2019年07月22日

Facebookアーカイブ一覧

Facebookに挙げた記事のアーカイブ一覧です。
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2019年7月 「嗜みとしての技術」
2019年6月 「夢見のダンス」
2019年6月 「入試問題」
2019年4月 「カナリヤの歌」
2019年2月 「人を育てる道具文化…つづき」
2019年2月 「人を育てる道具文化」
2018年12月 「私はチームプレー」
2018年10月 「共感と反感」
2018年9月 「何かを語る語り口」
2018年6月 「梅雨の発散」
2018年4月 「人間の意志と背骨」
2018年3月 「翼の埋もれた天使」
2018年1月 「健康の3つの要因」
2017年12月 「冬の乾きとお腹の手当て」
2017年11月 「感覚を使って”あたたかさ”を取り戻す」
2017年10月 「こんな夢を見た」
2017年9月 「冷えるということ」
2017年7月 「忘れることの滋味」
2017年6月 「自分のエネルギーは自分で発散させる」
2017年5月 「子どもに愉気を教わる」
2017年4月 「手当ての指の使い方」
2017年3月 「春の変動」
2017年3月 「こころに翼 からだに根っこ」
2017年2月 「やわらかな言葉」
2017年1月 「関係性と病い」
2016年12月 「活元運動」
2016年11月 「意図なき集注」
2016年10月 「からだの記憶」
2016年9月 「自分の恐怖を感じる」
2016年8月 「愉気とはともに同じ夢を見ること」
2016年7月 「七夕」




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2019年07月21日

嗜みとしての技術[FB]

2019年7月 愉気の会
「嗜みとしての技術」

今月の愉気の会は、夏休みに向けて整体の救急法の実習をしました。
整体は今でこそ「体育」としての立ち位置で活動をしていますが、元々は治療術として発展してきた経緯があるので、技術としてはさまざまな治療的な技術もあります。

昭和20年頃に整体操法の基本的技術をまとめるために立ち上げられた「整体操法委員會」の初期メンバーを見ると、各手技療法のそうそうたるメンツが集まっていますから、整体の技術というのは、日本中のさまざまな手技療法が一堂に会して作られたのだということが分かります。

ただ今は整体は「体育」としての活動に軸足を置いていますし、私自身もハッキリそのつもりで整体を実践していっていますから、そのような技術を使う機会というのはあまりありません。

ですがせっかく伝えられている技術をそのままにして消えていってしまうのももったいないですし、野口晴哉自身が「嗜みとして身に付けておきなさい」と言って、「使わない技術」をあえて弟子たちに教えていた事にも倣って、私も夏休みの前などに、行楽先でのいざというときのためにと思って、救急法の講座を行なったりしています。

たとえば「鼻血の止め方」として、頸椎六番を叩打したり、かかとを叩打したりといった手当てがあるのですが、そもそも整体では「鼻血は止めなくて良い」と言われているのです。

だから止める技術など不要なはずなのに、止める技術を教えるのです。それは何の為なのかというと、「いつでも止めることができる」と思っていると、鼻血が出ているときに慌てずに落ち着いて待つことができるようになるからです。

「どうしよう?何かしてあげなくっちゃ!」という慌てた混乱状態から、いろいろ余計なことをしてしまうということはありがちなことで、それが我が子のケガやトラブルなどであればなおさらのことでしょう。

ですが、そういう状態での手当てというのは、どうしても「子どものため」というよりも、「自分の安心のため」という側面が強くなってしまうのです。本人は決してそんなことは思っていないとしても、そうなのです。

そうすると人間というのは、目の前の相手の事がよく見えなくなって、自身の空想に振り回されることになります。

そのような状態では、冷静な対処ができないだけでなく、ケガをして心細くなっている相手まで巻き込んで振り回してしまうことになります。相手が小さい子どもであればなおのことです。

ですから、まず自分自身が落ち着くこと。子どもの緊急事態に対しては、それが何より大事です。

そのために「嗜みとしての技術」を身に付けておくのです。

今回も「失神したとき」だの「心臓が止まったとき」だの「溺れたとき」だの「誤飲したとき」だの、さまざまな救急法をお教えしましたが、そんな技術使わないのです。使わない方が良いのです。そんな使わない技術を、嗜みとして身に付けておくのです。

そんな「使わない技術」が、人の心身に余裕をもたらしてくれるのです。
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2019年06月21日

夢見のダンス[FB]

2019年6月 愉気の会
「夢見のダンス」

今月の愉気の会は、『野生の哲学』(永沢哲、青土社、2002)という野口晴哉の研究本の紹介からお話を始めました。

この本を読んだのはずいぶん前でしたが、今になって改めて読んでみると、自分自身の思考のタネがふんだんに散りばめられていて、「ああ、コレが今になって花開いているんだな」と思わされます。(良い本は久しぶりに読むとつねにそんな印象です)

この著者である永沢哲さんという方は、チベット密教や身体論を中心に研究をされている方で、この本の中でも非常に深く面白い観点から、野口晴哉の思想を解説してくれています。

「野口晴哉のことを考えてみるとき、彼の思考は、外から見ると、「浅草」的な特徴に満ちている」(同書、39頁)なんて、思わず「浅草!」と叫んでしまうくらい何とも色気のある論考で、私の中で野口晴哉が地霊たちとともに踊り出してしまって、いろんな意味でたまりません(笑)。

また永沢さんは、プロセス・ワークの創始者であるアーノルド・ミンデルの著書の監修にも関わっていて、ミンデルの「ドリームボディ」というアイデアを、野口晴哉の身体観に重ねて「夢見の体」と呼んでいます。

そして「活元運動」とは、その「夢見の体」のダンスが、肉体の運動となって表現されてくるプロセスなのだと言います。

以前、日本でプロセス・ワーカーとして活動されている藤見幸雄先生が、「私たちが行なっていることは相互運動(二人で行なう活元運動)なんです」と説明してくれたことがあり、プロセス・ワークでやっていることと、野口整体でやっていることとが、ストンと繋がったことがありましたが、まさに私たちはそれとは知らぬうちに夢見のままに繋がり合って交歓し合って、ダンスしているのです。

今回の講座では、みんなで活元運動と活元操法とを実習しましたが、ひょっとしたら私たちはみな、つねに活元運動をしていて、相互運動をしているのかもしれません。

何故って、私たちはいつも、もっともらしい理屈を付け、都合の良い解釈をし、さも合理的な選択をしているかのように自ら暗示を掛けていますが、みんな誰だって、やりたいことしかやらないし、見たいことしか見ないし、知りたいことしか知らないし、考えたいことしか考えていないのです。

まったく困ってしまうくらい、私たちってそうなのです。

そして「主体性」なんて本当に覚束なくって、完璧に自分で選択し決断を下したように思いながらも、そこには多くの環境要因や周囲の思惑や切羽詰まった事情によって、そうさせられている背景が大きく横たわっていたりするのです。

そういう風に考えていると、「いったい「私」って何だろう?」と途方に暮れてしまいますが、そういうこともぜーんぶひっくるめた結節点が「私」なんだと思うのです。

「私」という生き物は、自分の欲望にしか従わないくせに、周囲と感応し交歓し合ってダンスもしているのです。

「みんなのために」と言いながら自分のやりたいことをやり、「自分がやりたいから」と言いながら世のために動き、「何をするべきか」ということを常に考えているくせに、行動するときにはちっとも考えていないで、決断しているようで決断させられていて、大いに矛盾して、そして開き直って生きている。

でもいいんです。それが自然なんだと思います。

私たちは「夢」の中では、平然と時間も空間も飛び越え、主客も入れ替わりますが、じつは目覚めているときにも、それと似たことは起こっているのです。

古代人はそのことを理解していましたが、現代人はもはやそう考えることはできません。

それが「夢見の世界(神話の世界)」です。

人生は活元運動。どんな動きが出てきて、どんな結果になるのか、そんなことは分かりません。私たちにできることは、それを味わい、それを楽しむことです。

人生、大いに驚き、そして楽しみましょう。
posted by RYO at 10:41| Comment(0) | Facebookアーカイブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする