2005年09月29日

自分の勘を褒めちぎる

午前中、代々木公園の前に原付を止めて森の中を散歩する。

そろそろ戻ろうかなとふと思い、原付の停めてあるところまでテクテクと歩いていくと、なにやら水色の制服を着た人たちが3人ばかり、 黄色いものを手に、停めてあるバイクを見て回っている。

「まずい!マッ○だ(自主規制)!」

小走りですばやく近づいてみると、まわりのバイクはことごとく駐車違反の黄色い輪っかを付けられているにもかかわらず、 私の置いておいた原付はまだ手付かずである。

「なぜ?」なんて思う間もなく、

「すいませーん。」

と明るく声をかけ、私の全身全霊を込めた「ここぞ」というニコヤカな笑顔を繰り出しつつ、すみやかに原付を移動しようと試みる。

「あ、ここにバイク停めた方ですか?」

う…、呼び止められてしまった(当たり前か)。

「あ、はい、そうです。」

と言いつつ、手はすみやかにヘルメットを出してかぶる。

「どちらへ行かれていたんですか?」
「あ、そこの代々木公園です。」

スタンドを上げて、車道へと向きを変える。

「ここは路上ですので駐車禁止ですからね。バイクでも車と一緒ですよ。」
「あ、はい、すいません。」

ペコペコしながら原付を車道へ引いていく。

「ここには停めないでくださいね。キップ切りますからね。」
「はい、すいません。」

すみやかにウィンカーを出して、颯爽と走り去る。

ふう、びっくりした。間一髪である。

冗談抜きで、あと一分遅れていたら確実にキップを切られていた。

どうやら風邪も完全に抜けて、私の「勘」もより磨きをかけて戻ってきたようである。

よしよし。こういうときは褒めてやらねばならない。

「えらい! 素晴らしいぞ、私! するどい! さすが! パチパチパチ(拍手)」

これくらい褒めておけば、浮かれて無意識のうちに、より磨きをかけてしまうことだろう。

けれども欲を言えば、もう少し早く気づいてくれていたら、こんなに冷や汗をかくような羽目にはならなかったんだけどな…。

いや、欲を言えば、だからね。

気づいてくれて助かったんだよ、ホントに。ありがとうね。


ブツブツと自分のからだと対話する怪しい男を、爽やかな秋の風と小春日和の柔らかな日差しが包む、平凡な秋の昼間の出来事であった。

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2005年09月28日

根拠なき自信

今日は子育て真っ最中のママさんたちに講座を一席ぶつ日である。

「どんなふうに進めようかなぁ」と考えているうちに、足は無意識のうちに新宿御苑へと向かう。

そこで大きなイチョウの樹の下の椅子に腰掛け、「なんかくれ」と群がってくるハトをぼけーっと見ているうちに、 手は無意識のうちにザックの中から『徒然草』(角川書店編、角川ソフィア文庫、2002)を取り出している。

「ホゥ、なるほど」と感心したり、ゲラゲラ笑ったりしていたら、あっという間に一冊読み終えてしまったので、 懲りもせずに群がってくるハトを再びぼけーっと見る。

しかし『徒然草』はじつに700年近くも前の随筆であるにもかかわらず、今の雑誌に連載されていたとしても、 まったく違和感ないくらいの稀代の名エッセイである。

700年経ってもまったく色あせないという吉田兼好のその洞察眼と文章力には、ただただ敬服するばかりである。

講座の話とはなんの関係もないが、そのうちの一説をちょっとこの場で紹介させていただきたい。

「春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通い、秋はすなはち寒くなり、 十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるのも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず、下より兆しつはるに堪えずして、 落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ち取るついで甚だ速し。」
(『徒然草』第百五十五段より抜粋)

「声に出して読みたくなる」名文であるが、これを文庫の解説を参考にしつつ、私なりに解釈させていただくならば、

「春が終わって夏になり、夏が終わって秋になるのではない。春の中に夏の気配は兆しており、夏の中に秋はすでに入り込んでおり、 秋はそのまま冬の寒さを迎え、十月の小春日和に誘われて、草は青くなったり梅はつぼみをつけてしまうのである。 木の葉が落ちるのも葉が落ちてから、その後で芽生えるのではない。内側から芽生えて生長する力に耐えられず、古い葉が落ちるのだ。 外の変化を迎える準備をすでに内側でしているから、自然はその変化というのが非常に早いのである。」

という感じだろうか。

うーむ。深い。

とまあ、そんな感じで徒然なる世界へと誘(いざな)われてしまったのであるが、ぼけーっとしているうちに、 そろそろ講座に向かわなければならない時間となる。

徒然なるままにインスピレーションをいただき、徒然なるままに講座へと向かう。


今日の講座は「感覚を育てる」ということをお話しする。

子どもの頃に感覚や器官をきちんと育てられるかどうかということが、大人になってからのさまざまな能力に影響を及ぼすのではないか、 と私は思っている。

五感のうち、そのもっとも根本にあるプリミティブな感覚は「触覚」である。

「触覚」、つまり皮膚(肌)とは「私」と「世界」を隔てる境界線である。

「触覚」を刺激してその輪郭を意識させることで、「私」という自我が育ってくるという面がある。

そしてまた、「肌」は人との適切な「間合い」というものを感じ取る器官でもある。

人に対してどれくらいの「間合い」で接すればいいのか、人はつねに肌で感じ取りながら、その「間合い」を微妙に調節している。

「触覚」がきちんと育っていないと、人とどれくらいの「間合い」で接すればいいのかがよく分からないのである。

私は新聞やニュースなどを見ながら、これはかなり「時代の病い」であるなぁ、とつねづね思う。

「人との適切な間合いが取れない」という人がとても増えているような気がする。

やたらに近づきすぎて傷つく(傷つける)か、遠ざけすぎて孤独になるのである。

そのことの根本に、子どもの頃に適切なかたちで触ってもらうという経験が非常に少なかったということがあるのではないか、 と私は思っている。

もちろんそれだけが理由ではないにしても。

そのことについては、ここではこれ以上深くは触れないが、『愛撫・ 人の心に触れる力』(山口創、NHKブックス、2003)や、『子供の 「脳」は肌にある』(山口創、光文社新書、2004)などの本をぜひ参考にしていただくと、「触れる」 ということについてより詳しく書かれている。


「触覚」と「間合い」について詳しく触れるのはまた次の機会にまわすとして、次は「嗅覚」、「味覚」についてである。

(「またいつか」ってそんなのばっかりだなしかし。…ホントに触れるんだろうか私は。)

「嗅覚」と「味覚」を育てるのに一番大切なのは、言うまでもないが食事である。

「嗅覚」、つまり鼻は、自分にとって「それ」が「好ましいか」「好ましくないか」ということを判断する器官である。

うさん臭い奴には私たちは自然と近寄らないようにする。

鼻の利かない人間はヘンな奴にホイホイついて行ったりして、痛い目を見る。

「発酵」と「腐敗」も定義上その違いは、それが人間にとって好ましいかどうかというだけである。

食えるかどうかはだいたい嗅げば分かる。どんなにクサイ食べ物であってもそれが食える限り、そのクサさのどこかに「食える」 という情報を感じ取ることができるはずである。

だがまだ確認はしていない。私は忙しいので、だれか追加試験を求む。

「味覚」、舌はそのまま文字通り「それを味わう」という器官である。

私たちは恋人と甘いひとときを味わったり、辛口の意見をいただいたりする。

なにかを私たちのからだに深く吸収し、それを血肉化しようというとき、私たちはそれを「味わう」のである。

そして「聴覚」。

これは「嗅覚」とあわせて人間の生存にとってかなり重要な要素である「勘」というものに深く関わりがある。

「聴覚」で私たちはまわりの「気配」を感じ取り、「嗅覚」でそれが自分にとって好ましいものであるかどうか判断する。

子どもがウォークマンなど聴いて、まわりの「気配」と断絶した世界に閉じこもっていたりするのを見ると、 なんだか将来とんでもないことになってしまわないか、私は不安になってしまって仕方がない。

「視覚」、つまり眼は、感覚の中でもかなり後のほうになって完成する器官であるが、それは「客観視する」ということにつながる。

「視覚」が他の感覚と何より違うところは、それがある程度の距離を必要とすることである。

眼の前にあるものを私たちは見ることができない。

ある程度の距離を持って、自分と離れたところにあるものを知覚するのである。

一体感よりは分析、認識といったものを志向しており、感覚の中でもかなり「アタマ」的な働きを担う。

(もちろん「聴覚」も言語という「アタマ」的なものを知覚するが、シュタイナー先生の言葉を借りると、言葉の認識というのはまた、 「言語感覚」という五感とは別の感覚の働きになる。)


というようなことを思いつくままに、ママさんたち相手にお話しさせていただく。

ときどき子どもが、私が一生懸命に作ったレジュメをクシャクシャにして私に渡すので、「ありがとう〜」 とヘラヘラ笑ったりしながらのお話しであったが。

いちおう「触覚」「嗅覚」「味覚」「聴覚」「視覚」の五感覚とそれらの持つ働きのようなものについて述べさせていただいたが、 これらはすべて、私が勝手に思いつくままに言っていることであるので、あんまり本気にして一生懸命になってしまっても、 私はちょっと困ってしまう。

「ふーん、そんなもんかしらね。」とテキトーに聞き流す程度にしておいていただきたい。


そして講座の最後に「親バカ力」と称し「親バカであることが一番大事である」と極めつけの暴論をぶちまける。

今日の講座でも私がいろいろ子どもに悪影響を及ぼすものについてしゃべったし、世間でもいろいろ「ああだ、こうだ」 と子どもの環境についていろいろ言われているが、それらすべてをひっくるめて、「別にウチの子は大丈夫。」という、なんの根拠もない、 「根拠なき自信」というものが子どもの生きる力を呼び起こす一番大切なものなのだ、と力説する。

「根拠のある自信」は弱い。

「根拠のある自信」は、その根拠となる理論に拠っているので、理論が崩れたときに一緒に崩れてしまう。

「根拠なき自信」というのはスタンドアローンであるので、何があっても自立していて揺るがない。

何ものにも拠らない自信、それがつまりは「根拠なき自信」である。

根拠なんてない。理由なんてない。

「オレがお前を好きでいることに、なにか理由が要るのか?」なんて名ゼリフ、…無かったっけ?

とにかく、そういった「想い」こそが子どもたちにとって、まわりの大人たちからの生涯にわたる一番大切な贈り物なのである。

理由とか根拠とかそういう理論的なものも、もちろん大切なことではあるが、それより大切なことはそれに縛られないでいることである。

知識を身につけたらそれを、そこから世界が広がるような形で解釈して活用すること。

「知識はオープンエンドに、末広がりで身につけることが大事ですよ。」

…というところで時間も過ぎたことなので、この講座も「お開き」とさせていただきます。

おあとがよろしいようで。


以上、今まで述べたすべての話にはなんの「根拠」もありませんので、ご了承願います。

posted by RYO at 22:19| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月26日

今、ここで、君と。

今日は今度の水曜日にやる育児講座のレジュメをパシパシと作る。

なんの因果か「自然育児友の会」の方に、「育児についての講座やってちょうだい」と頼まれてしまったのである。

しかし、子育てをしたことのない人間が、今まさに子育て真っ最中という実践者を相手に講座を一席ぶつというのは、 なんともおこがましい気がしてしかたがない。

なので、

「あのー、ボク子どももいないし、子育ての経験もないんですけど…」

と、恐る恐る尋ねてみると、

「あら、いいのよ、そんなことは別に。ねぇ」
「そうそう」

と、お二人の元気ママさんから温かい励ましの言葉。

「そ、そうですか?それでは僭越ながら…。」

と、実は大して重くもない腰を上げて、講座を引き受けることになったのである。

でも、考えてみれば宗教者が「人は死んだらどうなるのか」という説教をするときに、必ずしも死んだことがある必要はないわけで、 それを考えれば別にいいのかもしれない。

だいたい「経験のない人間は語るな」という論理を認めてしまうと、「戦争を経験したことのない者が戦争を語るな」とか、 「貧困にあえいでいない者が貧困を語るな」とか、「ムスリムでない者がイスラムを語るな」とか、 なんだかとんでもなく乱暴な方向へと向かっていってしまいかねない。

私はそんな論理には断じて賛成できない。

というわけでやっぱり私が育児講座をやることは「良し」なのである。

ちなみにこれまたなんの因果か、この件とはまったく別口でやはり「自然育児友の会」の人から「講座をやって」と頼まれている。

こういうことって不思議に重なるもんである。


とはいえ、実際のところ何をしようか。

とりあえずこういう時は先達の知恵をお借りして、なんとかまとめるしかない。

というわけで人間探求の大先達である野口先生と、シュタイナー先生に知恵をお借りすることにする。

野口先生の著書は私の部屋にそろっているのだが、シュタイナー先生の著書はほとんど実家の私の部屋にある。なので、電車を乗り継いで 立川の実家へと向かう。

完全に家族の物置と化している私の部屋の本棚をごそごそとあさると、ちょっと見ない間にホコリだらけになっている。

うわ、ひどいな、こりゃ。なんかシミもできてるし。

なので、まずは先生のご助力を仰ぐ前に、先生のご著書を一冊一冊、清めることにする。

パラパラとめくって新しい空気に触れさせつつ、ホコリを払いながら文章をちらっと読んだりするとたちまち引き込まれてしまって、 一向に清めの儀式がはかどらない。

ほうほう、なるほど。ふむふむ。

うーむ、さすがシュタイナー先生。奥が深い。

はじめて読んだときにはそのあまりの難解さに、3ページ読む間に夢の世界へと旅立ってしまったものだが、 今では私もいろいろな経験を重ね理解力が飛躍的に向上したようで、シュタイナー先生の言っていることがすんなり身に入ってくる。

こういう時に日ごろは気づかない「自分の成長」というものに気づく。

だけどホントにおもしろい。

もういっぺん読み直す必要があるかもしれないなぁ。

けれども、私の部屋には私に読まれるのを今か今かとやきもきして待っている本たちが、もうすでに100冊以上たまっている。 このうえシュタイナー先生の本を読み直すなんていったら、読まなきゃいけない本が軽く200冊は超えてしまう。

200冊か…。一冊二日のペースで読んだとしても1年以上。

うかつな決心はできない。

しかし、パラパラと読んでは清める、ということを繰り返していたので、清めの儀式だけでずいぶん時間がかかってしまった。

いかんいかん。

とりあえず今回の講座に使えそうな本を2、3冊選んでバーッと通し読みしながら、 レジュメにパシパシと思いついたことを打ち込んでいく。


私がレジュメを作るのは講座をその通りに進めるためではない。

終わった後に、講座がよかったかどうかの目安にするためである。

もし仮に講座がレジュメどおりにきちんと終わったのであれば、その講座は「悪(あ)し」である。

このブログでも何度も触れてきたことだが、その時、その場、その人との関係性において生まれ出(いずる)モノ、 というのを私は何よりも大切にしている。

違う時、違う場所、私ひとり、で考えた講座のプランどおりに講座が進んだということは、その講座にはなんの、私の言うところの、 「祝祭性」もない。

そんな講座は一人で壁に向かってだってできる。

講座という「場」は参加者全員で協働して立ち上げる祝祭的な「場」であると私は考えている。

「今」「ここで」「あなたたちと」のうちの少なくとも一つでも、講座の内容に対して刻印を刻んだ形で進めていきたいのである。

であるので、私はレジュメを一生懸命作りつつ「どうかこの通りに進みませんように」と祈る、 という複雑に矛盾した芸当をやっていることになる。

大変メンドくさい男であるなぁ、と我ながら思う。

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2005年09月25日

不思議の国でありんす

代々木公園には20メートルはあろうかというプラタナスの大木が群生しているところがある。

プラタナスという木は私の好きな木でもあるので、その中を歩くのは気分がいい。

今日そのプラタナスの森の中をてくてくと歩いていたら、目の前を小さなグレーの生き物が通り過ぎていった。

ん?なんだろう?と思ってよく見てみたらウサギである。


(注:写真は2006年11月撮影のもの。2006/11/19アップ)


「ええぇ〜〜〜〜〜〜?!」

何でこんなところにウサギが?原宿のど真ん中だよ?

気分はもう不思議の国のアリスである。

首輪は……、していない。

まわりに「連れ」らしき人間は……、いない。

森の中に わたし と うさぎ。

ふたりぼっち。

「キ、キミひとり?(一匹か)」
「ど、どこから来たの?お茶会に呼ばれたの?」

彼(彼女)がお茶会に呼ばれたのかどうかは分からなかったが、私のことが気になるらしく、 遠巻きに私のまわりをぴょんぴょん跳んでは止まってこちらを見てる。

今までも森の中では、目の前に大きな枝が落ちてきたり、口の中にヘンな虫が飛び込んできたり、カラスが私の頭を蹴飛ばしていったり、 いろんなサプライズがあったが今回が一番びっくりした。

見てるとおもむろに下の草をハムハムしだしたりする。

カ、カワイイ。

そんなしぐさに、もう私はすっかり不思議の国へ連れていかれてしまう。

いやぁ、やっぱり森はオモシロイなぁ。

どんなモノに出会うか予想もつかない。


休日の代々木公園はいろんな人たちがいっぱいいる。

特に何かのタマゴらしき人たちがあちこちで稽古のようなものをしていたりする。

役者のタマゴだったり、ミュージシャンのタマゴだったり、お笑い芸人のタマゴだったり、大道芸人のタマゴだったり、 グラビアモデルのタマゴだったり、カメラマンのタマゴだったり、スポーツ選手のタマゴだったり……。

もうそこらじゅう、タマゴだらけである。

ここは東京のあらゆるヒトの孵卵場か!と言いたくなるくらいいっぱいいる。

そのすべてのタマゴがいつか孵る日を夢見て、一生懸命に稽古に励んでいるのである。

そしてそれらのタマゴすべてを森がやさしく包んでいる。

おぉ、なんと美しい光景なのであろう。

私はそのように感動したとき、しばしば起こることなのだが、一瞬意識がギューンと空高く舞い上がり、 高い空からまわりの景色全体を鳥瞰的に眺めているイメージが浮かぶ。

今回の場合でいえば、東京の大都市をはるか上空から見下ろし、灰色のビルのあいまのこんもりとした緑色の森の中で、 いろんな人たちが一生懸命になっているイメージが脳裏に浮かび上がった。

そしてそんなイメージにじわーんと浸っていると、なんだかやたらジャンボリーな気持ちになってきて「おぉ、 当たり前のことが当たり前に起こっておるわい。」とつぶやいてしまうのである。

そして最後は必ず「オマエもしっかり当たり前にせぇ。」という自分へのメッセージでしめくくられることになる。

「は、精進いたします。」

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2005年09月24日

そしてバカは加速してゆく

「悪い言葉を
一切口にしてはなりません。
ただ、聞く人に恵みが与えられるように、
その人を造り上げるのに役立つ言葉を、
必要に応じて語りなさい。」
エフェソの信徒への手紙 4:29

上の言葉は昔、私がある本屋さんで文庫本を買ったときに、レジの横に置いてあったしおりに書かれていた聖書の言葉である。

もう9年くらい前のことだが、今でもそのしおりはずっと使っている。

私は別にクリスチャンでもないけれど、上の言葉に惹かれるものがあってなんとなく使い続けている。

裏には白洲次郎と白洲正子の旧宅に行ったときに押した「武相荘」という文字がある。

ぼろぼろだがお気に入りのしおりである。

上の言葉の中で一番、私の心に響いているのは

「必要に応じて語りなさい。」

という箇所だ。

「必要に応じて」

それはつまり必要でないときは口をつぐみなさい、ということである。

私が上の言葉から受け取ったメタメッセージは

「気の利いたことを言え」

ということではない。

「黙れ」

ということだ。

「黙るべき時を知っている者は、しゃべるべき言葉も知っている。」

前にテレビを見ていたときにある作家の人が言っていた言葉である。

人の話を聴いている時などに、つい口を挟みたくなってしまう時というのがある。そういう時に「黙る」ということは、相手の次の一歩を 「待つ」ということである。

「よくある話」でまとめてしまったり、まったく見当違いのことをアドバイスしたり、「私もさー」とか言って自分の話をしはじめたり、 私たちはそんなことをついついやってしまいがちであるが、「黙る」そして「聴く」ということは、 相手の中から言葉の生まれ出(いずる)のをじっと見守るということである。


