2009年11月14日

「気話会」講話録('08.02) (4/9)

●アタマのはざま

 そうやって人々のあいだっていうのは、何かがぐるぐる巡っているわけですけど、それがきちんとスムーズに巡っているっていうことはすごく大事なことなんです。だからたとえば自分が何かを見たり聞いたりしたときに、自分の中からワッと怒りのようなものが湧いてきたのなら、それはきちっと出していかなくちゃいけないんです。

 でも、それをそのまま外に表出してしまったら誰かを傷つけたりとか、物を壊したりとか、人を不幸にしてしまうこともある。じゃあそういう自分の中に湧き起こってきた怒りみたいなものを、どうやって外に表出するかっていうときに、何かこう形を変えるフィルターみたいなものが自分の中にないといけない。私はそれを茂木健一郎さんにならって「白魔術」なんて言ったりもしてますけど、そういうものが必要になってくる。


 一度自分の中で生まれたエネルギーは必ず外に出ますから、まず絶対抑えちゃいけないんです。これはもう繰り返しになりますけど、自分の中に生まれたエネルギーは絶対抑圧しちゃいけない。巡るもの、流れるものをとどめておくことは絶対できないんです。抑えると自分の思いもしなかったところから、思いもしない形で飛び出していく。そうすると完全に自分にコントロールできない状態になっちゃう。それは一番良くない。

 不満をずーっと我慢していると、まったく自分の空想のつかない形、さっき言ったみたいに思わずこぼしちゃうとか、つい壊しちゃうとか、意識しないところで鬱散が始まる。本人は「わざとじゃない!」って言いますけど、でもどう見たってあきらかに不満がたまって噴出しているんです。証拠にからだを見れば不満が鬱散している。

 でも言っておきますけど、その人が「わざとじゃない」って言っているのはホントなんです。だから責めるつもりはない。たしかにそれはホントなんだけど、その奥をもう少し、要求とか、エネルギーとかっていうのを見ていると、明らかにその前に何かあって、その不満がたまってたまってたまって、何か別の形で「わざとじゃない」っていう形で噴出している。それは見ているとホントに見事なもんです。


 それが外にね、物をぶち壊すみたいな感じで出るならまだいいんですけど、もっと不幸なのは自分のからだを壊すような、病気を作ったり、怪我を招いたりっていう形にもなるんです。引き起こすんです。そういうものを。だから抑圧しているものが強ければ強いほど、そういうものを招くんです。

 よく「幸薄い」とかって言いますけど、そういう人は自分の中にいろいろな欲望をホントに我慢して我慢して抑えつけちゃってるんですよね。なんかイメージありません?「幸薄い人」って。言いたいことも言わないで、人の言うことも聞くままで、趣味もなんだか内向的で…って(笑)。そうするとエネルギーが完全に抑圧されてしまっているんで、本人もまったくあずかり知らぬところから漏れ出てきちゃうんです。それがそういう不幸なことを招くんですよね。意識が許してくれないから、意識してないところから噴出する。そうしなきゃ鬱散がつかないんです。


 昔はそれがきちっとあるていどの社会的な儀式の中に含まれていたんです。なんかこう、いたじゃないですか。お祓いする人だとか。祈祷する人だとか。まぁいろんな人がいてね、よく分かんないことやるわけですよ。こう、「キエーーー!」とか叫んで、なんかワケの分かんない棒みたいなものをバサバサ振りまわしたりしてね。アタマじゃ分かんないです。アタマじゃ分かんないんですけど、その、自分にものすごく集中してね、流すことを一生懸命やってくれているその振る舞いのなかに、なにかこう満ちるというか、流れていくものがあるんですよ。その人のなかに。アタマじゃ分かんないです。何やってんのか分かんないですよ。そんなもの。簡単に分かるようなことじゃダメなんです。

 だから基本的に呪文みたいなものっていうのは、ワケの分かんないものですし、なんかこうサラサラと書いた御札みたいなものも何書いてあるのか分かんない。あれハッキリ書いてあったら、あんまり効果ないんですよ。分かりやす〜い文字で分かりやす〜いこと書いてあったら効果ないんです。アタマで納得してそこで解消されちゃいますからね。よくお蕎麦屋さんとかに貼ってある「親父の小言」みたいになっちゃう(笑)。


 野口先生のお話の中にも出てきますけどね。四国に呪文を唱えて人を治しちゃうおばあさんがいたんです。それが変な呪文で「大麦小豆二升五銭(おおむぎしょうずにしょうごせん)」とか何とかね、何だかチラシの見出しみたいな呪文なんですよ。で、そのおばあさんも意味は分かんないんですけど、でも唱えて手を当てていると治っちゃうもんだから、それで村の人たちを治していたんです。

 それである日お坊さんがね、不思議なおばあさんがいるって言うんで見に来てね。おまじない唱えながら治しているのを見てハッとして「それは違う!」って言って、それは「大麦小豆二升五銭」じゃなくて、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごうしん)」っていう金剛教のありがたいお言葉だって教えてあげたんです。意味と文言を。それで「そんなありがたいものだったんですね」っておばあさんもありがたがって感謝して、それで次の日からね、今度はちゃんとお坊さんに教わったとおりに神妙に呪文を唱えて手を当てたらね、治らなくなっちゃったんです(笑)。


 でね、それって何ていうかアタマになっちゃったんだと思うんです。自分でも何やってんだか分からないけれども、何だか分からないものをハッとやっているときは、それが効いていたものが、ありがたいお坊さんにありがたい教えを教えてもらって、「そういうことだったんだ!」って意味がはっきり分かったら、もう完全にアタマになっていたんですよね。アタマで唱えていた。

 今まではワケが分かんないから目の前の人に意識をずっと集中していたものが、今度はそのお題目のほうが大事になっちゃって、それで意識はすっかりお題目のほうに行っちゃった。気持ちがありがたいお題目ばっかり行っちゃって、目の前の人を見なくなっちゃった。そういうことが起きちゃう。アタマに還元しちゃいけないっていうところがある。だから「気って何ですか?」って言われると…「知らない」って(笑)。「気は気だ!」って野口先生が言ったのはね、やっぱりホントにこう正しい作法というのかな、正しい振る舞いなんだと思います。


 ちょっとずつね。かつて気と呼ばれていたものの片鱗は、科学の進歩と共に分かってきたわけですよ。たとえば微生物だってね。昔は気だったんです。気の仕業だったんです。でもそれはよく見てみたらなんか生き物がいると。お酒ができるっていうのは神様が何かやってできるもんだと思っていたのが、じつは微生物の発酵というものだったっていうのが分かってきた。

 でも分かったからってそれが気の全部じゃなくて、微生物だったり、マイナスイオンだったり、放射線だったり、低周波だったり、そういう人間の目には見えないよく分かんなかったものがいろいろ分かってきましたけど、それでもなお意識にのぼらないものがいくらだってありますよね。そういうものに対する敬意というか、「分からない」っていう自分の無能性、不能性を認めたところから、気の理解が始まると思うんですよね。

⇒つづく

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2009年11月10日

「気話会」講話録('08.02) (3/9)

●家族のあいだを巡るもの

 内田樹さんが『下流志向』っていう本のなかで言っていましたけど、やっぱりお父さんのお給料が振り込みになったあたりから、家族のあいだを巡るものが変わってきたっていうのもありますよね。昔はたとえば狩猟時代に男が外で狩りをしてきて、捕まえた獲物を家に持って帰って「さぁ獲ってきたぞ!」って言って「わーっ!」って家族みんなで喜んでいたのが、そういうものが時代とともにだんだん男の仕事が見えなくなってきてしまいましたよね。

 獲物が現金袋になって、現金袋が給与明細になって、っていうふうにどんどん仕事の価値が透明化してきてしまうと、「働いてきたんだぞ!」っていう男の人のアピールができない。銀行に直接振り込まれちゃったら自分がどれだけ外で苦労したのかっていうのが家族に伝わらないですよ。鹿一頭ボーンって持って帰れば、もう何も言わなくても「これが俺の仕事だ!」って言えるから黙っていたっていいんです。それで体じゅうに傷でも作っておけば誰も文句はないでしょう。「どうだ。父ちゃんすげぇだろ!」って。

 でも現金振込みみたいになってくると「どうだ!」って言えないですよね。それで結局自分が外でどれだけ家族のために身を粉にして働いてきたのかっていうことを認めてもらうためにはくたびれて帰るしかない。だから男は外で働いて帰ってきたら「ああ、くたびれた。今日も大変だった。部長のやつがさ…」って愚痴るしかないんです。「給料が安い」なんて普段から文句言われてればなおのことですよ(笑)。「俺はこれだけ頑張っているんだよ」っていうことをそういうふうにしかアピールできない。哀しいですね(笑)。


 でもね、当たり前ですけどそんなの奥さんだって黙っちゃいないですよね。「あたしだってどれだけ大変だと思ってんのよ!」って話です。家事やって掃除洗濯やって、育児もやって、PTAに出て…って。「あたしだって大変なのよ!」「俺だって大変なんだよ!」ってお互いの不平不満の言い合いで、どっちがより不満で、どっちがよりくたびれているのかっていう競争になる。

 そうして牽制しあって不満がたまっているほう、よりくたびれているほうがアドバンテージが取れるんです。より不満だったほうが優しくしてもらえる。「あたしのほうが大変だった」って奥さんがそのとき勝てば、旦那さんが奥さんの言うこと聞いて何かやってあげるとか、逆に旦那のほうが大変だなって思ったら、奥さんがちょっと優しくしてあげたりとか。


 子どもは見ているわけですよ。そうやって不平不満を言い合って、もっとも不満だった人間がみんなに優しくしてもらえるんだっていう事を見て覚えるんです。人々のあいだを巡っているものは「不快の表明」なんだと。そうしたら子どもは当然ですけど「だりぃよ。やってらんねぇーよ」とか言いながら、とにかく「俺は不快だ。なんとかしろ!」っていうことで人の注意を引いて、人から何かしてもらうっていうことを学びますよね。その振る舞いを。

 家庭の中で何が起きているかっていうことは、そのまま社会集団の中で起きていることの雛形ですからね。家庭の中で「ああ、共同体っていうのはこういうものが巡って成り立っているんだな」って思ったら、学校に行ったって、会社に行ったって、あらゆる社会に出て行ったときに、そこから空想しますよね。だから社会っていうのはそうしてできているって思ったら、立派なクレーマーになっていきます。


――見えないですよね。お父さんがどれだけホントに現実として働いているのかってことは。お母さんの仕事はまだ見えるかもしれませんけど。

 お父さんがどういう仕事をしているのか完全に見えなくなっちゃったっていうのはけっこう大きな問題だと思うんですよ。自分たちの生活がどんなものの上に成り立っているのかってことが見えなくなってきているということですからね。これは都市でも一緒ですけどね。私たちは自分が食べているものが、どこから来ているのかほとんど知りませんよね。都市が農村を忘れてしまっているように、家族の中でも父が忘れ去られてしまっている。

 そういう意味ではね、家族が自分たちの生活を成り立たせてくれているお父さんの働く姿を見れるような、もう少しそういう社会的なシステムを作るべきだと思うし、あるいはそこまでできないっていうんであれば、せめて、祝祭を設けるべきなんですよ。たとえばお父さんの給料日には、「お父さんありがとう!」って家族で感謝を述べるとかね。

 …あの、一応言っておきますけど、当然お母さんにもあるんですよ?(笑) お母さんに「いつもありがとう」って感謝を告げる日もね。今、国民的な祝祭が無くなってきちゃいましたからね。年中無休の二十四時間営業の国になってきちゃいましたから、そういう区切りが曖昧になってきちゃったんですよね。だから今の時代はね、そういうものは自分たちで作るしかないと思うんです。それぞれの家庭で文化行事やしきたりというものを作っちゃう。そういう「お父さんに感謝する日」「お母さんに感謝する日」っていうのをちょくちょく作って、鹿をボーンっとまではできないですけど、目に見える形でね。

 そういう意味では七面鳥を焼いたのをボンと出すみたいなことはすごく分かりやすいですよね。「これはお父さんが働いてきたお金で買ってきたのよ」って言って「お父さんに感謝して、みんなで美味しく食べましょう」っていうこととか。お母さんがやってくれていることに対して、「じゃあ今日はお母さんの代わりにみんなで家事掃除全部やるから、お母さんはそこで休んでて」って言って、子どもとお父さんが一生懸命家事をやるとか。それをお母さんが「あの二人で大丈夫かしら」ってドキドキしながら見てたりね。そういうその人が普段どういうことをやっているのかっていうことを意識化させることってときどき必要ですよね。


――こうしてゆっくり話をしていると「ああそうだな」って思えるけど、なんとなくバタバタ毎日過ごしていると、どうしてもそのまま過ごしてしまいますね。でもお父さんがみんなのためにどれだけ働いているのかって言うのはお母さんですからね。お母さんが言わないと子どもたちは分からないですよね。

 まぁ…そうなんですけどね。でも私は男なんで私の口からは言えない(笑)。

――それはやっぱりお父さんもお母さんのことをきちんと褒めるっていうか認めるってことが大事ですよね。女の人ってただ毎日毎日、掃除とか洗濯とか、次の日はまた汚れてまた掃除ってその繰り返しで「何のためにやってるんだろう…」って女の人って必ずそんなことをふと思うときがあると思うんです。でもそれはとても大事な仕事で、家族がまた次の日元気に仕事だ学校だって出かけていけるのは、それはお母さんのおかげだってみんなが思ったら、お母さんもすごく生き生きとやりがいを持って毎日を暮らせると思うんですけど…。

 そうですね。ホントにそうだと思います。自分の中でそういうものを喜びに変えられるっていうことが大事ですよね。そういう振る舞いを自分の中に身に付けている人なら、それがそのまま喜びになるんですけど…。でもそれを全員に期待するっていうのは、やっぱりちょっと難しい。

――だんだん歳をとってくるとね。そういうことも分かってくるんですけど…。

 酸いも甘いも噛み分けてくると「これこそ幸せなんだ」ってどこかで感じられるのかもしれないですけどね。やっぱり二十代、三十代っていう頃は、もう少しこう社会的な承認とか、そういうものを欲しますからね。何て言うんですかね。目に見えるものが欲しいんですよね。それで評価されたりしますからね。

 だんだん歳を重ねていくと、世の中の目に見えるものの奥にあるものが徐々に感じられるようになってきて、そうするとそういう名誉だとか社会的承認だとかいうようなものがどうでもよくなってくるんですよね。そんなことよりこういうことが大事なんだって、直観で見抜けるようになってきますけど、でもそういうのってやっぱりホントにいろいろな経験をして分かってくることなんで、なかなか二十代、三十代で「大事なんだ」って言われたって、「そんなこと言われたって褒められたいし…」って思いますよね。こう「形にして欲しい」っていうね。

 だからそれが祝祭みたいな形で、あれはやっぱり感謝を形に示すっていうそういう振る舞いですからね。そういうことをちょこちょこ設けることって大事なんだと思います。…でもこんなこと言って我ながらホントに「お前は一体いくつなんだ」って…(笑)。


――このまえ何で読んだのか忘れちゃったんですけど子育てのことが書いてあって、「あなたの家庭では人を褒めるという習慣がありますか?」っていう言葉があったんです。そういう中に子どもがいれば、その子は人を褒めるような子になっていくって。

 そういうのはホントに子どもは全部吸収するんですよね。「何が巡っているのか」って。さっきも「子どもはすごく気に敏感だ」って言いましたけど、気は流れていること、巡っていることがその本質で、だから家庭の中でね、何が巡っているのかっていうことはやっぱりスッと分かるんですよ。それで子どもはその振る舞いに参加しようとするんです。だからそれで言葉を覚えるわけですよね。子どもは何かやりとりされていると自分もそこに参加しようとする。人々のあいだを言葉が巡っている、やりとりされているっていうと子どもはそれを必死に覚えて自分もそこに参加しようとする。

 目の前で「これあげる」「ありがとう」とかやってると、自分もそこに参加して「ちょーだい」「ハイどーじょ」「ちょーだい」「ハイどーじょ」とかもう、延々と繰り返しますけど、あれはその、何て言うんでしょうね、その気の巡りの中に参加したいっていう本能的な願望というか、欲望がね、人間にはあるんですよね。その「現われ」が「学習能力」という形になって現われている。家庭の中でやりとりされているものが何であっても別に子どもにとっては初めて見るものですから、それが罵倒のやりとりで、不満の言い合いであれば、ああこうやって世の中はできているんだと。人々のあいだには不満が巡っているんだなと。で、同じように人を褒めるのが巡っていれば、ああ褒めるんだなと。そのままそこに参加して振る舞いを身に付けていくんですよね。

⇒つづく

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2009年11月05日

「気話会」講話録('08.02) (2/9)

●気の集まるところ

 このまえ雑誌の取材を受けたときに記者の方に「すいません。最後に質問があるんですけど」って言われたんで「はい」って答えたら「気って何ですか?」って言われて答えようが無くてね(笑)。まあたしかにね、こういう気功とか整体とかやっているっていうと誰もが疑問に持つことだと思います。「気って何ですか?」っていうね。

 私もこういう世界に飛び込んで「気がうんぬんかんぬん」って言われて何の事やらさっぱり分からないで説明受けても納得できないし、自分なりに「何だろう何だろう」って考え続けてね…。野口晴哉先生も本のなかで「気とは何か」ということについて語っていますけど、はっきりおっしゃっていますよね。「不識」って。「知らない」って。「気は気なり」ってそれしか言ってないんです。「ただ気とのみ解せり」って。

 それで私自身も改めて考えてね、「そうか。それが一番正しい態度なのかもしれないな」ってあるときふと思ったんです。気について「分かった」とか「こういうものだ」とか、迂闊に言ってしまうような態度が一番本質からズレてしまうんじゃないかって思ったんです。「分からない。分からない。」って言いながら追い続けることだけが、気について考える「正しい振る舞い」なんじゃないかなって思うんです。分かったつもりになった瞬間にスルッと逃げていっちゃうみたいなものじゃないかと思って。


 で、そういう気っていうモノというかコトというか、そういうものに関して、生命というのは本当に全部感じているんですよね。すべて。人間でも子どもっていうのはすごくそういうのに敏感でね、何がその場で集中しているか、働いているかっていうことにすごく敏感です。人間の子どもっていうのは本当に無力の状態で生まれてきて、親や周りの大人に意識を集中してもらわないとすぐにも死んじゃう存在なんですよね。周りに世話してもらわなきゃいけませんから、周りの気を引くことだけが自分が生き延びるすべなんです。

 だから気を引けているかどうか、気が集中しているかどうかっていうことに、もうとにかく敏感なんです。それができなきゃ死んじゃうんですから。だから子どもの振る舞いを見ていると、まさにみんなの気がフッと集まるようなことをするし、どこにみんなの気が集中しているかっていうことに、すごく敏感に反応する。

 子どもたちを見ていると、だいたいみんなママのお財布とかケータイとか好きなんですね。やっぱりママの気が集中しているんですよ。そういうところは。見ていると本当にちっちゃい赤ちゃんでもそう。何が大人の気を引いているのかっていうことにフッと気がいって、そのみんなの気を集めるものを自分の中に取り入れようとするんです。

 だからそれをほかの子が持っていれば欲しがって奪うし、それで奪うと、みんなの気がさらにフッと集まるから、どんどん奪い合いになっちゃったりする。それはモノそのものじゃなくてみんなの集中を奪い合っているんですよね。だから誰も見向きもしなくなればあっさり手放したりするんです。それは別にモノに興味があるわけじゃないからなんです。

 そういうところを見て、それをフッとずらすとか誘導するとかいうことが、整体の子どもと接するときの気の使い方なんです。そこでどういうことが起きているのか、どういう気の流れがあるのかっていうところで気の流れをつかむ。そしてそれをフッと逸らしたり、フッと変える。そうしてその子のリズムをパッと変えたりね。そういうのが整体でやっていることなんです。だから子どもと接しているとすごく勉強になります。


 もちろん大人でもそういうのはあるんですけどね。でも大人になるとアタマが発達して言葉を使うんで、「気を感じて動く」っていうところから「アタマで考える」「理論で考える」っていうほうにシフトしてくる。そうすると気を感じて動くっていうよりはアタマで理由つけて動くようになってきて、ちょっと振る舞いが変わってくる。気で動くのと違う世界になってくる。理屈で動く世界。

 こんなこと言っちゃ失礼ですけど、それでもあんまりアタマ使わないような人って、やっぱりすごく気に敏感でね(笑)。そういう振る舞いをするんですよ。子どもみたいな振る舞いって言えばそういうことなんですけど、でもそう単純な話じゃなくてね。平然とすごい仕事をしちゃうんです。何て言うんですかね…。これはホントに無意識なんですけど、みんなの気が集まるようなことをするんですよ。で、みんなの気が集まるようなところにスッと動く。

 だから「何でそんなことをやるの?」ってみんなが思うようなことをあえてやったり、今それをされるとみんな困るっていうときに失敗したり、あるいは逆にみんながホッとするようなタイミングで何かをしたり。なぜその人がそういうことするかっていうと、やっぱりその場の気の流れっていうものを感じていて、それに敏感に反応しているだけなんです。アタマでは分かっていなくても、からだで感じてる。

 だからそういう人はなぜか分からないけど場の中心にいるっていうことが多いですよね。みんなその理由は分からないんだけど、何となくその人が場の中心にいる。その人がいない場であってもその人が話題の中心になっていたりする。それはやっぱりある意味すごいことなんです。意図せずそういうことができるって。


 でもね、それが共同体全体のために動いているうちはすごく大事な役割を担っているんですけど、これが自分本位になってきたらこれほどいやらしい振る舞いはありませんよ。全部が「自分のため」になってくるんですから。それも無意識に。その人はアタマじゃない。からだで動いていますから、パッとみんなの気が集まるようなことを本能的にやってしまう。みんなが困るようなところで物を壊しちゃうとかね。でも壊そうと思って壊してるんじゃない。完全に無意識なんです。なんかよく分かんないけど、そういうところで裾が引っかかったり、つまづいたり、うっかり忘れ物したりして、みんなが困っちゃうような状況を作る。当然ですけど非難される。当たり前ですよね。でもその集中を浴びているっていうことで、からだは満ちるんですよ。ちょっと怖ろしいですけどね。

 マザーテレサが「愛の反対は無関心です」って言いましたけど、愛だって憎しみだって、誰かに自分のことを徹底的に集中して見てもらっているっていう意味では同じなんです。そういう気の観点からすると集中されているっていう意味では何も差がない。「集中されているか、されていないか」っていうところが命にとっては大きな問題なんです。

 だから憎まれるようなことばっかりやって、人から「何であの人はあんなことばっかりやるんだ?」って思われても、その人はそういうやり方でしか人の気を集めるやり方を学ばなかったんですよ。人から本気で褒められるってなかなか難しいですけど、でも人から本気で憎まれるって簡単なんです。それでその人がいつかどこかで身に付けちゃったんですよ。「あ、こうやればみんなの気を集中できるな」って。安易な方法なんですけどね。「困らせる」って…。

――子どもなんかやりますよね。

 そうですね。子どもの場合は基本的に自分本位であることが多いわけですけど、それはやっぱりそういうことがまだ全然重要じゃないからです。というよりまだ空想がつかないんですよね。他人が存在するということが。不幸にも幼少時にそういう形でしか周りの大人の注意を集められなかったりするとね、それしかやり方が分からなくなっちゃう。はっきり言いますけどそれは大人が悪いですよ。罪ですよ。それでそういうやり方でいいんだって思っちゃうと、そういう大人になっちゃう。

 でもそれってやっぱり周りとの関係を考えたときにはあまり幸せなことじゃないですよね。それでもまあなんとかやっていけるんですけどね。そうやって集まっていれば。でもその人がそれでまったく完全に孤立して誰からも関心を得られなくなると、ホントにガターンと落ちますけど…。でも憎まれている限りはその人は元気なんです。そういう人はね。

――いくつくらいまでの体験が大事なんでしょうか?

 う〜ん…原体験っていう意味では、ホントに小さい頃からですけど…。まあ、少なくとも6,7歳くらいまでのあいだにそういう場の中にいさせてあげるってことは大事なんじゃないでしょうかね。これはね、教えるんじゃないんですよ。ただそういう場に浸っているっていうことが大事なんです。だから子どもに対しては教えるんじゃなくて、大人同士の間でそういう作法を演じるって言うのかな…演じるって言うのも変なんですけど。子どもは見て全部吸収していきますから。大人同士がやりとりしているときに、どうやってそこでコミュニケーションが起きているのかっていう作法を丸ごと学びますから、目の前で「コミュニケーションというのはこういうふうにやるんだ」って実践していくしかないんです。

⇒つづく

posted by RYO at 22:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 講義録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする