●アタマのはざま
そうやって人々のあいだっていうのは、何かがぐるぐる巡っているわけですけど、それがきちんとスムーズに巡っているっていうことはすごく大事なことなんです。だからたとえば自分が何かを見たり聞いたりしたときに、自分の中からワッと怒りのようなものが湧いてきたのなら、それはきちっと出していかなくちゃいけないんです。
でも、それをそのまま外に表出してしまったら誰かを傷つけたりとか、物を壊したりとか、人を不幸にしてしまうこともある。じゃあそういう自分の中に湧き起こってきた怒りみたいなものを、どうやって外に表出するかっていうときに、何かこう形を変えるフィルターみたいなものが自分の中にないといけない。私はそれを茂木健一郎さんにならって「白魔術」なんて言ったりもしてますけど、そういうものが必要になってくる。
一度自分の中で生まれたエネルギーは必ず外に出ますから、まず絶対抑えちゃいけないんです。これはもう繰り返しになりますけど、自分の中に生まれたエネルギーは絶対抑圧しちゃいけない。巡るもの、流れるものをとどめておくことは絶対できないんです。抑えると自分の思いもしなかったところから、思いもしない形で飛び出していく。そうすると完全に自分にコントロールできない状態になっちゃう。それは一番良くない。
不満をずーっと我慢していると、まったく自分の空想のつかない形、さっき言ったみたいに思わずこぼしちゃうとか、つい壊しちゃうとか、意識しないところで鬱散が始まる。本人は「わざとじゃない!」って言いますけど、でもどう見たってあきらかに不満がたまって噴出しているんです。証拠にからだを見れば不満が鬱散している。
でも言っておきますけど、その人が「わざとじゃない」って言っているのはホントなんです。だから責めるつもりはない。たしかにそれはホントなんだけど、その奥をもう少し、要求とか、エネルギーとかっていうのを見ていると、明らかにその前に何かあって、その不満がたまってたまってたまって、何か別の形で「わざとじゃない」っていう形で噴出している。それは見ているとホントに見事なもんです。
それが外にね、物をぶち壊すみたいな感じで出るならまだいいんですけど、もっと不幸なのは自分のからだを壊すような、病気を作ったり、怪我を招いたりっていう形にもなるんです。引き起こすんです。そういうものを。だから抑圧しているものが強ければ強いほど、そういうものを招くんです。
よく「幸薄い」とかって言いますけど、そういう人は自分の中にいろいろな欲望をホントに我慢して我慢して抑えつけちゃってるんですよね。なんかイメージありません?「幸薄い人」って。言いたいことも言わないで、人の言うことも聞くままで、趣味もなんだか内向的で…って(笑)。そうするとエネルギーが完全に抑圧されてしまっているんで、本人もまったくあずかり知らぬところから漏れ出てきちゃうんです。それがそういう不幸なことを招くんですよね。意識が許してくれないから、意識してないところから噴出する。そうしなきゃ鬱散がつかないんです。
昔はそれがきちっとあるていどの社会的な儀式の中に含まれていたんです。なんかこう、いたじゃないですか。お祓いする人だとか。祈祷する人だとか。まぁいろんな人がいてね、よく分かんないことやるわけですよ。こう、「キエーーー!」とか叫んで、なんかワケの分かんない棒みたいなものをバサバサ振りまわしたりしてね。アタマじゃ分かんないです。アタマじゃ分かんないんですけど、その、自分にものすごく集中してね、流すことを一生懸命やってくれているその振る舞いのなかに、なにかこう満ちるというか、流れていくものがあるんですよ。その人のなかに。アタマじゃ分かんないです。何やってんのか分かんないですよ。そんなもの。簡単に分かるようなことじゃダメなんです。
だから基本的に呪文みたいなものっていうのは、ワケの分かんないものですし、なんかこうサラサラと書いた御札みたいなものも何書いてあるのか分かんない。あれハッキリ書いてあったら、あんまり効果ないんですよ。分かりやす〜い文字で分かりやす〜いこと書いてあったら効果ないんです。アタマで納得してそこで解消されちゃいますからね。よくお蕎麦屋さんとかに貼ってある「親父の小言」みたいになっちゃう(笑)。
野口先生のお話の中にも出てきますけどね。四国に呪文を唱えて人を治しちゃうおばあさんがいたんです。それが変な呪文で「大麦小豆二升五銭(おおむぎしょうずにしょうごせん)」とか何とかね、何だかチラシの見出しみたいな呪文なんですよ。で、そのおばあさんも意味は分かんないんですけど、でも唱えて手を当てていると治っちゃうもんだから、それで村の人たちを治していたんです。
それである日お坊さんがね、不思議なおばあさんがいるって言うんで見に来てね。おまじない唱えながら治しているのを見てハッとして「それは違う!」って言って、それは「大麦小豆二升五銭」じゃなくて、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごうしん)」っていう金剛教のありがたいお言葉だって教えてあげたんです。意味と文言を。それで「そんなありがたいものだったんですね」っておばあさんもありがたがって感謝して、それで次の日からね、今度はちゃんとお坊さんに教わったとおりに神妙に呪文を唱えて手を当てたらね、治らなくなっちゃったんです(笑)。
でね、それって何ていうかアタマになっちゃったんだと思うんです。自分でも何やってんだか分からないけれども、何だか分からないものをハッとやっているときは、それが効いていたものが、ありがたいお坊さんにありがたい教えを教えてもらって、「そういうことだったんだ!」って意味がはっきり分かったら、もう完全にアタマになっていたんですよね。アタマで唱えていた。
今まではワケが分かんないから目の前の人に意識をずっと集中していたものが、今度はそのお題目のほうが大事になっちゃって、それで意識はすっかりお題目のほうに行っちゃった。気持ちがありがたいお題目ばっかり行っちゃって、目の前の人を見なくなっちゃった。そういうことが起きちゃう。アタマに還元しちゃいけないっていうところがある。だから「気って何ですか?」って言われると…「知らない」って(笑)。「気は気だ!」って野口先生が言ったのはね、やっぱりホントにこう正しい作法というのかな、正しい振る舞いなんだと思います。
ちょっとずつね。かつて気と呼ばれていたものの片鱗は、科学の進歩と共に分かってきたわけですよ。たとえば微生物だってね。昔は気だったんです。気の仕業だったんです。でもそれはよく見てみたらなんか生き物がいると。お酒ができるっていうのは神様が何かやってできるもんだと思っていたのが、じつは微生物の発酵というものだったっていうのが分かってきた。
でも分かったからってそれが気の全部じゃなくて、微生物だったり、マイナスイオンだったり、放射線だったり、低周波だったり、そういう人間の目には見えないよく分かんなかったものがいろいろ分かってきましたけど、それでもなお意識にのぼらないものがいくらだってありますよね。そういうものに対する敬意というか、「分からない」っていう自分の無能性、不能性を認めたところから、気の理解が始まると思うんですよね。
⇒つづく




