」があって、結局、議論がそこに収斂していくということはどの領域でもよくあることだ。 心理学の領域でも議論はいつもそのように行なわれてきた。つまり「発達そのもの」ではなくて、 発達をどのようなことと考えるのかということの方に関心の中心があった。 現在でも「古いグランドセオリー」に代わる、「次の理論」を模索している人はたくさんいる。 しかし1990年頃のわが国ではそのような「理論を中心にする方法」が少し緩み始めていた、と筆者は感じたわけである。
…(中略)…もし本当に「脱発達理論的な発達へのアプローチ」が可能だとすると、発達研究が目指すことは「発達そのもの」 の記述になるのだと思う。 それは発達という現象にあることを、発達についての一つの見方を提供している固有の「理論」に準拠してではなく、「そのまま」 捕獲することである。 つまり発達を、それ自体が「発達すること」で同定することである。 これならば「理論」はいらない。』
(『ダーウィン的方法』佐々木正人、岩波書店、2005、p137−138)

おお、これこそまさしく、私が「漸近線の語法」 と名づけてまで言いたかったことである。

このような形で、私のまさに言いたかったことをずばり言ってくださっている文章と出会えるとは。

やっぱりこの本は、私に読まれるために私を呼んでいたのだ。どうりで本屋に置かれているその佇まいが、ほかの本とは違うと思った。 なにか輝いていた。

私が「漸近線の語法」という表現で言いたいことは、なにも「語り口」のことだけではない。

さまざまな角度からの漸近線を引くことによって輪郭(境界)を際立たせ、その全体像を浮かび上がらせる、というそういう「構造」 を持った方法全般のことを指している。

佐々木先生はこの著書の中で、そのような研究方法を「ダーウィン的方法」と名づけ、本のタイトルにまでしている。

それは「進化論」で有名なチャールズ・ダーウィンが晩年、その研究に没頭していた「ミミズ」 についての観察の記述方法に由来するのだが、それに関してはできればぜひ直接本を読んで、先生のラディカルな「構え」 とともに味わっていただきたい。

とはいえその「ダーウィン的方法」というのがいかなるものなのか、 少しくらいは説明しないと私の感動がいまいち伝わらないかもしれない。

しかし、私のつたない説明ではより混乱をきたすだけになるやもしれないので、似たようでちょっと違う「お話」で勘弁していただきたい。

うかつに言葉にできないようなこと(大切なことであったり、恐ろしいことであったり)は、こういうふうに「お話」 を一つするのが定石である(そしてこれもまた「漸近線の語法」である)。


たとえば眼の前にリンゴが一つあるとする。

私たちはそのリンゴを手にとってさまざまな角度から見ることができる。くるくると動かしていろんな角度からリンゴを眺めてみると、 リンゴはさまざまな様態を示す。

1ミリ動かせば目に見える姿は変わる。

同じ姿は二つと無いのだから、事実上リンゴは無限に形を変えながら私たちの前に存在することになる。

そのとき私たちは、目の前で無限の様態を示すリンゴを見て、

「このリンゴはいろんな形に変形して、とても曖昧で漠然とした存在である。」

と思うだろうか?

そうは思わない。

私たちは、さまざまな角度から見て無限に形を変えていくリンゴを見て、そこに変わることのないたった一つのリンゴを見出すのである。


私たちの感覚器官は、そのような認知の仕方をするようにできている。

それは長い年月をかけて進化してくる中で、私たちが身につけた感覚である。

私たちは無限の「見え」を示す像を見て、そこにある一つの不変項(インバリアント)を見出す。

ある一つのモノに対して、さまざまな角度からの異なる「見え」を集めることによって、たった一つの「変わらない何か」 を認識するのである。

より多くの異なる「見え」を集めることができればできるほど、その不変項はよりはっきりとした形で浮かび上がってくる。

その不変項という言語化できないものをダーウィンはミミズの行動に観察し、 それを損なわないような仕方で記述することを最後の研究で試みたのである。

佐々木先生はそれについてこう述べている。

『私たちが、ダーウィンによって出会わせられているのは「ないものとしてある」という動物行動の事実なのである。』(同著、 p56)


佐々木先生の提唱する「ダーウィン的方法」を実践するためには、私たちはよりフレキシブルな立ち位置に立ち、 自由自在に動き回ることができなければならない。

私はよく散歩をするが、大学時代はその散歩がインドやタイ、カンボジアにまで及んでいた。

飛行機に乗って移動するのを散歩といえるかどうかは疑問もあがりそうだが、 現地についたらプラプラと街を歩くわけなのだからやっぱり散歩の部類であろう。

ともかくそうやって日本とは違う風土の中へ入り、その土地の文化や人々の暮らしと出会いながら、 日本とはまったく異なる風習に感動したりするわけだが、旅を終えて私が感じたことを一言で表現するのであれば、 「やっぱり人間はどこでも一緒だな」ということである。

日本と違う気候を感じ、日本と違う食べ物を食べ、日本と違う言葉を聴き、日本と違う人々の暮らしを見て、私はそこに違いを超えた「変わらないもの」 を感じるのである。

もしかしたら私たちは、そこに変わらない世界の「何か」を見出すために、いろいろな土地を旅するのかもしれない。

私たちが「変わらない何か」をよりしっかりと把握するためには、ある一つの見方に縛られることなく、 さまざまな立ち位置に身を置いてみること、いわば「運動」をし続けることが大切なのではないだろうか。

フットワークを軽く、腰を柔軟に、首は弛めて、眼は俊敏に。

とりあえず散歩でもするか。

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2005年10月10日

「みなさん、さようなら」

映画「みなさん、 さようなら」を観る。

末期がんを診断されたある老年期を迎えようという男と、その家族や仲間たちとのやりとりを描いた物語であるが、物語の最後のほうで、 やり手のビジネスマンである主人公の息子と人生が上手くいかない知り合いの娘がするやり取りがよかった。

末期がんの父親が最期を迎えるために訪れた湖のほとりの別荘で、気の知れた友人たちと最後の夜を過ごしている。

みんなが去った焚き火の前に一人座っている娘の隣に主人公の息子がスッと座る。

彼に好意を抱いている彼女がフッと彼に身を寄せた瞬間に彼の携帯電話が鳴る。

電話に出ようとする彼から彼女はパッと電話を取り上げ、焚き火の中にポイッと投げ入れてしまう。

彼は呆然として彼女を見つめ、彼女は自分が思わずとってしまった行動に申し訳なさそうに視線をそらす。

彼はそんな彼女を肘でトンと押す。彼女は思わず笑ってしまい、彼もつられて笑う。

「おかしいか?」と彼が聞き、二人でくすくすと笑う。

何とも言えないこの心理描写が私にはとても響いた。

このシーンには伏線がある。

物語の前半で息子が父親にパソコンを貸したときに、父親はうっかり病室で紛失してしまい、それを聞いて息子は激怒する。

パソコンは彼が仕事の取引で使う大事なビジネスツールであり、仕事人間である彼にとっては仕事と自分をつなぐ生命線でもある。 もっと言えば彼自身のアイデンティティーそのものとも言えなくもない。

だから彼は病院のスタッフにお金を渡してまで、自分のパソコンを取り戻そうと躍起になる。

それが物語の終盤、携帯電話をまったく理不尽にも燃やされたときに、彼は笑うのである。

携帯電話を燃やされたときに思わず笑ってしまう態度は、映画の前半で父親にパソコンを紛失されたときの怒りようとは全然違う。

携帯電話もパソコンも彼と仕事(社会)を結びつけるためのとても大切なツールである。

彼は破天荒な父親に巻き込まれてさまざまなことを経験しているうちに、ビジネスという呪縛から解き放たれた。

エリートである彼が、大嫌いであった父親のために法を犯してまで関わっているうちに、彼が今まで生きてきた「物語」が、 その枠組みを徐々に変容させていったのである。

おそらく彼はこれから、今までとはまったく違うより自由なスタンスで、ビジネスに関わることができるだろう。

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2005年10月08日

まだ見ぬ自分に照れる

私はふだんICレコーダーというものを持ち歩いている。

パッと思いついたことをすぐさま記録しておくためであるが、面白そうな講演を聴きに行った時に、 録音可能であれば講演を録音するためにも使う。

ICレコーダーというのはたいへん優れもので、パソコンとつなげれば録音したものをそのままCDに落とすこともできるし、 編集することもできるし、声を登録すればそれを文章化することもできるらしい。まだ使ったことはないので、 その精度のほどは分からないけれども。

しかも、小さい割には30時間も録音できる。

便利な世の中になったものである。


このブログでも何度も書いているが、私はよく散歩をする。

散歩しているとき、頭の中は雑念だらけであることがほとんどだが、ときたま、いい考えが浮かぶとそこから突然、 頭が安定した高速回転状態へと突入する瞬間がある。

エンジンが回転数の高い状態でアイドリングしているような状態と言えばいいだろうか。

そういう状態のとき、浮かんでくる思考は堂々巡りするようなものではなく、次へ次へと進んでいく思考である。

自分が「前に向かって歩いている」ということと何か関係するかもしれない。

歩いていると、次から次へといろんな考えやアイディアが浮かんでくるのだが、それを思考の中にとどめておくという事はなかなか難しい。

ちょっと気を抜くとうねうねとその姿を変えながら、闇のかなたに霧散していってしまうのである。

こういうものはきわめて足の早い「なまもの」のようなものであるので、一秒のあいだにその鮮度は急速に失われてしまう。 だからそれをメモとして書き残すということにも、なかなか技術がいる。

しかし私は「メモを取る」ということがとにかく苦手なのである。

昔ある研究会のような集まりで、私が「記録係」に任命されたことがあった。2、3時間の話し合いのあと、 記録ノートを見てみたら5行しか書かれていなくて、即座に「記録係」をクビにされて「渉外係」に変えられた、という経験があるくらいである。

私は「聴く」のと同時に「書く」という二つのことを同時に平行して進めることができない。

「聴く」ときはすっかり「語り」に集中して没頭してしまうので、せいぜいできることは「うなづく」とか「返事する」 とかいったレスポンスくらいである。

「メモを取る」という技術も身につけなくちゃなぁと最近はときどき思うのだが、「集中して聴く」という自分の「構え」 もこれまたかなり大事なことである、ということも心底思っているので、「メモを取る」という技術は一向に身につかない。

加えて私は根っからの無精者でもあるので、結局メモを取る代わりに、ICレコーダーにアイディアをそのまま口から思いつくまま語って、 自動筆記のように記録してもらうことにしたのである。

でも録音した自分の声を聞いてみてはじめて分かったけど、思いつくままにしゃべっている言葉というのはたとえ自分の言葉だとしても、 その語っているまさにその瞬間の心理状態にチューニングするということは、なかなか至難の業である。

何度も聞いていると、おぼろげながらその時の記憶というものが立ち上がってくるような気もするが、もしこれが他人の言葉であったら、 その状態にチューニングするというのはかなりむずかしいことであるような気がする。

「テープ起こし」を仕事としてやっている人なんてどういうふうにチューニングするんだろうか。


はじめてICレコーダーに録音したとき、自分でもびっくりする面白い現象があった。

録音していない状態ではいくらでもべらべらしゃべれるのに録音し始めたとたん、しどろもどろになる自分がいるのである。

「聴かれている」ということを過剰に意識している自分がいて、そのことに驚いた。

べつに録音したものを他人に聞かせるつもりなんて全然ないし、そのことは当人である「私」はよく知っているはずである。

ということは、私は「聴く自分」という未来の他者にたいして、意識過剰なくらいに反応をしていたのである。

「未来の私」は、「今の私」のことをおそらく「今の私」よりも知っている。

私のこと(私の欲望)を、よく知っている人間に向かってべらべらとしゃべるということは、その嘘も見栄も、 すべてお見通しであるわけである。

そのことを「今の私」が過剰に意識してしどろもどろになっているのである。

ということは「今の私」は「今の私の欲望」に気づいていない振りをしながら、実は気づいているということになる(ややこしいかな?)。

私の話に「私の欲望」が露出しているということを、私自身が感じていなければ、「他者」 がそこに私の欲望を見出すであろうということを、過剰に意識するなんてことはありえない。

しかもその「他者」が、当の本人であると来たもんだ。

「私が私のいやらしさを、とてもいやらしいと思っている」ということを、ちっぽけなICレコーダーに気づかされた出来事であった。


今日久しぶりにICレコーダーに録音した自分の声をいろいろ聴いていたら、録音した覚えのまったくない声が入っていて、ぎょっとした。

そのわずか30秒あまりの妄言を以下に記する。

「自分がね……、言葉でムニャムニャ(不明瞭で聴き取れず)……、…自分がものすごく混沌としていて……、 なんだか違う自分というより……、よくわからない誰かが……、しゃべっている気がするし……、 自分の知らない何かがしゃべっている気がするし……、色がカラフルで鮮やかでね……、よく分からない……、ブツッ(切れる音)。」

な、な、な、なんですか? だれですか? あなたは?

しかしよく聴いてみると、ぼそぼそとやたら陰気で無言部分が多いが、たしかに自分の声である。

けれどもまったく記憶にないので、何のことを言っていたのかまったく想い出せない。

「よくわからない誰かが……、しゃべっている気がする」って、そりゃお前のことだよ、ととりあえずツッコんでみる。

録音した日にちを見るとちょうど風邪を引いていたあたりである。

うなされてヘンなことを口走ったのだろうか。

しかし、わざわざ録音しているところをみると、本人にとっては「未来の私」に伝えるべきメッセージがあったにちがいない。

う〜ん。ごめんなさい。想い出せません。

それにあなたの言ってることは私にはさっぱり分かりません。

てゆうか怖いです。

勘弁してください。

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2005年10月07日

トイレの樹

街に金木犀(キンモクセイ)の香りがあふれている。

歩いているとどこからともなく漂ってくる優しい香りに思わず頬が緩む。

前に公園で、金木犀の樹の下で遊んでいた子どもがおもむろに

「この樹、トイレの匂いがする!」

と叫んだのを聴いたときはさすがに苦笑いであったが、たしかに子どもにとっては「キンモクセイ」 の香りはトイレの中で嗅ぐのが一番馴染み深いのかもしれない。


前に「嗅覚」についてちょろっと触れたことがあったが(「根拠なき自信」参照)、「嗅覚」というのは「触覚」 についでかなり本能的でプリミティブな感覚である。

匂いの刺激というのはほかの五感の感覚と違って、ダイレクトに大脳辺縁系に送られる。

大脳辺縁系とは平たく言えば古い脳の部分であり、本能的なものを司っている。たいする大脳新皮質は知性的な活動を担っているわけだが、 嗅覚以外の五感はいったんこちらを介してから大脳辺縁系に行く。

なぜか脳は「匂い」に関してだけは「開かれている」のである。

だから匂いに関しては、その好き嫌いの判断が「問答無用」である。

知性の座である大脳新皮質を介さずに、本能的な部分にダイレクトに届いてしまうのだから、まあ、しかたがない。

「クサイ」と言われることが、多くの人にとってかなり強烈に「コタえる」という事実が、このことからもよく分かる。

うかつに口走ってはならない。

ときどきものすごい香水の匂いを撒き散らしながら平然としている方がいらっしゃるが、そういう場合に限っては、 誰かがそっと事実を告げてあげることも大事であるかもしれないけれども。

「匂い」というのはかなりさまざまな情報を含んだ大切なリソースである。

「匂いの記憶」など、かなり根源的な記憶であることが多い。

そういったいわゆる「匂い」という意味でも、私の言う「それが好ましいものかどうか」を判別する「嗅覚」的感覚という意味でも、 きちんと嗅覚を育てるということはとても大事なことであると思う。

自然の中にあふれている微細な「匂い」を感じ取るという原体験を、 子どもたちにはもっともっとして欲しいものである。


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2005年10月04日

寝ぎわに愛の手みやげ

今日は群馬の「自然育児友の会」のママさんたちに講座を一席ぶつ。

今回のお話はその内容があまりに多岐にわたりすぎて、とてもここでまとめることができない(支離滅裂とも言う)。

整体の話に始まり、シュタイナーの子ども観、河野先生の動体学に及んだうえ、私の感覚論、身体論を熱く語り、 渋谷の若者のからだの変化やら、潜在意識の話やら、祈りの治癒効果やら、ベラベラとしゃべり続け、 みんなでお互いの背中をトントンと叩いていたと思ったら、お互いの肩甲骨に手を突っ込んでワイワイと愉しんでいた。

もちろんレジュメを作っているときに、このような事態に及ぶことなんて想像もしていない。

なにしろレジュメに書いてあることのうち、半分も触れていない。

参加されているみなさんが大変勉強家でいらっしゃったので、話がいともすんなりと通ってしまい、 私の舌も回転があまりにも乗りすぎてしまったようである。

ホントに「自然育児友の会」のママさんたちは「話が通じる」。


その中でも今回は「寝ぎわに愛の手みやげを持たせる」というお話が我ながら印象深かった。

子どもというのは実によく眠る。

その時間はもちろん子どもによってまちまちであろうが、仮に一日十時間眠るとしよう。一日の三分の一以上である。

昼間はまるで鬼のようにはしゃぎまわっていた子どもたちも、夜にはまるで天使のような愛らしい寝顔となって、すやすやと眠りにつく。

しかし、動かないからといって子どもはその成長が止まったわけではない。

むしろ寝ているときにこそ、からだはミシミシと音を立てるくらい成長していく。

そのようなまさにからだを成長させようとしている眠りの世界に旅立つときに、 もしもママがプリプリと怒って苦しみと悲しみに満ちた状態で旅立たなければならないとしたら、 これは子どもにとっていかに大きな負担となるか。

「きっと、ボクはママの本当の子どもじゃないんだ。本当のママはきっとどこか別の所にいて、ボクをずっと探しているんだ。 もし本当のママに会えないくらいなら、もうこのまま死んでしまおうかな。そうすればきっとママも、 もっと優しくしてあげればよかったって泣いて悲しんでくれるに違いない。ぐすん。」

なんて、そんな悲しみに満ちた状態で十時間もの間、からだは成長していくことになるのである。

シュタイナー先生は「眠りは小さな死である」と言っている。

いままさに眠りの世界へと旅立とうとする臨眠(?)の床にいる子どもに、せめて良い手みやげを持たせてあげようではないか。

小さい頃、私の母は布団に入った私の周りを「ぎゅっぎゅっ」と言いながら、足で布団をからだにピターッとくっつけてくれた。

なんでもないことだが、今でもはっきり覚えている。

今思えば、あのなんでもないことが眠りにつこうという小さな私にとって、どれだけ嬉しい手みやげとなったか。

眠りにつこうという子どもに、あふれるほどの愛情を手みやげに持たせて旅立たせてあげることは、 からだの成長にとっても心の成長にとっても、とてもとても大切なことではないだろうか。

ということを申し上げる。

これもまた例のごとく、その場で思いついてしゃべったことであって、私自身、初耳だったので「おぉ、なるほど、それはそうだ。」 といたく感心してしまう。

きっかけは、「うちの子どもが口をいっつも開けて足をズリズリずって歩くんですけど、どうしたらいいでしょうか?」 というママさんからの質問であった。

なぜその質問から「寝ぎわに愛の手みやげ」のお話に発展してしまったのかは、話すとこれまた長くなってしまうので割愛させていただく。

けれども、もしそのような質問がなければ、私の口から上のようなお話が飛び出てくることは決してなかったであろう。

これもまた、皆さんの支えてくださった「場」によって生まれたものである。

ありがたいなぁ。


そんな感じで、お話もとりあえず「お開き」となったところで、ママさんたちが一生懸命作ってきた料理の数々をテーブルの上に並べはじめ、 私もそのお相伴にあずかる。

みなさん、マクロビオティックであるとか有機農業であるとか、健康に関しては一角のものがあるので、 どれもたいへん美味いうえにとってもヘルシーである。

「美味いけどからだに悪い」とか「ヘルシーだけど不味い」といったものは世の中多々あるが、「美味くてヘルシー」 というのはそうはない。

しかもみなさん、それぞれいろいろなものを作ってきたので種類も多い。

初めて見るような料理が多々並び、見ただけではその材料も味も想像できない、という大変サプライズにとんだ食卓であったので、 久しぶりに味覚が野生的なまでに研ぎ澄まされた。

口に入れるまでその味がしょっぱいのか甘いのかも分からない、という食事は、感覚を研ぎ澄ますにはなかなか効果的であるかもしれない。

種類だけでなくその量も全部合わさると大変なものであったが、

「タッパーを持参せよ」

という命令があらかじめ出されていたので、食べきれない分は持参したタッパーにぎゅうぎゅうと詰める。

ちなみに今、それを口にほおばりながら文章を打っている。

美味い。


その帰りの電車の中でぼけーっとしていたら、盲導犬を連れた女性が乗ってきた。

失礼だとは思ったが、興味深かったので二人(一人と一匹)の関係をずっと観察していた。

私はとにかく、何かと何かの関係とか間とかそういったものがこの上なく大好きなのである。

その盲導犬、白いラブラドールであるが、仮に「シルビア」と名前をつけよう。

(ちなみにシルビアというのは昔出会った白いラブラドールの盲導犬の名前。)

シルビアは女性の足元に「伏せ」をしてじっとしている。

前足の上にあごを乗せつまらなそうにしているが、眼だけ電車に乗っている人たちをきょろきょろと見回している。

盲導犬というのは、ハーネス(犬と人をつなぐハンドルのようなもの)をつけている間は「仕事中」であり、 勝手な振る舞いは許されないのである。

昔、出会ったほうの「シルビア」はよしよしと撫でていたら、尻尾を振りながらも大変困った顔をしていたのが印象深い。 初対面だからだろうと思ってしばらく可愛がっていたら、ご主人である女性に申し訳なさそうに「あんまり撫でないでくれますか?」 とやんわりと叱られてしまった。そこで、シルビアが「仕事中」であることを告げられ、 自由に振舞いたいのを我慢して葛藤中なのであるということを教えてもらった。

あぁ、プロなのね。知らなくてごめんなさい。

今回、出会ったシルビアも「仕事中」であるので、おもむろに寝転がることもできないし、 隣で寝ているお姉さんに甘えることもできないし、向かいに座ってジーっと見ている怪しいおじさんに吠えることもできない。

その証拠にその女性が携帯電話を取り出そうとした瞬間に、パッと顔を横に向け女性の方に耳をそばだてた。 女性の何気ない一挙手一投足を見逃さぬようにつねにスタンバイ状態でいるのである。

前足にあごを乗っけて、ため息をついていたとしても気はびんびんに張っているのである。

しばらく見ていると、「まもなく鴻巣(こうのす)〜。」というアナウンスがあるや否やシルビアがガバッと立ち上がって、 降りるべき扉の前でスタンバイした。

その反射神経たるや並大抵のものではない。「まもなく」の「ま」が聞こえた瞬間に立ち上がった。

おそらく幾度となく通ったであろうこの道で、自分がいつ何をするべきか完全に把握しているのであろう。

すると扉は出口の階段の眼の前で開き、その階段をシルビアがリードする形で二人で登ってゆく。踊り場にさしかかると、 シルビアは一瞬止まってちらっと後ろを振り返り、またそのまま登って消えていった。

なんという細やかな気遣いであろうか。

私など足元にも及ばないくらいの気働きである。

「お犬様、師匠と呼ばせてください。」

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2005年10月03日

わんぱくでもいい。たくましく育ってくれ。

明日は群馬の「自然育児友の会」のママさんたちに講座を一席ぶつ日であるので、またまたレジュメをパシパシと作る。

会場となる群馬までは電車で2時間、往復4時間の小旅行である。

「これだけ時間があると本をいっぱい読めて嬉しいな」というふうに前向きに考えてみると、 なんだか移動の時間がちょっぴり愉しみになってワクワクしてくる自分がいて、我ながら単純な男である、ということを再確認する。

心地よいリズミカルな電車の揺れに眠気を誘われ、爆睡してしまうという可能性もないとは言えないが、それはそれで、 いい眠りの時間を過ごせたということで大変結構なことである。

つまりどう転がろうと、「私は快適な時間を過ごす」ということはもはや決定事項なのである。

純粋に読むオモシロ本と、寝たいときに読むムズカシ本の2冊用意することにしよう。

体制は万全である。


この前このブログに「根拠なき自信」 ということを書いた。

それに関連してくることなのだが、子どもについて語るとき、どうしても避けられない葛藤というものがあって、 それゆえに私は語ることを躊躇してしまうところがある。

それは、子どもの教育環境についてその重要性を語れば語るほど、子どもの自発的な力を軽んじてしまうことになってしまう、 ということである。

子どもを取り巻く環境が、子どもが成長する上で非常に重要な影響を及ぼすファクターであることは確かである。

だが「環境が子どもの成長に及ぼす影響の大きさ」を大きく評価することは「環境に関わらず成長していく子どもの力強さ」 を過小評価することにつながる。

「劣悪な教育環境の及ぼす悪影響の強大さ」を語るためには子どもはその強大さの前に無力であってくれなくては困るのである。

あたりを見回したときに、そこにいるのが「劣悪な環境をものともせずに健全に成長している元気な子どもたち」ばかりでは説得力がない。

人間という生き物は自分の理論を補完してくれるような事例ばかりを選択的に見る。

それは「いい」とか「悪い」とかいうことではなく、そういうものである。

つまりこの場合は「劣悪な環境の前に身も心もボロボロになっていく無力な子どもたち」ばかりに眼がいくようになり、「ああ、やっぱり」とつぶやくことになる。

そしていつしか世界がそのようにしか見えなくなって、すべての「子どもたち」をそういう「物語」で説明するようになる。

そうして無意識のうちに「子どもはたいへん無力な存在である」ということを確固たる思いとして築きあげてしまうのである。

それはたとえどんなに注意深くあったとしても誰もが陥りかねない落とし穴である。

「子どもが無力である」ということが自分の理論の正しさをより強化してくれるのだから。

自分の行動を支配する自分の「欲望」に気づくことはとてもむずかしい。


「子どもは無力な存在である」ということをどこかで無意識に思っている人間と、

「子どもはたくましく成長する存在である」と無意識に思っている人間では、

子どもの成長に及ぼす影響ははっきりと違ってくるだろう。

ヘンな矛盾だが「どんな環境でも子どもはたくましく育つ」とまわりの大人たちが思っていることが一番、「子どもにとっていい環境」 なのではないかとそう思うのである。

だから私は子どもを取り巻く環境が及ぼす影響を、声を大にして語ることはためらってしまうのである。


そしてそれは何も子どもの教育の話に限ったことではない。

人体に影響を及ぼす外的な要因が次から次へと発見されるたびに、人間自身の能力の無力さを強調し、 とても信頼できないものへと失墜させることを助長することになってやしないだろうか、と私は思うのである。

そんなつもりはもちろんないだろうが、そういう結果になってしまうのだ。

だれだって自分の発見に偉大さを見て欲しい。

だから「新発見の事実」は必ず「その新発見の事実がまわりの環境にいかに多大な影響を及ぼしているか」という「物語」 とセットで語られる。

そうしてそのような語り口で次々と「新発見の事実」を語られるたびに、その強大な影響力の前に人間は無力になっていくのである。

人間がますます元気に溌剌と生きていけるようなそんな語り口で物事を語ることはできないのだろうか。

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2005年10月01日

彼岸花に想う

街のあちこちで彼岸花を見る季節になった。

ぴょろっと伸びて赤くぽしゃぽしゃした彼岸花を見ていると、なぜか風に回る風車(かざぐるま)を連想してしまう。そして、 その彼岸花という名前からか、遠い夏の想い出からか、死んだ高校時代の友人のこともまた同時に想い出す。

彼岸花と風車と死んだ友人。

彼岸花から風車を連想してしまうのは、お祭りの屋台でたくさんの風車を見たのかもしれない。 はたまたどこかでそんな映像を観たからかもしれないし、小説の一説にそんな場面があったのかもしれない。

そのつながりはもうおぼろげすぎて想い出せない。

ただ彼岸花を見ると、それらがひと連なりにつながって、ぽかんぽかんと私の脳裏に浮かんでくるのである。

最近はどうか知らないが、ちょっと前はこの時期、青梅線に乗ると線路脇は彼岸花が咲き乱れていて、まるでうめつくされていた。

見ているとまるで、自分がどこか遠くへと連れて行かれるようで、不思議な車窓の風景だった。


高校時代の友人はバイク事故で亡くなった。

突然だった。

当時、ともにワンゲル部に所属していた私たちはその直前に北アルプスの穂高連峰に登ってきたばかりだった。日本第二の高さを誇る名峰、 奥穂高岳の頂で笑顔でピースをしている彼の姿が今でもはっきりと目に浮かぶ。

私たちが穂高岳に登るためにベースキャンプを張った涸沢(からさわ)は、すぐそこまで大きな雪渓が来ていて、 ときどき登山者が落とした岩が上からごろごろと転げ落ちてくる恐ろしい場所にあった。

涸沢は穂高の高い峰に三方を囲まれているので見上げると空が丸く見える。

夏だというのに鼻水が出るほど寒い夜、吸い込まれそうなくらいの満天の星空を見ながら、 流れ星やゆっくりと動いていく人工衛星を見つけて一緒にワイワイと騒ぎ、 テントの中では自分のことや将来のことなどポツリポツリと語り合った。

その合宿の後、彼はほとんど休むまもなくすぐさまバイクでツーリングに旅立ち、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。

今はただ彼の冥福を祈るばかりである。


と、山のことを書いていたらある漫画のことを想い出した。

』(石塚真一、ビッグコミックス、2005)という今も連載中の最近の漫画で、 山に登る人々と山岳救助の人たちの人間ドラマを描いた傑作である。

作者の山を愛する気持ちが全篇にわたってにじみ出ていて、山好きの私としてはもうその匂いを感じるだけで、 鼻の穴がぷくっと広がり鼻息も荒くなる。

そういえば私も後輩がバテてしまったときに、ダブルザックとか言ってザック2人分担いで歩いたりしていた。 こういう時って不思議なもので自分の分だけ担いでいるより、他の人の分も担いでいた方が足取りは力強くなるのである。

人は背負うものが大きいほど強くなる、ということをからだで実感した。

山に入るといろんなことが起きる。小細工なしの自分の生きる力が問われるようである。

五感が研ぎ澄まされ、自分が生物であるということを実感させられる。

あぁ、そんなこと書いてたらなんだか山に登りたくなってきた。

うーん、やっぱり都会の森だけでは満足できないか…。

posted by RYO at 23:53| Comment(5) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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