「語り」の場を支える「聴く人」の存在というのは、とても大事なものである。

「聴く人」のまなざしが「語る人」の「語り」に影響を及ぼす。

人はみんな自分を説明してくれる「物語」を欲している。

しかしその語り手は自分のことを誰よりも知っている(と思っている)自分である場合が多い。

「物語」そのものはさまざまなところから寄せ集めた引用だらけのものであったとしても。

けれども自分で語る自分の「物語」は当事者であるがゆえに心地よくまとめてしまいがちだ。

一見壮絶な過去を語っているようでも、それは今の自分を正当化するためのバイアスがかかっていて、 どこかで心地よさを感じられる脚色された「物語」であったりする。

「聴く人」という他者のまなざしは、そんな自分の中でひとり優しく語り継いできた「物語」のほころびを浮かび上がらせる。

そういうほころびが浮かび上がってきたところで「語り」はつまづいたり、とまどったりする。

そうなった時に、その人の「物語」のほころびから新しい「物語」が生まれてくる。

新しい「物語」が「語る人」と「聴く人」の狭間で、立ち現れる。

とても祝祭的な光景だと私は思う。


「黙る」という態度をとることによる効果は、そのような「場」を支える、すばらしいものであるのだが、その効果はそれだけには収まらない。

相手のみならず自分に対しても、とても大きな効果を生むのである。

めったなことではしゃべらないという態度を実践することによって、自分の潜在意識にある暗示をかけることになる。

それは

「私はとても大切なことしかしゃべらない」

言い換えると

「私がしゃべる言葉はすべて、とても大切なことである」

ということである。

そうして実践を積み重ねることによって言葉は重みを増してゆく。

私はそういう言葉を「言霊が乗っている」と表現する。


会議の席などで議論のターニングポイントになるところは丁々発止な様子でしゃべられている言葉よりも、 会議中にずっと黙って聞いていた人間がおもむろに手を上げゆっくりと立ち上がり、 その重く閉じられていた口から発せられる一言だったりすることは、よくある。


私は「バカな奴ほどよくしゃべる」と思っているので、今まで、少しでも賢く見せようとなるべく口をつぐんで、人の話を聴いては「そうですね」 とか言ってニコニコしていたのであるが、このブログをはじめてから、でたらめなことばかり「これでもか」と言わんばかりに書いていて、 ほとんどバカ丸出しである。

なにしろ、テーマに一貫性がない。憶測だけでものを考えている。論理が飛躍する。結末を考えていない。 話が同じところばかり行き来する。しかも脱線する。言葉の意味をまちがって覚えている。日本語がヘン。無駄に長い。毎回載ってる絵の意味が分からない。 てゆうか絵が下手。あと……。ほかにも……。きわめつけは……。

…うぅ、自分で言ってて胸が苦しくなってきた。

そういえば風邪を引いて以来、痰のようなあおっぱながずっと出ているのだが、 これはもしかして私の脳みそがとろけ出しているのではあるまいか。

これ以上バカになったら、ますますしゃべりが止まらなくなっちゃうよ!

だれか止めて!

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2005年09月23日

ないモノ、通り抜けるモノ

「トラウマ」という言葉がある。

世間ではトラウマという言葉を、

「あたしさー、子どものとき、からだにイイからって毎日毎日もやしばっかり食わされてさー、それがトラウマになっちゃって、 今でももやし嫌いなんだよねー。」

なんて感じで使ったりしているが、ホントはそういうのをトラウマとは言わない。

言いだしっぺのフロイトも「オレ別にそんなこと言ってないし。」と言っている(と思う、多分)。

本人が言語化して把握できている時点で、その記憶はもう本人を縛り付けるような強制力は持っていない。

呪いはもう解かれている。

「でもホントに今でももやしが食べらんないもーん。」というのであれば、それは単なる習慣によるか、好みの問題である。

本来の意味でトラウマと呼べるモノは、本人がそのことに気づいておらず、その所在すらあやふやでとらえどころのない、 言語化されることを拒む「何か」のことである。

説明しようとすると、ある「過去」の方へ手が伸びるのだが、その肝心の「過去」が見えないために、近くにある別の適当な「過去」 を手にしてしまうような、そんなあり方をしている「見えない過去」のことである。

だから、すべてをある「過去」によって説明していたら、その過去はトラウマではない。

トラウマの周りに周到に配置されたフェイク(偽物)の「物語」である。

さらに言えばトラウマは「ある」というような言い方をするようなものでもなく、もっと空虚な「何かが無い」 というようなあり方をしているのである。

だから、掴んだつもりでも手ごたえがないから繰り返し掴む、という反復に陥る。

とにかくトラウマとは「言語化されることを拒むモノ」であり、私たちにできることはその周囲をうろうろと歩くことだけなのである。


「あるモノ」が私たちに及ぼす影響というのはたかが知れている。

「ないモノ」が私たちに及ぼす影響というものが、私たちにとって決定的な振る舞いをするのである。

それは整体の野口先生の言う「漠たる一点」というのに似ている。

9月10日のブログ「ザイガニックと脱糞」 (しかし我ながらなんというタイトルであろうか)で、「名前をつけずに漠然としたままで意味を捉える」ということを書いて、それが「奥義」 であると書いたが、なぜそれが「奥義」であるのかというと、ただそれが難しいからという、そんな理由からではない。

それが「そのモノの持つ本来の力を損なうことなく捉えることができ、その力を最大限に引き出すことのできる認識方法」 だからなのである。

ちょっと長ったらしい言い方になってしまったが、ある概念を言葉でもって認識するということは、 さまざまなノイズに近い微細な情報を削ぎ落として、持ち運びしやすい形に成形するということなのである。

ホントはその削ぎ落としたノイズに近い微細な部分にこそ、呪術的といってもいいくらいの秘めたる力が存在している。いや、 微細だからこそ、か。

「名前をつけずに漠然としたままで意味を捉える」ということは、それらの微細の部分もそっくり含めて残らず捉えるということである。

そして「ないモノ」というのは、私たちがそれを意図せず行なってしまい、潜在意識の中にするりと入り込んでしまって、 漠然としたままで居座るモノなのである(ないのに居座るという表現も変だな)。

だからその及ぼす影響力は大きい。

それは良いモノも悪いモノも同じことである。

それが私たちに良い影響を及ぼすモノであれば、別にかまわない。むしろ大歓迎である。

そのまま捕らえずに、放し飼いにして好き勝手させておけばよい。

しかし、私たちに悪影響を及ぼすモノに関しては、それに適切な名前を与えて本来の野性の力を削ぎ落とし、飼いならし、 自分が主人であることを示す必要がある。

ちなみに、そのときに名づける名前は「本当の名前」である必要はない(というよりそんなものはない)。ただ「適切」でさえあればいい。


野口裕之先生は「通り抜けるものを力と呼ぶ」ということを言っている。

私はその言葉をはじめて聴いたときに「ああ、そうだよな。やっぱり、そうなんだよ。」 となんだかよく分からないけど妙に腑に落ちて納得した覚えがある。

理解というのはいつも直感が先で、理論は後からついてくる。

ということで、私が後から思いついた理論によると、「通り抜けるもの」というのは言い方を変えると「やってきて去ってゆくモノ」 であり、それはつまり「さっきまであったが、今はもうない」というあり方をするモノなのである。

そういう「今はもうない」というあり方をするモノは、私たちに強力に働きかける「力」を持っている。

それに関してはまたしゃべりたいことが山ほどあるのだが、とりあえず今はトラウマについての話なので、 それはまた違う機会にもっと詳しく述べたい。


…しかしどうも私の話というのはどんどん脱線していくな。

口から勝手に言葉がどんどん出てきてしまうんだよなぁ、ってこの場合は手が勝手にと言うべきか。

でも、書いてる本人が「おぉ、なるほど。そういうことだったのか。」とワクワクしながら読んでしまっているのでしょうがない。

こんなでたらめ話を展開してしまって、いったいどうやって着地させるつもりなんだろう、私は。

…って自分でさらにプレッシャーかけてどうする。


えーっと、なんだっけ?

そうそう、「ないモノ」が大きな影響を及ぼすという話。

いや、違う。もともとはトラウマの話だった。

形を持たないモノ、名前を持たないモノ、さらに言うならば、経験したことのないモノ、存在したことのないモノ、 というようなモノたちが、私たちの普段の生活において決定的に大きな影響を及ぼすのである。

そして「トラウマ」とは「ないモノ」なのである。「あるけどない」「ないけどある」というそんな振る舞いを見せるものなのである。

よし、かなり強引だが、5行で戻したぞ。

なんだ、やればできるじゃないか。

そういえば昔から「やればできる子」だとよく言われていた。

ただ惜しむらくは、私がそう言われても「やらない子」であった、ということである。

「眠れる獅子、そのまま永眠」ということにだけはならないように心がけよう。

(あ、また脱線してる。)

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2005年09月22日

モノノケ大好き

となりのトトロ』をひさしぶりに観る。

猫バスの登場シーンは何度観ても「うわ、猫のバスだ!」と思わず興奮してしまう。

つくづく私の頭は幼稚園児レベルであるなぁと思わずにはいられない。

どうして何度観ても猫バスの登場にあんなにワクワク興奮してしまうのだろう。さつきちゃんが「お母さんが死んじゃったらどうしよう」 といって泣くシーンなんか、もう一緒に泣いちゃってたりするし。私は何か情緒不安定なところでもあるのだろうか。

普通に映画を観ていてもそんなに泣いたりしないんだけどな。宮崎マジック?

ほかの人たちはどうなんだろう?

なんか年を経るにつれ私の感受性はやたらにストライクゾーンを広げたらしく、下から上まで幅広く受け止めてしまうような、 そんな代物になってきてしまったようである。

しかし、考えてみたら『となりのトトロ』という映画はモノノケの映画である。

私はモノノケというものが大好きであるのだが、 それはモノノケというものが自然に対する敬意や畏怖の念から生まれてくるものだからである。

モノノケは自然に対して敬意も畏怖の念も持っていない人間の前には姿を現さない。

言いかたを変えれば自然に対して敬意や畏怖の念を抱く人々の前にモノノケたちは姿を現す。

歴史上、どんな民族や文化にもモノノケのような「モノ」たちは必ず存在した。

わずかこの数百年のあいだに近代科学の伝道師たちは、またたくまに世界中の闇を明るく照らし出し、 闇にひそむモノたちを光のもとに引きずり出しその正体を暴くことに専念してきた。

かつて西洋史上、「魔女狩り」という類を見ない大虐殺が行なわれたが、これは「モノノケ狩り」とでもいえばいいだろうか。

近代客観主義においてはモノノケというものは教義に反する存在してはならない異端のモノたちなのである。

そうか、だから好きなんだとも言えるな。

ようし、モノノケつながりで『もののけ姫』も続けて観てしまえ!

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2005年09月20日

おっぱいあげて賢くなろう!

なぜ女は出産すると賢くなるのか』(キャサリン・エリソン、ソフトバンクパブリッシング、2005)を読む。

このタイトルはなかなかインパクトがある。しかも「なぜ」という一語を頭につけることによって、「女は出産すると賢くなる」ということを前提として繰り込んでしまっている。

TVのCMなどでもよく使われる手であるが、この認知を世間に広げていこうという訳者の密やかだが強い意志を感じる。

(がんばれ…応援するぞ!)

この本は、いろんな科学的なデータを元に、生理学的、心理学的な見地から、子を育てる親(女、男ともに)は脳が活性化する、 ということを論じている本である。

読んでいて私が一番面白いと思ったのが144ページの箇所である。

『国は母乳育児を推奨することによって国民のオキシトシンレベルを上げ、それによって国民同士の信頼関係を強め、 生活水準を高めることができる。全般的に見て、国民同士の信頼性が高い国ほど株式市場での利潤が高く、平均収入も高いのだから。』

というようなことを、ザックという科学者が「神経経済学」と名づけて提唱しているそうなのである。

私は読んで思わずゲラゲラ笑ってしまった。

「ザックさん、おっぱいから一国の経済問題まで広げますか!」

私は基本的に、このような大風呂敷を広げたお話というのが大好きである。

そしてそれが明るい未来を志向している限り、どんな大風呂敷でも大賛成である。いや、大風呂敷であるほど大大大賛成である。

どんな夢でも強く願えば必ず叶う(@ピーターパン)。

ちなみにオキシトシンというのは出産時や授乳時に分泌されるホルモン物質であり、子宮を収縮して陣痛を早めたり、 母乳の分泌を促したり、神経を落ち着かせたりする作用がある。

一部の学者たちの説によれば社会的絆を深める作用もあり、別名「抱きしめホルモン」 とも呼ばれているらしい(たぶん一部だけだろうけど)。

また、岡山大学助教授、富澤一仁先生の研究によると、 オキシトシンを注射したマウスは記憶力が格段に優れているという結果が出ているそうである。

オキシトシンを注射したマウスと、二回以上の出産を経験したマウスの脳内では、 情報を処理するシナプスの能率が向上するらしい。

な、なんと!女性は出産、授乳することによって、どんどん頭がよくなってしまうというのである。

なんてこったー!

おいらが必死に本をガリガリ読んで頭の回転数を上げても、 女性は赤ちゃんにおっぱいあげてるだけで頭の回転数を上げてしまうと言うのか!

うぅ…、搭載されてる基本スペックが違う。

前に一生懸命ぬか漬け作ったときも、ある本に、

「女性の肌には、男性の数十倍の乳酸菌がいます。いくら男性ががんばっても、 女性がつくるぬか漬けのおいしさには足元にも及びませーん。ワハハ。」(多少誇張あり)

なんて書かれていたのを読んで「チクショー!」と思ったもんであるが、またかー、またなのかー!

うぅ、へこたれずに生きていくぞ…。

しかし、同書の209ページには「9割の男性に妊娠中の妻と同じ妊娠の兆候が出た」という、これまたびっくりの研究結果が出ている。

おぉ、そうであったか。まさに愛のなせる業。

すると妻の妊娠中に、夫の腹がみるみるうちに飛び出てくるというのは愛のなせる業であったのだな。

なるほど、なるほど。ためになるなぁ。

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2005年09月19日

さんまはシャーマン

風邪もずいぶん抜けて調子が戻ってきた。

自分の生活態度が招いたとはいえ、頭がガンガンするのは結構きつい。

整体では「風邪は自然の健康法」と捉えているので、風邪を引くとまわりの人から「よかったね」と言われることになるのだが、 例に漏れず私も知人から「よかったね」と言われる。

「あぁ、ありがとうございます。ハハハ…」

と力なく笑う。

けれども、病気は「病に負ける」というのが一番きつい、ということは経験的に分かっているので、 私は病気になっても基本的に元気である。

だから「風邪を引いて頭が痛い」とは認識しているが、「自分が病人である」という認識はまったくしていない。

私は、他人には風邪を引いたら「ああしたらいい、こうしたらいい」とかいろいろ言うが、自分自身はほとんど何もしない。

「ああ、頭が痛いってツライなぁ。なるほど、今度から頭痛の人には優しくしてあげよう。」

とか他人事のように思っているだけである。たまに足湯とか温湿布とかするが、基本的には普段の生活のまま過ごしている。

今回もビールを飲みつつ「さんまのスーパーからくりTV」の「みんなのかえうた」とか観て「サカイさんサイコー!」 とゲラゲラ笑っていた。

しかし、頭が痛いのにゲラゲラ笑うというのは、なかなかキツイもんがある。

だからTVを観てゲラゲラ笑っているうちに、からだはずるずると床に崩れ落ちていく。

今回、それが分かっただけでも収穫があった。

うん、やっぱりさっさと寝よう。


私は明石家さんまというタレントが好きである。

あの会話の「間」の取り方や話題の振り方など見ていて非常に勉強になる。

なによりあの自分をさらけ出した「ひらかれた構え」というものがすごい。

一時期その「ひらかれた構え」というものに凝っていたときがあり、そのときはさんまの番組を片っ端から見て、 そのスタイルを身につけようと徹底的に吸収した。

自分をバーッとさらけ出しながら、相手にも歯に衣着せぬ物言いをするそのスタイルは、 自分がものすごいハイテンションになってけっこう気持ちのいいものだったが、当然相手によって好みが別れ、 それほど評判もよくなかったので半年くらいでやめた。

やはり一朝一夕では真似できるのは上っ面だけである。

でもそのスタイルそのものは今でもけっこう好きだ。

この前その明石家さんまをテレビで見ていてふと思ったことがある。

明石家さんまは一言一言面白い。その動作ひとつひとつが笑いの神様でもついてるように客を笑わせる。 さすが好感度ナンバーワンの称号は伊達じゃない。たいしたものである。

でも私はそのときちょっと冷めて「そんなにすべてが面白いなんてありえるんだろうか?」と疑問に思ってしまったのである。

そう思って少し冷静に見てみると、たしかに笑いのセンスは卓越しているのだが、言ってることがそんなにいちいち面白いわけではない。 正直あんまり面白くないことも言っている。

でも私もタレントもみんな笑ってしまう。

そのときの自分の態度をちょっと冷静に見てみると、さんまの言ってることが面白いかどうかというより、「ここ、笑うところね」 というさんまの暗黙のメッセージに反応して、笑ってしまっているのである。

私はふと、さんま本人がある番組でゲストにむかって言っていた言葉を思い出した。それは

「これをすごいと思わせるようになったあなたがすごい。」

という言葉であった。

この言葉をさんま本人に向かってそのまま返すのであれば

「これが面白いんだと思わせるようになったあなたがすごい。」

という言葉になるだろうか。

さんまはその場の客との関係性の中で「笑い」というものを創造している。

客がその場の「笑い」の誕生に当事者として参加しており、その場にいる全員が「笑い」 というある種祝祭的な雰囲気を作り出すことに協働している。

だから、さんまは笑いの「シャーマン」なのだ(ってダジャレじゃないよ)。

相手を瞬時に「笑いの構造」に巻き込んでしまう「達人」であるのだ。

武術の達人が瞬時に相手を「必敗の構造」に巻き込んでしまうように。

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2005年09月17日

『右に定期券、左に生ゴミ』(@関白失脚)

朝、ぼけーっとしてたら「あ、今日ゴミの日だった。」と気がついた。

時計を見ると10時過ぎ。まずい!収集車はもう行ってしまったか。

外に出てゴミ捨て場を確認しに行ったらまだ回収していない。

よし!

急いで戻ってゴミをがたがたと運ぶ。しかし今日はゴミが多かったので一回では運べない。

もう一度運ぶためにゴミを取りに急いできびすを返す。

すると、ゴミを取りに行っている間に収集車が来てしまい、颯爽と去っていってしまった。

え………?

何でこんなに間が悪いの?

ゴミ袋を持ったまましばし呆然。

もし、気がつくのが1分早ければ…、ゴミ捨て場に確認に行くよりさっさとゴミを捨てに行っていれば…、 無理してでも一回で運んでいれば…、ゴミがもっと少なければ…、もし…。

そんなことは考えても仕方の無いことだが、やっぱり考えずにはいられない。

しかし結局のところは私の「間が悪い」ということである。

まだまだ修行不足だな…。

私は「間の悪さ」というのは偶然の出来事などとは思っていない。

とにかくいつも「間の悪い」人というのがいる。すること為すこと「間が悪い」のである。

その「間の悪さ」が、まわりの人間との相性によるのか、その人の気質によるのかは、よく分からない。 みんなが同じことをやっているのにただ一人見咎められる、というような人間は「間が悪い」のである。 そういう人はいろいろな場面において似たような境遇に陥る。

「間が悪い」というのは実際に人生を生きていく上では致命的な欠陥になりかねない。しかし、「間が悪い」ということによって、本人はなんらかの利得を得ているということも考えられる。

無意識にそれを望んでやっているという可能性はあるかもしれない。


「間の悪さ」というのは「勘の悪さ」でもある。

からだのことをやっている人間が、勘が鈍いなんて洒落にならない。

それは「味覚音痴の料理人」とか「人間不信のカウンセラー」とか「目立ちたがりの黒子」みたいなものである。

「勘の練り直し特訓じゃあぁぁ〜!」

と意気込んでいたら、鼻水がタラーッと垂れてきた。

おや…?そういえば昨日あたりから喉がイガイガするな。頭も痛いし…ハッ、ハックション!

うぅ…風邪だったのか…。

しかし、そんなことのせいにしていては自己の成長にはつながらない。

「どれもこれも自分の生活態度が招いたもんじゃー!他人のせいになぞするかー!」

ガンガンする頭でそんなことを考える。

うぅ…、けれども鼻水が止まらない。ハックション!

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2005年09月15日

合掌造りの美しさに合掌

「合掌民家の美しさと合理性の秘密」というシンポジウムに行ってきた。

今年は白川郷の合掌集落が世界遺産に登録されて10周年だそうである。

民族文化映像研究所(民映研)というさまざまな日本の民族文化を映像で残している団体が作った 『合掌造り民家はいかに生まれるか』と、その合掌造りの茅葺きで使われるカヤについて取材した『コガヤとともに』という二作品を観る。

合掌造りを建てていく職人たちの作業の美しさは見ていてホントに惚れ惚れしてしまうし、家の土台となる礎石である「石場」を、 唄い手が仕事唄のようなものを謡いながら、大勢の村人で次々に大地に打ち据えていくさまは、本当に祝祭的である。

昔、やはり民映研で作った『イヨマンテ 熊おくり』という、アイヌに古くから伝わる「熊の魂を神の国へ返す」 という儀式の記録映画を観たことがあるが、そのときもその精神性を受け継ごうとする人々の想いに胸を打たれたが、 今回もとにかく圧倒であった。

職人の手仕事がまたもうすばらしい。

礎石の上に柱を直接立てていくわけだが、石は丸みを帯びているのでそれに沿って柱の底面を削っていかなくてはならない。

それを大工の棟梁は手で石の表面を触りつつ、柱の底面を触りつつ、その微妙な凹凸の具合を掌で感じ取りながら、 ぴったり合うように槌と鑿で削ってゆくのである。

出来上がった柱は見事なまでにぴったりであった。

大黒柱と対を成す恵比寿柱という存在があることも今回初めて知ったが、合掌造りの部分に使う木を縛るのに、 山で切り出してきたマンサクの若木を叩いて柔らかくしたものを使うということも初めて知った。

ホントに昔ながらのやり方を今でも残している。

屋根のカヤを葺いていく仕事もまた鮮やかなこと。

茅葺きは農村に伝わる「結い」という共同作業によってかつては行われていた。

人手のいる作業はみんな「お互いさま」で協力し合って行なっていたのである。

今はボランティアなど県外からも人手が集まっているのだが、映像を見ると(それは比較的最近の映像であるが)、 茅葺きの屋根の上に50人くらい乗って作業している。もう圧倒的というか思わず笑ってしまいそうなくらいの絵である。

釘など一本も使わず木を組み合わせただけの家の茅葺きの屋根の上にあんなに人が乗っても全然ビクともしないのである。

イナバの物置なんて目じゃない。

こんな叡智の宝庫を失ってしまうことがあったら、それは人類全体の損失ではないだろうか。

技術をきちんと伝えていく人々もすばらしいし、それを映像に残していく人々の仕事もまたすばらしい。

せめてささやかな応援でもと、本とDVDを買わせていただいた。

もういっぺん観て、その祝祭性にまた酔いしれようっと。

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2005年09月14日

運命の本との出会い方

私は活字中毒である。つねに本を持ち歩いている。

なので私は「何は無くとも本屋さん」というくらいに本屋さんによく行くのだが、私なりの本屋さんでの本の探し方というのがある。

いや、探し方というより出会い方というほうが正しいかもしれない。

本屋さんに入ってどこか気の向く本棚の前に立ったら、目をしっかり見開いて、でもどこにも焦点を作らないようにして、 本棚全体をぼんやりと眺めながらゆっくりと歩いていくのである。

本棚全体をスキャニングするみたいなイメージである。

そうして歩いていると「ん?」と足が止まることがある。

何が「ん?」なのかはその時点では私にもよく分からない。とにかく私のからだが本棚にある何かに反応して足を止めるのである。

そこで「自分は何に反応したんだろう?」とそのあたりの本を改めてじっくりと見定めていくのである。

そうすると「ああ、これに反応したんだ」というそれらしき本が見つかる。

それは最近興味をもっているキーワードであったり、前にどこかで見たことのある著者の名前であったり、 ただ好きな本に色やデザインが似ているだけということもある。

そして、そうやって何気なく手にとって開いたみた本に、私が今一番興味をもっている事で知りたかったことがまさに書いてあった、 ということがたびたびあったりするのである。

これはアマゾンなどのWebの本屋さんでは絶対できないことである。

自分がどの本を探しているのか、はっきり決まっているときはWebの本屋さんは確かに非常に便利である。 名前を打ち込めば10秒もかからずに目当ての本にたどり着く。

ありがたい話である。

だが「自分が何の本を探しているのかよく分からない」という、私のような奇特な人間の場合は、街の本屋さんでなくては具合が悪い。

Webでは本棚を漠然と俯瞰するという芸当はできない。

そのようなノイズを画面に散らばせたら情報量が重くなりすぎて、一番のウリであるスピードを損ないかねない。

この点に関しては街の本屋さんに圧倒的に軍配が上がる。

そういう本との出会い方というのは、まさに出会うべくして出会ったというような運命性を感じさせる。

すると、その本を読んで触発されるインスピレーションはなおさら深みを増すのである。

だって運命の出会いを果たした本なんだから。読み込み方の熱意が違う。

「そこに何か私に対するメッセージがあるはずだ」と確信して読み込むのであるから、それはもう、 一行一行が叡智にあふれているに決まっている。

まるで「私のために書かれた本!」と恋する乙女のようになってしまうのである。

だから私は自分が読んだ本はみんな、まるで恋をしている。

私がいつも寝る場所の頭の横あたりには本棚が置いてあるのだが、 そこには自分が読み終えた本だけがぎっしり詰まっている(これから読む本はまた別の本棚に入っている)。

寝るときに横になってその本棚に並んでいる本の背表紙を眺めていると、なんだかホクホクと幸せになってきて、 さらに指先でスーッと撫でたりしてうっとりしたりしているのである。

我ながらかなりアブナイ。

精神科にいったら「読後背表紙嗜癖症」とか診断されそうだ。
(嗜癖ってパソコンで変換できないんだけど常用漢字じゃないのかな。辞書にも出てないし。ちなみに「しへき」って読む。)

私にとってはそれらの本の一冊一冊が、ともに愉しくおしゃべりの時間を過ごした友人たちのようなものなのである。

だから背表紙を見ていると「あ、これにはこんなことが書いてあったなぁ。」とか「これを読んで自分はこんなことを考えたっけ。」とか、 もういろんな思い出がいっぱいよみがえってきてしまうのである。

そんな本棚の本たちは、私にとってとても大事な親友のようなものであるので、語りだすと止まらない。

私の部屋にやってきた友人は、それを聞かされる羽目になることがたびたびあるのだが、聞いているほうは、 付き合い始めたばかりのバカップルのラブラブなのろけ話を聞かされているような気分かもしれない。

ごめんね。でも誰かに聞いてほしかったりする気持ちは分かるでしょ?


けれどもそんな私ではあるが、いずれはすべての本を処分して「本なんて人生のすばらしさに比べたら屁でもない!」 とのたまうのが将来の夢である。

その夢をより感慨深いものにするためにも、私はせっせと本を読むのである。

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2005年09月12日

秘技「まくら返し」!

精神病の人たちは夜眠れないという人が多い。

だから睡眠剤などを服用している人も多いのだが、そういう人たちと接する機会も多いので、やはりそういう相談をときどき受ける。

「先生、夜眠れないんですよぉ。」
「ああ、そうなんですかぁ。」
「薬も飲んでるんですけどぉ、やっぱり眠れないんですよぉ。何かいい方法ないですかぁ?」
「夜眠れないって、じゃあ遅くまで起きているんですかぁ?」
「はぁい。」
「そんなに夜遅くまで起きてるんじゃ、朝起きられなくて大変でしょう?」
「そうなんですよぉ。」
「目覚ましは?」
「かけてるんですけどぉ、起きれないんですよぉ。」
「そうなんですかぁ。よっぽど疲れて、眠り込んじゃってるんですねぇ。」
「もう大変ですよぉ。」

なんて感じで、私は「眠れない」という問題を「起きられない」という問題にすり替えつつ聴く。

名づけて、秘技「まくら返し」!

……嘘です、ごめんなさい。

「起きられない」ということは「ぐっすり眠ってしまっている」ということであるのだが、そんなことは指摘しない。

上の誘導で大事なのは「朝起きられなくて大変でしょう?」と訊いた時に、相手が「そうなんですよぉ。」と肯定したら、間髪入れずに 「目覚ましは?」と訊いてしまうことである。

「朝起きられない」ということを認めたのなら、もうそれ以上考えさせてはいけない。 考えさせてしまうと話のつじつまを合わせようとしはじめるので、相手が誘導に乗ってきたらそのままパッと違う話に振って、 違うことを考えさせる。

「眠れない」という問題を「起きられない」という問題にすり替えられたら、さらに、すぐさまそれを「前提」 として会話の土台部分に繰り込んでしまって、ささっと会話を先へ進めてしまうのである。

「よっぽど疲れて」など、相手が認めてほしいことを繰り込みつつ「眠っている」という事実をすべりこませると、相手は「そうなの、 そうなの」ともう大肯定である。

相手は「よっぽど疲れて」という部分に大肯定しているのかもしれないが、それを受け入れるともれなく「眠っている」 という事実もついてくるのである。

もちろんその後の会話は、目覚ましを変えたらどうか、とか「いかにして朝、目を覚ますか」という話題に終始する。

そして「ちょっと、横になってみてもらえますか?」と訊いて横になってもらう。

私はからだを触って人を眠らせてしまうことに関しては自信がある。私がからだを触っているとだいたい、 いつのまにか眠くなっていびきを立てていたりする。

そうしたら、しめたものである。

これみよがしに「終わりましたよ!起きてください!」と起こすのである。

するとウトウトしていた相手はびっくりして目を覚ます。

「今、寝てました?」

「気持ちよさそ〜うに、いびきかいて寝てましたよ。」

と、とどめを刺す。


すると次に会うときには

「先生、眠くて眠くて、朝起きれないんですよぉ。」
「あぁ、眠くてしょうがないときってありますよねぇ。えっ、じゃあお昼ころまで寝てたりするんですか?」
「そうなんですよぉ。」
「そんなに昼間、寝ちゃったら夜は目が覚めちゃって大変でしょう?」
「そうなんですよぉ。」

…ってまさかね。んなこたぁない(@タモリ)。それは冗談である。

いや、あるのかな?

うっ…どうだろう。

今度会ったときホントにそんな相談をされたらどうしよう。

ドキドキ。

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2005年09月11日

「漸近線の語法」と「地と図の反転」

「名前をつけずに漠然としたままで意味を捉える」ということを昨日書いたが、それについて続き。

よく「大切なことは言葉では表現できない」と言われる。

なるほど確かにそうだと私も思う。

百万の言葉を並べ立てたって言葉にした時点でなんだか違うし、嘘のような気がする。

私はあるとき、言葉で言い表すことができないのであれば、言葉で言い表さないということによって表現すればよいのだ、 ということに気がついた。

ルビンの壺」 という有名な絵がある。

見方によって壺に見えたり、向かい合う二人に見えたりする絵である。名前は知らなくても言われれば「ああ、見たことある」 と気づく方も多いと思う。

(ちなみに私は今日までずっと名前を「ルソンの壺」と勘違いして覚えていた。「ルソンの壺」 というのは信長や秀吉が愛した茶器の種類であり、それひとつで国が買えるとまで言われた名茶器だそうである。調べてよかった…。)

あの絵は、白と黒のどちらを背景(地)として捉えるかという「地と図の反転」によって、そこに浮かび上がる意味が異なるのである。

会話にさいして普通私たちは沈黙を「地」とし言葉を「図」とする。

静かな沈黙の上に言葉を乗せることによって、言葉が「図」として意味を持って浮かび上がってくるのである。 だから背景がごちゃごちゃとうるさいと、背景も言葉も「図」として見えてしまって分かりづらくなる。

言葉で言い表すことが難しいものはその「地」と「図」を反転させて、言葉を「地」とし沈黙を「図」 とすることによって言い表せばよいのである。

言葉で埋め尽くした「地」の上に言葉の空白という形で浮かび上がる「図」。

つまり「言いそびれる」「言い損ねる」という形でそこに「意味の空白」という「図」を浮かび上がらせるのである。

くりかえし言い損ねることによってそこに浮かび上がるぼんやりとした「何かの輪郭」。

言葉にできないものを相手に表象させるための一つの方法である。

だがそこで「言葉で意味が表せないんだったら、そんなに言葉をきちんと意識しなくてもいいってこと?」 などと誤解をしていただきたくない。

それは違う。正反対である。

よりはっきりとその「何かの輪郭」を浮かび上がらせるためにも、まわりの言葉を細心の注意を払って的確に並べる必要があるのである。

輪郭のエッジをより際立たせる、と言えばいいだろうか。

私はそのような語法を「漸近線の語法」と名づけている。

自分の伝えたいことを、漸近線のように言葉でくりかえしかすめて飛ぶことによって、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせる、 というそんな語り口のことである。

「あれ、昨日漠然としたままでいいって言ってなかったっけ?」

う…、ドキ。

そ、それはね、「漠然」というのと「ぼんやり」というのとはちょっと意味が違うんだよ。うん。

「ぼんやり」じゃなくってね「漠然」ならいいの。どう言えばいいのかな。

その違いはとっても大切なことだから、やっぱり言葉では言い表せないんだよぉ(笑)。

だから分かって。

お願い。

あ…、荘子について触れなかったな。じゃあやっぱりまたいつか。

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2005年09月10日

ザイガニックと脱糞

子どもは遊んでいるときによく「イイ事」を思いつく。

子どもと一緒に遊んでいると、おもむろに

「あ、ねぇ、イイ事思いついた!見てて!」

なんて言ってくる。

「へぇ、なになに?」

なんて言って興味を持って見ていると、ほとんど必ずといっていいほど、「えーっとね…」とその場で考えだす。

そんなとき私は「さっき思いついたんとちゃうんかい!」とツッコミたくなる衝動に駆られるが、そこは年長者のゆとり、 なにか思いつくまで暖かいまなざしでじっと見守る。

子どもが「イイ事思いついた!」と言ったとき、それは未来完了形でしゃべっているのである。

子どもの頭の中でははっきりと「イイ事を思いついた自分」がイメージされており、 そのイイ事を二人で愉しんでいる光景が思い描かれているのである。(その「シアワセの予感」こそがホントは、 子どもの思いついたイイ事なのである。)

そのとき子どもの意識は一瞬、未来へと飛んでいるので、つい「思いついた!」と過去形でしゃべってしまうが、正確に言えば、 「ボクこれからイイ事思いつくから、見ててね」である。


しかし、子どもとはなんと人生を愉しむ達人なのであろう。

「イイ事思いついた!」なんてとりあえず言っちゃうことは強烈な自己暗示である。そんなことをはっきりと口にしてしまった以上、 思いつくことがつまらないわけがない。

それを証明するように、子どもは「ほらね?」と目をキラキラさせてこちらに訊いてくる。

「そ、そうだね、オモシロイね。」

そんな人生を愉しく生きる秘訣を子どもだけのものにしておくのはもったいない。ぜひぜひみなさんも「あ、イイ事思いついた!」と、 とにかく口に出してみることをオススメする。

ホントにイイ事を思いついたかどうかなんて関係なく、とにかく言ってしまうのである。 そうすると後になってホントに思いついちゃったりする。

人間には中途半端で終わったものを完成させようとする習性があるのである。

たとえば「アレってなんだっけ?」と何かをド忘れしてしまったときに、あとになって「あー、今ごろ思い出した。」なんてことが、 みなさんにもよくあると思う。

それは意識が考えることを中断してしまった未解決の問題を、潜在意識が引き継いで代わりにずっと考えていたからなのである。

これを「ザイガニック効果」という。
【意識が思考を中断すると、潜在意識がそれを引き継ぐ】
【終了した課題に関する記憶は忘却が早い】
@『強いリーダーはチームの無意識を動かす』 (橋川硬児、石井裕之、VOICE、2004)

ちなみにこれを活用したのが「願望実現法」や「中断の技術」である。

それをより効果的に活用するためにはたとえば

「あ、今すごくイイ事思いついちゃった。それは…」
「人に言われたからやるんじゃなくって…」

みたいに「言いかけてそのまま途中で黙っちゃう」というようなやり方をするともっといい。 それは自分に対しても他人に対しても同じである。

その言葉を完成させるための最後の1ピースは潜在意識にまかせるのである。


それとよく似ているが、私は自分が何かを学ぶとき、あるいは人に何かを教えるときに、「宙ぶらりんにしておく」ということをよくする。

自分あるいは相手を「理解」という「安定状態」に持っていくと、「学習」という「運動状態」 が終了してしまうのですぐ忘れてしまったりするのである。

だから肝心なことには決してはっきりとした「名前」を与えずに、漠然としたまま、ぼんやりとしたままの状態で保たせるのである。

これは簡単なようでけっこうむずかしい。

それは、私が「脱力脱糞法」と名づけている「出ているウンコを途中で肛門をきゅっと締めて糞切りつけることなく、 最後まで脱力したまま一息で出し切る」という感覚に似ている。

…って分かりづらい上に下品だな。失礼。

(でもこの「脱力脱糞法」は女性の出産のときにも使える感覚ではないかなとひそかに思っている。 力まなければ力まないほどデカイモノが出るんですよ、これが。)

えーっと、何が言いたかったかというと、上のやり方を試してみられるとよく分かるのだが、 とにかくからだは糞切りをつけたがるのである。人間というのはとにかく物事をはっきりさせたがる生き物であり、 それは気がつくと無意識にやってしまうくらい本能的なものであるということである。

なにしろキリスト教では、人間が神様から初めてもらった仕事は「モノに名前をつける」ことだと言われているくらいである。

「名前をつけずに漠然としたままで意味を捉える」というのは習熟を必要とするひとつのワザであり、 奥義でもある(なにしろ神様に与えられた仕事を放棄するんだからね)。

荘子がこれについて述べているものがあってそれも紹介したいのだが、 これ以上持論を展開するともう収拾がつかなくなりそうなのでまたいつか。

…って糞切り悪いなぁ。

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2005年09月09日

たまり場で「川ガキ」を復活させるのだ

今日は電車の中で『ソリューション・ バンク』(長谷川啓三、金子書房、2005)を読む。

『ソリューション・バンク』と聞いて、「ソンシーイーオー」率いる某有名大企業のことを連想される方もいるかもしれないが、 そちらとは別に何の関係もない。

「ソリューション」とは「解決策」のことである。つまり『ソリューション・バンク』というのは解決策をいろいろ集めた「解決銀行」 という意味になる。

その中にこんな話が出ていた。

ある共働きの夫婦の話。共働きでふだん平日の昼間は家には不在がちなせいで、 家の駐車場が近所の子どもたちの格好の遊び場になっていた。 子どもたちはお菓子やおもちゃのゴミをそこらじゅうに撒き散らして片付けもせずに帰ってしまうので、 休日はいつもその掃除をしなければならなかった。

どうすればよいかと考えた結果、ある解決策を思いついた。駐車場を散らかしっぱなしのままにしてダンボールを置き、 こんな貼り紙をしたのである。

「ゴミはこの中よ!たくさんいれてね!」

そうすると、子どもたちはゴミをそこに入れるようになり、しまいにはまわりのゴミも片付けてそこに入れるようになった。 そこでそのダンボールにこう書いた。

「きれいになったね、ありがとう!」

うーん、見事な心理指導である。

ふと、近所にある家の前にこんな看板を立てている家があるのを思い出した。

「いつも糞の掃除ありがとうございます。」

これもまた見事な誘導である。きちんとメッセージを届けるべき相手に反発を呼び起こすことなく届けている。

たいていの場合こういう時、ついつい感情的になってしまい「相手にメッセージを届ける」ことよりも「私の主張を述べる」 ということに集中してしまい、かえって反発を呼び起こして問題解決どころか余計にこじらせてしまうことになりがちである。


私は時間がある時、多摩川を散歩する。

遠くに青梅や五日市の山並みなどを見つつ、川の流れや河原の植物の繁茂している様を見ていると、私の頭の中には「ほっこり幸せ物質」 のようなものがじわじわと分泌されてきて、なんとも言われぬ恍惚状態になってしまうのである。

そうなると私の脳内ではいろんな雑念が次から次へと湧いてくる。

その多くはたいていどうでもいいくだらないことばかりであったりするのだが、 ごくまれにその中にたいへん優れた洞察に満ちた(気がする)卓見のようなものがきらりと光ったりすることがある。

しかし、くだらない雑念でいっぱいの私の頭から何ゆえに突然、 そのようなきらりと光る卓見のようなものがひねり出されてくるのだろうか。なにしろ私の頭の中はいつも 「ハトのくちばしに付いてるひょうたんみたいのはナンだろう?」とか「多摩川って英語にすると“Tama river”だよな。“たまり場” 。プッ」とか、ホントにくだらないことでいっぱいなのである。

なのでそのような卓見の類(たぐい)というのは、私の頭がくだらない雑念にどっぷりと浸かって意識が朦朧としてきた頃に、 ふっと生まれた意識の空白のようなところに、うっかりどこかから受信してしまったものであると私は思っている。

自然の中に身を置いているとそのような瞬間がしばしばある。

話がつい脱線してしまったが、いつもそうして恍惚としながら多摩川を散歩しているときにふと目に入る看板がある。 そこにはこう書かれている。

「危険ですので川に入らないでください」

うむ。簡潔で分かりやすいし、言っている内容もまったく正しいようにも見える。だがしかし、これではいけない。

このメッセージを書いた人は「言葉の意味がわかれば話は通じる」と思っていらっしゃるようだが、 それは人間の心の働きというものを考えに入れていない。水難事故を減らすためにと思って書かれたのであろうが、 この書き方では事故を減らすどころか増やすことにしかつながらない。

まずこのメッセージは「誰に向けて言っているものであるか」ということである。

「川へ入らない人」に向けて言っているのではないことは当然である。これは「川へ入ろうとしている人」に向かって言っているのである。

「入るな」と書かれているにもかかわらず、「入ろう」とする人に向けて書かれているのである。

「入るな」と書かれているにもかかわらず「入ろう」とする人は、そのメッセージを否定して自分の行動を正当化して行為に及ぶ。

つまり「危険ですので川に入らないでください」というメッセージに対しては、「別に危険じゃないから川に入って遊ぶ!」 と言い張ることになる。このメッセージを読んで川へ入る人はことごとく「別に危なくないって、平気平気。」と言って川に入るのである。

つまりこのメッセージは「川へ入ろうとする人」に対して、油断することを促すことしか役割を果たしていない。

もし水難事故を減らすために書くのであれば、たとえば「危険ですので川へ入るときは十分気をつけてください」と書くか、 あるいはただ単純に「川へ入るな!」と書くべきである。

しかし、絶滅危惧種である「川ガキ」 の復活を心から願う私としては、やんちゃなガキ活発なお子様たちにはどんどん川へ入って遊んでいただきたいと思っている。

なので私ならこう書く。

「子供たちが川で遊びます。大人は邪魔をしないように!」

こう書くと、意地の悪いクチうるさいオヤジが様子を見にやってくるので、こちらも安心なのである。

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2005年09月07日

嵐をよろこぶ男

今日は台風の影響でムシムシするうえに風がすごい。

嵐好きの私としては、こんな風の強い日はなんだかワクワクしてきて興奮してしまうのだが、ワクワクしすぎて、 いてもたってもいられないので、代々木公園に行って「森のおろか者」になる。

代々木公園に行ってみるとすごいトンボの群れである。なんだかいろんな種類がいるように見えるが、 残念ながら私にはシオカラトンボしか分からない。

トンボたちは風に向かって飛んでいるとまるで空中で静止しているかのようである。

夏の終わりの嵐の風に、トンボの群れはよく似合う。

例のごとく気持ちの良さそうな森のベンチを見つけて本を読んでいると、風が吹くたびになにやら上からぼとぼと落ちてくる。

何だろうと思ってよく見てみるとまだ青い銀杏の実であった。なんだか枝ごと落ちてくるのもある。 風で枝がわさわさと揺れるたびにぼとぼとと落ちてくるのだが、その量がハンパじゃない。

音もすごいし、当たったら痛そうだな…。

いろんなものが風で吹き飛ばされてきたり、上から銀杏がぼとぼと落ちてきたり、今日の「森のおろか者」 はちょっとスリリングでどきどき。でも読んじゃう。

けれどもおもむろに「あ、こんな素敵な嵐の日には、もっとおもしろいことがあるかもしれない」と思い立ち、 読んでいた本をパタンと閉じるとザックにしまって公園をぐるっと歩くことにする。

すると、雲はものすごい勢いで流れていくから明るくなったり暗くなったりするし、 セミは壊れて地面の上をジージーぐるぐる回っているし、噴水はダンスグループを結成してそろって踊っているし、 ポプラはまるで羽根ボウキみたいだし、マテバシイはやっぱり青いどんぐりをころころ落としているし、 百日紅(サルスベリ)は満開のうえに地面まで染め上げてすごいキレイだし、もうとにかくありとあらゆるものがお祭りのようにはしゃいでいる。

いやあ、愉快愉快。

こんなに愉しいと宮沢賢治でなくてもほほーっと言いながら飛び跳ねたくなってしまう。

やっぱり嵐はいいなぁ。

家庭や職場なんかも、「なんだか停滞してきたなぁ」と思ったら風を入れるのが一番。それもなるべく想定外の風であるともっといい。 ときどきヘンなものを招き入れましょう。

うわぁ、そんなことを考えてたら、口の中に何かヘンな虫が飛び込んできた。

緑色のイモムシに羽根が生えたみたいなヘンなやつだ。

ペッペッ、あっち行け、コンチクショウ。

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2005年09月06日

文章の息づかい

文章を書くときに私が一番気をつけているのは「文章の息づかい」ということである。

私の言う「文章の息づかい」というのは直接的には、文章の句読点の位置や、ワンセンテンスの長さのことであるが、広義の意味では、 文の勢い、言葉遣い、「てにをは」などの使い分け、比喩の仕方などなど、言ってみれば書いた人間の個性がそれとは意識せずとも現れるような、 そんな文章上のその人らしさの身体感覚のことである。

ロラン・バルトのいう「エクリチュール」というものに近いのかもしれないが、私はそんな深い意味では使っていない(たぶん)。

私の頭ではバルトの深遠な思想などとても理解の及ぶところではない。

なにしろ「バカはしゃべり方で決まるってこと?」程度のいい加減な解釈をしている。(うぅ、おそろしい。ブルブル。)

私が「文章の息づかい」と言うとき、それは文体に刻まれたその人の「署名」というような意味であり、たとえば「愛してるよ」 と言うときの、その吐息の暖かさや湿り気のようなものである。言葉と意味が乖離しているときは吐息は冷たく乾いている。

ん?たとえが違うか?

とにかく読んで感じる「その人らしさ」のことである。…ってさっき書いたな。

文章を読むということは書いた人間の語り口を模倣するということであるので、必然的に書いた人間の呼吸に同調してくる。

つまり文章によって読む人間の呼吸をリードすることが可能なのである。

読む人の呼吸を深くする文章、浅くする文章というものは確かに存在しており、それは内容に関わらず、読む人を元気にしたり、 気分を悪くしたりすることができる。

私は、つぎはぎだらけの文章のようなものを読んでいると息がつっかえてくるので、段々息が苦しくなってきてポイッと投げ出してしまう。

私が憧れる理想的な文章の息づかいは幸田文さんと野口昭子さんの文章である。

お二人の紡ぎだす文章は、とにかくすがすがしく上品であるということに尽きるのだが、 それでいてあっけらかんとして粋なところを感じさせる。例えるならば「上品な江戸っ子」 とでも言うのだろうか(ホントに江戸っ子かどうかは知らない)。

けれども私は上品さなんてまったく持ち合わせていないので、憧れるだけでとてもそれを目指そうなどとは思わない。 ときどき引っぱり出してきては、読んでその美しい文体と息づかいに「…ホゥ」と感嘆のため息をつくだけである。

私は読んで深い呼吸を誘導できるような、そんな息づかいの文章を目指しているのであるが、やっぱりとても難しい。

だから「この文章がお前にとっての深い呼吸なのか?」なんて突っ込まないでいただきたい。

お願い。

とにかくそのような「文章の息づかい」というものが、私にとって一番重要なものであるので、 たとえば誰かに文章を校正される必要があるようなとき、決して譲れないのはその「文章の息づかい」であり「語り口」である。

なぜならそれは私の文章にとって「私の肉体」そのものだからである。

正直な話、それに比べれば内容なんて別にどうでもいいので、「やっぱりここはこうして」と頼まれればホイホイと書き直す。

…「どうでもいい」は言い過ぎか。

「私らしさの署名」に手を入れられると、読んでいてなんだか、とてもそれが自分の文章だとは思えなくなってしまうのである。

そんな文章はもはや私の文章ではないので、別にいらないので誰かにあげる。


文章の肉体という意味ではまさに「字体」というのもとても大事である。

ちなみにこのブログの文章は「ゴシック体」でありサイズもちょっと大きめにしている。 それは読み手がどのような大きさのモニターで読むのか分からないので、なるべく誰もが読みやすくと思って選んでいるのであるが、 印刷した後の紙媒体で読むことを考えると、ホントは「明朝体」のほうが好きである。

なぜならゴシック体は、モニター上で読むぶんには確かに読みやすいのだが、「とめ」や「はね」といった筆づかい、 息づかいがまったくと言っていいほどないからである。

やっぱり文字そのものの息づかいというものもまた、読む上ではとても大事なことだと思うのである。

しかし、悲しいことに小学校の教科書では今まで使われていた教科書体というものがなくなり、 だんだんゴシック体が使われ始めているらしい。

五感喪失』(山下柚実、文藝春秋、1999)という本の中で山下柚実さんは、 小学校低学年の教科書で頻繁にゴチック体(ゴシック体)が使われていることにたいして疑問を投げかけているが、 どんどん身体感覚を剥ぎ取られていく方向へと向かう現在の教育環境は、 いったい将来どのような人間を排出(輩出ではない)することになってゆくのだろうか。

想像すると恐ろしい。

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2005年09月05日

快の余韻が止まらない

私の師匠である河野先生が作られた快気法というものがある。

「心地よさに身をゆだねて、快と感ずる方向へ気持ちよく動いていけばからだは整う。」

という明快で単純でありながらまた真髄でもある大原則を応用した健康法であるのだが、とにかく気持ちがいい。

自分が気持ちいいように動けばいいのであるから当然といえば当然なのであるが、健康法とか体操とかいうものが「こうして、ああして」 と決まりごとが多い中で、「自由に動いていいんだよ、気持ちよさを全身に感じてそれをどんどん広げていってね」という、 なんとも耳にもからだにも心地よい優しげな健康法なのである。

今日は「快の学校」というその快気法を学ぶためのクラスがあった。

「最初の30分、前回の復習やって」

と先生に申し渡されたので、受講生のみなさんの前にいそいそと出て「前回の復習やりますね。」と言いながら、 あとは自分の気持ちいいように勝手に動いていた。動けば動くほどみなさんもどんどん勝手に動いてゆくので、 なんだか口を挟んで動きを中断してもらうのも憚れるほどである。

みんなポカンとしてたいへんに気持ち良さそうである。善き哉。善き哉。

そのときに「余韻」というものがけっこう大事ですよというお話しをする。

何も考えずに気持ちよく自由に動いていく時間を「からだの時間」とするならば、ふだんの生活で「これをやろう」 と頭で考えてその目的に沿って動く時間は「頭の時間」と言える。

ふだんの「頭の時間」の生活の中でも、できるだけ「からだの時間」のときのような感覚をもって動いていけると、 生活そのものがどんどん気持ちのいいものになってゆくのだが、なかなかそれができない。

「からだの時間」の感覚を「頭の時間」の中にどんどん延長していくためには「余韻」というあわいな、 狭間の時間をいかにうまく経過するかが大事なのである。

何かと何かの狭間というのは特別な瞬間である。

私は夕暮れとか明け方とか、うつろいゆく狭間の時間というのを愛してやまない。

早朝、川沿いの道などを散歩している時に知らない人どうし「おはようございます」なんて挨拶を交わしたりする(毎朝、 外の掃除をしているので、しばしば挨拶をかわす)。

これが昼間や夜中であればそんなことはまずない。昼間であればびっくりして変な顔をされるだろうし、 夜中であれば逃げ出されるかもしれない。

明け方に交わす言葉が自然と受け容れられるのは、それはたぶん朝の挨拶というものが、 夜と昼の「狭間」 の特別な時間を共有できることを祝福し、喜びを分かち合うための言祝ぎ(ことほぎ)の言葉だからなのだと私は思う。

何かと何かの狭間というのは、二つの違うものを「橋渡し」する役割を果たす。

そしてそういう狭間の時間や空間にいる人はやはりなにか「橋渡し」的な役割を担おうとする。

前に閉店ぎりぎりのラーメン屋に入ったとき、 片付けモードに入っている店員を見ながらラーメンを食べていたら山盛りご飯をサービスしてくれたが、「営業時間」と「営業時間外」 の狭間に存在した店員と私は、ふだんであればありえないような邂逅を果たしたのである(笑)。

もちろん帰るときに「ごちそうさま。おいしかったです。」と言祝ぎの言葉を贈ったのは言うまでもない。

なにか話が脱線した。

とにかく何かの狭間というのは「橋渡し」をする役割を担っており、その時間をいかにうまく経過するか、 うまく活用するかがとても大事なのである。 それは整体で風邪の経過のときに熱が下がって平温以下になったときをもっとも重視するのと似ている。

「からだの時間」の気持ちよさの余韻に浸って、ゆっくりじわじわと「頭の時間」 に戻る際のあわいな狭間の時間をいかにうまく経過するかが、ふだんの生活に快感覚を浸透させてゆく秘訣である。

快気法が終わった後、ゆっくりと引いてゆく波のような心地よさの余韻に浸りながら、それをからだの中に染みこませてゆく。 その余韻に思わずからだがまた動き出してしまう。

ああ、もうどうにも止まらない(嬉)。

そんなことをくりかえしているうちに、ふだんの生活の中にいつのまにか快感覚がじっくりと染み渡っているのである。

ということを今日、講座の中で気持ちよさに身をゆだねてポカンとしているときに突然思いついた。もちろんみなさんの暖かい『場』 の支えがあってこそである。

ありがたいなあ。

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2005年09月03日

森のおろか者

今日、サンマを食べたらなんだかやたらに美味しくて二尾も食べてしまった。しかも刺身もまた旨い。パクパク。 もちろん秋になってきてサンマもどんどん旨くなっていく時期ではあるのだが、昨日のこともあるし、なんだかやっぱりネコの気配が…(笑)。

最近は森の中で本を読むというのがマイブームである。

まぁ、森とは言ったものの私の今住んでいるあたりで、うっそうと木々が生い茂っているところといったら代々木公園くらいであるので、 正確に言えば代々木公園の森のベンチのことである。

木々に囲まれた森の中で、木でできた椅子に腰掛け、木でできている本を読む、という「木」尽くしの贅沢な時間である。 午前中の涼しい時間に森の中で本を読んでいるとたいへん安らかな気持ちになれる。

木というものはホントに偉大である。なによりも優しい。

偉大な木々に囲まれて本を読んでいると、私という人間がいかにちっぽけでおろか者であるかということを感じずにはいられない。

「ちいさな森のおろか者」。いいな、このフレーズ。

木々のなかで読書をしているといろんな訪問者がやってくる。

スズメや鳩が餌をくれやしないかとまわりをウロウロしてみたり、 テーブルの上ではアリやらテントウ虫やらなんだか見たこともないきれいなエメラルドグリーン色をした小さな虫やらがやってきては去ってゆく。

そういう小さな訪問者たちは私の腕を歩き回ったり、読んでいる本の上に乗っかってきたりして、もう好き放題やっている。 もっともこちらが彼らのテリトリーにお邪魔しているのであるから、文句は言えない。

そういう時、私はおもいっきりフーっと息で吹き飛ばしてニヤリとほくそえんだりしているのだが、 目を落とすと本にツバが飛んでいたりしてあわてて拭いたりしている。

いろんなモノたちがやってきては去ってゆくなかに身を置くことはなんと気持ちがいいのであろう。

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2005年09月02日

ネコ憑きのボディワーク

私は世田谷、杉並、横浜の生活支援センターや作業所などで、心に病を持った人たちのボディワークを担当しているのだが、 今日は横浜のほうでボディワーク。なんだか知らないけど大盛況で、場所が八畳の和室であるにもかかわらず参加者が12人もいる。

8÷12で、一人当たり3分の2畳。

せ、狭い…。

こんなに狭いとできることも限られてくるが、その場でいろいろ考えつつ、できそうなことを行なう。

今日のボディワークのキーワードは『ネコ』であった。

将棋五段という明晰な頭脳をお持ちのご年配の男性が、からだを触られているときにおもむろに「にゃあ」という奇妙な声を発して、 参加者みんなで爆笑。その後、ほかの参加者の中からも「にゃあ、にゃあ」言う声があがり、まるでネコの集会のようになってしまった。

そんな『場』に身を置いているとやはり『場』の力か、私も突然「ネコの首つかみ」 という新しいボディワークを突如思いついてしまったので、みんなで首をつかみあって「にゃあ」。

『場』の祝福を受けてなにか新しいものが生まれる瞬間に立ち会えるというのは、それがたとえどんな些細なことであっても、 とても幸せなことだと思う。

今回はたまたまそれを表現する役割を、光栄にも私が担わせていただいたが、それは別に誰の口から出てもおかしくはない。 それは決して個人が思いついたというわけではなく、その『場』にいるみんなの働きによる結果であると私は思っている。

だから今回の私などは、ただの憑坐(よりまし)のようなもので、言いだした本人が「おお、それはおもしろそうだ。」 と言ってることに一番びっくりしているのである。

そんな祝福された『場』でボディワークができるなんて僕はホントに幸せだにゃあ。

はっ、いかんいかん。ネコ語がまだ残っていた。それともネコが憑いたか?

今回参加された女性が、ずっと頭が痛くて悩んでいたのがボディワークが終わったら「痛みが無くなった」 と言っていた(別に私のおかげじゃないですよ!)。心に病を持つ人たちはからだもまたとても苦しい状態であることがほとんどつねであるので、 そういう人たちのためのからだを動かすような『場』も、もっとたくさんあるといいんだけどなあ。うーん。

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2005年09月01日

案ずるより産むが易し

誰にも告げられることなく、おもむろに始まったこのブログ。いつまで続くのかは私にも分からない。

日々、私の脳裏に浮かぶ雑念の数々をぽつりぽつりと書いていこうと思っている。できるかぎり更新していきたいが、 それもまたどうなることか書いてる本人にも分からない。

「そんなことを書いてるおまえは誰なんだ」

と、そんな声も聞こえてきそうだが、それもまた書いていくうちにおいおい…。 とにかくほとんど何も分からないままの見切り発車でスタートである。

こういうのはなんでも「何が起こるか分からない」ほうがおもしろい。  

さあて、どこへ向かうのかな?ワクワク。

ブログをはじめるにあたってスタイルシートをいろいろ工事してみた。HTMLの知識なんて皆無だけれど、 いじっているうちにだんだん分かってきた。

片っぱしからそれらしき数字の値を変えてみてはどうなったか実際に見てみる、 というきわめて原始的で非効率的なやりかたでやってみたが、まあそれでもやってるうちに仕組みのようなものが分かってきたので、 なんとか体裁は整った。

タイトルロゴを自分の落書きに変えてみたり、フォントを大きくしてみたり、サイドバーを左側から右側に変えてみたり。

知識ゼロでもやってみればなんとかなるもんである。

「案ずるより産むが易し」

posted by RYO at 02:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする