2019年09月28日

Facebookアーカイブ一覧

Facebookに挙げた記事のアーカイブ一覧です。
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2019年9月 「からだの癖」
2019年7月 「嗜みとしての技術」
2019年6月 「夢見のダンス」
2019年6月 「入試問題」
2019年4月 「カナリヤの歌」
2019年2月 「人を育てる道具文化…つづき」
2019年2月 「人を育てる道具文化」
2018年12月 「私はチームプレー」
2018年10月 「共感と反感」
2018年9月 「何かを語る語り口」
2018年6月 「梅雨の発散」
2018年4月 「人間の意志と背骨」
2018年3月 「翼の埋もれた天使」
2018年1月 「健康の3つの要因」
2017年12月 「冬の乾きとお腹の手当て」
2017年11月 「感覚を使って”あたたかさ”を取り戻す」
2017年10月 「こんな夢を見た」
2017年9月 「冷えるということ」
2017年7月 「忘れることの滋味」
2017年6月 「自分のエネルギーは自分で発散させる」
2017年5月 「子どもに愉気を教わる」
2017年4月 「手当ての指の使い方」
2017年3月 「春の変動」
2017年3月 「こころに翼 からだに根っこ」
2017年2月 「やわらかな言葉」
2017年1月 「関係性と病い」
2016年12月 「活元運動」
2016年11月 「意図なき集注」
2016年10月 「からだの記憶」
2016年9月 「自分の恐怖を感じる」
2016年8月 「愉気とはともに同じ夢を見ること」
2016年7月 「七夕」




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2019年09月27日

からだの癖[FB]

2019年9月 愉気の会
「からだの癖」

今月の愉気の会は「体癖」についてのお話をしました。
体癖というのは整体独特の人間分類で、その感受性の傾向や体運動の習性から人間を十二種類に分類したものです。

体癖は、からだの動かし方から姿勢や体型、あるいは活発な臓器や病気の傾向、そして感受性の傾向や物事の響き方、さらには心の動き方や性格にいたるまで、さまざまな要素が絡んでくる人間分類法なので、非常に面白い人間理解の方法です。

人間をタイプに分けて理解しようという試みは、古来からさまざまな方法論があります。血液型や星座などは今でもよく語られる分類法ですし、ビッグファイブや民族論や干支や四柱推命、あるいはエニアグラムや四大気質論やアーユルヴェーダの体質論など、そして現代のホットトピックとしてはジェンダーというのも人間分類の方法論といえばそうですし、ほかにも私の知らないさまざまな理論があることでしょう。

そのどれもが、それぞれの切り口から人間をタイプに分類し、より深い人間理解のために活用しようとしています。

私はどんなものであれ、「物差し」はいっぱいあった方が良いと思っているので、いろんな分類法があって、そしてそのいろんな尺度から物事を捉えてみて、そしてそれを持ち寄ってみれば良いと思っています。

ですから上記の人間分類法もいろいろ試してみて、体癖的にはこう、血液型ではこう、星座的にはこう、気質論的にはこう、アーユルヴェーダではこう、ジェンダーで言えばこう、というように並べてみて、そしてその共通点や相違点などからぼんやりと浮き彫りになってくるイメージ像を愉しんでみれば良いと思うのです。

私自身は、野口整体とシュタイナーの理論が好きなので、体癖論と気質論を中心に考えることが多いですが、比較的並べやすいんじゃないかと思われるその二つでさえ、繋がりそうな部分と重なりそうのない部分とがいろいろあって、面白いといいますか難しいといいますか、なかなか研究のしがいのあるテーマです。

最近のテーマとしては、「思考や意志というものが、一人一人のからだの中にどのように拡がっているのか」というのが非常に興味深いテーマで、それが体癖や気質によって、あるいはそれ以外の性質によって、一人一人とてもグラデーション豊かな拡がり方をしているのが本当に面白くて、「何なんだろう?」とワクワクしながら観察しています。

思考の働きがとても強いと思いきや思考自体はからだに引きずられる人、感覚を冷静に思考に置き換えられるが統制はできない人、思考と意志とがバランスよく対話できている人、思考がからだの四肢に入り込み手足の動きとなっている人。

とにかく見渡せばいろんなタイプの人がいますが、「走る」という同じ行動でも、人によってそのからだの使い方にずいぶん違いがあるように、「考える」という行動においても、人によってからだの使い方が大きく異なり、そしてそれによって思考自体に癖が出てくるし、またその現われも本当に人それぞれに賑やかになるのです。

「考える」という人の営みは、じつは思っている以上に身体性の関わっていることで、身体運動をするときに、基礎トレーニングをしたり、コーディネーショントレーニングをしたりするように、思考活動においてもおそらく同じようなトレーニングが必要になったりするのです。

昔からある子どもの遊びの中に込められている人育ての知恵、たとえば、「にらめっこ」が人とごまかさずに「向き合う」稽古になっていたり、「だるまさんが転んだ」が自分の行動を「自制する」稽古になっていたりというように、「身体性を介した思考教育」というものが、もっともっと見直されていったら良いなと思います。

posted by RYO at 11:33| Comment(0) | Facebookアーカイブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月21日

嗜みとしての技術[FB]

2019年7月 愉気の会
「嗜みとしての技術」

今月の愉気の会は、夏休みに向けて整体の救急法の実習をしました。
整体は今でこそ「体育」としての立ち位置で活動をしていますが、元々は治療術として発展してきた経緯があるので、技術としてはさまざまな治療的な技術もあります。

昭和20年頃に整体操法の基本的技術をまとめるために立ち上げられた「整体操法委員會」の初期メンバーを見ると、各手技療法のそうそうたるメンツが集まっていますから、整体の技術というのは、日本中のさまざまな手技療法が一堂に会して作られたのだということが分かります。

ただ今は整体は「体育」としての活動に軸足を置いていますし、私自身もハッキリそのつもりで整体を実践していっていますから、そのような技術を使う機会というのはあまりありません。

ですがせっかく伝えられている技術をそのままにして消えていってしまうのももったいないですし、野口晴哉自身が「嗜みとして身に付けておきなさい」と言って、「使わない技術」をあえて弟子たちに教えていた事にも倣って、私も夏休みの前などに、行楽先でのいざというときのためにと思って、救急法の講座を行なったりしています。

たとえば「鼻血の止め方」として、頸椎六番を叩打したり、かかとを叩打したりといった手当てがあるのですが、そもそも整体では「鼻血は止めなくて良い」と言われているのです。

だから止める技術など不要なはずなのに、止める技術を教えるのです。それは何の為なのかというと、「いつでも止めることができる」と思っていると、鼻血が出ているときに慌てずに落ち着いて待つことができるようになるからです。

「どうしよう?何かしてあげなくっちゃ!」という慌てた混乱状態から、いろいろ余計なことをしてしまうということはありがちなことで、それが我が子のケガやトラブルなどであればなおさらのことでしょう。

ですが、そういう状態での手当てというのは、どうしても「子どものため」というよりも、「自分の安心のため」という側面が強くなってしまうのです。本人は決してそんなことは思っていないとしても、そうなのです。

そうすると人間というのは、目の前の相手の事がよく見えなくなって、自身の空想に振り回されることになります。

そのような状態では、冷静な対処ができないだけでなく、ケガをして心細くなっている相手まで巻き込んで振り回してしまうことになります。相手が小さい子どもであればなおのことです。

ですから、まず自分自身が落ち着くこと。子どもの緊急事態に対しては、それが何より大事です。

そのために「嗜みとしての技術」を身に付けておくのです。

今回も「失神したとき」だの「心臓が止まったとき」だの「溺れたとき」だの「誤飲したとき」だの、さまざまな救急法をお教えしましたが、そんな技術使わないのです。使わない方が良いのです。そんな使わない技術を、嗜みとして身に付けておくのです。

そんな「使わない技術」が、人の心身に余裕をもたらしてくれるのです。
posted by RYO at 03:09| Comment(0) | Facebookアーカイブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする