2020年09月26日

Facebookアーカイブ一覧

Facebookに挙げた記事のアーカイブ一覧です。
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2020年9月 「新型コロナの重症化予防にビタミンD!」
2020年8月 「師匠を持つ」
2020年7月 「お金も血液も巡りが大事」
2020年6月 「ウィズコロナの健康生活」
2020年5月 「【動画】タッチの日オンラインイベント」
2020年5月 「7covs-7 連塾 方法日本」
2020年5月 「7covs-6 ゴールディーのお人形」
2020年4月 「7covs-5 宝石と四季のお祭り」
2020年4月 「7covs-4 まど・みちお全詩集」
2020年4月 「7covs-3 野の医者は笑う」
2020年4月 「7covs-2 子どもの体と心の成長」
2020年4月 「7covs-1 子育ての記」
2020年4月 「新型コロナは血管に感染」
2020年4月 「新型コロナと社会」
2020年3月 「唾液と新型コロナウイルス」
2020年3月 「私感〜新型コロナウイルスについて」
2020年1月 「冬の食べ過ぎ」
2019年10月 「女子の体育・暮らしの体育」
2019年9月 「いろんなからだ」
2019年7月 「嗜みとしての技術」
2019年6月 「夢見のダンス」
2019年6月 「入試問題」
2019年4月 「カナリヤの歌」
2019年2月 「人を育てる道具文化…つづき」
2019年2月 「人を育てる道具文化」
2018年12月 「私はチームプレー」
2018年10月 「共感と反感」
2018年9月 「何かを語る語り口」
2018年6月 「梅雨の発散」
2018年4月 「人間の意志と背骨」
2018年3月 「翼の埋もれた天使」
2018年1月 「健康の3つの要因」
2017年12月 「冬の乾きとお腹の手当て」
2017年11月 「感覚を使って”あたたかさ”を取り戻す」
2017年10月 「こんな夢を見た」
2017年9月 「冷えるということ」
2017年7月 「忘れることの滋味」
2017年6月 「自分のエネルギーは自分で発散させる」
2017年5月 「子どもに愉気を教わる」
2017年4月 「手当ての指の使い方」
2017年3月 「春の変動」
2017年3月 「こころに翼 からだに根っこ」
2017年2月 「やわらかな言葉」
2017年1月 「関係性と病い」
2016年12月 「活元運動」
2016年11月 「意図なき集注」
2016年10月 「からだの記憶」
2016年9月 「自分の恐怖を感じる」
2016年8月 「愉気とはともに同じ夢を見ること」
2016年7月 「七夕」




posted by RYO at 10:54| Comment(2) | Facebookアーカイブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月25日

新型コロナの重症化予防にビタミンD![FB]

2020年9月
「新型コロナの重症化予防にビタミンD!」

3月頃から「新型コロナ感染症(COVID-19)の重症化予防にはビタミンDが良いかもしれません」と、未確認情報ながら講座などではお伝えしていましたが、かなりしっかりとした臨床試験によってその効果が確認できたようです。

「ビタミンDが新型コロナの重症度を低下させる…」:Gigazine

もちろんさらなる精密な追加試験も必要でしょうし、それだけで重症化が回避できるわけではありませんが、「誰でもすぐに負担なく取り入れられるコロナ対策」としては良い方法だと思うので、改めてご紹介しておきます。

ビタミンDは魚や干しキノコなどに多く含まれていますから、そういうものを意識して多く摂ると良いですね。ちょうどこれから美味しい季節になっていきますし(笑)。鍋とか良いですね〜。

後遺症とかちょっと気になる情報も出てきていますけど、こういうことは愉しくやりましょう!

コロナに対する初期の過敏な反応は徐々に落ち着きを見せてきた感はあるとは言え、いろんな思惑といろんな情報といろんな世界観とが交錯し合って、今まで普通とか常識とか言われていたものが覚束ないものになっています。

皆さんの周りでも、いろんな人間関係の変化が起こっている方もあるかもしれません。

マスクをするしない、コロナは怖い怖くない、その他政治からワクチンからさまざまな陰謀まで、いろんな世界観がざわざわとうごめいて、誰がどんな世界を生きているのか分かりませんから、話をしていたら「あれ?何か見ている世界が違う?」となって、急にどう接して良いのか分からなくなってしまったりして…。

何だか私は「バベルの塔の混乱」を思い出してしまうのですが、ウイルスという目に見えない小さなものだからこそ、その混乱にますます拍車がかかっているのでしょうね。これがもっと誰にでも分かりやすいゴジラの襲来とかだったら一体どんな感じになっていたのでしょうか…。

まあでもですね、今回の新型コロナ感染症について、もっとも現実的なレベルで深く知識を持っているのは、新型コロナの治療現場の最前線で治療に当たっている医療従事者の方たちだと思います。

だからその人たちの声を聞けば、私たちが新型コロナをどのように捉え、どのように付き合っていけば良いのか、私たちの具体的な行動の指針を正確に知ることができるんじゃないかと思います。

医療系の論文などを読んでいると、今回の新型コロナ感染症の正体は「免疫の過剰反応による全身性の血栓症」であることが明らかになりつつあります。

今まで考えられていた免疫反応とは違う部分もあるようなので、まだまだ研究結果が待たれるところですが、ともかくしっかりとした治療法が確立するまでは油断しない方が良いでしょう。

ワクチンについても何だか不安な情報ばかりでまったく信頼が置けませんから、兎にも角にも自分の身は自分で守るしかありません…ってそういえば伝説の角の生えた兎「ジャッカロープ」もウイルスによる感染症ですね。関係ないけど。

とりあえず今回はビタミンDです。エビデンスも出てきましたし、誰でも簡単に取り入れられることですから、周りの人にも教えてあげて、みんなで美味しく対策しましょう。
posted by RYO at 10:53| Comment(0) | Facebookアーカイブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

師匠を持つ[FB]

2020年8月
「師匠を持つ」

少し前にある冊子に「師匠を持つ」と題した原稿を寄稿しました。改めて読んでみて大事なことだなと思いつつ、なかなか手に取ることもない冊子かと思うので、こちらに再掲いたします。

〜〜〜〜〜

「師匠を持つ」ということを、私はしばしば人に勧めています。何故なら、人は師匠を持つことによってその人生が非常に豊かなものになると確信しているからです。

私自身は整体を学ぶ上で、師匠に弟子入りして学んできました。整体の手技の世界というのもいわゆる職人技の世界なので、その技術を学ぶ際には、師匠の技を見て、真似しながら体得していく、いわゆる「見て盗む」ということが主です。

もちろん師匠は言葉でも教えてくれますが、身体操作というのはそんなに明確に言語化できるものでもありませんから、師匠がきわめて感覚的に言語化した独特な表現から、いったいどのような身体操作を行っているのか推測していくしかありません。

それはとても大変な営みで、私自身も「いったいどういうことなのか」と苦悩しつつの学びでしたし、師匠も覚えの悪い弟子を前に「いったいどう伝えようか」と苦労されていたことと思います。

正直、「もうやめようか」と思ったことも何度もありました。技術も難しいし、師匠の言っていることもよく分からなかったりして、学びが遅々として進まず途方に暮れてしまったのです。

そんなとき、地方で行われた研修会に参加されていたあるご年配のお弟子さんが、何気なしに、まるで自分自身に言い聞かせるようにつぶやいていた言葉が心に残りました。

「一番大事なことは『やめないこと』や。やめるのはいつでもできる。長く続ける秘訣はただ『やめないこと』や。続けていれば身に付いてくる」

誰に言うでもなく噛んで含めるようにつぶやいていたその言葉は何とも耳に残って、結局私はその後十年以上にわたって師匠についてその下で学び働き、それから独立したのでした。

封建的で古めかしい教育システムである「徒弟制度」というものは、さまざまな現場で、時代に合ったクリアで公正な教育システムに徐々に取って代わられていきました。

ただ、公正性と利便性を求め、人も場所もカリキュラムも代替可能な教育システムが発達していく中で、いわゆる「余人をもって代えがたい」教育経験というものが少なくなってきてしまったことも事実です。

何か起こったときにサッと講師を替えたりコースを替えたりといった代替案が用意される教育システムの中で、人は「続けること」の意味を見失いかけているようにも思います。

私が一人の師匠について学んだことは「続けること」の意味です。

「対話を続けること」「学びを続けること」「理解を続けること」。

こう言ってしまってはなんですが、師匠というのは理不尽なものなのです。理不尽で不可解で、それでもそこから何かを得るために理解しようと対話をし続けなければならないもの。

いや、むしろそうで無ければ師匠であり得ないかもしれません。

何故なら師匠とは、未知のものを既知のものに還元して理解してしまおうとする人間の怠惰な知性を払いのけ、つねに未知のものとの対話をさせようとする、そんな働きを持つものを指すのだと思うのです。

お花、お茶、踊り、身体、あるいはありとあらゆる職人技。そこで行われている営みは、たいていは言葉の届かぬ道具や植物や動物たちとの親密で濃密なやり取りです。

そこでの巧みさというものは、言葉を語らぬものの発する些細で膨大な情報の中から、いかに自身にとって必要な情報を引き出せるかという「聞き取り」の能力にかかっています。

ですから師匠は、弟子たちに「何も語らぬもの」と対峙させ、そして迂闊に分かった気になってしまうようなことは語りません。自分自身で対話の回路を開いていくしかないからです。

幸運にもその回路を開くことができた者は、駄々をこねる子に、昼寝をする猫に、そして路傍に転がる石からさえも、何がしかを学ぶことができるようになります。

そうして人は初めて「師匠」という存在の意味を知ります。

弟子たちに、そのような学びの構えを開かせるために、師匠という存在はあります。

極端なことを言えば、無知で無能で何も語らず何事も為さぬものであっても、人がそこから何かを聞き出したい、何かを学びたいと思いさえすれば、それは十分に師匠の資質を備えているのだと思います。

昔、私があるカルチャーセンターで講座デビューをしたときに、弟子の初舞台を応援しようと、師匠がわざわざ時間を作って見に来てくれたことがありました。

教室の後ろに立って、私が講座を行うのをジッと見守っていてくれたのです。それはもう有り難いやら、やりづらいやらで(笑)、いつにも増して張り切ってお話しさせていただきました。

その中で私はその場にいる人たちに「師匠を持つことの大切さ」を語りました。

先に述べたような私見をぶち、今思えばなんでそんなことを口走ってしまったのか分かりませんが、わざわざ応援に来てくださった師匠には大変失礼なことに「師匠っていうのは何でも良いんですよ」などと口にしてしまいました。

言ってしまって思わず後方の師匠の方に目をやると、師匠は教室の後方でにこやかに笑っておりました。「ああ、この師匠について良かった」と思った瞬間でした。
posted by RYO at 10:34| Comment(0) | Facebookアーカイブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする